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no088:
また逢いましょう
-odai:100-

 

ソノ人ダケノ為ノ、“愛”。

―99.09―

 『明日から1週間、翔子ちゃん、うちに泊める事になったから。蕾夏の部屋、使わせてあげていい?』
 サラダボウルをかき混ぜながら電話に出ていた蕾夏は、その手をピタリと止めた。箸とボウルをまとめて片手で持ち、受話器を手で持ち直す。
 「いいけど…どうしたの? 翔子泊めるなんて」
 『正孝さん、学会の研修とかで京都に行くんですって。お母さんはちょうど法事で北海道行っちゃってる最中だし、お父さんも夜勤が多いでしょ。…翔子ちゃん、あんまり調子良くないから、正孝さんが心配して、預かって欲しいって』
 母の言葉で、大体の事情はわかった。蕾夏は2、3度頷いた。
 「そっか…優しくしてあげてね、翔子に」
 『当たり前じゃないの』
 何気なく、カレンダーを見る。明日から1週間―――明日で8月も終わり、もう9月に入る。翔子と横浜に行ったのは、7月の半ばだ。
 無意識のうちに、ため息をついていた。

***

 「やっぱり面白くなかったね、第2弾も…」
 えびバーガーを頬ばりつつ蕾夏が呟くと、瑞樹も眉を顰めた。
 「第2弾が第1弾より面白かったためしはねーけど…第1弾も面白くなかったから、余計酷いよな」
 先にえびバーガーを平らげてしまった瑞樹は、のんびりコーヒーを口に運んでいる。会話が途切れたところで、蕾夏がまた腕時計に目をやるのに気づき、軽く眉をひそめた。
 「何か予定か?」
 「え?」
 「時計気にしてるから」
 「あ…ごめん。そうじゃないの」
 慌てて腕時計をした手を引っ込めて、蕾夏は苦笑した。
 「昨日、お母さんから定期連絡無かったから、翔子に何かあったんじゃないかって心配になって」
 「…ああ、そういや、お前の実家に泊めてるんだっけ」
 蕾夏と母の定期連絡は、金曜日の夜と決まっている。電話代のかさみがちな蕾夏を気遣ってか、大抵母からかけてくる。それが昨日は無かった。一応蕾夏からも家に電話してみたのだが、呼び出しはあるものの、誰も出なかったのだ。この火曜日から翔子を泊めている、というタイミングだけに、ちょっと心配だ。
 少し複雑な表情になった瑞樹を見て、蕾夏は僅かに眉を寄せた。
 「瑞樹は翔子のこと、やっぱり嫌い?」
 「…好きになれって方が無理だろ。蕾夏を返せって会社まで乗り込んできた挙句に、嘘八百並べて仲裂こうとした張本人だぜ?」
 瑞樹は憮然とした表情で残りのコーヒーを飲み干した。
 「お前はあいつのどこが気に入ってるんだよ」
 「私? うーん、そうだなぁ…素直に甘えてもらえるとこかな。だからつい、面倒見たくなっちゃう」
 瑞樹の目から見れば、翔子はただの「わがまま女王様」に他ならないのだが、蕾夏にとっては違うらしい。いまいち納得いかない顔をしていると、蕾夏がくすっと笑った。
 「わがままでどうしようもない女、って思ってる顔してる」
 「…その通りの事を思ってるんだから、当然だろ」
 「あはは、実際、同級生の中には、翔子を嫌ってる子も結構いたもんね。病気を理由に甘えてる、わがまま、お姫様気取り、って」
 えびバーガーの最後のひとかけらを口に放り込み、ウーロン茶で飲み込んだ蕾夏は、笑顔で続けた。
 「でも私は、大切な存在から甘えられるのは、全然苦にならない。むしろ、日頃辻さんや由井君や、いろんな人に助けられるばかりで何も返せない私が、唯一何かをしてあげられる存在だったから、翔子の存在は凄くありがたかったの。辻さんにとっても、由井君にとっても、翔子は大切な存在だったから、特にね」
 「…なるほど。お前らしいな」
 蕾夏の強さは、恵まれた現況に甘えないところから生まれている、と瑞樹は思っている。愛情を受ければ、その分を誰かに返そうとする―――その行動が、蕾夏を「強い人」というより「優しい人」に見せる。何かをしてあげられる相手がありがたい、という発想は、いかにも蕾夏らしい。
 「あー…でも、心配だなぁ、やっぱり…」
 「アレルギー体質って、そんなに心配なもんなのか。俺、よく知らねーけど…。何アレルギー?」
 「いろいろ。食べ物でいくと、大豆でしょ、小麦でしょ」
 「は!? 小麦!? パスタもパンもアウト!?」
 「そうだよ。ロッテリアなんて入れないよ、翔子。たかがアレルギーって言うけど、劇症だと死んじゃうこともあるからね。他にも細かいのあるけど、完全に避けるのは無理だから、小さいアレルギー症状はしょっちゅう起こすの。大人になって、全体的に症状軽くなったけど…ストレスとかで、一時的に症状が悪化することもあるらしいし…」
 蕾夏はそれを一番危惧しているのだ。今の翔子は、ストレスの塊だろう。
 落ち着かない表情でため息をつく蕾夏を見て、瑞樹は苦笑いし、無意識に蕾夏の髪を指に巻きつけた。
 「そんなに気になるなら、電話してみれば、今」
 「家に?」
 軽く頷く瑞樹の顔を上目遣いに見、蕾夏は迷った挙句、携帯電話を取り出した。気になりだすとじっとしていられないのだ。
 店の迷惑にならないように、という思いのためか、意味もなく頭を低くして、蕾夏は電話をかけた。その様子を見て忍び笑ってる瑞樹を肘で小突きながら2コール待つ。
 『はい』
 「あっ、お父さん?」
 途端、隣の瑞樹が慌てたような顔をした。父親が出るとは予想外だ。代わる? とでもいう風な目をする蕾夏に、大きく首を振る。冗談ではない。蕾夏と“親友”だけじゃなくなった今、まだ付き合っていると知らせてはいないにしても、蕾夏の父と話すのは相当厳しい。
 「蕾夏です。お母さんは?」
 『ああ、蕾夏かぁ。…夏子は今、病院なんだよ』
 「病院?」
 『昨日の晩、翔子ちゃんが倒れちゃってね』
 蕾夏の顔が、さっと蒼褪めた。

