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no040:
きみのてのひらにキス
-odai:27-

 

微笑マシイヨウナ。腹立タシイヨウナ。

―98.09―

 ビルのエントランス脇にある段差に座り込みながら、瑞樹は煙草をくわえて、火をつけた。
 まだ時刻は午後6時半―――1日の最後に吸う1本には、あまりにも早すぎる。でも、吸わずにはいられなかった。
 習慣とは怖いものだ、と、この5日で嫌というほど思い知らされた。比較的簡単に煙草の本数を減らす事ができた瑞樹は、これまで習慣の怖さなんて実感したことがなかった。が、案外自分も弱い人間だったのだと、今回のことで気づかされた。
 忌々しげに、瑞樹はポケットから携帯電話を取り出した。自分のものとは、色も形も違う、電池切れを起こして、今はただの金属の塊に成り下がっているシロモノを。
 ―――何が“また夜電話する”だよ。
 瑞樹は舌打ちをし、苛立ったように煙草をくわえ直した。

***

 和臣の愚痴を聞くため、蕾夏も伴って3人で瑞樹の部屋で飲んだのは、6日前のことだった。
 蕾夏の首筋に見つけてしまった、どう見てもキスマークにしか見えない、赤い痕―――事情を聞く隙すら与えず、彼女は逃げるように帰ってしまった。
 少なからず、動揺した。
 蕾夏に恋人が出来る可能性を、これまで1パーセントも考えつかなかった訳ではない。でも、具体的にその図を思い浮かべるのは無理だった。彼女が誰かに抱かれるシーンなど、想像できないし、想像したくもない。
 でも、そんな事態が、突然リアリティをもってしまった。そうしたら、今まで考えた事もなかった事が、頭をよぎった。
 ―――もし蕾夏に恋人が出来たら、自分たちの関係は、変わってしまうだろうか?
 当然、変わるだろう。普通の男なら、自分の恋人が、自分以外の男の部屋に上がり込むことなんて許さない筈だ。あまつさえ居眠りしてしまう事すらある、とわかったら、烈火の如く怒るに違いない。
 当たり前になりつつある、適度な距離感を持った、蕾夏との関係。それが断ち切られる事に、果たして自分は耐えられるだろうか? ―――なんだか、到底無理な相談のような気がする。
 重い気分のまま部屋に戻ると、テーブルの上に、蕾夏の携帯電話が置き忘れられていた。
 ぽつんと取り残された携帯電話を見て初めて、瑞樹はある事実に気づいた。瑞樹も蕾夏も、互いの自宅の固定電話の番号を知らないのだ。

 予想通り、その夜、蕾夏からの電話はなかった。固定電話から瑞樹の携帯にかけてくる可能性も考えていたが、かかってこなかった。
 翌日も、瑞樹はあえて何もアクションを起こさなかった。メールを出す、という手があったが、それすらしなかった。
 月曜日の朝、携帯電話を見ると、電池がほとんど切れかけになっていた。さすがにまずいと思い、瑞樹は蕾夏にメールを出した。会社から出したので、極めて事務的なメールになってしまったが。
 『携帯を忘れていってる。電池も切れそうだから、至急連絡して欲しい』
 退社時刻ギリギリに返ってきたメールも、負けず劣らず事務的だった。
 『暫く預かってて下さい。今度、会社帰りにでも引き取りに行きます』
 ―――なんだよ、そりゃ。
 訳も無く、腹が立つ。感情のひとかけらも見えない文面。何考えてんだよコイツ、と、1行だけの簡素なメールを睨む。かなり怖い顔になっていたらしく、通りかかった和臣に怯えられてしまった。
 家に帰ってから、もう1回メールしてみる。
 『暫く、ってどの位だよ? 携帯ないと、お前困るんじゃないのか? とりあえず電話して来るか、そっちの固定電話の番号教えろ』
 蕾夏からの返事は、比較的早く届いた。
 『ごめんね、ちょっと忙しいから。携帯は、無くても今のところ困ってないよ。電池切れたまんまでいいんで、そっちで保管しといて』
 …ああ、そうですか。
 もう知らねぇ。
 勝手にしろ。

