←BACKStep Beat TOPNEXT→

no092:
肯定の言葉が欲しかっただけ
― Memories / Mizuki Side ―
-odai:98-

 

命尽キルマデ、抱エテユクモノ。

 夢の中で、僕はいつも、広い部屋の隅っこで、膝を抱えて座っている。
 狭い所や部屋の隅は、なんだか落ち着ける。安全で、守られてる気がする。
 膝に額を押し付けて、目を閉じる。僕の腕の中には、いくつもの「秘密」が抱え込まれている。重たくて、捨ててしまいたくなるけど、捨てたらどうなるか怖いので、やっぱり抱え込む。大丈夫、ここにいれば、安全だから。

 ―――増える。
 また、増える。「秘密」が。

 お父さんが、部屋のドアをノックする。トントン、と、決まって2回。
 「瑞樹」
 ―――いないよ。ここには。
 「瑞樹。辛い事あるんだったら、お父さんに言えよ? 一人で抱え込むな」
 ―――ごめん。言えないんだ。

 僕は、お母さんの「共犯者」だ―――2人して、お父さんと海晴を、騙してるんだ。


***


 「瑞樹ぃ、おきろよ」
 呼ばれた瞬間、頬杖をついていた腕が滑ってしまい、瑞樹は机で額を打った。瞬間、目の中で火花が散る。
 「いって!」
 「あははははは、何やってんの」
 友人の笑い声に額をさすりながら首を回すと、既に教室内には瑞樹と友人しかいなかった。
 「あれ…もう、授業終わった?」
 「当たり前じゃん。もうみんな帰っちゃったよ。僕ももう帰るもん」
 「えっ! 今何時!?」
 「えー? 2時半かな」
 瑞樹は慌ててランドセルを掴むと、友人への挨拶もそこそこに教室を飛び出した。

 ―――ちょっといい夢、見てた気がするんだけどな。
 覚めちゃって惜しかったな―――大急ぎで階段を下り、2年生の教室が集中する1階の廊下をひた走りながら、瑞樹はそんなことを思った。
 日頃見る夢は、あまり幸せな夢ではない。部屋の隅にうずくまってる夢とか、道に迷って家に帰れない夢とか。だから、たまにいい夢を見ると、目覚めたくなくなる。

 覚めたくない―――目が覚めるとそこには、日頃見る幸せでない夢とさして変わりない現実が、待っているから。


***

 周囲の大人は、瑞樹を「早熟」だと言う。
 妹の面倒を親以上に見るし、受け答えの口調は大人のそれに近い。でもそれは、今に始まったことではない。瑞樹が4歳の時に母が働き出し、瑞樹と海晴は保育園に預けられたが、他の園児のように親の迎えを待ったことは一度もない。自分で行って帰ってこれるんだから、それでいいじゃないか、そう思っていた。
 年齢不相応な自分。そんな自分に、疑問は感じない。
 ただ、我慢ならないのは、そういう瑞樹を「早熟」と言う大人たちが、その理由を「親の(しつけ)がいいから」なんて言うことだった。きっとあそこの親御さんは教育熱心なのね、小さい頃からよく躾けてらっしゃるのね―――冗談じゃない、と反論したくなるのを、いつも我慢する。
 海晴の面倒を見るようになったのは、海晴がどんなに泣いても、母が海晴をあやしてくれないからだ。聞き分けの良い子になったのは、わがままを言ったり泣いたりすると、叩かれたり怒鳴られたり、母が自分の部屋に閉じこもって夕飯の時間になっても出てこなくなってしまったりするからだ。だから、保育園に入ってからは天国だった。どんな状況でも決まった時間に必ず食事は出てくるし、海晴が泣けば誰かしらが気づいてくれるのだから。
 躾がいいから「早熟」になった訳じゃない。
 自分でなんでもしないと、普通の生活が成り立たないから、必要に迫られて大人になっただけだ。