***

 病院に着くと、ちょうど母が病室から出るところだった。
 「お母さん!」
 「あら、蕾夏…あ、瑞樹君も一緒なの。お久しぶり〜」
 意外なほど能天気な声音で、母が瑞樹の方に会釈する。それどころじゃない、と蕾夏は焦るが、瑞樹も会釈したので、その瞬間だけは待った。
 「翔子は!?」
 「大丈夫よ。昨日の夜はかなり酷かったんだけどね。今日の午前中には状態が落ち着いたの。明後日まで様子みて退院させるみたいだから、心配ないわ」
 「そ…そう…よ、良かった…」
 「小麦のアレルギーは軽くなったって聞いてたし、本人も大丈夫って言ってたけど、やっぱり白身魚のフライ振舞っちゃったのはまずかったわねぇ…。極力小麦粉抑えたつもりだったけど。久々に見ちゃったわ、翔子ちゃんの気絶状態」
 昨晩の様子を思い出したのか、母はそう言って、急激に深刻な顔をした。今の翔子は、フライの衣に僅かに混じっている小麦程度ではそこまでの発作は起こさない。やはりストレスが原因で、症状が酷くなったのかもしれない。
 「会えるの?」
 「ん、全然問題なく。お母さん、昨日の晩から家帰ってないから、このまま帰るわね」
 「うん、わかった」
 蕾夏の返事に笑顔を見せると、蕾夏の母は、また瑞樹に軽く会釈し、廊下を歩き去った。
 「俺、ドアの外で待ってる」
 翔子を興奮させそうな気がして、瑞樹はそう言った。蕾夏もそれに頷き、一人、ドアをノックした。

