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no082:
あやかし
-odai:40-

 

手ヲ握ッテイテアゲタイ。

―99.07―

 辛うじて降っているとわかる程度の小雨が、蕾夏の頬を叩いた。
 “赤い靴を履いた女の子の像”の前で、蕾夏はキョロキョロと辺りを見回した。
 ―――あれ…どこ行っちゃったんだろう。こっちの方に歩いて行ったと思うんだけど…。
 見失っちゃったかな、と思い、大きなため息をつく。どうしようか、と考えながら、無意識のうちに指に自分の髪をクルクルと巻きつけていた。瑞樹がよくやる癖が、蕾夏にも移ってしまったらしい。
 結局、すぐには戻らずに、その辺をうろつくことにした。こんな中途半端な時間で戻ってしまったら、翔子と瑞樹が何か話してる最中かもしれない―――あの子は見失っちゃったけど、ちょっと時間を潰していこう。そう思ったのだ。

***

 『私に、成田さんを譲ってよ』
 言われた瞬間、頭が、その意味をきちんと理解してくれなかった。
 むしろ、その直前の話の方が、具体的すぎてショックが大きい。
 ―――何、キスまで許した、って。瑞樹とキスしたってこと? 翔子が? 初対面なのに、なんで?
 『…蕾夏? 聞いてる?』
 蕾夏が黙ったままでいる事に焦れたのか、翔子の方がそう声をかけてくる。それでやっと、思考停止状態に陥っていた頭が動くようになった。
 「うん…聞いてる」
 『じゃあ…とりあえず、彼にもう一度会わせてもらえない? あ、勿論、2人きりとは言わない。蕾夏と3人で。もう一度、会ってみたいの。今度は、ちゃんと蕾夏の了解のもとで。…駄目?』
 窺うような、少し甘えた声。
 その声を聞きながら、蕾夏の頭は、翔子の言動を丁寧に並べ替えていた。
 翔子が、瑞樹に会いに行った。―――翔子自身には、会社名はおろか、瑞樹の存在すら話していないのに。
 そして、瑞樹を気に入ったと言い、譲って欲しいとまで言う。―――兄以外に目のいかない、極度のブラザー・コンプレックスだったのに。
 「―――ねえ、翔子」
 『なに?』
 「瑞樹が、好き?」
 『…そうね、好きよ?』
 「辻さんよりも?」
 電話の向こうの気配が、凍りついた。
 蕾夏は、翔子に気づかれないよう、電話を少し離して大きく息を吐き出した。
 今感じてるこの気持ちは、どう表せばいいかわからない。やっぱり、という落胆…そう、落胆が一番近い。
 翔子の内面については、多分、兄である辻よりも蕾夏の方がよく知っている。彼が翔子に目が行っていない間も、蕾夏はずっと翔子を見てきたから。
 そう―――翔子の事は、誰よりもよく、わかっている。
 「…ま、いいや。うん、わかった。3人でどっか行こう? 瑞樹誘ってみるから…日曜日でいい?」
 『…蕾夏?』
 「なぁに?」
 『―――なんでも、ない。日曜日でいいわ。それより、最初の話の答えは? 成田さんを私に譲る気、あるの?』
 翔子の声は、焦っているみたいに、上ずっていた。
 翔子をこんな風に追い詰めたのは、自分なんだろうか―――それを思うと、胸がチクリと痛んだ。


