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no089:
人形
― Memories / Masataka Side ―
-odai:55-

 

愛シタノハ、物云ワヌ人形。

 階下から、ブラームスが聴こえる。翔子が、レコードをかけたのだろう。
 正孝は、ついうとうとしてしまいそうな自分に活を入れるように、医大の図書館から借りた参考書をベッドの上に放り出し、窓を開けた。11月下旬の冷たい空気が部屋に流れ込み、ふやけた頭をキリリと引き締めてくれる。
 玄関のチャイムを聞いたのは、その直後だった。
 来客かな、と思い、時計を見る。午後5時過ぎ―――両親は今日、夜勤の筈だ。物音から察するに、翔子が応対に出たらしい。正孝は軽く伸びをすると、また勉強机の前に座ろうとした。
 その瞬間。
 「―――まーちゃんっ!! 蕾夏がっ!」
 階下から、翔子の悲鳴が聞こえた。
 尋常ではないその声に驚き、正孝は大慌てで部屋を飛び出し、階段を駆け下りた。

 その先に、正孝を待っていたもの―――それは、由井に支えられ、辛うじて立っている、蕾夏とそっくりの少女。
 その少女が、この先の正孝の人生を支配する存在になるとは、その時の正孝は思ってもみなかった。

***

 受話器を置いた正孝は、どっと疲れが出て、思わずその場に座り込んだ。
 嘘をつくのは苦手だ。日頃から互いの家に泊まりあっているからこそつけた嘘だろう―――翔子とお喋りしてるうちに眠っちゃいました、このまま今日は泊めて、学校はうちから行かせますから。…果たして蕾夏の母は、これを信じてくれただろうか。自信がない。
 重い足をひきずってダイニングに行き、用意しておいたティーポットにお湯を注いだ。お茶など飲んでる場合ではないが、少し落ち着かないともちそうにない。
 「出血は多かったけど、なんとか縫わずに済んだわ」
 2階から降りてきた春日(かすが)が、そう言って後ろに縛っていた髪をパラリと解いた。春日は、正孝の通う大学の大学病院に勤務する若手の女医で、教授を通じて親交のある先輩である。
 「すみませんでした、お休み中に。…紅茶、どうぞ」
 「ああ、ありがと。あの由井君て子には帰ってもらったわよ。良かったんでしょ?」
 「ええ。こんな時間ですし」
 時計は既に午後7時を大きく過ぎていた。ショックのあまり倒れてしまった翔子が気になるが、それより問題は、事情のさっぱりわからない蕾夏の方だ。
 「で―――春日さん、由井君から、話は…」
 「あらかた聞いたわよ。…最悪の話を」
 内容を思い出したのか、春日はうんざりしたように顔を顰めた。細いフレームの眼鏡を外し、軽く眉間を押さえる。
 「あたしは、同じ女だから余計にキツいわ。あの子、中学生でしょ? 性犯罪はせいぜい高校生からだと思ってたけど」
 「―――え?」
 一瞬、耳を疑った。
 蕾夏がクラスの女子生徒の中で浮いているという相談を受けていた正孝は、てっきりその筋であんな怪我を負わされたのかと思っていたのだ。
 「由井君に聞いた話全部は話さない。あの子たちのプライバシーもあるしね。差し障りのない事だけに留めるけど…辻も一応、心しておいて」
 目を開けた春日は、真正面から正孝の目を見据えた。
 「あの子は、同級生にレイプ目的で襲われたの。刃物で脅されてね」
 「……」
 「未遂で終わったのは、あの子が必死に抵抗して、相手を斬りつけたから。今、喋れる状態にないから、十分な意思確認ができないけど、親に連絡するか、って質問には必死に首を横に振ってた。警察に届ける事も提案したけど…諦めた方がよさそうね。これも反応はノーよ」
 「…そ…そうですか…」
 頭が、ガンガンした。
 ショックなどと言う簡単な言葉では、今感じているものを表現しきれない。頭の中を何千ものハンマーで殴られてる気分だ。けれど、これで由井が最初に言った言葉の意味がわかった。由井は一言、正孝にこう頼んだのだ―――“信用できる、口の堅い女の先生を呼んで下さい”と。
 落ち着かなくては。正孝は、震える手をなんとか動かして、ティーカップを口に運んだ。少し苦めに淹れた筈のダージリンは、まるで白湯のように味がしなかった。
 「辻は2年だから、臨床はまだよね。…大半が軽度の擦過傷と打撲だけど、背中の刃物の傷だけは、暫く消毒とガーゼの交換が必要よ。場所が場所だけに、本人には無理だし…できる?」
 「…やります。大丈夫です、その位は」
 「ちなみに、心的外傷後ストレス障害についての心理学講義は受けた?」
 「…講義では軽く流した程度ですけど、個人的に興味があったから、教授に紹介してもらった本を、いくつか…」
 「そう―――いい? 外傷より心の傷の方がはるかに深いことを覚悟しなさい。少しでも危険な兆候が見られたら、すぐに医師に診せること」
 正孝は、震えそうになるのを抑えながら、なんとか頷いた。明らかに動揺したままの正孝の状態を心配げに見ていた春日は、髪を掻き上げ、視線を逸らした。
 「…本当はあたしは、辻にあの子を任せるのはまずい気がするけどね」
 「? どうしてですか」
 大きくため息をつくと、春日は正孝の方に真剣な目を向けた。
 「いい? 辻。あんたはまだ素人だけど、あの子に対してだけは、自分は医師なのだと自覚を持ちなさい。一人の男ではなく、医師として接しなさい」
 怪訝な目をする正孝に、春日はもう一言だけ、付け加えた。
 「―――でないと、今のあんたには、あの子は危険すぎる。…あんたは、医学生としてだけでなく、男としてもまだ未熟なんだから」


