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no080:
カルネアデスの板
-odai:42-

 

溺レル者ハ、藁ヲモ掴ム。

―99.07―

 その時、私が思い出したのは―――昔、まーちゃんから聞いた、ギリシャの哲学者・カルネアデスが提起した究極の命題。

 船が難破して、今にも溺れそうな漂流者が、他の漂流者が小さな板につかまって浮いているのを見つけたとする。
 小さな板につかまれるのは、たった1人。
 生き残れるのは、たった1人。
 その小さな板を奪い合い、自らの命を救うため他者を突き落としたとしたら―――生き残った漂流者は、どうなるだろうか?

 血も涙も無い極悪非道な人間として裁かれるだろうか?
 それとも、法の下では命は等しい価値、という原則にのっとって、許されるだろうか?

 カルネアデスが、どちらを良しとして、こんな話をしたのか、私にはわからない。
 でも。

 生き残ること。それが、命あるものの、一番の使命。
 ならば―――他人を突き落としてでも生き残りたい。それが、全てを取り払った、人間の本能なのかもしれない。


***


 エレベーターのランプが5階を指し、扉が開いた。
 そろそろ終業時刻が近い。久々に早く帰れるかな、と帰社後の作業を頭の中に1つ1つ思い浮かべながら、和臣はエレベーターを降りた。
 このところ、企画部は全体的に帰宅が遅くなりがちだった。その結果、奈々美と一緒に帰れない日が何日かあった。奈々美と同じ家に帰るのが楽しくて会社に来てるに等しい和臣には、はっきり言って楽しみの大半を奪われたに等しい。帰りに一緒に本屋に寄ろうかな、などと考えると、自然と顔が緩む。
 そのまま事務所のドアを開けるつもりだった和臣は、ふと、エレベーターホールの片隅に立つ人影に気づき、足を止めた。
 「…あのー。うちの会社に御用でしょうか?」
 声をかけると、その人影が振り向いた。途端、さすがの和臣も衝撃を受けて、背筋を伸ばしてしまう。
 ―――うっわー! なに、この人! 美人ーっ! しかも超ド級!
 佳那子を見慣れているせいで、標準レベルの美人ならばさほど驚かない和臣だったが、目の前の美女はそれをはるかに上回るレベルだった。
 目鼻立ちがはっきりしていて、ちょっと日本人ばなれしていて。どことなく幼さが残る顔つきがコケティッシュな印象を与える。栗色の、ゆるやかなウェーブのかかった髪を後ろでバレッタで1つにまとめ、白っぽいシンプルなスーツをスッキリと着こなしている。
 誰かに似ている、と思ったら、リカちゃん人形だった。それと、和臣の父方の実家に飾ってあったフランス人形―――コケティッシュ系美人って人形に似てるのか、と、妙な事に感心してしまった。
 呆然としている和臣をよそに、彼女はコツコツとハイヒールを鳴らしながら近づいてきて、にっこり、と微笑んだ。
 「こちらの会社の方ですか?」
 「は、はぁ…そうですが」
 「つかぬことをお訊きしますが、こちらに成田さんて方はいらっしゃるでしょうか」
 ―――げ。成田関係?
 思わず顔がひきつりそうになる。
 4階の女子社員に気づかれれば、また蕾夏の時同様大騒ぎになる。ようやくあの騒動が鎮静化したのに、また新たな火種登場―――急に気が重くなった。
 「な…成田、って言いますと、システム部の成田瑞樹でしょうか」
 「そう、その人です」
 「いますよ。ええと…ちょっとお待ち下さい」
 事務所内にこんな美女が入って来たら、男性ばかりのフロアなだけに大騒ぎになりそうだ。瑞樹を廊下に呼び出した方が無難だ、と判断し、和臣はそそくさと事務所のドアを開けた。
 「あ、神崎さん、お帰りなさーい」
 「ただいまー」
 いつもなら奈々美の所へ直行だが、今日ばかりはそんな事は言っていられない。入り口付近にいる女の子に挨拶しつつ、和臣はシステム部に向かってダッシュした。
 「成田っ!」
 周囲に気づかれないよう小声で声をかけると、仕事中だった瑞樹が、その声色に何かを察知したのか、珍しくちゃんと顔を上げた。
 「なに」
 「お前にお客さん」
 「客?」
 瑞樹が訝しげに眉をひそめた時、和臣の背後で、事務所全体がシーンと静まり返った。
 嫌な予感に慌てて振り返ると、廊下で待っていてくれると思った彼女が、事務所内に足を踏み入れてしまっていた。ちゃんと廊下で待つよう伝えなかったことを後悔したものの、もう後の祭りだ。
 「誰、あれ」
 「―――お前の客じゃないのかよっ」
 のんびりした口調の瑞樹を、和臣は、ふざけてるのか、と言いたげに睨んだ。

