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no090:
私の欠片
-odai:18-

 

携帯用サイズノ、恋人。

―99.09―

 受話器の向こうのへりくだった声に、瑞樹は首を傾げた。
 「何に使うんですか?」
 『いえ、私もあんまり詳しいことは。時田先生、フラリと来て曖昧な話して帰るのはしょっちゅうなんで…。なんか、今度のオープンセミナーで、講習生に見せるサンプルにしたいとかなんとか』
 「俺の写真をですか」
 変な話だ。何故時田郁夫が自分の写真セミナーで瑞樹の写真をサンプルに使うのだろう? 講習生だって、そんなもんを見るために足を運ぶ訳ではないだろうに。
 『まぁ、10枚前後でいいんで、送ってもらえませんか。あ、それと、直接お礼が言いたいからって言うんで、成田さんの携帯番号教えちゃいましたけど、構いませんでしたか?』
 ―――教えてから確認すんなよ、おい。
 罪悪感ゼロの山本編集長の声に、つい苛立つ。いくら『フォト・ファインダー』の一般公募に応募したからって、その雑誌の編集長が、それで知りえた携帯の番号を他人に教えてしまうのは、プライバシー侵害にならないんだろうか? 法律には詳しくないので、よくわからないが。
 とはいえ、別に時田郁夫に知られても困る訳ではないので、瑞樹はため息混じりに「構いませんよ」と答えておいた。
 『じゃ、うちの編集部宛で、今週中に送って下さい。週末に先生、編集部にいらっしゃるんで、渡しておきます』
 「…わかりました」
 そう言う以外、なかった。

***

 「なんか不思議な話だねぇ…」
 『だろ? 俺も変だとは思うけど、時田郁夫の名前出されるとなぁ…』
 「自分が賞あげたアマチュアの写真だから、紹介したいのかな」
 『わかんねー…。とりあえず、急いでるみたいだから、今写真選んでる』
 一緒に選びたかったな、と思いながら、蕾夏は傍らのウーロン茶を手に取り、一口飲んだ。
 先週末は、瑞樹が土日とも休日出勤だった。6月以降、結構順調に週末には会えていたので、久々に週末に顔を見ないと、なんだか変な感じだ。
 そのせいか、電話で声を聞くと、なんとなくいつもよりホッと安心できる。前に瑞樹が携帯電話を直せと言った時の心境が、蕾夏も今ではちょっとわかる気がした。
 「ねえ、どんな写真選ぶの?」
 ローテーブルの上に置いてあったアルバムを手元に引き寄せながら、蕾夏は訊ねた。蕾夏が作った“瑞樹の写真集”―――表紙を開いた1ページ目は、新宿東口で出会った時に撮った、ビルの窓に反射した夕日だった。
 『結構悩むよなぁ。使い道はわかったけど、どういうサンプル求めてんのかさっぱりわかんねーし』
 「じゃあ、時田郁夫に見てもらいたい写真を送ればいいんじゃない? 瑞樹、コンテストにもそういう理由であの写真を選んで送ったじゃない」
 『…そうだな。そしたら、お前の写真も送るかもしれないけど、いい?』
 アルバムをめくる蕾夏の手が止まった。
 時田郁夫に見られるのは構わないが…自分の写真がオープンセミナーの受講生全員に見られるシーンを想像すると、かなり恥ずかしい。
 「…いいや、もう。“生命”なんて、“フォト・ファインダー”買った人全員に見られちゃってるんだし」
 『ハハ、そりゃそうだ』
 「もし私の写真送るんだったら、浅草のこんぺい糖のやつがいいな…瑞樹が最初に撮ってくれた私だから」
 その写真は、“写真集”にもちゃんと貼ってある。瑞樹が撮った自分の姿の中では、“生命”に次いで好きな写真だ。
 ガラス瓶に入ったこんぺい糖を見つめる自分は、昔を懐かしむみたいに少し目を細め、柔らかに笑っている。多分、懐かしんでいたのは、何も知らない幼い頃の自分だろう―――知りたくなかった物も一杯あるから、無知だった自分に憧憬の念を抱く。こんぺい糖の写真に写った自分は、そんな自分の気持ちがそのまま表れているように、蕾夏には思えた。
 この写真にも、あの写真にも―――瑞樹の撮った写真には、蕾夏の小さな欠片が混じっている。拾い集めたら、今ここにいる自分が出来上がるだろう。
 写真を撮る作業って、まるで1つの大きなジグソーパズルのピースを作ってるみたいだ―――ふと、そんな事を思った。

