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港の岸壁の、一番端。長期間積み上げられたままになった、外国製の木箱。
そこに彼がいる時は、決まって彼が「逃亡」している時だった。
「―――成田君」
ワンレングス風に肩ギリギリで切りそろえた髪を掻きあげ、舞はその少年に呼びかけた。
木箱の上で片膝を抱えていた学生服姿が、たいして興味もなさそうに、舞の方を向く。アッシュグレーのような色の短い髪が、海から吹く風でフワリとなびいた。
「来ない?」
舞が艶然と微笑んでそう言うと、瑞樹は暫し遠くを見つめ、小さく息を吐くと、木箱から飛び降りた。
***
舞が瑞樹に最初に声をかけたのは、舞が中学3年、瑞樹が中学1年の、9月。三宮センター街にある舞の母の店で、舞が開店準備を手伝っているところに、母の情夫が訪ねてきた日だった。
その後起こる事を舞は知っていたので、準備を中断して、店の外に出た。
女手ひとつで舞を育ててきた母にとっては、情夫との関係も単純に「愛情」と割り切れない部分がある。「生活」のため―――舞も、それを理解していた。理解はしていても、多感な少女期にあった舞には、到底耐えられない話でもあった。
誰でもいいから、一緒にいて欲しい。体の底から湧きあがってくる寂しさを、誰かに満たして欲しい―――だから舞は、こういう時、通りかかった男に、すぐ声をかける。そういう習癖を持っていた。
そこに、自転車を押して歩く瑞樹が、偶然通りかかったのだ。
自分は男好きするタイプだと、舞は自覚していた。
実際、舞と2人きりになれば、大抵の男が体を求めてくる。人肌の温かさに飢えている舞は、いつもその求めに応じてきた。勿論あの日も―――瑞樹に初めて声をかけた時も、そのつもりでいた。
でも瑞樹は、あの時言った「好きにすれば」という言葉通り、舞が服を脱ぎ始めても、興味なさげに一瞥しただけで、床に憮然とした表情で座り込んでいた。悔しかった舞は、意地になって瑞樹を「好きにさせて」もらった。
2つ年下の、まだやっと少年期に差し掛かったに過ぎない後輩―――我ながらどうかしている、と思いながらも、彼の姿見たさに柄にもなくバスケ部の練習をこっそり見に行ったりしていた。そんな彼の、最初の女になれれば―――そんな年齢不相応な思いもあったのかもしれない。舞は、半泣きになりながら、一向に舞を求めてはくれない彼を、一方的に求めた。
そして、馬鹿馬鹿しくなった。
その最初の1度を最後に、2人は二度と、関係を持つことはなかった。
当時の瑞樹は、頻繁に実生活から「逃亡」していた。
学校帰りに部活をサボり、家に帰らず、あの神戸港の木箱の上に座り込む。日が暮れて、もう帰らなくては妹が心配をする、そんな時間になるまで、ずっとそこに佇んでいる。そんな事を、週に2度ほど繰り返していた。
だから舞は、母の情夫が店に来た日には、必ず神戸港へ行って、彼がいるかどうか確認するのが習慣となった。
いれば大抵、瑞樹は舞の誘いに応じて、舞の部屋に来てくれる。もし断れば、舞が見知らぬ男に声をかけて自堕落な行為に溺れるだろう事を、彼はちゃんと見抜いていたのかもしれない。
訪れた舞の部屋で、瑞樹は絨毯を敷いた床に寝転んで丸くなり、日頃眠れない分の惰眠を貪る。
舞はそんな彼の手を握る事で、ささやかな独占欲を満たす―――それだけの、関係。
それでも、構わなかった。舞は、瑞樹の手を握る、ただそれだけの事で、今母と情夫の間で行われているであろう情事を、一時忘れる事ができた。
何故、瑞樹とだけ、そんな関係になれたのか―――それは、他の相手とは違い、唯一瑞樹だけが、舞が恋愛感情を抱いている相手だったからなのかもしれない。
そんな、優しくて不安定な関係が1年も続いた頃。
「どうやらあたし、来年5月にはママになるみたい。今日、病院行ったら、2ヶ月だって」
神戸港で瑞樹を見つけて第一声、舞は、硬い声で、そう瑞樹に打ち明けた。
他人に無関心な瑞樹に、何か助言を求めていた訳ではない。ただなんとなく、瑞樹に話してみたかった。ただそれだけだ。もしかしたら、口に出すことで自分の意思を確かめたかっただけなのかもしれない。
だが、関心を示さないだろうと思われた瑞樹は、意外なほど真剣な顔で、舞を見下ろしてきた。
「相手は? わかってんの?」
