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no091:
平行線
-odai:34-

 

生涯、交ワルコトノナイ、2本ノ線。

―99.09―

 会議室から吐き出される人々は、皆一様に疲れ果てた顔をしていた。
 「長丁場だったよなぁ…眩暈しそうだよ」
 久保田がコキコキと首を回しながらそう言うと、佳那子もそれに同調した。
 「リーダー会議は毎回こうよね。眠気と戦うのが大変だわ」
 「会議後には、あいつの元気さが目につくな」
 誰に頼まれた訳でもないのに、奈々美と一緒に会議の後片づけを嬉々としてやっている和臣を振り返る。奈々美はこの手の作業は率先していつもやっているが、和臣がしゃしゃり出たのは、当然奈々美と一緒にいたいがためだろう。
 「24時間ほぼ一緒にいるのにねぇ…」
 「成績不振で社長に怒鳴られてた連中があいつのボケ顔見たら、絶対蹴り入れるぞ」
 「ほんとよね。そういえば、長野の出張所も顔色さえなかったけど、そんなに売上悪いのかしら」
 「テコ入れ必要かもしれんなぁ、あれは…。カズを行かせようって話もあったんだけど、企画よりは営業を、って要請らしいから、小山田先輩あたり行かされるかもな」
 そんな話をしながら、廊下にある自販機で缶コーヒーを購入していると、チーン、というエレベーターが到着した音がした。振り返ると、珍しくスーツ姿の瑞樹がちょうど降りて来た。今日は久々に、社外での打ち合わせに出向いていたのだ。
 「あ、成田。お疲れ。どうだった?」
 「―――疲れた」
 うんざり顔の瑞樹は、久保田と佳那子を押しのけるようにして、自販機に小銭を入れた。
 「樋沼のヤロー、打ち合わせ中に爆睡しやがった。最悪。あいつは外出禁止にしてくれ」
 「眠っちゃったの? そっ…それは、あんまりだわねぇ…」
 「なんだ、瑞樹、樋沼も連れてったのか」
 「部長命令で。全く…社内でも社外でも、あいつは俺に迷惑かけるためだけに存在してるとしか思えねーよ」
 そう言って瑞樹は、ウーロン茶のプルトップを忌々しげに開け、一気にぐいっとあおった。心底疲れてる様子の瑞樹の肩を苦笑いしながらポン、と叩くと、久保田と佳那子は先に事務所に戻って行った。
 9月も終盤を迎え、外は秋の気配がどんどん色濃くなっている。けれど、日頃スーツなど着ない瑞樹にとっては、今日の体感温度はいつもよりプラス2、3度といった感じだ。冷たいウーロン茶が夏並みに心地よい。
 「あれ、成田」
 会議室の後片付けを終えた和臣が顔を出した。瑞樹は、ウーロン茶を飲み続けつつ、手を軽く挙げてそれに応えた。
 「何、珍しい。成田がスーツなんか着てる」
 「樋沼のお()り」
 「え、樋沼? あいつって大丈夫? 見ててすんごい不安だけど」
 「…訊くな。また腹立ってくる」
 とその時、和臣が瑞樹の襟元を見て、小さな笑い声を立てた。
 「成田ぁ、ダメじゃん。着慣れてないとこれだもんなぁ」
 「え?」
 「一番上のボタンが外れてるよ。だからネクタイが決まらないんだよ。全く―――」
 そう言って和臣は、瑞樹のワイシャツの一番上のボタンを留め、緩みかけていたネクタイをきちんと整えた。
 「…っと。これでOK!」
 「カズ君ー、湯飲み、早く運んじゃおうよ」
 両手に湯飲みの乗ったお盆を持った奈々美が、声をかけた。小さな奈々美では、結構大変な状態だ。和臣は、瑞樹そっちのけで、大慌てで奈々美のもとへ飛んでいった。

 なんの気なしの行動。だから、和臣は、気づかなかった。
 和臣がボタンに手をかけた瞬間、瑞樹の肩が僅かに強張ったことに。
 詰めていた息をゆっくり吐き出し、疲れたように前髪を掻き上げた瑞樹は、せっかく締め直したネクタイをまた少し緩め、ワイシャツの一番上のボタンを外した。
 これだからスーツは嫌いだ―――そう思いながら。

