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no067:
心音
-odai:16-

 

アナタニハ、聴コエマスカ?

―99.04―

 呼び鈴のボタンを押して30秒後、扉が開いた。
 「…おはよ…もう時間だっけ?」
 「悪い。俺の部屋のドライヤー、壊れてるらしい。自然乾燥してる時間ないし、お前んとこの貸して」
 「…いいよ。入って」
 どんよりした表情の蕾夏が、フラフラした足取りで部屋の中に戻っていく。一応出かける準備はできているようだが、明らかな寝不足の顔だ。瑞樹は、雫がまだ滴る髪をホテル備え付けのタオルでがしがし拭きながら眉をひそめた。
 「そんなで大丈夫かよ。また今から飛行機なのに」
 「言わないでー…。もー、昨日一晩中、ベッドに寝てるのに宙に浮いてるみたいな感じがして、気持ち悪くて気持ち悪くてしょうがなかったんだから」
 洗面所に置かれていたドライヤーを無造作に掴んで瑞樹に渡しつつ、蕾夏はこめかみを押さえた。
 「なんでそんなに飛行機が駄目なんだよ」
 「足が地面についてないのがイヤなの」
 「ついてんじゃん。床に」
 「その床が浮いてるじゃんっ!」
 「床の下は地面だって思いこめって。飛行機は空を飛ぶんじゃなく、地面を滑る乗り物だ」
 「…いくらなんでも、そこまで想像力働かないよ…」
 「鹿児島に置いてくぞ」
 「―――努力はしてみる」
 ぐぐっ、と握りこぶしに力をこめる蕾夏の様子に、瑞樹は思わず苦笑した。

***

 4月第2週。瑞樹と蕾夏は、他のチャット仲間より一足早く、屋久島入りした。目的は勿論、屋久杉を撮りに行く事だ。
 "猫柳"や"江戸川"夫妻は、聞いたスケジュールによれば、屋久島空港に昼頃到着するらしい。そのスケジュールに合わせていては、屋久杉の原生林を十分歩き回るだけの時間が確保できないと踏んだ2人は、申し訳ないが半日は完全に別コースをとることにした。
 金曜日の夜、定時と同時に羽田に猛ダッシュして、鹿児島行き最終便になんとか滑り込み、鹿児島のビジネスホテルで1泊。土曜日朝の早い便で、屋久島まで飛行機で移動する。これなら土曜日を目一杯撮影に使える訳だ。

 島内バスを利用して、前もって調べた撮影スポットに着いたのは、ちょうど昼頃だった。鹿児島のコンビニで購入しておいたおにぎりやお茶で軽い昼食をとって、いよいよ行動を開始する。
 「猫やんたち、到着したら怒るかなぁ? ちょっと早く行くとは言ったけど、夕方まで戻らないとは伝えなかったもんね」
 「かもな。でも、“現地集合”なんだから、“集合”までに俺らが何しようと自由ってことでいいんじゃない」
 瑞樹は、ボールペンのキャップを口にくわえて外すと、地図の上に予定コースを書き入れた。
 「原生林の中歩くコース取るから、結構足場がガタガタしてるらしいけど、お前、大丈夫か?」
 「ん、大丈夫。飛行機の中で眠ったから、すっかり元気になったし」
 傍らでニコリと笑う蕾夏は、確かに鹿児島から屋久島に向かう飛行機の中で、短い時間とはいえ完全に熟睡していた。
 「昨日とはえらい違いだな。飛んでる時間が短かったからか?」
 「ううん。人間、思い込めばなんとかなるみたい」
 「は?」
 「テイクオフして暫くの間、ずっと心の中で唱えてたんだ。“この飛行機は飛んでない、地面を滑ってるんだ”って。そしたら、そんな気がしてきて、気がついたら寝ちゃってた」
 「…尋常じゃねーな、お前の想像力…」
 半分感心し、半分呆れながら、瑞樹は地図を蕾夏に渡した。
 「猫やんの兄貴の話じゃ、コースはちゃんと整備されてるから安全らしいけど、コース離れるとやばいらしいから、絶対はぐれるなよ」
 「はぐれる訳ないでしょ」
 デイパックを背負いなおした蕾夏は、そう言ってニッと笑い、瑞樹の後について歩き出した。

