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no070:
硝子の境界線
-odai:8-

 

恋人ト、親友ノ、境界線。

―99.05―

 結婚式当日は、式にうってつけの晴天だった。
 式は午後5時から。レストランの中の教会で式を挙げた後、そのままレストランでの立食パーティーに流れる、いわゆる「レストラン・ウエディング」形式である。
 「あ、いたいた、蕾夏ちゃん」
 レストラン内のパティオで、手持ち無沙汰にウロウロしていた蕾夏を見つけ、佳那子が声をかけてきた。ベージュの上品なタイトワンピース姿は、パンツルックの佳那子を見慣れているのでなかなか新鮮だ。
 「こんにちはー。奈々美さん、もう用意できてる?」
 「バッチリよ。あの子の高校時代の同級生に、今プロのメイクアップアーティストになってる子がいてね。メイク関連は全部彼女まかせ。変身ぶり見たら、惜しいことしたって泣く連中多いんじゃないかしら」
 「へえぇ、楽しみ。佳那子さんも、やっぱりその服にして良かったね。大人の女ー、って感じ」
 「あらま。ありがと。蕾夏ちゃんも綺麗よ。やっぱり黒の方がキリッとして凄みのある綺麗さになるわねぇ」
 佳那子の服と蕾夏の服は、2人で結婚式用に服を買いに行った時、お互いに見立てた物だ。普段着る事の少ない色を佳那子は頻りに蕾夏に勧めたのだが、結局蕾夏が選んだのは、黒のノースリーブのワンピースだった。ハリと光沢のある素材ではあるが、それでは地味だから、と黒地にベージュピンクと緑を織り込んだショールを、佳那子が選んでくれた。
 「久保田さんと瑞樹は?」
 「久保田は神崎の付き添い状態よ。神崎、緊張で吐きまくって大変。新婦のナナの方が落ち着いてるんだから世話ないわよ。成田はカメラのチェックしてたみたい。レストランにいたわよ」
 「そっか。今日ってカメラマン役だもんね…ちょっと見てくる」
 蕾夏は、レストランの中に入り、ウェイターが準備に追われてる中で瑞樹を探した。
 今日は瑞樹はカメラマン役を仰せつかっていて、多分式の間もパーティーの間も、客としてのんびりしてる時間は無いだろう。今会っておかないと、次に話せるのは帰る時だけかもしれない。
 瑞樹は、出入り口に近い場所の椅子に座って、レンズを選んでいた。今日はライカM4ではなく、普段会社に持って行っている一眼レフの方のようだ。趣味より利便性を取ったのかもしれない。
 元々、招待状に「楽な服装で」と書いてあったこともあって、瑞樹もブラックフォーマルなどは着ていなかった。ビジネス用ではないが、一応上下揃っている暗い色のスーツを着ている。が、スーツ姿自体滅多に見ないので、いつもと少し違った感じの瑞樹に、蕾夏は一瞬だけ声をかけるのをためらった。
 「瑞樹」
 声をかけると、少し長めの前髪から、ダークグレーの瞳がこちらを覗いた。こういう瞬間は、いつも一瞬心臓が止まりそうになる。
 「準備できた?」
 「あー…まぁ、こんなもんかな。どうせ距離は知れてるから、標準レンズ1本でいけるだろ」
 カチャッ、という音をたててレンズをカメラにセットすると、それ以外をカメラバッグに仕舞っていった。
 「ねぇ、奈々美さんのウェディングドレス姿、もう見た?」
 「見た。後姿撮れって言われて、呼ばれた」
 「嘘っ。どうだった?」
 「…化けてたな。女ってこえぇよ。服装やメイクで、簡単に別人に化けるからなぁ…」
 カメラバッグを勢いよく閉じると、瑞樹は手にした一眼レフを構えた。
 「カメラテスト。ちょっとそこ、立ってみろ」
 「えー…まだフィルム入ってないよね?」
 「大丈夫、入ってない」
 しぶしぶ、レストランとパティオの境目あたりに、外の光を背にして立った。
 カメラのレンズがこちらを向くと、思わず緊張してしまう。カメラが怖い訳ではない。その向こう―――瑞樹が、あの眼差しで自分を見てるかと思うと、眩暈で立っていられなくなりそうになるから。落ち着かない様子で立つ蕾夏は、どうしてもカメラの方を見られなかった。
 「えーと…カズ君、大変みたいだね」
 「いや、知らねぇ。カズ、どうしたって?」
 「なんか、緊張して吐いちゃってるみたい。久保田さんが付き添いしてるみたいだけど、奈々美さんの方が落ち着いてるって言ってたよ。やっぱり女の人の方が、いざとなると度胸あるのかなぁ…」
 「かもな。ちょっと回って」
 言われたとおり、くるりとターンする。肩にかけたショールがふわりと翻った。
 「…なんだ、もっと露出多い服かと思ったのに」
 「は!? なにそれっ!」
 「いや、あっちにいる人なんか、とてつもない露出の服着てるから」
 と、カメラを下ろした瑞樹が指差した方を見ると、最近流行りの背中が大胆に開いたタイプのドレスを着てる女性が目に入った。あまりに肌の面積が広いので、同性である蕾夏の方がたじろいでしまう。
 「あ、あれは、あの人には似合うけど、私には無理だって」
 「だろうな」
 ふっと笑って瑞樹が口にした言葉に、さすがにカチンときた。
 「…瑞樹、それ、結構失礼だってわかって言ってる?」
 目を眇めて蕾夏が言うと、瑞樹は一瞬目を丸くした後、くっ、と笑った。
 「ばーか。あんなの着なくても、お前の方が―――…」

