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「うわー…ペアのマグカップだって。新婚て感じー…」
「この湯飲み、いわゆる
「佳那子さん佳那子さん、これ見て! この時計、2人の名前が入ってる! すごーい。芸能人の引き出物みたいー」
「写真入ってないだけ、まだマシじゃない? それ言うなら外に干してあるお揃いのパジャマ! もう、外から見ただけで赤面物よ、あれは」
「あああー、恥ずかしくてじっとしてられないー」
「じゃあ2人とも出てけばっ!?」
互いの腕を取り合ってゲラゲラと笑い転げる佳那子と蕾夏を睨んだ奈々美は、日頃飲むことのない淹れたてのコーヒーを、一瞬シンクにぶちまけそうになった。
「何よ、もうっ! どうしても見たいって言うから呼んだのにっ!」
「あら、違うわよぉ? 神崎が休日出勤で寂しいから遊びに来てってナナが言ったから、わざわざ土曜日なのに時間割いて来てあげたのよ?」
なるべくクールな口調を装ってそう言う佳那子は、笑いすぎて目に涙を浮かべている。
「私、もっとしっかり見ておかないとなー。カズ君の堕落振りを報告するように、瑞樹から指令もらってるから」
「だめーっ! 成田君にはぜーったい言っちゃだめだからねっ! それでなくてもカズ君、成田君には弱いんだから!」
「…奈々美さん。それ、カズ君が堕落してるって認めてるに等しくない?」
「神崎は堕落してるわよねぇ、確かに…だって、ペアのマグカップの柄、ハートマークだもの」
「そう、ハートマーク…うくくく、も、もうダメぇ、あははははは」
「やだ、蕾夏ちゃん、笑いすぎよ。ああー、おかしいー」
また2人して笑い転げる。そのマグカップで嬉しそうにミルクティーを飲む和臣の顔が、あまりにも容易に想像できたので。
奈々美は相当むくれているが、実際、新婚3ヶ月の神崎家は極甘仕様だった。奈々美の外見の問題もあるだろうが、結婚祝いで貰った物が、大抵「かわいい系」のものだったからだ。ついでに奈々美は、カントリー調のインテリアが好きときている。インテリアなんて無頓着な和臣だから、当然、内装のコーディネートは全て奈々美の好みだ。結果、カントリーテイスト溢れる甘いインテリアが完成した。
佳那子も蕾夏も、甘いテイストは苦手である。おとぎの国にでも放り込まれたようなむずがゆさがあって、冗談ではなく、本当にじっとしていられないのだ。1つ1つ指摘して笑い飛ばしでもしないと、このむずがゆさに耐えられない。
「もういいから、落ち着いて座ってケーキ食べようよ…」
「はー…疲れた。久々にこれだけ笑ったなぁ」
まだ睨んでいる奈々美をよそに、蕾夏は、気分がすっきりした、といった表情で席についた。その隣に座った佳那子は、ハンカチを出して笑いすぎの涙を押さえている。
「…久保田君にも成田君にも報告しとかなくちゃ。男3人が仕事してる間に、佳那子と藤井さんがどれだけ羽目を外して騒ぎまくってたか」
「今日って、なんで男の人だけ仕事してるの?」
奈々美からコーヒーカップを受け取りながら、蕾夏が佳那子の方を見た。
「ああ、今日は展示会の撤去作業なのよ。おじさんたちじゃ話にならないから、若手の男性陣がごっそり連れていかれてるわ。…なに、成田から聞いてないの?」
「仕事の内容までは聞いてなかったから」
