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no051:
美貌
―Memories / Raika Side:1987―
-odai:93-

 

幼馴染トイウ名ノ、女王様。

 玄関のドアを開けると、太陽の眩しさに一瞬目が眩んだ。
 蕾夏は、手のひらで陽射しを避けるようにして目を細め、空を仰いだ。すっきりとした鮮やかなブルーの中に、まるで絵筆で刷いたような白い雲が浮かんでいる。今日は1日晴れだな、と思い、学生かばんの中から折り畳み傘を抜き取った。
 トン、と玄関の僅かな段差を蹴ると、蕾夏は『イングリッシュマン・イン・ニューヨーク』を口ずさみながら、駆け出した。

***

 息を切らして教室に駆け込むと、蕾夏は真っ先に、窓際一番後ろの席を確認した。そこに、柔らかそうなポニーテールを発見し、ほっと胸を撫で下ろす。
 「翔子ちゃん、おはよう」
 振り返った翔子は、蕾夏の顔を見つけるや、まるでバラの花が花開いたような(あで)やかな笑顔を見せた。
 「あ、蕾夏ちゃん、おはよう」
 途端、周囲が花畑にでも変わったような錯覚を覚える。蕾夏の笑顔も、つられるように一段上等なものへと変わった。

 同性の蕾夏の目から見ても、翔子はとても綺麗で、かつ愛らしい少女だった。
 大きくて印象的な目、さくらんぼみたいな赤い唇、いつもほんのりと桜色をしている頬―――顔のパーツも、髪も肩も指先も、全部曲線で出来ている感じがする。美術部の先輩がモデルを頼んだことがあると耳にしたが、その先輩の気持ちがよくわかる。極度なアレルギー体質で、喘息の発作でよく学校を休んでいるが、クラスの男の子の中には彼女にラブレターを送っている子が何人もいるのを、男子生徒と仲の良い蕾夏はよく知っていた。