 翔子と3人で横浜に行く話をしたら、瑞樹は急に不機嫌になった。
 いや、そうではない。翔子が瑞樹を気に入ってしまったらしい、という話をしたら、電話の向こうの気配が一気に変わったのだ。そんな翔子と瑞樹が会うことを容認した蕾夏に、腹を立てているのかもしれない。
 けれど、3人で会う事をOKしたのには、ちゃんと理由があった。
 蕾夏は、翔子にわかって欲しかったのだ。今、蕾夏が瑞樹と一緒にいる理由を。瑞樹の隣にいる自分が、どれだけ救われているかという事を、理解して、認めて欲しかった。だから、瑞樹といる時の自分を、翔子に見て欲しかったのだ。
 横浜行き、断るのかな…と、息を詰めて待っていたら、瑞樹の答えは、意外にもイエスだった。
 『俺ももう1回、会ってみたいと思ってたから』
 「……」
 本日、2回目のショック。
 一瞬、受話器を落としそうになったが、なんとか短い答えを返し、さっさと電話を切った。
 ―――うん、そうだよね。普通は。
 変に納得している自分がいる。
 何故なら、幼い頃から、事ある毎に見てきたから。翔子に初めて会った時の、人々の羨望と憧憬を目一杯滲ませた目を。好き嫌いは抜きにしても、もう1回会ってみたいよなぁ、と思うのは、極々普通の感覚だ。
 後から考えれば、あれは嘘だったのかも…という気もした。瑞樹は、不機嫌になると時々天邪鬼になるから。でも、そう思ってもなお不安を覚えるほど、長年頭にインプットされた事実は強かった。翔子の華やかな容姿は、全ての人を魅了するのだ―――本当に。

 それから4日間。蕾夏は、忘れた振りをした。でないと、まともに瑞樹と話ができそうにないから。
 嫉妬したり、不安になったり…そんな自分は、できれば知りたくなかった。でも、否が応でも見せつけられる。
 ―――恋愛って、大変だ。

***

 「……あ!」
 何気なく周囲を見回していた蕾夏は、数メートル先にある海沿いに並んだ白い柵に、探していた人物が腰掛けているのを見つけた。
 “彼”は、小学校低学年か中学年位に見えた。GパンにTシャツというシンプルな出で立ちで、ランドセルは背負っていない。鉄製の柵の上に腰掛け、海を眺めている。小さな背中が、なんとなく寂しそうに見えた。
 また見失ったらいけない。慌てて蕾夏は走り寄った。
 「…ねぇ! そこのキミ!」
 蕾夏が声をかけると、彼は驚いたように振り返った。
 ―――やっぱり、どっかで会ったことがある。
 振り返った少年の顔を見て、蕾夏は、さっき感じた既視感を更に強めた。
 雨宿りしていた時、偶然見かけた一人の少年。どっかで見たな、と思った。ただ、どこで見たかは思い出せない―――誰だっただろう? どうしても気になって、追いかけてきてしまったのだ。
 いきなり声をかけてきた、自分とはどう見ても年齢的に接点のなさそうな女性を、少年は訝しげに見上げていた。雨で貼りついてしまった前髪を掃おうともせず、キョトンとした顔のままでいる。
 「…誰?」
 「あの…ごめんね。キミ、私とどっかで会ったことある?」
 「え?」
 突拍子もない質問ではある。少年はますますキョトンとした顔になり、蕾夏を頭のてっぺんからつま先までじっと観察し出した。そんなにじっと見つめられると、いくら子供相手でも居心地が悪い。蕾夏は落ち着かない気分で、後ろに組んだ手を何度か組みなおした。
 少年は、暫く蕾夏を観察した後、少し眉根を寄せて蕾夏を見上げた。
 「ごめん。記憶にないみたい」
 「あ…そう…」
 ちょっと大人っぽい喋り方。ますます既視感が強まる。でも、記憶にないと言われてしまえばそれまでだった。蕾夏は、バツが悪そうに笑顔を見せると、
 「そ、そっか。じゃ、人違いなのかもしれないね。ゴメンね、邪魔して」
 と言って、その場を立ち去ろうとした。
 が、それを見て、少年が、少し慌てたように立ち上がった。
 「あ―――ちょっと、待って!」
 呼び止められ、蕾夏も条件反射で足を止めてしまう。今度は蕾夏の方がキョトンと彼を見下ろしていると、少年は少し頬を赤く染めて、言い辛そうにこう言った。
 「あの…時間、あるんだったら、少し、ここで海見て行かない?」