***

 ―――全然、記憶にない顔だよなぁ…。
 目の前に立った超のつく美人を見下ろし、瑞樹は内心首を傾げていた。
 事務所中の男性社員の視線が痛い。以前蕾夏が会社に来た時「女の子の視線が痛かった」と言っていたのを思い出し、今ならその気持ちよくわかるぞ、と思った。
 「成田ですが」
 一応そう挨拶すると、彼女は、これぞ完璧な微笑、という大輪の薔薇のような笑顔を顔に浮かべ、軽く会釈した。
 「はじめまして。辻 翔子と言います」
 翔子、という名ではなく、辻、という苗字に、瑞樹の頭が即座に反応する。
 「辻さんの妹さんですか」
 「はい。突然失礼しました。でも、会社名しか存じ上げてなかったので…」
 辻 翔子―――辻 正孝の妹。
 その情報だけで、瑞樹には十分だった。
 他の男なら骨抜きになるであろう美貌を前に、瑞樹は瞬時に警戒モードに入った。薄い微笑を作り、翔子の色素の薄い大きな瞳を真っ直ぐ見返す。
 「構いませんが、まだ仕事中ですので」
 「じゃあ、せめて30分ほど、お時間いただけませんか?」
 仕事中だっつってんだろーが。
 心の中で突っ込みを入れつつも、瑞樹は一応、後ろで気にしてウロウロしている佳那子を振り返った。
 「佐々木さん、30分ほど、席外してもいいかな」
 「えっ? え、えーと…」
 佳那子は、まさか自分に振られるとは思わなかったらしく、慌てた様子で事務所内をキョロキョロ見回した。久保田と目が合ったが、首を傾げるリアクションを返されただけだった。とりあえずお偉方の大半は会議に出席中で不在である。
 佳那子は無言で、細かに数回頷いた。
 わかりやすいその様子に苦笑しつつ、瑞樹は翔子には聞こえないよう、佳那子の耳元で、
 「屋上行くから、4階の連中がもし追ってきそうになったら、なんとか止めておいて」
 と頼んでおいた。4階のずうずうしい輩を止める役目は佳那子が一番慣れているのだ。佳那子は、その言葉に頷きつつも、やはり気になるのだろう、
 「誰なの、あの人」
 と瑞樹に訊ねた。
 「―――俺の、“敵”」
 「は?」
 キョトン、とする佳那子に「じゃ、よろしく」と声をかけ、瑞樹は翔子に向き直った。
 「じゃ、行きますか」

***

 「あなた、女の扱い、慣れてそうね」
 エレベーターを待つ間、背後に立つ翔子が、いきなりそんな言葉を呟いた。
 口調が、丁寧なものからぞんざいなものに変わっている。思わず振り返ると、さっきまでの微笑はどこへやら、親の仇でも見るような翔子の視線とぶつかってしまった。
 「これでも私、男の人と接する機会は多いの。うちの大学、心理カウンセラー目指してる生徒の大半が男性だから。男を見る目はかなり確かだと思うけど、あなたの放つオーラって、大学院中の女を弄んではポイポイ捨ててるジェフとそっくり。随分遊びなれてる感じ」
 ―――誰だよ、ジェフって。いきなり外人かよ。
 「…会って5分経ってないのに、言いたい放題だな」
 「気に食わないわ」
 会って5分で気に食わないと言われたのも初めてだな、と苦笑しつつ、瑞樹は到着したエレベーターに乗った。屋上の意味である「R」を押すと、翔子の表情が変わった。
 「屋上に行く気? 私は行かないわよ」
 「なに、高所恐怖症?」
 「屋上なんて嫌いよ」
 「あいつは好きだよ、屋上。空に近いから」
 さらりとそう言うと、翔子は悔しそうにぐっと言葉を飲み込み、そっぽを向いた。