 火曜日の丸1日、瑞樹は一切のコンタクトを絶った。といっても、携帯電話は瑞樹の所にある上、向こうの電話番号を知らないのだから、メールを絶つだけで事は済む。
 「…成田。あんた、ほんとに大丈夫?」
 「何が」
 ディスプレイに額をくっつけて休憩中の瑞樹を、佳那子が心底心配といった表情で見下ろす。
 「だって今日、一体何回エネルギー切れ起こしてんのよ。昨日も変だとは思ったけど、ここまで来ると尋常じゃないわよ?」
 理由はわかっていた。眠りが浅すぎるせいだ。
 月曜日の夜、瑞樹は全然寝つけなかった。久々にチャットで"猫柳"と遅くまで話したが、何時になっても頭は冴えたままで、一向に眠くならない。無理矢理ベッドにもぐりこんでみたが、うつらうつらしては目を覚ます、という状態を結局明け方まで繰り返したのだ。
 考えてみれば、蕾夏と初めて電話で言葉を交わして約9ヶ月―――この間ずっと、3日に1回は電話で声を聞いていたのだ。最近では、ほぼ毎日。瑞樹は知らず知らずのうちに、1日の終わりに蕾夏の声を聞くのが習慣になっていた。その習慣が途切れると、それだけで気持ちが悪い。寝つきが悪いのは、そのあたりも影響していそうだ。
 「まぁ、何が原因か知らないけど、なんとかしなさいよ?」
 そんな事は、言われなくても、瑞樹が一番よくわかっていた。

 水曜日の朝、完全な寝不足状態で目覚めた時、瑞樹は実感した。
 習慣は、恐ろしい、と。
 なんとか気力で1日の仕事をこなし、瑞樹は久々に定時ぴったりに仕事を切り上げた。
 そして今―――蕾夏の会社の入っているビルの前で、くわえ煙草をくゆらせながら、なかなか現れない蕾夏に苛立っているのだった。

***

 ―――あー、だるい。
 階段を下りつつ、蕾夏は思わず額に手の甲を押し当てた。目の周りも腫れぼったい気がする。家に帰って体温計で測るのが怖くなってきた。
 いつもならまだ帰るような時間ではない。でも、早くベッドに倒れ込みたい、そして死んだように眠りたい―――そんな事は無理だとはわかっているが、その欲求は大きかった。
 トートバッグを肩にかけ直し、半ばふらつきながら、自動ドアを抜ける。夕闇の中に浮かぶ車のライトやネオンが、なんだか(にじ)んで見える。また熱上がってきたのかな、と思いながら、小さくため息をついた。
 そんな時、ふと人の気配を感じ、蕾夏は足を止めた。
 エントランスの脇にある、植え込みの段差。目を凝らすと、そこに見覚えのある人影が座っていた。思ってもみなかった事に、蕾夏の目が丸くなる。
 「瑞樹?」
 憮然とした面持ちの瑞樹は、短くなった煙草を灰皿の中に押し込み、ゆっくり立ち上がった。
 「メールじゃ(らち)があかないから、直接来た」
 「や、やだなぁ。もう何日か待ってくれれば、こっちから取りに…」
 そこまで言ったところで、蕾夏の足元がふらついた。ぐらり、と傾きかけた蕾夏を見て、瑞樹が顔色を変えた。
 「どうした?」
 「あー…うん。土曜日、あの後帰ったら熱出しちゃって。それから、なかなか下がらないんだ」
 「熱?」
 瑞樹は眉をひそめると、蕾夏の額に手を当ててみた。
 「―――37度台後半てとこか。なんでメールに書かなかったんだ?」
 「うー…ん、と、とにかく、立ち話もなんだから、喫茶店でも…」