 蕾夏の頬を氷嚢で冷やしながら、正孝はぼんやりと、掛け布団の上に投げ出されている白い腕を眺めていた。
 幸いな事に、一番隠せない顔の部分は、頬が腫れあがってる以外は目立った傷はなかった。腕にできた擦過傷も長袖で隠れる。これなら明日、学校に行けるだろうか? ―――いや、無理だろう。外傷より心の傷が大きい…ましてや学校には、一番会いたくない人間がいる。蕾夏に傷を負わせた張本人が。
 眠っている蕾夏は、まるで死んでいるように見える。その寝顔は、やっぱり蕾夏に瓜二つの別人が寝ているとしか思えない。
 ―――今の僕には、藤井さんは危険すぎる…? どういう意味だろう。
 ずっと春日の言葉を考え続けたが、やはりその意味は理解できなかった。

***

 翌日だけは、蕾夏は学校を休んだ。本人は行く意思を見せたが、翔子が泣いて止めたのだ。正孝も大学を休み、その日1日、蕾夏に付き添った。
 蕾夏は、やっぱり何も言葉を発しない。彼女が意思表示するのは、首を縦に振るか横に振るかだけだ。1日中、表情の抜け落ちた顔で、ぼんやりとどこか遠くを見つめている。
 「藤井さん」
 声をかけると、ベッドの上で上半身を起こしていた蕾夏が、辛うじて正孝の方を向いた。
 「ごめん、パジャマの上だけ脱いでくれるかな。背中の傷の手当てをするから」
 言った瞬間、その感情の抜け落ちていた顔に、いきなり表情が戻った。
 事件後、初めて蕾夏が見せた感情。それは、恐怖だった。それまで無表情だった顔が、さっと強張り、明らかに怯えた顔になったのだ。
 蕾夏は、翔子に借りたパジャマの胸元を握り締めて、必死に首を横に振っていた。ベッドの上で、壁に背中がつく位まで後退っている。その様子で、正孝も理解できた。蕾夏は、正孝に怯えている―――自分を襲った同級生と同じ、“男”を。
 「―――大丈夫。傷が化膿しないように、消毒してガーゼを取り替えるだけだよ」
 ちゃんと聞こえているのだろうか。蕾夏はまだ、必死に首を振っている。
 「藤井さんは僕をよく知ってるだろ? それに僕は、春日さんに頼まれて治療の手伝いをするんだ。君の主治医代わりだよ。…大丈夫、安心して。僕は“男の人”じゃなく“お医者さん”だから」
 その言葉に、蕾夏は少しだけ動かされたようだ。暫く俯いてじっとしていたが、やがて、意を決したようにパジャマを脱ぎだした。一瞬、ドキリとしたが、春日が気を使ってくれたのだろう、蕾夏はパジャマの中に細い肩紐のキャミソールを着せられていた。思わずほっとする。
 ―――なるほど。春日さんが“医師としての自覚を持て”って言ったのは、こういう事か。
 蕾夏の背中の傷を消毒しながら、正孝は、昨日の春日の言葉を思い出して、なんとなく納得した。いくら医師を目指していても、正孝はまだ普通の20歳の男性にすぎない。医師である自分を常に意識して接しないと、女性の半裸姿を前に、まともな精神状態ではいられないだろう。
 「…よし、OK。もういいよ」
 極めて事務的に手当てを終えた正孝は、少し張り詰めた空気を和ませようと、蕾夏の肩を軽くポンと叩いた。
 強張っていた蕾夏の肩から、すっと力が抜けた。蕾夏は、ほっとしたようにヘッドボードに背中を預け、ぼんやりと中空を見つめた。
 いくら部屋の中でも、キャミソール1枚では風邪をひいてしまう。早くパジャマを着るよう声をかけようとした正孝は、力を抜いてそこに佇む蕾夏に目を向けた次の瞬間、言葉を失った。
 ―――鳥肌が立った。その、姿に。
 真っ白な肌の上に流れる、くせのない真っ黒な髪…一切の感情を閉じ込めて、ただ静かに真正面を凝視する、光を失った黒い瞳―――その内側に血が流れているのかどうかすら一瞬疑問に思ってしまうほど、透明で、かつ(なまめ)かしい、蕾夏のその姿に。
 昨日までの蕾夏は、こんなムードを持っていただろうか? いつものあの無邪気さが消えてしまうと、後に残った蕾夏はこんなに綺麗に見えるものなんだろうか? …それとも自分の目が、昨日を境に変わってしまったのだろうか。
 今の蕾夏は、まるで高級な白磁でできた美しい人形だ―――ゾクリとしたものを感じ、正孝は思わず身震いした。