 言いかけた言葉を、瑞樹は、すんでのところで飲み込んだ。
 バツが悪そうに目を逸らすと、少し乱暴にカメラバッグをまた開けた。
 「―――やっぱり、会場全体撮るのに、広角レンズも用意しといた方がいいよな」
 蕾夏も、少し顔を赤らめて、ぷいと横を向いた。

 最近、時々ある、この浮遊感。
 甘すぎて、流されてしまいそうになる。気づかないふりをし続けるのが苦痛になる。
 1歩踏み出せば簡単に超えられてしまう位、今の2人の中の“友達”と“恋人”の境目は、(もろ)くて、弱い。揺さぶられてぐらつく度、蕾夏はそれを感じていた。

***

 「バテてんなぁ…お前」
 「―――式始まるまでには、なんとか復活してみせる」
 額に濡らしたタオルを乗せて控え室のベンチに横たわっている和臣を見下ろして、瑞樹はやれやれ、という顔をした。久保田と佳那子が受け付けの係をしなくてはいけないので、付き添いを交代したのだ。
 「支度できた奈々美さんをちょっと見に行ったら、急に緊張しちゃってさぁ…。おかしいなぁ、昨日まではオレより奈々美さんの方が“眠れそうにない”とか言ってたんだよ?」
 「いざとなると、女より男の方が度胸がないんだろ」
 スタンダードなモーニング姿の和臣は、日頃の半分以下のテンションでぐったりしている。顔も蒼褪めているが、こんな状態で式が挙げられるのだろうか。
 「でも、成田も見た? 奈々美さんのウェディング姿。すんげー綺麗でしょ」
 「…そこまで強調するほどじゃねーけど、化けてたよな」
 「あっ、ひどいっ、人の奥さんに向かってっ。…お、奥さんかぁ…緊張するなぁ、この呼び方も」
 「―――自分で言って自分で緊張すんの、やめろよ」
 付き合ってられるか、という風に和臣を睨み、瑞樹は視線を遠くに移した。

 ―――そう、女は、化けるから厄介なんだよな…いろいろと。
 ついさっき、蕾夏に会った時の事を思い出して、瑞樹は小さくため息をついた。
 日頃の蕾夏は、瑞樹以外の前では常に隙を作らず、優しげな笑みの中で巧みに相手と距離を置いている。瑞樹の前では、本来持っている子供のような素直で真っ直ぐな面を曝け出す―――でも、そのどちらの顔にも“女”である蕾夏の顔はほとんど無い。だからこそ、“親友”というただそれだけの関係を、なんとか保つ事ができている。
 でも、今日の蕾夏は、かなり危ない。
 ファインダー越しに見つめた先の蕾夏は、いつも瑞樹に見せる顔よりも凛としていて、いつも他人に見せる顔よりも柔らかくて―――酷く、魅惑的に見えた。気を抜いたら、本能のまま抱きしめて、本音をぶつけてしまいそうなほどに。
 蕾夏の方から手を差し出すまでは待つ、と、それだけは決めていた。でなくては、蕾夏はきっと辻を思い出して、身を竦ませて逃げてしまうから。まだ、早すぎる―――グラつく心に、そう言い聞かせた。