***

 4月半ばにしては気温の上がったこの日でも、山に入ればそれなりに寒かった。
 とはいえ、長袖シャツを重ね着している2人にとっては、長距離を歩くにはちょうどいい気温である。
 「このあたりは、照葉樹林がほとんどみたいだね」
 蕾夏が、周囲を取り囲む照葉樹林を見上げつつ、少しため息をつく。屋久杉もいくつか見受けられるが、その迫力はいまひとつ。通常のトレッキングコースの延長といった趣だ。
 「まだ標高が低すぎるんだろ。本格的な原生林は、もっと先らしいから」
 「これはこれで綺麗だけど、なんかねぇ…あのポスター並みの衝撃が早く欲しいよなぁ」
 「焦るなって。そう簡単に感動のご対面ができたら面白くねーじゃん」
 "猫柳"の兄に事前情報をもらったので、しっかりトレッキングシューズを履いて来たが、いかんせんまだ足に馴染んでいない。それでなくともハイキングなど学生時代に経験しただけの2人は、暫し会話を中断して、歩くことに集中した。

 原生林を目指すトレッキングコースは、鬱蒼と茂る木々のせいで太陽の光が届き難く、なんとなく薄暗い感じがする。そのせいだろうか、歩道のいたるところ、剥き出しの岩に緑色の苔が密生していた。ほとんど太陽の光を浴びないのに、何故こんな綺麗な緑色になるのだろう―――慣れない山道を歩きながら、蕾夏は僅かに光ってるようにさえ見える苔むした岩に、時折見惚れていた。
 瑞樹も時折足を止めて写真を撮っていたが、ファインダー越しに見つめた先の風景には、やはり先日見たポスターのような強烈なインパクトはなかった。
 「結構このあたり、段差が急だね」
 よいしょ、という風に、蕾夏は苔生した地面を蹴って登った。身長差の分だけストライドが違うので、どうしても瑞樹より遅れてしまう。
 「屋久杉も増えてきたし、さっき“原生林コース”の案内出てたから、このあたりからがハードなのかもな。大丈夫か?」
 「うん。かえって、坂道がダラダラ続いたりする方がダメージ大きいもの。こういうの越えて前に進むのは、冒険みたいで楽しい」
 「お前、なんでも“楽しい”なぁ」
 可笑しそうに瑞樹が笑うと、蕾夏はちょっと拗ねたように睨んだ。
 「子供みたい、とか言いたいんでしょ。別にいいよ、子供でも。何事も楽しまなくちゃ、やる意味がないじゃない。私、仕事だって楽しんでやってるもの」
 「課長に“客には服従しろ!”って怒鳴られても楽しいか?」
 「ほっといてっ。あの課長は頭が前世代のまんまなんだってばっ。もう何度目かわかんないよ、あのセリフ聞くの…」
 「俺もその愚痴聞かされるの、何度目かわかんねーし」
 「悪かったわね」
 「…この段差はちょっと無理か。手、貸せ」
 弾みをつけて先に段差の上に乗った瑞樹が、蕾夏に手を差し出した。その手を握って、あまりの冷たさに思わず蕾夏は悲鳴をあげた。
 「ひゃああっ! つ、冷たいよ、瑞樹の手」
 「そうか? そこ、足かけて」
 言われたとおりに足をかけたのを確認して、腕を引き上げる。ふわっと蕾夏の体が浮いて、いともたやすくきつい段差を乗り越えた。
 「…お前、手熱いな。熱でもあるか?」
 「ううん、ずっと動いてるから。なんで瑞樹、こんな手冷たいの、今日」
 「さぁ…? 俺、気を張ってる時に手が冷たくなるみたいだから、今日は集中してるって事かな」
 実際、頭の中のどこかしらがピンと張りつめて、感覚が異様に研ぎ澄まされている感じがする。空気はいいし、気候もいいし、もっとリラックスしても良い状況の筈なのに。手が冷たいのはそのせいかどうかわからないが、集中している状態なのは間違いなさそうだ。
 そんな瑞樹の手とは逆に、蕾夏の手は、熱を帯びたみたいに温かい。冷たくなった指先にその温かさが心地よくて、瑞樹は手を放し難くなっていた。
 「もうちょい、このまま手貸してて」
 「えー…それじゃあ、私の手が冷たくなるじゃない」
 「大丈夫大丈夫」
 動揺を隠すように抗議する蕾夏を無視して、瑞樹は、そのまま手を引いて歩き出した。

