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no094:

-odai:13-

 

傷ツイタ自分ヲ映スモノ。

―99.10―

 自動ドアの前で、蕾夏は今日何度目かの自問を繰り返した。
 ―――本当に、これでいい? 後悔しない?
 この先に待っているものに対峙することの意味は、まだわからない。でも、必要な事だ―――そんな気がして仕方ない。
 大きく髪を掻き上げ、一度、息をつく。
 …よし。覚悟、決めた。
 蕾夏は顔を上げ、一歩踏み出した。

***

 メモ帳に書かれた病院の名前をじっと見ていたら、それが突然、視界から消えた。
 「…あーあ。―――覚えちゃったよな」
 メモ帳を取り上げた瑞樹が、しまったな、という顔をして、メモ書きした1枚を破り取った。それを、シャツの胸ポケットに突っ込む。
 蕾夏は、その一連の行動を、やっと眠気が覚めたばかりの目で眺めていた。額にかかった髪をはらって、留めかけてたシャツのボタンを最後まで留めると、蕾夏はまたそのままゴロンと寝転がった。
 ―――なんか、正月とクリスマスと結婚式とお葬式がいっぺんに来たような気分…。
 そういう、とんでもない1日…いや、半日、だった。…半日もない。今、午前5時半―――瑞樹が会社に来てから9時間半しか経ってないのだから。
 「…昔さぁ…“ナイン・ハーフ”って映画、あったよね」
 帰り支度を済ませて、眠気覚ましに床にあぐらをかいてウーロン茶を飲んでいる瑞樹に、そう呟く。何を急に、とでも言いたげに、瑞樹は片眉を上げた。
 「お前が大々々嫌いなミッキー・ロークが主演の映画だろ。観たのか?」
 「観た。あれってさ、9週間半の話なんだよね」
 「? そうだけど」
 「…9時間半でも、十分1本の映画になるなぁ…」
 「―――お前、ほんと、大丈夫か?」
 熱でもあると思ったのか、瑞樹は手を伸ばしてきて、ベッドの上に転がっている蕾夏の額に手のひらをあてた。途端、蕾夏の顔が一気に真っ赤になる。
 「…だから。その顔、やめろって。つられるから」
 実際、つられたらしく、瑞樹の顔も僅かに赤くなる。やめろと言われても、わざとじゃないので無理だ。第一、普段ならこの程度で赤くなったりしない。
 気まずくなり、なんとなく互いに視線を逸らす。早く頭をいつもの状態に戻さなくてはいけない。今日はまだ水曜日―――この後、いつも通り会社に行かなくてはいけないのだ。2人とも。
 「―――ごめん。覚えちゃった」
 視線を逸らしたまま、蕾夏がポツリと言った。瑞樹は、何の話かすぐ察したらしく、視線を無意識に胸ポケットに向けた。
 「…まあ…記憶消す訳にもいかねーし」
 さりげなくそう言い、それ以上は何も言わなかった。
 瑞樹には、わかっている筈だ。そのメモを見た蕾夏が、何を思ったか。けれど、あえて何も言わなかった―――それが、彼の返事なのだろう。そうでなければ、絶対に言う筈だ。「行くな」と。

 信じている、と。
 蕾夏が誰と会って何を知ったとしても、瑞樹の気持ちを最優先してくれることはわかっている、と。
 無言の中にも、そう言われたと、蕾夏は思った。信頼してくれたからこそ、何も言わなかったのだと。
 信じてくれた―――その事が、無性に嬉しかった。