 瑞樹がそんな風になる位、元々母は、ちょっと変な人だった。何かの病気かもしれない、と、幼い瑞樹は思っていた。
 けれど―――4歳の夏、母に夏祭りの雑踏の中に置き去りにされてからは、ちょっと事情が違う。
 “内緒にしてね”―――あの日、母に言われた言葉。
 あの日を境に、母には一杯「秘密」ができた。それまでは、ただ変なだけで、「秘密」なんて全然なかったのに。
 休みの筈の水曜日、夕飯の時間になっても帰って来なくて仕方なく瑞樹が出来合いのハンバーグで夕飯を作った件も「秘密」。授業参観日、一応母は来たけれど、途中で抜け出してそのまま戻らず、結局仕事のある日と変わらない時間にやっと家に帰ってきた件も「秘密」。煙草を吸う人間など誰もいない家の中に、何故か銀色のライターが転がっているのを瑞樹が見つけてしまった件も「秘密」―――泣きそうな顔で、母はいつも瑞樹に頼む。「お願い、お父さんにだけは、絶対内緒にしてね」。瑞樹はそれを、黙って飲み込む。

 瑞樹は、確かに「早熟」な子供だった。
 だから、最初の「秘密」を飲み込んだ時、それが何を意味するのか、なんとなく察していた。そして小3になった今では、その細かな部分に至るまで、嫌というほど理解している。

 瑞樹は、父が大好きだ。多分、この世の誰よりも。
 母との良い思い出は、皆無である。暴力以外で触れることの皆無だった母に対して、一体どういう感情を抱けばいいのかすら、瑞樹にはわからない。掃除や洗濯をし、父に対して優しく、自分と海晴に対しては無関心で、気が向けばご飯を作ってくれる人―――今では、そういう認識しか持てない。
 けれど、父は違う。父とは、温かい思い出がいくつもある。よく肩車をしてくれたし、一緒に釣りにも行ったし、瑞樹が熱を出した時にはつきっきりで看病してくれた。母は父にしか笑顔を見せないが、父は自分にも海晴にも笑いかけてくれる。そんな父が、大好きだ。
 だからこそ、父を傷つけることだけはしたくない。
 母が瑞樹に押し付けている「秘密」は、間違いなく父を傷つける。傷つけたくない―――母の頼みに応じてしまうのは、そんな気持ちが働いているからだった。

***

 2年4組の教室を覗き込み、海晴の姿を探すと、海晴はいつも通り、たった一人で教室の片隅に座っていた。
 「みはるー」
 瑞樹が声をかけると、ひょこんと顔をあげ、スキップするような足取りで瑞樹のところにとんできた。
 「お兄ちゃん」
 「帰るよ」
 いつもより30分以上遅くなったのに、海晴は気にしていないようだった。大きく頷くと、瑞樹が差し出した手を握って、やっぱりスキップするような足取りで歩き出した。
 上履きを履き替え、再び海晴の手を握りながら、瑞樹は海晴の姿を眺めた。おかしい。どこにいったんだろう。
 「海晴、帽子は?」
 「ランドセルの中〜」
 「…ちゃんと被れって言っただろ? 外、暑いんだから」
 「はーい」
 ランドセルを開けて、丸めて押し込まれていた白い帽子を引っ張り出すと、瑞樹はそれを海晴の頭に被せた。今朝の天気予報では、最高気温が30度を超すと言っていた。何も考えずにひなたばっかり歩く海晴なので、帽子なしで歩かせる訳にはいかない。
 「ねー、お兄ちゃん。今日はお母さん、うちにいるかなぁ?」
 相変わらずスキップをしながら、海晴が瑞樹を見上げた。
 今日は水曜日。母の仕事は休みの筈。が、水曜日に学校から帰っても、そこに母がいることは稀だ。
 「どうかなぁ…。それより海晴、帰ったら酒田さんちのひまわり見に行こうか」
 「わーい、ひまわり〜」
 海晴の興味はもうひまわりに向いている。母の話題じゃなくなって、瑞樹はほっとした。
 7月の太陽が、容赦なく2人にふり注ぐ。アスファルトからの照り返しで、熱気が足元からも上ってくる。この前見たテレビ番組で「熱射病」が話題になっていたのを思い出し、瑞樹は海晴を見下ろした。
 「海晴、喉渇いてない?」
 「ん〜、渇いてる〜」
 「…そういう事は早めに言えって、いつも言ってるだろ? 何が飲みたい?」
 「ハーゲンダッツのクッキー&クリーム!」
 ―――海晴。それは飲み物じゃないよ。
 しまった、と思ったが、海晴の頭は既にアイスクリームで一杯になっている。酒田さんちのひまわりなんて忘却の彼方だ。
 仕方なく瑞樹は、家とは逆方向の商店街に向かうことにした。