 周囲はどんどん、人の手が加わっていない色合いが強くなっていく。
 一応トレッキング客のために道は確保されているものの、少し外れれば、まさに太古の原生林。幹がうねり、根が腰の高さ位まで地表に顔を出し、コースから少し外れて寄り道しようとすると、すぐ行く手を阻まれてしまう。蕾夏は、そういった難所にさしかかるたび、瑞樹に助けられながら進んだ。
 途中で写真を撮ったりするたび、その手は一旦は離れるが、撮影が終わればまた繋がれた。蕾夏は、何故かそれに素直に従ってしまっていた。
 瑞樹の手がだんだん温かくなっていくのを手のひらで感じると、何故かフワリとした優しい気持ちになれる―――気恥ずかしさよりも、その心地よさの方が勝っていたのかもしれない。くすぐったい気分を味わいながらも、蕾夏はその手を振り解こうとは思わなかった。

***

 難所を1つ越えるごとに、2人は次第に、周囲の風景に見惚れる時間が多くなっていった。
 思いのほか野生の猿や鹿を多く見かけたが、それらの人間を警戒したような目は、都会育ちな2人にとってはとてつもなく新鮮だ。次第に枝ぶりが力強くなっていく屋久杉にも、苔に覆われた切り株にも、2人は激しく惹きつけられた。
 でも、一番惹きつけられたのは、この「空気」かもしれない。
 少し湿度を帯びた、ひんやりとした空気―――むせかえる位の木々の緑のにおいと、時折射し込む暖かい太陽の光までもが、その空気の中に溶け込んでる気がする。その空気を感じながら、瑞樹は何故か、蕾夏の父の言葉を思い出していた。
 ―――感じる、“色”…か。
 家族の温かさを表すオレンジ色や、激情を表す赤―――今自分が感じている空気は、色にすればきっと深い深い緑だろう、と瑞樹は思っていた。
 撮れないだろうか。この“色”を。
 今自分が感じている空気を、その写真を見た人間誰もが感じられるような、そんな写真を撮れないだろうか。
 ポスターを見た時には漠然としていた「撮りたいもの」が、周囲の風景にカメラを向ける度だんだん形になっていくのを、瑞樹は体で感じていた。