「藤井さん、まだ成田君と毎日近い頻度で電話してるんだ…よく続くわねー」
自分の分だけ紅茶を淹れた奈々美が、冷蔵庫から取り出したケーキの箱をテーブルの中央に置きながら、蕾夏の顔をチラリと見る。
「いっそのこと、付き合っちゃえばいいのに。2人ともフリーなんでしょ?」
コーヒーをかき混ぜるスプーンを、一瞬、落としそうになった。
「あ、あはは、なんかそれ、安易で嫌かも」
蕾夏は、慌てて笑顔を作り、そう答えた。が、それなら今の自分たちは安易な方向に転んだだけなのか、と心の中で突っ込みを入れて、自分の発言に密かに落ち込んだ。
でも、周囲からは、当たり前な流れに見えるんだろうな―――再びコーヒーをかき混ぜながら、蕾夏はそんな事を思った。自分たちが手を取り合うまでにどれだけの逡巡を繰り返したかなんて、周囲には想像がつかないだろう。勿論、そんな紆余曲折を他人に見せるつもりはない。ありがちで安易な展開―――そう思われた方が楽だ。
「さて、と―――あら? ケーキ、1種類じゃないの?」
ケーキの箱を開いた奈々美は、その中を覗き込んで、困惑した声をあげた。このケーキは、奈々美が用意したものではない。佳那子が手土産として持ってきたものなのだ。
「あ、それね。それぞれの好みがわからないから、適当に3つ選んできたのよ」
「モンブランに苺ショートにベイクドチーズかぁ…どうしよう。どれもおいしそう」
「じゃんけんにすれば?」
極当然のように蕾夏がそう言うと、佳那子と奈々美がその顔をぱっと同時に見た。2人の表情が複雑なものだったので、思わずうろたえる。
「え? な、何?」
「…蕾夏ちゃん。私がとんでもなくじゃんけん弱いの、忘れたの?」
ああ、そうだっけ、と、約1年前の事を思い出した。久保田が倒れてしまったため、装甲車のような車を誰が運転するかでもめた時、佳那子はじゃんけんに負けて運転を任されたのだ。その後も度々、じゃんけんの場面を目撃してきたが、佳那子は必ず負ける。
「…ま、いいじゃない。とりあえず今回は、じゃんけんで決めよ?」
蕾夏がニコッと笑ってそう言うと、佳那子も奈々美も、なんとなく逆らう気にはなれなかった。
「じゃあ、じゃーんけん…」
1度目の勝負は、蕾夏の勝ち。ベイクドチーズをゲットした。
2度目の勝負は、奈々美の勝ち。モンブランをゲットした。結果、佳那子は苺ショートになった。
「…ベイクドチーズが一番甘くなかったのに…」
甘党ではない佳那子は、蕾夏の前に置かれたチーズケーキをじっと睨んだ。勿論、苺ショートも食べられなくはないが、チーズケーキの方が得意なのだ。
蕾夏は早くもその一部にフォークを突き立てている。
「ごめんね。私も、3つの中ではチーズケーキが一番好きなんだ」
「…まあ、しょうがないわ。じゃんけんに弱い私が悪いんだから」
「じゃあ、罪滅ぼしに教えてあげよっかな」
涼しい顔でチーズケーキを頬張った蕾夏は、何を? という顔をしている佳那子をチラリと見た。
「佳那子さん、最初に必ずグーを出すの」
「え!?」
「で、2回目は必ずパーを出す。…だから負けるんだよ。次からは他の手出してみたら? きっと勝てるから」
「……」
―――蕾夏ちゃん。それに気づいていながら、ケーキ選ぶ前にわざと教えなかったわね…? しかも、私がチーズケーキ選ぶ事も見抜いてた訳ね?
