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「瑞樹の嘘つきっ! 晴れるって言ったじゃん!」
「気象予報士じゃあるまいし、急な通り雨まで責任持てるかよっ」
とりあえず大きめの木の下に駆け込むと、蕾夏は、ふるふると頭を振って軽く髪に浮いた雨粒を払い落とし、トートバッグからハンドタオルを取り出した。
「翔子、早く拭かないと風邪ひくから」
「あ、ありがとう」
てっきり自分の体を拭くのかと思ったら、蕾夏はハンドタオルで、翔子の頭を丁寧に拭きだした。それを見て、瑞樹が呆れたように片方の眉を上げた。
「…おい。お前、人の事より自分を先になんとかしろよ。お前の方が濡れてるだろ」
「だーめっ。翔子は体弱いんだもん。風邪なんかひかせたら、私、辻さんに殺される」
「お前もあんまり丈夫とは言えねーじゃん…」
仕方なく瑞樹は、ハンカチで蕾夏の肩の辺りの水滴を叩き落した。
―――ったく…なんでこんな妙な取り合わせで横浜くんだりまで来てんだよ、俺は。
小さくため息をつくと、翔子の髪を拭いている蕾夏と一瞬目が合った。
少し戸惑ったように瞳を揺らした蕾夏は、すぐに微かな笑みを浮かべ「ありがと」と声に出さずに言った。何に対する感謝なのかいまひとつ微妙だったが、瑞樹も曖昧に微笑み返した。
***
『瑞樹、今日、翔子に会ったって本当?』
開口第一声。瑞樹は、携帯を耳に当てたまま、数秒固まった。
「―――お前なぁ…電話かかってきていきなりそれじゃ、驚くだろ」
『ね、本当?』
電話の向こうの蕾夏がちょっと緊張しているのを感じ、瑞樹は表情を変えた。
どうしたのだろう? 翔子から何か連絡でもあったのだろうか? ―――翔子の去り際の強い目を思い出し、少し不安になる。
「会ったよ。会社にいきなり来たから、少しだけ」
『…じゃあ、あの…キスしたって話も、本当?』
「は!?」
なんだそりゃ、と思った次の瞬間、翔子にされた不意打ちの短いキスを思い出して、思わず舌打ちした。
翔子の魂胆は、ほぼ見えた。瑞樹に蕾夏を手放す意志がないのなら、2人の間に波風立てて関係を壊してしまえと思っているのだ。あのキスも、そのための布石だった訳だ―――あの瞬間にそこまで考えてたのかと思うと、先制攻撃を受けたような悔しさがある。
「―――あのな。お前の幼馴染が何て言ったか知らないけど、俺はキス“した”覚えはない。“された”覚えならあるけど」
『え? …まさか…翔子が瑞樹にキスした、って言いたいの?』
「言いたい、っつーか、それが事実だ」
『うそっ! 翔子が初対面の男の人にキスするなんてありえないってばっ!』
「…おい。俺が初対面の女にキスする方がまだありえるって言うのかよ。ふざけんな!」
『そ、そんな事言ってないじゃんっ!』
まずい。これでは翔子の術中に嵌ってるに等しい。苛立ったようにこめかみを押さえると、瑞樹は自らを落ち着かせるように一旦息をついた。
「―――とにかく。お前が幼馴染をどう思ってようが、それが事実だから」
『……』
「…なんだよ。信じらんねーのかよ」
『…ううん、そうじゃないよ。瑞樹の話は、信じてる。だから、なんで翔子が私に嘘ついたのかを、今、考えてたの』
少し落ち込んだような蕾夏の声に、翔子が瑞樹に会いに来た目的を話すべきか、迷う。
蕾夏は、同性の友達がほとんどいないため、翔子を非常に大事に思っている。その翔子がそこまで必死になっていると知ったら、きっと動揺するだろう。まだ辻に対する罪悪感を拭いきれてない蕾夏に、下手な動揺は与えたくない。
かといって、話さずにいたら、どんどんあらぬ方向に話が転がってしまいそうだ。やっぱり話すべきかな、と瑞樹が心を決めかけた時、蕾夏の方が口を開いた。
『―――瑞樹。今度の日曜日、翔子と3人で、横浜行かない?』
「…は?」
突然飛び出した言葉に、瑞樹は耳を疑った。
『翔子にお願いされてるの。瑞樹にもう1回会いたいんだって。2人きりはさすがにまずいだろうから、じゃあ3人で、って。私はいいよって言ったけど、瑞樹の意志も確認しないと、ね』
「…なんでまた、そんな話に…」
電話の向こうで、言いよどむような気配を感じる。
『…怒らないでよ?』
「? なんだよ」
『翔子、瑞樹のこと、気に入っちゃったみたいなの』
「―――…」
瑞樹の顔色が変わった。
翔子が蕾夏に言ったその言葉が嘘なのか本当なのか、それはどうでもいい。瑞樹は、全く別のところに神経を逆撫でされていた。
翔子が瑞樹を気に入ってしまったらしい、と、少なくとも蕾夏は思っている。
なのに、その翔子が「瑞樹にもう一度会いたい」と言ったら、それを了解してしまった。
自分の恋人に気のある女に、恋人を会わせる事を承諾してしまったのだ。
―――蕾夏。お前、何考えてるんだ?
