Psychedelic Note | size: M / L / under800x600 | |
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―――冷たい。
頭の中が、背中が、指先が、体の奥底が、冷たい。凍りつきそうに冷たい。
自分の体の異変以上に、今握っている手の力のなさに恐怖を覚える。動こうとしない小さな体に焦燥がせり上がる。
―――海晴…!
みはる、みはる、みはる―――動いてくれ、何か言ってくれ、頼むから、何でもするから。
「…おかあさん…」
泣きそうな声で、海晴はそう、呟いた。
びくん、と体を強張らせ、瑞樹は目を開けた。
瑞樹の頬を、肩までのびたワンレングスの髪がくすぐる。唇を離した彼女が、妖艶な笑みで見下ろしてきた。
「―――勝手にすんなよ」
「目を覚まさない成田君が悪いんじゃない?」
悪びれずそう言う彼女を押しのけて起き上がった瑞樹は、手の甲で唇を忌々しげに拭った。傍らに置いていた学生鞄を掴むと、軽く制服を整え、立ち上がる。
「帰る」
「…やっぱり、しないの?」
セーラー服の裾を
そういう真似は、最初で最後のあの1度で、いかに馬鹿げているかがわかっただろうに―――まだそんな欲を持っていたのか。僅かな苛立ちとともに、瑞樹は無表情な視線を舞に返した。
「あんたがそういうつもりなら、もう来ない」
「―――わかった。もう言わないわ」
玄関に脱ぎ捨てたスニーカーを履き、鞄を脇に抱えた瑞樹は、玄関先で佇む彼女を半ば睨んだ。
「舞」
「なに?」
「次、勝手に触れたら、殺すから」
「……」
勝気な舞の眉が、微かにピクリと動く。が、その表情を大きく崩す事もなく、艶然とした笑いを深めてみせた。
「いいよ、成田君にだったら。好きなだけ
「―――最低な女だな、あんた」
嘲りを滲ませてそう言い捨てると、瑞樹は玄関のドアを開け、舞の部屋を出ていった。
2月の神戸の街は、くすんだようなモノトーンに沈んでいる。
商店街の喧騒の中、瑞樹はマフラーも巻かず、詰襟のボタンを上から2つはずして歩いていた。オーバーな位重装備した買い物客の中、秋口と変わらない学生服姿は、少々浮いて見える。
通りかかった店の奥にかけられた壁掛け時計を確認する。午後6時―――少し、急いだ方が良さそうだ。寒さに身を縮めつつ、瑞樹は走り出した。
あの日―――神戸港の片隅で、母とその恋人・窪塚の密会を偶然目撃した日から、5ヶ月。
瑞樹は、「最後の日」の近づいてくる足音を、確かに聞いていた。
***
「お兄ちゃん? 遅いよ〜」
ダイニングに通じる扉を開けた途端、台所から海晴の声が責めてきた。
「ただいま」
「どこ行ってたのよ。2月はオフで、部活もほとんど無いって言ってた癖にぃ」
むくれる海晴に苦笑しつつ、瑞樹は学生鞄を床に放り出し、制服の詰襟を脱いだ。
ここ1年、母は夕飯の支度に間に合ったためしがない。
以前からそういう事はしばしばあったので、瑞樹も海晴も困りはしなかった。むしろ海晴などは、瑞樹と一緒に台所に立つ機会が増えるのを喜んでいた位だ。
以前は補助的な作業の多かった海晴も、6年生になった今では成田家の炊事の主軸を担うようになっていた。今も「今日はカレーだからね」と言いつつ、ジャガイモを慣れた手つきで剥いている。その手は、おそらく母より家事に慣れているだろう。
「サラダは?」
「まだ作ってない」
「なら、俺やるよ」
「あ、それよりお兄ちゃん、そこの袋、開けてみて」
炊事の手を止めずに海晴がそう告げた。
見れば、食卓の瑞樹の席に、雪の結晶柄の紙袋が置かれている。食事の準備を手伝おうと白いカッターシャツを腕まくりしていた瑞樹は、訝しげにその紙袋を取り上げた。
開けてみると、中身は手編みとおぼしきマフラーだった。
「海晴が編んだのか?」
「そう。手芸部の卒業作品で作ったやつなんだ。今日批評会終わったから、持って帰ってきたの。お兄ちゃんのサイズに合わせたから、良ければ使って」
瑞樹は、言葉につまった。
ありがとう、と言って受け取るのは簡単な事だ。だが、受け取っておいて使わなかったら、海晴は不審に思うだろう。かといって、つき返せば、大きく傷つくに違いない。
暫し逡巡し、慎重に答えを選んだ瑞樹は、ゆっくり口を開いた。
「…これ、親父にやらないか?」
海晴が振り返る。不審げな顔をされると思ったが、違っていた。少し傷ついたような、ショックを受けたような顔をしている。
「ど…どうして?」