奈々美と目を合わせた佳那子は、呆れたように蕾夏の横顔を睨んだ。でも、言われてみれば、これまでチョキを出した経験はほとんどない気がする。次回は意識してチョキ出してみようかな―――口には出さず、そう思った。
***
「あら。これ、ちゃんとしたツーショットじゃないの」
ケーキを食べ終えて、また部屋を見て回っていた佳那子が、テレビボードの上に置かれた写真立てに目をとめた。
蕾夏と一緒にケーキ皿やカップの後片付けをしていた奈々美は、首を伸ばして佳那子の方を見、ああ、という風に笑った。
「それ、成田君が撮ってくれた、パーティーの時の記念写真よ」
隣にいる蕾夏の心臓が、ドクン、と鳴った。
「ふーん。やっぱり成田、上手いわね。バランスよく入ってるじゃないの。私も友達の結婚式で頼まれて撮った事あるけど、人物を必死に真ん中に配置したら、新婦の服が切れちゃったのよねぇ…」
写真立てを手に取って感心している佳那子の所へ駆け寄り、蕾夏もその写真を見てみた。
ポジの状態で確認しただけだった、和臣と奈々美のポートレート。プリントされたそれは、その時なかなか確認できなかった細部も、しっかり確認できた。
和臣の表情は、少し照れたような笑顔だった。目線はまっすぐ、カメラの方を向いている。一方の奈々美は、華やかで楽しげな笑顔を浮かべている。目線はやはり、まっすぐにカメラの方―――…。
数日前、出版社の1階で見た“生命”と比較をした蕾夏は、瑞樹が「何」を撮らなかったのか、わかった気がした。
―――“目に見えないもの”を、撮らなかったんだ。
表面を撮っただけ。和臣と奈々美というオブジェを撮っただけ。…そこに流れる空気や感情は、撮ってない。瑞樹には、それができるだけの力があるのに。
ファインダー越しに、目を直視できなくて―――その場の空気や被写体の感情を感じ取るだけの時間、ファインダーを覗いていられなくて。
プロの仕事に、人物を被写体としたグラビア写真が多い事位は、蕾夏も想像がついていた。それは全て、いわゆるポートレートだ。
―――瑞樹は、プロのカメラマンには、なれない。
思わず、唇を噛んだ。
「その写真立てね、お姉ちゃんが結婚祝いにくれたものなの」
蕾夏の考え事に割って入るように、奈々美がそう言った。
「沙弥香さんが?」
この言葉には、佳那子の方がより反応した。眉をひそめ、改めて写真立てをじっくりと眺める。
結構、手の込んだ細工があしらわれている。銀製なのか真ちゅう製なのかわからないが、銀色のフレームには細かな彫りが施されていて、はめられているガラスも、周囲がすりガラスになっていて中央が大きくクリアになっている、という凝り方。適当に買ってきたとは思えないしろものだった。
「ナナ、沙弥香さんと仲直りしたの?」
「…ん。実は、式の翌日、ここに来たの」
エプロンを外した奈々美は、その時の事を思い出したのか、複雑な笑顔を浮かべて佳那子と蕾夏のところへ来た。
「凄かったわよー? わんわん泣いて、あんたの事なんて大嫌いだった、なんて言ってね」
“大嫌い”。さすがに、佳那子も蕾夏もギョッとしたように目を見開いた。
「でも、私も大嫌いだったから、おあいこなのよね―――なんかね、不思議だった。あのお姉ちゃんが…どこを取っても私より出来がいいお姉ちゃんが、私の事を嫉妬してたらしいの」
「……」
「私も、お姉ちゃんの事、ずっと嫉妬してた―――ほんとに、おあいこなの。私もお姉ちゃんも、思わぬところで相手を傷つけて、自分だけが傷ついてるって勘違いしてたみたい。わだかまりが完全に消えた訳じゃないけど…言いたい事をぶちまけ合ったから、少し楽になれたわ」
「…そう。なら、良かったわ」
佳那子は、安堵したような笑顔を浮かべた。
「私、ひとりっ子だから、その辺の心の機微はわからないけど…沙弥香さんも、案外普通の人だったんだな、って事は、わかったわ」
「そういえば、お姉ちゃんも佳那子と一緒で、じゃんけん弱かったなぁ…。私が勝てるのってじゃんけん位だったから、小学生の頃、じゃんけんしてはお姉ちゃんにランドセル持たせて、密かに優越感に浸ってたりしたっけ。結構暗い小学生だったのね、私って…」