***

 「納品のために処理を止める訳にはいかないからって、どうしても定休日の土曜日でなけりゃ駄目だ、って社長さんが仰るんだよ」
 眉間に皺を寄せて難しい顔をする課長を見下ろし、蕾夏は後ろで組んだ手を組みなおした。次に続く言葉が、ほぼ予想できたからだ。
 「だから、悪いけど、土曜日出勤してくれ。納品先直行直帰で構わないから」
 「…わかりました」
 「マシンセットアップは終わってるんだろう?」
 「終わってます。あとは梱包するだけです」
 「ん、ならいい。君も打ち合わせの時見たと思うけど、相当狭い事務所だから、レイアウトに苦労しそうだ。サービスの奴と事前にマシン配置図作っといた方がいいぞ」
 「午後から、再来週の納品の打ち合わせに来るんで、訊いてみます」
 「そうか。よろしく」
 行っていいよ、という顔を課長がしたので、蕾夏はくるりと回れ右をし、自分の席に戻った。
 戻った途端、大きなため息が出た。
 ―――ちょっと…泣きたい気分かもしれない…。
 なんでこう、タイミングが合わないのだろう。納品が先週末だったら良かったのに―――蕾夏は、頬杖をついて、思わずまたため息をついた。
 「センパイ、週末、納品決定しちゃったんですか?」
 隣の席から、ドングリまなこが覗き込む。そちらをチラリと見て、蕾夏は苦笑いを浮かべた。
 「そ。決まっちゃった」
 「うわー…そうなんですか」
 「亜弓ちゃんも2年目位からは納品行く事になると思うから、覚悟しといた方がいいよ。うちの場合、納品の都合は客次第だから」
 そうですよね、と答える亜弓の顔がひきつっていた。
 亜弓は、蕾夏にとっては初めての“後輩”だ。しかも、この会社では珍しい“女性”でもある。この春入ってきたばかりの新人だが、別のソフトハウスからの転職組なので、年齢は蕾夏の2つ下。なかなか優秀だし、見た目も中身もあっさりした子なので、蕾夏も結構可愛がっている。
 「そっかー…土曜日はいいけど、日曜日に納品とか入ると、困っちゃうなぁ、あたし…。彼、日曜しか休みないんですよ」
 そう言ってちょっと口を尖らす亜弓の視線の先には、写真立てに入った交際中の彼の写真がある。初めて見た時には驚いたが、もう5ヶ月以上も毎日見ているので、大分慣れてきた。
 ――― 一体、どういうつもりで撮ったんだろうなぁ、これ…アップすぎだよ。辛うじて顔の造作わかるけど、あまりにもカメラに近づきすぎてるから、ピント全然合ってないし。
 ピントが外れてぼけまくっている亜弓の彼氏は、喉の奥まで見えそうな位、大きな口をあけて笑っている。どアップだから、写真全体の半分位が口だ。
 「…亜弓ちゃんさぁ。いつも思うけど、その彼氏の写真って…」
 「あ、これ? ハハハハ、カッコイイでしょ? この顔、一番好きなんですよ」
 「…そう、なんだ」
 他にいい写真なかったの? と訊こうとしたが、やめた。どうやら亜弓とは好みが全然違うらしい。
 「センパイは、彼氏の写真、飾らないんですか?」
 「え?」
 「あたしなんて、野崎さんに怒られてへこんだ時は、この写真見て滅茶苦茶癒されてますよ」
 ―――その写真で? 私だったら、夢に見てうなされそうだよ。…亜弓ちゃんの感性って偉大だ。
 「センパイも飾ったらいいのに」
 「うー…、そういうの、あんまり好きじゃない。恥ずかしいでしょ、人に見られるの」
 「…そんなに恥ずかしいような顔なんですか、彼氏の顔」
 「いや、そういう訳じゃないけど」
 むしろ整ってる方だと、蕾夏は思う。亜弓の美的センスで、それが理解できるかどうかは別として。
 「えー、どんな顔なんですか? 似てる芸能人とかいないんですか?」
 「芸能人…うーん、いないなぁ。…まあ、いいじゃん、どんな顔でもさ」
 「そんなぁ、気になりますよ。やっぱり飾りましょうよ、写真! 見たい見たい、気になりだすと止まらないっ」
 そこに、丸めたストックフォームが2個、向かい側の机から飛んできて、蕾夏と亜弓の頭にジャストミートした。
 「…そこ。フリーの男の前で、何ラブラブモードに入ってんだ」
 明らかに作った表情とわかる「怒ってる顔」で、野崎がそう文句を言った。その野崎に向かって、亜弓はまた口を尖らせた。
 「別にラブラブモードじゃないですよー。野崎さんだって、モテてるんだからいいじゃないですか」
 「うるさいっ。好みじゃない奴にまとわりつかれて誰が嬉しいかってんだっ」
 最近、野崎は、営業補佐の水口にまとわりつかれている。フェロモン系の女は大嫌いな硬派な彼なので、本気で迷惑している。見ていて可哀想になるほどに。蕾夏はその姿に、会社での瑞樹の状況を重ねて、深く同情している。
 大変だよなぁ、野崎さん…という顔で見ていたら、野崎の目がジロリと蕾夏を睨んだ。
 「―――飾るなよ、写真」
 「あ、あははは、飾る訳ないじゃないですか」
 慌てて笑顔でそう答えたが、蕾夏ははたと気づいた。