***

 部屋着に着替えたら、やっと落ち着けた。
 カクテルバーの蓋を開けながら、ふとローテーブルに視線を落とす。数日前から置きっぱなしになっている封書が目に入ると、瑞樹の表情が少し曇った。
 淡いオレンジ色の封筒と便箋。相変わらず鉛筆書きで、何度も消した跡がある、少し丸っぽい字―――海晴からの手紙。
 全部で12行あるが、内容を要約するとたった一言になる。「お母さんに会ってくれませんか?」これだけだ。
 6月、突然かかってきた電話も妙だった。ほとんど親交のないかつての同級生に頼んでまで電話番号を調べたのに、その内容の半分は母に会ってくれないか、というものだった。
 何故海晴は、今更こんな事を言ってくるのだろうか? 何か母から聞かされたのだろうか―――会う気はないが、何故そう会わせたがるのか、その理由は気になる。
 カクテルバーを一口飲んだところで、瑞樹はその便箋を折りたたみ、封筒に収めて、背後の引き出しの中に放り込んだ。「会わない」の4文字で終わってしまう返事など、書く気にはなれない。海晴もその答えはわかっているだろう。
 時計を確認すると、まだ蕾夏に電話するには早い時間だった。ため息をつき、またカクテルバーをあおる。
 どことなく心が弱っているのだろうか―――何故か無性に、蕾夏に会いたかった。

***

 「フィクス版リリース、おめでとー」
 「ありがとー」
 お茶を差し出す奈々美に満面の笑みで答える佳那子。その隣で、瑞樹は半分死にかけていた。
 「…成田君、どうしちゃったの?」
 「ああ。樋沼のバグ潰しに最後まで追われて、部内じゃ一番貧乏くじ引いたのよ。おかげで蕾夏ちゃんとはずーっと会えなかったのよね」
 「…うるせー…」
 来年頭に発売する新ソフトの開発の山場が、この9月だった。樋沼には一番簡単な部分を任せたのだが、そこがボロボロときている。瑞樹はそのやり直しを命ぜられ、おかげで土日はほぼ全滅。9月に蕾夏と会えた週末は、翔子の入院騒動に巻き込まれた、あの第1週の週末だけだ。平日に会った日を含めても、会った回数は片手で足りてしまう。
 「でも、今日でフィクス版リリースだから、今週末は確保できたわよ。良かったわね、成田」
 緑茶をすすりながらの佳那子のセリフに、一応手だけ挙げて応えた。
 「瑞樹ー。そろそろ行くぞ」
 パーティションから覗き込んだ久保田が声をかけたので、瑞樹はノロノロと顔を上げた。
 「あら、なんなの?」
 佳那子が物問い顔で訊ねると、久保田はニヤリと笑った。
 「久々に男3人で飲みに行くんだ」
 「…はーん、なるほどね。女の前では話せない愚痴を、思う存分ぶつけ合おうって魂胆な訳」
 「佳那子、私たちも今度飲みに行こ? 藤井さんも誘って女3人で」
 「そうよねぇ。こっちも、女同士でしか話せない話がいーっぱいあるもの」
 「ば、馬鹿、そんなんじゃねーぞ?」
 ―――嘘つけ。男同士でないと話せない話もあるしなぁ、なんて言って俺を誘ったのは、どこのどいつだよ。
 睨む佳那子と奈々美を慌てた表情で宥める久保田を眺めつつ、瑞樹はそう心の中で突っ込みを入れ、大きく伸びをした。

***

 いつもならエレベーターで降りるが、今日は珍しく帰宅ラッシュの時間帯だ。4階でタイムスタンプを押し終えた男3人は、迷わず階段を選んだ。この時間帯のエレベーターはぎゅうぎゅう詰めの筈だ。
 「店、決めてるんですか?」
 階段を下りつつ、和臣が首を回して、背後の久保田に訊ねた。
 「いーや、決めてない。適当に行こう。3人だから、どこでも入れるだろ」
 「オレ、ワインがいいなぁ…。成田は何がいい?」
 「別になんでもいい」
 肩にデイパックを掛け直した瑞樹は、そう答え、1階ロビーに向かった。普段閑散とした状態しかあまり見ないそこも、OLやサラリーマンで溢れていた。
 「だったらワインにしましょうよ、久保田さん」
 「俺は日本酒の気分だけどなぁ…」
 「オレ、日本酒だとすぐ酔っちゃうんですよね…」
 「あー、ったく、合わねーなー。だったら、なんでも選べる居酒屋が無難か」
 背後の2人のそんな遣り取りを聞いていた瑞樹は、ふと違和感を覚え、足を止めた。
 「……?」
 何だろう―――記憶の欠片が、頭の中でふいにチカチカと音をたてるような…そんな、感じ。瑞樹は、邪魔そうに前髪を掻き上げてロビー全体に目を凝らした。
 「瑞樹? どうした?」
 「…いや」
 久保田の問いかけに、気のせいか、と再び歩き出そうとした、その時。