 「あ……」
 「何?」
 かなり歩き疲れた頃、蕾夏が、はるか前方を望んで、小さな声をあげた。その目が、だんだん例の「宝物」を見つけた時のキラキラした目になる。
 「瑞樹! あの屋久杉、見て!」
 蕾夏が指差した先は、トレッキングコースから少し奥に入った場所。
 苔に覆われた岩がゴロゴロしているその奥に、これまで見た事もないほどの屋久杉の巨木が(そび)え立っていた。
 激しくうねった幹から根にかけての部分は、瑞樹の背よりもはるかに高い。大人10人位で囲まないと、この幹を囲む事はできないだろう。さりげなく立て看板もしてあるところをみると、かなり名の知れた名木らしい。
 仰ぎ見ると、その高さに圧倒される。張り出した枝の太さだけでも、普段見かける木の幹位はありそうだ。
 「…迫力…」
 「…圧巻って、こういうのを言うんだよね、きっと」
 圧倒されるままに、いろんなアングルから写真を撮る。数枚撮ったところで、シャッターが押せなくなってしまった。
 「…っと、フィルム終わったな」
 時計をチラリと見ると、既に2時間近く歩き回っていた。
 「交換がてら、休憩するか」
 「そうだね」
 蕾夏も賛成し、2人は、その巨木から少し離れた所に荷物を置き、ちょうどあった倒木の上に腰掛けた。
 オフシーズンということもあり、他にトレッキング客はほとんど見かけない。標高が高くなってきたせいか、動物もあまり見かけない。ほぼ無風状態の屋久杉の原生林は、驚くほどに静かだった。
 息を吸い込むと、思いのほか冷たい空気が肺を刺激する。呼吸だけで体中の血が浄化されるような、そんな空気に包まれている感じがする。そのキリッとした空気に、2人はなんとなく心地良さを感じていた。

***

 それから、何分が過ぎただろうか。
 「蕾夏?」
 新しいフィルムのセットを終わらせた瑞樹は、そこではじめて、少し離れて座っていた筈の蕾夏が居ないことに気づいた。
 慌てて辺りを見回す。コースがあるとはいえ、この辺りは原生林である。迷い込めば大変なことになる可能性もある。あの好奇心旺盛な蕾夏の事だから、何かに惹かれてつい奥へ踏み入ってしまったのかもしれない。
 カメラを手に立ち上がり、蕾夏の姿を探した。原生林の奥から順々に―――だが、蕾夏の姿は、意外なほど近くで見つかった。
 さきほどの、あの屋久杉の巨木のところに、蕾夏はいた。
 蕾夏、と声をかけようとして、瑞樹は思わずそれを思いとどまった。
 蕾夏は、屋久杉を、抱きしめていた。
 勿論、蕾夏の両腕では、完全に抱きしめる事など不可能だ。屋久杉の幹に貼り付いている、と表現した方が正しいのかもしれない。
 ぴったりと片耳と両手の平を幹の部分につけて―――まるで木の中から聞こえる何かの音に耳をすましているかのように、瑞樹には見えた。これとよく似た姿を、ついこの間、舞と再会したあの公園で、瑞樹は一度見ている。
 ―――何を、しているんだろう?
 声をかけるのも忘れて、見つめる。
 目を閉じた蕾夏は、見たこともないほどに穏やかな表情をしていた。柔らかく口元をほころばせ、幸せそうに屋久杉に身を寄せている。かといって、眠ってしまってる訳ではない。心地よい音楽に聴き入っているような―――そんな感じ。

 ―――トクン。

 蕾夏のその姿を見ていたら、足元から何か、鼓動のような振動が体に伝わった気がした。

 ―――トクン。

 それは、あの屋久杉の、心臓の音。
 おそらく何千年もこの地に根づき生き続けている、あの屋久杉の力強い鼓動。

 植物には心臓も血管もないのだから、心音などある筈もないのだが、何故か蕾夏がそうしていると、屋久杉の力強い脈動が感じられる気がする。それが地面を伝い、瑞樹の中にも流れてくる―――気がする。あくまで「そんな気がする」だけなのだが、そのリアルな感触に、思わず瑞樹はぶるっと体を震わせた。
 ―――“色”が、くる。
 その予感に、瑞樹は無意識のうちに、カメラを構えていた。
 ファインダーを覗いた先には、苔が放つ僅かな緑色の中で木を抱きしめている、白いデニムシャツ姿の蕾夏がいた。緑と白のコントラストの清廉さに、一瞬、撮るのがためらわれる。
 撮りたい。
 この瞬間を切り取って、写真に残したい。
 その思いが許容量を越えた刹那、瑞樹はシャッターを切った。

