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no079:
あなたのいなくなった日
-odai:14-

 

籠ノ鳥ガ、逃ゲタ。

―99.07―

 実に数年ぶりとなる藤井家の前で、翔子は暫しためらっていた。
 が、意を決して、呼び鈴を押す。
 『はぁい?』
 「翔子です」
 暫し後、ガチャガチャと鍵の開く音がして、玄関のドアが開いた。中から顔を出した蕾夏の母は、驚いたような嬉しそうな笑顔を見せた。
 「翔子ちゃん! 一体どうしたの? お母さんからは帰国の話は聞いてないわよ?」
 「ご無沙汰してます。実は今朝、帰ってきたばかりなんです」
 軽く会釈し、にっこりと微笑む。
 かつての美少女は、完璧な美女に成長していた―――その親友が、少女のまま成長を止めたのとは対照的に。年末年始に帰国するたび見ているとはいえ、やはりその美しさにはため息が出る。蕾夏の母は、翔子の笑顔につられたように、うっとりした笑顔になった。
 実は翔子は、空港からこの家に直行したのだ。手にはまだ大きなボストンバッグを提げている。
 「7月に入って夏休みになったので、今年は日本で過ごそうと思って」
 「あら、そうなの? いつもは向こうで勉強して過ごしてたでしょう。ご両親もそう思ってたみたいよ?」
 「たまには私も遊ばないと、ね。…あの、それで―――蕾夏、お盆休みには、帰ってくるんでしょうか」
 蕾夏の母は、そうねぇ、といって宙を仰いだ。
 「どうかしら。最近あの子、帰って来ないのよ。忙しいみたいよ、西暦がどうとか言ってたけど…」
 「ああ…西暦2000年対応かしら」
 「そうそう、それ。それに、瑞樹君の撮影助手みたいなこともしてるみたいだから。週に1度は連絡あるけど、今年の夏の話はまだ出てないわね」
 「瑞樹君?」
 初耳の名前に、翔子は眉をひそめた。と、蕾夏の母は、慌てたように手を振る。
 「あらやだ、そんな顔しなくても…。瑞樹君は、蕾夏の友達よ。凄く仲は良いけど、残念ながら彼氏ではないみたい」
 最後の言葉に、藤井家ではその「瑞樹君」が相当受け入れられてしまっているらしいことが表れている。翔子は密かに焦りを感じた。
 「あの、じゃあ…私からも蕾夏に電話してみます」
 「そうね、そうしてみて。お茶でも飲んでく? 翔子ちゃんの好きなローズヒップ、この間買ったばっかりよ」
 「いえ、兄が家で待ってますから」
 翔子はそう言って、蕾夏の母の誘いを固辞した。

 家までの短い道程の間、翔子が考えていたのは、正月に帰省した時の兄・正孝の事だった。
 正孝は、憔悴していた。
 両親や翔子の前では一応体裁を繕っていたが、ふとした瞬間に見せる表情が、酷く落ち込んで、辛そうに見えた。あんな正孝は初めてで、翔子はどうすれば良いかわからないまま、ただ呆然とするしかなかった。
 そして一番気になったこと―――藤井家の3人が挨拶に訪れた時の、正孝の態度。
 蕾夏の両親にはにこやかに挨拶したり会話したりしていたが、蕾夏とは最後まで話をしなかった。いや―――目すら、合わせなかった。
 ―――蕾夏と、何かあったんだ。
 なのに、正孝からも、蕾夏からも、何の連絡もない。だから、夏休みに入ると同時に、取るものもとりあえず帰国したのだ。
 一体2人に、何があったのか。たとえそれが、翔子にとって面白くない話であっても―――確認せずには、いられなかった。