***

 「いらっしゃいませぇ」
 自動ドアが開いた瞬間、小さな子供2人という妙な客に、ショーケースの向こうの学生アルバイトが一瞬眉をひそめた。が、鍵っ子も多いこの時代に子供の単独客もいない訳ではないので、慣れた態度で身を乗り出す。
 「ぼうやたち、2人だけ? お金持ってきてる?」
 「クッキー&クリームのシングルカップ1つ」
 メニューも見ず言い放つ瑞樹のきっぱりした口調に、アルバイト店員が固まった。
 「それと、アイスティー1つ。店内で食べます」
 「あ…はい、少々お待ちください」
 店員は、条件反射のようにそう答え、アイスクリームのカップを手に取った。
 今更固まってるとこみると、このアルバイト、新顔だな―――と瑞樹は思った。この店には何度も来ているし、いつだって海晴と2人だけなのだから。
 勘定をするにも商品を受け取るにも瑞樹の背が足りない。結局、先ほどの店員に外に出てきてもらい、お金と引き替えにアイスクリームとアイスティーの乗ったトレイを受け取った。
 「海晴、これ、ちゃんと持って」
 「わーい、クッキー&クリームだ」
 海晴は、渡されたアイスカップを手に、窓際の席にちょこんと座った。瑞樹もその向い側に座り、氷の浮かんだアイスティーを、ストレートのままコクンと一口飲んだ。
 「やっぱりクッキー&クリームが一番おいしいなー」
 「変だよなぁ…グリコでも森永でも、スーパーにいくらでも売ってるのに、アイスは必ずハーゲンダッツだなんて」
 「お兄ちゃんだって、いろんなとこのアイスを食べてみたらわかるもん」
 冗談ではない。学校の給食で出るカップアイスだって、担任の目を盗んで隣の席の奴に押し付けている位なのだ。いくら海晴の頼みでも、アイスの食べ比べだけは勘弁して欲しい。甘さと冷たさで頭がじんじんしてしまう。
 「お兄ちゃんも一口食べる? おいしいよ」
 海晴が、スプーンにすくったアイスを瑞樹に差し出した。瑞樹は、ちょっと嫌そうに眉を顰めたが、結局それを口に含んだ。食べてやるのも海晴のためだと思ったのだ。
 去年の海晴は、瑞樹がいじわるで「お兄ちゃんにも一口食べさせろ」と言ったら、本気で泣いて嫌がったものだ。あの海晴も、人にお裾分けしようという気配りができるようになったという事だろう。大きくなったよなぁ、と、1つ年上の兄とは思えない感慨にふける。
 慣れない冷たくて甘いものを口の中で融かしながら、瑞樹は何気なく窓の外を眺めた。駅から近いし、横浜という場所柄、平日でも人通りが激しい。ガラスの向こう側を流れる人の波を、瑞樹は暫くぼんやりと眺め続けた。

 と、その時。
 「あっ! お母さんだ!」
 突然、海晴がそう叫んだ。
 え? と思う間もなく、海晴は椅子を飛び降りると、店の外へと駆け出した。
 「みっ、海晴!? おい、海晴、待て!」
 瑞樹は慌てて、海晴を追って外に飛び出した。
 ランドセルを背負ったままだった瑞樹とは違い、海晴はランドセルを店の椅子に置いていた。その差で、いつもなら簡単に追いつく筈が、なかなか追いつけない。
 夢中で走っていく海晴は、あろうことか、車がひっきりなしに行き交う車道へと向かっていた。それに気づいて、瑞樹は余計焦った。
 ―――間に合え、間に合え、間に合え―――…!
 全力で海晴を追い、精一杯、腕を伸ばす。
 夢中で海晴の腕を掴んだ時、鋭いクラクションの音と、急ブレーキの音があたりに響いた。

