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no086:
セックスと純潔
-odai:58-

 

愛ノアル女ハ、美シク、強イ。

―99.08―

 「どうしたの、蕾夏ちゃん。元気ないわね」
 注文したパスタがあまり進まない蕾夏を見て、隣に座る佳那子が小声で訊ねた。少しぼんやりしていた蕾夏は、慌てて笑顔を作り、スプーンとフォークを動かした。
 「そう? そんな事、ないよ」
 「成田と喧嘩でもした?」
 「違う違う。元気だから、心配しないで」
 2人の会話が聞こえたのか、真向かいに座る瑞樹が一瞬目を上げた。蕾夏と目が合うと、少し笑顔を見せた。瑞樹は事情を知っている。その事は少し忘れとけ、と言いたかったのかもしれない。

 今年の夏休みは、実質、ほとんどゼロだった。
 なんとか全員の休みが揃った2日間を利用して、今、蕾夏を含めた総勢6名は、久保田の車で伊豆に来ている。1泊2日の小旅行だ。
 その旅程の大半が“伊豆バイオパーク”になってしまったのは、主に動物好きな女性陣3名と「エミューをどアップで撮りたい」と言った瑞樹のせいだが、道路がこれだけ混んでるのは、そこが結構人気の観光スポットであるせいと、今が全国的な夏休みの真っ只中であるせいだろう。昼までに目的地に到着できなかったので、途中の喫茶店で昼食を食べている。
 佳那子が言う通り、蕾夏は、あまり元気がなかった。
 けれど、蕾夏が心ここにあらずな原因は、佳那子が心配するようなものとは全く別なもの―――昨日の晩、電話で母から聞いた話を思い出していたせいだった。
 『翔子ちゃん、あまり具合良くないみたいで、この夏休みはずっと日本で過ごすことにしたみたいよ』
 ―――あれ以来、翔子からも、辻からも、連絡は一切ない。
 大切な幼馴染を失ったかもしれない、という不安は、蕾夏の心に大きな穴をあけていた。けれど、辻がああ言った以上、蕾夏の方から連絡する訳にもいかない。辻と翔子は、今どんな状況にあるのだろう? ―――心配だったが、蕾夏にできるのは、母に「何かあったら連絡頂戴ね」と頼む位の事だけだった。
 辻とは、時間と距離を置くことで、少しは良い方向に向かう事ができている感じがする。…翔子にも、時間と距離が必要かもしれない。寂しいけれど、放っておく事が最大の治療―――そんな気がして、知らず、蕾夏はため息をついていた。