 「あっ、ヤバイ」
 横たわっていた和臣の緊迫したような呟きに、瑞樹は我に返った。
 見れば、和臣は慌てたように身を起こし、服装を整えていた。まだ顔は青白いので、気分が良くなった訳ではないだろう。
 「どうした?」
 「うん…あのさ。あそこにいる女の人」
 何故かひそひそ声で、和臣が目配せする。その指し示す先を見ると、例の露出過多なドレスを着た女性が、少し先の廊下で、奈々美の母と話をしていた。
 「あの女が、何」
 「奈々美さんのお姉さんの、沙弥香さん。オレと奈々美さんの結婚に、まだいい顔してないんだ。オレ、嫌われてるのかもしれないから、こんな姿見せられないよ」
 「木下さんの姉貴か。似てねー…」
 「あれで結婚してて、しかも子持ちなんだよ。信じられる?」
 ―――あれで?
 思わず眉をひそめた。
 別に露出過多な服装をしているからではない。実は、全く別の理由で、瑞樹は彼女に悪印象を抱いていた。
 蕾夏が現れる少し前、カメラの準備をしている瑞樹に、彼女は馴れ馴れしく声をかけてきたのだ。一切無視していたら離れていったが、蕾夏と話している最中も、何度か刺すような視線を感じた。
 ―――旦那も子供もいる癖に、妹の結婚式で何やってんだよ、あの女。
 「なんかやらかしそうで、怖いんだよねぇ…。成田もさ、沙弥香さんには注意しといて。騒ぎ起こして、パーティー滅茶苦茶になったら、奈々美さんが可哀想だからさ」
 眉を寄せてそう言う和臣に、その火種が自分になる可能性がありそうだ、とは、さすがに言えなかった。