***

 蕾夏は結局、少年の求めに応じて、彼の隣に座って海を眺めることになった。
 鉄柵は、雨で少し濡れていた。ためらっていると、彼がハンカチで拭いて、座れるようにしてくれた。まだ小さいのに気のつく子だなぁ、と妙に感心してしまった。
 「僕に会った事あるの?」
 海の方に視線を向けたまま、少年がそう訊ねる。その横顔にもなんとなく見覚えがあって、蕾夏は必死に記憶の糸を手繰り寄せようとする。が…何も思い出せない。
 「見覚えがあるの。でも、どこで見たか思い出せないの。―――変だよね」
 「うん。変だね」
 くすっと笑うと、彼は少しだけ蕾夏の方を見た。
 「僕、お姉さんの顔に全然見覚えがないけど―――さっき会った時、なんか懐かしい気がしたよ」
 「懐かしい…?」
 「これも“見覚えがある”って言うのかなあ」
 愉しげな笑顔を見せ、彼はまた海に視線を戻した。なんだか、本当に年齢不相応に落ち着いている子だ。
 「…ねぇ、キミ、いくつ?」
 「8つ」
 「ええと、じゃあ…」
 「3年生。まだ誕生日、来てないんだ」
 ちょっと意外な年齢だった。確かに背格好はその位だが、喋り方や表情から、小柄ながら5、6年生だろうと思っていた。
 「お父さんやお母さんは? 1人で来てるの?」
 「…うん」
 彼の声が、少し小さくなる。小さな肩が、少し身じろぐように動いた。あまり訊かれたくない事だったのだろうか―――不安になり、蕾夏は口をつぐんだ。
 すると、そんな蕾夏の様子に気づいたのか、少年はまた蕾夏の方を向き、困ったように微笑んだ。
 「大丈夫だよ。いつも一人だから、慣れてるんだ」
 「そう。…だから、そんなにしっかりしてるのかな。一人なら、なんでも自分でやらなきゃいけないもんね」
 蕾夏がそう言うと、少年はビクン、と肩を震わせた。そして、驚いたような目をして、傍らに座る蕾夏の顔を凝視した。
 「―――…」
 「え? あ、あの、私、何か悪い事言っちゃった?」
 「…ごめん、違うんだ。ちょっと驚いたんだ」
 まだ動揺しているような笑顔を見せた彼は、動揺を鎮めるためか、また一度海に視線を戻した。大きく息を吐き出し、再度蕾夏の方を向いたその顔は、やっぱり年齢不相応な苦笑を湛えていた。
 「他の大人はさ、皆言うんだよ。親のしつけがいいからしっかりしてるんだね、とか、教育熱心な親御さんね、とかね。―――僕が一人きりだからしっかりしてる、って思ってくれたの、お姉さんが初めてだよ」
 「…そ、そうなんだ」
 少しドギマギして、蕾夏は思わず彼の視線を避けるように視線を逸らした。
 ―――な、何ドキドキしてんだろ、私。相手は8歳じゃないの。ひとまわりどころか、もっと年下なのに。
 逸らした視線を追うように、彼は蕾夏の顔を覗き込むようにした。
 「―――あのさ。お姉さんさ、恋人、いる?」
 「えっ!」
 思わず、振り返って、彼の顔を凝視してしまう。いきなり飛んだ話題に、心臓が跳ねて顔が赤くなった。
 そんな蕾夏の反応を見て、彼は一瞬キョトンとした顔をしたが、すぐに肩を震わして笑いだした。
 「…お、面白い…わかりやすい反応だなー…」
 8歳の子供に、わかりやすいと言われてしまった。蕾夏はちょっと膨れて、余計わかりやすい反応をしてしまった。
 「キミが変なこといきなり訊くからでしょ…」
 「うん。ごめん。―――そっか、いるんだ、恋人」
 彼はまだ笑っていたが、笑いが落ち着いてくると、どこか虚ろな表情になり、また海を眺めてしまった。
 片膝だけたてて、それを抱えるみたいにして―――どこか遠くに思いを馳せている、目。なんだかそれも、やっぱり見覚えがある。蕾夏は、また居心地が悪い気分になり、膝の上のトートバッグを抱えなおしたりした。
 「…お姉さん、大人だよね」
 「え?」
 「成人して、働いて、いろんな義務背負ってるんじゃない?」
 「…まぁ、そうかな? 税金納めてるし」
 なんで8歳の子に納税義務の話をしてるんだろう? 不思議でたまらない。
 「だったらさ。教えてよ。…なんで、恋愛なんて馬鹿げた事するのか」
 「―――え?」
 その質問に眉をひそめた蕾夏は、彼の顔を覗き込んだ。
 彼は、ひどく硬い表情をしている。興味本位で訊いてる訳じゃない、顔―――真剣に、悩んでる顔を。
 「恋愛より大切なものが、この世にはいくらでもあるのに―――恋愛してる連中って、なんで他の大切なものが見えなくなっちゃうんだろう? その恋の犠牲になってるものの事、一瞬でも考えてはくれないのかな…」
 「…何か、悲しい目にでも遭ったの?」
 蕾夏が訊ねると、彼はふるふると首を振り、表情を一層硬くした。
 「もう、悲しいって感情は、捨てた」
 「……」
 「もう、どうでもいい。…ただ、せめて僕は、大人になってもそんな馬鹿な真似だけはするもんか、と思う。一生、誰も好きになんてならない。他の事、見えなくなる位なら」

