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薄灯りに浮かび上がるパティオを眺めつつ、瑞樹が思い出していたのは、何故かあの4歳の夏祭りの記憶だった。
海晴の小さな手を握り締め、何度も道に迷いながら帰った、真っ暗な夜道。海晴の手に握られたこんぺい糖が、小瓶の中で小さな音を立てていた。森に捨てられたヘンゼルとグレーテルってこんな気分だったんだろうか、とぼんやり考えていたのを覚えている。
帰り着いた家には、鍵がかかっていた。父は仕事でまだ戻らない。海晴と身を寄せあって、玄関先にうずくまって、父か母が戻ってくるのを待った。
どの位、待ったのだろう? ―――とてつもなく長い時間に感じられた事だけは、間違いない。
こんぺい糖を2人で分け合って食べて、海晴が泣きそうになると、知っている限りの御伽噺や童話を並べ立てた。長い長い漆黒の闇の中の時間、そうやって2人で時を過ごした。
先に帰ってきたのは、母の方。
ごめんね、と言いはしたが、瑞樹と海晴がこの数時間どんな思いで過ごしていたかについては、母は一言も訊ねなかったし、触れなかった。
そのかわりに、瑞樹にこう耳打ちした。
「お願い、お父さんには、内緒にしてね」
その日を境に、瑞樹が得意になったことは、歩きながら道順を覚えること、海晴が泣かないよう宥めること、そして、秘密を守ること。
その日を境に、瑞樹ができなくなったこと―――それは、甘えること、泣くこと、…そして、愛情を欲しがること。
求めても貰えないとわかりきっているから、傷つくのを避けるために、本能的に欲しがらなかった。
たった4歳の瑞樹の、ささやかな自己防衛手段。それが、「何も期待しない」という事だった。
―――そんな事を、考えていたからなのかもしれない。
まだ早い、と、あれほど自分に言い聞かせていたのに―――どうしても、止めることができなかった。
***
「休憩中?」
フィルム交換をしながら、少しぼんやりしていた瑞樹は、ふいに声をかけられて、思わず顔を上げた。
―――げ。またこいつかよ。
顔を見た瞬間に、げんなりした。
奈々美の姉、沙弥香だ。こうして声をかけてくるのは、今日何回目だろう? いい加減、周囲の視線に気づいて欲しいものだ。
声を無視して、瑞樹は交換し終えたフィルムの側面に、無言で「5」と書き付けた。
「全然食べてないんじゃないの? オードブルか何か取って来ましょうか?」
「食べたければ、自分で取るから」
「…あら、そう」
そっけない瑞樹の返事に、沙弥香は面白くなさそうにシャンパングラスを傾けた。さっさとその場を立ち去ろうとしたら、沙弥香のため息混じりの声が追いかけてきた。
「あーあ。早く終わんないかな、こんなパーティー。親がうるさく言うから渋々来たけど、最低。ねぇ、終わったら一緒に飲みに行かない? 1人で九州から来てるから、今晩暇でしょうがないのよ」
「…あんたさ」
うんざりした顔で振り向き、瑞樹は半ば睨み加減で沙弥香を見た。
「妹の幸せが、そんなに妬ましい訳?」
やたら細く描かれた沙弥香の眉が、プライドを傷つけられた、とでも言うように、微妙に歪んだ。
「誰が妬んでるって言うのよ」
「自分の胸に訊けば? 面白くねーなら、1人で帰んな。もう声かけてくんなよ」
もう少し言いようもあった気がするが、今はそんな事に気を回すだけの余裕がない。かなりぶっきら棒に言い捨て、瑞樹は沙弥香に背を向けた。
―――全く…格下だと思ってた妹が自分の旦那より上の男を連れてきたからって、あの態度はないだろ。
一時期、中本の件で奈々美の相談に乗る羽目になっていた瑞樹は、詳細を知らずとも、大体の背景は推測できた。奈々美が事ある毎に「私なんか」と口にした理由は、多分あの極端に自意識過剰な姉が原因だろう。奈々美主役のパーティーなど面白くもないのに、親に説得でもされて不本意ながら出席している、瑞樹にちょっかいを出しているのはその憂さ晴らし、といったところだろうか。
