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11月の冷たい風が、駅のホームを吹き抜ける。暖房していた車内に慣れていた瑞樹と蕾夏には、少々厳しい洗礼だった。
「お前の家まで、歩いてどの位?」
「15分位かなぁ。うー…急激に寒くなったよねぇ」
「電車乗ると余計思うけど、ここって通勤圏内だよなぁ…通えるのに、もったいねー…」
「あ、こっちこっち」
改札を出たところで逆方向に歩きそうになった瑞樹のジャケットを、蕾夏がぐいぐいと引っ張った。
2人は、蕾夏の地元に来ていた。主目的は、蕾夏の両親に会うことだ。
蕾夏は、これほど近くに実家があり、かつひとりっ子という立場であるにもかかわらず、滅多に実家に帰らない。蕾夏曰く「私がいなくなった途端、むしろラブラブになっちゃって、土日は両親揃って必ず外出してるんだもん」とのことらしい。羨ましい夫婦である。
だから、蕾夏と両親の交流は、今では電話がメインとなっている。週に1度は家に連絡を入れ、互いの近況を報告しあっているのだ。
当然、瑞樹のことも、電話だけの繋がりだった頃から、ちょくちょく話題にのぼっていた。そして、娘から聞いた話を母が父にうっかり漏らしてしまったことから、今回のご自宅訪問はセッティングされた。母が握る受話器を取り上げ、父はこう言ったのだ。
『そのカメラ好きの友達、早く連れてきなさい! 2人で心ゆくまでカメラ談義がしたい!』
「…要するにあの人、味方が欲しいんだよね」
コートのポケットに両手を突っ込み肩をすぼめて、蕾夏は忌々しげに言った。
「だって、“蕾夏抜きでもいいよ。その友達さえ来てくれれば”って言ったもん」
「普通、男親って、娘の周辺にいる男全部に敵意を持ったりしねー?」
「だよねぇ…うちの親、ちょっと変だから。親子って言うより兄弟みたいだからなぁ。親戚から、歳をくわないバケモノ夫婦って呼ばれてるし」
蕾夏の横顔をじっと見て、そのバケモノ夫婦を想像してみる。が、どうもイメージが湧いてこない。
「瑞樹のお父さんは? どんな人?」
「俺の親父は、本当に若い。うち、学生結婚だったからな。神戸のマンションで、第二の青春を謳歌してる」
そういえば瑞樹のお父さん、瑞樹にそっくりだって言ってたよな―――と、蕾夏は瑞樹の横顔をじっと見た。瑞樹の20年後の顔を想像してみたが、どうもイメージが湧いてこなかった。
***
藤井家は、瑞樹のイメージする「一般的建売住宅」だった。
ご近所とほぼ同じ面積の土地に、極々普通の二階建て家屋。置いてある車がミニ・クーパーなのが、蕾夏の親という年代を考えると妙な気もするが、それ以外はいたって平凡。
「ただいまぁー」
蕾夏が玄関のチャイムを鳴らして声をあげると、間もなくしてドアがパッと開いた。
出てきたのは、蕾夏より少し背の低い、色白の女性。童顔ではないが、
「お帰りー! 彼氏、連れてきてくれた!?」
「…お母さん、娘より客? 第一彼氏だなんて言ってないし」
「違うの? なぁんだ…あ、こんにちはー」
蕾夏の母は、彼氏じゃない、と聞いて一気に落胆した顔をしたが、蕾夏の後ろに立っている瑞樹に気づいたらしく、ちょっと赤面しながら笑顔で会釈した。
ぽっちゃりタイプだし、顔立ちはさほど蕾夏と似ていないが、笑い方が蕾夏とよく似ている。面白いほど喜怒哀楽がはっきりしているあたりも、この母譲りかもしれない。
「成田瑞樹です」
苦笑しながら、瑞樹は軽く会釈した。
「蕾夏の母です。お会いできて嬉しいわぁ」
「蕾夏、帰ったか」
蕾夏の母の背後から、やさしげな男性の声が聞こえてきた。
顔を覗かせたのは、万年青年という四字熟語をそのまま体言化したような白髪混じりの男性だった。新聞記者でも、もうそこそこのポストについたから現場からは離れちゃったんだよね、と蕾夏から聞かされているが、どう見ても「バリバリ現役」にしか見えない。カメラ好きという先入観があるせいか、報道カメラマンとして中東にでも飛んでいってしまいそうな印象を受ける。
「ただいま」
「連れてきてくれたか? 例のカメラ好きの友達」
「…カメラ好きの友達さえいれば、娘はどーでもいいんでしょうよ」