***

 ―――辺りが、静かになった。
 ゆっくりと目を開けると、瑞樹はまだ、海晴の腕を掴んでいた。瑞樹はうつぶせに、海晴は体の右側を下にして倒れている。
 腕が、痛い。海晴の左手首の少し上を掴んでいる右腕が、痛い。なんとか顔を上げ、自由になる左手を地面に突いて体を起こすと、右腕は不自然な角度に曲がっていた。
 折れたかな、と、ぼんやりと思う。が、その先にある光景に、痛みも違和感も一気に吹き飛んでしまった。
 「みはるっ!」
 海晴は、瑞樹の前方に倒れていた。慌てて手を離し、そばに駆け寄る。ぶらんと下がった腕が相当痛い筈なのに、その痛みさえ感じなかった。
 海晴は、何をどうしたのか、頭から血を流していた。()かれた様子はないが、どこか車に接触したのかもしれない。目を閉じたまま、ピクリとも動かない。
 「み、海晴…おい、海晴、しっかりしろ!」
 震える左手で、海晴の手を握り締める。その手が、なんだか酷く冷たいような気がして、瑞樹の頭の中まで冷たく凍りそうになった。動こうとしない、何も喋ろうとしない海晴が怖かった。
 「海晴…た…頼むよ、なんか言ってくれよ」
 海晴の手を握る手に、力をこめる。すると、海晴の瞼が微かに動き、小さな口が僅かに動いた。
 「…おかあさん…」
 「……」
 「…おか…あさ…ん、痛…」
 「―――だ…大丈夫…大丈夫だから」
 海晴に言い聞かせるためか、自分に言い聞かせるためか、瑞樹はうわごとのようにそう呟いた。瑞樹の早熟な脳が、早く状況を把握しろとようやく指示を出す。瑞樹はうろたえた目で、周囲を見渡した。
 事故を起こした乗用車は、10メートルほど瑞樹たちを追い越して、止まっている。運転手が真っ青になって降りてきて、「電話! 電話貸して下さいっ!」と言いながら、近くの店に駆け込んでいた。
 それを目で追っていた瑞樹は、はっとして、息を呑んだ。
 見つけてしまったのだ。
 道路の向こう側―――野次馬の中に、蒼白の顔をして、2人の事故現場を見つめる、一人の女性を。

 ―――お母さん!

 間違いなく、母だった。一番お気に入りの若草色のワンピースを着て、つばの大きな白い帽子を被っている。そしてその右手は―――隣に立つ男性の腕に添えられていた。まるで、恋人同士みたいに。
 母の顔は、真っ青だった。瑞樹が母を見つけたことにも気づいているらしく、大きく見開いた目で、瑞樹を凝視している。いつもより若干赤い色の唇が、遠めにもわかる位、震えていた。
 喉が、カラカラに渇く。体は凍りついたように動かない。瑞樹はただただ、必死の思いで、母の目を見返した。
 ―――お母さん…!
 声が、出ない。瑞樹は心の中でだけ、母を呼んだ。何度も、何度も、何度も。
 信じたかった。母が駆けつけてくれると。目が合ったんだから、せめて何か言ってくれると。だから心の中で叫び続ける。お母さん、と。

―――なのに。
 次の瞬間。
 母は、目を逸らした。

 隣の男に何かを話しかけ、母と男は踵を返し、雑踏の中に消えていった。そう―――まるで、瑞樹や海晴から逃げるかのように。
 「―――…」
 瑞樹の体の中を、何か冷たいものが駆け抜けていった。
 絶望、なんて単語では表しきれない。
 4歳の時に置き去りにされた時感じたものだって、これに比べたらましだった。理由もわからず叩かれた時も、子供部屋に閉じ込められた時も、その時その時「今が一番不幸だ」と思ったけれど、これに比べたら何万倍もましだった。