 ―――ちょっと待って…もし飾りたいと思ったとしても、飾れないんじゃない?
 だって私、持ってないじゃない。瑞樹の写真を、1枚も。

***

 周囲の雑音をシャットアウトして、瑞樹はキーボードを叩いていた。そのシャットアウトされた雑音の大半は、こんな声だ。
 「え〜、今日って私の誕生日なんですよぉ〜? もう定時過ぎたんだし、今日位帰りましょうよぉ〜」
 「そうですよ、成田さん! コール・センターの綺麗どころ集めて誕生日祝いするんですから、成田さん来たら、ハーレム状態ですよ。ね、行きましょうよぉ〜」
 「―――諦めた方がいいわよ、あんたたち。聞こえてないから」
 佳那子が言葉を挟んだが、本日誕生日の主役は引き下がらない。それどころか、聞こえてないなら視界を遮ってやれ、と思ったらしく、瑞樹が見つめているディスプレイの前に手を出して、瑞樹の目の前で手を振ってみせた。
 「成田さーん? 見えてますかー? ちゃんとお話聞いて下さいよーっ」
 「―――…」
 瑞樹の隣に座る佳那子と、少し離れたところで見ていた樋沼は、それまでニュートラルだった瑞樹のオーラが、じわじわと殺気を帯びたものに変わるのを感じ、背筋が寒くなった。
 「あ、あのっ! お2人とも、諦めた方がいいですよっ! ね、ね、ね!」
 慌てて立ち上がった樋沼は、そう言ってコール・センターの女子社員2名のところに駆け寄り、少しずつシステム部の外へと追いやった。彼は前に、この状態の瑞樹にいちゃもんをつけたせいで、チェスでボコボコに叩きのめされた経験がある。あの経験で、瑞樹が殺気をまとったら近寄らないのが無難、と学習したのだ。
 「…あんた、今の位でそんなに殺気立つの、やめなさいよ。周りにいる人間の心臓がもたないわよ」
 目の前から邪魔な物体が消えたせいか、瑞樹の殺気が少しおさまる。佳那子は呆れたように瑞樹の横顔にそう言ったが、当の瑞樹は、やや憮然とした面持ちでディスプレイを睨み続けている。
 「しかし、あの子たちの神経、とことん図太いわねぇ…。成田に彼女出来たって言っても、まだ食い下がるんだもの」
 「―――馬鹿なんだろ」
 瑞樹が一言、そう言った。
 「…あんた、それをあの子たちに言ってやればいいんじゃない? あまりにもバッサリだから、傷ついて二度と来なくなるかもよ?」
 「疲れる」
 4文字の短い言葉だが、この言葉の意味するところは「馬鹿な奴のために口を開くのは面倒だし、そんなエネルギーの無駄遣いはしたくない」という意味だ。瑞樹というフィルターを通すと、こんな短い言葉になってしまう。
 ―――全く…相変わらずよねぇ、こういうとこ。蕾夏ちゃんと喋ってる成田、会社中の連中に見せてやりたいわ。これは幻覚だ、ってきっとみんな言うわよ。
 佳那子がため息をつくと同時に、机の上に置いた瑞樹の携帯がブルブルと震えた。
 それまで、ディスプレイから一切離れなかった瑞樹の目が、携帯電話に向けられた。誰だろう、という訝しげな顔で携帯に手を伸ばし、通話ボタンを押す。
 「はい?」
 相手の声を確認した途端、瑞樹の不機嫌そうなオーラが、一瞬にして消えた。コール・センターの2人を追い返して戻ってきた樋沼は、その瞬間を目撃してしまい、ギョッとしてその場に固まった。
 「あー…、ああ、大丈夫。どうした? こんな時間に」
 電話に出ながら、瑞樹は佳那子の様子と樋沼の様子にチラリと目を走らせた。2人の目線が気になるのか、急に席を立ち、背後の樋沼の席に移動してしまった。
 「…誰からの電話でしょう、あれ」
 呆然と樋沼が言うと、佳那子が全てを悟った声で答えた。
 「成田の彼女でしょ、多分」
 「え! 成田さん、彼女いたんですか!」
 「あれだけモテるんだから、今までいなかった方が変よ」
 「…いや…でも…」
 あの瑞樹が、女性に優しい言葉をかけてるところなんて想像がつかない。樋沼は、信じられないという面持ちで、自分の席を陣取ってしまった瑞樹の背中を眺めた。