 それにしても―――と、瑞樹は眉を寄せた。
 去年の11月、蕾夏の家に行った帰りに、辻が駅で蕾夏を捕まえて2、3分話し込んでいたのは、やっぱり自分の事を根掘り葉掘り訊いていたんだな―――と思い知る。
 蕾夏は、自分だけでなく、友人知人のプライバシーにもかなり敏感だ。翔子に瑞樹の会社の名前を蕾夏が直接教えたとは考え難い。辻にしつこく訊かれて蕾夏がリークしてしまった社名を、今度は翔子が辻からしつこく訊き出した、と考える方が妥当だろう。全く、迷惑な話だ。

 どちらも言葉を発しないまま、エレベーターは屋上に着いた。
 雨上がりの屋上はコンクリートが雨で洗われ、ところどころ水溜りになっている。翔子は足元に随分気をとられながら、瑞樹の後ろについて来た。
 ベンチも一応あるが、雨で使える状態ではない。瑞樹は適当な場所に立ち、翔子を振り返った。
 翔子も立ち止まり、瑞樹を睨み上げた。
 やたら、肩に力が入っている。意識して作った険しい表情だとわかる、不自然な目の見開き方。初対面時の笑顔も演技だとすぐわかったが、今目の前にある戦闘態勢も演技だな、と瑞樹は思った。
 「―――で? 話っていうのは?」
 瑞樹がそう訊ねると、翔子はゆっくりとした口調で、こう言った。
 「蕾夏を、返して」
 「…そうきたか」
 詰めていた息を吐き出しながら、瑞樹は、少し苛立ったように前髪を掻き上げた。
 予想はほぼ的中―――蕾夏がらみで、とにかく手を引けと言いに来たのだろうと想像はしていた。
 ただ「返して」という表現には、やはり抵抗がある。瑞樹は、険のある目つきで翔子の大きな目を見返した。
 「あいつ、いつの間にあんたのモノになった訳?」
 「正確には兄のものよ。横取りされるのは、妹として我慢できないわ」
 妙に自信に満ちた口調で、翔子はそう言いきる。敵意剥き出しな目は、大きさの違いこそあれ、その敵意の種類が確かに辻に似ていた。
 「あいつが辻さんのものだなんて、誰が決めたんだよ」
 「誰が決めた訳でなくても、そんなの当然のことよ。10年以上も深い信頼関係にあったんですもの。まだ知り合って1年と少しのあなたに、あの2人の間に入り込む権利なんてないわ。返して頂戴」
 「悪いけど、断る」
 簡潔にそう言うと、瑞樹は翔子の前を歩き去ろうとした。驚いたように翔子が、瑞樹の腕を掴んだ。
 「ちょっと、待って! 断ればそれで済むと思ってるの!?」
 「これは辻さんの問題で妹のあんたの問題じゃないだろ」
 「わ…私の問題でもあるのよ! だからお願いしてるの! あの子が必要なの。お願い―――返して」
 「…あんたさ」
 少しうんざり気味の声で、瑞樹は翔子を見下ろした。
 「蕾夏の意志ってもんは、ひとつも考えねぇの?」
 「……」
 翔子が、怯んだ。そこが一番、触れられたくない部分だったらしい。
 「10年以上あいつを支えてきたから、辻さんを受け入れるのが当然の代償だ、って思ってないか?」
 「…そんな事…」
 「じゃ、あんたの、兄貴に対する歪んだ恋愛感情の成せる技?」
 翔子の表情が、凍りついた。
 ローズ色の唇が、何かを言いかけたように微かに開いたまま震える。大きく見開いた瞳が、怯えたように揺れた。
 食い下がってくる翔子の目は、どこかで見覚えがあった。そして、呼び起こされた過去の記憶―――妹の、海晴。最後のバレンタインデーにチョコレートを持ってきた海晴は、ちょうどこんな必死な目をしていた。図星だったか―――半分カマをかけた瑞樹は、その表情を見てそう思った。
 「…ま、いいや。とにかく、無理だから」
 「―――別に、あの子じゃなくたっていいじゃない…」