「…私もよく、友達のランドセル、持たされてたわ…」
案外佳那子と沙弥香は、話し合ったら共通の悩みや苦労があるかもしれない。複雑な顔で眉を寄せる佳那子を見て、奈々美はくすっと笑った。
蕾夏は、薄く微笑みながら、黙ってその話を聞いていた。
蕾夏も佳那子と同じく、ひとりっ子だ。姉妹や兄弟の繋がりについては、実体験がないだけに全くわからない。けれど、奈々美の話を聞きながら、何故か翔子の事を思い出していた。
帰国する前、最後のクリスマス―――辻家一同がアメリカの蕾夏の家に遊びに来た時。子供3人で街へ出かけ、クリスマスツリー用のもみの木を買ってきた、帰り道。
体の弱い翔子に持たせる訳にはいかない、と思い、辻と蕾夏で、大人の背丈ほどのもみの木をずるずると引っ張った。すると、翔子は泣きながら追いかけてきて「私も運ぶ! 私にもやらせて!」と言ったのだ。どうしても聞かないので、辻が「じゃあ、じゃんけんに勝った2人がもみの木を運んで、負けた1人は他の2人の荷物を持つこと」とルールを決め、じゃんけんをした。
徹底的にじゃんけんの弱い翔子は、結局最後まで、もみの木を運ぶことはできなかった。蕾夏は手にまめを作り、かなり痛い思いをしたのだが、翔子は赤くなった蕾夏の手を羨ましそうに見ていた。
―――だって、仕方ないよ、翔子ちゃん…。翔子ちゃんには、運べないんだもの。
翔子が、大人から任されたその仕事を手伝いたかったのは理解できたが、仕方のないことだった。
このところ、ずっと考えていた。何故、翔子が蕾夏に嘘をついたのか。
兄のため―――ひいては、自分のためだと、蕾夏は解釈していた。蕾夏の気持ちを揺さぶって、なんとか辻のところに戻るように仕向けたい、そのために、瑞樹からキスされたような嘘をついたのだ、と。
でも…それだけでは割り切れない何かを、あの電話の時、蕾夏は感じていた。あの時感じたものは、とても暗くて、刃物のように鋭いものだった。
―――私…、もしかして、翔子に憎まれてる…?
翔子が運びたかったもみの木を運んだ私を、憎んでるのかもしれない―――たとえ私が、喜んでもみの木を運んだ訳ではなくても。ううん、仕方なく運んだからこそ、余計に。
自分には、許されない事だから、余計に。
『思わぬところで相手を傷つけて、自分だけが傷ついてるって勘違いしてたみたい』
奈々美の言葉が甦ってきた時、ゾクリとした冷たいものを感じた。
***
玄関を開けた途端、電話の呼び出し音が廊下にまで響いた。
慌てて部屋の電気をつけると、蕾夏は靴を脱いで、電話へとダッシュした。時刻は夜の7時過ぎ。瑞樹と明日映画に行く約束はしているが、瑞樹からの電話にしては時間が早すぎる。誰だろう? と思いながら、慌しく受話器を持ち上げた。
「はい…!」
『―――蕾夏?』
高めの弱い声が、耳に届いた。その声が誰であるか瞬時にわかり、蕾夏の顔はパッと明るくなった。
「翔子?」
『うん』
「良かったぁ…。横浜以来、全然連絡くれなかったから、心配してたんだ。あの後、大丈夫だった? 発作はおさまった?」
『…大丈夫だったから、心配しないで。すぐにお薬効いたし』
「そう。良かった」
受話器を肩と耳で挟みながら、蕾夏はバッグを邪魔にならない所におろし、ローテーブルの上のエアコンのリモコンに必死に手を伸ばした。こういう時コードレスでないと結構苦労する。なんとかリモコンを手にし、除湿運転させた。
「あ、そうだ。昨日まで“フォト・ファインダー”の展示会やってる、ってハガキ出したけど…届いた?」
『―――届いたわよ。昨日、ギリギリで見てきた。…まーちゃんと一緒に』
一瞬、心臓が止まった。
「―――え?」
『まーちゃんと見てきたわ。成田さんが撮った蕾夏を。…いけなかった?』
「…いけなくは、ないけど…」
止まった心臓が、動き出す―――でも、正常な動きではない。異常に速くて、妙にドキンドキンと大きく脈打っている。
―――翔子……どうしたの、何考えてるの、なんでそんなに声に抑揚がないの…?