 「―――えっ」
 その直後、まるでシャッター音が聞こえたかのように、蕾夏がパッと目を開けた。
 暫し瞬き、瑞樹の姿を認めると、急に慌てふためいた。
 「や、やだっ、撮ったの!?」
 「撮ったよ」
 そう言った瑞樹の微笑に、蕾夏の心臓が、一瞬止まった。
 ―――み…っ、瑞樹…!? ど、どうしちゃったの!? なんでこんな笑顔してるの!?
 それは、今まで見たことのない笑顔だった。
 静かで、穏やかで、優しくて…まるで恋人や家族を慈しむみたいな―――愛情いっぱいの笑顔。瑞樹特有のシニカルさが、欠片も残っていない。和臣の癒し系笑顔も凄いと以前蕾夏は思ったが、瑞樹のこの笑顔は、日頃が日頃なだけに、効果は更に強力だ。
 ―――だ、だめだ…クラクラくる。
 「? なんだよ」
 蕾夏の顔が真っ赤になったのを見て、瑞樹が不審そうに眉をひそめた。
 「も、もうそろそろ戻らないと、バスの時間に間に合わないよねっ。早く行こっ!」
 蕾夏は急いで瑞樹を追い抜くと、荷物を掴んで、先に歩き出してしまった。
 瑞樹の方は、何が何だかわからず―――それどころか、自分が笑ったという自覚すらなく―――早足で遠ざかる蕾夏を、呆気にとられて見ていた。が、その妙に焦ってるような態度が可笑しかったので、文句を言わず蕾夏の後を追った。

***

 「―――なぁ」
 まだこちらを見ようとしない蕾夏の少し後ろを歩きながら、瑞樹が声をかけた。
 「何」
 超不機嫌、といった声で蕾夏が返事をする。
 「あれ、何してたんだ?」
 「あれって?」
 「木に抱きついてたやつ」
 まだ少し頬を染めている蕾夏が、チラリと瑞樹の方を見た。何にそれほどうろたえているのか瑞樹にはわからなかったが、蕾夏の困ったような怒ったような表情に、不覚にも吹き出してしまった。
 「―――…ッ、そっ、そんな風に笑う奴になんか、絶対教えないっ!」
 「い、いや、悪い。笑う気はなかったんだ。ククク…」
 「まだ笑ってんじゃんっ!」
 「でもほら、撮ったからには、シチュエイション知りたいのは当然だろ?」
 まだムキになったように睨んでくる蕾夏を、そう言って宥める。多少その言葉に納得がいったのか、蕾夏は小さくため息をつくと、また前を見て歩き出した。
 「―――エネルギー、貰ってたの」
 「エネルギー?」
 「大きな木って、それだけ樹齢が長いでしょ? 私なんて、25年とちょっと生きてるだけでも結構疲れてるのに、何百年もああしてじっと立ってるなんて凄いなぁ、って、尊敬しちゃう。…だから時々、ああやって寄り添う事で、エネルギーを分けてもらうの―――どんな事にでも、ちゃんと一人で耐えていけるように」
 瑞樹は、新鮮な観点に、ちょっと驚きを感じた。
 命の長さを考える時、瑞樹は当然、人間の命の長さの範囲内で考える。大抵の人間がそうだろう。でも蕾夏には、そういう枠組みは無いようだ。人間でも花でも動物でも、それが「命」である以上、蕾夏にとっては同じことなのかもしれない。
 「ね、さっきの屋久杉って、どのくらいの樹齢だと思う?」
 蕾夏の声が、急に弾み出す。瑞樹は、事前に読んだ本などを頭に思い浮かべて、眉を寄せた。
 「そうだな…あの大きさからすると、1000年クラスだな」
 「やっぱりそうかぁ…。私もガイドブックで見たけど、屋久杉の中には4000年もそこに根づいてるものもあるんだって。凄いよねぇ…。そんなに永い間生き続けている生き物なんて、地球上にそんなにいないよ? 人間が作った遺跡よりも前から、あの屋久杉はずっとあそこで、雨にも暴風にも耐えて、朽ちることなく生きてるんだもの。どんな命より、強い命だって思う」
 「…ん…そうかもしれないな」
 「ねぇ」
 それまで前方を向いていた蕾夏の目が、瑞樹の方に向けられた。その目があまりにも嬉しそうにキラキラ輝いてるので、瑞樹は目を離せなくなる。
 「瑞樹には、あの屋久杉の心音、聴こえた?」
 一瞬、息を呑んだ。
 あの時、瑞樹が感じたもの。不思議なほどにシンクロしている言葉―――「心音」。
 「―――ああ。聴こえた」
 「そっか。瑞樹にも聴こえたんだ。良かった。じゃあ…さっきの写真に、きっと写ってるね」
 「何が?」
 「“生命(いのち)”が」
 「―――お前、ほんとにコピーライターの才能ありそうだな」
 時々、蕾夏の言葉は、詩的だ。瑞樹は小さく笑った。蕾夏も悪い気はしないのか、嬉しそうな笑顔のまま、また前を向いた。