 翔子の強気だった語調が完全に崩れた。少し高めの、弱い声。おそらくこれが、本当の翔子の声なのだろう。涙を我慢しているのか、少し震える声で、翔子は更に続けた。
 「あなた、いくらでも他に選びようがあるでしょう? でも、まーちゃんには、蕾夏しかいないの」
 「俺だってそうだよ」
 「でも! でも蕾夏とまーちゃんは、」
 「一度しか言わない。よく聞けよ」
 翔子の言葉を遮って、瑞樹は少し語調を強めた。今にも泣き出しそうな翔子の大きな目を見据える。
 「俺にとっては、この世には2種類の人間しかいない―――蕾夏と、それ以外の人間」
 翔子が、その言葉に、はっきりと息を呑んだ。
 「蕾夏の替えは、きかない。男とか女とか関係なく」
 「……」
 「死にかけてた俺を助けられるのは、あいつしかいない。たとえ辻さんにとってもそうだとしても―――蕾夏は1人しかいないんだから、助けられる人間も1人だけだ。俺は、自分が助かる為なら、平気で辻さんを見殺しにできる。他の事なら譲るけど、これだけは譲れない」
 動揺したように、翔子の視線が落ち着かなくなる。どう対抗すればいいのか、何も思い浮かばないらしい。少し顔を歪め、翔子は吐き捨てるように呟いた。
 「…あなたも結局、蕾夏の気持ちなんて考えてないんじゃないの」
 「忘れてるようだけど、蕾夏も溺れかけてる“遭難者”だぜ?」
 翔子の顔が強張った。
 「あいつも溺れまいと懸命になって、必死になって掴んだのが、俺だった―――辻さんの手を離したのは、誰でもない、あいつ自身だ」
 「…じゃあ、まーちゃんはただ、諦めるしかないの?」
 「―――だから、辻さんにはあんたが必要なんだよ」
 「……」
 「あんた、妹だし、カウンセラーの勉強してるんだろ。―――助けてやれよ。兄貴を」
 瞬いた瞬間、翔子の目から、涙が溢れた。翔子は悔しげに唇を噛み、俯いてしまった。
 翔子に対して、それは辛い言葉だったかもしれない。“カウンセラー”として“兄”の役に立つことなど、彼女の望みからは遠くかけ離れているのだろうから。
 彼女の言わんとするところは、瑞樹にも想像がつく。翔子はおそらく、蕾夏以外の女性を、兄の相手として受け入れることができない。兄のため、と言いながら、実は一番自分のために、蕾夏が必要なのだ。
 翔子もまた、溺れかけている“遭難者”だ―――もしかしたら、現時点では、一番重症なのは彼女かもしれない。
 けれど。
 蕾夏を譲り渡す気など、欠片もない。
 瑞樹は、少しため息をつくと、涙を次々にこぼす翔子の頭にポン、と手を乗せた。
 「ごめんな」
 「……」
 翔子からの返事はない。が、それ以上に食い下がる言葉もない。それが翔子の回答だと解釈して、瑞樹は、翔子の前を歩き去った。
 いや、歩き去ろうとした。
 翔子にシャツの肘のあたりを握られ、瑞樹は立ち止まらざるをえなかった。
 「何……」
 言いかけた瑞樹の唇を、翔子の唇が塞いだ。ほんの、数秒。
 あまりに短い時間だったので、よける暇すらなかった。瑞樹は、ギョッとしたように目を丸くして、翔子を見下ろした。
 「―――自分が助かるためなら、他人を平気で見殺しにできるって言ったわよね」
 低く、感情を押し殺したような声に、思わず瑞樹も息を呑む。
 瑞樹のシャツを握る手は、微かに震えている。けれど、間近から瑞樹を見上げてくる目は、まだ涙を湛えていながら、真っ直ぐに瑞樹の目を見据えていた―――まるで、そのまま、瑞樹を屋上から突き落としかねないほどの迫力で。
 「私も溺れてる人間なの。だからその言葉―――あなたにそのまま返すわ。…絶対、容赦しない」
 背筋が、冷たくなった。

