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声をかけようとして、蕾夏は一瞬、躊躇した。
赤い大鳥居に寄りかかって、目の前を行き交う沢山の参拝客を見るともなしに眺めている瑞樹は、初めて新宿で会った時同様、ただ一人この喧騒から浮き上がってるように見える。彼の周りだけが、深閑とした空気に包まれているようで、声をかけてそれを壊すのが、なんだか怖い気がした。
タイミングを計りかねて佇んでいると、瑞樹がふと、こちらを見た。目が合って、何故か心臓が止まりそうになる。
蕾夏の姿を見つけて、瑞樹は僅かに微笑んだ。それに少しホッとして、やっと蕾夏も笑顔を見せることができた。
***
「初詣なんて、もう何年も来てねーけど…相変わらず人多いな」
「三が日だったら、もっと混んでるよ。おととしは3日に行ったけど、参道から拝殿まで30分以上かかっちゃったもん」
参拝客の波から少し外れた玉砂利の上で、瑞樹はカメラを構えた。ちょうどそこからは
「クリスマスケーキ食べた1週間後には神社でお賽銭投げてるんだから、日本人の宗教観ってよくわかんないよねぇ」
「その前に、寺で除夜の鐘つくしな」
「あはは、ほんとだ。凄いなぁ、日本の年末年始。3つも宗教体験できちゃう」
と、瑞樹の気配が、微かに変わる。蕾夏は、少し息をつめて、シャッターを切る音がするのを待った。
―――あ、可愛いかもしれない。
蕾夏の視線の先では、母親に抱き上げられた小さな女の子が、そのもみじみたいな小さな手を洗っていた。当然、柄の長いひしゃくを女の子が使える筈もない。父親とおぼしき男性が、ひしゃくに汲んだ水を手にかけてあげているのだ。
微笑ましいなぁ、と、蕾夏が微笑んだ瞬間、シャッターを切る微かな音が聞こえた。確かめてはいないが、きっと今の親子を撮ったんだろうな、と蕾夏は直感していた。
「みんな、鈴を鳴らして、
ぶらぶらと手水舎へと歩き出しながら、蕾夏は傍らの瑞樹を見上げた。すると瑞樹は、少し眉を顰めて宙を仰いだ。
「ええと…2、2、1、だったかな。二拝二拍手一拝。頭2回下げて、拍手2回打って、願い事したら、最後に1回頭下げる」
「あ。なんか、丁寧でいい感じ。願い事も叶いそう」
「問題は、あれだけの混雑の中で、そんな悠長な参拝ができるかどうか、って事だな」
確かに。三が日ではないものの、参道は人で埋め尽くされているし、その歩みは国会の牛歩戦術みたいに遅い。拝殿前は、これ以上の混雑だろう。優雅に二拝二拍手一拝していたら、押し寄せる人に踏み倒されそうだ。
「…え。ちょっと。瑞樹、何見てんの? 参拝するなら、瑞樹も手清めないと駄目だよ?」
手水舎で、長柄のひしゃくを手にした蕾夏は、瑞樹がポケットに手を突っ込んだまま少し離れて立っているのを見て、たしなめるように眉を上げた。
「参拝客の大半が、拝殿に直行してるから、別にいいんじゃねーの?」
「駄目っ。別に信心深い訳じゃないけど、やっぱり神様には礼儀を尽くしとかないと、後で罰が当たるよ」
面倒くさそうにする瑞樹の手をぐいっとポケットから引っ張り出し、有無を言わさず、ひしゃくの水をかける。途端、僅かに温まっていた瑞樹の手に、刺すような冷たさが襲ってきた。
「つっ、つめてーよっ!」
「当たり前でしょっ」
「急にやるな! 冗談じゃなく、マジに冷たいんだぞ、この水!」
仕返しとばかりに、今度は瑞樹が蕾夏の手に冷水を浴びせた。
「つっっ、冷たーいっ! バカっ! 冷たいじゃないのーっ!」
「ポケットに手入れてた分、俺の方が冷たかったんだからなっ!」
一瞬、水の掛け合いに突入しそうになったが、後から来た中年女性に「ひしゃく、使わないなら貸してくれない?」と迷惑そうに声をかけられてしまい、2人はバツが悪そうに手水舎から離れた。
―――どうも瑞樹といると、子供に戻っちゃうよなぁ…。
ちょっと顔を赤らめながら、蕾夏は恨めしそうに瑞樹の背中を見た。
でも、帰省の間中ずっと感じていた閉塞感がどんどん消えて、本来の自分に戻っていくのがわかる。演技ではなく普通に笑ったり怒ったりできる自分に、蕾夏は言い表せないほどの安堵を覚えていた。
***
今日の主目的は、「賽銭投げゲーム」と「おみくじ引きレース」をカメラにおさめる事、だったが。