俺と恋愛してる自覚あるか?
憤りで、携帯電話を握る手が無意識のうちに微かに震えた。
『…あの…やっぱり、まずい?』
「―――いや。別にまずくない。いいぜ、付き合うよ、横浜」
半ば自棄になって、そう答えた。そして、馬鹿なことに、余計な一言を最後につけ加えたのだ―――誰でも嘘とわかるような、忌々しげな声で。
「俺ももう1回、会ってみたいと思ってたから」
憤りからついた、ちょっとした嘘。言った1秒後には言った本人が馬鹿らしくなってしまったほど、他愛も無い嘘。
その嘘を、まさか蕾夏が真に受けるとは思わなかった。
「どうして?」とか、そういう類の返事を予想していたのに、蕾夏は「…そっか。わかった。OKだって伝えとくね」と、力の無い声で答え、早々に電話を切ってしまったのだ。
―――おい。ちょっと、待て。
そこは素通りする箇所じゃねーだろ。
それから日曜日までの4日間。電話の向こうの蕾夏は、特に今までと変わりなかった。
普段通りの声が受話器の向こうから聞こえてくると、「あれは嘘だから」と蒸し返す機会はなかなか訪れない。ついた嘘自体があまりにも馬鹿げてるから、余計に。結局、胃の奥に何かがひっかかってるような嫌な感じを抱えたまま、日曜日になってしまった。
蕾夏の考えている事が、わからない。
馬鹿げた嘘だからすっかり忘れてしまっているのか。覚えているけど、瑞樹を懲らしめるためにわざと普段通りに接しているのか。それとも―――嘘だという事にいまだに気づいていないのか。
本音など欠片も入っていない、とるに足らない嘘。けれど、その小さな嘘は、瑞樹自身を大きく
***
翔子の髪を拭いている蕾夏が、くしゅん、と小さなくしゃみをした。
それとほぼ同時に、翔子が、胸の中心辺りを押えて苦しげな咳をした。
「おい、大丈夫か」
という瑞樹のセリフは、当然、蕾夏に向けられたもの。
「大丈夫?」
という蕾夏のセリフは、当然、翔子に向けられたもの。その絶妙のタイミングに、2人は、思わず顔を見合わせた。
蕾夏は、瑞樹に苦笑を返し、
「私は、大丈夫。―――翔子、どうしたの、苦しい? 発作?」
翔子の顔を覗き込んで、そう訊ねた。翔子はまだ小さな咳を繰り返している。
「う、うん…ほんのちょっと、苦しいかな」
それを聞くと、蕾夏はまたトートバッグを開き、今度はミネラルウォーターのペットボトルを取り出した。
「お薬持ってきてるでしょ。これで飲んで」
「…なんで今日に限ってミネラルウォーターなんて持ってるんだよ」
どうりで荷物がいつもより大きい訳だ。少し唖然として瑞樹が訊ねると、蕾夏は、さも当たり前そうに笑った。
「昔から、翔子と一緒に出かける時は、いつも水を用意してたから」
アレルギー疾患で、いつ発作が起きるかわからないのだと聞いてはいたが、子供の頃はよほど重篤だったのだろう。
「まるで親鳥だな…」
「でも、成人してから随分良くなったんだよ? 今日は、帰国直後でまだ体調が万全じゃないんだね、きっと…」
ペットボトルの蓋を開けて翔子に手渡す蕾夏は、どう見たって翔子より体が一回り小さい。立場が逆なんじゃねーの、と言いたくなるが、おそらく子供の頃に決定づけられた関係はなかなか逆転させられないのだろう。