 見つけてしまった。
 その、男を。
 瞬間―――全身が、硬直した。

 「成田? どうしたんだよ?」
 立ち止まったまま動かない瑞樹を不審に思い、和臣も声をかける。が、瑞樹にその声は届いていなかった。自動ドアのすぐ横、自分から約4メートルの距離に立っているその人影を見つめたまま、硬直した体を動かす事ができなかった。
 なんで、わかってしまうのだろう? ―――我ながら、自分の脳の記憶中枢の不可解さに、思わず笑ってしまいたくなる。最後に顔を見たのは14年前だ。人生で3度しか見たことの無い顔を―――しかも、当時よりかなり老けた筈の顔を、はっきり彼と認識してしまうなんて。
 彼は、確かに年を重ねていたが、相変わらず温和そうでインテリ風の顔をしていた。前髪の生え際あたりに白いものが混じっている。そういえば瑞樹は、彼がいくつなのか知らない。眼鏡のせいか、父より年上に見える。その眼鏡の奥の瞳は、瑞樹の姿を見つけ、微かに戸惑いつつも穏やかさを保っていた。

 ―――話しかけるな。
 何も、言うな。お前の声なんて、知りたくもない。

 「―――瑞樹、君」
 初めて聞く声に、瑞樹は背筋が凍るような錯覚を覚えた。苛立ったように眉を顰めると、瑞樹は顔を背けた。
 「…あの、成田? 知り合い?」
 「―――いいんだ。行こう」
 困惑する久保田と和臣にそう告げ、瑞樹は再び歩き出した。が、そんな瑞樹を、彼が素直に見逃す筈もなかった。彼は、慌てたように瑞樹の腕を掴んだ。
 「瑞樹君! 瑞樹君だろう!? 頼む、少しだけ時間をくれないか!」
 彼の前を無視して通り過ぎるつもりだった。しかし、この状況では、完全に無視することは難しい。やむなく瑞樹は再び立ち止まり、彼を真正面から睨んだ。
 彼は、苦悩の表情を浮かべていた。自分の目線より下にある、彼の目―――かつては、はるか上にあった筈なのに。
 「…頼む。30分でいいから、話をさせてくれ」
 そう訴える声は、何度断られても諦めない覚悟をしているように、瑞樹には思えた。

