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no054:
わたがし
-odai:36-

 

幸福ノ、感触。

―99.01―

 玄関の扉を開けた和臣は、そこにいる人物の顔を見た途端、一気に目が覚めた。
 「なっ、奈々美さん!? なんでここに!?」
 「おはよ、神崎君」
 日頃、シンプルな通勤服姿な奈々美だが、休みの日ということもあって、今日は淡いピンクのふわふわしたニットを着て、白いコートを羽織っている。一方、自分の服装はといえば、部屋着兼パジャマのスウェットスーツ姿…。
 「ちょ、ちょっと待って! 着替えるから!」
 「ううん、いいよ、そのままで。―――寒いから、中に入ってもいい?」
 「あああああ、駄目っ! 部屋も無茶苦茶散らかってるから!」
 秋口に一度、大掃除はしたものの(例の期限切れココアを飲んで瑞樹を怒らせた時だ)、あれから既に2ヶ月以上。部屋はすっかり散らかってしまい、とても人を通せる状況にない。
 「いいのよ、散らかってても。今日は掃除しに来たんだもの」
 慌てる和臣をよそに、奈々美はそう言ってニッコリと笑った。

***

 掃除しに来た、という奈々美の言葉は、本当だったようだ。
 持参した紙袋の中には、雑巾数枚と洗剤が入っていた。和臣をキッチンに置いてある椅子に座らせて、そこだけを避けるようにしてテキパキとゴミを片付けていく奈々美を、和臣は呆然と眺めるしかなかった。
 「神崎くーん、この雑誌、まだ読むの?」
 「ううん、読まない」
 「じゃ、資源ごみに出しちゃうね」
 前回の大掃除の時、雑誌もゴミ袋に突っ込んでしまった和臣は、奈々美がちゃんと分別しながらゴミを片付けるのを見て感心してしまう。
 「あのー、オレも手伝おうか」
 本当はこの部屋の主は自分なのだから、手伝うのではなく自分が率先してやらなきゃいけない筈なんだけどな―――と思いつつ、和臣はおずおずと声をかけた。持参した自前のエプロンを身につけた奈々美は、大きく顔の前で手を振った。
 「いいのいいの。神崎君は、そこでのんびりお茶でも飲んでて」
 「…お茶、ないし」
 「だろうと思って、紅茶のティーバックも持ってきたの。そこに入ってるから」
 奈々美に言われて、テーブルの上に放置されている紙袋の中を覗きこむと、確かにリプトンの黄色いパッケージが見えた。どこまでも準備周到な奈々美だ。
 「やかんもないわね…あ、片手鍋はあるじゃない。あれで入れられるわよ?」
 「…うん、わかった。奈々美さんも飲む?」
 「飲むー」
 嬉しそうに顔を緩ませると、奈々美はまた掃除に専念しだした。
 和臣の家には、相変わらずやかんが無い。奈々美が指摘した片手鍋は、瑞樹が進呈してくれた例の鍋。あの時のおかゆで、レトルトって案外いけるし便利、と知った和臣は、最近ではちょくちょく、この鍋でレトルトパックを温めている。まさに、成田様々、である。
 片手鍋に水を入れて火にかけた和臣は、手持ち無沙汰になり、また奈々美の姿を目で追った。
 仕事においてもそうだが、奈々美はクルクルとよく働くタイプだ。総務や経理といった部署が4階にあるため、5階に客が来るとどうしても営業やシステムの人間がお茶を淹れる羽目になるのだが、そういった時にも奈々美は率先してお茶を淹れる。コピーとりも全く厭わない。働き者だよなぁ、と、入社当時から和臣は感心していた。4階の新人の女の子が「お茶汲みなんてやってらんないよねぇ」などと無駄口を叩いているのをよく耳にしていただけに、余計に。
 彼女の柔らかそうなくせっ毛が、小走りする度にふわふわ揺れるのを見ていると、陽だまりにいるような幸せを感じる。その幸福に酔うようにぼーっとしていたら、片手鍋の中身が激しく沸騰し始めたので、和臣は慌てて火を止めた。
 改めて紙袋の中身を確認すると、ティーバック以外にも、スティックシュガーとマグカップが入っていた。
 「奈々美さん…滅茶苦茶用意周到だねぇ」
 「ふふふ、事前情報が効を奏してるのよ」
 「事前情報?」
 「この前の新年会で、藤井さんから情報もらってたのよ。神崎君の部屋って“もの凄い”から、必要なものがあるなら持参するのが一番だ、って。神崎君の家にもあるかもしれないけど、見つけるのが大変だよ、って」
 明かされた事実に、和臣はショックを受けた。
 ―――藤井さん、そんな恥ずかしい情報、リークしないでよ…。
 でも実際のところ、その事前情報があったからこそ、こうしておいしい紅茶にありつける訳なのだが。

