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no085:

-odai:12-

 

渇キヲ癒ス、1杯ノ、水。

―99.08―

 寝不足気味の頭で、瑞樹はネットニュースを適当に流し読みしていた。
 画面右下の時計を見ると、現在10時半過ぎ―――まだ30分はあるな、と、ため息をつく。
 少し仮眠をとっておこうか、と考え、ベッドの上にごろんと寝転がってみたが、眠気はさっぱり訪れない。それでも目を閉じ、時が過ぎるのをじっと待った。考えてみたら、部屋で誰かが来るのを待つのって初めてかもしれないな―――そんな事を思いながら。


 蕾夏からスケジュール変更の電話がかかってきたのは、昨晩の比較的早い時間だった。
 『ごめん…明日、映画、パスしてもいいかな』
 「は?」
 展示会の撤去作業から帰ったばかりで、あまり頭がうまく回ってなかった。だから、蕾夏の声の微妙なトーンの違いに気づきにくい状態にあったのかもしれない。
 「なんで? お前が行きたいっつってたんじゃん、例のお子様禁止の“アイズ・ワイド・シャット”」
 『ん、そうなんだけどね。…ちょっと今、人がいっぱいいる所に行く気分じゃないんだ』
 さすがに、異常に気づく。瑞樹は訝しげに眉を寄せ、携帯を握り直した。
 「どうかしたのか? カズの家で何かあった?」
 『ううん。奈々美さんとこは楽しかったよ。それとはまた別な事で―――…ごめん。まだ、気持ちが整理ついてなくて、うまく説明できない』
 蕾夏の声のトーンが、更に下がる。辻か、翔子か―――とにかく、あの2人関連かもしれない、と、本能的に察知した。
 「…なら、うちでビデオでも見るか? ヒッチコック劇場、残り1本だろ」
 『うん。そうする』
 ほっとしたように、蕾夏の声が一段明るくなった。蕾夏の声が明るくなると、瑞樹の方も神経が休まる。携帯を持つ瑞樹の表情も、少し和らいだ。