***

 彼は、かれこれ10分、瑞樹の前に座って何も語らない。
 場がもたないので、瑞樹は苛立ちを抑えるようにコーヒーを何度も口に運んだ。当然ブラックだが、それでも刺激が足りない。この場に欲しいのは、むしろ最高に度数の高いアルコールだろう。
 「…なんだか、初めて会った気がしないな」
 ようやく口を開いた彼は、そんな事を口にし、冷めかけたコーヒーを一口飲んだ。
 「大学時代の一樹(いつき)さんにそっくりだからかな…本当に、瓜二つで、驚いた」
 ―――俺の方は、3度、見てるけどな、あんたの顔を。
 言ってやろうかと思ったが、やめた。どうでもいい事だ。
 「考えてみたら、自己紹介したこともなかったね」
 今更、と瑞樹は思ったが、彼の方はけじめをつけないと気が済まないらしい。それまで手にしていたコーヒーカップをソーサーに戻し、瑞樹を見つめた。
 「窪塚、弘道です」
 窪塚はそう名乗り、少し口元を引き締め、軽く頭を下げた。瑞樹の方は名乗らず、一言、こう言った。
 「―――海晴が、お世話になってます」
 瑞樹の最大限の嫌味に他ならない。その嫌味を察したのか、窪塚の顔が僅かに強張った。瑞樹はそんな窪塚を一瞥し、またコーヒーを口に運んだ。
 「…本当は、もっと前に―――倖と一樹さんが別れた時に、君と会うべきだったと思うけど、」
 「思い出話なんかをしに、東京くんだりまで来たんですか」
 窪塚の言葉を遮るように、瑞樹は冷たく言い放った。窪塚が、言葉を飲み込む。
 「過去の話なんて、何も聞きたくありません」
 「…君は僕を、恨んでるんじゃないか?」
 「恨む?」
 「だって、その―――君から、お母さんを奪った形になる訳だし」
 それを聞いて、瑞樹は思わず、くっと笑ってしまった。
 滑稽だ。大笑いしてしまいたい位に。瑞樹は笑いをこらえ、みぞおちの辺りを腕で押さえた。そうしないと、本気で声を上げて笑ってしまいそうだ。
 お母さんを奪った―――このセリフに、どうして笑わずにいられるだろうか? 成田家のどこに“お母さん”なんて生き物がいたというのか。それに、この男は大いなる勘違いをしている。この男があの女を奪ったのではない―――あの女は、追い出されたのだ、あの家から。その事は、あの女ですら理解しているというのに。
 全く―――幸せな奴。目の前の男の無知さ加減に、瑞樹は笑わずにはいられなかった。
 訝しげな顔をする窪塚をよそに、瑞樹は暫くそんな状態だった。やっと笑いが収まったところで、落ち着くために、またコーヒーを飲む。ちょうどおかわりを訊きにウェイトレスが来たので、注いでおいてもらった。
 「―――で? 本題は、何ですか」
 こんな猿芝居にいつまでも付き合う気はない。瑞樹は、窪塚の言葉を促すように、ソファの背もたれに背中を預けた。
 窪塚は、瑞樹のムードに飲まれかけた自分を落ち着かせるように、水を一口含んだ。それから、小さく息をつくと、やっと本題に入った。
 「―――瑞樹君。君に一度、神戸に来て欲しいんだ」
 窪塚の言葉に、瑞樹は眉をひそめた。確か母と海晴は、窪塚の転勤についていく形で福岡の北九州市へ行った筈だ。結婚した海晴から来た手紙の消印も北九州市だった。なのに何故、神戸なのだろう?
 「今、僕は、神戸に住んでいる。会社は、海晴たちに譲ってきた。僕は神戸で、新しく輸入業をやる予定なんだ」
 「…そうですか」
 別に興味はない。会社をつぶすなり増やすなり、好きにすればいい。
 「倖とは、この夏、離婚した」
 さすがに、瑞樹の顔色が変わった。険しい表情で、窪塚の顔を凝視する。窪塚の方は、少し辛そうな表情になっただけで、あまり変化は見られなかった。
