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no087:
永遠の愛-eternal love-
― Memories / Kubota & Kanako Side ―
-odai:45-

 

永遠ノ愛ノ証明期間。

 とてつもなく、体がだるかった。
 空手で組み手50本やった時より酷いかもしれない。眠い。このまま起きたくない。どことなく頭が痛いのは何故なんだろう。
 ―――俺、どうしたんだっけ。
 久保田は、重い瞼を無理矢理開けた。
 柔らかい朝の光が、部屋に満ちている。でも、全然見覚えの無い部屋だ。更に視線を巡らせ、ふと気づく。
 投げ出した腕に、誰かの頭が乗っかっている。ヘイゼルナッツのような色のショートヘアーが、久保田の頬をくすぐっていた。
 既視感に、一瞬、背筋が凍る。
 恐る恐る、体を引いて、その人物の顔を確認した。
 眠っていてもわかる、完璧に左右対称な整った顔―――起きている時は、ややもすると冷たい印象すら与えてしまうその目は、瞑っていると少し下がり気味に見えて、実際より幼く見える。
 既視感どころではない。もの凄く、よく知っている顔。毎日見てる顔だ。その彼女が、突如、ぱちっ、と目を開けた。
 目を瞬き、久保田の顔を間近から凝視する。久保田も、彼女の顔を凝視する。
 「久保田君…? なんでここにいるの?」
 「佐々木こそ、なんでここにいるんだよ?」
 数秒、2人の間の時間が凍結した。
 そして次の瞬間、2人は同時に、ガバッとベッドの上に飛び起きた。
 「きゃあああああっ! 馬鹿っ! 何か着てよっ!」
 「ばっ、馬鹿野郎! お前こそ何か着ろ! め、目のやりどころに困るだろっ!」
 混乱状態の中、それぞれ、シーツと上掛けを確保して、体に巻きつけた。服はどこへいったのか、現段階ではそれすら不明である。お互い、ベッドの上ででき得る限り距離をとり、久保田はベッドの一番足元に、佳那子は枕元のヘッドボードにくっつくようにして場所を確保する。どちらの顔も、耳まで真っ赤になっていた。
 「ど…ど…どういう事よ、これっ!」
 「俺に訊くな! 俺もお前に訊きたい位だ!」
 「嘘っ! あんた、私を騙してホテルにでも連れ込んだんでしょっ! あああ、もー、信じられないっ!」
 「んな訳あるか! いや、まず、落ち着け。落ち着いて、最初からゆっくり思い出そう。でないと何が何やらさっぱり…」
 「なんでそんなに冷静なのよーっ!」
 「わっ! だ、だから落ち着けってーっ!」
 佳那子が投げた枕が久保田を直撃した。

***

 まず、間違いないこと―――昨日が、新入社員歓迎会だったこと。
 席が隣になったことがきっかけで、それまでお互い悪い印象しか持っていなかった2人は、そこで意気投合した。共通の趣味であるジャズの話題で盛り上がり、結局別れがたくて、歓迎会が終わった後、久保田行きつけのジャズ・バーへ足を運んだ。
 翌日が土曜日ということもあって、気が緩んでいたのだろう。そこで、かなりの酒を飲んだ―――気がする。どの位飲んだか、定かではない。この辺りから、記憶が曖昧になっているからだ。