 「授業中苦しかったら、すぐ私のこと呼ぶんだよ。休み時間まで我慢して、またこの間みたいに倒れたら許さないからね」
 数日前、学校で倒れた時の事を思い出し、蕾夏はちょっときつめに翔子に言い含めた。そんな蕾夏に、翔子はくすくす笑う。
 「やだぁ、蕾夏ちゃん、お姉さんみたいな事言って」
 「1ヶ月だけお姉さんだもん」
 「でも、私より体小さいじゃない。私が倒れても、まーちゃんみたいに担いで病院に走っていったりできないでしょう?」
 「当たり前でしょっ」
 実際、病弱な翔子の方が、蕾夏より体格自体は良い。背こそほぼ同じだが、2人並んでいると大抵蕾夏の方が低く見られてしまう。翔子の丸みを帯びた肩は、蕾夏の華奢で小さな肩より幅もあるし、厚みもある。標準サイズのセーラー服を着ている翔子に対して、蕾夏は2サイズも小さいセーラー服を着ている。生まれた時の体重はほぼ同じだったのに、どこで差がついてしまったのだろうか?
 「変よねぇ。アメリカって食肉文化でしょう? もっと丸々太ってもおかしくなかったのにね」
 「…それは偏見だよ、翔子ちゃん。第一、うちの両親が超和食党だったから、私、冷奴と肉じゃがで育ったもん」
 「アメリカで冷奴? 変なのぉ〜」
 そう言って、2人が明るく笑いあっていると、
 「おはよー、藤井」
 ふいに声が降って来て、誰かが蕾夏の頭をパコン、と叩いた。
 頭を押さえながら振り返ると、明るいブラウンの髪が目に入り、蕾夏は思わず唇を尖らせた。
 「痛いよっ」
 「これ、昨日借りたスティングのLP。もうダビング終わったから、返す」
 蕾夏の頭に振り下ろされた物は、確かに昨日貸したレコードだった。男の子にしては可愛らしい顔立ちの彼が、悪びれない様子でにこっと笑った。
 「今回のアルバムもなかなか良かったよな。サンキュ」
 「でしょ。自信あったんだ」
 自慢げに蕾夏が笑うと、「お前のアルバムじゃないじゃん」と彼は笑い、こつん、と蕾夏の頭を小突いた。
 「そうやってすぐ叩く。もう貸さないからねっ」
 「あはははは、ごめん」
 「ま、いいや。約束だから、松任谷由実のアルバム貸してね」
 「いいよ。姉ちゃんのだからいつ借りられるかわかんないけど。もうちょい待ってて」
 彼はそう言った後、翔子と同じ窓際の、前から3列目の席に腰を下ろした。一方の蕾夏は、大きなLPレコードのジャケットになっているスティングの写真を惚れ惚れと眺めていた。ここ最近の蕾夏のお気に入りの写真なのだ。
 「…蕾夏ちゃん、由井(ゆい)君と仲いいの?」
 黙ってやりとりを見ていた翔子が、小声でそう言う。
 「え? あ、うん。男の子の中では一番仲いいよ。小山君や原田君とも仲いいけど」
 「そうなの。でも―――由井君と仲良さそうにするのは、教室ではまずくない?」
 「え、なんで?」
 翔子の言葉が意外だったので、蕾夏は思わず目を丸くした。すると翔子は、ますます声を小さくする。
 「蕾夏ちゃんは知らないだろうけど、あの由井君って、一部の女の子に凄く人気あるの。岡田さんとか九条さんとかね。由井君、大人しいけど見た目がいいでしょ。岡田さんたちって、不良の男の子たちと仲いいから、目つけられると大変だよ」
 「由井君が?」
 今しがた見たばかりの、由井(まこと)のにこっとした笑顔を思い出す。―――まあ、確かに、悪い顔ではない。
 「だからね、由井君とあんまり仲良くしちゃ駄目よ。女の子の反感買っちゃうから」
 「…別にやましい事ないのに、仲悪そうな振りしなくちゃいけないの?」
 「だって蕾夏ちゃん、ただでさえ女の子の中で孤立してるじゃない」
 「そうだけどさぁ…なんか、納得いかないなぁ、それ」
 そう言って唇を尖らせると、翔子はため息をついて、ハの字に眉を歪めた。
 「ただでさえ蕾夏ちゃん、鈍感なところあるから、気をつけないと」
 「鈍感!?」
 この言葉には、ショックを受けた。男の子が机の中に入れておいたラブレターを、誰かの忘れ物だ、と、忘れ物箱に入れてしまうような翔子に「鈍感」と言われるとは―――。
 しょうがない人ね、と言いた気な顔の翔子を見ていると、なんだか悔しい。だからつい、言ってしまいそうになった。
 ―――その由井君が好きな女の子は、翔子ちゃんなんだからね。鈍感はどっちよ。
 でも、それは、蕾夏と由井のトップシークレット。なんとか言葉を飲み込み、蕾夏は不貞腐れたように自分の席についた。

***

 その日の午後、英語の授業中に、生徒の朗読を遮るように高い声があがった。
 「先生! 辻さんが、具合悪いみたいです」
 その言葉に、教師のみならず全員が翔子の席に目を向けた。
 翔子は、ぐったりと机に顔を伏せていた。声をあげたのは、隣の席の女子生徒だ。
 「どうした、辻? 大丈夫か?」
 「…すみません…」
 か細い声で、翔子が教師に答える。その声の力の度合いで、蕾夏は翔子の体調の変化を敏感に察知した。おもむろに立ち上がると、翔子の席に駆け寄った。
 「先生、辻さんを保健室に連れて行っていいですか?」
 手早く翔子の荷物をまとめつつ、教師に確認をとる。翔子が学校で倒れるのはこれが初めてではない。教師たちの間でも、翔子の病弱さは既に浸透していたし、2年生になって蕾夏が転入してきてからは、その面倒の大半を蕾夏が見ていることも浸透していた。保健委員でもない蕾夏がテキパキと翔子を抱き起こしても、なんで藤井が、と疑問を持つ筈もなかった。
 「ああ、頼んだぞ、藤井」
 「失礼します」
 抱き起こした翔子の顔は、紙みたいに真っ白だった。
 「翔子ちゃん、歩ける?」
 「…無理…みたい」
 いつもなら蕾夏が肩を貸せばなんとか歩いて保健室まで行くのだが―――どうしようか迷っていると、翔子の前の席の男子生徒が、突然立ち上がった。
 「どけよ」
 「え?」
 キョトンとする蕾夏をよそに、その生徒は軽々と翔子を抱き上げた。クラス中の女子生徒から、黄色い悲鳴があがる。
 「お前は鞄持って来いよ」
 剃刀の刃のような鋭い目をしたその生徒は、そう蕾夏に言ってすたすた歩き出した。
 ―――ええと? キミ、誰だっけ?
 一瞬名前が出てこなかったが、とにかく蕾夏は、慌てて翔子の鞄を抱え、その生徒の後ろに続いた。教室を出る際、心配げにこちらを見ている由井と目が合ったので、蕾夏は安心させるように、ちょっと笑顔を見せておいた。