***

 「うわあ…奈々美さん、別人…」
 「木下とカズの背のバランスがいつもと違う…一体、何センチヒール履いてるんだよ」
 「貸衣装屋で一番高いヒール選んだのよ。普通に歩けるようになるまで大変だったんだから」
 バージンロードに現れた奈々美を見て、完全にゲストに徹することのできる久保田と佳那子、そして蕾夏が、それぞれ小声で批評をした。
 奈々美のドレスは、少しでも背が高く見えて和臣と釣り合いがとれるように、と佳那子が見立てた、ボリュームが抑え目のスラリとしたフォルムのドレスだった。メイクのせいか、普段は童顔さが目立つ顔も、女性らしく大人っぽく見える。和臣の方は極々スタンダードな白のモーニング。似合っているが、いかんせん顔色が悪いのが目立つ。式さえ終われば元気になるとは思うが、直前まで付き添わされた久保田は、途中で倒れるんじゃないかと、気が気ではなかった。
 蕾夏だって、純白のウェディングドレスには憧れる。レースとかヒラヒラは正直苦手だが、一生に一度位なら、ああいう舞台衣装のようなもの凄い服装をやってみてもいいな、という気持ちはあるのだ。いいなぁ、という顔をしながら、バージンロードを進む奈々美を見ていたら、隣の佳那子がクスリと笑った。
 「目が夢見ちゃってるわよ、珍しく」
 「佳那子さんだって」
 「…まぁ、良かったわよね。コンピュータ相手に無味乾燥な仕事してる私たちも、やっぱり普通の女性だったのね、って確認できたから」
 それを聞いて、佳那子の更に向こうで、久保田が落ち着かないような顔をしている。その様子が可笑しくて、蕾夏もクスリと笑った。
 新郎新婦が揃って牧師の前に進んだ所を、瑞樹が斜め前から写真を撮っていた。そういえば、あまり人を撮らない瑞樹だが、今日の被写体は大半が人間だ。大丈夫なんだろうか、と、蕾夏は少し心配になった。
 いよいよ牧師の説教が始まり、全員、居ずまいを正す。が、説教が始まった途端、佳那子がうろたえたように眉をひそめた。
 「ちょ…ちょっと、まさか、全部英語?」
 「…ああ、そういえばあの牧師さん、目や髪は茶色いけど、白人だね」
 「外国人牧師でも日本語でやったりするじゃない。ナナ、英語全然ダメなのに、大丈夫なのかしら」
 「リハーサルやってる筈だから、大丈夫でしょ」
 牧師の説教も、コリント人への手紙の朗読も、ひたすら英語で続く。新郎新婦は、何を言われているかわかってるのかわかってないのか、ずっと微動だにせずに、それを聞いていた。
 参列者も、大半が言われている事を理解できずに立っていたが、「誓いの言葉」の聞きなれたフレーズが出てきて、一同ようやく安堵した。
 「Kazuomi, you have taken Nanami to be your wife. Will you love her, comform her, honor and keep her, in sickness and in health, and be faithful to her as long as you both shall live? (和臣、あなたは奈々美を妻とし、彼女を愛し、敬い、慰め、助け、病める時も健やかなる時も、どんな時でも命ある限り誠実に尽くすことを誓いますか?)」
 こういう場合は、「I will.(誓います)」と答える筈だよな、と蕾夏が思っていたら、和臣の返事は違っていた。
 「は、ははははははいっ、誓いますっ」
 「―――頼むよ…」
 そう呟いた久保田と、祭壇脇で控えている瑞樹が、同時に「あーあ、やっちゃったよ」という表情をする。佳那子は小声で「やると思ったわよ…」と諦めたような声で呟いた。参列者のあちこちから小さな笑い声が聞こえてきて、蕾夏は自分の事のように冷や汗をかいてしまった。
 笑いをかみ殺しているのか、奈々美の後姿も、微かに肩が震えている。奈々美の方は、ちゃんとセオリー通り「I will.(誓います)」と答えた。
 ―――病める時も健やかなる時も…命ある限り、かぁ…。
 指輪の交換をする和臣と奈々美をぼんやり眺めつつ、誓いの言葉を頭の中で復唱しながら、蕾夏は不思議な感慨を覚えた。どんな時も、奈々美に対する気持ちにだけは迷いが一切なかった和臣には、ぴったりな言葉だと思う。“命ある限り”―――それほどの想いを持てる2人が、羨ましく思えた。

 誓いのキスに宣誓書への署名、と式は無事に進み、新郎新婦は退場してしまった。
 「あれ? ねぇ、ライスシャワーってやらないの?」
 拍手しながら振り返った蕾夏は、佳那子を見てギョッとした。
 「か、佳那子さん!? なんで泣いてるの!?」
 「…あら、ほんとね。なんで泣いてるのかしら」
 佳那子は、拍手をしながら、ボロボロ涙を流していた。手にはしっかりハンカチを握り締めているので、泣く事は一応予想済みだったのかもしれない。
 「佐々木は、感情変化のレベルが一定の度を超えると、自動的に泣くんだよ。気にしないでやってくれ」
 苦笑する久保田に、蕾夏も苦笑を返した。そう言えば、少し前、和臣が口を滑らせたことから、蕾夏がちょくちょく瑞樹の家にお邪魔している件が佳那子にバレてしまったのだが、その時もお説教の途中で顔を真っ赤にして目に涙を浮かべていた。あの時も、感情変化のレベルが一定の度を超えたのだろう。それにしても「自動的に泣く」とは凄い表現だ。
 結局、ライスシャワーは、レストランのパティオで行われた。ただし、最近の流行なのか、投げられたのは米ではなく、バラの花びら。フラワーシャワーというらしいが、こんな風習あったかな、と蕾夏は首を傾げた。
 ブーケ・トスもあったが、「佳那子さんに投げて!」という蕾夏と「蕾夏ちゃんに投げて!」という佳那子の板ばさみになった奈々美は、思い余って久保田にブーケを投げてしまった。
 結果、真っ白な百合の花のブーケを持った久保田の困り顔が、瑞樹のカメラにおさめられてしまった。
 「…消してくれ」
 「デジカメじゃあるまいし、無理だろ」
 肩を震わせて笑う瑞樹に、久保田は力なくうなだれた。