 そう言いかけ、少々よろけ気味に歩き出した蕾夏は、次の瞬間、エントランスの僅かな階段を踏み外してしまった。
 「きゃあっ!」
 「お、おい!」
 思わず咄嗟に、すぐそばにあった何かを右手で掴んだ。が、掴んだ途端、鋭い痛みが、手のひらに走る。
 「いたっ!」
 結局、掴んだものは何の役にも立たず、蕾夏はぺたん、と階段の下にしりもちをついてしまった。でも、打ってしまった尾てい骨より、何かを掴んだ右手の方がよっぽど痛い。
 「大丈夫か?」
 「ううう、大丈夫だけど、手が痛い」
 瑞樹が差し出した手に左手で掴まりながら、私さっき何掴んだんだろ、と、涙目で右手を見る。
 掴んだのは、守衛が帰る時にエントランスを封鎖するのに使う、金属製のチェーンだった。鎖の輪がところどころきちんと閉じていなくて、そんな所は鋭く尖っていたりする。
 ―――嫌な予感がする。
 チェーンを放して、おそるおそる手を開いてみた蕾夏は、見るんじゃなかった、と後悔した。
 「う、うわー…やっちゃったー…」
 右手の親指のつけ根あたりが、ざくっと切れていた。さほど深い傷ではなさそうだが、出血が酷い。スプラッタが苦手な蕾夏は、その生々しい映像に頭がクラッとした。
 「バカ、何呆けてんだよ、貸せっ!」
 「え?」
 びっくりする蕾夏をよそに、瑞樹は蕾夏の右手を掴むと、その傷口に唇を押し付けた。
 ―――きゃーっ! ち、ち、ちょっとっっっ! 何すんのーっ!?
 熱も手伝って、体中の血が沸騰した気がした。驚いているのに、あまりの事態に声が出ない。そりゃ、子供が怪我した時に母親がこんな風に傷口を舐めるのはよくある事だが、瑞樹が蕾夏にやるのは、ちょっと変だ。いや、かなり変だ。
 「い、いたたたたた、痛い痛い痛い」
 傷口を吸われると、切り傷を熱湯にでも突っ込んだようなジリジリした痛みが走った。
 「ちょっと位我慢しろ。バンドエイド、持ってるか?」
 「え? え、あ、うん」
 かなり動揺しながらも、片手でバッグを開けて、中からポーチを取り出して、瑞樹に渡した。
 「お前なぁ、手を使う仕事してるんだから、手元の怪我にはもっと注意しろよ。特にお前の場合、プログラミングの速さが売りのひとつになってるんだろ? キー叩けなくなったら大変だぞ」
 ちょっと怒ったように眉を寄せつつそう言うと、瑞樹はポーチの中からバンドエイドを探り当て、てきぱきと傷口に貼った。
 「よし、これでOK」
 ポン、と手のひらを叩かれたら、傷口がズキン、と痛んだ。
 痛みにちょっと顔を歪めた蕾夏の目と、瑞樹の目が合った。動揺に揺れてる蕾夏の目を見て、ようやく事態に気づき、瑞樹はパッと蕾夏の手を離した。
 「―――あ。悪ぃ」
 「う、ううん。ありがと」
 バツが悪そうにしながら瑞樹が差し出したポーチを受け取った蕾夏は、
 「―――でも、ちょっと、びっくりした」
 と付け足した。
 「…妹が怪我の絶えない奴で、物心ついた頃からずっと、よくああやってたからな」
 そう言って、瑞樹は苦笑した。どうやら、条件反射のようなものらしい。怪我をしてギャーギャー泣く妹に「泣くなっ!」と言いながらバンドエイドを貼っている男の子、という図が思い浮かぶ。微笑ましい光景に、思わず蕾夏はくすっと笑った。
 「…とりあえず、座れるとこ、行こう」
 瑞樹にそう促され、蕾夏も頷いた。