「わかんない。2ヶ月前なんて―――心当たりが多すぎて」
2ヶ月前―――舞は頻繁に店を追い出された。
習慣で神戸港へ足を向けたが、瑞樹はいなかった。彼は、この年の3月に両親が離婚し、父親と二人暮しを始めた。慣れない生活と新学期、部活などが重なってしまい、4月以降は「逃亡」するような状況になかったのだ。この日会えたのも、本当に奇跡的な偶然だった。
瑞樹がいなければ、舞はまたいつものように「遊ぶ相手」を探してしまう。そして、そういう相手は、瑞樹とは違って体の関係を持つ相手と相場が決まっている。毎日、相手は違った。知らない人のことすらあった。誰が父親かなんて、わかる筈もない。
「―――で? どうすんの」
「…まだ、迷ってる。希望の高校にせっかく合格したんだし。でも―――あたし、自分の家族が欲しいの。お母さん以外の、血の繋がった家族が。そっちの思いの方が、今は強い」
「……」
「成田君なら、どっちを選ぶ?」
瑞樹は、硬い表情で暫し考えると、少し辛そうな表情で呟いた。
「俺なら、やめとけ、って言う」
「なんで?」
「―――俺みたいな子供、増やしたくないから」
「成田君みたいな子供、って? 成田君、お父さんもお母さんもはっきりしてるじゃない」
「そういう意味じゃねぇよ」
では、どういう意味なのだろう? ―――だが、瑞樹は、それには説明を加えてくれなかった。
唇を引き結び、海の方を暫しじっと見つめた瑞樹は、やがてもう一度舞を見下ろしてきた。
「父親がわからなくても、その子供、育てていけるか?」
「うん」
「将来、その子供が邪魔になったりしないか?」
「しないよ。結婚する気ないし、家族はこの子だけで十分。…あたしね。お母さんはお母さんの、あたしはあたしの生活をちゃんと築けるようになりたいの。あたし一人じゃ寂しいけど…この子がいれば、きっと大丈夫。生きていけると思うよ」
舞の声は、自信に満ち溢れていた。
口に出して言うと、その思いが余計しっかりと確かな物になっていくのがわかる。舞の気持ちは、固まっていた。
それを、瑞樹も感じ取ったのだろう。硬かった表情が、少し和らいだ。
「…なら、舞のしたいようにすればいい」
瑞樹はそう言って、ふわりと笑った。
その笑顔は、瑞樹が舞に見せた、初めての笑顔だった。
高校を中退してイズミを出産した当時は大変だった。
近所のファーストフード店でアルバイトをしながら、夜は母の店を手伝う。そんな目の回るような毎日の中、イズミの無邪気な寝顔が、舞を支えていた。
愛しい―――そう、実感できる。舞は、自分の中にある愛情の全てをイズミに注ぎ続けた。
瑞樹とはもう滅多に会わなくなっていた。彼の「逃亡」の回数が離婚を機に激減したのも理由の1つだが、何より舞自身が「遊び相手」を探す必要がなくなったからだ。今の舞には、紛らわせたい「孤独な時間」などないのだから。
とはいえ、瑞樹と完全に縁が切れた訳でもない。彼は彼なりに幼い親子を気にかけていたらしく、忘れた頃にふらりと顔を見せる。そんな時、人見知りの激しいイズミが擦り寄っていくので、冗談ぽく「成田君の子供みたいだよね」と言ったら、思いっきり嫌がられてしまった。
瑞樹が大学進学で東京へ行った年、舞は、20歳で大検を受けて、地元の大学の夜間部に進学した。そして卒業後、極普通の保険会社に就職を果たした。20代半ばになった舞は、立派なシングルマザーに成長していた。
阪神大震災で店が倒壊したのが皮肉な転機となり、母は再婚し、東京に移り住んだ。舞とイズミは、今も神戸で二人暮しだ。
イズミが生まれて、まもなく12年―――その前の16年と比べると、なんてまともで明るい生活だっただろうと、最近つくづく思うようになった。
舞は今、胸を張って言える。「イズミがいてくれて良かった」と。
イズミがいたから、舞は明るい道を歩くことのできる人間になれた。自分だけを頼りに懸命に生きる小さな命―――イズミという存在が、舞を暗闇から引っ張り出してくれたのだ、と。
***
―――ほんと…成田君、随分変わったわ。
隣に座っている瑞樹を見て、舞はくすっと忍び笑った。
話の合間合間に、確かめるように前のベンチに視線を走らす彼。少し機嫌が悪そうに見えるのは、多分、舞の息子のイズミが、先ほどから蕾夏の髪を
「ねぇ、成田君。前から一度訊きたかったんだけど」