 「やっぱり藤井さん、元気なさそう。大丈夫?」
 和臣の隣に座る奈々美までがそんな事を言うので、蕾夏は、最大限の笑顔を作ってみせた。
 「だーいじょうぶ! 夏休みの大半を2000年対応で潰されて、ちょっと疲れてるだけだから」
 「そう? 怪しいわねぇ。隠し事してるから、心ここにあらずになるんじゃないの?」
 佳那子が、涼しい顔で、そんな風に言った。
 「隠し事?」
 不思議そうな顔をする蕾夏をよそに、佳那子はチラリ、と久保田の方を見、続いて瑞樹の様子を窺ってから、明らかにさっきまでより大きな声で告げた。
 「せっかくだから、公表しちゃえば? 成田と付き合ってる事」
 ガシャン! と音をたてて、瑞樹と蕾夏の手からスプーンが落ちた。
 キョトン、とした目の和臣と奈々美とは対照的に、久保田は愉快そうな顔をしている。当然だ。これは佳那子と打ち合わせ済みの話だから。旅行までに2人が何も言わないようなら、花束贈呈の仕返しにバラしてやれ、と。
 瑞樹の目が、まさかお前話したのか? という風に蕾夏を睨む。とんでもない。蕾夏はぶんぶん首を横に振った。
 「え…、あの、まさか…冗談だよねぇ?」
 やだなー、そんな冗談言って、という微妙な笑顔で、和臣が向かい側の佳那子の顔と隣に座る瑞樹の顔を見比べた。蕾夏の顔を見る勇気は無いらしい。
 「あら、ほんとよ? 会社来た時、仲良く指繋いで眠ってたもんねぇ? お2人さん」
 「は!?」
 瑞樹と蕾夏の声がかぶった。居眠りしたのは間違いないが、指を繋いでたなんて、記憶にない。
 ―――こいつら…計画的だろ、これ。カズにばれると面倒だから隠しておいたのに…!
 勝ち誇った顔の佳那子と、2人がどう出るか愉快そうに見守っている久保田を睨み、瑞樹はため息をついた。案の定、瑞樹が心配したとおり、和臣の顔はだんだん蒼褪めてきている。
 「あ、あの、まさか…本当に? 嘘だよな?」
 縋るように和臣に見つめられ、瑞樹は降参した。
 「…そういう顔するから、カズには言いたくなかったんだよ」
 「嘘っ! オレ、聞いてないよっ! い、いつからだよっ!」
 「カ、カズ君、落ち着いて…」
 奈々美が、興奮状態の和臣の服を引っ張って止める。和臣の「藤井さん信仰」の度合いを一番知ってるのは、実は奈々美だ。和臣の蕾夏に対する思いは、芸能人に対する思いに近い。ファンクラブ会員ナンバー1桁、といった感じだ。奈々美も、ファンレターを送るほどだった俳優が結婚した時には、この世の終わりかと思うほどのショックを受けた。あの感じに、今の和臣は近いのだとわかる。
 「ふ、藤井さん! いつから!? いつからただの友達じゃなくなっちゃったの!?」
 瑞樹が答えてくれないと見るや、矛先は蕾夏に向いた。
 「さ、さぁ? いつ、って言っても…いつかなぁ?」
 言える訳ない。和臣本人の結婚式の日からとは。
 「ショ、ショックーーーっ! なんで今更成田だよーっ! 安易すぎ、ありがちすぎ、意外性なさすぎっ! いいじゃん、ずーっと親友だけでも! なんで今更恋人になんかなるんだよっ!」
 「いいじゃないか、安易路線。全然知らない男にとられちゃうよりマシだろ? カズ」
 久保田がそうフォローを入れるが、和臣はキッ、と久保田を睨み、続いて瑞樹を睨んだ。
 「いいかっ、成田! 絶対、手は出すなよっ! キスまでなら許す。それ以上はオレが絶対許さないからなっ!」
 その言葉に、瑞樹は勿論、全員、固まった。
 「…なんで神崎がそこまで言うのよ」
 呆れる佳那子の言葉も、和臣には届いていない。
 「結婚するまでは、キス以上はダメっ! 藤井さんは繊細で清らかなタイプなんだから、余計ダメっっ! あああ、もー、藤井さんにだけはずーっと清らかであって欲しかったのにっ! なんで成田みたいな世を拗ねちゃった奴を選ぶんだよ。もー、ショックすぎるーーー!」
 「カズ君」
 奈々美が、再びピラフを口に運びながら、いつもより若干低めの声で言った。
 「それ以上“藤井さん藤井さん”って言うようだったら、離婚だからね」
 「……」
 ピタリ、と和臣の興奮状態が止まる。和臣は、急激にしぼんだ風船みたいにしおれた状態で、大人しくシーフードカレーを食べ始めた。
 結婚3ヶ月あまりで、すっかり奈々美に操縦方法をマスターされているらしい。急に大人しくなった和臣に合わせるように、全員、黙々と食事を再開した。