 母に、見殺しにされた。
 血を流して倒れる海晴を、助けを求める瑞樹を、母は見捨てたのだ―――それが瑞樹と海晴だと、わかっていながら。

 体が、微かに震えてくる。寒い。骨の中まで凍りつきそうだ。真夏のギラギラした太陽にあぶられながら、瑞樹の小さな体は次第にガタガタと大きく震えだした。
 「…お…にいちゃ…」
 海晴が、微かに瑞樹を呼んだ。その声に反応して、瑞樹はぎこちなく首を動かし、海晴を見下ろした。
 相変わらず、蒼白の顔で目を開けようとしない海晴。…そう、今は、海晴を助けなくては。
 海晴を、助け、なくては。

 ―――絶対に泣かない。

 瑞樹はぎゅっと唇を噛み、顔を上げた。事故の当事者が、やっと電話を終わらせたらしく、瑞樹たちの所へと駆け寄ってくるところだった。
 「き、君たち、大丈夫か!?」
 20代前半位の、若い男。人身事故など初めて起こしたのだろう。海晴以上に顔面蒼白で、唇まで紫になっている。
 「う、うわ! 君! 大丈夫かい!?」
 初めて海晴の状態に気づいたらしく、彼は慌てふためいて海晴の方に手を伸ばした。瑞樹は慌てて、それを制した。
 「触らないで! 頭打ってたら、動かしたら危ないって聞いたから」
 瑞樹の言葉に、彼はびっくりしたような顔をして、すぐに手を引っ込めた。その時、すぐ先の交差点を曲がってきた救急車が、事故車のすぐそばに停車した。消防署のすぐ傍だったのだろうか。やたらと早く到着したものだ。
 救急車からは、救急隊員が数名降りてきた。まず海晴の方を確認し、ついで瑞樹のそばにしゃがみこんだ。
 「きみ、大丈夫かい?」
 「―――はい、大丈夫です。運ぶなら、横浜市立病院にして下さい。病気の時は、いつもそこに行ってますから」
 「そ…そうかい。きみ、随分しっかりしてるね」
 救急隊員が目を丸くした。言われ慣れた言葉―――瑞樹は、微かな笑みさえ返してみせた。

 ―――絶対に、泣かない…。

 自分が泣けば、全て終わりだ。その一念で、瑞樹は、普段通りの自分を完璧に演じきった。

***

 海晴は、額を切って出血は多かったものの、命に別状は無かった。が、頭を打っている可能性が高いので、精密検査と経過を見るために数日入院することになった。
 瑞樹の方は、車との接触はなかったが、痛いと感じた腕は、やはり骨折していた。歩いて帰れるので、瑞樹は帰宅を許された。が、海晴に付き添って、暫く病室にとどまった。
 父は、すぐに会社から飛んできた。あいにく、海晴は眠っていたが、その横にパイプ椅子を持ってきて座っている瑞樹を見て、体中の力が抜けてしまったように、床に座り込んでしまった。
 「お父さん、仕事、大丈夫なの?」
 「ばかっ! そんな事言ってる場合か! 全く…会社に電話が入った時は、生きた心地がしなかったぞ。よく会社の電話覚えてたな」
 「メモしたのを、いつも持ち歩いてるんだ」
 当然といった顔で瑞樹がそう言うと、父は暫く呆気にとられた顔をし、やがて大きなため息をついた。
 「…なんだか、お前だけどんどん大人になってくなぁ…明日にでも俺を追い越すんじゃないか」
 そんな訳ないのに。瑞樹は少し笑い、父のためのパイプ椅子を、病室の奥からひきずってきた。片手なのがまだるっこしい。
 「―――家には、連絡してないのか?」
 瑞樹からパイプ椅子を受け取りながら、父がそう訊ねる。一瞬、瑞樹の肩が跳ねた。
 父の声が、いつもと少し違っていたから。
 それは、夢の中の父と、よく似た声―――瑞樹、辛い事があったら言えよ、と瑞樹の心のドアをノックする時の声。
 瑞樹は、父を見上げた。自分と瓜二つな、けれどずっと大人の顔が、自分を見下ろしている。その顔は、さっきまでの父の表情とは違い、真剣で、少し眉をひそめたような表情だった。
 ―――お父さんは、気づいてるんだ。
 沢山の「秘密」を抱えてきたけれど、なんとなくそんな予感はあった。父は、母の「秘密」に気づいている。まだ確証は持ってないのかもしれないけれど、このままじゃまずいと思い始めている。
 いっそ、全てぶちまけてしまおうか? …一瞬、そんな考えが頭をよぎったが。
 「…連絡したけど、買い物に出てるみたいで、留守だったんだ」
 そう、嘘をついた。本当は、電話などしていない。母が家に居ない事がわかっていたから。
 ―――言えない。
 父には、言えない。母が、事故に遭って助けを求めている自分たちよりも、あの男の人を選んだなんて。あの男の人と一緒にいたいがために、自分たちを見殺しにしたなんて。
 瑞樹は唇を噛むと、全てをその小さな体の内側に閉じ込めた。