 「翔子…?」
 扉を開け、中を覗き込むと、翔子は上半身を起こして、傍らのテーブルの上に置かれた花瓶の花を眺めていた。蕾夏の声にこちらを向いた翔子の顔は、紙のように白い。
 「…蕾夏…」
 「心配した…昨日、全然連絡つかなくて、今日電話したら、入院したって言うから…」
 心配と安堵が入り混じった表情でそう言う蕾夏の顔を凝視し、翔子は、動揺したように瞳を揺らした。
 「あ……」
 何か言いかけたが、ふいにきゅっと唇を結ぶと、目線を下げる。
 「…ごめんなさい。帰って。話したくないの」
 翔子の言葉に、怯みそうになる。微かに足が震えるが、耐える。ここで怯んだら、次のチャンスはいつ巡ってくるかわからない。
 「ねえ、翔子。ちゃんと話しよう? 退院してからでいいから、電話じゃなく、ちゃんと顔見て話そうよ」
 「―――なんで、蕾夏ばっかり…」
 半ば呟くように翔子が言った言葉に、蕾夏は眉をひそめた。
 「あれだけ辛そうだったまーちゃんが、たった1回蕾夏と電話で話しただけで、別人みたいに立ち直った。成田さんも、この世には蕾夏とそれ以外の2種類の人間しかいない、なんて言う。…なんで…蕾夏ばっかり…」
 「翔子…?」
 「蕾夏、ずるい。私もまーちゃんも、蕾夏のせいでボロボロになったのに―――蕾夏だけは、汚い感情なんて無関係な顔して、綺麗なまま、一人高見の見物してるなんて」
 そんな事はない、と断言できる。なのに―――それが、翔子の目に映った、自分なのだろうか? 事実、目の前の翔子は、酷く傷ついた顔をしている。
 あの電話の時に感じた孤独感が、足元からまた這い上がってくる。蕾夏の足は、より一層震えた。
 「ご…ごめん、翔子。私がそのつもりなくても、翔子から見たら」
 「なんで謝るのよっ!」
 翔子の叫び声に、蕾夏の呼吸が、瞬間、止まった。後退った弾みで、ドアにぶつかる。それ以上、声が、出ない。
 「いっつもそうよ、蕾夏は! 私が間違った事言ってるのに、何故怒らないで謝るのよ!? 哀れんでるの!? 謝られると私が罪悪感覚えるのわかってて、わざと言ってるの!?」
 「蕾夏?」
 ドアが突然開いて、瑞樹が険しい表情を浮かべて顔を出した。叫び声とドアにぶつかった音に、異常を察したのだろう。
 だが、タイミングが悪かった。瑞樹の顔を見た途端、翔子の顔色が明らかに変わった。火に油を注いだようなものだ。
 「帰って! 蕾夏の顔なんか見たくない! 早く帰ってよっ!」
 蕾夏の足は、動かなかった。いや―――動けなかった。震えてしまって、動けない。蒼白の顔をして、まるで凍りついたかのように、その場に立ち尽くしている。その表情に、瑞樹は蕾夏の精神状態の限界を感じた。
 ―――駄目だ。このままだと、蕾夏が壊される。
 瑞樹は思わず舌打ちすると、蕾夏の腕を掴み、半ば強引にドアの外に押しやった。蕾夏の耳元に口を寄せて。
 「ここで待ってろ。5分だけ―――5分だけ待ってろ。落ち着かせて、必ず呼ぶから。待てるな?」
 蕾夏が微かに頷くのを確認し、瑞樹は即座にドアを閉めた。