 他の、大切なものが、見えなくなる位なら―――…。
 蕾夏は、力なく俯いた。
 思い出していたのは、辻のことだ。
 極端な位に妹思いで、両親にも蕾夏にも誠実で優しかった辻が、ある頃から、全くの別人に変わってしまった―――蕾夏しか、見なくなった。
 翔子は、辛かっただろう。それまで目一杯辻に手をかけられていた分、それが完全に無くなった時翔子が感じた不安や孤独は、並大抵ではなかった筈だ。蕾夏の事を恨んだ瞬間もあったかもしれない。あなたさえいなければ、と。
 失った兄弟愛に対する、渇望感―――それを翔子は、恋愛感情だと思い込んでいる。翔子にも見えないその事実を、ずっと一番そばで見守ってきた蕾夏は、とっくの昔に知っていた。
 今の翔子は、辻の盲目的な恋愛の犠牲者だ。
 ―――だから蕾夏は、辻から、離れた。

 「…キミの言う事、よく、わかる」
 蕾夏がそう呟くと、彼はゆっくり、蕾夏の方を見た。少し、眉をひそめるようにして。
 「そういう、しない方がマシな恋愛、私も知ってる。…あれは、誰も幸せになれない恋愛だよ。犠牲になった人達は勿論、恋愛している本人も、ただ苦しいだけで、ちっとも幸せじゃない」
 「本人も?」
 「…愛してる方も、愛されてる方も、ただ、苦しいだけ」
 子供に何話してるんだろう、と、頭の片隅で思う。でも、口をついて出てきた言葉は、何故か止まらなかった。
 「私も、あれを恋愛って呼ぶんなら、一生誰も好きにならないって思った。でも―――そうじゃない恋愛もあるんだって、最近、やっとわかってきた」
 「…あるの? そんなのが」
 「あるよ。…一緒にいればいるほど、いろんな物が見えるようになっていく恋愛が」
 「…ほんとに?」
 疑うような目をする彼に、蕾夏は微笑を返した。
 「本当。私が今、そういう恋をしてるから、間違いないよ。…だから、キミも大人になったら、そういう恋愛すればいいじゃない。キミが知ってる恋愛だけが全部じゃないよ」
 「……」
 「…あ…ご、ごめん。偉そうに、変な事言っちゃったね」
 言い終わったら、なんだか急に恥ずかしくなってきた。蕾夏は顔を赤くすると、慌てたようにそう付け加えた。それにつられたように、彼も少し顔を赤らめた。
 ふい、と顔を背けた彼は、言われた事を消化してるみたいに、暫く黙ったままでいた。が、やがて蕾夏の方に向き直り、蕾夏の目をしっかりと見据えた。少し、寂しげな目で。
 「1つ、お願いしていい?」
 「? なに?」
 「手、握ってもいいかな」
 「…えっ…」
 急なお願いに、ドキリとする。目を逸らしたいが、何故か彼の目から1ミリも視線を移動できない。

