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no093:
優しい体温
-odai:62-

 

誰ヨリモ、近イ存在ヘ。

―99.09―

 店内を流れる音楽が変わったことで、閉店時間が近づいたことがわかった。
 夢から覚めたみたいに、蕾夏はハッと目を上げた。壁にかかっている時計は、午後11時少し前を指している。
 会社のエントランスに、突然瑞樹が現れてから、まだ3時間あまり。けれど、蕾夏には、それが何年も前の事のように思えた。
 「―――なんだかんだで、移動しそびれたな」
 向かいの席に座る瑞樹が、少し笑ってそう言い、冷たくなったコーヒーを飲み干した。蕾夏の手の中にあるカフェオレも、すっかり冷たくなっていた。
 「ここって、終電何時まである?」
 「ええと、0時台前半だったと思う。…帰る? それとも、今からでも来る?」
 「勿論、行く。そのために来たんだから」
 瑞樹の言葉を受けて、蕾夏も残りのカフェオレを飲み干した。
 「けど、瑞樹―――なんで今まで来ようと思わなかったの?」
 ふと不思議に思ってそう訊ねると、瑞樹は少し考え、
 「―――なんか、行っちゃいけないような気がしてたのかもな」
 そう答えた。

***

 今から3時間前。
 「お前が嫌じゃなかったら、お前んとこ行ってみたい。…駄目かな」
 どこか落ち着いて話せる場所に行こう、という話になった時、何故か瑞樹はそう言った。
 言われてみれば、蕾夏は相当な回数瑞樹の部屋に行っているが、瑞樹は一度も蕾夏の部屋に来た事がない。断る理由もなく、蕾夏はOKし、2人はすぐに新宿を離れた。ただ、時間が時間だし、とりあえず夕食をとってから家に行こう、という事になり、2人は蕾夏の住む街の駅前で一番落ち着けそうな店に入った。
 で、結局―――蕾夏の部屋に移動するまでもなく、そこで、全部聞いてしまったのだ。瑞樹が抱えてきたもの、全てを。
 壮絶な話だった。
 瑞樹が辛うじて覚えている3歳あたりから始まって、両親が離婚した13歳の冬まで―――約10年の、記憶。聞いてる間、何度も吐き気がした。頭がガンガン痛んだ。聞き終わった今も、それを引きずっている位に。
 蕾夏は、話を聞きながら、それを自分と両親に置き換えて考えてみた。…到底、理解不能だ。特に、瑞樹の母の心理状態がさっぱり理解できない。
 自分が生んだ子は可愛い―――蕾夏は別に子供好きというほどではないが、極当たり前の常識として、親とはそういうものだと思っていた。事実、蕾夏は両親にとても愛されていたし、一番身近にいる家族である辻家だって、両親は2人の子供をとても愛していた。
 けれど、瑞樹の母は、子供を愛してなかったように思える。時には、憎んでさえいたように思える。どんな事情があったら、そんな風になれるのだろう? …それは多分、彼女に訊かないとわからない事だろう。ただ、どんな事情があったにせよ、それは瑞樹の責任ではない。瑞樹は、親の暴力の被害者だ。