舞がそう切り出すと、瑞樹はようやく舞の方を向いた。
「何故“イズミ”って名前にしたの?」
「…ああ、俺がつけたんだっけ」
彼にとっては大した出来事でもなかったのか、瑞樹は、なんだっけ、という風に眉間に皺を寄せる。覚えてない、なんて言われたら困るなぁ、と、舞は苦笑した。当のイズミは、瑞樹を「
「―――思い出した。舞のリクエストだ。“命を感じる名前にしてくれ”って」
「それで、“イズミ”?」
「水は命の源だろ。それがなくちゃ、動物も植物も生きていけない。だから、泉。カタカナにしたのは、単なる気分の問題だけど―――実際、カタカナっぽい奴に成長したな、あいつ」
カタカナっぽい奴、とは、どういう意味だろう? でも、なんとなくニュアンスはわかったので、舞は同意の意をこめて笑った。
「うん…そうね。イズミは、命の源だわ。あの子いなかったら、あたし、まだあの頃のままだったと思う」
「後悔してないんだ?」
「もちろんよ」
「それは良かった」
12年前に見せたのとよく似た穏やかな笑顔を見せ、瑞樹はまた視線を向かいのベンチに戻した。向いのベンチでは、イズミが相変わらず蕾夏にちょっかいを出している。
「ね。あの子、成田君の彼女?」
そう訊ねてみたら、瑞樹は、視線はそのままで意味深な笑顔を浮かべ、
「さぁ?」
と答えた。曖昧な返事。これも、過去にはなかった反応だ。
瑞樹が女の子と一緒の時に偶然出くわす度、舞はいつもこの質問をしてきた。でも、彼の答えはいつも同じだった。「そういう事になってるらしい」―――隣にいる女の子との関係に、瑞樹の意志がただの1パーセントも含まれていないことが、その言葉に象徴されていた。
「彼女じゃないなら、何?」
「親友」
「…ふぅん…でも、不思議」
「え?」
「成田君が、そんな目で誰かを見つめることなんて、一生無いかと思ってたのに」
瑞樹は一瞬だけ舞の方に視線を向け、また視線を戻した。
「そんな目、っつっても、俺には見えねーし。自分の目」
「そりゃそうよね」
舞はちょっと笑い、どう表現すればいいか、少しの間考えを巡らせた。
「―――あたしね、あの頃ずっと思ってたの。成田君て、感情をどっかに忘れてきてるんじゃないか、って。怒りもしないし、嘆きもしない。ご両親が離婚した時も平然としてたでしょ? この人、切っても血も涙も出てこないのかもしれない、なんて、一時期本気で思ったのよ」
瑞樹は反論しなかった。無言で、苦笑する。彼自身、過去の自分をそう思っているのかもしれない。
「でも―――あの子を見る成田君の目、とっても感情的だから。優しさとか、せつなさとか、苦しさとか、もどかしさとか…いろんな感情を混ぜ合わせたような目で、彼女のこと見てるから。そういう感情、どこで拾ってきたのかな、と思って」
「…感情的、か」
小さく声をたてて笑うと、瑞樹はズルズルとベンチに深く沈みこんだ。
暫く無言で、ひたすら蕾夏の興味を引こうと声をかけまくるイズミと、困ったようにその相手をしている蕾夏の様子を見つめていた瑞樹は、
「…禁断の果実を、食っちまったのかもしれないな」
ふいに、ポツリとそんな事を言った。
唐突な話の展開に、舞は目を丸くした。
「禁断の果実って、あれ? この世の悲しみや苦しみとは無縁だった人類が、誘惑に負けて禁断の果実を口にした途端、羞恥や知恵を得て、楽園を追い出される―――旧約聖書の、失楽園よね。…それが、何?」
「俺も、“何も感じずに済む”世界には、もう戻れないってこと」
舞は、眉をひそめ、不思議なほど穏やかな瑞樹の横顔を見つめた。
「俺、禁断の果実を口にしてから、それまで持ってなかった“欲”ってのを持っちまったからな。…欲求があれば、それが満たされない時、当然痛みを覚える。その痛みに、気が狂いそうになる時すらある。―――でも…」
ふっ、と笑い、瑞樹は舞の方に顔を向けた。
その笑顔は、舞の知らない笑顔だった。寂しげで、どこか悲しげで―――でも、ある確信を、その奥に秘めている笑顔。
「それでもまだ、禁断の果実を食いたがる俺って―――案外、馬鹿な奴かもな」
「……」
そしてまた、向いのベンチの方を眺めた。
―――知らなかった。本当の成田君て、こういう激しさも持ってる人だったんだ。
舞は、不思議な感慨を覚えていた。思わず、瑞樹の視線を追って、向かいのベンチに目を向ける。
―――あの子に、出会ったから?
