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no065:
気づかないふり
-odai:64-

 

気ヅイテナイノ? 気ヅカナイフリヲシテルノ?

―99.03―

 その人物からの電話は、やっぱり前回同様、突然で、内容も藪から棒だった。

 『ハル、屋久島行かへん? 屋久島オフしよ』
 まだ会社で仕事中の瑞樹は、頭の切り替えがうまくいっていない。ハルって誰だよ、と一瞬思い、自分のことだと認識するのに、3秒ほどかかってしまった。
 『ボクの4つ上の兄ちゃんが、去年の秋に、屋久島でペンション開いてん。そんでな』
 そこまで"猫柳"が喋ったところで、耳障りな咳が隣から乱入した。しかも2人だから、その騒音は2倍だ。
 「…ちょっと待て」
 瑞樹は"猫柳"にそう伝え、隣の席で打ち合わせをしている久保田と佳那子の方を向いた。
 「―――ちょっと、席はずすから」
 「…済まない」
 ―――なんで2人揃って風邪ひいてんだよ。しかもそっくりな喉風邪。あからさま過ぎんだろ、全く。
 まだ咳をしながら心底済まなそうな顔をする久保田と、机に突っ伏して苦しそうに咳をしている佳那子を、瑞樹は、けっ、という顔で一瞥した。
 携帯を手に立ち上がり、システム部の奥にあるデバッグ機の前に座る。少しは距離が出来たので、電話の声も聞こえそうだ。
 「…お待たせ。で、何」
 『ああ、そんでな。そのペンション、まだ知名度低くて、ゴールデンウィーク前は部屋余って勿体無いから、半がけでええから泊まってくれって言うんや』
 「それで、屋久島オフ、か?」
 『たまには兄孝行したらんとな。不肖の弟をよう可愛がってくれんねんで』
 お前の兄孝行なんざ知るか、と心の中でつっこみを入れる。
 『今のところ、江戸川さんとこが夫婦で参加。それと、ボク。ハルとライも誘って、5人でどうやろ?』
 「いつの話なんだよ、それ」
 『4月の第2土日』
 あと2週間と少ししかない。瑞樹は難しい顔をした。
 「また急な…。ライは? まだこの話してないのか?」
 『まだや。これから電話するとこ』
 「そうか。―――ちょっと、考えとく。保留しといていいか?」
 『おっけーおっけー。ほんなら頼むで』
 最後の「で」が聞こえるか聞こえないか位で、電話は切れた。せわしない奴である。瑞樹は、眉間に皺を寄せたまま、携帯電話をポケットに突っ込んだ。
 ―――屋久島、か…。どんな所だっけ。
 手つかずの自然が多い、と聞いたような覚えがある。本屋で旅行ガイドでも立ち読みしてみるか、と思った。

***

 「屋久島って、屋久杉がある所だよね」
 ちょうど頭を掠めた桜の木の枝を払いながら、蕾夏は瑞樹を振り返った。桜は今が一番いい時期だ。
 瑞樹は、桜の枝越しに、3月最後の青空をフレームにおさめていた。蕾夏は、返事を待ちつつ、その横顔を息を詰めて見つめる。
 ファインダーを覗き込み被写体をじっと見つめる時の瑞樹の目は、どことなく狩りをする時の猫科の動物を思わせる、と、蕾夏はいつも思う。被写体に惹かれていれば惹かれているほど、その目はより獰猛さを増す。そういう目を見ると、いつも蕾夏の背中にゾクリとしたものが這い上がる。その目が、というより、そういう自分の変化が怖くて、つい息を詰めてしまうのだ。
 次の瞬間、微かにシャッターを切る音がした。緊張が緩む。蕾夏も息をついた。
 「蕾夏は、屋久杉に興味あんの?」
 フィルムを巻き上げつつ顔を上げた瑞樹が、そう問い掛ける。蕾夏は複雑そうな表情をした。
 「気になる感じ、かな。このところ帰るの遅くて本屋さん閉まっちゃってたから、ガイドとか見れなかったんだ。ネットでちょっと調べた程度。…瑞樹は? 行くつもりなの?」
 「俺は、蕾夏が行くんなら、行こうかと思ってる」
 またカメラを構えつつ、瑞樹はそう答えた。
 「何、私次第なの?」
 「写真撮りたいけど、お前行かないと意味ねぇし」
 「…なんで?」
 その問いに、返事はなかった。
 写真を撮りに行く時、瑞樹がよく使うセリフ。“お前が行かないと意味がない”。蕾夏にはこの意味がよくわからなかった。瑞樹が写真を撮る間、蕾夏はただ見ている事しかできない。全然役に立っていない。むしろ、撮影の邪魔をしている気がする。何故、自分がいないと意味がないのだろう?―――時々訊ねるが、いつも答えはなかった。
 わざと答えを避けてるのかもしれないし、説明の難しい観念的な事なのかもしれない。蕾夏もまた、その質問をしつこく繰り返す事はしなかった。知りたいけれど、瑞樹が教えてくれるまで待とうと思ったのだ。