 「久保田君が羨ましい」
 かなり酔った口調で、佳那子はため息混じりにそう呟いた。
 「俺が? なんで?」
 こちらもかなり酔った状態で、そう訊き返す。2人共酒豪と呼ばれるほど酒には強い筈なのにこの状態なのだから、飲んだ量は推して知るべしだ。
 「うちってね、両親揃って、すごーく堅い人間だったの。母は大学2年の秋に亡くなったんだけど、それも手伝って、残された父は私に過保護すぎ。でも、つい最近まで、それを“当たり前”って思ってたのよ」
 「…ふーん。いわゆる“箱入り娘”だな」
 「そうそう。そんな感じ」
 言いつつ、また水割りをあおる。普段の久保田なら、相手の酔い具合を見て「もうやめとけ」と言うのだろうが、本人の頭がイカれてしまっているので、当然、ストップなどかけない。
 「小さい頃から、綺麗で、優等生で、どんな時も曲がった事をしない良い子、って言われてきて―――そこに何一つ疑問も感じなかったの、私。人間は真面目に品行方正に清く正しく生きてくのが一番正しい事なんだ、ってお父さんに言われ続けて、私もそう思い込んでた」
 「間違っちゃいないだろ、それも。いいじゃねーか、清く正しく美しい人間」
 「つまんない」
 不貞腐れたように、唇を尖らす。
 「つまんないっ、そんな人生。久保田君見てたら、毎日毎日、そう思えて仕方なくなったの。久保田君、日々楽しげに過ごしてるのに、ちゃんと実績上げて、人からも評価されて、友達もどんどん作るじゃないの。私なんてつまんない―――私の代わりなんてロボットでも通用するけれど、久保田君の代わりはいないんだもの」
 「なーるほどなぁ…」
 なんとなく、言わんとするところはわかる。絵に描いたような「良い家庭」に生まれた、絵に描いたような「良い子」な訳だ。祖父や親が、それぞれ「自分の跡を継げ」と強要するのにうんざりして、独立できるよう世渡りのノウハウを学ぶ事ばかり考えてきた自分とは、全く違う人生だろう。
 「そんなに優等生が嫌ならさー…不良になっちまえば?」
 バーボンをくいっと喉に流し込み、久保田は隣の佳那子を流し見た。その言葉に、佳那子は目を丸くする。
 「不良?」
 「人生を遊ぶんだよ。もう成人した社会人だぜ? 日本の法律と義務をちゃーんと守ってれば、親の言いつけに多少不良になったって構わねーさ」
 「…あんたってば、カッコイイこと言うわねー…感動したわ」
 佳那子の目から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。泣き上戸という訳ではないが、感情の起伏レベルが、アルコールのせいで通常より激しくなっているらしい。
 「おいおい、泣くなよー。そういう顔は、男の前ですると危ないんだぞー?」
 久保田も、この手の茶々は入れないタイプなのに、アルコールで気が緩みきっている。
 「佐々木は美人だし、日頃はキリッとしてるから、そういうフニャッとした顔されると、帰したくなくなっちゃうだろ、男としてはさー」
 「ふーん、そーなんだぁ。じゃあ、お言葉に甘えて不良させてもらおっかなぁ。なんか、帰るの嫌になっちゃったぁ…」
 本当にフニャッとした顔で笑って頬杖をつく佳那子は、まだ泣いていた。どういう感情の状態にあったのかは、今となっては、もう謎としか言いようがない。


 「……」
 久保田と佳那子は、約2メートルの距離を隔てて、呆然と互いの顔を見詰め合った。
 記憶は、途切れ途切れではあるが、繋ぎ合わせればかなりの量、ある。
 泥酔状態で肩を抱き合って唄いながら歩いてるシーンも覚えてるし、ビジネスホテルのカウンターで「いいのいいの、2人一緒に寝られればなんだっていーから、1室空けて!」と言ってホテルマンをビビらせたシーンも、部屋に入るなりいきなりディープキスをしたシーンも―――その後も、切れ切れに、覚えている。時には、鮮明すぎるほどに。
 「―――やだっ、私…最悪…っ」
 真っ赤になった両頬を手で押さえつつ、佳那子は目に涙を浮かべてそう呟いた。記憶の断片に残る自分は、佳那子自身も知らない自分だった。もの凄く恥ずかしい。消えてなくなりたい気分だ。
 「あ、うわ、泣くな、佐々木。泣かれると困る」
 慌てた久保田は、佳那子の頭を撫でようとして、やめた。シーツ1枚巻きつけただけの女性に近づけるほど、久保田の心臓は強くない。
 「…済まない。本当に申し訳ないっ。俺がもうちょい、酒に強ければ…」
 「あんたも私も、これ以上強くなくていい、って言われる位強いじゃないの。…それより―――どうしよう?」
 佳那子が、消え入りそうな声でそう言い、涙で潤んだ目で久保田をみつめた。日頃久保田の忠告に眉をつり上げてる勝気な女の面影など、欠片もない。
 「もう、朝よねぇ?」
 「あ? ああ。朝みたいだな」
 「…うち、外泊禁止なの―――私、お父さんに殺されるかも」
 佳那子は、彼女が夕べ言っていたとおり、筋金入りの「育ちのいいお嬢様」だったのだ。