「カメラ好きに悪い男はいないよ。蕾夏と友達になろうが恋人になろうが兄弟になろうが、僕は全部許す。キミ、名前なんていうの?」
「…成田瑞樹です…」
「瑞樹君か。カッコイイ名前だねぇ。とにかく、上がって上がって」
蕾夏の父は、ニコニコ笑いながら、蕾夏の母を伴って廊下の奥に消えた。
「…な…なるほど…」
笑いを堪えてはいるが、おかしくてわき腹のあたりが痛くなってくる。蕾夏が自分の親を「ちょっと変」と称した気持ちがよくわかった。
「お前、いい両親持ってるなぁ」
「…“兄弟になろうが”って、なに?」
どうやってなるのよ、と、蕾夏は父の背中を呆然と見送った。
***
瑞樹は、藤井家での時間の大半を、結局蕾夏の父と話して過ごす羽目になった。
話してみて、蕾夏が時々見せるカメラ知識はこの父親から自然に学んだものだな、と気づいた。蕾夏自身は「カメラには特に興味はない」とのことだったが、機械類が不得手ではない娘を相手に、この父親がカメラのことを何一つ話さないで25年間も過ごす訳が無い。門前の小僧、の諺通り、蕾夏も自然とカメラ雑学を記憶してしまったらしい。
「へーえ、じゃあ、10歳の時から本格的に撮ってる訳か。随分早いねぇ」
蕾夏の父は、感心したようにそう言った。記者という職業柄だろうか、人の話を引き出すのが上手い人物である。優しげなその喋り方は、どこか相手を安心させるものがある。年配者と話す機会などあまりない瑞樹だが、蕾夏の父とは結構うちとけて話せた。
「ちょうど前後して神戸に引っ越したんで、子供なりにいろいろ撮ってましたよ。神戸はいい風景も多いし」
「海と山が近くて、撮影ポイントとしては最高だよねぇ。僕も神戸は大好きだよ。坂道が多くて歩くのは大変だけどね」
「ああ、確かに」
「でも、それだけカメラが好きなのに、カメラマンを目指そうとは思わなかったの?」
この前、蕾夏にも訊かれたことだ。瑞樹は、答えをはぐらかすみたいに、逆に質問を返した。
「藤井さんこそ、新聞社に勤めてるのに、写真部に行くことは考えなかったんですか?」
「そりゃあ思ったよ。毎日カメラをいじりながら仕事ができるなんて、最高に楽しい職業だからね」
そう言って、蕾夏の父は、傍らに置いてある愛用機に目を向けた。娘にはライカと名づけておきながら、愛用しているのはニコンらしい。
「でも…報道写真はねぇ。結構辛いからね」
「辛い?」
「季節の話題、みたいな写真ならいいけど、事故や災害や事件の写真も撮らなくちゃいけないだろう?」
「悲惨な現場を撮るのが辛い、ってことですか」
「そういう、見た目の問題もあるけど…目に見えないものも、あるからね。たとえば」
蕾夏の父は、ソファーの上に無造作に投げ出されていた今朝の朝刊を手に取ると、三面記事のページを広げて、1枚の写真を指さした。
「これ、うちの新聞の今日の朝刊だけど―――この写真、どう思う?」
その写真は、全焼した2階建て家屋の写真だった。骨組みだけを真っ黒く残して、面影すらなくして焼け落ちた家―――消火作業を終えた消防士が2名、ホースを片付けているのも写っている。その写真の上には「真夜中の惨事、一家4人死亡」と見出しが躍っていた。
「…虚しい感じの写真ですね」
「うん。虚しいよね。この家、4人家族だったんだよ。30代の夫婦と、5歳と3歳の子供。全員焼死。…消防隊は、火を消す為だけじゃなく、命を助ける為に駆けつけた筈なのにね―――虚しいよ。この写真には、ただの火災現場じゃなくて“虚しさ”っていう目に見えないものが写ってる」
虚しさは、消防士のうなだれ気味な背中から漂ってきている。ただ全焼した現場を記録として残した写真とは違い、この写真は、消防士を入れたことで臨場感とドラマを感じさせることに成功していた。
「上手いな…このカメラマン」
「僕の同期の息子でね、去年入ったばかりの新人だよ。彼は報道に向いてるんだ。目に見えない悲しさや怒りを撮る事に、ジャーナリスト魂を刺激されるタイプだから」
「でも、藤井さんもジャーナリストでしょう」
「ま、ね。でも…写真は、時々、怖いからね。特に、人間を被写体にした時は」
瑞樹の肩が、僅かに強張った。が、蕾夏の父は気づいてないようだ。