***

 受付で言われたとおりに3階に上がり、廊下を進む。
 廊下の一番突き当たり、個室のドアの前で、蕾夏は足を止めた。
 “八代(やつしろ) (さち)”――― 一瞬、違和感を感じた。そして、改めて気づく。そう…八代。成田でも、窪塚でもなく。今、この向こうにいる人は、誰の妻でもなく、ただの一人の女性だ。
 一度、唾を飲み込むと、蕾夏はドアをノックした。
 「―――はい」
 か細い声が、ドアの向こうから聞こえてくる。蕾夏は、思い切ってドアを開けた。
 病室は、倖一人だった。ちょうど、誰も来ていない時間帯だったのだろう。第三者がいると厄介だ。とりあえず、ほっとする。
 初めて見る倖は、以前、瑞樹の部屋で見た、妹の海晴の結婚式の写真と、やはり似ていた。少し眠たげに見える位の二重瞼。薄い眉。小ぶりな唇。そういうパーツは、そっくりだ。ただ―――瑞樹が想像していたとおり、全体の面立ちは、かなり変わってしまっている。海晴の写真はかなり丸顔だったが、倖は頬がそげて少し鋭角な輪郭になっている。年齢の分だけ小さな皺が出来、目も若干落ち窪んでいる。
 髪は耳下で切りそろえられているが、どうやらウィッグのようだ。脳腫瘍ということは、手術をしたにせよ放射線治療をしているにせよ、髪は失われてしまったのだろう。艶やかなウィッグと、誰が訪れている訳でもないのにちゃんと施されている口紅に、倖という女性の性格を見た気がした。
 「…はじめまして」
 蕾夏は、得意のよそ行きの笑顔を自然に作り、軽く頭を下げた。当然ながら、倖は、訝しげな顔をした。
 「…どなた?」
 「藤井蕾夏と言います。成田瑞樹さんの―――親友、です」
 一瞬、どう言おうか躊躇したが、“親友”と言っておいた。嘘ではないし、“恋人”と言うと先入観を持たれそうで嫌だから。
 「瑞樹の…」
 「はい。瑞樹さんからお話伺って、一度お会いしたいと思ったんです。お加減、大丈夫でしたか?」
 「ええ―――今日は随分。…あの…」
 倖は、少しうろたえた顔で、着ていたネグリジェの襟元などを整えた。
 「瑞樹の…母、です。わざわざお越しいただいて…」
 母、という言葉にためらいを見せながら、倖は僅かに笑みを見せ、小さく頭を下げた。蕾夏も再度、会釈する。一応、招き入れられたものと解釈して、後ろ手にドアを閉めた。
 「あの…フリージア、お嫌いじゃないですか?」
 蕾夏が、手にした黄色のフリージアを掲げてみせると、倖は表情を明るくした。
 「ええ。ありがとう。大好きなの、フリージアは」
 その表情と口調は、自分より20以上も年上の女性とは思えなかった。少女のような―――というより、どこかに幼児性が残ったままのような印象を受ける。蕾夏は、病室中を軽く見渡し、入り口すぐ横に手を洗うための洗面台を見つけて、持参した花瓶にフリージアを活け始めた。

 ―――特別、非常識な人という訳でもなさそうだよなぁ…。
 フリージアのラッピングを解きながら、蕾夏は内心、首を捻っていた。
 瑞樹の話を聞いた時から、蕾夏はどうしても理解できなかった。この、倖という女性を。どういうバックボーンがあったら、あんな不可解な母親になるのか。瑞樹は何故、あんな暴力に晒されたのか…全く、理解できない。
 それを知ったところで、瑞樹が救われる訳でも何でもないが、理由もなく暴力に遭った、という説明では、あまりにも8歳の瑞樹が可哀想に思える。“何故”―――それが、知りたい。
 だから、ここまで来た。会えば、何か見えるかも、と。

 第一印象は、「普通の女性」。
 まだ、倖の抱える闇は、見えてこなかった。

***

 倖の分もお茶を淹れ、蕾夏はベッドサイドの椅子に腰を下ろした。
 勢いだけでここまで来た訳ではないが、いざ対峙すると、何をどう話せばいいか迷う。暫くの間、沈黙が流れた。
 「―――瑞樹さんは、多分、来ないと思います」
 結局、それを伝える事から始めた。
 湯飲みを両手で包んでいた倖は、一瞬、ピクリと肩を揺らし、蕾夏の方を見た。
 探るような、目。蕾夏は、その目を、できるだけ穏やかに見つめ返して、続けた。
 「私も、その方がいいと思いました。…大変な病気を患ってらっしゃるのはわかってたのに―――すみません」
 「…いいえ」
 倖は、どこか寂しそうな、けれどさほどショックを受けていない顔で、僅かに微笑んだ。
 「来てくれるとは、最初から期待してません。―――あの、藤井さん」
 「はい」
 「瑞樹の事、詳しくご存知なんですか?」
 問われている意味を察して、蕾夏は一瞬、躊躇した。が、小細工など得意ではない。ありのままをぶつけることにした。
 「―――瑞樹さんには、私も、人には話せない話を聞いてもらいました。…瑞樹さんからも、大体のお話は伺っています」
 「…私のことも?」
 倖の目が、更に探るような色合いを濃くする。“私のこと”、とは、ただの倖の存在について、ではないだろう。倖が知りたいのは―――倖が瑞樹に行った数々の暴力について、蕾夏が知っているかどうか、だ。
 「…ええ、おおよその事は」
 「……」
 「だから、お会いしてみたいと思ったんです」
 「―――…そう」
 蕾夏の言葉を聞いて、倖は大きく息をついた。
 湯飲みを包む手が、微かに震えている。やはり、動揺させてしまったのだろうか。相手が重病人だけに、焦りを感じる。
 「あ、あの…すみません。別に、お母…倖、さんを、責めるために来た訳じゃないんです」
 お母さん、と言いかけて、やめた。今は、瑞樹の母ではなく、八代 倖という女性と話しているのだ―――あらゆる肩書きを取り払った、ただの一人の女性と。
 「ただ…知りたかったんです。理由を」
 「理由…?」
 「理由、というか―――倖さんが抱えている物が、何なのかを」
 倖は、目線を上げ、蕾夏の顔を見つめた。
 怯えている顔ではない。動揺して、体調が悪くなったのではないかと心配したが、そうでもないらしい。少し蒼褪めたその顔は、あまり表情がなかった。どこか虚ろで、不安定だった。
 やはり、いくら事情を知っていても、第三者に話すのは無理だろうか―――そう思いかけた時、倖の唇が、微かに動いた。