 ―――何があったんだろう…?
 天井を見上げて、いろんな可能性を模索する。が、昨日の蕾夏の声とは、どの可能性もいまいちマッチしていない。蕾夏の声は、酷く寂しそうで、落ち込んだ声だった。
 まるで失恋でもしたような声だったよな、と思っているところに、枕元に投げておいた携帯電話が鳴った。
 蕾夏かな、と思いながら、頭だけ上げて携帯を取り上げた。
 「はい?」
 『―――…』
 「? もしもし?」
 『…お兄ちゃん?』
 心臓が、ドクン、といって止まった。
 記憶を辿る。最後に聞いた時は、まだ14歳の、子供っぽさの残る声だった筈―――その欠片を、声の中に探す。携帯を耳に当てたまま、瑞樹はゆっくり体を起こした。
 「…海晴?」
 『―――…っ』
 受話器から、昔から耳に馴染んだ小さな泣き声が聴こえた。
 ―――海晴、だ。間違いない。
 「…おい、泣くなよ。12年ぶりに聞く声が泣き声じゃ、あんまりだろ」
 『―――う…うん、ごめん。な、なんか、気持ちが昂ぶっちゃって』
 上ずった声で慌ててそう言う海晴の声は、記憶に残る14歳の少女の声とよく似ていたが、年齢の分だけ違っていた。ますます母の声に似てきた気がして、瑞樹の胸中は複雑になる。
 「どこでこの番号聞いたんだ?」
 『…神戸にいる、木村さん。お兄ちゃんの中学の時の同級生の。木村さんの妹と結構仲良かったから、年賀状だけは続いてたの。それで…』
 「…そうか。木村ってルートが残ってたな」
 中学時代では唯一、今も繋がりのある友人だ。アクティブな男で、動物保護団体だか何だかに入って日本各地を飛び回っているから会う事はほとんどないが、互いの携帯番号だけは知らせあっていたのだ。
 「元気にしてるか?」
 『うん…お兄ちゃんは? 変わりない?』
 「変わりないよ」
 『お父さんも元気にしてる?』
 「正月帰った時は元気だった。相変わらずマイペースに生きてる。…どうした。何かあったのか?」
 『―――あの…』
 海晴は、言うべきかどうか迷ってる風に、言葉を濁した。ほとんど接点のない元同級生に連絡を取ってまでかけてきた電話なのだ、余程の事情があるとしか思えない。
 「…悪いけど俺、この後予定あるから、あんまり長電話はできないんだ」
 『あ、ごめんなさい。…あの…』
 まだ逡巡してるかのように言いよどみ、ようやく海晴は用件を切り出した。
 『お兄ちゃん…一度、お母さんに会えない?』
 「え?」
 『このお盆休みにでも、一度会って欲しいの、お母さんに』
 瑞樹の表情が、一気に険しくなる。
 「―――お前、それ、答えはわかってるんだろ? …わかってるなら、訊くなよ」
 『…やっぱり、駄目?』
 「前に言った通りだ。…一生、会わない。どんな理由があろうとも」
 『……』
 「ごめん、海晴。…でも、これはもう、決めた事だから」
 『…わかった』
 最初から、あまり期待はしていなかったのだろう。海晴は、案外平静な声でそう言い、小さくため息をついた。
 『じゃあ、1つだけ訊いていい?』
 「何?」
 『事故の事なんだけど』
 瞬時に、全身が強張った。
 不意打ちすぎる。その話が、今この場で出てくるとは思わなかった。
 電話でよかった。実際目の前にいたら、動揺で顔色が変わるのがはっきりわかってしまっただろう。瑞樹は、自らを落ち着かせるように目を伏せ、一度、大きく息を吸い込んだ。
 「うん…何?」
 『1週間くらい前に、私、バイクと接触事故起こして捻挫しちゃったの。その時に病院で、お母さんに“そういえば私、ちっちゃい頃にも事故に遭ったよね。ぶつかりやすいタイプなのかなぁ?”って言ったら―――お母さん、泣き出しちゃって』
 「……」
 『私に向かって何度も“ごめんね”って。何度も何度も―――あんなお母さん初めてで、私、どうしていいかわからなくて。…これ、どういう意味だか、お兄ちゃんにはわかる?』
 「…いや、わからない。俺も小さかったからな…ほとんど何も覚えてないんだ」
 『ほんとに?』
 「ほんとだよ」
 『……お兄ちゃん、私を傷つけまいとして、何か隠してない?』
 ―――頼む、海晴。もう何も訊くなよ。問い詰めるなって。
 本当は、覚えてる。嫌になる位細部まで、克明に。時にはその夢を見て、目覚めた時に全身震えが止まらなくなってしまうほどに。今だって、その話を出された途端、脳裏にはあの日の光景がまざまざと浮かんでくる―――今だって、手が震えて、背中には冷たい汗が伝っている。その位、あの日の記憶は、リアルだ。
 けれど―――これは、死ぬまで、自分だけが持っていく記憶。
 「…本当だって。親父に訊いてみれば? 親父なら、何か知ってるかも―――ごめん。タイムオーバーだから、そろそろ切っていいか?」
 『あ…っ、ごめんなさい』
 「海晴」
 膝の上の拳を、ぎゅっと固める。握りすぎて、爪が手のひらに食い込んだ。
 「できれば、二度と、かけてこないで欲しい」
 『……』
 傷ついたような海晴の顔が思い浮かぶ。胸が痛む―――けれど、仕方ない。これ以上、海晴に問い詰められれば、今の自分なら話してしまうかもしれない。自分だけが抱えると決めた事を。
 「お前にはもう、信頼できるパートナーがいるし、な。…でも、お前の幸せは、ずっと祈ってるから」
 『―――うん。わかった。ごめんね、電話して。何かあったら、今度は手紙にする。…じゃ、元気でね』
 「ああ。海晴も、元気で」
 電話は、海晴の方から切った。それを確認して、瑞樹も電話を切った。

 携帯をベッドの上に投げ出し、瑞樹は床の上に乱暴に座り込んだ。
 詰めていた息を、一気に吐き出すと、手が震えた。軽いフラッシュバック状態かもしれない―――瑞樹は目を閉じ、抱えた膝頭に額を押し付けた。
 ―――喉が、渇く。
 あの日も、酷く喉が渇いていた。その渇きは、水を飲めば癒す事ができたけれど―――今のこの渇きは、水なんか飲んでもなんの役にも立たないだろう。
 少し落ち着いたところで、テーブルの上のウーロン茶の入ったグラスに手を伸ばした。一気に飲み干したけれど、焼け付くような喉の渇きは、やっぱり癒される事はなかった。