***

 「佳那子、目、赤くない?」
 奈々美の一言に、スパゲティを巻きつける佳那子のフォークがピタリと止まった。
 「―――そうかしらね」
 「うん。まるで泣き腫らしたみたいな目してる。…土日に、何かあったの?」
 「…別に、何もないわよ。ちょっと寝不足なだけ」
 寝不足でこんなに目が赤くなる訳がない。そうとはわかっているが、2日間の大半を泣いて過ごしたなんて、到底言える訳がなかった。その理由が、理由なだけに。


 絶対帰りたくない、と泣く佳那子を、久保田は必死に宥めた。
 「俺にも責任がある。一緒に行って親父さんに謝るから」
 「そんな事したら、久保田君も酷い目に遭うわ。うちのお父さん、普通じゃないんだからっ」
 佳那子の父の過干渉は凄まじい。これまでの佳那子のボーイフレンドは、全員父に身辺調査された。1ヶ所でも気に食わないところがあると毎日のように文句を言われるので、佳那子の方がうんざりしてしまう。
 大学時代、一度だけ門限を破ったことがあった。その時父は、当時交際していたボーイフレンドの家に乗り込み、無理矢理別れさせてしまった。佳那子自身も1週間、父が手配した運転手つきの車で登下校させられた。門限を破った直接の理由は決して浮ついた理由ではなかったのに―――母が他界したばかりで、娘に対する溺愛ぶりに拍車がかかっていたのだ。
 門限破りで、そのレベルだ。朝帰りなどしたら、何をされるか―――想像するだけで怖い。
 家に向かうタクシーの中で、佳那子はずっと泣いていた。同僚に泣き顔など見せたくない。でも、何故か冷静さを保つことができない。自分のしたことに後悔して泣くなんて初めてのことで、混乱していたのかもしれない。励ますでも慰めるでもなく、ただ隣にいて肩を貸してくれる久保田の存在が、とてもありがたかった。
 その久保田を、父は問答無用で殴りつけた。
 全部自分の責任です、と言ったきり、一切反論しなかった久保田は、僅か10分で追い返された。
 佳那子は、なんとか久保田の擁護をしたかったが、父は強い。あの男のフルネームをここに書け、と紙を佳那子に押し付け、久保田の名前を書かせると、後は一切口をきかずに地方の講演会に行ってしまったのだ。佳那子は何も言うことができなかった。
 そして、気づいた。
 自分がなんら、制裁らしい制裁を受けていないことに。
 久保田が、庇ってくれた。そう気づいた時、体が微かに覚えている彼の腕の温かさを、とても愛しいと思った。
 愛しいと思った人を、父の暴力に晒してしまった。その事実に、佳那子は2日間、苛まれ続けた。目が真っ赤になるまで泣き続けるほどに。

 「…お前がまさか、佐々木昭夫の娘だとはなぁ…」
 今朝、出社した久保田は、少し疲れた表情でそう呟いた。まだ殴られた痕が口の端に残る久保田の顔を見ると、胸が痛む。
 「佐々木昭夫の娘だと、何か問題でもあるの?」
 嫌な予感に内心ビクビクしつつ佳那子が訊ねると、久保田はとんでもない真実を告げた。
 「…俺、久保田善次郎の孫なんだ」


 「―――佳那子? 大丈夫?」
 「えっ…」
 奈々美に声をかけられて、我に返る。昼食中だったのを思い出し、慌てて巻きつけたままだったスパゲティを口に運んだ。
 ―――現代版、ロミオとジュリエットってやつ?
 こんな偶然、ドラマの中でだって起こらないと思ってた。起きたとしても、ドラマ通りには進行しないと思ってた。
 なのに…現実は、なんてあっけないんだろう。
 そう。佳那子は、恋に落ちてしまった。ドラマの筋書き通り、たった一度の逢瀬で。