***

 翔子を抱えた男子生徒の後に続きながら、蕾夏はやっとその生徒の名前を思い出した。
 佐野博武(ひろむ)、という名前で、蕾夏とはほとんど話したことがない。蕾夏と仲の良い小山や原田が「あいつってこえーよ。藤井もあいつにだけは注意した方がいいよ」と、以前話していた記憶がある。
 ―――なんだ、優しいじゃん。
 そう蕾夏は思ったが、頭の片隅で、ひょっとしたらこの佐野君も翔子ちゃんが好きなのかもしれないな、と考えた。
 それにしても背の高い子だなぁ、と蕾夏は佐野の背中を見上げた。由井も蕾夏よりは背が高いが、佐野はもう170に迫るか超えているか、という勢いだ。あの位あると翔子ちゃんを抱き上げて連れていけるんだなぁ、と、妙な事に感心してしまった。
 「保健の先公いねーぜ」
 足で保健室の扉をガラリと開けた佐野は、保健室の中を窺って、不機嫌そうな声でそう言った。
 「ん、この時間は留守なんだ。ごめん、こっちに連れて来て」
 奥のベッドのそばに翔子の鞄を置き、佐野を促した。佐野を手伝うように、翔子の体を支えてベッドに横たえる際、佐野の開襟シャツの中から赤いTシャツが覗いているのが見えた。こういう服装とかが、佐野が「怖い」と評されてしまう理由かもしれない。
 「翔子ちゃん、お薬持ってきてる?」
 翔子のポニーテールを解いてやりながら蕾夏が訊ねると、翔子は小さく首を横に振った。では、とにかく眠らせるしかないようだ。薄っぺらい掛布団を翔子の耳元まで引き上げ、翔子を安心させるようにその腕の辺りを軽く叩いた。ちょうど母親が子供を寝かしつける時にするみたいに。
 とりあえずホッと息をついたところで、蕾夏はようやく、まだそこに佐野が立っている事に気づいた。イメージから、用事が済めばさっさと教室に戻ってしまうだろうと思われた佐野だが、実際には黙って立ち去るような事はしないタイプだったようだ。
 「ありがと、佐野君。すっごい助かった」
 手持ち無沙汰に立っている佐野を見上げ、蕾夏は笑顔を見せた。
 「…じゃ俺、戻るわ」
 佐野はチラッと翔子の方を見、最後に蕾夏の顔を見てから、保健室を出て行った。