***

 紅茶の準備が全て整った頃、奈々美の掃除も一区切りついた。
 奈々美は、和臣と向かい合わせになる席に腰を下ろし、淹れたての紅茶にスティックシュガーを1本入れ、くるくると掻き混ぜた。
 一人暮らしを始めた時にリサイクルショップでこの小ぶりなダイニングセットを購入して以来、女性が席につくのはこれが初めてだ。和臣は、なんとなく落ち着かない気分を味わいながら、熱すぎる紅茶をふーふーと冷ましていた。
 「…ねぇ、奈々美さん?」
 「なあに?」
 「なんで急に、掃除なんてしに来たの?」
 最初から気になっていたことを訊ねると、奈々美のスプーンを持つ手が止まった。おそるおそる、といった感じで上げられた顔は、少し赤い。
 「迷惑だった?」
 「え!? そ、そんなことないよ! 凄く嬉しいよ! ただ…あんまり急だったから、ちょっとびっくりしちゃって」
 奈々美と付き合い始めてからまだ日は浅いが、そのきっかけとなったクリスマス・サプライズ以外、奈々美の方から何かをしかけてくるような場面は、これまで無かった。初詣に誘ったのも和臣だし、映画に連れ出したのも和臣だ。誘うと、奈々美は毎回顔を赤らめ、照れながらOKを出す。その様は、本当に3つ上? と疑いたくなるほどだ。
 なのに―――付き合い出して1ヶ月未満の男の部屋に、掃除道具一式持って押しかけた訳だから、これはもの凄い行動力だ。いざとなると度胸のあるタイプなのは知っていたが、さすがに和臣も面食らっていた。
 「だってほら、日頃の奈々美さんて、結構シャイだから…奈々美さんの方からオレの部屋訪ねてくれるなんて、全然予想できなかった」
 和臣がそう言うと、奈々美はますます顔を赤らめた。
 「じ…実はね」
 「うん?」
 「掃除する、って名目があれば、神崎君の部屋、見れるかなぁって思って」
 奈々美の言葉に、和臣はキョトンとした目をした。
 「奈々美さん、オレの部屋見たかったの?」
 確認するように和臣が訊く。すると、奈々美は、真っ赤になった顔を、バツが悪そうに逸らした。
 「―――ちょっと、悔しかったから」
 「悔しい?」
 「だって…藤井さんは知ってるじゃない? 神崎君の部屋」
 予想だにしなかった答えに、和臣はポカンとしてしまった。
 が、奈々美の方は、この一言が一番いいづらかったらしく、そこをクリアした途端、いつもよりちょっと早口でまくしたて始めた。
 「でも、別に藤井さんに嫉妬してるとか、藤井さんが気に入らないとかそういうんじゃないのよ? 彼女には凄く感謝してるし、あっさりしてて付き合いやすくて好きだし! あっ、それに、神崎君にとっての私と藤井さんは、同じ“好き”でも意味が全然違う、って事も、もうちゃーんと理解してるの。その点は心配しないでね。ただ、神崎君、あちこち誘ってはくれるけど、夜10時には絶対家に送り届けてくれちゃうし、手を握る以上の事、全然しようとしないし。そう考えたら、私の知らない神崎君の部屋を知ってたり、キスされちゃったりした藤井さんて、ちょっと羨ましいなぁ、というか、悔しいなぁ、というか―――あああ、私、何言ってるんだろう」
 私のバカバカ、という感じに両頬を手で押さえて真っ赤になっている奈々美を、和臣は呆気にとられて眺めていた。なかなか茫然自失状態から回復できない。
 「あー…、ごめんねぇ、神崎君。呆れるわよね。年上の癖して、こんな子供みたいな事言って」
 「え、えーと、ううん、そんなこと、ない、けど」
 少し回復してきたところで、和臣はやっとそう言えた。
 一言発したら、なんだかストッパーが外れたように、言葉がスルスルと出てきた。やはり少し早口気味に、上ずった声で喋り出した。
 「そりゃ、オレもね、前から奈々美さんに部屋に来て欲しいとは思ってたんだよ? だけど、あまりに部屋が汚いというか無茶苦茶というか見ての通りなんで、言えなくて。それに、門限10時を守ってるのは、奈々美さんとこの叔母さんの心証を良くしておきたいだけなんだ。あの叔母さん、味方につけると後々都合が良さそうだし、他に奈々美さんの親族が手近にいないしさ。そ、それから、手を握る以上の事も勿論したいけど、人前じゃ無理だし、大事すぎて怖いし、ええと、だから―――」
 そこで言葉を切った和臣は、ぷつん、と糸が切れたように、平静な声に戻った。
 「―――奈々美さんが、そんな風に思ってたなんて、知らなかった。ごめん」
 「う、ううん…私の方こそ、神崎君の気遣いを無視しちゃって、ごめんね」
 今の言葉を聞いて、奈々美は改めて思い出した。そう、和臣はただ交際してるのではない。交際するからには、必ず「結婚」の2文字を前提にしているのだ。叔母を味方につけたい気持ちも頷ける。
 急激に静かになり、気まずさが襲ってくる。
 2人とも俯き、それぞれのマグカップを口に運んだ。エキサイトしている間に少し冷めたようで、猫舌な和臣でも飲める温度になっている。
 「…おいしいねぇ…」
 ほっ、と息をついて、和臣が呟く。奈々美も、無言のまま微笑んで頷いた。