翔子の体を気遣い、こまごまと世話を焼いている蕾夏を見ていたら、幼い頃の自分と海晴に重なって見えた。瑞樹は思わず、懐かしさに顔をほころばせた。
懐かしい―――そう、いろんなものが懐かしかった。
横浜は、瑞樹が生まれ育った町だ。氷川丸はM4を買って一番最初に撮影した被写体だし、新しい横浜スタジアムが出来た時には父に生まれて初めて野球観戦につれていってもらった。元町商店街のはずれを少し入った所にはこの界隈一のガキ大将が住んでいたし、その向こうには、護身術を教えてもらいに行った師範の家があった。タダで教えてもらう代わりに犬の散歩させられたよなぁ、なんて事を思い出して苦笑する。横浜の町は、あちこちに瑞樹の思い出が眠っている―――良くも、悪くも。
なんだって翔子と一緒に来なければならないのか、と苛立つ部分はあるが、ちょっとしたノスタルジーに浸るの自体は悪くない。瑞樹は、今日はあくまで思い出の地を撮りに来たのだ、と割り切る事にした。
ふと気づくと、蕾夏が、海沿いに並ぶベンチの方をじっと見ていた。何か気になるものでもあるのか、全く視線を外そうとしない。
「これ、ありがと」
翔子が薬を飲み終えてペットボトルを差し出すと、慌てて視線を翔子に戻した。
「あ、ああ、ごめん。大丈夫?」
「うん、大丈夫」
「何か“見つけた”のか?」
翔子からペットボトルを受け取りつつも意識が海沿いのベンチに行ったままの蕾夏を見て、瑞樹は思わずそう訊いた。被写体を見つけたのかもしれないと思ったのだ。が、蕾夏は小さく首を振った。
「ううん、そうじゃないけど、ちょっとね…」
言いながら、また海の方に視線を移してしまう。瑞樹もその視線を追ったが、彼女が何を見ているのかわからなかった。
「―――あの、ちょっと行ってきてみていいかな? ちょっと気になる事があって」
そわそわとしながら、蕾夏が瑞樹と翔子の顔を見比べた。何故か急いでいるような雰囲気があり、瑞樹だけでなく、翔子も首を傾げた。
「けど、まだ雨降ってるわよ? また濡れちゃうじゃない」
眉をひそめる翔子に向かって、蕾夏は安心させるような笑顔を見せた。
「大丈夫、もうほとんど止んでるし。―――瑞樹、翔子のこと頼むね」
嫌だ。こんな女、知るかっ。
思わず言いそうになったが、なんとか飲み込んだ。というより、蕾夏は瑞樹の返事を待たず、瑞樹と翔子にくるりと背を向けて、港へと駆け出してしまったのだ。まだ小雨がぽつぽつ落ちてくる中、蕾夏の背中があっという間に遠くなっていった。
瑞樹は、大きなため息をつくと、雨宿りした木の幹にもたれかかった。ちらりと翔子の方を見たが、翔子は困ったような顔をして、蕾夏の背中を見送っているだけだった。
本当は、翔子など放っておいて、蕾夏が何を見ていたのか、瑞樹も行って見てみたかった。
違う、そうじゃない―――追いかけて、今感じてる渇きが満たされるまで、抱きしめたかった。
そうやって、蕾夏が自分の近くに居るのを実感しないと、今にも気が違いそうだった。日頃だってそうだが、今は蕾夏の考えてる事がさっぱり読めないから、余計に。
―――蕾夏。お前、本当に俺のこと好きか?