それにしても、何故自分に声をかけてくるのだろう? 「こんなパーティー抜け出しちゃわない?」とも言われたが、カメラマンがパーティーの途中で抜け出せる訳がないこと位、少し考えればわかるだろうに。
第一 ―――パーティーの途中だろうが後だろうが、誰かと飲む気になどなれない。今日に限っては。
無意識のうちに、ほとんど戻っていない自分たちのテーブルに視線を向ける。
蕾夏は、いつもと変わらない微笑で、久保田や佳那子の話に相槌をうっていた。が、手に持ったオードブルの皿には、さっぱり手がつけられていない。そんな小さなところに、蕾夏が心ここにあらずな状態なのが見てとれる。
小さくため息をつき、瑞樹は目を逸らした。
ポートレートを撮ったりしなければ、平静を取り戻そうと外に出たりしなければ、それを蕾夏が追ってこなければ―――いろんな「もしも」は思いつくが、そんな事を言っても仕方ない。
早まった、と後悔しても遅いのだし、理性を総動員したってあの場で踏み止まる事ができたとも思えない。カラカラに喉が渇いているところに水を差し出されれば、その誘惑に勝てる筈はない―――さっきは、まさにそんな状態だったのだから。
瑞樹は、襲ってくる雑念を振り払うように髪を掻き上げると、「カメラマン」役に集中することにした。
***
―――なんか、視線を感じるなぁ…。
半分上の空で佳那子の話に相槌をうちつつ、蕾夏は、背中を刺す視線が気になって仕方なかった。
瑞樹ではない。瑞樹はさっき、少しだけこちらを見て、また写真を撮るために動き出してしまった。では、この視線は、誰なのだろう?
「…なぁ、藤井さん」
「え?」
真向かいに立つ久保田が、怪訝そうに眉をひそめながら、佳那子の話に割って入った。
「木下の姉さんと、何か話した?」
「奈々美さんのお姉さん? ううん、全然」
「ちょっと前から、藤井さんの事、ずっと見てるんだけど…」
唐突な話に、蕾夏も眉をひそめた。チラリと背後を窺うと、例の大胆なドレスを着た美人が、確かにこちらを見ていた。
―――あの人、奈々美さんのお姉さんだったのか。知らなかった。
もしかして、あからさまな目で見てしまっただろうか―――ふと、不安になる。
彼女は、パーティーが始まってから今まで、何度となく瑞樹に声をかけていた。しかもその度に、真っ赤なマニキュアが目立つ手を、必ず瑞樹の肩に置く。写真をお願いしているとかそういう類の会話でない事は、一目瞭然だ。
蕾夏は、それを目撃する度、なんとも言えない気分の悪さに陥っていた。そう…以前、公園で舞に出会った時に感じたのとよく似た気分の悪さを。
自分とは、明らかに正反対なタイプ―――“女”を武器に男を魅了するタイプの女性。そういうタイプが、瑞樹に馴れ馴れしくする場面を見たくない。舞も、奈々美の姉だという彼女も、まさにそのタイプだった。
この気分の悪さの正体を、蕾夏は既に理解している。
これは、「嫉妬」だ。
生理的嫌悪感を覚えながらも、心のどこかに、自分の中の“女”を当たり前のように受け入れている彼女たちを羨ましく思う気持ちがあるから、そういう女性が瑞樹に馴れ馴れしくすると、余計に神経を逆撫でされるのだ。
そんな暗い感情を味わいたくなくて、蕾夏はなるべく目を逸らすようにしていた。でも―――もしかしたら、ほんの一瞬、無意識に嫌悪の目を見せてしまっていたのかもしれない。それ以外、全く言葉を交わした事のない相手にこうも見られる理由など、思い浮かばなかった。
「ああ…、沙弥香さんね。なんか、今日機嫌悪いみたいだから、触らぬ神に祟りなし、よ。ナナの結婚に反対してたみたいだから、そのせいかもね」