***

 「…まーちゃん、また痩せた」
 「そう?」
 ローズヒップをティーポットに入れながら、正孝は何気ない調子でそう返事をした。
 今日が非番であることは前もって電話で確認していた。そうでなければ、こんな時間帯に正孝がいるなんて滅多にないことだ。
 病院ではきっちり整えている髪を今日は洗いざらしのままにし、眼鏡を外している。そのせいか、病院で見る「外科の辻先生」よりは5つほど若く見えた。正月に見た時より痩せてはいたが、表情は随分落ち着いている―――その事が逆に、翔子に嫌な予感を覚えさせた。
 「ねぇ。最近、蕾夏とはどうなってるの?」
 「どうなってるって?」
 「…少しは、進展があったの?」
 警戒したような声色で様子を窺ってくる妹に、正孝は苦笑した。
 「翔子。そこのティーカップ、あっためといて」
 事務的にそう命じると、正孝はティーポットに注いだお湯の具合を確認し、砂時計をくるっとひっくり返した。流れるように滑らかな、一連の動作。昔から、紅茶を淹れるのは正孝の担当だった。翔子は黙ってティーカップにお湯を注いだ。
 「僕の事より、翔子の具合こそどうなんだ? 最近は発作は起きないみたいだけど」
 「…私の事を優先して訊くなんて、まーちゃんらしくないわ」
 少し非難めいた口調で、翔子は早口に言い捨てた。言って後悔する。これでは自分の弱さを露見させるばかりだ。でも、坂道を転げ出したら止まらないのと同様、うまく止まることができない。
 「中2からこっち、まーちゃんの最優先事項は蕾夏だったもの。私の事より、大学の勉強より―――どんな物より、蕾夏を優先してたじゃない。そうでしょう?」
 「僕は、もう降りた」
 「降りた…?」
 「2月頭を最後に、藤井さんとは連絡を取ってない。これからも、こちらから電話するつもりはないよ」
 ティーカップを持つ手が、知らず震える。中に入ったお湯が微かに揺れた。
 「…まーちゃん、正気で言ってるの?」
 「―――3分経った。翔子、お湯捨てて」
 「お茶なんていいわよ! ねぇ、本気で言ってるの!?」
 「危ないよ、翔子。早くお湯を捨てて、カップを置きなさい」
 医者が看護婦に命令するような口調。翔子は乱暴にティーカップの中のお湯をシンクにぶちまけると、ドン! という音をたてて、兄の目の前に置いた。
 「蕾夏の事、嫌いになったの?」
 「そんな訳ないよ」
 「蕾夏だって、まーちゃんの事は好きだって言ってたわ」
 「好きの種類が違うだろ」
 「でも! 蕾夏が触られて平気な男の人なんて、まーちゃんしか」
 「翔子」
 ティーポットを傾けた正孝は、少し語調を強め、翔子を睨んだ。
 「―――やめにしないか」
 「……」
 翔子の大きな瞳が、次第に涙を(たた)えてくる。その目を避けるように視線を逸らすと、正孝は再びティーポットを傾け、絶妙な色合いになったローズヒップティーを注いだ。
 「…まーちゃんは、蕾夏以外の女の人なんて、本当に愛せるの…?」
 その問いに対する、正孝からの答えは無かった。


***


 今から4年前―――大学4年の、冬。
 蕾夏が、就職と同時に一人暮らしを始める、という話は、由井から聞かされた。
 年末年始で帰国していた翔子は、その話に目を丸くした。正孝からも、両親からも―――新年の挨拶に来た蕾夏やその両親からも、そんな話は一切聞かされていなかったからだ。
 「そりゃそうだよ。オレと藤井しか、まだ知らない。両親を説得するのはこれからだよ」
 サラリとそう言って紅茶を口に運ぶ由井を、翔子は信じられないという顔で凝視した。
 「ど…どういう事?」
 「オレが勧めたんだ。一人暮らし」
 「だから、どうしてよ? 蕾夏、就職先東京のコンピュータ会社でしょ? ここ、通勤圏じゃないの」
 「理由は、辻が一番よく知ってる筈だよ」
 蕾夏が、この町から出て行く理由―――…。
 「…まーちゃんが理由だって言いたいの?」
 由井は、その問いには答えなかった。が、由井の目が、それを肯定していた。ココアの入ったカップを持つ翔子の手が震えた。
 「…納得、できない」
 「辻がどんだけ納得いかなくても、これは藤井と正孝さんの問題だよ。辻の思い通りに行くとは限らない」
 「そうだけど…! でも…蕾夏、今だって事件の事思い出して、たまに発作起こしてるじゃないの。まーちゃんがそばにいなかったら、どうやって乗り切るのよ?」
 「それは藤井自身が考える事だよ。オレや辻が考える事じゃない」
 「けど、まーちゃんは」
 「辻!」
 由井が、たしなめるように、少しきつい目つきをした。一瞬、初詣客で賑わう喫茶店の中が静まり返った気がした―――いや、それは単なる、翔子の錯覚かもしれないが。
 「…辻。オレが辻と別れた理由、わかってる?」
 「……」
 「藤井は、辻がアメリカ留学したせいだって思ってるらしいけど、違うよ? オレがどんだけ頑張っても、辻の中にいる正孝さんに敵わないからだよ。わかってる?」
 翔子は、チェリーピンクに彩られた唇を噛み、俯いた。そう―――高3の冬、由井にそう言われた。“オレは正孝さんの代わりにはなれないよ”と。
 正孝以外の価値が、わからない。血の繋がった兄にしか、価値が見出せない―――赤の他人をどうやって愛せばいいのか、翔子にはわからない。正孝の存在が、あまりに大きすぎて。
 「藤井以上に、辻が、正孝さんから卒業しないと―――辻、一生、まともな恋愛もできないよ」
 ―――別に、まともな恋愛なんて、したくないもの。
 さすがに、由井にそう言う事はできなかった。けれど、それが本音だ。
 肉親愛とも、世間一般で言う恋愛とも違う、兄に対する想い。それ以上に大切なものなど、翔子にはどうやっても見つける事ができなかったのだ。