 「オレと奈々美さんの最初の出会いって、いつだか知ってる?」
 急に思い出したように、和臣がそう切り出した。奈々美は不思議そうな顔をして、
 「初出社の時なんじゃない?」
 と、極当たり前な事を言う。が、和臣はくすっと笑い、首を横に振った。
 「実は違うんだ。あのね、採用試験の、試験会場」
 「―――あー…そっか。私、神崎君の年は、試験監督やったんだったわ」
 試験監督といっても、ただプリントを配って、時間を測っただけなのだが。不正のないよう、試験を行っている会議室にずっといなくてはいけなかったので、途中、ひどく眠かったのを覚えている。
 「そう。オレ、あの時遅刻ギリギリで会場入りしてさ。一人足りないって、奈々美さん、廊下でオロオロしてたんだよ」
 和臣にそう言われ、奈々美の脳裏に、当日の光景がはっきり甦った。丸い目をますます丸くし、奈々美は和臣を指さした。
 「あー! あの時の子だ!」
 「…やっぱり気づいてなかったんだ」
 ちょっと拗ねたように和臣は呟き、軽く奈々美を睨んだ。
 「だってぇ…あの日、私、コンタクト落しちゃって、何も見えなかったんだもの」
 ごめんね、という表情の奈々美に、和臣は苦笑いした。
 「遅れて走ってったら奈々美さん、“早く早く! 試験始まっちゃうよ!”って、全身で手振ってさ。遅れてすみません、って謝ったら、もう、心底安心したって顔で、“あー、良かったねぇ、間に合って”って言った。―――あの時ねぇ、オレの頭ん中に、パッて映像が浮かんだんだ」
 「映像?」
 「うん。あのね―――その映像の中で、オレも奈々美さんも、70か80位の年寄りになってるんだ」
 「…えぇー…なんでいきなり?」
 「あはは、ゴメンね」
 「うー…どんなおばあちゃんになってた? 私」
 「可愛かったよ。やっぱり綿菓子みたいな髪しててね、綺麗なクリーム色になってた。外国のおばあちゃんみたいだよね。オレは白髪混じりのまんまだったなぁ…奈々美さんみたいに白髪に合わせてクリーム色にしちゃった方がカッコいいのに」
 まるでタイムマシンに乗って未来の自分たちを見てきたみたいに言う和臣に、奈々美はついクスクス笑ってしまった。
 「それでね。オレと奈々美さん、あったかい太陽の光が射し込む部屋のソファに、並んで座ってた。2人して、紅茶を飲んでてね。今やったみたいに“あぁ、おいしいなぁ”って笑い合ってたんだ」
 その映像を思い出したように、和臣はホワンとした笑顔を浮かべた。
 「あの時思ったんだよね。何十年かかってもいいから、絶対奈々美さんと結婚して、一緒に紅茶飲むんだ、って」
 何十年―――。
 気の長い決意は、それだけ和臣の気持ちを反映しているようで、奈々美はさっき以上に顔を赤らめた。
 何十年かかってもゴールを目指すという和臣。浮かれてしまってるように見えたが、和臣にはちゃんとゴールが見えている。そのための道筋も、今何をすべきかも、ちゃんと見えているのだ。
 ―――なんだか、急に、安心した。

 「…あのね、神崎君」
 「うん?」
 「カズ君、て、呼んでもいいかなあ…」
 奈々美がそう言うと、和臣は、驚いたような笑顔を浮かべて、マグカップを傍らに置いた。
 「いいに決まってるでしょう! オレ、ずっと寂しかったんだよ、その“神崎君”て呼び方」
 「ホントに? 私も、藤井さんが“カズ君”て呼ぶの、ずっと羨ましかったの」
 「奈々美さんはオレの彼女でしょ。藤井さんを羨ましがることなんて、全然ないよ」
 そう言って可笑しそうに笑い、和臣は手を伸ばして、奈々美の頭をクシャクシャと撫でた。くすぐったい感触に、奈々美も思わず声を立てて笑う。
 「奈々美さんの髪って、ほんとに、綿菓子みたいだねぇ…」
 「そ、かな」
 「うん。柔らかくてあったかくてフワフワしてて。オレ、ずっと触ってみたかったから、触れて嬉しい」
 嬉しそうにいつまでも頭を撫で続ける和臣は、その柔らかな感触に酔いしれていた。

 ただ、一緒に紅茶を飲んだだけ。ただ、髪に触れただけ。
 それだけの事が、2人は無性に嬉しかった。少し冷めた紅茶を飲みながら、2人はまだ片付かない部屋の片隅で、ふわふわと浮遊してるような感じを味わった。
 ―――幸せって、綿菓子みたいな感触なんだなぁ…。
 浮遊する想いを持て余しつつ、和臣はそんな事を考えていた。


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