***

 一人残った瑞樹に向かって、翔子が何か怒鳴ろうと口を開くのが見えた。
 が、瑞樹は、彼女が何か言うより早く翔子の元へツカツカと歩み寄り、極弱い力で、その頬を平手打ちした。
 本当は力いっぱい殴りつけたいのを、病人で蕾夏の友達で女だから、と最大限手加減したのだ。
 けれど翔子は、呆然という顔をして、叩かれた頬に手を当てて、瑞樹を見上げていた。おそらく、頬を叩かれた経験など、今まで一度もないのだろう。そんな様子を見て、瑞樹は皮肉な笑みを浮かべた。
 「…蕾夏は、気を失う寸前まで平手打ちされても最後まで自分を守ったっていうのに、あんたはこんな平手打ちとも呼べない程度で、もうそんな顔か?」
 翔子の肩が、びくっ、と揺れ、目が大きく見開かれた。
 「―――蕾夏が、汚い感情なんて無関係な顔して、綺麗なまま高見の見物してるって?」
 「……」
 「あいつがどれだけの地獄を体験して、どれだけの恐怖や怒りや憎しみを抱えてるか、あんたが一番知ってるんだろ。そういう物に耐えながら、まだ相手の傷思いやる優しさ持ってるのが、あいつの凄いとこだ。違うか?」
 大きく見開かれた翔子の目が、動揺して、落ち着きをなくし始める。そう―――瑞樹の言ってる事を、誰よりも間近で実感してきたのは、他でもない、翔子自身だったから。
 「この2ヶ月、蕾夏はずっと苦しんでた。あんたに言われた事やされた事に苦しんでたんじゃない。自分が何をすればあんたが救われるのかって、それ考えて苦しんでたんだ。俺が“あんな女ほっとけ”って言っても考え続けてた―――それでもあいつが“高見の見物”をしてるって、本気で思うのかよ」
 翔子の視線が、次第に下がっていき、やがて自分の手元に落ちた。翔子の手は、はっきりと震えていた。
 「…いいのかよ、放っておいて。このまま追い返したら、あいつ、自分の存在があんたを傷つけるって思い込んで、二度とあんたの前に姿を見せなくなるぜ」
 はっとしたように、翔子が顔を上げた。
 「ま…さか…」
 「…あいつは、強い―――あんたのためだと思えば、どれだけ苦しくても、どれだけ罪悪感があっても、意志の力でそれを捻じ伏せてでも離れていく。絶対に」

 ―――辻に対して、そうしたように。

 蕾夏を盲目的に愛したがために、大切なものを見失っていた、兄・正孝。その目を覚まさせるために、蕾夏は自分の罪悪感を押し殺して、あえて離れることを決意した。それが、自分のためだけではなく、彼のためになると、知っていたから。
 失ってから、取り戻せない存在に苦しんでいた兄―――その姿に、翔子は今初めて、自分の将来の姿が重なって見えた。
 その、絶望に打ちひしがれた姿に―――翔子は、体の奥から凍っていくような寒さを覚えた。

***

 瑞樹に外で待つよう言われた蕾夏は、ドアが閉まった直後、耐え切れずに涙をこぼしていた。
 思いが、翔子に届かない―――そういうのが、一番辛い。もう限界かもしれない。
 「……っ」
 喉が、詰まる。蕾夏は、顔を両手で覆って、声もなく泣き出した。
 泣きながら、どこか遠くで、リノリウムの床を蹴る人の足音を聞いていた。誰かがこちらに駆け寄って来ている、そう頭の一部が感じる。
 「―――…藤井さん?」
 その声に、蕾夏はびくん、と体を反応させた。
 思わず顔を上げる。視線の先―――珍しくスーツ姿の辻が、ボストンバッグを手に、息を切らして立っていた。相当急いだらしく、いつもまとまっている髪は乱れ、眼鏡は外されて胸ポケットに入れられていた。その姿は、どことなく大学時代の彼を彷彿とさせる。
 「…辻さん…」
 「…え…な、泣いてるのか?」
 蕾夏の表情を見て、辻が動揺した。
 当然かもしれない。蕾夏は、あの事件以降、瑞樹と電話で話して涙を流すまでは、一度も泣く事ができなかったのだから。
 「だっ…大丈夫。ごめん、泣いたりして」
 慌てて涙を拭う様に、辻はようやく我に返り、病室のドアの方に視線を走らせた。
 「翔子、そんなに悪いのか」
 「あ、ううん、違う。翔子の病状は大丈夫だよ。…京都から飛んできたの?」
 「今朝、おじさんから連絡あったから、研修中断して戻ってきたんだ」
 「…良かった。きっと翔子、喜ぶよ。辻さんが帰ってきてくれて」
 まだ涙を拭いながら、蕾夏は辻に微かな笑みを向けた。その微笑に、辻も僅かに緊張を緩め、大きな手を蕾夏の頭の上にポン、と乗せた。
 「君にも、苦しい思いをさせたな―――…あんな電話を最後に連絡を絶つのは、辛かっただろう。ごめん」
 「ううん。この1ヶ月、どうしてたの?」
 「特に、何も。…ただ、翔子が元気になってくれる事だけを、一番に考えるようにしてた。昔みたいにね」
 「そう。―――うん、それで、正解だと思う」
 蕾夏は、安堵した笑顔を浮かべた。頭の上に感じる辻の手のひらに、蕾夏は全てを悟っていた。
 ―――もう、辻さんは、大丈夫だ。
 以前感じた、蕾夏を束縛しようとする暗い感情を、今頭の上にある手には感じない。振り払わなくては、という焦燥感に駆られない。ただ純粋に、好意だけが感じられる。
 うん―――もう、大丈夫。