***

 「安易とか言われるとムカつく…」
 「…まぁ、仕方ないよね。一番近いとこにいた相手なのは事実だし」
 バードケージで色とりどりの鳥たちにカメラを向けつつ、瑞樹と蕾夏はため息をついた。
 今は久保田が引き剥がしてくれているが、ついさっきまでは、瑞樹と蕾夏が2人きりじゃ危ない、などと言いながら、和臣が周囲をうろうろしていたのだ。恋人だとわかった途端にこれなのだから、たまったものではない。
 「奈々美さん、よく怒らないよね」
 「…だよな。普通の女なら、即離婚だろ。自分以外の女にあんな状態になる奴なんて」
 「おーい、瑞樹! そろそろサファリバス出るぞ!」
 売店脇で、久保田が手を振っている。瑞樹と蕾夏は、鳥の撮影を切り上げ、サファリバス乗り場に急いだ。
 「サファリバスかー。これが楽しみだったんだよね」
 蕾夏の顔が一気に明るくなる。そもそも、伊豆旅行のメインが“伊豆バイオパーク”になったのは、蕾夏の発案なのだ。鳥に限らず、動物はなんでも好きな蕾夏にとっては、間近で放し飼いの動物が見られるサファリバスツアーは、最高に魅力的なアトラクションだ。
 「富士サファリパークとかあるだろ。行った事ないのか?」
 「記憶にないなぁ。瑞樹、行った事ある?」
 「ある。横浜いる頃、妹にねだられて、電車とバス乗り継いで行った」
 蕾夏の目が、丸くなった。
 「え…まさか、瑞樹と妹さんの2人きりで?」
 「そう。親父の親戚が富士吉田に住んでるから、そこに泊まらせてもらった」
 「いくつの時よ、それ」
 「神戸行くちょっと前だから、10歳か11歳か」
 横浜から富士サファリパークへの行き方なんてわからないが、10歳の子供が妹を連れて行くには遠すぎる道のりなのは間違いないだろう。
 「スーパー小学生だったんだね、瑞樹って…」
 「なんだよそりゃ」
 「私が10歳の時なんて、ワシントンD.C.から1人で出る事できなかったよ。1人であちこち出歩けるようになったの、日本に帰ってきてからだもん」
 「…まあなぁ…ほっとかれてたから、やむを得ず年齢不相応な奴になったのは間違いないよな。近所のおばさん連中は褒めてたけど、親の教育がいいんだろう、なんて言われると、はらわた煮えくり返りそうだった」
 聞き覚えのあるセリフだ。横浜で会った、あの少年――― 一人きりだからしっかりしている、と言ってくれたのは蕾夏が初めてだ、と言っていた。
 ひとりっ子で、親の愛情を十二分に与えられ、安全な籠の中に守られてきた自分。親に放置され、愛情を期待することすらやめて、妹を必死で守ってきた瑞樹。…接点のない、2つの点。
 つい最近まで、そんな部分に不安を覚えていたが、逆にそれだからいいのかもしれない、と思い始めている。はっきりした言葉にはならないが、全く逆の立場にあった同士だからこそ築ける関係もあるのかもしれない―――そんな気がして。
 コツン、と瑞樹に頭を軽く叩かれて、バスに乗る順番が来たことに気づいた。慌ててチケットをバッグから取り出した蕾夏に、瑞樹は苦笑を浮かべた。
 「ぼーっとしてんなよ。…幼馴染の事だったら、旅行中位は忘れてないと、体がもたないぞ」
 そう言われ、蕾夏も苦笑を返した。違う―――さっきはそうだったけれど、今は、翔子のことを考えていたのではない。瑞樹のことを考えていたのだ。
 あんな状態の翔子のことを、今、一瞬完全に忘れていた。そんな自分を責める部分と、これでいいんだと安堵する部分が、体の中を真っ二つにしている。
 “これからは、誰が傷ついてもいいから、成田さんと自分の事だけ考えてくれよ”―――由井の言葉を、蕾夏は思い出していた。

***

 ホテルの部屋割りで、また一悶着あった。
 「オレ、成田と一緒がいいっ」
 「…なんで」
 「夜中に抜け出さないように見張る」
 ツイン3部屋分の鍵を持った久保田が、呆れた顔を和臣に返した。
 「お前ね。瑞樹とお前が一緒の部屋になったら、木下はどーなるんだ?」
 「佳那子さんがいるし」
 「だったら、藤井さんは俺と同室だぞ。いいのか?」
 「……」
 「じゃあ藤井さんと佐々木を同室に、ってことになったら、今度は木下が俺と同室だぞ。いいのか?」
 「…女の子3人同室ってことでは…」
 「やめてよ。なんでツインに3人で泊まらなくちゃいけないのよっ」
 奈々美が肘で和臣のわき腹を小突いた。しゅん、とうなだれた和臣は、
 「…やっぱり、夫婦1室確保させて」
 極当たり前な結論に辿り着いたが、久保田の顔をじっと凝視し、こう続けた。
 「久保田さんっ。成田をしっかり監視しといて下さいねっ。夜中に抜け出したりしないように、いざとなったら縄かけてもいいですから」
 「よくねーよっ」
 背後から瑞樹が和臣の頭をはたいた。なんだか、檻に入れておかないと暴れだすライオンにでもされた気分だ。瑞樹はため息をつき、和臣を軽く睨み上げている奈々美を見下ろした。
 「木下さん、もっと怒れよ…ぎゅーぎゅーにシメあげてちょうどいい位だろ、こいつ」
 「ふふふ、勿論そのつもりよ。任せて。明日の朝には藤井さんのふの字も言えないように、きっちりシメあげておくわ」
 どうやってシメあげる気なのだろう? 奈々美の不敵な笑い方がどうにも気になるが、誰もそれを確認する勇気はなかった。