「親父、先週風邪ひいただろ。ああ見えて寒がりだし―――今度、海釣りに行く時、あった方がいいと思うんだ」
嘘つきだと、もうひとりの自分が罵るのがわかる。でも瑞樹は、他意のない表情を保ち続ける。海晴に嘘をつくのは慣れている。物心ついてから、常に嘘をつき続けてきたから。
海晴は、少し残念そうにため息をつき、「そうだね」と答えた。まだ何か言いたげに口を開いたが、きゅっと唇を結び、またシンクの方を向いてしまった。その後姿に、胸が痛んだ。
「俺には、手袋でも編んでくれよ。それなら、使うから」
そうつけ足してやると、海晴はパッと振り向き、嬉しそうに笑った。
―――ほら。
こんなにも、海晴を騙すのは簡単だ。
***
真夜中、人の気配を感じて、瑞樹は目を開けた。
瞬時に、身構える。暗闇に目を凝らすと、部屋のドアを開けて立つ人影が目に入った。そのシチュエイションが暗い記憶を呼び起こし、全身に鳥肌が立った。
「瑞樹」
海晴とよく似た、高い声。無意識のうちに、掛け布団に食い込ませた指に力が入る。
「―――なんだよ」
「話があるの」
「―――親父は?」
「少し、外で飲んで来るみたい。…中、いい?」
考えを巡らす。隣は海晴の部屋だ。話し声に目を覚まさないとも限らない。
「…ここは、駄目だ」
「…わかったわ。じゃ、リビングに来て」
瑞樹はため息をつくと、ベッドから出てきた。長袖Tシャツにイージーパンツでは寒いと思い、脱ぎ捨ててあったスウェットパーカーを羽織る。
母は、会社から帰ってきたままのスーツ姿だった。帰宅して今までずっと、父と話をしていたのだろう。何を話していたか、だいたい想像はつく。それでも、母に従って、階段を降りた。
リビングに入ると、母は奥のソファの中央に腰掛けた。瑞樹は、無言のまま、向い側のソファの一番端に座った。
「―――で、何」
瑞樹が無表情に促すと、母は泣きはらしたような目で瑞樹を見つめ、それから視線を逸らした。
「…離婚する事になったわ」
「……」
「やり直したい、って何度も言ったけど―――もう、無理みたい。窪塚からは、別れるなら再婚しよう、って言われてるけど……」
「―――そう。いいんじゃねぇの」
驚くほどあっさりと、瑞樹はそう答えた。
「窪塚を一発ぶん殴りたい気もするけど、あんたの顔見ないで済むようになるなら、なんでもいい。あいつと結婚するなり心中するなり、好きにしろよ」
「ま、待って!」
言いたい事だけ言って立ち上がろうとした瑞樹を、母が慌てたように制した。
「まだ、話はあるのよ」
訝しげに眉を寄せた瑞樹に、母は真剣な顔で、とんでもない事を言った。
「一緒に、来て欲しいの」
「―――は?」
「離婚したら、私と一緒に来て欲しいの。瑞樹も海晴も一緒に」
言われた言葉の意味を理解するまで、いつもの数倍の時間がかかった。
脳が、理解できる言葉に変換し終わった時、体の奥底からわいてくる憤りで、思わず体が震えた。
「…何を…言ってる…」
「―――窪塚さん、子供が作れない体なの」
「…それが、何だってんだよ」
訳がわからず、瑞樹はますます眉を寄せた。
「代々続いた名家だから、後継ぎはどうしても欲しいって。養子を貰うつもりだけど、私に要らぬ苦労はかけられないから、将来、優秀な社員を戸籍だけの“子供”にした方がいいだろう、って、そう言われたの。で…思い切って瑞樹と海晴の事告白したら、彼、今まで黙ってた事を許してくれて―――私と血の繋がった子なら、きっと愛せる、って。2人共引き取って、家も会社も継がせたい、って言ってくれてるの。
「いい加減にしろよ!!」
母の言葉を遮って、瑞樹は思わず立ち上がった。その声に怯えたように体を竦めた母を睨み下ろす。我慢の限界だった。
「親父一人残して行けって? あんた、何言ってるかわかってんのかよ!? あんたが俺や海晴にした事、全部忘れたのか!?」
「わ…わかってるし、ちゃんと覚えてるわ。でもね、瑞樹にとっても悪い話じゃないのよ? そう思ったからこそ」
瑞樹の中で、理性の最後の1本が切れた。
「嘘つくなよ! 要らなかったくせに―――俺も! 海晴も!」
母の顔が、強張る。
「窪塚の気を惹くために利用できるとわかったら、急にこれかよ。俺たちは、あんたのゲームの駒じゃねーよっ! 馬鹿にすんなっ!」
母は、呆然とした顔で、瑞樹を見上げていた。その顔を見ていたら、急に虚しくなってきた。
―――この女に「母親」や「妻」の顔がひとかけらでもあると思ってた俺が馬鹿だった。
そんな物が微塵も無い事は、あの時、嫌というほどわからされたというのに。