***

 呼び鈴を鳴らす事なんて、これが初めてだ。蕾夏はちょっと緊張気味にボタンを押した。
 ほどなく、ドアが開き、瑞樹が顔を出した。その顔を見て、蕾夏は眉をひそめた。
 「…どうかしたの」
 「ん…寝覚めが悪かった」
 あまり顔色のよくない瑞樹はそう言って苦笑した。ふと、蕾夏の手元の箱に気づき、何それ、という顔をする。
 「レモンのシャーベット。途中で買ってきたの。今日も暑いよ、外―――柑橘系で甘くないなら、瑞樹も食べられるでしょ」
 「コーヒーゼリーとかの方が好きだけど」
 「…あ、そう。じゃあ私1人で食べるから、いいよ」
 「冗談だって」
 瑞樹は小さく笑うとポン、と蕾夏の頭に手を置き、先に部屋の中に戻っていった。その表情が、最初見た瞬間に比べて少しだけ和らいだ気がしたので、蕾夏もホッとして、ドアを閉めた。
 ほど良く冷房のきいた部屋に入ると、外から体にまとわりついていた熱気がすーっと冷めていく感じがして、心地よい。
 「寒いか? ここ」
 「ううん、今は、ちょうどいい。もう少ししたら自分で温度上げるから、大丈夫」
 「…やっぱり、寝不足、って顔してるな」
 ローテーブルの脇にぺたん、と座った蕾夏の前にウーロン茶入りのグラスを置きながら、瑞樹がその顔を覗き込んだ。蕾夏の目は、僅かに赤くなっていて、表情もいつもよりぼんやりとしている。
 「…んー…ほとんど眠れなかったから。やっぱり映画パスして正解だったと思う」
 本当は、ほとんど、ではない。全然眠っていない。
 翔子の電話を取ってからずっと、息のできないような苦しさを感じていた。からからに渇いた喉を水で潤しても、すぐにまた喉の奥に何かが詰まってしまったように苦しくなる。ベッドに入ってからもそれが続き、到底眠ることができなかったのだ。
 思わずレモンシャーベットを買ったのも、瑞樹の部屋まで来る途中、喉が渇いて仕方なかったからだ。いつもなら素通りする洋菓子店の店先、涼しげなイラスト入りで売っていたそれは、やたらとおいしそうに見えた。
 「ヒッチコック劇場、残り1本てこれだっけ」
 瑞樹が蕾夏に、ビデオテープの背の部分を見せた。蕾夏は細かく書かれた短篇の名前をざっと見て、
 「そう、それそれ。順番通りに見てなかったんだね、3巻目を見てなかったなんて」
 と言いながら、洋菓子店の白い箱をぱかっと開けた。
 「へぇ…本物のレモンが器になってるのか。凝ってんな」
 箱の中から蕾夏が取り出したレモンシャーベットを見て、瑞樹が感心したような声をあげた。
 「オレンジゼリーなんかではよく見るじゃない? レモンの、しかもシャーベットでこういうのって、珍しいよね」
 「それなら、食う気起きる」
 「…結構、見た目に左右されるね、瑞樹も…カズ君に“瓶で酒を選ぶのか”って文句言ってたくせに」
 「余計な事ばっか覚えてんなぁ、お前も…」
 むっとしたようにそう言って、瑞樹はビデオをビデオデッキに突っ込んだ。午前中に『ヒッチコック劇場』を見てしまって、午後からは昼食をとりがてら外出して、何かビデオを借りて来よう、という話になっているのだ。
 「…ごめんね、瑞樹」
 隣に腰を下ろす瑞樹を見上げながら蕾夏がそう言うと、瑞樹は訝しげな顔で見下ろしてきた。
 「何が」
 「映画、パスしちゃって。キューブリックのファンなんだし、行きたかったでしょ」
 「…ああ。別に、まだ暫く公開してるし―――俺も、部屋でビデオ鑑賞会の方が、今日は良かったかもしれない」
 ほんと? という顔で蕾夏がじっと見ると、瑞樹はくるん、と蕾夏の髪を一束指に巻きつけ、クスリと笑った。
 「寝覚めが悪かった、って言っただろ」
 「…うん」
 その笑顔を見たら、昨日から抱えていたパサパサした感情が、少しだけ潤った気がした。自然と蕾夏も、安心したような笑顔を見せていた。