 「…やっぱり、会う気にはなれない?」
 店を出て、自宅へと歩き出してすぐ、蕾夏は瑞樹に訊ねてみた。予想はしていたが、瑞樹は首を縦に振った。
 「許せないから?」
 「―――昔はそうだったけど…最近は、ちょっと違うな」
 瑞樹は、髪を掻き上げ、少し視線を落とした。
 「あの女は今、40代後半だ。最後に会った時は30代半ばだったから、多分、見た目も相当変わってると思う。大病を患って、余計変わってるだろう―――きっと、花が枯れてく時みたいに、しおれて、小さくなってると思う」
 「…うん」
 「そういうあの女を見たら、俺…同情するかもしれない。完全には無理でも、ほんの少しだけ歩み寄ってしまうかもしれない。…それが、嫌なんだ」
 蕾夏は、不思議そうに目を丸くした。
 「許してしまうかもしれないのが、嫌なの?」
 「嫌だ。許したくない」
 「どうして?」
 「―――許しちまったら、可哀想だろ。あの時殺された、8歳の俺が」
 「……」
 「許したくない―――でないと、その後の俺の人生、一体なんだったのかわからなくなる」
 ―――そういうものなのかも、しれない。
 瑞樹の横顔を見上げながら、蕾夏はそう思った。
 許しあって、心が通じ合う事が救いになるとは限らない。もっと早い時期なら―――例えば、まだ瑞樹が子供と呼べる年齢の時なら、それも良かったかもしれない。けれど、瑞樹には、「あの日」から積み重ねてきた18年の歳月がある。蕾夏自身に、「あの日」から積み重ねた12年の歳月があったように。
 蕾夏も、今更佐野に会って、謝罪の言葉など聞きたくはない。でなければ、あの時、誰にも打ち明けずに「いつも通りの藤井蕾夏」を演じ続けた自分は何だったのか、わからなくなる。いまだに時折、あの時の恐怖を夢に見て飛び起きる自分は何なのか、わからなくなる。
 幸せな記憶の上にだけアイデンティティが形成される訳じゃない―――忘れたいほど悲惨な記憶の上にだって、アイデンティティは形成される。それを蕾夏は、身を持って理解していた。
 「軽蔑するか? こういう考え方」
 苦笑を浮かべて、瑞樹が蕾夏を見下ろした。
 確かに、世間一般からすれば、実の母が脳腫瘍でいつ死ぬかわからない状況になっていれば、多少のわだかまりがあっても死ぬ前に一目会っておけ、というのが普通の意見だろう。実の母が死ぬというのに、悲しいとも何とも感じない―――瑞樹を冷たい人間だと言うかもしれない。
 けれど―――…。
 「…ううん。軽蔑なんてしない―――そう考えるだけの土台が、瑞樹にはあるから。当たり前だって思える」
 微かに笑って蕾夏がそう言うと、瑞樹は、少し意外な顔をした後、安心したように柔らかに微笑んだ。

 そう。瑞樹には、そう考えるだけの土台がある。
 人は誰しも、それぞれの土台を持っている―――瑞樹も、蕾夏も…そして、瑞樹の母も。
 ―――瑞樹のお母さんは、何故、子供を愛せなかったんだろう…?
 蕾夏には、どうしてもそれが気になった。
 瑞樹が8歳の時、瑞樹の母は20代後半―――今の瑞樹や蕾夏と、同じ年代だ。彼女は、どんな20数年の土台を築いてきたのだろう…?
 それを知ったところでどうなるのか、蕾夏にもわからない。
 ただ―――蕾夏の脳裏には、佐野のあの時の顔がチラついていた。俺を見ろよ、と言いながら蕾夏を平手打ちしていた佐野の、酷く傷ついたような顔が。佐野は、蕾夏の体を痛めつけながら、傷ついた顔をしていた。まるで、自分が痛めつけられているみたいに。
 瑞樹の母も、瑞樹の首に手をかけながら、あんな辛そうな顔をしていたのではないだろうか―――何故か蕾夏には、そう思えた。

***

 玄関の鍵を鍵穴に差し込みつつ、蕾夏は複雑そうな表情で瑞樹を振り返った。
 「言っとくけど、全然飾ってないし綺麗じゃないからね。瑞樹の部屋といい勝負だから、見て“女らしくねー部屋”とか言わないでよ」
 「女らしい部屋なんて期待してないって。だって、お前の部屋だろ?」
 「…なんか、それもムカつくなぁ…」
 唇を尖らせながらも、いつもの調子の戻ってきた瑞樹に、内心ほっとする。辛い話をさせてしまったのではないか、と少し不安だったが、話したことで、少しは気分が楽になったのかもしれない。
 それにしても―――もっとインテリアに凝るとかしとけばよかった、と後悔する。実際、親が2、3回来たのを除けば、一人暮らしをはじめて以来、女の子ですら一人も呼んだことがない部屋なのだ。第三者の目で自分の部屋を評価したことなんて一度もない。果たして人を招いて大丈夫な部屋なんだろうか? ―――蕾夏は、少し緊張していた。

 一方の瑞樹も、少々緊張していた。
 蕾夏の部屋は、蕾夏だけのテリトリーだ。親とも、辻とも、瑞樹とも隔絶された、蕾夏だけの空間―――誰にも見せない本音が、そこに眠ってる気がする。
 興味はある。が、足を踏み入れるのが、少し怖いと思っていた場所―――それが、蕾夏の部屋だった。だから今まで、来ようと思わなかった。
 では何故、今日に限って、行きたいなどと口走ってしまったのだろう? その理由は、瑞樹にもわからない。
 覗いてみたい。けれど、覗くのが怖い。玄関のドアを目の前にしても、やっぱり瑞樹のその気持ちは、全く変わっていなかった。