***

 ―――こんなの、ドラマでも有り得ないと思ってたんだけどな…。
 頬杖をついた久保田は、眉間に皺を寄せた。
 通りかかった部長から「なんだ、珍しく覇気がないな。病気か?」と声をかけられたが、久保田は全く気づいていない。実際には「いえ、大丈夫です」と答えているのだが、それは単なる脊髄反射だ。世渡り術が骨の髄まで叩き込まれている証拠だろう。
 言わなければ良かったかな、と、少し後悔する。久保田善次郎の名前を出した時の佳那子の表情―――崖の下に突き落とされたみたいな顔だった。同じ顔を、自分も佐々木昭夫の前でしてんだろうなぁ、と想像する。実際、顔を見た瞬間にショックでフリーズしそうになった位だ。

 佐々木昭夫の前で、久保田は一切の言い訳をしなかった。自分の責任だ、そう思ったから、それを告げるだけにした。
 佐々木昭夫のご機嫌を取ること位、本当は朝飯前だ。祖父・善次郎の経済理論を、久保田はあまり良しとしていない。むしろ、対立している佐々木昭夫の理論の方が、久保田の考えに近い。知識をフルに利用して佐々木経済学を褒めちぎれば、もっと事態は楽に展開していただろう。
 けれど。
 久保田は、怒っていたのだ。
 いくら溺愛しているからといって、佳那子はもう22歳の大人だ。しかも、世間一般から見ればこれほど出来のいい22歳はいないだろう、という位に、真面目なモラリストだ。親が心配する事など一つもないほどに。なのに、日頃勝気な佳那子があんなに怯えて泣くほどに束縛している、父親―――その存在に、どうしようもなく腹が立った。あんた、それは違うだろ、と胸倉掴んで延々説教してやりたい位に、腹が立っていた。
 久保田は、処世術よりも、その怒りを優先した。事態をうまく切り抜けるためであっても、佐々木昭夫のご機嫌を取る真似などしたくない。正々堂々、正面からの殴り合い以外はしたくない。そう思ったのだ。
 殴られて帰ってからの2日間、久保田はイライラしながら、ずっと考えていた。
 どうしたら、佳那子を自由にしてやれるだろう?
 あの親父から引き剥がして、のびのび生きられるようにしてやれるだろう?
 そう考えている間、久保田の頭をずっと支配していたのは、佐々木家を去る時、最後に見た佳那子の顔だった。佳那子は、今にも泣き出しそうに目を潤ませて、父に何度呼びつけられても、ずっと久保田の方を見ていた。

 美人で、成績優秀で、品行方正で―――そういうレッテルを甘受しつつ、ほっと力を抜く場所を探してる。それが、本当の佳那子だ。そして、脱力した佳那子は、思わずぎゅっと抱きしめたくなるほど、か弱い。
 不思議な位、自分を信用して弱みを見せてくる佳那子を、久保田は心底愛しいと思えた。
 そう。久保田もまた、ドラマの筋書き通り、あっけなく恋に落ちてしまったのだ。