 その時、蕾夏の背後のドアが開いた。
 振り向くと、瑞樹が病室から出てきたところだった。
 瑞樹は、辻と蕾夏が一緒にいる姿を見て、一瞬、うろたえたような表情を浮かべた。が、すぐに落ち着いた表情に戻って、辻に軽く頭を下げた。辻も軽く会釈し返し、瑞樹とすれ違いながら、病室のドアから中を覗き込んだ。
 蕾夏の目は、まだ涙を湛えていて、瞬きのたびに涙が零れ落ちる。手の甲で拭おうとする蕾夏の手を制し、瑞樹はその涙を指で掬った。
 「落ち着いたか?」
 「…ん…ちょっと、ショックだったけど」
 「先に謝っとく。…一発、ひっぱたいた」
 「え!」
 ギョッとしたように、蕾夏の目が丸くなる。そのリアクションに、瑞樹は苦笑を返した。
 「叩いた内に入らないレベルだけどな。その位しないと、ぶち切れた頭をリセットさせられそうになかったから」
 「…翔子に会っても、本当に大丈夫?」
 「本人が会いたいって言ってるから、大丈夫」
 あんな状態の翔子を、どうやってそこまで宥めたのだろう? 蕾夏など、あの剣幕を前に、声が出なくなってしまったのに。
 でも、瑞樹にはできるのかもしれない―――そう、思う。瑞樹は、優しい人間だ。人の弱さに、人の優しさに、誰よりも敏感な人間だ。だからこそ―――翔子の弱さもすぐに理解し、一番言うべき言葉を言ってくれたのかもしれない。
 「―――ありがと。瑞樹」
 一瞬、目だけ辻の方に向け、辻の様子を窺った。辻がまだ病室の中の翔子と話をしているのを確認した蕾夏は、背伸びをして、瑞樹の頬にコンマ1秒のキスをした。
 頬にだけれど―――自分の方からするのは、これが生涯で初めてのキス。
 「…瑞樹の力、少しだけ、分けてね」
 うろたえたような顔をする瑞樹に、蕾夏は笑顔を見せた。

***

 出て行く瑞樹の背中を見送っていた翔子は、入れ替わるように覗いた顔に、目を大きく見開いた。
 「ま…まーちゃん…!」
 週明けまで京都の筈の兄が、そこに立っていた。一瞬、頭がうまく回らない。何故兄が、そこにいるのか。
 辻は、翔子の顔を暫くじっと見つめ、やがて安堵したように大きく息を吐き出した。
 「―――良かった…心配したほど、おおごとになってなくて…」
 「まーちゃん…どうして…」
 「藤井さんのお父さんから連絡もらって、大急ぎで帰ってきたんだよ。原因が小麦って聞いて、昔、小麦で劇症起こした時を思い出したんだ。いくら病院長が父さんでも、あの状態考えたら、いてもたっても居られなくて…」
 「…私のために…研修取りやめて帰ってきてくれたの…?」
 信じられない、とでもいうような目をして翔子がそう言うと、
 「当たり前だろ。妹が死ぬかもしれないって時に、のんびり研修受けてられるか」
 何を言ってるんだ、という顔で、辻は眉間に皺を寄せた。
 その顔を見た瞬間、翔子の中で、何かが、弾けた。