 「―――…ことは…?」
 「え?」
 よく聞こえない。蕾夏は少し間合いを縮め、訊き返した。
 「…藤井さんは、誰かを、殺したいと思ったことは、ありますか…?」
 「―――…」
 蕾夏は、目を見開き、目の前にいる小柄な女性の虚ろな顔を凝視した。
 急激に、喉が、渇く。けれど、優雅に湯飲みに手を伸ばすような気分にはなれなかった。
 「―――多分…本気で思ったことは、ないと思います」
 蕾夏は、なんとかそう、答えた。すると倖は、ふっと笑いを浮かべ、サイドボードに飾られたフリージアに目を移した。瑞樹との共通項の少ない顔立ちだが、そんな間合いの取り方は、どことなく瑞樹と似ているように思える。
 「藤井さん。私は、子供の頃は、ずっと思ってたんですよ。殺してやりたい、って」
 虚ろな微笑みが、フリージアを見つめる倖の口元に浮かぶ。蕾夏は思わず、唾を飲み込んだ。
 「…誰を、ですか?」
 「―――両親を」
 倖の目が、蕾夏の目を捉えた。
 「お酒に酔って私を気を失うまで折檻(せっかん)する父と、それを見て見ないふりする母を―――ずっと、殺してやりたいって思ってたんです。幸い、中2の時両親が離婚して父とは離れたし、間もなく母も他界しました。でも…今も、許せません」
 「…そ…」
 上手く、声が、出ない。
 「そう…ですか…」
 なんとかそう相槌を打ち、蕾夏はやっと、湯飲みに手を伸ばした。幸い、手が震えるようなことはなかったが、適度な濃さの煎茶が、ほとんど無味無臭に感じられる。
 ―――虐待の連鎖、っていうやつなんだろうか…。
 以前、翔子に借りた本のことを思い出す。
 アメリカのカウンセラーが書いた本で、そこには、虐待を行う母親は、自らも幼児期に虐待を受けているケースが大変多いと書かれていた。その時は読み流していたが、今、それがまざまざと思い出された。