 “今のあんたには、あの子は危険すぎる”。
 春日の言葉を、正孝は、この時初めて、本当に理解した。

***

 その翌日から、蕾夏は普段通りの彼女を演じきった。
 あまりに「普通」なので、一瞬何もなかったのではないかと錯覚を起こすほど、蕾夏の「普通」ぶりは完璧だ。だが、事件の日のあの感情の抜け落ちた表情を知る正孝や由井や翔子は、蕾夏が「普通」であればあるほど、その状態を保つ彼女の精神力の凄まじさに寒気すら覚えた。
 「普通」を保つことで、今にもバラバラになりそうな心をなんとか繋ぎとめている―――正孝には、そう思えた。
 そんな蕾夏も、正孝の前では「普通」の仮面を取った。まるで電池切れでも起こしたように、笑顔が抜け落ち、無表情になる。正孝を“医師”と認め、信頼してくれたからかもしれない。
 傷の手当てを受ける蕾夏は、まるで人形だ。泣きもしないし、笑いもしない。怒りも悲しみも感じさせない。そんな人形相手に、正孝は、混乱する己を押さえつけながら、傷の治療をし続けた。
 自分の立場は“医師”で、彼女は“患者”だ―――そう言い聞かせても、思わずその白い肩に目を奪われた時に感じる罪悪感が拭い去れる訳もない。一度気づいてしまったものから目を背けるのは難しい―――正孝が、まだ若いだけに。

 やがて、傷口の消毒の必要がなくなると、正孝は心底ほっとした。
 蕾夏は、回復していく。いずれは、以前の無邪気さを取り戻すだろう―――脳裏に焼きついている、あの日の蕾夏そっくりの魅惑的な姿は、記憶から追い出してしまえば、それで全て元通りだ。そう思った。