多分、一番最初に交換しあうべきだった言葉―――“好き”。たった2文字のその言葉を、瑞樹も、蕾夏も、まだ口にしていない。
言うチャンスを、確認するチャンスを逃したまま日々が過ぎた言葉は、こんな時に、気まぐれに暗い感情を揺さぶる。雨を含んで少し濡れた頭を軽く振ると、瑞樹は苛立ったように地面を蹴った。
***
―――蕾夏がいないと、途端に無口になっちゃうのね、この人って。
少し離れて、木の幹に寄りかかる瑞樹を横目で見て、翔子は複雑な心境に駆られた。
まさか、2人きりで置いて行かれるとは思わなかった。今では、ぐるりと辺りを見回しても蕾夏の姿はどこにも見当たらない。翔子と瑞樹を2人きりにして、蕾夏は平気なのだろうか? それとも、よほど瑞樹を信用しているのだろうか? ―――蕾夏の考えている事は、昔からよくわからなかったが、今もさっぱりわからないままだ。
「―――蕾夏から、私との電話の内容、全部聞いた?」
沈黙が耐えられなくて、そう声をかけてみる。が、瑞樹は、翔子の声など全く聞こえてないみたいに、どこか遠くを見ていた。
「私が蕾夏に“成田さんを譲って”って言った話は、聞いた?」
そう言うと、ようやく瑞樹がこちらを見た。訝しげに眉をひそめたその顔は、怒りを抑え込んでいる気配があった。
「そんな事をあいつに言ったのかよ」
「言ったの。―――蕾夏が何て答えたか、教えてあげましょうか?」
「…あんたから聞く気はない」
斬って捨てるような、容赦ない声で拒否された。
「あんたのその口は、嘘しか言わねぇから」
「嘘?」
「気に入ったとか、もう一度会いたいとか」
「―――嘘じゃないわよ」
そう言ったらどう反応するだろう。そう思ったが、瑞樹は馬鹿馬鹿しい、といった表情で翔子を一瞥し、また遠くを眺めてしまっただけだった。
―――嘘じゃ、ないわ。
また何も喋らなくなってしまった瑞樹の横顔を見つめた翔子は、唇を噛んで目を逸らした。
『ねぇ、蕾夏―――私に、成田さんを譲ってよ』
どこまで本心だったか、今ではもうわからない。
瑞樹と蕾夏の間に波風がたって喧嘩別れすればいいんだ……そう思って口にしたのは事実だ。瑞樹の想いより、蕾夏の想いの方が弱いに違いない。瑞樹に働きかけて駄目ならば、蕾夏を弱らせて瑞樹から引き離せばいい―――そう思った。
でも。
ほんの少し、本音もあった。
この世には蕾夏とそれ以外の人間しかいない、と言い切る瑞樹―――そういう激しさに、心惹かれた。それも、事実。
そして…そんな激しさで愛されている蕾夏が、どうしようもなく妬ましかった。
―――あれほどの激しさで愛されれば、忘れられるかもしれない。
あの激情を私に向けてくれたら、まーちゃんを、忘れられるかもしれない。
私のまーちゃんへの思いは、たとえ蕾夏を取り戻したって満たされる訳じゃない。この想いは、諦める以外、道のない想い。忘れたい、諦めたい―――そう感じているのは、誰よりも私自身。
由井君に忘れさせてもらおうと思ったけど、駄目だった。オレじゃ弱すぎる、って由井君に言われた。でも、どこかにもっと強い奴がいるから―――由井君は、そう言ってた。
成田さんの強さがあれば、忘れさせてもらえるかもしれない。
だから、蕾夏―――成田さんを私に譲ってよ。
蕾夏は昔から、翔子の望みはなんでも叶えてくれた。苦しい胸のうちを明かせば、同情して譲ってくれるだろうか?
手放してから、失ったものの大きさに涙するだろうか? 翔子がやったように、蕾夏も「瑞樹を返して」と泣いて縋るだろうか? 翔子しか見ていなかった正孝が蕾夏しか見つめなくなった時に翔子が感じた、あの身が引き裂かれるほどの痛みを、蕾夏も感じるだろうか?