 ―――知っている。この顔。
 昔、親の目を盗んでクッキーを食べて、発作起こして病院に担ぎ込まれた時。あの時も辻は、こんな顔をしていた。なんて馬鹿な事をするんだ、と翔子に対して憤慨しながら、大事に至らなくて良かった、と泣きたい位安堵している顔。
 知っている。…翔子の事を最優先してくれていた頃の、兄の顔だ。
 辻はいつ、この顔を取り戻したのだろう? 蕾夏の事しか見えてない状態だったのに、いつ…?
 …いや。本当にそうだっただろうか?
 確かに辻は、蕾夏に恋をしてから、周囲に目がいかなくなった。けれど―――辻の目が、完全に翔子から離れた事など、本当にあっただろうか? それまでがあまりにも翔子に干渉し過ぎていたから、ギャップの大きさに戸惑ってしまったけれど、辻の兄としての目は、常に翔子を捉えていたのではないだろうか?
 だって、記憶にあるから。運ばれた病室のベッドで目を開けた時、こんな顔で翔子を見下ろしている、辻の姿が。

 …もしかして。
 もしかして、何も見えなくなっていたのは―――私の方…?

 「今は、発作の度合いはどうなんだ? 発疹は?」
 「…うん…両腕と首筋が真っ赤になったけど、一晩点滴を受けたら、かなり良くなった。胃の洗浄がうまくいったみたいで、内臓の腫れは点滴でほぼおさまったって」
 「そうか…なら、良かった」
 具体的な症状を聞いて、やっと本当の意味で安心したらしい。辻は、乱れた髪を掻き上げ、後ろを振り向いた。
 「ごめん、藤井さん。勝手に順番に割り込んで」
 辻の言葉に、翔子は少し体を硬くした。
 入ってくる蕾夏とすれ違う辻の様子を、注意深く観察するが―――全く平気、という状態ではないものの、かつて感じたピリピリとした緊張感は、もう2人の間にはなかった。
 辻は、蕾夏と別の道を歩む事を受け入れつつある。
 すれ違う2人の姿を見て、その事実をやっと理解した。翔子の胸が、ズキン、と痛んだ。

 翔子の方に向き直った蕾夏の目は、まだ涙で潤んでいた。その目を見て、今まで蕾夏が泣いていた事に気づく。
 「…蕾夏、泣けるようになったんだ」
 「―――うん」
 「…どうして、泣いてたの? 私が怒鳴ったから?」
 翔子が訊ねると、蕾夏は静かに首を振った。
 「じゃあ、何?」
 「…翔子とはもう会えなくなる、って思ったから」
 翔子の心臓が、嫌な感じに跳ねた。瑞樹の言った言葉が脳裏に甦る。蕾夏は…本当に、離れる気なのかもしれない。
 「翔子。…私、もう翔子に会わない方がいい?」
 「……」
 「会うたびに私に苛立って私に腹立てて…そんな思いするんなら、会わない方がいいって、私も思う。翔子がそうしたいなら、私、そうするよ。嫌でも今月末には、翔子、アメリカ戻っちゃうし…お正月も、辻さんとこへの挨拶、私だけ来年からパスするから」
 「…ち…がう…」
 7月に帰国してからずっと、翔子の中でキリキリと張り詰めていたものが、ぷつん、と音を立てて切れた。途端、翔子の目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。
 耐えられず、翔子は顔を手で覆い、肩を震わせて泣き出した。それを見て、慌てて蕾夏がベッドサイドに駆け寄った。
 「しょ…翔子、どうしたの?」
 「―――…っ」
 「何? 私、なんか泣かせる事言っちゃった?」
 泣きじゃくる翔子は、無言で首を何度も横に振った。そうではない。うまく言葉が出てこないけれど、そうではない。

 やっぱり、何も見えなくなっていたのは、私の方。
 まーちゃんと、蕾夏―――2人とも、私にとっては、絶対的な存在だった。神様と同じ、全てを超越した存在。その2人を、ずっと1人で独占したかった。結局それが、私の本音だ。
 まーちゃんのため、蕾夏のため―――そんな詭弁で誤魔化していたのは、全て、私のただの独占欲。
 まーちゃんの心も、蕾夏の心も…私には、1つも見えていなかった…。