 だが、正孝の予想は、あまりにも甘かった。
 蕾夏の本当の傷を見せつけられたのは、その2ヶ月後だった。

***

 蕾夏が最初のフラッシュバックを起こしたのは、偶然正孝が熱を出して寝込んでいた日だった。
 由井と翔子では手に負えず、結局蕾夏は、辻家まで連れてこられた。正孝は、着込めるだけのものを着込んで出迎え、熱でグラグラする頭を抱えながら蕾夏を自分の部屋まで連れて行った。
 「…藤井さん…もう、力抜いていいよ。僕しかいないから」
 両腕を抱きかかえたままずっと小刻みに震えている蕾夏に、そう声をかけてみる。が、反応はない。どうしていいかわからず、正孝は蕾夏の顔を覗きこんだ。
 「藤井さん?」
 声をかけながら肩に手を置いた途端、蕾夏の体がびくん、と跳ねた。
 次の瞬間、顔を上げた蕾夏はびっくりしたように目を見開き、正孝を押しのけて部屋から逃げ出そうとした。
 「ふ…っ、藤井、さんっ!? どうしたんだ!?」
 反射的に蕾夏の腕を掴んで引き戻す。が、蕾夏はなおも暴れた。正孝の手を振り解こうと、無我夢中で手をバタつかせている。熱で体力が落ちている正孝は、少しでも気を抜けば負けてしまいそうだ。本気で逃げ出そうとする蕾夏を、正孝も本気で引き止めた。暴れる肩を、背後から抱きかかえて。
 蕾夏は一切、声を出さない。でも―――彼女の全身が悲鳴を上げてる気がした。
 「大丈夫…! もう大丈夫だから! 逃げなくていい、ここには僕しかいないから…!」
 足がもつれて、2人は床に座り込んだ。それでもまだ蕾夏は暴れている。声を上げずに暴れる蕾夏の手が正孝の胸や顔にぶつかる。その痛みに耐えて、正孝は必死に彼女に食い下がった。離したらどうなるかわからない―――離す訳にはいかない。
 そんな死闘が、10分も続いただろうか。蕾夏はようやく、大人しくなった。
 熱で朦朧としているところに、これだ。正孝は体力気力の限界といった感じで、床に転がった。蕾夏の方は、電池が切れたように動かない。床の上にぺたりと座り込んだまま、まだ震えていた。
 「…と…れないの…」
 「―――え?」
 震えるような声が、微かに聞こえた。正孝は、なんとか起き上がり、すぐそばに座り込んでいる蕾夏を見た。
 「藤井さん、何て言った?」
 「―――血が…とれないの。何度も手を洗ってるのに」
 その言葉で、正孝は初めて気づいた。
 蕾夏にとっては、自分が暴行されたこと以上に、自分が他人を刃物で斬ったことの方がショックなのだ、と。
 蕾夏は、身じろぎ一つしない。ただ虚ろな表情で、正孝の目の前に座り込んでいた。蕾夏の姿をした、等身大の人形だ―――心は、どこにもない。
 あの日見た、もの言わぬ白磁の人形が、そこにいた。
 いたたまれなくなって、正孝は、思わず蕾夏を掻き抱いた。いろんな感情がごちゃ混ぜになる―――どんなつもりで自分が今蕾夏を抱きしめているのかさえ、理解できない。
 「だ…大丈夫。君の手は、もう汚れてないから。―――君はもう誰も傷つけてないし、君を傷つける人はもう誰もいない。…安心していい。眠っていいよ」
 その言葉が、届いたのだろうか。
 蕾夏は、まるで神経が焼ききれてしまったかのように意識を失い、そのまま深い眠りに落ちていってしまった。

***

 歳月が過ぎていく中で、蕾夏は次第に回復していった。
 時を重ねる毎に、蕾夏がフラッシュバックを起こす回数は減り、起こした時の症状も少しずつ軽くなっていく。始めの頃は、まさに毎回毎回が死闘の連続だったが、高校1年になる頃には、正孝が背中を抱いて宥めればなんとか落ち着く位にまで回復し、1年生の終わり頃には、それが手を握るだけで事足りるようになっていた。
 蕾夏は、ほぼ毎日のように悪夢を見るため、睡眠不足が続いている。が、人の目のある所では、ピンと神経を張り詰めているので眠る事ができない。そんな蕾夏のための場所が、正孝の部屋だった。勉強をする正孝の背後で、蕾夏は床に丸まって眠る―――正孝の部屋でだけは、常に張り詰め続けている神経を緩め、素顔の彼女に戻る。
 「普通」の仮面を被った蕾夏が、自分の前でだけ、その緊張を緩めてくれる。他の者には絶対見せない隙を見せてくれる―――それは、蕾夏が正孝を信頼しているからだろう。男として、というより、“医師”として。その事実に、正孝は満足していた。
 いや―――満足していると、思い込んでいた。

 蕾夏が高校2年に上がる春休み。医学書を読む正孝の傍らでは、蕾夏が眠っていた。
 まるで子猫か何かのように、手足を丸めて眠る蕾夏―――規則正しいその寝息を聞いていると、正孝も心が穏やかになった。
 ふと気づくと、正孝は無意識のうちに手を伸ばし、蕾夏の絹糸のような髪を、その手で梳いていた。
 その瞬間、気づいてしまった。
 自分がいつも、蕾夏がここに来るのを心待ちにしていることに。