「悲しみを伝える位なら、まだ我慢できる。でも―――人間には、ドロドロした感情も一杯あるからね。温厚そうな人物にも夜叉の一面はある。僕は弱虫だから、そういう暗い物をファインダー越しに直視する勇気がないんだよ。同じ“目に見えないもの”を撮るのなら、もっと違うものが撮りたい。カメラは僕の唯一の趣味だから、そこに暗い物は持ち込みたくないんだよ」
瑞樹の視線が、新聞の上に落ちた。
まさか、こんな所で、こんな話にギクリとさせられるとは思ってもみなかった。苦い思いが、胸の中に広がる。
「…と言いながら、その暗い物を“文字にする”事が、僕の仕事だったりするんだけどね」
場が暗くなったのを取り繕うように、蕾夏の父は慌ててつけ加えた。そんな様子に、瑞樹も少し笑みを浮かべる。
「じゃあ、藤井さんが撮りたい物は?」
「僕が撮りたいもの? それは、決まってるよ。あれ」
蕾夏の父は、ダイニングで談笑する蕾夏とその母を振り返った。何が可笑しいのか、互いの肩を叩き合って大笑いしている。瑞樹と父の会話とは完全に無関係に、女同士で盛り上がってるらしい。
「あったかい、オレンジ色を感じるんだ」
「オレンジ色?」
「勿論、そんな色がそこにある訳じゃないけどね。楽しそうで、明るくて、優しい光景だろう? 僕が撮りたいのは、そういう温かい“色”だ」
“色”―――。
目に見える色ではない。感じる、“色”。
蕾夏の父の言葉は、なんとなく、わかる気がした。
昔、珍しく降った雪に大はしゃぎした海晴が、手のひらサイズの雪だるまを作って冷蔵庫に保管した事があった。何も知らずに、牛乳を出そうと冷蔵庫を開けた瑞樹は、ずらりと並ぶ雪だるまに一瞬唖然とし、それから、思わず大笑いしてしまった。あの時感じた“色”は、やっぱり温かなオレンジ色だった気がする。
笑いあう蕾夏と母の姿を見ていると、あの時感じた温かい感情と似たものを感じられる。無意識のうちに、瑞樹の口元がほころんだ。
「瑞樹君は、何が撮りたい?」
「え?」
急に話を振られ、瑞樹は少し慌てた。改めて訊かれると、結構難しい質問だ。
「…ない、のかも、しれないな」
「ない?」
「まだ、見つけてないのかもしれない。自分の撮りたいものを」
「…ふむ。難しいね」
蕾夏の父は、小さく笑って、テーブルに置かれたコーヒーカップを口に運んだ。
「案外、君と蕾夏は、似ているのかもしれないね」
その言葉に、瑞樹は意外そうな顔をした。
「俺と、蕾夏が?」
「…まぁ、親のカンだよ。2人とも、まだ未知の可能性がある、って事かな」
蕾夏の父はそう言い、また小さく笑った。
***
「ごめんね、もう…お父さん全然離してくれなくて」
すっかり陽が西に傾いてしまった空を恨めしそうに眺めて、蕾夏はすまなそうな視線を瑞樹に送った。
藤井家から駅までの道は、来る時より格段に寒く、瑞樹も蕾夏もつい背中を丸めてしまう。
「楽しかったからいいって。俺、お前の親父さんとも友達になれそう」
「やめてよー。あのカメラ馬鹿がパワーアップしたら、私もお母さんも耳栓して生きるしかないよ。あんまり調子に乗せないで」
でも実際、蕾夏の父と話すのは楽しかった。蕾夏の父とカメラの話をするのは、ちょうど蕾夏と映画の話をしている時の感覚と似ていた。外見や表情こそ母親側に近い蕾夏だが、中身は相当父親似のようだ。
「しかし…お前の両親、フレンドリーなのにもほどがあるぞ。泊まってけって言われた時は、幻聴かと思った」
「あはは、あれには私も耳を疑った」
蕾夏の父など、別れ際に「今度一緒に雪原でも撮りに行こうよ」とデートのお誘いまでしていた。あの分だと、瑞樹が蕾夏の友人であることも既に頭から抜け落ちているのかもしれない。そんな風にすっかり娘を
ああ、こいつ、両親から愛されて育ったんだな、と安心する。羨ましいとか
「ちょっと早いけど、着いたら夕飯食べるでしょ。何にする?」
「讃岐うどん食いたいなぁ…どっかいい店あったか?」
「うー、記憶にない。鍋焼きうどんもおいしいよね。あ、鍋もいいな。瑞樹んとこって土鍋ある?」
「ある訳ないだろ」
「あはは、そりゃそうだよねぇ」
明るく笑った蕾夏だったが、次の瞬間、急に立ち止まった。