***

 ―――俺、もしかして、披露宴終わるまで自分のテーブルにはほとんど戻れねーのかも…。
 フィルム交換をしつつ、瑞樹は眉を顰めた。ペンで「2」という文字を交換の終わったフィルムの側面に書き付ける。今入れたのが3本目。一応7本準備してきたが、足りるだろうか。
 「ごめんね、成田君。カメラマン役、結構大変なんじゃない?」
 立食パーティーなので、新郎新婦もほとんど席に着いていない。乾杯直後のせいか、手にシャンパングラスを持った奈々美が近づいて来て、済まなそうに瑞樹の顔を覗き込んだ。さっきと同じウェディングドレス姿だが、一応お色直し代わりなのか、動き難い長いヴェールを取り払って、生花を髪にあしらっている。
 「大丈夫。割にあわないところは、カズに今度おごらせるから」
 「あら。今日からは私と同じ家計なんだから、あまり高いものだったら却下するわよ?」
 シビアなセリフに見えて、これもさりげなくノロケが入っている。はいはい、と軽く流しているところに、和臣が割って入った。
 「なーりーたー。人の奥さん捕まえて、なに話し込んでるんだよっ」
 ―――入籍までしておきながら、まだこういう事言うのかよ。
 多少うんざり気味に、瑞樹は和臣を睨んだ。
 「いい加減お前、落ち着けよ。結婚式で花嫁に色気出すようなバカ、いる訳ねーだろ」
 「ばかっ。結婚しようがしまいが、心配なもんは心配なんだよっ。成田は本気で女好きになった事ないから、こういう繊細で傷つきやすい気持ちはわかんないんだ」
 「…うるせーよ」
 「え? 成田君、本命の女の子、居た事ないの?」
 避けたい話題に、奈々美が乗って来てしまった。逃げるが勝ちだ、と思った瑞樹は、早々に引き揚げることにした。
 「じゃ、俺、適当に客撮ってくるから」
 「あー! ちょっとちょっと待って、成田!」
 立ち去ろうとする瑞樹を、和臣は咄嗟に腕を掴んで引き止めた。
 「行く前にさ、オレと奈々美さんのツーショット撮ってよ」
 「ツーショット?」
 「うん。ヴェール被ったやつは、教会専属のカメラマンさんが撮ってくれたけど、この格好はまだなんだ。成田にはスナップお願いしてるけど、1枚位記念撮影っぽいのあってもいいだろ?」
 不意打ちな注文に、思わず、肩が強張った。

 記念撮影―――ポートレート。
 無理だ、と瑞樹の中の何者かが拒否反応を示す。プロではないのだから、苦しい思いをしてまで撮る事はない。あんな思いは二度と御免だ、と。
 その一方で、もう一人の何者かが、こう諭す―――今、この場にいるお前は、アマチュアとはいえ「カメラマン」なのだから、撮れと言われたら撮るべきなんじゃないのか? 苦手だからと言って逃げていいのか? ―――と。
 それに、少なくとも和臣は、間違いなく信頼できる友人だ。もしかしたら―――大丈夫かもしれない。

 「成田…?」
 ものの数秒の沈黙だったが、たかが写真1枚に表情を微妙に変えた瑞樹を不審に思い、和臣が声をかけた。その声に我に返ったかのように、瑞樹は微かに笑みを浮かべ、カメラを構えた。
 「…ああ、悪い。じゃ、そこに立てよ」
 「う、うん」
 瑞樹の指示を受けて、和臣と奈々美は、新郎新婦席の前に立った。自然、和臣が奈々美の肩を抱く形になり、柔らかく微笑む。
 ポーズが決まるのを見届け、瑞樹は最後に少しだけためらった後、思い切ってカメラを目の高さに構え、ファインダーを覗き込んだ。
 透明なレンズ越し、四角く切り取られた世界の中に、ピントの合っていない2つの影が見えた。ポートレートである事を意識するより前に、手が自然とピントを合わせる動作をしてしまう。
 くっきりとした画像。それは―――瑞樹もよく知っている、幸せそうな1組のカップル。
 なのに―――…。
 そのレンズ越しに、2人の視線と目が合った途端、瑞樹の背中を冷たいものが通り抜けていった。
 強烈に感じる、焦り。ぶつかった視線の先にある、和臣や奈々美の感情を感じ取るのが怖い。「何か」を感じ取る前に目を逸らさなくては―――その思いが強すぎる。
 瑞樹は、ファインダーの中の像をしっかり確認することも忘れて、思わず性急にシャッターを切ってしまった。
 シャッターボタンから指が離れると同時に、目を上げ、溜めていた息を吐き出す。こめかみが、ズキズキと脈打っていた。
 「ありがとー、成田君。…大丈夫? 顔色悪いけど」
 表情を曇らせる奈々美に、瑞樹はなんとか普通の表情を返した。だが、そんな表情とは裏腹に、瑞樹の手足は、傍目にはわからないものの、微かに震えていた。