 「―――あ。あの木、ちょっと見てくるね」
 まだその場を離れそうにない瑞樹にそう断りを入れると、蕾夏は、少し離れた所に立つ、この公園で一番大きな桜の木まで走っていった。
 蕾夏がその木に目をつけたのには、実は理由があった。その枝ぶりや大きさが、プライマリー・スクールに植わっていた桜の大木と非常によく似ていたのだ。といっても、当時蕾夏はもっと体も小さかったので、本物はもっと小ぶりな桜の木だったかもしれないが。
 走り着いたそこにそびえ立つその桜は、大人になった蕾夏の目から見ても立派な大木で、蕾夏が両手を広げてやっと幹の半面を抱えられるかどうかという大きさだった。ちょっと嬉しくなって、蕾夏はその幹に抱きついて、耳をくっつけてみた。
 蕾夏は幼い頃から、桜に限らず大きな木が理由もなく好きで、そういう木を見つけると、よくこうして抱きついた。こうしていると、木に(みなぎ)るエネルギーを感じて、自分が自然と一体化できる気がするのだ。
 暫し目を閉じてそうしていた蕾夏は、ふと視線を感じて、ぱちっと目を開けた。
 「……?」
 目の前に、小学校高学年位の少年が立っていた。
 整った顔立ちをしている。頭が金と茶の2色に染め分けられているが、今時の小学生ってこんな風なんだろうか。チューインガムを噛みつつ、少し首を傾げるようにして、Gパンのポケットに手をつっこんだままで、じっと蕾夏を見ている。
 ―――なんか、瑞樹に似てる。
 顔立ちは違うが、その仕草やムードが、瑞樹を連想させる。蕾夏は、木の幹を抱きしめたまま、その少年をじっと見つめ返した。度胸があるのか、それでも彼は怯まない。ますますじっと蕾夏を見つめる。
 「お前、何しとんねん」
 「―――自然と一体化中よ。邪魔しないで」
 小学生に“お前”呼ばわりされて、蕾夏はむっとしたようにそう言った。
 少年は、蕾夏がむっとしたのを察知したらしく、楽しげな笑いを浮かべた。
 「あ、むっとしてる。おもしれー。姉ちゃん、小学生相手にムキになったらあかんで」
 「おい、ガキ」
 ―――あ。本家登場。
 少年のシャツの襟首を、瑞樹が捕まえた。小学生に向かってそれはないだろう、という位、少々凶暴なオーラをまといつつ、瑞樹は気分を害したように振り返る少年を睨んだ。
 「まだガキの癖に、何ナンパしてやがるんだ。とっとと失せろ」
 少年は、瑞樹のこともじっと見据え、やがて、ぼそりと呟いた。
 「…ゴッドファーザー」
 「は?」
 ゴッドファーザー?
 瑞樹も蕾夏も、キョトンとした顔で、少年の顔を凝視した。映画好きな2人の頭には、当然ながら映画『ゴッドファーザー』が浮かんでいる。が、瑞樹は、アル・パチーノともマーロン・ブランドとも似ていない。何故今ここでその名が出てくるのだろう?
 「なんや。オレの顔、覚えてないんか」
 「―――こんな妙なガキの知り合いはいねーよ」
 「イズミ!」
 割って入った声に、その場にいた3人が全員振り返った。
 近寄ってきたのは、妖艶な感じの美人だった。
 白のすっきりしたスーツを着こなした彼女は、振り返った瑞樹の顔を見て、目を丸くして少し顔を紅潮させた。
 「な…成田君!? うそっ!」
 誰だかわからないのか、瑞樹は眉をひそめたままである。が、暫し後、はっとしたように目を瞬き、
 「…舞?」
 と呼びかけた。白スーツの美女は、嬉しそうにコクンと頷く。
 「てことは…お前、まさか、イズミか?」
 瑞樹に襟首を掴まれたままの少年は、やっと気づいたんかい、という顔をして、瑞樹を睨み上げていた。