***

 「藤井」
 翔子に付き添っているうちにウトウトしていたら、由井が保健室に顔を出した。
 「ん…あ、由井君。来てくれたんだ」
 「うん。お前、辻さんの鞄だけ持ってって、自分の鞄忘れてただろ」
 由井が差し出す鞄を見て、蕾夏は慌てて立ち上がった。
 「うわ、ごっめん! 助かっちゃった」
 「辻さんの具合どう?」
 「…私なら、もう大丈夫よ」
 蕾夏の背後から、翔子の声が聞こえた。さっきに比べたらずっと張りのある声だ。振り返ってみると、顔色も少し良くなってきている。
 「どう、翔子ちゃん、帰れそう?」
 蕾夏が訊ねると、コクン、と頷く。翔子はその長い睫毛を眠たげに少し伏せ気味にして、微笑んでいた。
 「今日、家にまーちゃんいるから、早く帰りたい」
 「そっか。じゃ、早く帰ろうね―――由井君も一緒に来ない?」
 「オレ?」
 由井が、ちょっと裏返ったような声を出す。由井の動揺が見てとれた気がして、蕾夏は思わず吹き出した。
 「…んだよっ、笑うなよっ」
 「あはは、ごめん。私、翔子ちゃんの鞄持たないといけないからさ。由井君、私の鞄持ってね」

***

 蕾夏は翔子の鞄を持ち、翔子を半ば支えるようにして歩く。その蕾夏の隣を、蕾夏と由井の鞄を持った由井が歩く。
 学校から翔子の家までの10分ほどの道のりを、いつもより少しゆっくりめのスピードで、3人並んで歩いた。ちょっと緊張したような気配の由井が面白くて、蕾夏はなるべく由井に話を振るようにした。由井と翔子が話をするなんて、滅多にない事だったから。
 翔子は、機嫌がよさそうだ。その美しい目を楽しげに細め、高い声でよく話した。
 「蕾夏ちゃんて私を寝かしつけるの上手よね。お母さんみたい」
 「私が上手なんじゃないよ。翔子ちゃんが簡単に眠っちゃう体質なだけで。頭撫でても手を握っても眠っちゃうじゃない」
 「だって、蕾夏ちゃんの手って優しいじゃない? ふふ、私が具合悪い時って、蕾夏ちゃんもまーちゃんも優しいから好きよ」
 「まーちゃん、て、誰?」
 由井が首を傾けて訊ねる。こんな時も、翔子ではなく蕾夏に訊ねてくるのだ。直接話せばいいのに、と、蕾夏は少々焦れた。
 「翔子ちゃんのお兄さんだよ。正孝、だから、まーちゃん。私は辻さんて呼んでるけどね」
 「まーちゃんは、医大生なの」
 翔子が、嬉しそうな笑みを浮かべながら、どこか夢見心地に話す。
 「うち、両親揃って医者だから、まーちゃんも小さい頃から医者になるのが夢なのよ。でも、きっとなれると思う…まーちゃん、すっごく努力家な上に頭もいいもん」
 翔子は、典型的なブラザー・コンプレックスタイプの少女である。辻という兄がいたが故に、彼女は同級生になど目もくれない少女に成長してしまった。しかもその兄の方も、バカがつくほど妹を溺愛しているシスター・コンプレックスタイプな兄ときている。口を開けば翔子翔子とうるさいので、蕾夏もかなり呆れている。
 「あ、由井君。ここが、うちなの」
 翔子がそう言って立ち止まった家を見て、由井はごくん、と唾を飲み込んだ。
 「…金持ちの家、って感じだね」
 凝った細工の入った鉄製の門構えもさることながら、門の横にある大きなカーポートに置かれた、豪華な3台の外車が目立つ。車に興味のある由井は、そのすべての車種を正確に答えることができる。だから、いかに高い車か、ということもすぐにわかった。
 翔子が呼び鈴を鳴らすと、ややあって、門の向こう側にある玄関が開き、中から大学生風の男の人が出てきた。ノンフレームの眼鏡のせいか、とても知的な印象のある、優しげな人物だった。
 「ただいま、まーちゃん」
 「お帰り、翔子」
 辻は、門を開けると、翔子のポニーテールの頭をくしゃくしゃと撫でた。すると翔子は、これまで蕾夏以外のクラスメイトが見たことのないような極上の笑顔を見せた。思わず、傍らに立っていた蕾夏も由井も、その完璧に美しい笑顔に見惚れてしまった。
 「あ、藤井さん、こんにちは」
 やっと蕾夏に気づいたらしく、辻が翔子の肩を抱いたまま、声をかけた。蕾夏は軽く会釈し、
 「翔子ちゃん、学校で倒れたから、由井君と一緒に送ってきたんだ。もう大丈夫だと思うけど、お薬、必ず飲ませて」
 と辻に告げた。辻は、蕾夏の紹介で由井に気づいたようで、由井に向かっても笑顔で会釈した。由井も、照れたように軽く頭を下げる。
 「倒れたんじゃあ、ちょっと寄ってはもらえないね…また、次の機会にでも」
 「うん。じゃ、翔子ちゃん、また明日ね」
 「また明日。由井君もありがとね」
 翔子がにっこり笑って声をかけると、由井はバツが悪そうに俯き、こくっ、と頷いた。