「…瑞樹。この状況で、写真撮れる?」
「この状況では無理だろ」
大量の人間の頭越しに、遠くに拝殿が見える。…いや、正確に言うなら、瑞樹には見えるけれど、蕾夏には見えない。周囲の人間の方が背が高くて、見えるのは人の後頭部か背中ばかりだ。
「参拝諦めて、わき道行った方が良かったかなぁ」
「今更遅い。ロープ張られてるから、離脱不可能になってる。とりあえず、はぐれないようにしろよ」
「なんにも見えないよー」
ちまちまと前に進みながら、少し背伸びして前方の様子を窺うが、拝殿の屋根すら見えない。瑞樹の言うロープも確認できなかった。
しかも、後ろからどんどん押されるので、背伸びしてちょっと不安定な姿勢になっていた蕾夏は、バランスを崩して前に大きく押し出されてしまった。焦って後ろを振り返ると、瑞樹との距離が一気に広がっていた。これでは、はぐれてしまうのも時間の問題のような気がしてくる。
慌てて体勢を整え、肘まで落ちてしまっていたバッグを肩にしっかりかけ直す。その間にも、後ろから人に押され続け、半ばよろけるように前に進み続けるが、まだ拝殿は見えなかった。
と、その時。
「!」
誰かが、蕾夏の下ろした手に触れた。するり、と指が絡んできて、しっかりと手が繋がれる。
びっくりして振り向くと、なんとか追いついてきた瑞樹が、いたずらっ子のような笑みを浮かべていた。
「忘れてた。お子様は人ごみでは手を繋がないといけないんだった」
「だっ…誰がお子様よっ!」
「そーやってムキになるとこがお子様」
そう言われてしまうと、ムキになって文句を言う事もできない。ちょっとドキドキする心臓を宥めつつ、蕾夏はそっぽを向いた。
でも確かに、瑞樹に手を繋いでもらったおかげで、周囲の前に押す力にも負けずに、安全に前に進むことができるようになった。気がつくと、自分の方からも、手が離れてしまわないように指をしっかり絡めていた。
―――瑞樹って、手、あったかい。
ぼんやりと、そんな事を思う。他の人に手を握られた時に感じたあの全身総毛立つような嫌悪感を、瑞樹の手には感じなかった。この手のひらの温かさもその理由かもしれないし、瑞樹が手を握ったのが純粋に善意からだからかもしれない。
この人の手は、信じられる、と思った。振り解かなくてはいけない、という焦燥感はない。安心して、握っていることができた。
そうやって暫く人波に流されていくこと10分少々。2人にも、参拝の順番が回って来た。
「ま、まだ投げないでぇぇっ」
賽銭箱めがけて自分の背後から賽銭を投げようとする参拝客に叫びながら、蕾夏は首に巻いたマフラーを取った。以前読んだ本に、神様の前では帽子、手袋、マフラーなどは取るのが礼儀だと書いてあったからだ。
「…お前、時々、日本で育った日本人以上に、日本人だよな」
「礼儀正しいだけだもん」
せわしなく鈴を鳴らし、2回頭を下げ、2回拍手を打つ。手を合わせて目を閉じ、いざ願い事を言う段になって、蕾夏はふと迷った。何をお願いするか、あまり真剣に考えていなかったのだ。
つい今しがたまで瑞樹と繋いでいた手が、とても温かかった。その温かさに、どんなに握っても冷たいままだった、あの手を思い出す―――もう二度と握る事はないだろう、大きな手を。
―――辻さんが、幸せになれますように。
背後の参拝客があんまり急かすので、結局、それしかお願いすることはできなかった。
***
「すげー迫力…」
「新年からあんな形相して、本当に幸福な1年になるのかなぁ…」
カメラを構える瑞樹の横で、蕾夏もその気迫あふれる光景に半ば呆気にとられていた。
参拝を終えてわき道にはけてきた2人は、拝殿から少し離れた場所から、鬼の形相で賽銭を投げまくる参拝客を撮影している。
カメラのフレームの中の光景は、まさに「賽銭投げゲーム」と揶揄したくなるエキサイトぶりだ。なんだか、神様に新年の挨拶をする事よりも、こうやってワイワイガヤガヤと押しつ押されつするのが目的で人が集まってるような気がする。元々祭り好きな民族なので、裸祭りやだんじりのように、興奮を味わうために初詣に来てる連中がいてもおかしくはない。
「そういえばお前、さっきフリーズしなかったな」
「え?」
写真を数枚撮り終えた瑞樹が、カメラのレンズカバーを嵌めながら、蕾夏を見下ろしてきた。
「俺が手握っても」