 「…ご…めん、なさい…」
 しゃくりあげながら、翔子がなんとかそう言った。
 「―――どうして謝るの?」
 顔を手で覆ってしまっているので、蕾夏の顔は見えない。けれど、耳に届く蕾夏の声は、静かで、柔らかかった。
 「わ…たし…、許せなかったの。蕾夏が、私とまーちゃん以外に愛情を注ぐのが」
 「……」
 「蕾夏からもらえてた愛情がなくなっちゃうのが、耐えられなかったの。成田さんから蕾夏の愛情取り返せないなら、失った愛情の分の傷を蕾夏に負わせて、思い知らせてやりたい―――私がどれだけ苦しいか、私がどれだけ寂しいか。私にはそうする権利がある。まーちゃんの関心を蕾夏に奪われた私は、蕾夏の愛情を独り占めする権利があるんだから―――本気で、そんな馬鹿な事を思ってたの」
 「…翔子…」
 「…私、なんのために、心理カウンセラーなんて目指したんだろう…? ずっと自分の心がわからなかった。自分の事わかりたくてこの道をえらんだのに―――結局、自分を見失って、蕾夏を傷つけちゃった…」
 翔子の頭が、ふわっ、と温かくなった。
 蕾夏の細い指が、翔子の柔らかい髪を梳いていた。ゆっくり、優しく。その温かい感触に、翔子は顔から手を離し、恐る恐る顔を上げた。
 ベッドサイドの椅子に腰を下ろした蕾夏は、まだ目は僅かに潤んでいるが、微笑んでいた。穏やかに、柔らかく。
 髪を梳きながら、蕾夏は、一言ずつ確かめるみたいに、ゆっくり話し出した。
 「ねぇ、翔子…私が、辻さんや翔子にどれほどの事ができてたのか、正直、自分ではわからないけれど―――翔子、1つ、間違ってる」
 「…え…?」
 「私が翔子にあげてた愛情は、どこにも行ってないよ。今もここに、ちゃんとある」
 翔子の目が、丸くなった。
 「愛って言葉は、恋愛にだけ使う訳じゃないでしょ? 家族に対する愛、友達に対する愛、恋人に対する愛。時には、憎んでる相手に対する愛も。…私の中にある“愛”もそう。お父さんが好き、お母さんが好き、辻さんのことも、翔子のことも好きよ。その全部が“愛”―――種類は少しずつ違うけれど、その人にしかあげられない、その人のためだけの“愛”」
 その人のためだけの、“愛”。
 蕾夏がくれる、私のためだけの、“愛”―――?
 「それぞれの“愛”には、確かに濃淡があると思う。それに、同じ人のための“愛”でも、時期によって濃淡があると思う。…辻さんの中にある翔子に対する“愛”も、そう。翔子の中にある辻さんに対する“愛”も、そう。濃くなったり薄くなったりはしたけど、無くなってないし、変化もしてない。…そう思わない?」
 さっき、兄の顔を見て思った事と、蕾夏の言葉がシンクロする。
 ―――わかる気がした。翔子は、コクリ、と頷いた。
 「私の“愛”も、そうだよ。翔子のためだけの“愛”は、無くならずに変わらずに、今もちゃんとここにあるよ。辻さんのための“愛”も、お父さんやお母さんのための“愛”も、ちっとも消えてなんかいないよ」
 「…じゃあ…成田さんは…? 親友に対する“愛”が、恋人に対する“愛”に変質したってこと?」
 瑞樹の名を出されて、蕾夏は少し、頬を赤らめた。少し言いよどんだ後、やっと口を開いた。
 「―――恋人として付き合う事になった時、瑞樹が、言ったの。“親友”の瑞樹は消えたりしない、って。“恋人”の瑞樹が増えるだけだ、って。―――本当だった。親友の瑞樹に対する“愛”も、恋人の瑞樹に対する“愛”も、今の私の中には、ちゃんとある。矛盾せずに、ちゃんと両立してるの」
 「……」
 無意識のうちに、辛そうな表情になってしまったのだろう。翔子の顔を見つめている蕾夏の目が、少し悲しげになった。
 「…瑞樹のための“愛”は、瑞樹だけのものなの。だから―――ごめんね、翔子。それを辻さんに分け与える事はできないの」
 「…うん…」
 「その代わり、翔子のための“愛”も、辻さんのための“愛”も、消えないでちゃんとあるから…それは、辻さんだけのものだし、翔子だけのものだから―――信じて。そんなに不安がらないで。お願い」
 また、声がうまく出てこなくなった。翔子は、頬を伝い続ける涙を手のひらで拭いながら、細かく数度、頷いた。それを見て、蕾夏は少し安心したように微笑んだ。
 「ねぇ、翔子―――翔子の中には、私のための“愛”は、もう欠片もない?」
 必死に、首を横に振る。
 「…あるなら、捨てないでよ。私、翔子を失うの嫌だよ。10年後も20年後も―――私、ずっと翔子に会いたいよ」
 我慢できず、翔子は蕾夏に抱きついた。その小さい肩に顔を埋めて、縋りつくようにして泣いた。
 「ごめんなさい…! 本当に…本当にごめん…! 顔も見たくないなんて嘘なの! 私も蕾夏を失いたくない…まーちゃん以上に、私が失いたくなかったの…!」
 「…うん…わかった―――わかったから、仲直りしよう?」
 蕾夏が、少し涙声でそう言いながら、翔子の頭を撫でてくれた。
 それは、慣れ親しんだ手―――かつて、翔子を寝かしつけてくれた時と同じ仕草であることを、翔子は泣きじゃくりながら思い出していた。