自分から愛を求めなくたって、蕾夏はいつも誰かしらに愛されてきた。そんな彼女が、一番大切なものを奪われて、翔子の傷を思い知る―――そんな想像は、翔子の暗い欲求を満たしてくれた。
気づくと、想像に過ぎなかった、本音をちょっぴり混ぜた嘘が、口から滑り出ていた。「成田さんを譲って」と。
蕾夏から罵られ、詰られれば、まだ良かった。
けれど―――…。
「…蕾夏が、ボロボロの状態で由井君に連れられてきた日のこと、覚えてるわ」
ふいに、翔子の口から、そんな言葉が出てきた。
瑞樹に聞かせているつもりではなかった。ただ、急に言いたくなった。
「ショックだった―――傷だらけで、表情がなくて、由井君が支えてないと立ってる事もできない位で…見た瞬間、本当に、ショックで気を失うかと思った」
さすがの瑞樹も、話の内容だけに、目だけは翔子の方に向けた。
「喋れない状態だったのに―――由井君も、藤井は一言も喋らないんだ、って途方に暮れてたのに―――蕾夏、私の顔を見た途端、笑ったの」
「……」
「笑って…“翔子ちゃん、一緒に帰れなくてごめんね。具合どう?”って…そう、言ったの」
「―――あいつらしい」
瑞樹は、小さく笑ってそう言い、また海に視線を戻した。
そう―――蕾夏、らしい。
涙が、こみ上げてきた。
蕾夏は、“愛情”で出来てる―――翔子は昔から、そう思っていた。
いろんな人から愛情を注がれて、でもそれを当たり前と感じるような蕾夏ではない。蕾夏は、注がれた愛を誰かに注ぐ事を常に考えている。だからいつも、自分の事より人の事を考えてしまうのだ。
蕾夏の中で、愛情は循環している―――行き場を求めて。だから、愛情に飢えた人は、自然と蕾夏に心惹かれるのかもしれない。翔子も、そんな蕾夏に愛情を求めて擦り寄っている人間の1人だ。そして蕾夏は、翔子の求めるままに、愛情を注いでくれる。幼馴染だという、ただそれだけの理由で。
今朝、待ち合わせ場所に現れた蕾夏が翔子に向けた笑顔―――昔のような無邪気さはないけれど、慈しむような、優しい笑顔。その笑顔を見て、頭を殴られたような気がした。
これほどの愛情を注いでくれる人を、傷つけた。
自分の負った傷を誤魔化すために、蕾夏に、ほとんど嘘で出来た凶器をつきつけ、傷つけた。
後悔した。
今、蕾夏を傷つけたその嘘が、嘘をついた翔子本人を痛めつけていた。
***
「瑞樹ーっ!」
急に、蕾夏の声が遠くから聞こえてきて、翔子も瑞樹も驚いて彼女の姿を探した。
蕾夏は、100メートル近く離れた海沿いの道に立っていた。手をぶんぶん振って、瑞樹に合図を送っている。
「虹! 虹が出る!」
その言葉に、瑞樹が即座に反応した。肩にかけていたカメラを素早く手に持つと、デイパックを肩にしっかり掛け直して、蕾夏の方に走り出した。
「見当つくか!?」
「多分、あの辺!」
「絶対逃がすなよ!」
気がつけば、雨があがり、にわかに太陽の光が射し始めていた。翔子は、見える範囲の空を探したが、虹がどこに出ているのかさっぱりわからなかった。第一、今の言葉はちょっと変だった。
“虹が出る”?
蕾夏は、何もない空を指差していた。瑞樹も、そちらに向けてカメラを構えている。不思議に思いながらも、翔子もなんとなくその方向をじっと見ていた。
―――…あ…。
翔子は、唖然とした。
1分もすると、その辺りの空に、虹がはっきりとかかったのだ。
―――綺麗…。
思わず、見惚れた。自分の暗い感情も、その虹を見ていると浄化されていく気がする。
『空ってさ、見てると、命が洗濯される気がしない? だから私、毎日1度は空見るようにしてるんだ』
アメリカにいた頃に、蕾夏が言っていた言葉。それを今、翔子は自ら実感していた。
ふと、目を瑞樹と蕾夏に移すと、瑞樹は、翔子の知る瑞樹からは想像もつかないような屈託の無い笑顔を見せ、お手柄、という感じに蕾夏の頭をくしゃくしゃっと撫でていた。
そして。
蕾夏も、笑っていた。
そう―――11年間、誰一人見る事のなかった、あの無邪気でまっすぐな笑顔で。嬉しそうに、自分の頭を撫でる瑞樹の手に自らの手を重ね、笑っていた。
翔子の心臓が、ひきつったような痛みを覚えた。
“翔子も、彼の隣にいる時の彼女の笑顔を見れば、よくわかるよ”。―――正孝の言葉が、頭に響く。たまらない気持ちになって、翔子は必死で目を逸らした。
あの2人だけの間にある空気。
あの2人にだけ通い合う言葉。
見せつけられている―――諦めろ、もう蕾夏を取り返すことも、瑞樹を奪うこともできない、と。
―――じゃあ…私はこれから、どうすればいいのよ…?
まーちゃんを忘れる事もできず、蕾夏を取り戻す事も、蕾夏から成田さんを奪う事もできない―――じゃあ、どうすればいいのよ? 蕾夏、教えてよ…!
逸らした目から、涙がこぼれた。
翔子は、いろんな思いが自分の体の中で複雑に渦巻いているのを感じ続けるしかなかった。
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