こいつの頭の中には、窪塚と親父しかいない。俺や海晴の事なんて、微塵も考えていない。それがわかったからこそ、海晴は俺が育てるって決めた。海晴にだけは嘘をつき通して、一生騙し続けてみせると。
実際の母親がどうであれ―――あいつの中の「母親」だけは、殺してしまいたくなかったから。
でも…もう、限界だ。
「―――窪塚に電話させろよ」
瑞樹は、まだ呆然としている母に、低くそう告げた。
「窪塚にも、親父にも、全部、話す」
「え……」
母の顔が、初めて恐怖で引きつった。
「親父や海晴に隠してきた事、全部話す。それで親父も窪塚も納得するんなら、上等だよ、あんたの持ち駒になってやる。もう嫌だ。一人で抱えるのは」
「や―――やめて! それだけは…!」
弾かれたように立ち上がると、母は瑞樹のパーカーの袖を掴んだ。腕に食い込む指の感触に、一瞬にして瑞樹の体が硬直する。
「お…お願い、何でもするから、あの2人には、何も言わないで! 瑞樹が私を責めるのは仕方ない。それだけの事をしたって、十分わかってる。でも―――でも、お願い! 話せば、2人共私を責める……きっと2人共失ってしまう。窪塚さんも一樹も両方失ったら、私、生きていけない……生きていけないのよ。私のことなら、好きなだけ殴っていい、殺したって構わない、だから―――だから、言わないで! お願い、瑞樹!」
「―――…っ、は、なせっ!」
渾身の力で母の手を振り解き、瑞樹はどさっ、とソファに座り込んだ。
体が、震える。ちょうど悪夢を見た時のように。
嫌悪感―――いや、それ以上の、恐怖。認めたくないが、やはり心の奥底には、まだ残っている―――この女に対する、言い様のない、恐怖心が。
これを、一生抱えていくしかないんだろうか?
誰にも真実を言えずに、誰にも縋りつけずに、自分の中でだんだん小さくなっていくのを待つしかないんだろうか?
どれだけの間? もう5年間抱え続けた。それですら限界なのに――― 一体、いつまで?
ソファの上で、自らを抱きしめるように体を折ったまま、瑞樹は震えが遠のくのを待った。
憤りは極限まで体を縛り付けていたが、頭の一部が、妙にクリアに冷め切っていた。その僅かな部分で、瑞樹はなんとか考えをまとめた。
「―――俺は、行かない」
ぐっと腕を抱く手に力をこめる。
「俺は、ここに残る。窪塚にも、親父にも、何も言わない。だから―――海晴は、連れてけばいい」
「…え…っ」
「あいつには、何も教えてない―――あいつは何も知らない。だから…あんたも、一生、騙し通せ。海晴を失望させたら、絶対許さない」
「…海晴を…もらっても、いいの?」
瑞樹は、引き裂かれそうな痛みをこらえて、一度だけ頷いた。
案外、自分は、こうなるのを予想して、海晴に嘘をつき続けていたのかもしれない―――頭の片隅で、そんな事を思う。
「で―――いつ、出てく気だよ」
「…海晴の卒業を待ってだから、3月末に」
3月末―――あと、1ヶ月。
瑞樹は唇を噛むと、顔をゆっくりと上げた。
「―――わかった。1ヶ月は、我慢する。その代わり…出て行ったら、一生、俺の前に現れるな」
「み…ずき…」
「次にその顔見た時は―――…」
瑞樹は、真っ直ぐに母の顔を見据えた。―――本気の、殺意をまとって。
「今度は、俺が、あんたを殺す」
***
数日後、瑞樹と海晴は、両親にリビングに呼ばれた。
改まった態度の両親に、海晴は不安げな顔をしていた。父はいつも通り冷静で穏やかな顔をしており、母は蒼白な無表情を装っていた。
「お父さんとお母さんは、離婚することになった。海晴はお母さんについて行きなさい」
案の定、海晴は目を丸くし、両親の顔を何度も何度も見比べた。うろたえたように海晴が最後に目を向けたのは、背けられた瑞樹の顔だった。
「…お兄ちゃんは? お兄ちゃんも、お母さんについて行くの?」
「…俺はここに残る」
―――海晴、ごめん。
やろうと思えば、やれた。俺さえ決断すれば、全部滅茶苦茶に壊してやる事も可能だった。その方がせいせいする、と思う自分も、どこかにいる。
なのに、俺は結局、一番丸く収まるであろう道を、選んでしまった。父は一人にならずに済む、母は窪塚と新しい人生を歩める、海晴は母の本性を知る事なく生きていける、俺は望み通り母の顔を見なくて済むようになる―――確かに、パーフェクトだ。
ただ、1点―――お前ともう、一緒にいてやれない、という点を除いては。
俺は、そんな選択をしてまで、お前に嘘をつき続けてまで、一体「何」を守ろうとしてるんだろう?