どうしたのかと思い、蕾夏の横顔を見た瑞樹は、その表情が固まっているのに気づき、眉をひそめた。
彼女の視線を辿ると、駅の改札口前に佇んでいる一人の人物にいきあたった。年齢は30代前半位だろうか。こざっぱりした短い髪にアーガイルのセーター姿。縁の無い眼鏡をかけた、優しげな男性である。
彼も蕾夏に気づいたらしく、柔らかい笑顔を浮かべ、こちらに歩いて来た。
「…辻さん」
その名前に、瑞樹は敏感に反応した。すぐ目の前まで歩み寄った辻の顔に、もう一度さっと視線を走らせる。
「どうして? 誰に聞いたの」
蕾夏は硬い表情のまま、そう呟いた。
その表情は、今まで瑞樹に見せた事のない表情だった。神経を極限まで張りつめて、相手を警戒している表情―――その緊張感に、瑞樹まで体を強張らせてしまうほどに。こんな一面も持ってたのか、と不思議な気がした。
「実は昨日、藤井さんとこのおばさんから話を聞いてたんだ。そろそろ帰る頃かな、と思ってね」
「…お母さん…口軽すぎ」
蕾夏は、はーっと大きくため息をつき、俯いた。
「ええと…紹介してくれないかな」
辻の視線が、瑞樹の方に一瞬だけ向けられ、また蕾夏の方に戻る。蕾夏は諦めたように顔をあげ、極めて事務的な口調で紹介を始めた。
「瑞樹、この人が、翔子のお兄さんの、辻さん。辻さん、こちら、私の友達の、成田さん。同じシステムエンジニアやってるの」
蕾夏がそう言ってはじめて、辻の目がきちんと瑞樹の方を向いた。縁のない眼鏡の奥の目が、すっと細められる。
その目を見た瞬間、瑞樹の背中に緊張が走った。
何故か理由のわからない―――嫌な、感触。本能的に、全身を緊張させる。
「成田瑞樹です、はじめまして」
「…辻 正孝です。いつも藤井さんがお世話になってます」
辻が手を差し出したので、瑞樹は自然と握手した。辻は笑顔にはなったが、その間も例の視線は絶えず瑞樹の目を捉え続けている。握手をした手をほどくと、辻の視線はまた蕾夏の方に向いた。
「藤井さん、ほんの2、3分だけ、いいかな」
「え……」
蕾夏は、迷ったように瑞樹の方をチラリと見た。瑞樹は少し考え、
「俺、そこのベンチで待ってるから」
と、改札横の待合ベンチを指差した。蕾夏もそれを見て頷き、辻の方に向き直った。
「じゃ、2、3分だけ」
「うん。ありがとう」
そう言うと辻は、さも当たり前といった風情で蕾夏の手を握り、待合ベンチからは一番遠い壁際へと蕾夏を連れていった。その行動に瑞樹も思わずギョッとする。
―――変な奴…。たかが2、3メートルの距離、手を引いて歩くこともないだろうに。
なんとなく面白くない気分になり、瑞樹はベンチにどさっと腰を降ろした。手持ち無沙汰なので、駅の壁に貼ってあるポスターなどに目を移す。蕾夏と辻は何か話している様子だが、その間も辻は、ずっと蕾夏の手を握り締めたままだ。あの2人の間では、あれが普通の話し方なんだろうか? なんとも異様な光景だ。
話は確かに2、3分で終わり、蕾夏は、スルリと辻の手を解くと、瑞樹の方に走ってきた。
「終わったのか? 話」
「うん、もう終わった」
駆け寄ってきた蕾夏の顔は、疲労している感じではあったが、強張っていたり、無理をしている感じではない。何の話をしていたのか気にはなったが、訊かない方が良さそうだ。
瑞樹は弾みをつけて立ち上がり、ご苦労、といった感じに蕾夏の頭にぽんぽん、と手を乗せた。
「早く讃岐うどん食おう」
「やっぱり讃岐うどん? いい店見つからなかったら、鍋焼きうどんね」
くすくす笑う蕾夏の向こう側に、まだこちらを見ている辻の姿があった。瑞樹は一応、軽く頭を下げた。向こうも同じように、少しだけ頭を下げる。その目は、やっぱり冷たくて暗い光を帯びていた。
その目を見て、瑞樹はさっき感じた“嫌な感触”の正体をおぼろげながら掴みかけた。
あれは―――“敵意”だ。
切符を買い終えて振り返った時には、もう辻はそこにいなかった。
もういないのに―――何故か彼のいた場所を見ると、冷たい暗いあの目を克明に思い出してしまう。
風の冷たさとはまた違った冷たさを体に感じ、瑞樹は思わずぶるっと身を震わせた。
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