 なんだかよくわからないが、蕾夏の機嫌は直ったようだ。瑞樹は、少しためらった後、思い切って口を開いた。
 「…蕾夏。さっきの写真だけど―――もし納得のいく出来だったら、“フォト・ファインダー”の選考会に出してもいいか?」
 その言葉に、蕾夏の足が一瞬止まった。びっくりしたように、瑞樹の顔を見上げる。
 「え…それって、もしかして、あれ? 時田郁夫が審査員になってるカメラ雑誌の…」
 「そう。やっと、撮れなかった物が撮れた気するから、今度こそ送ってみようと思う」
 それは、以前から考えてはいたことだった。
 瑞樹が最も尊敬している写真家・時田郁夫が審査員を務める、カメラ雑誌の一般公募コンテスト。かなり権威のあるもので、プロの登竜門とまで言われている。年に1回あるが、その締め切りが4月末に迫っていた。納得のいく写真が撮れたら一度は出して、賞なんてどうでもいから時田郁夫にその写真を見てもらいたい、と瑞樹は考えていたのだ。
 「被写体としてお前写ってるけど、出しても構わないか?」
 「うん! 全然問題なし! そっかあ…瑞樹の写真、あの時田郁夫に見てもらえるんだね」
 「―――おい。見てもらえるだけだぞ。お前がそこまで嬉しそうな顔するなよ」
 再び歩き出した蕾夏の顔が、さきほどまで以上に嬉しそうなのに驚き、瑞樹は思わずそんな釘を刺してしまった。
 「あはは、そうだけどさ。でも凄く嬉しいんだもの。瑞樹が写真に凄く真剣に取り組んでるのがわかるから」
 「なんでそんなに、俺に写真撮ってもらいたいんだよ」
 瑞樹が眉をひそめてそう訊ねると、蕾夏はスキップに近い足取りのまま、にこやかに答えた。
 「だってさー。写真撮ってる時の瑞樹って、見ててクラクラする位、かっこいいんだもん」
 「―――…」

 ご機嫌状態で登山道を下っていく蕾夏の背中を見送り、瑞樹は最後のセリフを頭の中で繰り返した。

 ―――…あいつ、今、なんて言った?

 知らず知らずのうちに、顔が熱くなる。
 蕾夏はきっと、屋久杉に出会った感動と、時田郁夫に写真が見てもらえるかもしれないという高揚感を引きずっているから、今自分が何を言ったかなんて、全然自覚していないのだろう。
 普段の蕾夏なら絶対口にしないような、赤面もののセリフ―――なのに、言った本人がケロリと笑っていて自分だけがうろたえている、その事実が、どうしようもなく腹立たしかった。

 ―――しっかりしろ、成田瑞樹! 小学生や中学生のガキじゃあるまいし!

 手を口元に置き、瑞樹はなるべく平静を装いながら、蕾夏の後を追った。
 でも、どんなに平静を装っても、耳の中では急激に速まった自分の心音が鳴り響いて、瑞樹を困らせた。


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