***

 「…あの兄貴にはすごい笑顔見せてたなぁ、辻さん」
 辻家からの帰り道、由井はぽつんと、そんな事を言った。由井から自分の鞄を受け取り、軽い足取りで歩道の縁石の上を歩いていた蕾夏は、そんな友人を励ますように、軽く笑った。
 「そりゃしょうがないよ、兄妹(きょうだい)だもん」
 「辻さん、あの兄貴と比較してばっかいるから、他のクラスメイトとかに目が向かないんだな。大人の男、って感じだもんなぁ、あの人」
 「そうでもないよ。結構抜けてるとこあるし、すぐムキになるしね」
 辻の素顔をよく知っている風な蕾夏を不思議に思った由井だったが、ああ、そうか、とすぐ合点がいった。
 「辻さんと幼馴染ってことは、あの兄貴とも幼馴染なんだよな」
 「うん。高校生の夏休みなんて、辻さん単独でアメリカの家にホームステイしてたし。翔子ちゃんより、一緒にいた時間は長いかもしれない」
 「…の割に、変な呼び方だよなあ。辻さん、に、藤井さん、だなんて」
 「ああ、これね」
 眉をひそめる由井に、蕾夏は困ったような笑いを見せた。
 「翔子ちゃんのためなの」
 「辻さんの?」
 「7つか8つの頃かな。自分以外が“まーちゃん”なんて呼ぶのは嫌だ、辻さんが“蕾夏ちゃん”なんて呼ぶのは嫌だ、って翔子ちゃんが駄々捏ねちゃって。それ以来、苗字で呼ぶようになったの」
 「―――正真正銘、ブラ・コンだな…」
 由井の顔がひきつった。
 「翔子ちゃんも相当なブラ・コンだけどさ、辻さんも筋金入りのシス・コンだよ。まぁ…無理もないけどね。あんな桁外れに綺麗な妹がいたら、美的感覚が一般人とズレちゃっても不思議はないもん」
 「ってことは、彼女ナシなのか」
 「そーゆーこと。おじさんもおばさんも嘆いてる。私位の平均的な妹なら、辻さんもああはならなかったんだろうけどねぇ…」
 蕾夏は、ちょっとオーバーなくらいのため息をつき、由井の方をくるん、と向いた。
 「だから、頑張ってね、由井君」
 「え?」
 きょとん、とした目をして、由井は蕾夏の顔を見た。
 「辻さんなんかに負けちゃダメだよ。私は由井君を応援するからねっ」
 「……」
 由井は、言葉につまりながらも、なんとか曖昧な笑顔を作って見せた。蕾夏も笑い返したが、
 「あ、猫だ! 子猫連れてる! 親子だよね、あれ!」
 次の瞬間には、蕾夏の意識はもう猫の親子に向いていた。

 蕾夏が縁石から、ぴょん、と飛び降りると、由井の鼻先をくすぐるようにして、蕾夏の長い髪がふわり、と宙に広がった。
 まだ真新しさの残る夏服の白いセーラー服の肩に、黒髪が無造作に流れ落ちる。もつれてしまうのも、ちょっとハネてしまうのも、蕾夏は全くお構いなしのようだ。
 猫に夢中になっている蕾夏は、子供みたいな笑顔で「すっごーい、可愛いねー」と無邪気にはしゃいでいる。夏の太陽を、その肌と髪にキラキラ反射させながら。
 そんな蕾夏を、由井は複雑な表情で眺めていた。


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