 こいつは、辻 正孝よりも強敵だ。
 見た目に騙されて気を許すと、本当に蕾夏を奪い返すかもしれない。たとえ、蕾夏が嫌がったとしても―――容赦はしないだろう。自分が助かるためなら。

 ―――まだあいつを縛ろうとするなら、その時は容赦なく叩きのめすまでの事。

 「…やれるもんなら、やってみろよ」
 そう言って瑞樹は、翔子を挑発するかのような笑みを浮かべた。


***


 アレルギーの発作を抑える薬を手にあけて、水で一気に流し込む。
 冷たい水で少し落ち着いた所で、翔子は受話器を持ち上げ、プッシュボタンを押した。
 その間、頭の中で繰り返されるのは、今日聞いた瑞樹のあの言葉。

 『俺にとっては、この世には2種類の人間しかいない―――蕾夏と、それ以外の人間』

 ―――どうしてそこまで思えるの?
 どんな揺さぶりにも動じない、女の色仕掛けにも泣き落としにも慣れたような人。思わずこちらが歯噛みしたくなるような余裕たっぷりな笑顔を見せる人。多分、自分が女にとって魅力的な男だと知ってるのだろうに、惹きつけておいて薄情な態度をとる奴。
 そんな人なのに―――何故、蕾夏にだけは、違うの?
 何故、あの子だけが特別なの―――?

 コール3回で、電話は繋がった。
 『はい?』
 「蕾夏、私。翔子よ」
 『え…翔子!? いつ帰国したの!?』
 蕾夏の声は、驚いてはいるものの、明らかに弾んでいた。幼馴染からの珍しい電話を、心から喜んでいる。
 「昨日の朝よ。お正月の時以来よね、久しぶり」
 『ほんと、久しぶり! あ…、まさか、体の具合でも悪くなって、それで帰国したの?』
 突然心配げな声色になる電話の向こうの蕾夏の声に、思わず翔子は疲れた笑いを浮かべてしまう。
 そう…蕾夏はいつもそうだった。どんな時も翔子の事が最優先―――実の兄がすっかり蕾夏優先に頭が切り替わってしまっていた時も、蕾夏だけは常に翔子を気遣っていた。下手をすれば、自分の事よりも、その優先度は高かった。
 蕾夏―――それは、常に、翔子に無条件の愛情を注いでくれる存在だった。昔からずっと。
 「…そんなんじゃないから、心配しないで。今、何してたの?」
 『夕飯のパスタ茹でてた。けど大丈夫、まだお湯沸かしてる途中だったから』
 嘘だろうな、と思う。多分、電話の間に、パスタはお湯に浸かり過ぎでふやけてしまうに違いない。
 蕾夏は、いつも優しい。誰よりも優しくて、そして誰よりも、強い。

 蕾夏―――愛しい愛しい存在。

 だからこそ。
 あなたが、とても、憎い。

 まーちゃんの愛情を一人占めするあなたが、あの人からあんな風に激しく愛されているあなたが、とても、憎い。
 あなたが愛しいからこそ、あなたが愛される理由を誰よりもわかっているからこそ―――身が焦がされるほどに、妬ましい。

 「―――実はね。今日、成田さんに会ってきたの」
 『……え?』
 「素敵ね、彼。思わずキスまで許しちゃった位。―――まーちゃん以外の人で、初めてときめいちゃったかも」
 『―――…翔子…?』
 「ねぇ、蕾夏」
 狡猾(こうかつ)で残酷な自分が、目を覚ます。
 翔子は、鋭く息を吸い込むと、無理矢理口の端を上げてみせた。

 「私に、成田さんを譲ってよ」

 ―――絶対に、容赦は、しない。
 受話器を握る翔子の手は、やはり小刻みに震えていた。


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