***

 「あ、このシャンパン、なかなかいけるわね」
 「ふーん。こういうお洒落な店はノーチェックだったな。覚えておくか」
 シャンパンの吟味で盛り上がる久保田と佳那子をよそに、蕾夏は先ほどから、新郎新婦席の方に目を奪われていた。
 蕾夏の視線の先では、奈々美の肩を抱くようにした和臣を、瑞樹が撮ろうとしている。
 ―――ポートレートだよね、あれ。
 瑞樹がポートレートを極端に嫌う事は、蕾夏もよく知っていた。"猫柳"の先輩に無理矢理撮らされそうになった時の記憶は鮮明だし、公園などでたまにカメラを持った人に「シャッター押してもらえませんか?」と記念撮影を頼まれる時も、必ず断っているからだ。
 撮るのだろうか? ―――思わず息を詰めて見つめていると、聞こえる筈のないシャッター音が、耳元で響いた気がした。
 撮ったんだ、と直感する。だが、蕾夏は何かしら違和感を覚えていた。
 ―――違う。
 撮ったけど、撮ってない。上手く表現できないけど―――瑞樹は今、撮らなかった。
 瑞樹は、礼を言っているらしい2人に軽く返事をして、そのままレストランのガラス戸を抜けて、パティオへと出て行ってしまった。嫌な予感に、蕾夏の胸の中がざわつく。
 「蕾夏ちゃん、どうかした?」
 佳那子に声をかけられ、蕾夏は慌てて振り返った。不審そうな顔の佳那子と久保田の顔を見て、蕾夏は慌てて笑顔を作った。
 「ちょ…ちょっと、疲れちゃったみたい。少し外出て、空気吸ってきていいかな」
 2人にそう断りを入れ、蕾夏は、パーティーの邪魔にならないよう、一番後ろのガラス戸からパティオへと出た。


 外はすっかり日も落ちていた。パティオは、店内の灯りで半分位はほのかに照らされているが、あとは街灯が1、2本程度で、なかなか落ち着いたムードになっている。
 「―――蕾夏?」
 瑞樹を探そう、と思った矢先、先に瑞樹に見つけられてしまった。
 声のした方を振り返ると、レストランの外壁にもたれかかっている瑞樹がいた。カメラを傍らの金属製のオブジェの上に置いて、腕組みしている。
 「どうした? 気分でも悪くなったか?」
 「ううん。瑞樹が出て行くのが見えたから」
 思ったよりは普通な状態の瑞樹に少しだけ安堵し、蕾夏は瑞樹の所へと歩み寄り、その隣に立った。夜風が思いのほか冷たくて、思わずショールをしっかりとかき寄せる。
 暫し無言で、人ごみに疲れた体を夜風にさらした。
 音のない空間が、なんとなく心地良い。この時間を壊したくはなかったが、蕾夏はあえて口を開いた。
 「―――さっき、ポートレート、撮ってたね」
 単刀直入に話を切り出すと、瑞樹が少し驚いた目を向けた。
 「見てたのか?」
 「うん」
 「…まいったな」
 苦笑とも自嘲ともつかない笑いを浮かべ、瑞樹は俯いた。小さくため息をついて髪を掻き上げると、瑞樹らしくない弱い笑顔を蕾夏に向ける。
 「訊かねぇの?」
 「何を?」
 「なんで、ポートレートが撮れないか」
 蕾夏の視線が、一瞬、迷うように揺れた。
 勿論、訊きたい。でも蕾夏は、首を横に振った。
 「何で」
 「瑞樹、話したくなさそうな顔してるもの」
 「……」
 瑞樹の目が、少し動揺したような表情に変わる。
 「…私も、待つ。瑞樹が話したくなるまで、待つことにした」
 ―――瑞樹が、私が限界になるまで待ってくれたように。
 口には出さなかったが、そういう思いをこめた。