***

 「…お前、目ぇ真っ赤」
 「…うるさい」
 駅のホームで電車を待ちながら、蕾夏は目を擦って、瑞樹を軽く睨み上げた。
 結局、病院を後にしたのは、太陽がかなり傾いてしまってからだった。今、空はすっかり茜色で、吹いてくる風も日中の熱気を帯びたものから夕涼みといった風情に変わりつつある。
 「あー…こんなに泣いたのって、いつ以来だろう? 頭痛いー…」
 「まあ、結果が吉と出たから、多少の頭痛は我慢しないとな」
 「うん。それは、私もそう思う。―――でも、午前中見た映画なんて、もう忘却の彼方…」
 「…それも、結果的には“吉”だな」
 「…そうかも」
 駄作だ、金返せと怒っていた瑞樹は、蕾夏の返答に愉快そうな笑顔を見せた。その笑顔を見ていた蕾夏は、ちょっと落ち着かない様子で、言い難そうに切り出した。
 「―――ねえ、瑞樹」
 「ん?」
 「さっき、廊下で、辻さんと何話してたの?」
 一頻(ひとしき)り泣いた後、蕾夏が病室を出ると、廊下では辻と瑞樹が待っていた。
 辻は、蕾夏と入れ替わりで翔子の病室に入って行ったが、その時に蕾夏は、はたと気づいたのだ―――自分が中にいる間、ここに、瑞樹と辻の2人きりだった、という事実に。
 蕾夏の質問に、瑞樹は涼しい顔で肩を竦めた。
 「さぁ? 何だろ」
 「さぁ、って…気になるじゃない。何話してたのか教えてよ」
 「秘密」
 いたずらっ子のような笑みを浮かべて、瑞樹はニッ、と笑った。
 秘密にされると、余計気になる。蕾夏が更にじっと見つめると、瑞樹は急に身を屈めて、蕾夏の唇に軽くキスをした。
 「―――!? ばっ…バカっ! ななななな何すんのよ急にっ!」
 「さっきのお返し」
 そう言われて、思い出す。そうだ―――自分から瑞樹の頬にキスしたんだった、と。
 蕾夏の顔が、一気に真っ赤になった。
 「か、返さなくていいってばっ! 第一、場所違うじゃん、場所っ!」
 「細かいことは言わない言わない」
 「っていうか誤魔化してるっ! 辻さんと何話してたか誤魔化してるっっ!」
 「ほら、電車来るから、その赤面症、早くなんとかしろって」
 「誰が赤面させたと思ってんのよっ!」

 楽しげに笑う瑞樹の背中を憤慨したように叩きながら、蕾夏の一部分は、密かに安堵していた。
 2人がどんな話をしたかは、わからないけれど―――…。
 瑞樹と辻が、話をしてくれた。そして今、瑞樹は笑っている。―――ただそれだけの事に、蕾夏は、これ以上ない位に、ホッとしていた。


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