 「…うん…うん―――ふーん、そうか。大変だな。俺? いや、今週末はまだわかんねー…」
 瑞樹のまとっている空気が、一気に憂鬱モードになる。
 ―――ああ、蕾夏ちゃんが休日出勤にでもなって、週末会えなくなった訳ね。言葉は少ないけど、成田って結構わかりやすいわよねぇ…。
 「まぁ、仕方ねーよな。―――は!? 今!?」
 憂鬱な空気が、また一瞬にして消える。けれど、今度は何があったのか、ちょっと推理不能だ。
 「い、今どの辺だよ!? ―――…ああ、うん、了解。だったら、今から行く。…え? 仕事? んなもん知るか。とにかくすぐ行くから」
 いつもの瑞樹より若干早口にそう言うと、瑞樹はさっさと電話を切り、自分の席に戻ってきた。机の下に置いたデイパックを引っ張り出しながら、佳那子に一言告げた。
 「俺、休憩してくる」
 「は?」
 「30分か1時間戻らないんで、よろしく」
 「よろしく、って、一体どこに行くのよ?」
 「携帯持って出るから、何かあったら連絡して―――うわ!」
 荷物を手に、慌てた様子で出て行こうとした瑞樹は、ちょうど自分の席に戻ろうと動き出した樋沼と正面衝突してしまった。弾みで、デイパックが床に落ち、その開いていた前ポケットから、何かが滑り落ちてカラカラ音を立てて床の上を転がっていった。
 「わわっ、な、成田さん、すみませんっ!」
 「ば…っかやろ、樋沼っ! てめー、無駄に体デカいんだから、他人より注意しろよっ」
 ぶつけた頭をさすりながら瑞樹が怒鳴ると、樋沼はその大きな体を縮めて、転がっていってしまった何かを慌てて追いかけ、拾い上げた。
 それは、ケースに入っていないフィルムだった。樋沼は、恐々といった手つきで、それを瑞樹に差し出した。
 「こ、これ、落ちました」
 「―――ああ、サンキュ」
 それを見た途端、それまで怒っていた瑞樹の表情が、さっ、とバツが悪そうなものに変化した。ひったくるようにそのフィルムを樋沼の手から取り上げると、シャツの胸ポケットに放り込む。
 結局、どこに行くかも告げずに、瑞樹は行ってしまった。
 「―――やっぱり、よくわからない人ですね…」
 「…成田を完全に理解できる奴なんていないわよ」
 取り残された佳那子と樋沼は、呆然と瑞樹の背中を見送った。

***

 駅前の本屋で週刊誌を立ち読みしている小さな姿を発見した瑞樹は、急ぎ足で近づき、記事に目を集中させている彼女の髪をくいくいと引っ張った。
 「いたたたたた」
 「お待たせ」
 パタン、と週刊誌を閉じると、蕾夏は、憤慨した目で瑞樹を睨んだ。
 「何すんのよっ」
 「珍しい事されたから、珍しい事してみたくなった」
 「…変なの」
 少し居心地悪そうに視線を泳がせた蕾夏は、週刊誌を元の棚に戻した。
 「1階のファミレス…は、まずいな。…そこでいいか?」
 「うん、いいよ」
 本屋の数軒隣のコーヒースタンドに入る事にした。
 その時、車道を挟んだ向こう側の歩道を、さっき瑞樹を誘いに来たコール・センターの2人が通るのが見えた。ダッシュで走ってきたから、どこかの時点で追い抜いたらしい。
 向こうも瑞樹に気づいたらしく、目を丸くして、互いに何か言い合いながら瑞樹に手を振っている。ジェスチャーから察するに「隣の女は何者!?」とでも言っているようだ。
 瑞樹は、2人に意味深な笑顔を返すと、蕾夏の肩に手を回してぐいっと引き寄せた。
 途端、向こうの2人が、その場にフリーズした。
 「…何? 急に」
 日頃だったら、肩を抱いて歩くなんて絶対にしない。やや顔を赤くした蕾夏が、半ば睨むようにして見上げてくる。
 「気にしない気にしない」
 「そんなこと言っても、気になるってば、普通っ」
 さっき仕事の邪魔をされた仕返しだとは、到底言えない。車道の向こう側で固まってる2人については、蕾夏には言わないでおくことにした。