***

 「―――で、結局、こういう事になっちまうんだよな」
 ため息混じりにそう言う久保田に、余韻に浸るように彼に抱きついていた佳那子は、不安げに眉をひそめた。
 「嫌だったの?」
 「んな訳あるか。けどなぁ…同じホテルの同じ部屋選んで、飛んじゃった記憶の分取り戻してるあたり、俺たちって結構節操ないかも…」
 「私は、節操のない自分てキライじゃないわ」
 そう言って佳那子はくすっと笑った。
 当然の成り行き、と思える自分が不思議だった。
 人一倍潔癖症だと思っていた自分が、ついさっき意気投合したばかりの男に抱かれてしまったのも相当信じられない事態だったけれど、今またその腕の中にいるなんて、もっと信じられない事態だ。ほんの3日前までは“気に食わない”と思っていた相手と、恋人同士になっている―――なのに、それを当然だと思えてしまうのだから、本当に不思議だ。
 今、佳那子が感じているのは、どんな感情よりも安堵感だ。記憶に留められなかった物を、取り戻せた。あの日感じた筈の温かさを取り戻せた。
 安心した。心から。
 「久保田君、後悔してない? 私なんか選んじゃって」
 「なんで?」
 「一番面倒な相手じゃない? お爺様の宿敵の娘よ?」
 「…まーなぁ…簡単な相手じゃあないよな」
 無意識のうちに佳那子の頭を撫でながら、久保田は難しい顔をした。
 久保田の祖父は、久保田を後継者に、という野望をまだ諦めていない。大物政治家の娘などとの縁談を模索しているらしく、久保田の女性関係には極端に神経質だ。宿敵の娘なんかと交際しているとわかったら、間違いなく、邪魔しに入るだろう。
 一方の佳那子は、相手が久保田でなくても親の妨害は間違いない。しかもそれがあの久保田善次郎の孫だなんてわかった日には、工作員でも秘密組織でも動員できるもんは動員して妨害しまくるに違いない。
 「せめてじじいが、コメンテーター引退すりゃいいのになぁ…引退しても、宿敵であることには違いないんだろうけど」
 「うちのお父さんも、執筆より喋る方が好きだものね。暫くは引退しなそう…」
 「…まあ、見てろって。時間はかかるかもしれねーけど、絶対認めさせてやる」
 そこでふと思い出し、久保田は体をずらして、佳那子の目をしっかり見据えた。
 「でも、今日はちゃんと門限に間に合うように帰れよ」
 「わかってる」
 佳那子は微笑を返し、枕に顔を埋めて目を閉じた。
 ―――わかってるから…もう少しだけ、微睡(まどろ)んでいさせて。