家族の平安? ―――もう、家族なんて、どこにもないのに?
泣きそうな顔になっている海晴の顔を、とても直視はできない。瑞樹は、顔を背けたまま、心の中で何度も海晴に謝罪し続けた。
***
両親の離婚が決まった週の日曜日、瑞樹は父と海釣りに行った。
堤防に座り、灰色の海に向かって釣竿を出した父は、すぐ隣でライカM4にフィルムを装填している息子の姿を眺めていた。
父の首には、海晴が編んだマフラーがしっかり巻かれている。瑞樹が着ているダウンジャケットのポケットにも、あの後海晴が猛スピードで完成させた手袋が入っている。
「瑞樹、寒いんじゃないか?」
真冬だというのに、襟元を大きく開けている瑞樹を気にして、父はそう訊ねた。
「大丈夫。俺、丈夫にできてるから」
「何言ってるんだ。昔肺炎起こして救急車で運ばれた奴が」
ちょっと眉をひそめ、父は自分が首に巻いていたマフラーを取って、瑞樹の肩にかけた。
瞬間、瑞樹はビクン、と肩を震わせ、顔を強張らせた。
「い、いや、いい。―――俺、マフラーなんてした事ないし。親父が使えよ」
なるべく平静を装って、マフラーを父につきつけた。
父が一瞬、不審げな顔をしたが、瑞樹はこういう場面での誤魔化し方もマスターしている。微かに笑顔を見せ、マフラーを父の首に再度巻きつけてやった。
「やっぱ、親父の方が似合うしな」
「…馬鹿。何言ってるんだ、俺そっくりな顔してるくせに」
父が可笑しそうに笑う。その笑顔に、少し後ろめたさを感じた。
「―――なぁ、親父。1つ訊いていい?」
フィルム装填を終えた瑞樹は、堤防の上に立ち上がって父を見下ろした。
「親父、後悔してる?」
「何を?」
「出会った事や、結婚した事や、離婚した事」
「する訳ないだろう? 結婚も離婚も、俺の方から言い出した事だぞ?」
「でも―――出会わなきゃよかった、って気持ちも、あって当然だろ」
忌々しげな瑞樹の口調に、父は思わず苦笑した。なかなか当たりのこない釣竿の先を見つめ、自分の考えをまとめながらのように、ゆっくり口を開いた。
「…まあ、仕方ないよ。
「“運命の女”?」
瑞樹は眉間に皺を寄せた。
「まさか、結婚する運命にあった、なんて少女漫画みたいな事、親父が言う気?」
「ハハハ、そんな単純な話じゃないよ。つまり―――倖と出会わなければ、学生結婚も泥沼みたいな恋愛も経験しなかっただろう。今の仕事にも就いてなかったと思うし、離婚も経験しなかったと思う。倖に出会った事で、運命が変わった―――そう思った」
「…運命を変えたから、“運命の女”、って事…?」
父は、瑞樹の言葉に頷きかけたが、ふと他の想いが浮かんだのか、小さくため息をついた。
「いや―――多分、別に歩む筈の人生なんて、本当は無かったんだろうな。運命のベクトルは、最初から倖に向いていた…出会いも、別れも、元からある運命だ。そういう相手なんだと思う」
「なんで、そういう相手だなんてわかるんだよ」
あり得ない、と言いたげに瑞樹が呟くと、父はクスリと笑い、曇り空を見上げた。
「―――足音を、聞いたんだ」
その父の言葉に、瑞樹は眉をひそめた。
父は、どこか昔を懐かしむみたいな表情で、まだ空を見上げている。
「それぞれの道を、それぞれの速さで歩いていた筈なのに―――ある日ふと、足音がピッタリと、重なるのを聞いた。不思議に思って隣を見ると、そこに倖がいた。…それだけのことだ」
―――足音が、重なる?
「瑞樹も、出会えばきっと、わかるよ」
俺の子だもんな、と言って、父は穏やかに笑った。
その笑顔は、本当になんの後悔も未練も無いように見えて、瑞樹はそれ以上、何も訊けなかった。
運命を変えた、とまで思える人。
なのに、別れまでもが、必然だったと思える人。
この世に、そんな奇跡みたいな出会いが、本当にあるんだろうか? ―――瑞樹には、到底信じる事はできなかった。
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