あの子が、成田君にとっての“禁断の果実”ってこと…?
「…ったく、あのガキ…!」
「え?」
急に、隣に座る瑞樹が、やたら苛立った調子でそう吐き捨てた。驚いて瑞樹の方を見ると、彼はまさに「堪忍袋の緒が切れた」という顔をして、勢いよく立ち上がるところだった。
呆気にとられる舞をよそに、瑞樹はずんずん向かいのベンチへと歩み寄り、蕾夏に異常接近していたイズミの首根っこを捕まえた。
「こんのガキ! 勝手にちょっかい出すんじゃねぇっ!」
「んだよーっ! 邪魔すんな! アホ!」
抗議しまくるイズミを無視して、瑞樹はイズミをベンチから引きずりおろしてしまった。相手が小学生である事は、今の彼にはあまり無関係なようだ。
―――あの成田君が…小学生相手に、ここまでやる? しかも、一応母親の目の前なのに。
唖然としていた舞だったが、そう考えたらなんだか可笑しくなってきてしまった。何にも動じない、冷たくて静かで強い瑞樹も好きだったが、こういう瑞樹は、人間らしくてもっと好きかもしれない。
失っていた感情が、だんだん再生されているみたいな、そんな感じ。かつて、舞の部屋で体を丸めて眠りついていた瑞樹は、生きているのか死んでいるのかわからない感じだったが、今の瑞樹は、間違いなく「生きて」いる。
―――この子の、おかげなのよね、きっと…。
まだ呆気にとられている蕾夏を、舞は微笑みを浮かべて眺めた。
***
「あの姉ちゃん、やっぱり成田瑞樹のオンナやろなぁ、きっと…」
帰り道、イズミが不服そうにそう呟いた。少々アンニュイな雰囲気をまとったその憂い顔は、2、3年前までクラスの女の子にスカートめくりをして先生にこっぴどく叱られていたのと同じ少年とは思えない。
「なぁに? そんなに気に入ったの、あの子のこと」
「今時の小6より純真そーや。めっちゃ好み」
「…あんたね。その性格、一体誰に似たの?」
「母ちゃん。その質問、意味ないと思わんの?」
「―――言われてみりゃ、そうね」
父親がわからない以上、舞に似てるという事になってしまうのだろうか。
ただ、好みに関しては、彼が崇拝してやまない「ゴッドファーザー」と一致してるらしい。そこまで真似しなくていいわよ、と、舞は心の中で苦笑した。
「ちぇーっ。オレ、早く大人になりたいなぁ。同級生なんてガキばっかやし。早いとこ医者か弁護士か政治家になって、母ちゃんに悠々自適な生活させてやりたいしなぁ」
さりげなく、親を泣かせるようなセリフが入っていたりするのだ。舞はくすっと笑い、イズミの2色に染め分けた頭をくしゃくしゃっと撫でた。
「そーよ。早く大きくなってね。期待してるから」
「へへへぇ」
「でも、イズミ―――医者も弁護士も政治家も、なるまでにすごーくお金が必要よ?」
得意げにしていたイズミが、うっ、と言葉につまった。
「…まぁ、奨学金っちゅう手もあるし…」
「奨学金は、バカじゃ貰えないの」
「…あかんやん、それ…」
がくっとうなだれるその様に、舞はとうとう吹き出した。
イズミは舞に、毎日毎日、元気をくれる。
家族を愛する気持ちも、子育ての辛さも喜びも、独りじゃないという安心感も、全部イズミが教えてくれたもの。そう…イズミは舞の「命の源」であると同時に、いろんな感情を与えてくれる“禁断の果実”でもあった。
成田君にとっての彼女も、そうなのかもしれない―――舞は、思った。
彼女といると、それまで持っていなかったいろんな感情が、彼の中に芽生えてくるのかもしれない―――その昔、何も知らなかった人類が、1つの果実を口にすることであらゆる知識を得てしまったのと同じように。
―――あたしも成田君も、「家族」の中で迷子になっている子供だったけれど…救われる相手は、「家族」とは限らないんだね。
そんな奇跡的な出会いも、この世にはあるんだな―――舞は、瑞樹が少し羨ましく思えた。
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