『会場では平然としてたけど…家に帰ってきてから、やっぱりまーちゃん、辛そうな顔してて―――見ていて、あんまり可哀想だったから…その辛そうな顔、とても見てられないから…』
「…な、に?」
『―――私、思わずキスしちゃったの。まーちゃんに』
背筋に、冷たいものが一気に走っていった。
蕾夏は、口元に手を当て、速くなる呼吸を必死にコントロールしようとした。けれど、到底無理だ。
「―――翔…子。よく、聞いてよ? 翔子のそれは、恋愛感情じゃないよ」
『…別に、なんだっていいわ』
「よくない! 翔子は、自分だけ見てくれてた辻さんを取り戻したいだけなの。翔子だけに優しい辻さんが戻ってくれば、それで満足できるの。辻さんと恋愛したい訳じゃない。それは翔子の思い込みだよ、わかってる!?」
『じゃあ、昔のまーちゃんを返してよ! 今すぐ!』
悲鳴のような翔子の声に、蕾夏の喉は詰まった。
『蕾夏の事なんて目に入らない昔のまーちゃんを返してよ! こんな想い抱える前の私を返してよ! できないでしょう!? あの日より前の蕾夏には戻れないのと同じで、どんなに戻りたくたって戻れないでしょう!?』
「……」
『…まーちゃんが誰かと結婚するとこなんて見たくない…けれど、これ以上蕾夏を想い続けてるまーちゃんを目にしてたら、私、まーちゃんに何するかわからない。恋愛じゃなくてもいい、気が狂ってるって言うならそれでもいいわよ。でも、どうしようもないの…! ねぇ、蕾夏、助けてよ…蕾夏しか助けられる人いないじゃない、助けてよ…!』
泣きじゃくる、高い声。泣きじゃくる方が多くなってしまい、もう声にはなっていなかった。翔子は半狂乱状態で、泣き続けていた。
胸が、引き裂かれそうに、痛い。蕾夏は思わず、シャツの胸元をぎゅっと握り締めた。
「翔…子―――翔子、ごめん。翔子の気持ちは、よくわかる。でも…辻さんとは、一緒になれないよ」
『……』
「お願い。辻さんに、もう少しだけ時間をあげて。約束してるから―――いつかきっと、前の辻さんに戻ってくれる。信じて、待ってあげて」
『…どうして、まーちゃんじゃ、駄目なの』
「…恋愛って、そういうもんなんだよ。ごめん…私、瑞樹でないと駄目なの」
『…どうせ、続かない、そんなの』
しゃくりあげながら翔子が口にした言葉。
「え?」
『成田さんは、まーちゃんとは違うもの。普通の男の人だもの』
意味がわからない。蕾夏は眉を寄せた。
『まーちゃんは、蕾夏をただ見てるだけで幸せだけど、成田さんは違うもの。成田さんは、佐野君と同じだもの』
蕾夏の顔色が変わった。
『成田さんだって佐野君だって、普通の男の人はみんな同じよ。蕾夏を
「…翔…子…?」
喉が、渇く。受話器を握る手が、震える。
佐野があの時言った言葉…覚えている――― 一言一句、違わずに。
でもそれは、蕾夏だけが聞いていた言葉。そう…由井だって、知らない言葉。
―――だったら、これは…翔子自身の、言葉…?
『成田さんは、まーちゃんみたいに“籠の鳥”にはしてくれないわよ。蕾夏にそれが耐えられる? 大人しく抱かれる事ができる? 告白してくる男の子、全部振ってたわよね。相手にナイフを振り下ろす夢を必ず見ちゃうから。そんな蕾夏に、まともな恋愛なんて本当にできるの? 今度は夢の中じゃなく、本当に成田さんにナイフを振り下ろす羽目になるんじゃないの? 佐野君に対してそうしたみたいに!』
「や…めて…!」
―――わかってる。翔子が本気でこんな事言ってるんじゃないことは。ただ、自分が受けた傷を、私に返したいだけなんだ。私が一番傷つく言葉で、自分の傷を思い知らそうとしてるだけなんだ。
でも…それでも、これは、耐えられない―――…!