以前から沙弥香を知っている佳那子は、そう言って眉根を寄せた。どうやら佳那子は、前々から沙弥香にはあまり良い印象を持っていなかったらしい。
「はーい。ケーキのデリバリーで〜す」
3人が不審の目で沙弥香を眺めているところに、和臣と奈々美が、ワゴンを押してやってきた。ワゴンの上には、適度な大きさにカットされた真っ白なケーキが、1人前ずつ皿に分けて乗せられていた。
「あー。やっと来たのね、最初にカットしてたウェディングケーキ。長かったわ」
「ふふふ。前のテーブルでちょっと長居しちゃったから」
手際よく皿を並べながら、奈々美は佳那子に笑顔を見せた。いわゆるキャンドルサービスなどの代わりに、ウェディングケーキを新郎新婦が配る趣向らしい。この方がアットホームでいい、という事で設けたイベントだという。
「前のテーブルって、カズの両親とかのテーブルだろ。お袋さん、どうなった?」
反対しているのを聞いていた久保田が、自分の前に皿を置いた和臣を肘でこづいた。すると、和臣は、久保田直伝のにんまりとした笑いを浮かべ、小さくOKサインを作ってみせた。
「全然問題なし! やっぱり、父さんが奈々美さんを気に入ったのが大きかったよね。金沢でせっせと説得工作に出てたみたいで、今日は完全に諦めモードだよ」
「私、今日初めてまともな挨拶交わしたのよ? ふつつかな息子ですがよろしく、って」
奈々美も明るい笑顔を見せる。
「これで残るは、沙弥香さんだけだよね…」
少し表情を曇らせて和臣が言うと、奈々美は大きなため息をついて、首を振った。
「いいの、お姉ちゃんはもう。何が気に入らないんだか説明する気もないんだから、ほっとけばいいのよ。さっきから成田君にべたべたべたべた馴れ馴れしくしてるし…親のメンツ立てるために渋々出てるもんだから、つまんなくて仕方ないのよ、きっと」
「…ナナ…相変わらず、沙弥香さんに対してだけは、別人のように厳しいわね」
「小さい頃から比較され続けた土台があるから、もう今更矯正は不可能よ。―――はい、食べて食べて〜」
セッティング完了らしく、奈々美がそう声をあげた。さっそく、3人揃って食べる。
甘いものがあまり得意ではない久保田や佳那子でも十分おいしいと感じられる、少しおさえめな甘さの苺ショート。
「よかった。俺でも食える」
「ほんとね」
と久保田と佳那子が感想を述べる中、一人大人しく食べる蕾夏の様子に、和臣が心配そうな顔をした。
「藤井さん? どうしたの、気分でも悪い?」
「え? あ、ううん、そうじゃないよ。ゆっくり味わって食べてたの」
慌てたように笑顔でそう答える蕾夏に、和臣も奈々美も、不審に思いながらも何も訊こうとは思わなかった。というより、次のテーブルにもケーキを運ばなくてはいけないので、時間的余裕があまり無かったのだが。
勿論、訊かれたところで、蕾夏が答える事はできなかっただろう。
ほどよい甘さのケーキを口に運びながら蕾夏が考えていたことは、ただ1つ―――瑞樹に、なんと言葉を返せばいいのか、という事だったのだから。
佳那子の話に相槌をうちながら、運ばれてきたシャンパンを笑顔で受け取りながら―――気づけば蕾夏は、ずっと頭の中で、1時間ほど前の瑞樹の言葉を何度も何度も繰り返し再生していた。
―――親友の瑞樹は、いなくなったりしない。…ただ、恋人の瑞樹が増えるだけ…。
恋愛感情の“好き”と友情の“好き”は全くの別物だと思っていた。恋愛対象になったら、もう友情の“好き”は失われてしまうのだろうと思っていた。
でも―――そうではないのかもしれない、という事に、蕾夏は薄々気づいていた。
恋愛の“好き”と友情の“好き”の境目なんて、案外曖昧で不安定なんじゃないだろうか。2つの間にさして違いはなくて、何かのきっかけで、その2つの“好き”のバランスが変わるだけなのかもしれない。
じゃあ、今の自分は?