 当然ながら、翔子は、由井と会ったその足で蕾夏の家に向かった。
 「お母さんがちょっと反対気味だったけど、一応両親のOKはもらえたよ」
 ベッドの上でクッションを抱えた蕾夏は、柔らかに笑ってそう言った。
 「フラッシュバック起きたら、どうするの? まだ克服してないんでしょう?」
 「大丈夫。今では、多少の事じゃ起きなくなってるもん。もし起きても自分でなんとかするしね」
 「だけど、もうちょっと先でも…。社会人になって生活変わるのに、住環境まで変わるなんて、精神的に負担大きすぎない?」
 「あ。なんか今の、いかにも心理カウンセラーの卵っぽいね」
 くすくす笑う蕾夏に、翔子は、どうやら説得は無理らしいことを悟った。
 蕾夏のこの笑顔は、翔子を不安にさせる。本心が見えない笑顔―――凄く柔らかくて優しい癖に、相手を完全にシャットアウトする笑顔だ。
 「…ねぇ…でも、一人暮らしする事とまーちゃんの件は、また別よね…?」
 恐る恐る訊ねると、蕾夏の笑顔が消えた。
 「まーちゃんは、蕾夏の事が好きなの」
 「…うん。知ってる」
 「蕾夏以外の女の人、ダメなの。蕾夏がいると、蕾夏しか目に入らなくなっちゃうの―――私の事すら、見えなくなっちゃうのよ。今、蕾夏が離れていったら」
 「だから、離れるの」
 蕾夏は、もう、笑っていなかった。凛とした表情で、まっすぐに翔子を見つめている。そのムードに飲まれて、翔子は言葉を飲み込んだ。
 蕾夏は、一度視線を逸らし、何かを逡巡するように瞳を揺らした。が、意を決したように、また翔子を見据えた。

 「誰にも話すつもりなかったけど―――翔子も、誰にも言わないでね」
 「え?」
 「去年の夏、辻さんに言われたの。―――大学卒業したら、結婚してくれ、って」

 心臓が、止まりそうになった。
 予想しなかった訳ではない。正孝の思いは、その位強い…それは、翔子も知っている。けれど、こんなに早く来るとは思わなかった。そう遠い未来ではないだろうとは思っていたが、せめてちゃんと交際を経てからだろうと考えていた。
 膝の上で組んだ翔子の手に、思わず力が入る。
 「キスすることも抱きしめることもできなくていい、トラウマを克服する必要もない、僕が一生そばにいて守るから、だからどこにも行くな、って」
 「…そ…れで?」
 「―――私がいたら、辻さんが駄目になる、って思った」
 翔子の眉が、意味を問うように歪められる。
 「私の辻さんに対する気持ちの中に、感謝や信頼や好意はあるけど、恋愛感情は…多分、無い。辻さんもその事をちゃんと知ってる。なのに、結婚しようって言う。…これって、どういう意味か、翔子にはわかる?」
 「…ううん…」
 「―――辻さんは、私を、辻さんて名前の鳥籠の中に入れて、一生飼っておきたいの。どこにも、飛んでいかないように」
 鳥籠の中に―――…。
 ショックだった。いや……どこかでそれに近いものを、翔子も、正孝の過去の行動に感じていたのかもしれない。感じていたからこそ、それを蕾夏に悟られてしまったことが、ショックだったのかもしれない。
 愕然とした翔子の目に、蕾夏は一瞬、唇を引き結んだ。が、目を逸らすことだけはしない。
 「私は、鳥籠に飼われる鳥になんて、なりたくない」
 「……」
 「辻さんにも、鳥籠に入れた鳥を眺めて満足してるような人にはなって欲しくない。…このまま、ここにいて辻さんに縋ったら、私も辻さんも駄目になる。だから、離れるの。離れて、自分の事を見つめ直したいの。―――その結果、辻さんを好きになれるかどうかは、私にもわからない。でも、このままだったら私、籠の中に引きずり込まれる。きっと」
 「…蕾夏…」
 「私は、私の行く道を、私の力で見つける。たとえ、その行き先が辻さんであっても、そうでなくても」
 蕾夏の目は、一切、迷いがなかった。全ての答えを、翔子にも誰にも相談せず、一人で出してしまった目をしている。
 翔子には、反論ができなかった。