***

 2人は、エアコンの温度を少しだけ上げ、レモンシャーベットを食べながら、のんびりとビデオを見ていた。
 さっぱりとしていて、それでいてほんのり甘いシャーベットは、口に運ぶと舌の上ですうっと溶け、香りだけを残して消える。そのタイミングが妙に心地よくて、蕾夏は少しゆっくりめにシャーベットを口に運んだ。
 ―――なんだか、眠い。
 ビデオは面白いし、シャーベットは冷たいのに、そのどれもが適度な心地よさで眠気を誘う。檸檬(れもん)の香りも、もしかしたら鎮静効果があるのかもしれない。受験勉強の時に、目を覚ますために檸檬を机に置いてた同級生がいたが、あれは逆効果だったんじゃないだろうか。
 ―――眠い…春の縁側でひなたぼっこしてるみたいだ。
 あれだけ翔子に言われた事が頭の中に渦巻いていたのに、今はひとつも出て来ない。翔子という幼馴染はいなかったと思え、という辻の言葉も嫌というほど頭に響いていたのに、それもどこかへ消え去っている。
 やっぱり、この部屋は、不思議だ―――ただ居るだけで、心が潤ってくる。
 いや、違う。この部屋じゃない。きっと、理由は、瑞樹だ。瑞樹がそばにいてくれるから、こんな風に感じるんだ―――そんな気がした。
 がくん、と頭が前に傾いて、蕾夏はハッと目を開けた。

 「……っと」
 どうやら、居眠りしていたらしい。慌てて髪を掻き上げ瑞樹の方を見ると、案の定、面白そうな笑みを浮かべて蕾夏を観察していた。
 「レモンとスプーンを持ったまま舟漕いでる図ってのも、結構面白いよな」
 「…寝不足だったんだもん」
 ちょっと口を尖らせ、蕾夏は手に持っていたレモンシャーベットとスプーンをテーブルの上に置いた。のんびり食べ過ぎたのか、僅かに残っていた筈のシャーベットは、既に溶けてしまっていた。
 「まるで、食事しながら眠っちまう赤ん坊と一緒だな」
 「ひどっ。そこまでお子様じゃないもん。第一、瑞樹だって、写真手に持ったまんま居眠りするじゃない。瑞樹もお子様なんだ?」
 「…ま、ガキなのは認めるけど。―――蕾夏、髪、食べてる」
 居眠りしている間に、毛先が口の中に潜り込んでしまったらしい。瑞樹が手を伸ばして、その髪を指先ではらった。急に瑞樹の顔が近くなったので、蕾夏の心臓が、ドキン、と音を立てた。
 至近距離で、瑞樹の目と視線が合う。なんとなく、暫くそのまま見詰め合ううち、その間合いがすっと縮まった。蕾夏は自然、目を閉じた。
 なんだか当たり前な流れのように、唇が重なる。軽く、触れるように。
 少し眠気を帯びた目を重たげに上げると、まだ瑞樹の目がそこにあった。
 「…瑞樹、檸檬の香りがする」
 「…お前もだろ」
 「うん…そうかもしれない―――…」

 ―――なんだか…酔っ払ったような気分…。
 また、それが自然な成り行きみたいに、唇が重なる。さっきより長く―――また離れても、また繰り返す。
 不思議な位、恐怖心も恥ずかしさもない。フワフワと、どこか中空を浮遊するような気分が続く。キスするたびに、漂う檸檬の香りに酔う。この香りはどちらのものなんだろう? なんて思いながら。
 コトン、と背中が床についた時も、緊迫感より浮遊感の方が強かった。握られた手の温かさが心地よくて、思わず甘えたくなる。擦り寄るように、また口づけた。
 渇いてた喉が、潤ってく感じがする。
 瑞樹のキスは、どんなキスも優しい。唇が触れるたびに、パサパサに乾いてしまってた自分が、だんだん満たされていくのを感じる。
 理由は簡単、だけど難しい―――“それが、瑞樹だから”。説明できないような、理由。

 耳元に当たった唇がくすぐったくて、思わず声をたてて小さく笑う。それを耳にして、瑞樹もほんの少し笑う。もう、どちらが先に笑ったのか、よくわからない。
 やっぱり、酔っ払っているのかもしれない。2人とも。
 でも、いいや、と、蕾夏の中のどこかが思う。ずっとこんな陶酔感を味わっていたい。心も体も、このフワフワした幸福感に委ねてしまいたい。翔子は無理だと言ったけれど、続く訳がないと言ったけれど、瑞樹なら大丈夫な気がする。
 瑞樹は、優しい。
 この人は、怖くない―――私を、傷つけたりしない。