***

 「迷惑だった?」
 コーヒースタンドの一番奥の席につくと、蕾夏が、少し心配そうに眉を寄せた。
 「んな訳ねーじゃん」
 「お前らしくない、とかって顔顰められるかと思った」
 「こういうお前らしくねーのは大歓迎」
 「…なら、良かった」
 ほっとしたような笑みを見せた蕾夏は、紙製のカップに入ったカフェ・ラテにスティック・シュガーを半分だけ入れた。瑞樹は、ちょうど目が疲れてきたところだったので、眠気覚ましも兼ねてブラックコーヒーを口に運ぶ。
 「けど、珍しく弱ってんな。仕事で何かあった?」
 「ううん、別に。…ただ、今週末も潰れちゃうのかー、と思ったら、どっと疲れちゃって」
 「俺も、さっきそれ聞いた時、どっと疲れた」
 「あはは、先週末は私がそうだった。…で、30分でも会えたらちょっとは違うかな、と思って、来ちゃった訳」
 「―――珍しく、可愛いこと言うし」
 ちょっと気まずくなり、2人して視線を逸らしてそれぞれの飲み物を飲んだ。2人揃って“会いたい”とか“好き”とかいう気持ちを言葉にするのが苦手なタイプなので、この程度でも落ち着かなくなってしまう。
 「…そういえば、昼間、時田郁夫から携帯に電話あった」
 何か話題はないか、と探していた瑞樹は、ふと思い出して、そう言った。伏目がちにカフェ・ラテを飲んでいた蕾夏は、ぱっと目を上げた。
 「あ、もしかして、もう送ったの? 例の写真」
 「昨日の朝、ポストに投函したら、今日の昼届いたらしい。山本編集長から連絡もらった、ほんとに助かった、っていきなり電話してきた」
 「へー…ほんとに気さくな人だよね、時田郁夫って」
 「海外のコンクールで3つも賞取った写真家の筈なんだけどな」
 「で、どういう写真が要求されてたのか、わかった?」
 「いや。一方的に礼だけ言って、さっさと切れたから。変な奴…」
 「奴とか言ってる。時田郁夫相手に」
 くすくす笑っていた蕾夏だったが、何かを思い出したように、カップを置いてバッグの中を探り始めた。
 「写真って言えばねー、私、いいもん持ってるんだ」
 「いいもん?」
 「えっとね…あった! じゃーん! これ!」
 そう言って蕾夏が取り出したのは、コンパクトカメラサイズの、四角い箱。お馴染みのカラーデザインに、瑞樹は眉をひそめた。
 「“写ルンです”? 邪道…」
 けっ、という顔をする瑞樹に、蕾夏は唇を尖らせた。
 「邪道でいいもん。知ってる? “写ルンです”って、何度もテスト繰り返して、女子供でも手ぶれ起こさない最適のシャッタースピードになってるんだって。私、小さい頃からお父さんが撮るから全然カメラ持った事ないの。でもこれなら、ボケたりブレたりしないで撮れるでしょ」
 「まあ、確かにな。…でも、どういう心境の変化だよ」
 「うん。瑞樹のこと、撮ろうと思って」
 その言葉に、思わずむせそうになった。慌ててコーヒーを置いて、少し咳き込む。
 「な…なんで、俺の写真!?」
 「前に言ったでしょ。亜弓ちゃんが彼氏の写真飾ってるって」
 「…まさか、飾る気か?」
 「まさか。けど、それ見てて気づいたんだ。瑞樹は私の写真一杯もってるけど、私は1枚も持ってないなぁ、って」
 そこまで言った蕾夏は、急に顔を赤らめ、ちょっと言い難そうに続けた。
 「で、亜弓ちゃん曰く―――亜弓ちゃんは、仕事でへこんでる時とかに彼氏の写真見ると癒されるんだって。だから私も、先週とか今週みたいに会えない時に、瑞樹の写真あったら、ちょっと嬉しいかなぁ、と思って…」
 「……」
 ―――なんで今日に限ってこいつ、こういう可愛い事ばっか言うんだよ。らしくねー…。
 これは、結構、ヤバい―――今自分がどういう顔をしているのか、全然自信がない。蕾夏より赤い顔になってるのだけは勘弁して欲しい、と思いつつ、瑞樹は落ち着かない様子でまたコーヒーを手に取った。そういう瑞樹の態度を見ると、蕾夏の方も余計落ち着かなくなる。慌てたようにつけ足した。
 「そ…それに、考えてみたら、ムカついた時に壁に貼ってダーツの的にする、って使用法もあるしね。ね?」
 「ね、じゃねーよっ。お前がやったら俺もやるぞ」
 気恥ずかしさも手伝って瑞樹がそう言って睨む。と同時に、“写ルンです”を探した際に不安定になっていた蕾夏のトートバッグが、椅子の上から滑り落ちた。
 「きゃー、しまったっ」
 あたふたとバッグを拾う蕾夏の様子が可笑しくて、笑ってしまいそうになる。今日の蕾夏はあたふたしてばかりだ。
 蓋のないトートバッグなので、中身が一部散乱していた。足元にリップスティックがコロコロと転がってきたので、瑞樹は腰を屈めてそれを拾った。すると、胸ポケットに入れていたフィルムがするりと滑り出、ぶつぶつ言いながら財布や携帯電話を拾っている蕾夏の手元に転がっていった。
 「あ……!」
 まずい、と思って瑞樹が手を伸ばすより先に、蕾夏がそれを拾ってしまった。
 「? 何これ」
 フィルムを摘み上げた蕾夏は、訝しげに眉を寄せた。
 それは、いつも瑞樹が使っているメーカーのポジフィルムだった。撮影済みらしく、フィルムは全て巻き取られている。なのにこの状態、ということは、撮り終えたが未現像、という状態な訳だ。
 「なに、今日、写真撮ったの?」
 「…いや、違う。返せよ、それ」
 もの凄くバツが悪そうな顔の瑞樹を見て、蕾夏は余計首を捻る。何なの? という視線でなおも見つめてくるので、瑞樹は降参して、必要最低限の情報だけ開示した。
 「―――お守り」
 「お守り? このフィルムが?」
 「そ。だから返せって。これ返すから、ほら」
 半ば無理矢理リップスティックを蕾夏に押しつけ、瑞樹はフィルムを取り返した。もう落とさないよう、すぐにいつものデイパックの前ポケットにそれを放り込む。樋沼とぶつかった時にここに戻していればよかった、と後悔しながら。
 「何のお守りなの?」
 「秘密」
 「…最近の瑞樹って、ちょっと秘密主義だよね。辻さんと何話してたかも、結局教えてくれなかったし」
 ちょっと不服そうに膨れる蕾夏を無視して、瑞樹はブラックコーヒーをあおった。