 「じゃ…とりあえず、あがって」
 玄関のドアを開け、蕾夏がそう促した。
 「お邪魔します…」
 パチン、と部屋の電気をつけると、そこは確かに、女性の一人暮らしのわりにはあっさりしすぎな部屋だった。
 瑞樹の部屋より若干広い位の、ワンルーム。瑞樹と同じで床に座る生活が好きなのか、低いガラステーブルが中央に置いてあった。置き鏡もノートパソコンもそこに置いてあるところを見ると、このテーブルの上が生活の大半を担っているらしい。瑞樹もローテーブルが生活の中心なので、そうなってしまう気持ちはよくわかる。
 「なるほど。お前らしい部屋だ」
 「…それは褒め言葉と取っていいの?」
 「…微妙だな」
 「―――可もなく不可もなく、って受け取っとく。…あ、適当に座っといて。コーヒーと紅茶、どっちがいい?」
 「コーヒー」
 蕾夏は頷くと、コーヒーメーカーをセットし始めた。その背中を見送った瑞樹は、立ったまま、また部屋の中を見回した。
 ガラステーブルの位置もそうだが、ベッドやテレビの配置も、なんだか瑞樹の部屋と似ている。基本的に生活スタイルが似ているのかもしれない。ただ違うのは、部屋の色。モノトーンな瑞樹の部屋とは違い、蕾夏の部屋は優しい色をしている。淡いグリーンのカーテンとベージュのセンターラグの配色は、いかにも蕾夏の好みそうな色だ。
 口元をほころばせた瑞樹だったが、ふとあるものに気づき、眉をひそめた。

 「あらら、豆が微妙な量だなぁ…。瑞樹、アメリカン気味でもいい?」
 コーヒーの準備をしていた蕾夏は、残り僅かになったコーヒー豆の缶を傾けながら、そう声をかけた。しかし、瑞樹から返事はなかった。
 訝しげに顔を上げた蕾夏は、瑞樹がじっと見てるものに気づき、大慌てで手にしている物全てをシンクに投げ出した。
 「そそそそそれっ、駄目! 見ちゃ駄目っ!」
 ベッドに膝をついた状態でそれを見ていた瑞樹は、そこから目を離せなかった。
 ベッドの枕元の壁に下げられた、コルクボード。そこにピンで幾重にも貼られていたのは―――瑞樹もよく知る写真たちだった。
 満開の桜に覆われた青い空、蕾夏の手の中でキラキラ光ってるこんぺい糖のガラス瓶、クリスマス・イブの寒そうな夜景、新宿で見つけた夕日の欠片―――蕾夏が「気に入った」と言って焼き増ししていった写真が、まるで思い出を散りばめるみたいに飾られていた。
 蕾夏はベッドに飛び乗ると、コルクボードを素早く壁から外し、しっかりと胸に抱え込んだ。絶対、瑞樹に見えないように。その必死さに、瑞樹は呆気にとられた。
 「…なんで?」
 「だ、だって、恥ずかしいじゃないっ。毎晩これ眺めながら眠ってるなんて」
 「いや、嬉しいけど」
 「私は恥ずかしいのっ!」
 ベッドの上にペタンと座り込んだ状態の蕾夏は、何がそんなに恥ずかしいのか、と思うほど、顔が真っ赤になっていた。どうもこの顔にはつられてしまう。瑞樹までが、知らず顔が熱くなってくる。
 少々うろたえて視線を逸らすと、本棚の上に無造作に積まれた本に目が止まった。いかにも最近まで読んでました、という置き方のそれらのタイトルを見て、瑞樹の表情が変わった。
 「…お前、こんな本、いつの間に読んでたの?」
 「え? あ、うわっ! 駄目! それも見ちゃ駄目っ!」
 「もう遅いって」
 コルクボードを放り出した蕾夏を、手首を掴むだけのアクションで制し、瑞樹は腕を伸ばしてその1冊を手に取った。
 それは、ライカの歴史について解説した本。付箋のついた所を開くと、瑞樹が憧れていた、オリーブカラーの軍用のライカM3の記事だった。
 他にもレンジファインダーと一眼レフそれぞれの魅力について書かれた本、学生向けと思われる写真技法についての本、時田郁夫の写真集やエッセイ集―――全ての本が、瑞樹と写真に繋がっている。