 その時、首筋に一瞬、鋭い痛みが走った。
 びくん、と肩が強張る。
 頭の一部が、急激に覚醒した。途端、体全体が強張った。
 蕾夏自身はまだこの陶酔感を味わいたいのに、体が言う事をきかない。脚を撫でるように這い上がってきたあの手の感触を、脚が勝手に思い出す。手首を押さえつけられる痛みを、手首が勝手に思い出す。
 瑞樹は優しいのに、蕾夏もその優しさに全て委ねてしまいたいのに―――体が、言う事を、きかない。
 気がつくと蕾夏の手は、瑞樹の肩を掴んで押し留めていた。

***

 肩を押さえる蕾夏の手の力で、瑞樹も夢から覚めた。
 顔を上げ、蕾夏の顔を見下ろすと、蕾夏は少し蒼褪めていた。困惑したような表情で、瑞樹の目を見つめている。
 「蕾夏…?」
 「…ご…ごめん…」
 蕾夏の手は、瑞樹の肩を掴んだまま、微かに震えていた。けれど、瑞樹から逃げようとしたり、瑞樹を押しのけようとはしていない―――それが、今の蕾夏の状態を表している気がした。
 ふと視線を移すと、白い首筋に1ヶ所、赤い痕がついていた。いつの間にこんな真似をしたのだろう? 瑞樹は後悔したように視線を逸らした。
 「―――悪い。調子に乗った」
 「ち、違うよ。瑞樹が謝ること、ない」
 「違わない」
 海晴と電話で話してからずっと、喉が渇いていた。けれど、蕾夏の笑顔を見た瞬間から、それが癒されていくのがわかった。
 蕾夏に触れると、渇きが癒されていく。満たされていく。だから、蕾夏にはせめて優しくしたい―――そう思った筈なのに、一体どこで理性を飛ばしてしまったのだろう?
 何やってるんだ俺は、と自らに苛立つ。瑞樹は、小さくため息をつくと、雑念を払うように頭を振った。
 「ごめん。…大丈夫か? どこも痛くないか?」
 蕾夏の手を取って起き上がらせながらそう訊ねると、蕾夏は小刻みに首を横に振った。
 「…ごめん…瑞樹」
 「だから、お前が謝るなよ。俺が謝ってるんだから」
 「違う。瑞樹が謝る事なんて何もないの。ごめん、ほんとに…」
 互いに“ごめん”を繰り返して、譲らない。さすがに瑞樹も苦笑した。
 「―――やめよう。なんか俺たち、一生“ごめん”の応酬で終わりそうだ」
 「…うん。そうだね」
 蕾夏も苦笑いすると、疲れたようにベッドにことん、と寄りかかり、そこに頭を乗せた。
 なんだか叱られた子供みたいにそうしていた蕾夏は、ずっと瑞樹を見ていた。少し悲しそうな、少し寂しそうな顔をして。
 「…どうした?」
 「―――瑞樹、私といて、苦しくない?」
 「え?」
 瑞樹は、眉をひそめて、蕾夏を見つめ返した。苦しい? どういう意味だろう。
 「簡単に抱きしめたりキスできる女の子、世界中にいくらでもいるじゃない。…私みたいなの、苦しくない?」
 「…ああ、なんだ。そういう事」
 さては翔子に要らぬ事を吹き込まれたな、と察し、瑞樹は蕾夏を真似てベッドに寄りかかり、頭をマットレスに預けた。
 「お前の方が苦しんでるように見えるけど?」
 「そんな事ないよ。…なんか、私ばっかりいい思いしてる気がして、時々、怖くなる。私は瑞樹に何もしてあげてないから」
 「そんな訳ない。そりゃ、俺も普通の男に過ぎないから、全然平気、とは言わねーけど…そんなもんは、後からついてくる物だから、どうでもいい。それより重要な事は、蕾夏にしかできない事だから」
 瑞樹の言葉に、蕾夏はキョトンと目を丸くした。
 「私にしかできない事?」
 「上手く説明できないけど―――隣にいるだけで、渇いてる心が、癒される感じがする」
 蕾夏は、ちょっと驚いた顔で2、3度目を瞬き、瑞樹の目を見つめた。それから、どこかホッとしたように、柔らかく微笑んだ。
 「良かった―――瑞樹も私と同じ事、感じてたんだ」

 安心したせいか、蕾夏の目が眠たげに閉じた。瑞樹も昨日はあまり眠っていない。目を閉じた蕾夏を見ていたら、なんだか眠くなってきた。
 どちらからともなく手を伸ばして、指先だけ繋ぐ。2人は気だるい眠気に身を委ねた。
 そうしているだけで、渇ききっていた自分が、少しずつ潤されていく気がした。


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