 警戒心の強い、毛並みの綺麗な美しい子猫が、自分の足元でだけのんびりと丸まって眠ることへの、優越感。こんな蕾夏の姿を誰にも見せたくないという独占欲―――気づき出したら、止まらなかった。そう、自分は間違いなく、蕾夏を自分の手元に置きたがっている。自分だけのものにしたいと思っている。
 つまりは―――愛してしまっている。“患者”ではなく、一人の16歳の少女として。
 けれど、蕾夏がこんな風に正孝の前で警戒を緩めるのは、正孝を信用しているからではない。正孝が“医師”だからだ―――“男”ではなく。
 その事実に、胸が締め付けられた。

 その日から、正孝と蕾夏の関係は、変わってしまった。
 蕾夏に“男”の自分を見せれば、蕾夏は離れていく。そう考えた正孝は、努めて“医師”の立場を貫こうとした。が…蕾夏は勘が鋭い。肩に触れた手や握った手から、何かを感じ取ったのかもしれない。正孝の思いとは裏腹に、蕾夏は次第に、正孝と距離を置こうとするようになった。
 蕾夏が距離を置こうとすると、正孝はこんな言葉で彼女を懐柔する―――“まだ君は悪夢にうなされてるだろ? …君のことが心配なんだ。まだ主治医を続けさせてくれないか”。…事実を前に、蕾夏が折れるのが、わかっていたから。
 そんな卑怯な自分に気づくたび、正孝は苦しんだ。元々バランスのとれた人間だけに、今の自分の歪んだ状態に酷い嫌悪感を覚えた。
 蕾夏を、助けたい―――けれど、完全に回復すれば、蕾夏は離れて行く。蕾夏を、手放せない。
 自分は一体、何を望んでいるのだろう? それすら見失った。
 正孝の手から巣立とうとする蕾夏を、正孝が必死に引き止める―――正孝と蕾夏の関係は、いつしか、そんな歪んだものになってしまった。

 蕾夏が大学4年の夏は、2人のその関係が、一端ピリオドを打った夏だった。
 どんな形でもいい、手放したくなかった。抱きしめたくないと言ったら嘘になる。けれど、それを蕾夏が望まないのなら、ただそばにいてくれるだけで構わない。手に入れて、ずっと体の中を駆け巡る焦燥感を宥めたかった。
 結婚して欲しい。一生そばにいて欲しい―――気がつけば正孝は、蕾夏にそう頼んでいた。
 「…辻さん、間違ってる」
 俯いたままの蕾夏は、ポツリと、そう言った。
 「間違ってる?」
 「辻さん、私の事、ちっとも愛してなんかいないもの」
 そのセリフには、さすがに眉をひそめた。
 「なんでそんな事言うんだ? 僕が君を好きだって事は、君だって十分知ってるだろう?」
 「…うん。知ってる。でも、違う。違うの」
 唇を噛んだ蕾夏は、辛そうな表情を浮かべ、真正面から正孝を見つめた。
 「…どうしてわからないの? 辻さんが欲しがってるのは“私”じゃない―――私そっくりな姿をした“人形”なの」
 ―――頭を殴られたような、衝撃。
 「辻さんが欲しがってるのは、辻さんの腕の中で大人しく収まってる私や、足元で丸まってる私…私の姿をしていれば、それでいいの。だって、辻さんが恋した私って、そういう私でしょう?」
 「……」
 正孝は、言葉を失った。
 言われて初めて気がついたのだ。自分が追い求めていた物の正体に。
 「辻さんは、私の心なんて、ひとつも求めてない。…でも、辻さん。本当の私は“人形”なんかじゃない―――人間なんだよ?」
 悲しげな、寂しげな蕾夏の表情―――こんな時だというのに、その表情に思わず見惚れている自分が、どうしようもなく可笑しかった。
 滑稽すぎて―――嘲笑(わら)うことすら、できなかった。


***


 『私の心なんて、ひとつも求めてない』
 ―――確かに、そうだった。あの頃は。
 手に入れたかったのは、真っ白な肌に流れる黒髪をした美しい人形―――蕾夏の強さや、蕾夏の純粋さは、あの頃はすっかり忘れていた。余りにも、あの日見た艶かしい姿が印象深すぎて。余りにも、手の中にあった存在が愛しすぎて。
 皮肉なものだ。
 手の届かない所へ行ってしまってから、彼女の優しさや強さに惹かれ、焼け爛れるほどの渇望を覚えるなんて。