今の自分の中のバランスは、どこにあるんだろう? ―――その答えを、蕾夏はずっと、模索していた。
***
「ねぇ、ちょっと」
ぼんやりとケーキを口に運んでいた蕾夏は、耳に馴染みのない声に、我に返った。
振り向くと、そこに何故か、沙弥香がいた。手にワイングラスを2つ持ち、片方を蕾夏に差し出している。
「あなた、一緒に飲まない?」
「…あー…あの、私、飲めないんです。ごめんなさい」
「あら、でも、未成年ではないんでしょ。一口くらい、いけるんじゃない?」
一瞬、迷う。沙弥香の肩越しに、佳那子が「私が相手しようか?」と合図を送っていたが、それは目で断った。沙弥香と面識があって奈々美との関係も深い佳那子よりは、完全な第三者の蕾夏に対しての方が沙弥香も遠慮がある筈だ。あえて蕾夏が受けた方が丸く収まる気がする。
「じゃあ、一口だけ」
蕾夏は、沙弥香からワイングラスを受け取ると、本当に申し訳程度に、ワインを口にした。アルコール全般が苦手な蕾夏だが、赤ワインは特に苦手なのだ。つい「おいしくない」という顔をしてしまうと、沙弥香は面白がるような笑い声をたてた。
「やだぁ、本当に子供みたい。うちの子が哺乳瓶とコップを間違ってウイスキー舐めちゃった時だって、今のよりは多かったわよ?」
―――え。子持ちなんですか。
口に出して言いそうになって、すんでのところで飲み込む。既婚者は露出度の高い服を着てはいけない、とは思わないが、この服装で子持ちとは、さすがに意外だった。
「奈々美も童顔で子供っぽいけど、あなたも雰囲気が学生で止まってるわよねぇ。もしかして大学生? 高校生ってことはないわよね?」
「…25です」
「嘘っ、信じられない! 世間擦れしてなそうだわー…。もしかして、男の人と付き合った経験、ゼロ?」
「ちょ、ちょっと…沙弥香さん。酔ってるんじゃないですか?」
見かねて、佳那子が後ろから沙弥香のドレスを引っ張った。が、沙弥香はそれを無視して、蕾夏の肩を抱くみたいにし、その耳元に囁いた。
「―――ねえ。あのカメラマンの人って、あなたの恋人?」
「……え?」
「パーティー終わったら、3人で飲みに行かない? あなたが来れば、多分彼も来るでしょ。東京見物しようにももう夜だし、暇でしょうがないから、2人で私に付き合ってよ。あ、勿論、お酒がダメなあなたは、ジュースで構わないわよ」
すぐ目の前の、沙弥香のたくらむような笑いを含んだ目を見て、蕾夏はキョトンとしていた。
言われたセリフを、頭の中で復唱する。そして、ある可能性に辿り着いた。
―――まさかとは思うけど…私って、瑞樹を釣るための、餌だったりする?