***

 それでも、ひと月ほどは無難に過ぎた。
 2人は、秘密の逢瀬を重ねるロミオとジュリエットよろしく、周囲の目を完璧に誤魔化し続けた。新人という立場上、浮かれた様を見せる訳にはいかない。少なくとも仮採用期間と言われる3ヶ月は大人しくやり過ごそうと、2人は決めていたのだ。
 でも、そんな状態も、長くは続かなかった。
 5月も半ばになろうかという頃、久保田と佳那子はいきなり佳那子の父に呼び出しを食らった。
 「どうせ付き合ってるのがバレたのよ。反対されるだけだわ。行く事ないわよ」
 「逃げろってか? 嫌だね。俺は何事も筋が通ってないのは嫌なんだ」
 渋る佳那子を説き伏せて佐々木家に乗り込んだ久保田は、佐々木家の応接室に通された途端、うんざりした顔をした。
 ―――なんでじっちゃんがここにいるんだよ…。
 できれば二度と会いたくないと思っていた祖父・善次郎が、応接セットのソファの中央で、悠然と緑茶をすすっていたのだ。善次郎の隣には、佳那子の父が座っている。テレビ座談会でお馴染みの犬猿コンビが並んで座ってるシーンなど、世の討論番組ファンは絶対信じないだろう。
 筋は、ほぼ見えた。久保田と佳那子の交際阻止のために、犬猿コンビは手を組んだのだ。
 「…お父さんも案外気が小さいわよね。1人じゃ不安だからって宿敵と協力しちゃうなんて」
 「な、なんだと、佳那子! お前はいつから、そんな反抗的な娘になったんだ!」
 更に父に食ってかかろうとする佳那子のスーツの裾を、久保田はくいくいと引っ張って引き止めた。佳那子は黙っていた方がいい。父を興奮させるだけだ。
 「…じっちゃんも落ちたな」
 「これも処世術の1つだ。必要とあれば敵とも組む度量がなけりゃあ、政界ではやってけんのだよ」
 乱闘ばっかり起こして所属党でも仲間がいなかったくせに、偉そうな事を言うものである。久保田は肩を竦めた。
 「まず言っておきますが、交際をやめる気は、ありません」
 善次郎はほっといて、久保田は佐々木昭夫の方を向いた。
 「2人とも成人ですし、法律違反を犯している訳でも義務を怠っている訳でもありません。極普通の交際をしているだけです。交際に親や祖父の同意が必要だという憲法もない以上、やめる気はありません」
 「…ほー。政治家の孫だけあって、口は達者だな、久保田隼雄」
 佳那子の父は、眉間に皺を寄せて、久保田の長身を見上げた。久保田は、少し憮然とした表情で、できる限り落ち着いた声で続けた。
 「―――ですが、佐々木家にあっては、憲法より佐々木先生の方が強いのも理解しています。時代錯誤で馬鹿げた話だとは思いますが、そういう家に生まれた佳那子さんの不幸だと思って諦めてます」
 血管がぶち切れそうな顔で立ち上がろうとした昭夫を、善次郎が腕1本で引き戻した。今でも毎日腕立て伏せ50回を日課にしているだけのことはある。本を愛するインテリな昭夫は善次郎よりずっと若いが、腕力ではやや不利だ。
 「認めていただくための条件を提示して下さい」
 「何を認めろって?」
 落ち着きを取り戻したらしい昭夫が、そう反問する。
 「佳那子さんとの交際です」
 「ふん、条件なんかない。駄目だ。それ以外の答えはないさ」
 緑茶を口にし、昭夫は、やや余裕ありげな笑みを浮かべて脚を組んだ。
 「私はね。佳那子との交際を認めるのは、生涯でただ一人と決めているんだよ。すなわち、佳那子の生涯の伴侶となるべき男だけだ」
 「は!? ちょ…っ、お父さん、本気!?」
 初耳である。さすがに佳那子も眉をつり上げた。人の交際相手の人数を勝手に決めないで欲しい。
 「あー、本気だよ。私はいつだって本気だ。大事な佳那子をホイホイ安売りできるか。だから、浮気するような男は駄目だし、当然駆け出しの新人サラリーマンなんかじゃ駄目だ。経済力もあって、誠実で、佳那子一人を一生涯愛し続ける男でないと許せん。ましてや、私が大大大嫌いな経済評論家の孫なんて、ぜーったいに駄目だ!」
 そう言って昭夫は、久保田をギッ! と睨んだ。
 久保田も昭夫を睨み返す。
 久保田は、本気で腹を立てていた。自分が駄目だと言われたからではない。佳那子の人生をこの父親が勝手に決めてしまうことに腹を立てていたのだ。怒りで、体が震えてさえくる。
 「それとも何か。キミは未来永劫、佳那子一人しか愛さない自信でもあるのか? それを証明する事ができるのか? 無理だろう。ハハハハハ」
 「―――待って下さい」
 拳をぎゅっと握り締めた久保田は、低くそう言うと、昭夫と善次郎を順に睨みつけた。その気迫に、2人も、傍で見ていた佳那子も飲まれてしまう。
 久保田は、やおら靴を脱いで裸足になると、応接室の床に正座した。膝の上で拳を固めると、見上げる形になった昭夫を真正面から見据えた。
 「証明、できたら、認めてもらえますか」
 「は?」
 「俺に、10年下さい。10年間、佳那子さんだけ愛してみせます。あくまで“同僚”という肩書きでしか認めてもらえなくてもいいです。佳那子さんが別の男を好きになっても構いません。とにかく俺自身は、10年初心を貫いてみせます。10年経てば、駆け出しの新人サラリーマンではなくなるし、佐々木先生のいう経済力とやらも手に入ります。10年後、佳那子さんがまだ俺の事を好きでいてくれたら、その時は“永遠の愛を誓える相手”である事の証明ができたとみなして、正式に交際を認めて下さい」
 全員、唖然とする。
 特に佳那子は、一番唖然としていた。
 ―――10年?
 10年間、私の方は久保田君を振ろうが何しようがOKで、それなのに久保田君は私だけ愛し続けるって言うの?
 そんなの、無理に決まってるじゃないの。あんた、バカ?
 けれど―――この男なら、やってしまうのかもしれない。どこかで、そんな気がしていた。
 そして佳那子も、10年間の自由を与えられながら、結局久保田から離れられないだろう…そんな気がする。
 「…10年、同僚としての俺たちの自由と、証明するための時間を下さい」
 もの凄い気迫で、久保田が昭夫を睨みつける。口調は丁寧だが、これではほとんど脅迫だ。
 「…ど、どうせ、10年ももつ訳がないぞ。佳那子は美人でもてるんだからな。すぐに横槍が入るし、私もどんどん見合いをさせるぞ」
 「構いません」
 「それに、10年後、お前らの会社が倒産してる可能性だってあるぞ。その時は“経済力”でアウトだからな。その場合は認めんぞ」
 「構いません」
 「わしもお前の見合い相手を探すからな。佐々木昭夫の娘なんぞにやる位なら、マシな女がなんぼでもおるわ」
 そう言う善次郎のことも、久保田はギロリと睨みつけた。
 「…お好きにどうぞ」
 「……」
 「…わかった。10年、だな」
 昭夫が、ついに折れた。それを見て、久保田は睨むのをやめて、幾分表情を和らげた。
 「ありがとうございます。では―――こちらにサインを」
 「は!?」
 久保田は、背広の胸ポケットから、1枚の紙を取り出し、応接セットの机の上に広げた。
 「契約書です」