「翔子…っ! お願いだから…もう、こんなのやめようよ…っ!」
『私がまーちゃんを想ってボロボロになったみたいに、成田さんを想ってボロボロになったこと、蕾夏にはある? ないでしょ? その程度なのよ。蕾夏にとっては恋愛なんて綺麗な絵に過ぎない…心や体が蹂躙される屈辱なんて、蕾夏の神経じゃもたないに決まってる。続かない…成田さんとの関係なんて、続く訳ない。蕾夏には、普通の男の人との恋愛なんて耐えられる訳ない! 大人しく籠の鳥になっとけば良かったって、まーちゃんにしとけば良かったって、絶対後悔するんだから…っ!』
と、その時、電話の向こうの翔子の気配が、突然消えた。
「翔子!?」
どこか遠くで、言い争うような声がしている。その一方は、翔子の声のような気がする。蕾夏は、震える手をもう片方の手で押さえながら、受話器を握り締め続けた。
言い争った末、翔子は大声を上げて泣き出してしまったようだ。再び受話器の向こうに人の気配を感じ、蕾夏は思わず身を乗り出した。
「翔子! 翔子、どうしたの!? 大丈夫!?」
『―――僕だよ』
全身の血が、凍った気がした。
震えが、一瞬にして止まる。震える事すらできない―――瞬きすら。
「…つ…じ、さん…」
『…ごめん。翔子、昨日から混乱状態なんだ。僕が目を離した隙に電話したみたいで…多分、何言ってるか、本人もわかってないと思う。…言われた事は、忘れてしまってくれ』
深みのある、低い声―――聞いてると気分が落ち着くような声。2月に電話で話して以来、半年振りの、辻の声だった。
声が、出なかった。何を話していいのか、何も頭に浮かばない。蕾夏は、受話器を握り締めたまま、暫し、その場に立ち尽くした。
『―――で、蕾夏。…君は、どうしたい?』
蕾夏の方からは何も話せないのを感じたのか、辻が、静かにそう言った。
『翔子は、君と成田君を引き離して、僕の中に閉じ込める事を願ってるらしいけど…君の望みは?』
「…私の、望み?」
『僕の手から、逃れたい―――それだけ?』
―――私の、望み。
そう―――まだ、辻には、決別の言葉しか言っていない。
2月の電話の後、気づいた事―――今、一番大切な事を、辻にはまだ伝えていない。
蕾夏は、何度か唾を飲み込むと、なんとか声を搾り出した。
「―――瑞樹と、一緒にいたい」
それだけが、望み。
どんな過去もいらないし、どんな未来もいらない。ただ、今この瞬間、瑞樹と一緒にいたいだけ―――他は、何も望んでない。
『…わかった。それが、聞きたかったんだ』
辻の声は、翔子とは対照的に、落ち着いていて穏やかだった。辻は、大きく息を吐き出すと、少し口調を厳しくした。まるで、医師が指示を与えるような、無機質な声で。
『だったら君は、その事だけを考えるんだ。翔子のことは、僕がなんとかする。君は、二度と考えるな』
「でも、」
『辻 翔子という幼馴染はいなかった。そう思った方がいい―――でないと、君が壊れる。いいね?』
「! っ、辻さんっ!」
―――そんな事、できないよ―――…!
蕾夏の声を無視して、プツン、という音と共に、電話は切れた。
ツー、ツー、という無機質な音を聞きながら、蕾夏は、精神力の全てを使い果たしたように、その場に座り込んだ。
―――頭が、追いつかない。
翔子は、何て言ってた? いろいろ言われすぎて、頭がパンクしそう。
こんな感じ、覚えがある―――そうだ。事件より前。クラスの女の子に囲まれて、身に覚えのない事をいっぱい言われた。その時、思ったんだった―――この子たちの目には、私の姿は、そんな風に映ってたのか、と。
翔子の目に映った、私。
…よくわからない。どんな映像も浮かばない。けれど、1つだけ、痛いほどわかったことがある。
―――私は、翔子に、憎まれていたんだ…。
宇宙にたった一人で放り出されたような、孤独感。
あまりにも寂しすぎて―――蕾夏は、泣く事さえ、できなかった。
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