 『だって、時田郁夫って、趣味でレンジファインダー愛用してるんでしょ? スナップ撮りが好きってことだろうから、瑞樹と基本的に写真スタイルが似てるんだろうって思ったの』

 ―――こういう事だったのか。
 どうりで教えた記憶のない話を知ってる筈だ。『生命』が時田賞をとった時の蕾夏の言葉を思い出し、瑞樹は深く納得した。
 「…あー…もう、恥ずかしい」
 涙目になって頬を押さえてる蕾夏は、それでも最後の意地とばかりに、瑞樹が手にしていたライカの本をひったくり、ベッド下の床に放り出した。その様子に、思わず笑ってしまった。

 ―――俺って、やっぱり、ガキだ。
 蕾夏のテリトリーの中が、自分に関わるもので埋められていた―――その事実に、泣きたくなるほどの安らぎを感じてる。今、一生で一番、心が穏やかかもしれない…そう思う位に。
 気づいてしまった。なんで今まで、蕾夏の部屋に来るのがためらわれたのか。
 そこに、自分の痕跡など欠片もない可能性が、怖かったのだ。
 どこかで思っていた。自分はただ、蕾夏に自分の気持ちを押し付けているだけなのではないか、と。だから、怖かった。蕾夏の本音だけがあるこの部屋が。
 年齢不相応に“大人”な子供だった筈の自分が、大人になった今、こと蕾夏に関しては、まるっきりガキだ―――蕾夏の意地になったような顔を見て笑いながら、瑞樹は、そんなガキな自分が可笑しくて笑ってもいた。

***

 笑っている瑞樹を、蕾夏は真っ赤な顔で睨んでいた。
 誰にも見せることのない部屋だから、と油断していたことを、再度後悔する。よりによって自分が、可愛らしい女子高生かなにかみたいな真似をしてるなんて、瑞樹には知られたくなかった。以前「私はそういうの、絶対やらない」と豪語していただけに。
 「…そんな風に笑うことないじゃん…」
 耐え切れず蕾夏がそう言うと、肩を震わせて笑っていた瑞樹は、別に馬鹿にしてる訳じゃない、とでも言うように軽く首を横に振り、顔を上げた。
 その目を見て、蕾夏の心臓がドクン、と音をたてた。
 見覚えのある目だった。
 屋久島で、あの『生命』の写真を撮った後に見せた、静かで、穏やかで、優しくて…まるで恋人や家族を慈しむみたいな笑顔。あの時の瑞樹が、ちょうどこんな目をしていた。
 ―――ま…まずい…この目に私、弱いんだもの。
 頭が、クラクラする―――…。
 まるで酔ってしまったようにその目から目を離せずにいたら、瑞樹に肩を引き寄せられ、あっという間に唇を奪われていた。

 「―――…っ」
 頭の中が、真っ白になる。
 何の反応も返せないまま、貪られると言った方がいいような激しいキスに翻弄される。必死に瑞樹にしがみついたが、それでも姿勢を保てなくて、押し倒されるみたいに後ろに倒れてしまった。
 一旦離れた瑞樹の唇が、喉元やうなじを慈しむみたいに滑っていく。耳元に噛み付くみたいにされて、驚いて思わず体が跳ねる。一瞬、それを押しとどめようと、蕾夏は手を動かしかけ―――やめた。

 恐怖心が、全く無くなった訳ではない。実際、今だって体の中が微かに震えている。
 けれど―――止めようとは、思わない。

 ―――もっと、瑞樹の近くに行きたい。
 もっともっと、近くに行きたい。これ以上近い存在になれない位、近くに行きたい。
 佳那子さんは言ってた。愛する人が相手なら、きっとそう思えるって。……そう、思える。瑞樹になら。
 だって、心はもう、叫びだしそうな位、それを求めてる。
 もっと―――もっと、そばに行かせて、と。