 無理にこじ開けて話させたくはない。そうされる辛さを、自分自身が一番良く知っているから。
 蕾夏に「その日」があったように、瑞樹にもきっと「その日」が来る筈だ―――もう一人では抱えきれず、どこかへ吐き出したくなる日が。その時受け止める人間になれれば、それでいい。

 「……?」
 ふいに、肩が温かくなって、蕾夏は少し顔を上げた。
 瑞樹が、蕾夏の肩に手を回して、緩やかに抱き寄せていた。それに気づき、蕾夏は思わず息をつめた。
 もう一方の手が、ゆっくり、蕾夏の髪を撫でていく。自分の髪越しに感じるその優しい感触に陶酔しそうになり、引き寄せていたショールを、更にぎゅっと握り締めた。
 心臓が、どうしようもなく暴れる。逃げ出したい訳じゃないのに、無意識のうちに瑞樹の腕の中で身じろぎしてしまう。逃げても構わない、とでも言いたげな緩やかな抱きしめ方が、余計に心臓を暴れさせる。
 「…み…瑞樹…?」
 「―――なに?」
 「瑞樹……」
 何をどう訊けばいいのか、わからない。
 違う―――訊く必要などない事だから、訊く事ができない。訊かなくてもわかる。これが、何を意味してるのか。

 髪を撫でた手が頬にかかった時も、抵抗はおろか、一言も発することができなかった。操られたみたいに、瑞樹の方を向く以外、何もできない。
 瑞樹と目が合って、心臓が、止まった。
 その一瞬をつくように、唇が重ねられた。
 優しく―――あくまでも、優しく。感触を確かめるかのように、ゆっくりと。
 優しすぎて、切なすぎて、泣きたくなる―――髪を梳く指先も、肩に回った腕も、強張ってしまいそうな手足を溶かしてしまう。気づくと、蕾夏の頬に、本当に涙が一筋流れ落ちていた。

 名残惜しそうに唇を離すと、至近距離にあるダークグレーの瞳が、本心を探るように蕾夏の目を覗き込んできた。
 「―――こういう事すると、もう信用できないか?」
 「……」
 「お前の中に、恋人の俺は、1パーセントも居ない?」
 蕾夏の瞳が、大きく揺れた。

 ―――居ない訳が、ない。
 それどころか、こういう事をされるたびに、だんだん増えていく―――今では、どこまでが親友で、どこからが恋人か、その境目も曖昧なほどに。
 でも、最後の1歩を踏み出す勇気が、まだ持てない。“親友”という立場を失うのが怖い。

 「―――し…親友、は? …辞めなくちゃいけないの?」
 縋るように思わずそう訊ねると、瑞樹はふっと笑い、蕾夏の髪をもう一度撫でた。
 「恋人は、親友になれないのか?」
 思いがけない言葉に、蕾夏は目を丸くした。
 「親友の俺は居なくならない。恋人の俺が増えるだけ―――それでも、駄目か?」
 ―――恋人の瑞樹が、増えるだけ?
 考えが、上手くまとまらない。蕾夏は、動揺したような目で、瑞樹の目を見返すことしかできなかった。

 瑞樹は、もう一度だけ蕾夏の髪を指先で撫でた後、肩に回した腕を離した。
 蕾夏の答えは最初から求めていなかったのだろうか、傍らに置いたカメラを手にし、瑞樹は蕾夏に背を向けてしまった。
 「風邪ひくから、早く中に戻れよ」
 振り向きもせずにそう言い残して去って行く瑞樹に、結局蕾夏は、何ひとつ言うことができなかった。
 ただ、自らの腕をぎゅっと抱きしめて、自分の中の何かが確実に突き崩されていくのを、微動だにせずに感じ続けていただけだった。


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