***

 「今日くらいは、成田と同室が良かったんじゃないの?」
 佳那子の言葉に、蕾夏は、手にしていたバッグを、思わずドサリと床に落とした。
 先に荷物を置いて、早くも靴を脱いでベッドに脚を投げ出している佳那子を凝視する。
 「…佳那子さんの口から、そんなセリフが出るなんて…」
 「あら、どうして?」
 「だって、前は散々怒ってたじゃない? 瑞樹と同じ部屋で居眠りとかすると」
 「ああ…だって、それは“親友”だからよ。“恋人”だったら、文句は言わないわ。中学生や高校生じゃないんだから、大人の恋人同士にとっては自然なことだもの」
 涼しい顔でそう言う佳那子を、蕾夏は唖然とした表情で見つめていた。そんな蕾夏を、佳那子は逆に不思議そうな顔で見つめ返す。
 「どうかした?」
 「…ええと、あの…なんか、唖然としちゃって…」
 上手く説明できない。蕾夏は、床に落としてしまった荷物を台の上に置き、備え付けの室内スリッパに履き替えた。
 「佳那子さんて、カズ君ほどではないにしても、筋金入りのモラリストだと思ってたから」
 「あら、そうよ? 究極的にモラリストだって自分では思ってるもの」
 佳那子を真似て、ベッドに座って脚を投げ出す蕾夏を見ながら、佳那子はくすっと笑った。
 「ただ、私と神崎の違うところは、セックス、イコール、(けが)れてしまう、って発想がないところよ。神崎はずぼらな性格ではあるけど、偏ったジャンルで妙に潔癖症だから。蕾夏ちゃんも、あいつの言った事は、あんまり気にしない方がいいわよ」
 「…なんか、佳那子さんからそんな単語がポンポン飛び出すと、驚いちゃうなぁ…」
 思わず顔を赤らめる。瑞樹の部屋で居眠りしていた事が発覚した時に、半分泣きながら説教していた佳那子と同一人物とは思えない。
 「でも、よくわかんないなぁ…親友は同室NGで、恋人なら同室OKって。逆じゃない? 親友の間には、恋愛感情が無いから、その…危ない事にもならないでしょ。けど、恋人同士だったら、そこには恋愛感情があるから、同じ部屋に泊まったりすれば、そりゃいろいろある可能性もあるな、って思うんだけど」
 蕾夏が難しい顔をしてそう言うと、佳那子は、うーん、という感じで天井を仰いだ。
 「お互い恋愛感情があるなら、何があってもOKだと思うタイプなのよ、私は。だから同室OK。―――私が、蕾夏ちゃんが成田の前でやたら無防備なのを心配してたのは、そこに恋愛感情が無かったからよ。恋愛感情がなくても、シチュエイションが揃っちゃえば、人間なんてどう転んじゃうかわからないもの。何か起きてから後悔するんじゃ可哀想だから…特に女の子の方がその傷は大きいから、ちょっとは警戒しなさい、って言ってた訳よ」
 「…恋愛感情なくても、って…そんなの、って、あるの?」
 「あるわよ。だから心配したんじゃないの」
 蕾夏の表情が、微妙に変わった。佳那子の、やたら確信を持った口調に、第六感が働いたのだ。
 「―――もしかして、佳那子さんと久保田さんが、そうなの?」
 「えっ!」
 佳那子の顔が一気に赤くなった。佳那子は、嘘をつくのが下手なのだ。感情の起伏が、全部素直に顔に出てしまう。今のリアクションと表情は、蕾夏の言葉を肯定した以外の何者でもなかった。
 「…そーなんだ…知らなかった」
 「…あー…失敗した…」
 こんな話しなけりゃ良かった、という風に、佳那子は大きなため息をついて、ベッドにどさっと倒れこんだ。蕾夏が勘の鋭いタイプなのは知っていたし、自分が嘘をつくのが下手なタイプなのも十分自覚していたのに―――不覚だった。
 「―――まぁ、蕾夏ちゃんに隠し事するのは、無理かもねぇ…。口は堅そうだし、別にいいかな」
 「口は堅いよ。そこだけは安心して」
 にこっと笑う蕾夏の笑顔に、佳那子は弱い。ひとりっ子同士だからだろうか、どうも佳那子は、蕾夏の事が気になってしょうがないのだ。昔から妹が欲しいと思っていたから、蕾夏に妹の要素を見出しているのかもしれない。観念して、佳那子は口を開いた。
 「…そ。私と久保田が、まさにそれ。…というか、もっと酷いかも」
 「酷い?」
 「記憶にないんだもの。お互いに」
 「…え?」
 「昨日まで“大っキライな奴”だった筈の相手が、朝、目が覚めたら、隣に寝てたのよ」
 「……」
 蕾夏の目が、極限まで見開かれた。
 「え…っ…え、ええええええ!? 何それっ!?」
 「最低でしょ。これで本当に、ひとっかけらも記憶が無かったら、今の久保田との関係も成り立ってないと思うわ。即刻転職よ」
 「…って、ええと、どういう事?」
 「微かにだけど、そこに至るまでの経緯を覚えてるの。お互い意気投合して、飲みながらいろんな話して―――それまでの私だったら絶対他人に見せなかった弱みとかを、久保田の前で曝け出しているシーン…微かに覚えてるのよ」
 佳那子は、その記憶を辿ってるみたいに、どこか遠くを見ているような目をした。
 「久保田が、その時何を言ったかも、うろ覚えだけど覚えてる―――久保田の言葉に、私は救われた。記憶は飛んじゃってるけど、その事だけははっきり覚えてるの。…その瞬間に、全部決まっちゃったんだと思う。私の中で、ね。一瞬パニックにはなったけど、その記憶があったから、後悔はなかった―――この人で良かった、って思えた」
 「……」
 「けれど、結婚前にそんな関係になっちゃったって事は、神崎流に言うなら、久保田は獣で、私はもう穢れちゃってる、って事なのよね。なんか、ムカつくわ」
 本当にムカついたように眉間に皺を寄せる佳那子を見て、唖然としていた蕾夏も、思わずクスリと笑ってしまった。確かに、和臣ならそう言いそうだ。
 でも、本当に意外だ。佳那子は和臣以上に、そういう事には潔癖症だと思っていた。表面的な事で判断しちゃ駄目なんだな、と、隣のベッドに寝転がる佳那子を、蕾夏はぼんやり眺め続けた。