***

 家に帰りつくと、やはり母は留守だった。
 全身がだるかった。父が熱を測ってみたところ、かなりの高熱が出ていた。瑞樹は、母の帰宅を待たず自室に運ばれ、簡単なおかゆと解熱剤を与えられ、ベッドに寝かされた。
 解熱剤のせいか、眠りはすぐに訪れた。けれど、得体の知れない熱は、ずっと体の中を暴れていた。
 浅い眠りが訪れては、燃えるような熱でうねる頭を持て余し、揺り戻される。何度も、何度も。
 断続的に続く夢は、悪夢としか言いようがない。倒れている海晴の姿と、瑞樹を凍りついたような表情で凝視する母、そして、目を逸らして去っていく母―――その映像の繰り返し。瑞樹は何度も寝返りをうち、目が覚めるたびに震えた。

 そんなことを、どれだけ繰り返しただろう。
 瑞樹は、ふと人の気配に気づいて目を覚ました。
 「瑞樹―――…」
 母の声だった。
 瑞樹は、熱っぽい頭をなんとか動かし、母の顔を見返した。
 母の顔は、やっぱり蒼白だった。酷く怯えた顔をして、瑞樹を見下ろしていた。
 他人が見たらきっと思うだろう―――自責の念に駆られている顔だ、と。でも、瑞樹は知っている。母が怯えてる顔をしている時は、父に自分の失態をバラされやしないかとビクついている時なのだ。
 ただ、それが父に知れて、父に愛想を尽かされるのを、恐れているだけ。
 …後悔している訳じゃ、ない。
 「…瑞樹」
 母がもう一度、名を呼ぶ。
 ―――どんな返事を期待して、名前を呼ぶのだろう?
 自分が見殺しにした子供に、何を望んでいるのだろう? …罵られたいのか、大丈夫だよと言って欲しいのか、それすらわからない。
 「―――お父さんには…言ってない」
 瑞樹がそう言うと、母の肩が、びくん、と揺れた。
 どんな風に、思っているのだろう。熱で焼け爛れた頭では、母の表情を正しく読み取ることができない。熱っぽい息をつき、瑞樹は身を捩って仰向けになった。すぐ横に立つ母の顔が、視界の片隅になんとか確認できた。
 「…お母さん」
 「―――なぁに」
 「…あの人、夏祭りの時の人だね…」
 母の目が、大きく見開かれた。開きかけの唇がわななき、色をなくした。
 まさか、思わなかったのだろう―――自分が押し付けてきた「秘密」を、瑞樹が全部、覚えているとは。どうせ子供だから、意味なんてわかっていない。まだ幼いからすぐ忘れる―――そう思ったからこそ、平然と押し付けてきたのだろうから。
 ―――意味を理解していたからこそ「秘密」を守ってきた。そんなこと、理解できる筈がない。…この人には。
 虚しくなった。
 どうしようもなく、虚しくなった。その虚しさをぶつけるように、瑞樹は母の顔を、一切目を逸らさずに見つめ続けた。
 この時、瑞樹はどんな目で母を見ていたのだろう? 瑞樹にわかる筈もない。
 ただ、母は、その瑞樹の目を見て、明らかに怯えていた。
 肩が震えだす。唇がわななく―――徐々に恐怖に支配されていく母を、瑞樹は黙って見上げていた。