 『契約書』
 1.佐々木昭夫は、10年間、佐々木佳那子および久保田隼雄の意志が変わらなかったら、2人の交際を正式に認める。
 2.ただし、1の条件は、その一方が心変わりした場合は成立しないものとする。
 3.10年間、佐々木佳那子と久保田隼雄は「同僚」として節度ある交際を心がける。また、佐々木昭夫はそれを認める。
 4.3の範囲内を超えた行動が発覚した場合は、契約違反とみなし、契約を破棄することができる。
 5.佐々木昭夫が、佐々木佳那子や久保田隼雄に対して公的機関による圧力、私立探偵による調査、暴力団による脅迫等を
   行った場合は、契約違反とみなし、即時交際を正式に認めるものとする。

 「まさかここまで、用意した契約書通り事が運ぶとは思いませんでした。先生、案外単純な頭をしてらっしゃいますね」
 そう言って、久保田はニヤリと笑った。

***

 以来、5年間。
 久保田と佳那子は、表向き「同僚としての節度ある交際」を続けている。
 そして、“発覚”しないよう超隠密裏に「同僚の範囲を超えた交際」を続けている。“発覚した場合”となっているのは実は契約書の落とし穴だが、久保田の気迫に押されて訂正が入らないであろうことは、あらかじめ計算済みだ。
 佐々木昭夫や久保田善次郎は、まだ2人の仲を裂く事を諦めておらず、お見合いさせたり、会社を変わらせようとしたりと忙しい。「同僚の範囲を超えた交際」の証拠を押さえようと躍起になっているが、その追撃の手も、5年経つとゆるみがちだ。
 肝心の2人の意志の方も、一切変わっていない。
 勿論、5年の間には紆余曲折があった。多恵子が死んだ時には、罪悪感から佳那子が本気で別れを切り出そうとした。久保田の見合い相手が諦めきれずに押しかけ女房をした時もあったし、久保田プロファイリングでも制圧しきれなかった佳那子の見合い相手もいたにはいた。が…なんだかんだで、2人の仲は、安泰だ。
 契約期間、残りあと5年弱―――まぁ、見通しは、そう暗くはない。

 「佳那子! また向こうから見合いを断ってきたぞ。どういうことだ、え!?」
 「知らないわよ。よっぽど私ってお見合いに向いてないんじゃないの?」
 「久保田隼雄が絶対妨害工作をしてるに違いない。おい、佳那子っ、白状しろっ!」

 父のお小言に肩を竦める佳那子の背後の壁には、1枚の額が掛けられている。
 その中には、久保田が作成したあの契約書が入っており、署名欄には、佐々木昭夫と並んで、なぜか久保田善次郎の署名も入っているのだった。


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