 4年前のあの日―――蕾夏が離れて行くのを、ただ黙って見ている以外、何もできなかった。


***


 「―――藤井さんは、自分の居場所を見つけたんだと思う」
 ティーカップを置いて、猫っ毛気味な短い髪をサラリと掻き上げながら、正孝がぽつりと言った。翔子の紅茶は、まだ手つかずのまま、すっかり冷めている。翔子は眉をひそめた。
 「…居場所…?」
 「見たんだ。去年の11月だったかな―――成田君の隣で、本来の笑顔を見せてる藤井さんを」
 翔子の目が、丸く大きく見開かれた。
 「…誰よ。その、成田君て」
 「成田瑞樹。藤井さんが見つけた“居場所”だよ」
 瑞樹。その名前には、聞き覚えがあった。蕾夏の母が口にした名前だ。
 「…蕾夏がその人に、恋でもしてるって言うの?」
 「そうかもしれないね」
 蕾夏が、恋を―――?
 信じられない、そんな事は。
 手を握られただけで、恐怖で身を竦ませていた。クラスメイトがふざけて抱きついた時に起こした凄まじいフラッシュバックは、翔子も目の当たりにしている。正孝は、蕾夏の手を握る事ができる唯一の異性だ。
 蕾夏に告白した男性も過去にいたことはいたが、誰一人イエスとは言ってもらえなかった。何故なら、相手が自分を恋愛対象として見ていると知ると、蕾夏は必ず悪夢を見るから―――好きだ、と告げるその相手に向けて、自分がナイフを振り下ろす夢を。
 「藤井さんは、11年間、涙を見せなかった」
 正孝は、目線をテーブルの上に落として、低く呟いた。
 「親の前でも、由井君の前でも泣けない。そして、僕の前でも。彼女は、あの日の恐怖を、一度も涙として吐き出してない。だから、どんな辛い目に遭っても、泣く事ができないんだ。…11年かかっても、僕には無理だった」
 「その、成田って人なら、それができるって言うの?」
 「…翔子も、彼の隣にいる時の彼女の笑顔を見れば、よくわかるよ」
 「まーちゃんは…まーちゃんは、それでいいの? まーちゃんは蕾夏以外じゃ駄目なのに、蕾夏がまーちゃん以外を好きになっても」
 「いいよ」
 正孝は、そう言って、静かに笑った。
 「彼女から決別を告げられてから、ずっと考えてた―――僕が、どうすべきか。彼女以外を愛せるかどうかも考えた。…多分、無理だろう。少なくとも、あと数年は…もしかしたら、一生。けれど―――結ばれるだけが、愛じゃない」
 「……」
 「別れが宿命となっている愛もある。手放す事が最大の愛情表現になる愛もある―――そう思う人間が1人くらいいたっていいだろう?」
 「…思えるの?」
 「思うようにするさ」
 正孝の目が、どこか遠くを見つめた。目の前の翔子をも通り越した、ずっと遠くを。
 「僕は、何も見えていなかった―――蕾夏のことすら、見えていなかった。…僕が見ていた蕾夏は、もうどこにも居ない」
 「…まーちゃん…」
 “蕾夏”。
 その名を正孝は滅多に口にしない。口にする時は、特別な思いをこめて口にする。
 ―――これほど、想っているのに―――別れが宿命だなんて、手放す事こそが愛だなんて、本当に思えるの?

 これほど、想って、いるのに。

 翔子は、テーブルの上の手を、ぎゅっと握り締めた。


 蕾夏になら、まーちゃんを譲れると思った。他の女なんて、考えただけで気が狂いそうだったけれど、蕾夏なら…そう思ったから、まーちゃんを応援していた。
 まーちゃんと蕾夏が結ばれてくれれば、私は完全に「辻 正孝」の妹の役に徹することができるから。

 幼い頃から、私を支配し続ける存在―――まーちゃん。
 私がいつもどんな夢を見ているか知ったら、まーちゃんは私を軽蔑するだろうか。

 まーちゃん。

 私―――いつも、あなたにキスをする夢を見てるのよ…?

 蕾夏。お願い。どこにも行かないで。
 蕾夏というストッパーがいなくなってしまったら―――私はきっと、暴走してしまう。

 お願い。誰か―――私を止めて。


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