 大きく息をついた正孝は、複雑な心境で、約1メートル左隣に佇む彼の方を見た。
 翔子の病室のドアを見つめたまま、彼は、まるで外界をシャットアウトしたみたいに、ただ一人でそこに佇んでいた。正孝の視線を感じたのか、彼もこちらを向いた。
 「…翔子が、迷惑かけたね。済まなかった」
 正孝の言葉に、瑞樹は苦笑いを浮かべた。
 「一発、ひっぱたいたんで、おあいこです」
 「え」
 一瞬、顔がひきつる。が、考えてみれば至極妥当な行動のような気がした。多分彼は、自分の憤りをぶつけたというよりは、手に負えない状態の翔子を正気に戻すためにしたのだろうから。
 「…まあ、顔の形が変わらない程度なら、一発や二発、あの子にはいいクスリだ」
 正孝も苦笑を返し、手に持ったままだったボストンバッグを床に置いた。
 また暫く、沈黙が流れる。
 「―――前から一度、成田君に訊いてみたかったんだ」
 正孝は、ネクタイを緩めながら、瑞樹の表情を窺った。一応、聞く用意はあるらしい。瑞樹はちゃんと、正孝の方を見ていた。
 「君は蕾夏の…藤井さんの、どこが好きなんだ?」
 質問する真意を測りかねるのか、瑞樹が少し眉をひそめた。正孝が、穏やかな中にも意外に真剣なものを滲ませてこちらを見ているのに気づき、瑞樹は少し考え、やがて口を開いた。
 「―――限りなく優しいくせに、時に酷く残酷なとこ、かな」
 「残酷?」
 「あいつの事、文字でしか知らなかった時から、そこはずっと気に入ってた」
 言われて、気づいた。そうだ―――蕾夏と瑞樹は、始まりは、ただの無機質な文字なのだ。
 どこの誰が、どんな人間が書いたかわからない文字―――しかもコンピュータだから、筆跡すらわからない、ただの、記号。そこから2人は、何を感じ取ったのだろう? 少なくとも瑞樹は、そこから蕾夏の優しさと残酷さを感じ取っていた。蕾夏もきっと、何か心の琴線に触れるものを感じ取っていたのだろう。でなければ、今に至っていない筈だ。
 「後でわかった。俺が残酷だって感じたものは、あいつの強さとあいつの抱える傷だった、って。あいつは、強い―――強いからこそ人に優しいし、強いからこそ、自分を守る為には残酷にもなれる。…でも、残酷になりながら、後で必ず、相手に与えた傷を思って泣く―――そういうところが、もの凄くあいつらしい」
 「…そうか。なるほどね…」
 正孝は、思わず自嘲気味な笑いを浮かべ、視線を床に落とした。
 自分が見失っていた蕾夏を、目の前で紐解かれたような気がする。そう…正孝も、そういう蕾夏に惹かれた。けれど、惹かれたのは、失った後だ。
 「辻さんは?」
 極当然のように、瑞樹が訊ねてきた。そう、この質問は当然だ。だが…ため息をつくしかない。
 「―――僕が、本当の意味で蕾夏に惹かれたのは、僕がふられた後だ」
 「…は?」
 「彼女は、僕の求婚を断った。僕自身が気づかなかった僕の本心を見抜き、このままでは僕が駄目になると思って、自分から離れていった。いろんなリスクが伴っているにも関わらず、ね。…その日から、少しずつ、蕾夏の本当の姿が見えるようになった。理解すればするほど、もっと惹かれていった。どうしようもない渇望を覚えるようになった時には―――彼女の隣には、君がいた。そういう事だよ」
 呆れるだろ? という顔をする正孝に、瑞樹はどういう顔を返せばいいかわからない。少し考え込んだような、複雑な表情をして、正孝を見ていた。
 「彼女は、君を選んだ―――そして、その道は正しい。この前、成田君が撮った彼女の写真を見て、そう確信した。“瑞樹と一緒にいたい”という蕾夏の言葉を聞いて、やっと肩の荷が下りたよ。もう彼女は大丈夫…“主治医”は卒業だ」
 瑞樹の目が、少しうろたえたように揺れた。そういうセリフを、蕾夏から直接聞いた事がない。そういう事は直接俺に言えよ、という本心は押し隠して、なんとか平静な顔を保った。
 「…じゃあ、もう諦めたって思っていいですか、あいつの事」
 「―――ああ、いいよ」
 正孝はそう言ったが、クスリと笑い、付け加えた。
 「ただし、もし君が蕾夏を捨てたり蕾夏より先に死んだりしたら、遠慮なく僕が持っていく。君が相手だからこそ諦めたんだからね」
 「…また、随分な事言いますね」
 呆れたような顔をする瑞樹に、正孝は、ふっきったような笑顔を向けた。
 「先の事は、わからない。別の恋をするかもしれないし、このまま死ぬまで一人かもしれないし―――でも、どんな状況になっても、蕾夏は僕にとっては、特別だから。…別れる事が宿命だったと思えるほどに愛せる人なんて、もう出会えないと思う。だから、君がいなくなれば、さっさと持っていかせてもらうよ」
 「……」
 正孝のセリフに、瑞樹の表情が、微妙に変わった。
 急に真剣な顔になった瑞樹は、何を考えているのかわからない顔で、正孝の顔をじっと見つめた。そのムードに、正孝の方が逆に慌ててしまう。
 「え…何か、まずい事を言ったかな」
 「―――いえ」
 大きく息をつくと、瑞樹は髪を掻き上げ、ふっと笑った。
 「…まいったな―――そのセリフを聞くとは思わなかった」
 「え?」
 「…いえ、俺の個人的な事です」
 それで話を切り上げようとしているらしい瑞樹を、正孝はなおも訝しげに凝視した。その様子に、瑞樹は降参したように苦笑した。
 「俺も、親父の子だな、って思っただけですよ」
 意味がわからない。ますます怪訝そうな顔をしたが、瑞樹はただ苦笑いを返すだけだった。