 ―――ちょっと、待って。
 この感じ―――そう、この感じ。これも既視感…。知ってる。この視線。
 …これは―――…。

 蕾夏は、少しためらった後、そっと右手を差し出した。
 彼は、蕾夏の手を、まるで壊れ物にでも触るみたいに、恐る恐る握った。蕾夏の手とさして変わらないほど、まだ小さな、幼い手―――ためらいがちだった手に、きゅっ、と力が入った。
 瞬間、蕾夏の中で、いろんなピースが1つの像を形作った。

 ―――この手…知ってる。
 この手は―――…。

 「あ……」
 突然、少年は顔を上げ、蕾夏の手をぱっと離した。
 「ごめん、もう行かないと」
 名残惜しげな笑顔を見せ、彼は立ち上がった。まだ蕾夏よりずっと低い身長―――雨で濡れて、張りのなくなった髪。見た目はかなり違うけれど―――でも、蕾夏にはそれが誰だかわかりつつあった。
 「付き合ってくれて、ありがとう。手握ったら、なんか少し、元気になれたし」
 彼は、そう言って、蕾夏に背を向けた。その背中に、蕾夏はためらいがちに声をかけた。

 「―――瑞樹?」

 振り向いた彼の、一瞬、愉しげに細められる、ダークグレーの瞳―――その笑い方は、瑞樹によく似ていた。
 「またね」
 彼のその言葉に、蕾夏はただ笑顔を返した。

***

 あり得ない話だった。
 あれは、瑞樹と似ている全然別の子供―――そう考えるのが、妥当かもしれない。でも、もしかしたら、何か不思議な力が働いて、幼い頃の瑞樹自身がここに現れたのかもしれない―――そんなあり得ない話も、何故か蕾夏は、すんなり受け止めることができた。
 雨の上がった公園を、なんだか優しい気持ちで歩く。手に残る感触が、無性に愛しかった。彼は今日は、少しは安らかに眠ることができるだろうか? ―――そう思うと、もう一度会って手を握ってあげたい、そんな風に思える。

 蕾夏は、太陽の光が射し始めた空を見上げた。まだ青空にはほど遠い、うっすら水色がかった、灰色の空。早く晴れないかな、そんな風に思いながら。
 デジャヴだ。昔、雨上がりのポトマック河に遊びに行った時も、ちょうどこんな空だった。その時も、早く晴れないかな、と思いながら、空を見上げていた。そうしたら…。
 ―――そうだ。虹。
 蕾夏は意識を集中して、広い空をゆっくり見渡した。
 この前写真を撮りに行った時、瑞樹が言っていた。空はよく撮るけど、まだ虹をまともに撮ったことがない、と。いつ出現するかわからないものだし、なかなか機会がないらしい。
 ―――間違いない。この感じ…ポトマック河で凄い綺麗な虹見た時の空気とそっくりだ。空も、光も。
 ちょうど、さっき雨宿りした木のあたりまで戻ってきている。蕾夏は瑞樹の姿を求めてあたりを見回した。
 瑞樹は、まださっきの木の下にいた。
 早くしないと、一番よく見える瞬間を逃してしまうかもしれない。蕾夏は大きく手を振り、大声で瑞樹を呼んだ。
 「瑞樹ーっ!」
 蕾夏の声が届いたらしく、瑞樹はすぐに顔を上げた。
 「虹! 虹が出る!」
 それで、すぐ事態がわかったらしい。瑞樹は無意識のうちにカメラを手元に構え、すぐに蕾夏の所まで駆けて来た。
 「見当つくか!?」
 「多分、あの辺!」
 「絶対逃がすなよ!」
 そう言われ、蕾夏は、灰色の空の中のある一角に目を据えた。なかなか虹に出会えない瑞樹とは対照的に、蕾夏は結構頻繁に虹を目撃している。空の雰囲気で、どの辺りに虹が出そうか見当がつく位に。
 「どこだ?」
 「あそこ。氷川丸の右側奥の、あのマストに半分隠れそうなあたり」
 「―――ああ、了解」
 わかったらしく、瑞樹は素早くカメラを構えた。蕾夏も、その瞬間を息を詰めて待つ。
 蕾夏が見つけた虹の欠片は、次第にはっきりとした色合いを見せはじめ、やがて綺麗な円弧を描くようになった。空の色も、だんだんと灰色から水色が濃くなってきて、虹色の背景を柔らかい色に染め上げていく。
 ―――うわ…綺麗…。
 ポトマック河で見た大きな虹よりは小ぶりだが、その色合いの鮮明さはあれ以上かもしれない。
 感動で鳥肌がたつ。思わず身を震わせた瞬間、背後でシャッターを切る微かな音がした。
 「綺麗だねぇ…」
 「ああ…やっと虹らしい虹が撮れたって感じだなぁ…」