「…ああ、そのこと」
「危なかったから咄嗟に握ったけど、俺、半分殴られるの覚悟してたのに」
「あはは、そんな事しないよ」
ちょっと可笑しそうに笑った蕾夏だったが、ある事を思い出し、その笑顔が苦笑いに変わった。
「そういえばね。2日の日に高校の同窓会行ったけど、その時、クラスメイトに言われた」
「何を?」
「藤井は昔から“いばら姫”だった、って」
「“いばら姫”?」
「うん。…あ、甘酒ふるまってる。瑞樹、飲む?」
「せっかくだから、飲む」
2人は、境内の片隅に設けられたテント群へ向かい、そこで無料でふるまわれている甘酒をもらった。赤い
「―――で、なんで“いばら姫”?」
「うん…私、女の子苦手で、友達の大半が男の子だったんだけど―――調子に乗って手を握ったり肩を抱いたりすると、瑞樹も知っての通り、フリーズするか過剰反応して相手を突き飛ばしたり殴ったりしちゃうんで、結構相手は傷つくんだって。“藤井は難攻不落のいばら姫だ”なんて、一部では噂されてたみたい」
「はは、なるほど。近づこうとすると傷つけられるから、“いばら姫”か」
瑞樹はあっさりそう相槌を打って、甘酒を口に運んだ。
が、蕾夏は、この話をした事を、半分後悔していた。
微妙に、蕾夏の傷の根底を掠める、際どい内容―――口にすると、押さえ込んだ痛みがズキズキと疼き出す。
「あの話って、最後は王子が、その難攻不落の
「そう。だからね、“藤井のところに辿り着く奴はきっと、キスする前に満身創痍で息絶えるぞ”って大笑いされちゃった。…まあ、クライアントぶん殴った前科があるから、否定しきれないもんがあるけど…」
「カズもひっぱたかれてたしな」
「もう! その話はもうしないでってばっ」
「あ。でも、俺ならいけるかも」
瑞樹の言葉に、蕾夏の思考がストップした。
「―――え?」
「手ぇ握ってもフリーズしなかったじゃん、お前。俺ならキスしても殴られずに済むかも。試してみる?」
「……」
からかうようにそう言う瑞樹を、甘酒の入った紙コップを両手で包んだまま、蕾夏は唖然という顔で凝視した。
知らず知らずのうちに、顔がかーっと熱くなる。真っ赤になった蕾夏の顔を見て、逆に瑞樹の方が慌てた。
「え? あ、おい―――そんな顔すんなよ。冗談だから、な?」
「あ―――当たり前じゃないのっ! バカっ! 言っていい冗談と悪い冗談があるわよっ!」
きっ、と瑞樹を睨むと、蕾夏は瑞樹の手の中の紙コップをひったくった。
「あ!」
「没収! これは私が飲むのっ」
別にそれほど甘酒がおいしかった訳ではないが、何か仕返しをしないと気が済まなかった。瑞樹の冗談に動揺させたれた事が、無性に悔しい。蕾夏は、自棄になったように、冷めかけた甘酒を一気に飲み干した。
「…ほんと、お前って面白いよなぁ…」
笑いを噛み殺したような声で、瑞樹がそう言った。その笑い方も、悔しくはあったが、何故か嫌いではない。むしろ、ほっとしてしまう。
…ほっとしてしまうのは、怖い。
ピンと研ぎ澄ましていたものが、ほっとした瞬間、緩む。そんな時、抱えきれなくなった物が、口をついて出てきてしまう。自分をガードするために張り巡らした棘が、簡単に手折られてしまう。
―――なんでこの人って…。
空っぽになった紙コップを傍らに置いて、蕾夏は、隣に座る瑞樹の方をチラリと見た。
何か言いたげな蕾夏の目と、やはり何か言いたげな瑞樹の目が、一瞬ぶつかる。
だが、どちらも何も言わないまま、目を逸らしてしまった。少し居心地の悪い空気が、その場に取り残された。
「…これ、あげる」
蕾夏は、元々自分が飲んでいた方の甘酒を、瑞樹に押し付けた。
「俺も別にいらねーよ。飲みたきゃ飲んでいいよ」
「違う。瑞樹の分取り上げて飲んだら、なんだかお腹いっぱいになっちゃった。もう飲めない…」
「…とことん無意味な報復だったな」
「うるさいっ」
可笑しそうに笑いながら残りの甘酒を飲み干す瑞樹を、蕾夏はまだ少し赤い顔で軽く睨んだ。でも、こんな瞬間でも、またさっき以上にほっと神経を緩めてしまう自分がいる。
―――お願い。揺さぶらないで。
平気な振りを続けながらも、今にも崩れてしまいそうな予感に、蕾夏は必死に耐えていた。
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