そう思ったら、急に腹がたってきた。思わず文句を言おうと口を開いたが、
「お姉ちゃん」
背後からの声に遮られ、蕾夏は開きかけた口を閉じた。
沙弥香と同時に振り返ると、見たこともないほど厳しい顔をした奈々美が、そこに立っていた。その向こうには、異変を感じて駆けつけて来たらしい瑞樹と、奈々美の行動にオロオロしている和臣も見える。
奈々美は、1歩前に進み出て、沙弥香の顔を真っ直ぐに見据えた。ヒールの高い靴を履いているので、いつもとは違い、あまり見上げずに済む角度だ。
「悪いけど、帰ってくれる?」
「……なに、言ってるのよ」
「お父さんとお母さんには、今、ちゃんと断ってきた。恥さらしな真似する位なら帰れって、2人とも言ってる。だから、悪いけど、帰って」
あくまで、他の招待客には聞こえないよう配慮した、抑えた声。でも、奈々美の表情を見ればわかる。奈々美は、これまでにない位、怒っていた。
蕾夏は勿論のこと、佳那子も、和臣も―――そして、沙弥香ですら見たことのない奈々美の表情に、沙弥香はさすがに顔色を変えた。
「成田君も藤井さんも、私には大事な友達なの。2人に迷惑かけてるお姉ちゃんをこのまま見てられないわ。このパーティーのホストは、私とカズ君なんだから」
「……」
「どうしても帰らないって言うんなら、お義兄さんに電話して、夜行でもなんでも使って迎えに来てもらうから」
「―――わかったわよ」
不貞腐れたようにそう呟くと、沙弥香は唇を噛み、瑞樹の方をきつく睨んだ。
「外まで送ってくれない?」
「子供じゃあるまいし、1人で帰れねぇのかよ」
片眉を上げる瑞樹に、沙弥香は憮然とした表情を向けた。
「女じゃタクシーつかまえるのに苦労するのよ。東京のタクシーは冷たいんだから」
そのセリフに、瑞樹はしょうがねぇな、という風に肩を竦めると、先に立って歩き出した。
沙弥香は、もう一度奈々美を少し睨んだ。が、それ以上何も言う事はなかったらしく、大人しくレストランから出て行った。
「―――全くもうっ。お姉ちゃん、最後まで成田君の手を煩わせてっ」
膨れるようにして姉の後姿を見送る奈々美を、和臣を筆頭に久保田と佳那子の3人が、ちょっと引いた状態で呆然と見ていた。
営業マンの強引さに負けて、書類作成を全部引き受けてしまうような日頃の奈々美からは、絶対想像がつかないもう一つの顔―――ただし、姉限定。あまりの豹変ぶりに、3人ともついていけない。奈々美に声もかけられないので、なんとなく3人顔を見合わせ、すごすごとオードブルに手を伸ばした。
「藤井さん、ごめんね。嫌な思いしたでしょ」
「ううん、私は全然。…でも、奈々美さん、凄かったね」
蕾夏がくすっと笑うと、奈々美もつられたように笑った。
「うふふ、ちょっと頑張っちゃった。だって、藤井さんは、私とカズ君のキューピッドだもの。少しでも恩返ししないと、ね」
「キューピッド?」
奈々美の言葉に、蕾夏は目を丸くした。
「私が?」
「そうよ? 私が悩み事抱えてた時、カズ君に相談しろって背中押してくれたのも藤井さんだし、クリスマスサプライズ考えたのも藤井さんでしょ。それに―――もっと、根っこの部分で」
「根っこの、部分」
「藤井さんがいたから、私、自分の気持ちに気づけたんだと思う」
ちょっと照れたような笑みを浮かべた奈々美は、ちらっと和臣の背中に視線を送った。
「カズ君、一時期、藤井さんに凄く気持ちが傾いてた時期があったでしょ。…それまではね、いくら好きだって言われても、なんだか夢物語みたいで実感湧かないし、カズ君に対する好きって気持ちは単なる後輩に対する親愛位だと思ってたのね。なのに―――藤井さんの事見るカズ君の目見て、私、凄く嫉妬してたの。嫌だ、私以外の人をそんな目で見ないで、って、思わずカズ君に怒鳴りたくなる位に」
「……」
「それで、わかったの。ああ、私の持ってる“好き”は、恋愛感情なんだな、って。ただの後輩なら、誰かに取られたくない、なんて感情、湧かないものね」
蕾夏の目が、少し動揺したように、2、3度瞬かれた。
―――嫉妬。誰かに取られたくないっていう気持ち。言い換えれば、独占欲。
全部、ネガティブな感情だと思ってた。自分は誰にもそんな感情は持ちたくない、と思っていた。そんな感情を抱くなら、恋愛なんてしたくない、と思っていた。