 「―――本当の純潔って、何かしらね」
 ポツンと、佳那子が、そんなことを呟いた。
 「身体的な純潔は、確かに、男に抱かれてしまったら終わりなのかもしれないけど―――そんな純潔を守り通すことを孤高の行為のように思ってる神崎も、間違ってる気がするわ」
 「身体的な純潔以外の純潔、って、何?」
 「心にもあるでしょ。純潔ってものが」
 佳那子の表情が、どこか虚ろになった。少し声のトーンが変わったので、蕾夏は身構えた。
 「…なんだか、話したくなっちゃったわ。聞いてくれる?」
 「…うん。何?」
 「多恵子ちゃんのこと」
 多恵子。初めて耳にする名前だ。
 「久保田の、大学からの友達で、エキセントリックな自殺マニアだったの。本当に変わってる子で―――彼女にとっては、愛とか恋なんてどうでもいい、性別すら関係ない。気に入れば女性相手でもキスするの。実際、私もキスされたのよ」
 「えっ!」
 「変わってるでしょ。…男の子相手だと、それが時にはセックスにまでもつれ込む事もあった。恋愛感情の有無とそういう行為は、彼女の中では別物だったみたい。彼女は、死ぬ事を望みながら、どこかで人肌の温かさに飢えてたから―――どんなモラルも飛び越えて、それを求めちゃうの。本能を優先して生きてる子だった」
 急に、佳那子の目が潤んだ。ギョッとして蕾夏は慌てたが、話を中断するのはまずい気がした。佳那子は、何かを吐き出したがっている―――そんな気がする。蕾夏は、ざわつく胸を押さえて、努めて穏やかな表情で話を聞き続けた。
 「そんな彼女なのに、絶対擦り寄って行かなかった相手が、1人だけいるの」
 「…誰?」
 「……久保田」
 瞬いた佳那子の目から、涙がこぼれ落ちた。
 「久保田は、多恵子ちゃんの、唯一の“聖域”だったの。多分、本当の意味で愛していたから、あえて体の関係は避けてたんだと思う。久保田を他の気に入った相手とは分けるために―――心の純潔を、体の関係で穢したくないから。最初の挨拶のキス以来、一度もキスもしなかったって言ってた。…その位、好きだったのよ、久保田が」
 「……」
 「その位好きだったからこそ―――久保田を諦めた瞬間、多恵子ちゃんのこの世に対する唯一の執着がなくなったの」
 ドキン、と心臓が鳴った。蕾夏は唾を飲み込み、佳那子の顔を見据えた。
 訊かなくてもわかる―――多恵子という人は、望みを果たしたのだ。“死”という望みを。
 なんとなく、佳那子の声のトーンが変わった理由がわかった。佳那子は、心のどこかに、多恵子の死に対する自責の念を抱いているのだ―――多恵子から、久保田という存在を奪ってしまった、という思いが、少なからずあるから。蕾夏は、その姿に、「まーちゃんを返して」と叫ぶ翔子に胸を痛める自分を、一瞬重ねた。立場は全く異なるが―――佳那子の気持ちは、わかる気がする。
 硬い表情の蕾夏を見て、佳那子は薄く微笑んだ。頬に伝った涙を指で掃い、枕に深く頭を沈める。
 「彼女と出会ってから、本当の純潔って一体何なんだろう、と思うようになったわ。…多恵子ちゃんは、大勢の男と寝て、体の純潔は捨てた―――けれど、それで“清らかじゃない”なんて言える?」
 多分、多恵子の行動は、世間から理解され難いのだろう。佳那子もそれに苛立っているのかもしれない。すこし眉を寄せてそう言う佳那子に、蕾夏はゆっくり首を横に振った。
 「ううん。…誰よりも傷つきやすくて、清らかな心の人だって思う」
 「良かった」
 理解してもらえたのが嬉しいのか、佳那子は安心したような笑みを浮かべた。
 「…そうは言っても、私は多恵子ちゃんのようには生きられないけどね。愛する人にだけは抱かれない、じゃなく、愛する人にだけ抱かれたい、と思う人間だから」
 「だ、抱かれ、たい、かぁ…」
 駄目だ。やっぱり赤面してしまう。モラリストの筈の佳那子の口から飛び出すから、余計に。
 「やだ、そんなに赤面する? 普通。女の子同士ではこういう話、結構赤裸々にするんじゃないの? 今なんてもっと過激でしょ」
 「…そっか。私、女の子の友達って1人か2人しかいなかったから…だから免疫ないのかも」
 「ふふふ、なるほどね。じゃあこれからは遠慮なくどうぞ? 少なくとも人生も恋愛も、私の方が少しは先輩だし」
 くすくす笑う佳那子を、蕾夏はまだ赤い顔で少し睨んでいる。佳那子は、ちょっと息をつくと、何とも言えない微笑を浮かべて、蕾夏を見つめた。
 「“抱かれたい”がそんなに恥ずかしいなら、これならどう? ―――“もっと、近くに行きたい”」
 「近く―――…?」
 「抱かれる時はね、罪悪感や羞恥心より、嬉しいって思いの方が大きい―――もっともっと近くに行ける、そう思うから。これ以上近い存在になれないほど、近くに行ける。…愛する人が相手なら、そう思える筈よ、きっと」
 そう口にする佳那子は、とても綺麗に見えた。
 元々、持って生まれた容姿の端麗さ以上に、彼女の内面が彼女を輝かせている、そう思える。佳那子は、まっすぐだ。余計なものにはとらわれず、ただ自分の中の愛だけに正直に生きている。のびのびと、純粋に。