***

 「は? なんだそりゃ」
 飲みかけたコーヒーのカップを思わず置いて、瑞樹は眉根を寄せた。向いに座る蕾夏は、所在無げに手をテーブルの上で何度も組みなおしている。
 「だから、土日は、家に彼女とか来てたら悪いなぁ、って、遅ればせながら気づいたんで…それで、電話できなかったの」
 瑞樹は、少しでも意味を理解しようと更に眉間に皺を寄せたが、蕾夏の言葉は宇宙語に等しかった。
 「…悪い。意味、全然わかんねぇ」
 「だって、瑞樹の家に、付き合ってる彼女が来たりとかする事もあるでしょ?」
 「ある訳ないだろ。俺、女を家に上げない主義なんだから。第一、付き合ってる女なんていないし」
 「えっ…でも、この間、キスマーク…」
 言い辛そうに、蕾夏が声を低めながらそう呟く。それを聞いて、やっと瑞樹の頭の中で、いろんな現象がひとつに繋がった。
 「―――もしかしてお前、俺に特定の女でも出来たと思ってる?」
 「違うの?」
 「…だからあの時、これは違う、って言ったのに…」
 蕾夏は、不思議そうに目をパチパチと瞬いている。事態をさっぱり把握していない、という顔を見ていたら、忘れかけていたリカに対する怒りが甦ってきてしまった。
 「あのなぁ。あれは、大学時代の知り合いが、俺を嵌めてつけたんだよ。恋人どころか、友達ですらない女! ベロベロに酔わされて記憶飛ばされて、それでつけられた痕!」
 「…それって…」
 「言っとくけど、やってねーからな」
 「…そこまでハッキリ言わなくてもいいじゃない」
 蕾夏は少し顔を赤らめて、瑞樹を睨んだ。
 「―――あの、じゃあ私、瑞樹との付き合い方、変えなくてもいいの?」
 「アホか。いもしない女に遠慮してるバカがどこにいるんだよ」
 「酷っ。アホな上にバカ?」
 「っていうか、何? 俺に女出来たり、お前に男出来たら、俺らの友情はジ・エンドな訳?」
 そう言われ、蕾夏は慌てたように首を振った。
 「そんな訳ないっ! た、ただ…家に行ったりするのは、やっぱり彼女は嫌がるかなー、と思って」
 「ふーん…なら、お前の方はどうだよ」
 「? 何が?」
 「この間の、あれ」
 そう言って、瑞樹は自分の首筋を指でトントン、と指し示してみせた。
 「俺、電話かかってこないのは、あれをつけた男が原因かと、半分位思ってた」
 蕾夏は、大きく目を見開くと、とんでもない、という風に、ぶんぶん首を振って見せた。
 「ちょっ…あ、あれは、違うっ! あれは野崎さんが」
 「野崎? あいつかよ」
 瑞樹の表情が険しくなる。蕾夏は更に慌てた。
 「私に彼氏出来たって勘違いして、諦める代わりに、って―――その時は、何されたか全然わかんなくて。ただ、首筋のとこに何かされた、って事しか。まさかキスマークつけられたとは思わなかったんだってば」
 「ギブアップの交換条件が、キスマークかよ…嫌な奴」
 彼氏ではないにしても、それが原因でゴタゴタしたのは事実だ。以前見た野崎の根性ありそうな顔を思い出し、瑞樹は眉を顰めてコーヒーを一気に飲み干した。なんだかよくわからないが、もの凄く、面白くない。
 「…ま、とにかく。2人とも、同じ勘違いをして、同じ杞憂をやらかしてた訳だな」
 「―――私、なんのために、熱なんて出してたんだろ」
 大きなため息とともに、蕾夏はがっくりとうなだれた。
 「何。熱とこれと、何の関係があるんだよ」
 「…土曜日、熱出したのって、つまりは“知恵熱”だもん」
 「知恵熱?」
 「悩みすぎて、頭パンクして、熱が出ちゃったってこと!」
 「……」
 瑞樹は、暫し唖然と蕾夏の顔を凝視していたが、やがて吹き出し、声をたてて笑い出した。
 「笑うなっ!」
 「い、いや、ごめん。そうか、だからメールに書けなかった訳だ。くっくっくっ…」
 「笑わないでってば!」
 もう一度瑞樹を睨み、蕾夏は不貞腐れたようにそっぽを向いた。その様子が余計可笑しくて、瑞樹はますます笑ってしまった。

***

 ―――ほんと、何のために5日間も悩んだんだか…。
 悩みが消えたせいか、家に着く頃には、熱もすっかり下がってしまっていた。人間の脳なんて現金なものだ。
 携帯電話をちゃんと充電器の上に置き、ベッドの上にゴロンと寝転がった蕾夏は、なんとなく右手を目の前にかざしてみた。
 ぺたん、と貼られているバンドエイドは、実はこれが2枚目だ。1枚目は30分と経たないうちに血染めになってしまったから。貼り替えようと片手でもたもたやっていたら、瑞樹が「あああ、もう、見てらんねーっ!」と言って、バンドエイドを横取りした。結局この2枚目も、瑞樹が貼ってくれたのだ。
 本当に、面倒見のいい優しいお兄ちゃんしてたんだなぁ、と、あったかい気持ちになる。無意識に口元をほころばせたが、傷口に押し付けられた唇の感触を思い出したら、また頭が沸騰しそうになった。
 ―――いくら条件反射だからって、もうちょい場所と相手を考えてよっ。
 恥ずかしいのを通り越して、なんだか腹がたってきた。
 バンドエイド1枚に、和んだり恥ずかしくなったり腹がたったり―――忙しすぎる。どっと疲れてしまい、蕾夏は右手を下ろしてしまった。

 5日間働きづめだった頭を休ませるみたいに、ぼーっと天井を眺めていた蕾夏は、ふと、今日瑞樹が口にしたある言葉に違和感を感じ、首を傾げた。

 “ある訳ないだろ。俺、女を家に上げない主義なんだから”

 ―――あれ???
 なんか、変じゃない?
 でも、どこがどう変なのか、上手く説明がつかなかった。


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