 母の白い手が、ゆっくりと瑞樹の方へと伸びる。その手は、やっぱり震えている。
 そして、細い10本の指が、瑞樹の首へとかけられた。
 「―――…」
 ……ああ、そうか。
 永遠に「秘密」を守るために―――そういう道を選ぶのか。
 瑞樹は、口元に微かに笑みを浮かべた。

 不思議なほど、気持ちが穏やかだった。
 不安も恐怖もない。何故かそれが、一番正しい結末のように思えた。ただ、一刻も早く、なるべく穏やかに最期が来て欲しい、とそれだけを考えていた。
 瑞樹は静かに母を見つめたまま、自分の喉元にかけられた指に少しずつ力が込められていくのを感じていた。非力な彼女のどこにそんな力があったのだろう、と思えるほどに、その指先の力は強かった。8歳の子供を絞め殺す位、彼女でもたやすい事なのかもしれない。
 ―――これで、自由になれる。
 気道が塞がれ、体中を行き場を失ったものが駆け巡る。それがピークに達した瞬間、頭に浮かんだ言葉はそんな安堵の言葉だった。

 だが、瑞樹の体は、瑞樹の心を裏切った。
 「―――っ…!」
 自由になる瑞樹の左手が、苦しさのあまり、自分の首にかかった母の手を弱々しく制した。
 びくん、と母の手の力が一瞬だけ強くなる。そして、我に返ったのだろう、母は飛びのくようにして瑞樹の喉元から手を離した。
 それまで押さえ込んでいたものが、突然解放されて体の奥からせり上がってくる。瑞樹は、思わずむせた。
 苦しい。昔、肺炎を起こした時よりも酷い。ゲホゲホと何度もむせる瑞樹の目から涙が流れ落ちた。苦しさで涙が出てくる。泣くつもりなどないのに、止められなかった。
 「ご…っ…ごめん…瑞樹」
 上ずった声で、母がそう呟いた。
 左手を口元に置いて何度も何度もむせながら、瑞樹は母の方を見た。涙でぼやけた視界に、ぼんやりと母の顔が見えた。
 母は、激しく震えていた。後悔しきったような、ショックを受けたような顔で、自らの腕を抱くようにして瑞樹を見下ろしていた。
 滑稽だ―――何故か、そう感じた。
 「そ…んな目で…見ないで…瑞樹」
 「……」
 「そんな目で見ないで―――…!」
 ―――今更。
 顔を覆って泣き出す母に、そんな言葉しか思い浮かばない。瑞樹は、まだむせながらも、8歳とは思えないほど皮肉っぽい笑いを口元に浮かべ、視線を逸らした。


 …そう、今更だ。
 僕はあの時、もう殺されている―――事故現場で見捨てられた、あの時に。今更、謝ってなんか欲しくない。
 むしろ、本当に殺してくれた方が楽だった。この痛みを抱えて生きていくには、まだ僕は子供すぎる。

 別に、愛されたいなんて思ってなかった。
 抱きしめてもらいたくもない。優しい言葉も欲しくない。あの男の人と何してようと、そんなの僕には関係ないし、責める気もない。僕や海晴を無視しても、そんなの、構わなかった。

 僕が欲しかったのは、ただ一言の言葉―――この家に居ていい、と。この世に生きていていい、という、ただそれだけの言葉。
 肯定して欲しかった。誰でもない、僕をこの世に送り出した人から。
 だから、庇い続けてた―――そう、僕は、庇ってたんだ。結局は。
 この人に、自分の存在を肯定して欲しい…ただ、それだけのために。

 でも―――もう、いらない。


 「―――二度と、僕に、触るな」
 瑞樹は、低くそう呟くと、母に背を向けて体を丸めた。まるで母を、全身で拒絶するように。
 「…もう、あんたは、いらない」


 この日、瑞樹の小さな体の中で、何かが確実に、死に絶えた。


←BACKStep Beat TOPNEXT→


  Page Top
Copyright (C) 2003-2012 Psychedelic Note All rights reserved. since 2003.12.22