 最高の、充実感。
 こんな時、もの凄く幸せを感じる。同じ物を見て、同じ感動を共有しあえる。言葉に出さなくても、いろんな物が伝わってくる―――映画で感動する時も、カメラを構えた時も、こんな瞬間を、瑞樹とは共有できる。

 嬉しくなって振り向くと、瑞樹も笑顔を見せていた。
 ぐしゃぐしゃっと髪を掻き混ぜられ、蕾夏はくすぐったくて声をあげて笑ってしまった。その笑い声に紛れるように、瑞樹の声が耳に届く。
 「…あれ、嘘だから」
 「え?」
 「だから―――もう1回会いたかった、ってやつ」
 蕾夏は、一瞬キョトンとした顔になったが、すぐに苦笑を浮かべた。
 「…うん。なんか、そんな気はしてた。でも、一瞬かなりショックだったよ? やっぱり翔子レベルの美人になると、瑞樹でもそういう事思うんだなー、って」
 「んな訳あるか」
 ちょっと睨むようにしてそう言うと、瑞樹は、少し真剣な顔になった。
 「で―――俺も白状したから、お前も1つ、白状しろよ」
 「何を?」
 「俺の事、譲れ、って言われた時、なんて答えたか」
 思わずギョッとした。なんでそれを、と思ったが、答えは明白だ。蕾夏が話してない以上、翔子が話した以外あり得ない。
 「まさか“いいよ”とか言ってないだろうな」
 「ま、まさか! そんな事言ってないよ!」
 「言いそうで怖いんだよなぁ、お前は…。で? 何て言ったんだよ」
 ちょっと動揺したように視線を彷徨わせた蕾夏は、気を落ち着かせるために息をつき、ゆっくり口を開いた。
 「―――瑞樹は私のものじゃないから、私が譲るなんてできない、って答えた」
 瑞樹の眉が、訝しげにひそめられる。
 「それから、私も瑞樹のものじゃないから、瑞樹が私を誰かに譲る事もできない、って。…私も瑞樹も、自分で決めて、自分の意志でここにいるから―――相手に束縛されたり所有されてる訳じゃないから」
 「……」
 「私が譲るって言っても、瑞樹は翔子のものにはならないでしょ? 私も、瑞樹が譲るって言っても、辻さんのものにはならないよ―――自分で見つけた居場所が、ここだもの」
 「―――全く…」
 瑞樹は、苦笑混じりにそう呟くと、蕾夏の頭をまたぐしゃぐしゃと撫でた。
 「どうりであいつ、今日は迫力ない筈だ。電話の段階で、もうお前にノックダウンされてたのか」
 「あれが普段の翔子だよ。…ごめんね、この前、迷惑かけちゃって」
 「こんな時にまで友達の代わりに“ごめんね”かよ…」
 呆れたような声とは裏腹に、瑞樹の表情は穏やかで優しかった。
 「お前、ほんとに“最強の女”だな。俺じゃ到底敵わない」
 「―――瑞樹が唯一“親友”と認めた女だもん」
 蕾夏がクスリと笑うと、瑞樹の目が愉しげにすっと細められた。その顔が、さっき見た少年の笑顔とだぶる。
 ―――手を、握っててあげたい。
 蕾夏の手を必要としていたあの小さな瑞樹が、今ここにいる瑞樹の中にもいる気がして、蕾夏は重ねた手をそっと握った。


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