でも、奈々美が話すと、そんなネガティブな筈の感情が、やたら愛しく感じられる。そういう感情はあって当然なんだ、と、ストンと納得がいく。
恋愛は負の感情が付きまとう、それは本当だったにしても―――それを補ってあまりあるほどの正の感情が、恋愛にはいっぱいあるのかもしれない。だから、奈々美の言う嫉妬や独占欲は、ちっとも重くなくて、むしろ可愛らしい感情に思えるのかもしれない。
奈々美の中に、そういう負のものを打ち消す位の正のものが、たくさん溢れているから。
―――…そうか。
それが、「愛情」ってものなのかもしれない。
***
約2時間のパーティーも終盤にさしかかり、写真もほぼ撮り終えたので、やっと瑞樹はテーブルに戻って来られた。
「お疲れ様」
「…ほとんど何も食えなかった」
「って言うと思ったから、ちゃんと取り分けておいたぞ、お前の分」
久保田が指さす先には、オードブルを数種類盛り付けた皿があった。
「あー、サンキュ。もうちょい落ち着いたら食う」
とりあえず、何か飲みたい。と思っていたら、ノンアルコール派のために用意されていたらしいウーロン茶が差し出された。あまりのグッドタイミングに顔を上げると、蕾夏がウーロン茶の入ったグラスを手に微笑んでいた。
「喉渇いてるんなら、お酒よりお茶かな、と思って」
「…サンキュ」
受け取ったウーロン茶を飲むと、やっと一息つく気分になれた。瑞樹はほっと息を吐き出し、壁に寄りかかった。一応椅子もあるのだが、パーティーの最中に列席者があちこち移動させたせいで、今ではどこにあるのやらわからないのだ。
「結局何本撮ったの?」
同じように壁に寄りかかって、蕾夏もウーロン茶の入ったグラスを傾ける。
「ええと―――今カメラに入ってるのが、7本目。その半分位か」
「うわ、結構撮ったね。24枚撮りでしょ」
「2本、36枚撮りが混じってたと思う」
「アルバム整理が大変そうだなぁ…」
そう言って小さく笑う蕾夏は、パーティーの途中で見かけた時とは違い、本当にいつもの蕾夏に戻っているようだった。何かあったのだろうか、と瑞樹は不思議に思ったが、あえて訊きはしなかった。避けられるのではないか、と、それを一番心配していただけに、ひとまずそれだけは回避できたらしいことに、少し安堵していた。
新郎新婦席横に設けられた司会者席では、久々に司会進行役を仰せつかっている和臣の友達がマイクを握っていた。かなり飲まされたらしく、顔が赤くなっている。
「えー、それでは! 普通でしたらこのあたりで、新郎新婦からご両親への花束贈呈といったところなんですが…」
司会者の言葉の通り、和臣と奈々美は、カラフルな花束をそれぞれ抱えている。何故か、これまでで一番楽しそうな笑顔を見せていることに、参列者全員、少し首を傾げる。
「和臣君と奈々美さんのたっての希望で、ちょっと変わった花束贈呈となります。え〜…、和臣君の会社の先輩で、久保田さん! それと、奈々美さんのお友達の佐々木さん!」
最後のワインをのんびり飲んでいた久保田と佳那子が、同時にむせた。
「いらっしゃったら、前へどうぞー!」
唖然とする2人を引っ張り出すように拍手が起こる中、久保田と佳那子は、ピンと来て、壁に寄りかかる2人の方を振り返った。
「―――お前ら、入れ知恵したな」
「早く行けよ。司会が困るだろ」
恨めしそうに睨む久保田に、瑞樹は笑いを抑えながら追い払うような仕草をした。
「パーティーのクライマックスだから、本人たちには内緒にしたの。ゴメンネ」
「…ほんと、あんたたち、こういう事では見事なコンビネーションよね…」
にこにこ顔の蕾夏をひと睨みし、佳那子は諦めたように久保田の背中を叩いた。
「―――行くしかないみたいよ」
「…だな」
半ばうなだれるようにしながら、久保田と佳那子は前に出た。その後姿を見送りながら、瑞樹と蕾夏は、目を合わせて密かに笑った。
「新郎新婦は、このお2人に大変お世話になっているとのことで、まずは和臣君のお父様と奈々美さんのお母様から、感謝の花束を贈呈するそうです」
「は!?」
前に引き出された久保田と佳那子の目が、まん丸になる。どういう事だ、とまた壁際の方に目をやったが、瑞樹も蕾夏も「がんばれよ」と手を振るだけで、ちっとも反省の色がない。
―――あ…あいつら…っ! 絶対復讐してやる!