 「―――止めてくれないと、俺、多分、止まらない」
 首筋を唇で辿りながら、瑞樹がそう呟く。―――やっぱり、瑞樹は優しい。最後まで、蕾夏の事を気遣ってくれる。
 「…うん…でも、止めない」
 その言葉に、瑞樹が顔を上げた。
 本心を探るみたいに見つめてくる瞳を、蕾夏は不思議なほど静かに見つめ返すことができた。自分の中の何が、いつ、変わったのだろう―――わからないけれど、何故か無性に、その事が嬉しかった。
 嬉しくて、涙が溢れてきた。
 「瑞樹―――…」
 言葉と一緒に、涙が一筋、流れ落ちる。想いがこぼれ落ちたみたいに。
 「―――好き…」
 瑞樹の瞳が、一瞬、うろたえたように揺れた。
 瑞樹は暫く、驚いたような顔で蕾夏を見下ろしていたが、やがて、なんとも形容しがたい笑顔を見せた。
 「…俺も、蕾夏が好きだ」

 簡単な言葉。けれど、2人にとっては、一番難しかった言葉。
 縋るように瑞樹の背中に腕を回す蕾夏を、瑞樹は力いっぱい、抱きしめた。

***

 想いを言葉にするのなんて、大した意味はないと、瑞樹はずっと思っていた。
 お互いにわかっていれば、それでいい。そう思っていた。大切な事を知るのに、2人の間には、あまり言葉はいらなかったから。
 けれど―――違うのかもしれない。
 “好き”。たった2文字の言葉。その言葉に、こんなにも救われるなんて。
 愛されたいと思う人に、その想いを返してもらう。それを、この何の変哲もない2文字の言葉で口にしてもらう。…その事が、これほどの安らぎをくれるなんて。

 「…なんで、そんなに泣くの」
 「―――わ…かんない。なんか、止まらない…」
 「悲しいとか、辛いとか…?」
 「…そんなんじゃ、ない。―――想いって、言葉にすると、増えるのかもしれない。口にすると増えて増えて…体の中で行き場が無くなった想いが、涙になるのかもしれない。…そんな、感じ」
 「…やっぱりお前、コピーライターの素質あるかもな」
 「そうかな―――…。瑞樹の手、あったかい」
 「うん―――お前も、あったかい。…なんか、安心する」

 安心する―――…。

 手のひらを重ねてキスを交わすだけで、失ってた何かが、心の中に再生されていく気がする。重なる体温の心地よさにも、それは増えていく。
 蕾夏に酷い事をしているんじゃないか、と思う瞬間も何度かある。けれど、そういう時蕾夏は、苦しそうな表情を浮かべながらも必ず、大丈夫、とでもいう風に瑞樹の髪を撫でる。…その瞬間にも、また、増える。
 こんな、簡単な事なのに。
 少し前までは、ただの欲望で、そこに愛なんて欠片もないと思い込んでいた事なのに。
 不思議なくらいに増えていく、はるか昔に失ってしまった、何か。ただ蕾夏と一緒にいるだけでも増えていたけれど、加速度的に増えていく―――バラバラになっていたものが、再生されて、以前より(かさ)を増していく。