 これが、女の人の美しさなのかもしれない。
 己の中の“女”を自然と受け止め、それを最大限輝かせている。ただ1人、愛している人のためだけに。武器としてでもなく、欲望を満たすための手段としてでもなく、ただ―――愛するために。
 蕾夏は、尊敬と羨望の目で、目の前で微笑む佳那子を眺めた。

***

 翌日の和臣は、前日とは別人だった。
 瑞樹と蕾夏が一緒にいても、ニコニコ笑うだけ。危ないから離れろ、なんて言って、別の意味でお前の方が危ねーよ、と突っ込みを入れられる事もない。
 「…奈々美さん、どうやったの?」
 満足げに笑っている奈々美に、蕾夏がこっそり訊ねたところ、返ってきた答えは、凄まじかった。
 「昨日一晩、拗ねて拗ねて拗ねまくって、そんなに藤井さんが心配なら離婚して藤井さんと結婚すれば! って言ったの」
 「……」
 「それとね。かなり恥ずかしかったけど―――結局カズ君も、その辺のおじさんたちと同じで、若くて処女の子の方が女として価値があるって思ってるんだ、サイテー! って」
 「…それは…凄いかも…」
 「面白いほどにしょげ返ってたわよ。この世の終わりって感じ。でも、ちょっと優しくしてあげればあそこまで回復するんだもの、男って単純よね」
 ―――つ…強い。
 愛のある女性は、美しいだけじゃなくて、強いのかもしれない。同性ながら凄い。この境地には、ちょっとなれないかも…。
 蕾夏は奈々美のことも、尊敬の目で見ずにはいられなかった。


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