今後ともよろしくご指導下さい、などと花束を手に頭を下げる和臣の父に困ったような笑顔を向けつつ、久保田の頭の中は「復讐」の2文字で埋め尽くされていた。佳那子の方は、何故奈々美の母から花を贈られるのだろう、という疑問の方が大きいようだ。ひたすらキョトンとした顔のまま、奈々美の母に貰った花束を見て眉をひそめていた。
親に続き、和臣と奈々美からの花束贈呈に移る。奈々美から花束を受け取った佳那子は、感情変化のレベルが一定の度を超えたらしく、式の時同様、ボロボロと涙をこぼし始めた。
「…ちょっと佳那子さんにはやりすぎな企画だったかな」
「泣くほど感動してるってことだから、成功だろ」
周囲に合わせて拍手を送りつつ、瑞樹と蕾夏は、大慌てで佳那子にハンカチを貸す久保田の様子を、苦笑しながら見ていた。本人たちは大変そうだが、周囲の客は喜んでいる。アトラクションとしては成功だったな、と、ささやかな満足を覚える。
「―――ねえ、瑞樹」
ふいに、蕾夏が、それまでとは違ったニュアンスの声で、呼びかけてきた。
少しためらいを含んだようなその声に、瑞樹は、傍らの蕾夏を見下ろした。蕾夏は、少し俯き加減に斜め下を向いていて、瑞樹からは、その表情は窺えない。
「私、多分、ほんの少しずつしか前に進めないと思う」
瑞樹の顔色が、変わった。
何の話を始めたのか、すぐに察した。パーティー会場の和やかなムードとは対照的に、瑞樹の肩に思わず力が入る。
「ちょっとずつしか成長できないから…なんでもない事を怖がったり、馬鹿みたいな事に不安を覚えたりして、瑞樹を呆れさせちゃうかもしれない。でも……、それでも―――…」
蕾夏は、そこで言葉を切り、ゆっくり顔を上げ、瑞樹の方を見た。
黒曜石のような瞳が、瑞樹を斜め下から見つめる。どう言葉に表せばいいのか迷っている風に、その瞳は僅かに揺れていた。惹きつけられたように瑞樹がその目を見つめ返していると、蕾夏は微かに睫毛を震わせ、何かを決意したみたいにきゅっと唇を噛んで、視線を落とした。
瑞樹が、言葉の続きを問おうと思った時。
蕾夏の細い指先が、瑞樹の下ろした手に触れた。
その指が、瑞樹の手を、緩やかに握る。手を繋ごうとして、でも照れてしまってしっかりとは握れないような、そんな手の握り方で。
思わず、息を呑む。
指先を包む緩やかな感触に、次第に鼓動が速くなっていく。言葉にならない言葉に少しうろたえたが、自分の都合のいい解釈かもしれない、と、心のどこかでまだ警戒してしまう。
その意味を確かめるように、瑞樹は蕾夏の指を解き、少しためらいがちに自分の方から手を繋いだ。手のひらを合わせる形で、あくまで緩やかな力で。
すると、まるでその手ひらの感触に寄り添うように、蕾夏も改めて、手を握り返してきた。瑞樹の手の力より、ほんの少しだけ強い力で。
一瞬上げられた蕾夏の目と、瑞樹の視線がぶつかった。
微かに頬を染めた蕾夏は、本当か? と訊ねるような瑞樹の目に、柔らかな笑顔を向ける。そしてまた視線を戻すと、念を押すように、もう一度繋いだ手に力をこめた。
―――“それでも、瑞樹のもっともっと近くに、いたい”。
想いが、伝わる。
言葉はなくとも、繋いだ指から、瑞樹が訊きたい事も、それに対する蕾夏の答えも、優しいぬくもりになって伝わる。
求めていたものを手探りで手繰り寄せるように、2人は何度も手を繋ぎ合い、指を絡めた。
目を合わせなくても、何も言葉にしなくても―――ただそれだけで、想いは、痛いほどに感じることができた。
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