 ―――そうか。
 失ってたのは、“愛”そのものなのかもしれない。

 「―――やっぱり俺、蕾夏がいれば、あとは何もいらない…」

***

 穏やかな眠りを妨害するように、携帯電話の着信音が響いた。
 目を覚まし、薄暗闇の中、周囲を見渡す。馴染みのない部屋―――そうか、蕾夏の部屋だった、と思い出したところで、携帯電話は切れた。
 ベッドサイドのライトをつけて、目を凝らす。携帯電話は、床に落ちていた。取り上げて液晶ディスプレイを確認したら、父の名前がそこに表示されていた。ついでに時計も確認すると、既に1時を回っていた。
 ―――こんな時間に?
 少し迷った末、電話をかけてみた。
 数度、呼び出し音が鳴った後、父に電話が繋がった。
 『…はい』
 「親父?」
 『ああ、瑞樹か。…悪かったな。家にかけても、留守番電話になってたんで、つい。残業か』
 「あー…、まあ、そんなもん」
 さすがにちょっと、本当の事は言えない。適当に言葉を誤魔化しておく。
 「で、何? こんな時間に」
 『いや。俺もついさっき帰ってきたんだけど―――留守番電話に窪塚さんからメッセージが入ってたんだ。今日、お前に会ったって。倖と会うように説得したけど、OKしてもらえなかった、俺からも説得して欲しいって』
 ―――親父に余計な心配さすなよ、全く。
 思わず眉を顰める。その存在自体、気に食う筈もない相手ではあったが、父に電話した事で余計にムカつく相手になってしまった。
 「で? 説得するつもりで電話かけたの」
 『まさか。お前と何年の付き合いだと思ってるんだ』
 「…だよな」
 笑いを含んだ父の声に、瑞樹も肩を竦める。瑞樹の性格やバックボーンを最も知っているのは、間違いなく父だろう―――いや、今では、蕾夏の方が知っているかもしれないが。
 『別に会えなんて言わないし、会うなとも言わない。ただ、病院の名前だけは知らせておこうと思って』
 「…別に、聞いてもしょうがないし」
 『俺の気持ちの問題だよ。…瑞樹に全部の選択肢を与えておかないと、俺の気分が落ち着かないんだよ』
 「……」
 『教えなかったから来なかった、とか、そういう風に思いたくないから。…わかるか?』
 「…ああ、わかる」
 確かにそうだ。瑞樹は、父の言葉を噛み砕くように数度頷いた。
 「いいよ。聞くよ、入院先。メモするからちょっと待って」
 と、そこで、ここが自分の部屋じゃないことを思い出し、瑞樹は慌てて辺りを見回した。デイパックはどこに置いたんだっけ、と。
 ふと見ると、さっき写真集やカメラの本が置いてあった横に、メモ帳とボールペンがセットにして置いてあった。手を伸ばせば届くところだったので、とりあえずそれを借りることにした。
 「―――お待たせ。―――うん…うん、脳神経外科だよな? …うん、わかった」
 父が言う病院名と電話番号をメモする。更に二言三言、言葉を交わしてから、瑞樹は電話を切った。
 大きく息を吐き出し、手にしていた物を全部、ガラステーブルの上に乗せた。あのメモを見て、心がざわつくような日が、果たして自分にも来るのだろうか? ―――やっぱり、一生来ない気がする。
 …でも、それで、いい。
 瑞樹は、くしゃっと髪を掻き混ぜると、隣に眠っている蕾夏を見下ろした。
 蕾夏は、こちらを向いて横向きに眠っている。電話で起こしてしまったのではないかと思ったが、熟睡しているのか、ぴくりとも動かない。瑞樹は、微かに笑みを浮かべると、剥き出しになっている白い肩に、一度だけ唇を落とした。

 暫く、蕾夏の髪を指に絡めながらその寝顔を見下ろしていた瑞樹は、ふと父の事を思い出し、表情を曇らせた。
 思い出す、父と交わした会話。あれは、離婚が決まって間もなく、一緒に行った釣りの時だった。

 『いや―――多分、別に歩む筈の人生なんて、本当は無かったんだろうな。運命のベクトルは、最初から倖に向いていた…出会いも、別れも、元からある運命だ。そういう相手なんだと思う』

 父は、足音を聞いた、と言っていた。別々の道を歩いていた筈の2人の足音が、ピタリと重なるのを。その相手が、母だったと。
 あの頃は、そんな奇跡みたいな話あるか、と懐疑的だった瑞樹だが、蕾夏を知ってからは、その考え方が変わった。
 あるのかもしれない、と。
 事実、あの、ディスプレイの文字として出会った瞬間から、瑞樹のベクトルは蕾夏の方だけを向いていた。出会いも、別れも、それが運命だったと、蕾夏に対してなら思える気がする。―――父も、母に対して、今瑞樹が蕾夏に抱いているような想いを抱いていたのかもしれない。…いや、今も、抱いているのかもしれない。
 ―――父は今、どんな心境なんだろう?
 自分を父に、蕾夏を母の状況に置き換えて想像すると、自分なら、到底正気ではいられないと思う。想像だけでも、体中が総毛立つほどだ。
 では、父は―――…?

 「…大丈夫かな、親父…」
 思わず、呟く。
 ―――神戸に、行ってみようか。
 母に会う気はないが、父の様子は心配だ。神戸に、行ってみた方がいいかもしれない。

 そう思った時、蕾夏が、小さなくしゃみをした。
 瑞樹は少し笑うと、ライトを消して、また蕾夏を抱きしめるようにして横になった。
 触れ合った所から体温が伝わってきて、ゆっくりゆっくり、眠りに引きずり込まれてゆく。その夜は、まるで幸せな夢でも見ているような気分で、深く眠ることができた。


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