 そう。このフィルムは、瑞樹のお守り。
 『さっきのライの写真、現像したら、ボクにも送ってな』
 "猫柳"の先輩・勅使河原の“青空写真教室”。あの日、"猫柳"にそう言われ、誰が現像なんかするかと意地になって、その後本当に現像しなかったフィルム。それが、これだ。
 蕾夏は忘れているらしいが、このフィルムの中には、瑞樹が撮った最初の蕾夏が収められている。子供みたいに無邪気な笑顔で大笑いしていた、蕾夏の笑顔が。
 このフィルムは、現像しない。現像して、何枚もコピーできる状態になんかしない。現像しなければ見られないが、それで構わない。瑞樹の頭の中には、ちゃんと残っているから―――このフィルムに収められている筈の、蕾夏の笑顔が。
 これは、最初に見つけた、ありのままの蕾夏の欠片だから―――このまま、大切に、取っておく。

 ―――仕事でへこんだ時は、これ見て元気づけられてる…なんて話、余計できねーよなー…。
 さっき思わぬセリフに赤面させられた仕返しに、全部バラしてやろうか、と思ったが、ただ墓穴を掘るだけになりそうなので、やめた。
 でも、蕾夏が瑞樹の写真を持ちたがる気持ちは、ちょっとわかった気がした。それがお守りになるんなら、我慢して写真を撮らせてやるか―――死ぬほど写真を撮られるのが嫌いな瑞樹は、密かにそう思って、口元をほころばせた。


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