***

 「姉ちゃん、成田瑞樹のオンナ?」
 至近距離で見つめられながらそう問われて、蕾夏は危うくウーロン茶の缶を落しそうになった。
 「小学生に、そういう事訊かれたくないし、答えるのもイヤ」
 内心の動揺を隠してそう言って睨むと、彼―――イズミは、ニヤリと笑った。
 「アホか。今時の小6は結構進んでるの、知らんの? あ、オレ、幸いまだフリーやから、姉ちゃん、唾つけとくなら今がチャンスやで」
 「…バカ…」
 ―――いくら時代が違うったって、こんな11歳、いないってば!
 蕾夏は、不覚にも赤面してしまったことを後悔しつつ、チラリと向い側のベンチに視線を移した。瑞樹と、イズミの母である舞―――朝倉 舞が、並んで座って何か話している。

 朝倉 舞は、瑞樹の中学時代の先輩で、瑞樹とは結構懇意にしていたらしい。どういう関係かは知らないが、2人のムードから、おそらく付き合ってたんだろうな、と蕾夏は感じていた。
 そして、さっきから蕾夏にまとわりついてばかりいるこの小学生は、舞の息子・イズミ。
 舞は、瑞樹の2つ上。ということは、まだ28歳。その子供であるイズミは、現在11歳―――そう、イズミは、舞が17歳の時の子供なのだ。
 彼女は、未婚のシングルマザーらしい。イズミを抱えて、神戸で二人暮ししながら保険アドバイザーとしてバリバリ働いているという。そんな2人が何故東京にいるのかというと、この公園の近所に舞の両親が住んでいて、土日を利用して遊びに来ているからなのだそうだ。信じられないほどの偶然が重なって、再会を果たした事になる。

 「小学生小学生言うけどな。オレ、5月生まれやから、5月には12歳になるんやで? 12歳って言うたら、あいつが母ちゃんと会ったのと同じ歳やんか」
 イズミは口を尖らせ、コーラをくいっとあおる。あいつ、とは、当然瑞樹のことである。その呼び方には、どことなく親しみがこもっていた。それにしても、大人の女の魅力いっぱい、といった感じの舞に向かって「母ちゃん」という呼び名はあんまりだ、と蕾夏は思った。
 と、イズミは急にいたずらっ子のような表情になり、蕾夏にますます接近し、声を低くした。
 「実はな―――オレ、父ちゃんが誰かわからないんやって」
 「…は?」
 「母ちゃん自身、わからないんやって。男関係、派手やったらしいから。ってことは―――あいつが父親の可能性も、ゼロではないって事」
 イズミの言葉に、心臓が、一瞬止まった。
 ―――今、なんて?
 「そ…それはないでしょ。逆算したら、瑞樹、13だよ?」
 「アホやなぁ。13歳でも早熟な奴は父親になれんねんで? しかも母ちゃん、いまだにあいつの中学生時代の写真、タンスの上に飾っとるし。母ちゃんは“星の数ほどいたセックスフレンドの1人だ”なんてゆーとったけど、一番惚れた男と考えるのが妥当やろ?」
 頭がグラグラしてきた。
 小学生の話す内容ではない。第一、そんな説明を小学生にする舞も舞だ。
 それに、中1や中2で「女の子と付き合う」って言う場合、そこまで考えないのが普通なんじゃないの?―――と思いかけた蕾夏は、反射的に中学時代のクラスメイトの1人を思い出してしまった。