 「倖の希望だ。八代姓に戻りたい、誰の妻でもない、一人の女に戻りたい―――それが倖の望みだったので、従った」
 「…なんで、急に…」
 「―――瑞樹君。よく聞いて欲しい」
 窪塚は、一度唾を飲み込むと、努めて冷静な声で、告げた。
 「倖は今、神戸の病院に入院している」
 「……」
 「神経膠芽腫(こうがしゅ)という、悪性脳腫瘍の一種だ。5年以上の生存率は極めて稀だと言われている。…あまり、先は長くない」
 瑞樹は、ただ黙って、辛そうに話す窪塚を凝視し続けた。
 「僕は勿論、九州の病院にそのまま入院させるつもりだったが、倖の望みは違った。僕と離婚し、神戸の病院に入院すると、突然言い出した。…理由は、僕にもわからない。けれど―――それが最期の望みなら、と思い、叶えたんだ」
 「…親父には、話したんですか」
 「ああ、話した。けれど、倖の身の回りの世話は、僕がすることにしている。今更一樹さんに頼むのは筋違いだしね」
 「…なら、それでいいんじゃないんですか」
 あっさりと瑞樹がそう言うと、窪塚は、怪訝そうに眉をひそめた。実の母が死にそうだというのに、瑞樹の反応があまりにも冷静なことを不思議に思っているようだ。が、またすぐに口元を引き締め、話を元に戻した。
 「で―――君には、一度神戸に来て、倖に会って欲しいんだ」
 「会いません」
 即答だ。
 窪塚の目が丸くなる。まさか、理由を言ってまでも「会わない」と言われるとは思わなかったのだろう。
 「…いや…でも、そんな…君の実の母親じゃないか。それに、倖が望んだ事は、離婚と神戸への転院の他、もう一つある―――“瑞樹に会いたい”。僕でも一樹さんでもなく、君に会いたいと彼女は言ってるんだ」
 「…いくら本人の希望でも、無理です。俺は、会いません」
 瑞樹は、(かたく)なだった。窪塚は、混乱したように視線を彷徨わせ、微かに震える手で、コーヒーを口に運んだ。自らを、落ち着かせるように。
 「…君たち親子の間が良好だったとは思わないが…でも、瑞樹君。後悔した時には、手遅れかもしれないよ?」
 窪塚が更に説得しようとすると、瑞樹はふっと笑った。視線を逸らし、瑞樹もコーヒーを口に運ぶ。
 「―――何も、感じないんです」
 「…え?」
 瑞樹は、静かな、けれど暗い目を窪塚に向け、微かな笑みを浮かべた。
 「実の母親が残り僅かな命だと聞かされても、何ひとつ感じない―――俺はそういう人間です。俺とあの人の運命は、もう決まってました。二度と寄り添う事はないし、歩み寄る事もない…そういう運命です」
 「でも、倖の方は、君に歩み寄ろうとしてる」
 「会えばきっと、無理だという事を再認識するだけです」
 「…僕のせいなのか?」
 「あなたは関係ありません」
 窪塚は、理解に苦しんでいるように眉根を寄せ、瑞樹を見つめている。わかる筈がない―――これは、母と瑞樹だけの問題なのだから。
 「―――俺とあの人は、生涯交わることのない平行線でいいんです。…じゃ、失礼します」
 瑞樹は、軽く頭を下げると、くしゃっと伝票を握り締めて立ち上がった。これ以上話す事はない。瑞樹はそのまま、喫茶店を出て行こうとした。慌てた窪塚は、半ば腰を浮かすようにして、なおも食い下がった。
 「み―――瑞樹君! 本当にいいのか!? 倖だって、いつまで君の事を覚えてるかわからないんだぞ!?」
 一瞬、瑞樹の肩が、びくりと反応した。思わず、立ち止まって振り向く。どういう意味だ、という風な表情を浮かべて。
 「…今はまだいいが、もしも腫瘍が前頭葉に転移すれば、痴呆や記憶障害が起こるんだ。君の事も、僕の事も、忘れてしまう可能性があるんだよ。そうなってからでは遅い―――会ってやってくれないか?」
 瑞樹の瞳が、動揺したように揺れた。