 その時、病室の扉がガチャッ、と音をたてて開いた。
 正孝と瑞樹は、同時に扉の方に目を向けた。まだ振り返りながら翔子に何かを話しているのか、蕾夏の白い腕だけが、ドアからこちらに覗いていた。
 少しして、蕾夏がやっと病室から出てきた。その姿を見て、瑞樹があからさまに吹き出した。
 「―――何よ」
 むっとしたように、蕾夏が瑞樹を睨んだ。が、瑞樹は、まだ肩を震わせて笑いながら、ぐしゃぐしゃになった蕾夏の髪を指で梳いた。
 「お前、女なんだろ、一応。すげー頭。寝起きかと思った」
 はっ、としたように、蕾夏の顔が少し赤くなった。
 「! う…、っわ、そうだ、翔子と抱き合ってわんわん泣いたから…。―――ちょっと待って。今の、何? 女なんだろ“一応”? 何、“一応”って」
 「お子様は“女”とは呼ばないし」
 「腹立つーっ!」
 瑞樹の手を払いのけて、ムキになったように自分の手櫛で髪を直す蕾夏の様子に、傍で見ていた正孝も苦笑した。こういう面は、絶対自分の前では見せてくれなかった―――やっぱり、蕾夏の選択は、正しい。
 「藤井さん。僕、もう少し翔子に付き添ってくから」
 そう声をかけると、蕾夏は慌てて正孝の方に向き直った。
 「あ、うん。わかった。―――私たち、これで帰るから」
 「うん―――ありがとう。翔子のために来てくれて」
 正孝の言葉に蕾夏が頷くのを確認してから、正孝は病室のドアを開けた。
 「辻さん」
 ふいに、瑞樹の声が背後からして、正孝は振り向いた。
 首を傾げるようにする正孝に、瑞樹は不敵な笑みを浮かべて、こう言った。
 「俺、多分長生きだから、諦めて下さい」
 一瞬、ぽかんとした顔をした正孝だったが、意味を理解して、苦笑とともに白旗を上げた。
 「…ついでに浮気をする甲斐性もない、って言いたいんだね? わかったよ」
 キョトン、とする蕾夏をはさんで、正孝と瑞樹はニヤリと笑い合った。

 ―――まあ、もっとも…多分蕾夏は、君以外では駄目なんだろうな―――たとえ君が死んでしまっても。
 だって、何の変哲もない文字の羅列から、本当の蕾夏を見つけ出した人なんだから、君は。

 正孝はそう思ったが、やはり悔しいので、あえて口には出さなかった。


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