 力ずくで、自分を犯そうとした、彼。
 押さえつけ、何度も平手打ちし、体中を(まさぐ)ってきた、あの手―――彼だって、同じ中学2年生だった。

 ―――ゾッとした。
 冷たい汗が吹き出しそうになる。思わず蕾夏は、自分で自分の腕を抱いた。この上、今目の前にいる2人が抱き合うシーンなんて想像したら、本気でおかしくなってしまいそうだ。
 ―――嫌だ、絶対無理。
 考えただけで気分悪くなりそう―――…。
 「…え、うわ、もしかして本気にした? 姉ちゃん、大丈夫?」
 急に顔色が悪くなった蕾夏に気づき、イズミが慌てだした。蕾夏は慌てて笑顔を作ろうとしたが、瑞樹と雰囲気の似ているイズミが相手のせいか、第三者にするようには上手くできなかった。
 少し寂しげな笑いを見せる蕾夏の顔を覗きこんで、イズミは僅かに頬を紅潮させた。
 「あの…姉ちゃん、言っていい?」
 「何」
 「その顔、めっちゃそそられる」
 「は!?」
 「こんのガキ! 勝手にちょっかい出すんじゃねぇっ!」
 いつの間に向い側のベンチから移動してきていたのか、瑞樹がイズミの襟首をさっきと同じようにひっつかんだ。またしても、小学生に向けるにはあんまりだ、と思える、強烈な殺気をまとっている。
 「んだよーっ、邪魔すんな! アホ!」
 怒鳴るイズミを無視して、瑞樹はイズミをベンチから引きずり降ろし、そのままズルズルと向いのベンチに連れて行ってしまった。
 呆気にとられてそれを見ていた蕾夏だったが、すぐ隣に、やはりいつの間にか移動してきていた舞が立っているのに気づき、慌てて席を立った。が、舞はそれを手で制する。
 「ごめんね、変な子供で」
 クスクス笑いながら、舞は、蕾夏の隣に腰をおろした。仕方なく、蕾夏もまたベンチに座りなおす。
 正直、舞と話すのは気が重い。瑞樹の件もあるが、それ以上に、舞自身が蕾夏が苦手とするタイプだったのだ。でも、瑞樹と親しい人物なのだから、なるべく不愉快な態度を取らないよう気をつけなくてはいけない。
 「元気で、いい子ですよね」
 「健康だけは誰にも負けないわよ。それに親思いで、確かにいい子なんだけど―――大人に囲まれて生活しているせいか、妙にませちゃって。あたしも結構困らせられてるの」
 「…でも、ちょっと、瑞樹に似てますね」
 口にするつもりはなかったのに、思わず本音が出てしまった。蕾夏は、慌てて口を閉ざした。
 舞は、その言葉に一瞬驚いたような目をし、それから可笑しそうに笑った。
 「やだ、あの子の父親、成田君じゃないわよ?」
 「でも…」
 「成田君とそういう関係がゼロだったとは言わないけど、でも、イズミの父親候補には入ってないわよ。あの子が成田君に似てるのは、真似てるからよ」
 「真似てる?」
 「あの子、小さい頃、凄く父親を欲しがってた時期があって―――ちょうど震災の前位、たまたま帰省してた成田君とばったり会っちゃって、その時に変な憧れを抱いちゃったみたいなの。どうせなら、もっと別の人とばったり会って欲しかったわ。なんでよりによって成田君の真似なんかするのよ、って、我が子ながら情けなくなっちゃう」
 ―――あの…瑞樹の真似するのって、“情けないこと”なの?
 笑顔をひきつらせる蕾夏をよそに、舞はそう言って、あはははは、と大きく笑い、パチンとウィンクした。
 「だから、ね。心配したり、妬いたりしなくて大丈夫よ」
 「や…っ、妬いてる訳じゃないですよ! 私、彼女とかじゃないですから、瑞樹の」
 変な誤解を受けたくなくて、慌ててそう返した。すると舞は、器用に片方だけ眉をつり上げた。
 「…それ、本気で言ってるの?」
 「え?」
 「―――誰にも執着しない。誰にも自分を見せない―――必死にねだらないとキス1つくれない。自分からは、誰かに触れたり話しかける事すらしない。それがあたしの知ってる成田君。あんな小学生にまで本気で嫉妬したり、人と話してる最中に誰かさんの視線ばっかり気にするなんてこと、絶対有り得なかったの。それでも“彼女じゃない”?」
 「……」
 「あなた、会ってからずっと、あたしの顔をまともに見ようとしないでしょ。イズミが成田君にちょっと似てて、もの凄く動揺してる。それに今、凄く寂しそうな顔をしてる―――それでも“彼女じゃない”?」
 蕾夏の顔が、僅かに強張った。その気になれば笑顔のポーカーフェースなど軽くやってのける自信があったが、今日は上手くいかなかった。
 「ねぇ…気づいてないの?」
 舞が、艶やかな微笑を浮かべ、小首を傾げる。
 「それとも―――気づかないふりをしているの?」
 そう言われて、蕾夏の胸が、鷲掴みされたように激しく痛んだ。