 ―――忘れる…? 全部?
 俺の事を、海晴の事を、そして…自分がした事を、全部忘れる…?
 そして一人だけ、解放されるっていうのか? あの女が? 俺がこの先も抱えていくもんから、あいつは死ぬ前に自由になれるっていうのか?

 あの女が、全部、忘れる―――あの呪縛から、自由になる―――…。
 憤りで、知らず、伝票を握り締める拳が震えた。

 「…どう説得されても、俺は、会いません。―――失礼します」
 瑞樹は、ぎゅっと唇を引き結ぶと、窪塚に再度頭を下げ、踵を返した。もう何を言われても、振り返らない決意で。

 行き場の無い憤りが、瑞樹の体の中を渦巻いていた―――正気では、いられないほどに。

***

 エレベーターを降りた蕾夏は、腕時計で時間を確認した。午後8時―――比較的早く帰れた方だろうか。
 ―――この位の時間からなら、瑞樹に会えたかもしれないなぁ…。
 ちょっと、惜しい気がする。今日は瑞樹は、久保田や和臣と飲みに行っている筈だ。ほんと、タイミング悪いよなぁ、と、蕾夏は小さくため息をついた。
 自動ドアを抜けると、思いのほか冷たい風が吹き付けてきた。ミニスカートを穿いてきてしまった事を後悔する。週末には10月―――もう季節は秋だ。衣替えしないと、と思いながら、蕾夏は一歩、踏み出した。
 「……?」
 ふと、人の気配を感じ、蕾夏は暗闇に目を凝らした。
 以前、携帯電話を届けに来た瑞樹がいた、ビルのエントランス脇にある段差のところ―――あの時より辺りが暗いから、よく見えない。けれど、蕾夏には、そこに誰がいるかわかった。
 「瑞樹…?」
 瑞樹は、いつかのように、段差に座りこんでいた。蕾夏に声をかけられ、緩慢な動作で顔を上げる。その様子に、どこかいつもと違うものを蕾夏は感じた。
 瑞樹は、蕾夏の姿を確認すると、立ち上がって僅かに微笑んだ。
 「意外に早く出てきたな」
 「いつから待ってたの? それに今日って…」
 「待ってたのは、15分位。…隼雄とカズは、断った」
 「……」
 ―――直感的に、わかった。
 何か、あった。普通じゃない、何かが。瑞樹を取り巻く空気が、いつもと全然違う。何かが決壊しそうなのを、なんとか持ちこたえている感じ―――いつかの、自分のような状態。自ら経験しているから、それがわかる。
 蕾夏は、思わず身構えながらも1歩進み出、瑞樹の顔を見上げた。
 「―――何があったの?」
 「…なんで?」
 「だって、今の瑞樹、何か言いたそうに見えるもの」
 蕾夏の言葉に、瑞樹は寂しげな苦笑を返した。
 髪を掻き上げ、大きく息をつくと、瑞樹は少しの間、蕾夏の事を見つめた。それから、ゆっくりと蕾夏の頭を抱き寄せ、その体を少し強い力で抱きしめた。
 背中に回った手も、頭を抱き寄せる手も、微かに震えてるような気がする。抱きしめられているのに、蕾夏には何故か、逆に瑞樹に縋りつかれているように感じられた。
 「―――俺、蕾夏しかいらない」
 やっと瑞樹が口にしたのは、そんな言葉だった。
 「それ以外は、どうでもいい。…お前がいれば、あとはいらない」
 「…瑞樹…」
 ―――だったら、何をそんなに、怖がっているの…?
 瑞樹の腕の中で、蕾夏は、瑞樹の言葉に身じろぎしたくなるようなくすぐったさを感じながらも、何故か眉をひそめていた。蕾夏しかいらない―――そう思うなら、今こうして腕の中にいるのだから、何も怖くない筈だ。なのに瑞樹は、震えている。何かを、恐れるように。
 「…何を、切り捨てようとしてるの」
 「……」
 「…もし正解でも、怒らないでね。―――お母さん?」
 瑞樹の腕の力が、少し緩んだ。蕾夏は、瑞樹の胸に手をついて少し間を取ると、瑞樹の顔を見上げた。
 瑞樹は、どう答えていいかわからないような、少し戸惑ったような顔をしていた。肯定とも、否定ともとれない表情―――母、という言葉だけでは表せない、もっと複雑なものなのかもしれない。
 「―――ねぇ、瑞樹。話す気にはなれないの…?」
 瑞樹は、寂しげな笑みを浮かべて、首を横に振った。
 「どうして?」
 「―――とっくの昔に、自分に誓ったから。…これは、俺一人が、あの世まで持っていく、って」
 あの世まで―――…?
 このまま一生、一人で抱えていくの?
 そんなのは、悲しすぎる。痛々しすぎる。蕾夏は、悲しげに眉を寄せた。
 耐えられる筈がない。事実、今の瑞樹は、もう限界ギリギリのところに立っている。抱えてきたものを抱えられなくなりかけている。それでも耐えなきゃいけない理由なんて、本当にあるんだろうか―――?

 ―――ううん、そんなの、やっぱりおかしい。そんなの、寂しすぎる。
 私が、ここに、いるのに。
 瑞樹の抱える痛み、少しでも軽くしたくて、でも方法がわからなくてもどかしい思いしてる私が、ここにいるのに。
 このままじゃ、せつなすぎる。

 「―――じゃあ、私も、あの世まで持っていく」
 まるで、体の中から滑り出たように、その言葉を呟いていた。
 瑞樹の眉が、訝しげにひそめられる。何言ってるんだ、とでもいう風に。意味を測りかねているのかもしれないし、そんなことできる訳ないと思っているのかもしれない。
 蕾夏は、ふっと表情を和らげ、柔らかに微笑んでみせた。まるで瑞樹に、言い聞かせるみたいに。
 「瑞樹が抱えてる物、私も、持つ。瑞樹だけじゃ重たすぎる物も、2人で持てば、少しは楽に持ってけるよ。…だから―――私にも、分けて」
 「……」
 「ね、瑞樹。2人で、あの世まで持っていこう…?」
 「…蕾夏…」
 苦笑とも、微笑ともとれない笑みが、瑞樹の顔に浮かぶ。
 次の瞬間、さっきより強い力で、蕾夏は抱きしめられていた。息ができなくなる位、強い力で。その力に、瑞樹が自分を受け入れてくれた事を、蕾夏は察した。瑞樹は、分けてくれようとしている―――蕾夏に、瑞樹が抱える痛みを。

 どんな話かは、わからない。
 残酷な話かもしれないし、おぞましい話かもしれない。
 けれど―――その過去があったからこそ、今の瑞樹がある。どんな過去であれ、それは、今の瑞樹を形作っている、重要なパーツの1つだ。
 それなら、きっと、大丈夫。
 その過去さえも、きっと、愛する事ができる。

 誰にも話さない。
 私と瑞樹の2人だけで、抱えていく―――命が尽きるまで。

 「お願い、瑞樹―――全部、話して」


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