***

 夕暮れの商店街を少し早足で歩く蕾夏を、瑞樹が一定の距離をおいて追う。
 こんな状態が、もう10分近く続いている。
 「…何怒ってんだよ」
 「―――怒ってないよ」

 考えてみれば、これが初めてだった。瑞樹が関係を持った女の人と、実際に顔を合わせるのは。
 以前、キスマークを見つけてしまった時も、自分の居場所がなくなる可能性を考えて動揺したが、今回はそれとは違う感じがする。
 無性に神経が逆撫でされる―――瑞樹の事を何でも知ってるみたいに微笑む舞の笑顔が、やたら腹立たしく思えた。やめて、私に話しかけないで、と口にしてしまいそうな衝動を、舞が話す間、ずっとこらえていた。自分の知らない瑞樹を知っている―――もしかしたら、瑞樹が話そうとしてくれない悪夢の事も知っているのかもしれない。そう考えると、体中が痛かった。
 ―――こんなの、私じゃ、ない。
 悪寒が、背中を駆け上がる。いつの間にこんな風になってしまったんだろう、と、蕾夏はショックを受けていた。舞の存在よりも、自分の変化に動揺していた。

 “気づいてないの? それとも―――気づかないふりをしているの?”

 ―――多分、気づかないふりをしてるんだと、思う。
 認めたら、もっと自分が変化してしまいそうな気がするから。2人の関係が根本から覆ってしまいそうな不安があるから。
 恋愛には、負の感情が必ずつきまとう。その事は、辻でイヤという位見せつけられた。あんな関係に、瑞樹とは陥りたくない。常に正の感情だけでいられる場所―――ここを、失いたくない。
 わかってるから。そんなの、永遠になんて無理だって、わかってるから。
 だから、お願い―――もう少しだけ、このままでいさせて欲しい。

 「ちょい、ストップ」
 瑞樹の手が、蕾夏の肩にかかって引き止めた。足が止められるのと同時に、絡め取られていた思考も一気に現実に戻ってきた。
 「な、なに?」
 「あれ」
 瑞樹が指さしたのは、ちょうど通りかかった旅行代理店のガラス扉だった。
 「?」
 「一番端の、ポスター」
 瑞樹に言われて、目をそのポスターに移す。
 途端、蕾夏の目が変わった。
 まるで引き寄せられるみたいに2人が向かった先には、店の内側から大きなポスターが貼られていた。多分、観光協会かどこかが用意した、観光地PRのためのポスターだろう。
 それは、屋久杉の原生林の、写真だった。
 巨大な屋久杉の枝と枝の間から、白い光が幾筋も射し込んでいる。その足元は、苔生して微かに緑色に光っているように見える。深閑としていて、空気もピンと張りつめているようで―――音も、風も、そこには存在していないかのようだ。
 瑞樹も蕾夏も、言葉を失ったようにして、その写真を見つめていた。

 ―――惹きつけられる。

 ある一点が、ふと色彩を帯びて浮き出してくる。惹きつけられて見つめていると、瑞樹も必ず、ファインダー越しにそれを見つめていた。何度となく経験した、不思議な感覚―――それが、今、ここにあった。
 『瑞樹と私って、どうして同じ物に惹きつけられるんだろう?』
 自分が言った言葉を、蕾夏は今思い出していた。
 多分、今日見た桜の木よりも、浅草で買ったこんぺい糖よりも、新宿東口で見つけた夕陽よりも―――この原生林は“強い”。その事を、蕾夏は体で感じていた。

 「…感じる?」
 蕾夏が、チラリと瑞樹を見る。
 「…ああ、わかる」
 瑞樹も、蕾夏の方に視線を向ける。
 撮りたい、と、その目がはっきりと伝えていた。多分自分の目も、見たい、感じたいと伝えているのだろう。
 2人はもう一度、ポスターに目を移した。
 舞の事も、辻の事も、全てが吹き飛ぶ―――こういう共感を、もっと、感じたい。この高揚感を、もっと、もっと―――…。

 2人は、時が経つのを忘れて、その写真に見入った。
 これを、実際に見て、感じて、写真に残したい―――その思いだけが、2人を支配していた。


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