 「一樹や窪塚に愛されるまで、愛なんて全然知らなかった…自分になんて1銭の価値もないって、そう思ってた。だから、初めて与えられた愛情が嬉しくて嬉しくて―――その愛情を失うのが、死ぬより怖かったんです。選べなかったのも、選ぶ事で一方の愛情を失うのが怖かったからかもしれない。…あの2人を失うのが、何よりも怖かったんです」
 「…子供を失うことよりも、ですか」
 思わず、そう口にしてしまった。責めるような口調だけはすまい、と決めて来たが、やはり言わずにはいられなかった。
 が、倖は、案外落ち着いた様子で答えた。
 「ええ。瑞樹と海晴を失うよりも」
 「……」
 「…酷い話でしょう? けれど…駄目なんです。私、子供の愛し方が、わからないんです」
 倖は、手にした湯飲みをサイドボードに置くと、再びフリージアに目を向けた。
 「愛されなかった子供って、愛し方を学ばずに大人になるのかしら―――それでも瑞樹がお腹にいた頃は、瑞樹を愛しいと思ってたんです。自分が親に愛されなかった分も愛してあげよう、そう思ってた筈なのに―――生まれてきて、いざ育て始めたら、子供をどうやって愛せばいいかわからなかった。泣き(わめ)くしぐずるし、自分の思い通りになってくれない赤ん坊に、苛立ってばかりで―――。…気づくと、叩いたり、聞こえないふりをしたり。愛しいなんて、思えなかった―――血の繋がりに愛しさを覚えられない人間なんです、私」
 蕾夏は、唇を噛み、俯いた。
 心が、痛い―――なんだか、もう一人の瑞樹が、目の前にいる気がする。確かにここにいるのも、不条理な暴力の犠牲者だ。
 「―――藤井さん」
 倖が、視線を蕾夏に移し、その目を見据えた。もう、虚ろな表情ではない。真剣に―――思いの丈をぶつけようとしている表情。蕾夏の肩に、つい力が入る。
 「事故の時、倒れてる海晴と、縋るような目をした瑞樹を見た時…頭の中が真っ白になった後、私が何考えたと思います?」
 わかる筈もない。蕾夏は無言で、首を振った。
 「瑞樹が私を呼んで、窪塚に瑞樹と海晴の存在が知れたらどうしよう―――そう、思ったんです」
 蕾夏の眉が、訝しげにひそめられる。
 「子供がいることが知れるのが怖かったんじゃない、子供を愛せない自分が、育児放棄のようなことをしてきた自分が知れるのが怖かったんです。もし知れれば、きっと窪塚は愛想を尽かしてしまう、窪塚を失ってしまう、って。…あの子たちは大丈夫、瑞樹はしっかりしているし、救急車だって呼びに行ってるんだから、大丈夫。―――そう、自分に言い聞かせたんです」
 「……」
 「事故の現場を離れてからは、今度は、このことが一樹に知れたらどうしよう、って不安になって。一樹は、私が子育てできない事で、いろいろ悩んだり協力してくれたりしたんです。でも、こんな事が知れれば、いくら一樹でも許してくれる筈がない―――瑞樹だって、今度は黙っていてはくれないだろう。どうしよう、どうすれば瑞樹は黙っていてくれるだろう? …そればかり思ってたんです」
 ―――ひ…どい…。
 どうしてその時、瑞樹にかつての自分を重ねてくれなかったのだろう? ―――膝の上で握った拳を、思わずぎゅっときつく結ぶ。体が震えてきそうだった。
 「…許せないでしょう」
 蕾夏は答えなかった。ただじっと、自分の膝の上の拳を見つめていた。自分は「許す」「許さない」と言う立場にはない―――そんな事を言えるのは、瑞樹と海晴だけだ。
 「私も、許せない。なんて馬鹿なんだろう、なんて酷い親なんだろう―――冷静になった時、そう思って、死にたくなるんです、いつも」
 チラリと目を上げて見た倖の顔は、自嘲気味に歪んでいた。
 ―――この人は、子供を愛せない以上に、自分を愛せない人だ。…蕾夏は、ぼんやりとそう思った。

 「―――事故の後、瑞樹の部屋に行った時…」
 蕾夏の肩が、びくん、と揺れた。
 顔を上げ、倖を見つめる。倖は、もう蕾夏の方は見ていなかった。何もない中空を見ていた。
 「私を見る瑞樹の目を見て、私、愕然としたんです」
 「目……?」
 「瑞樹の目は、子供の頃の私そっくりだったんです。父に暴力を受け、誰にも助けてもらえなかった、あの頃の―――まるで、鏡でも見てるみたいに。怖かった…自分が両親に向けた憎悪、あれと同じものを、今瑞樹から向けられているのか、そう思うと、逃げ出したいほど怖かった―――私は瑞樹の中に、子供の自分を映して見てたんです」
 「……」
 「――― 一緒に、死のう。そう思いました」
 その言葉に、蕾夏の目が、大きく見開かれた。あらぬ方向を見つめ続ける倖の横顔を、凝視する。
 「このままじゃ、“私”が増える―――自分と同じ道を歩ませるのは可哀想だ、だから…瑞樹を殺して、私も死のう。そう、思いました」
 「…さ…ち、さん…」
 「―――あの瞬間だけは私、瑞樹を心から愛していたかもしれません…」
 倖の、少し落ち窪んだ目から、涙がこぼれ落ちた。


 倖が落ち着くまで、暫くかかった。蕾夏が差し出したハンカチで涙を押さえた倖は、やがて平静に戻り、微かな笑みを浮かべてハンカチを蕾夏に返した。
 「…ごめんなさいね、ハンカチまで借りて」
 「いえ…大丈夫ですか? お体に障ったんじゃ」
 一瞬、憤りで忘れそうになったが、いくら今日は体調がいいと言っても、倖は重病人なのだ。不安になって訊ねたが、倖は大丈夫だというように、笑顔を見せた。
 こうしていると、倖も本当に普通の女性だ―――改めて倖を眺めて、蕾夏は不思議な気分になった。
 でも、人の心の闇なんて、見た目でわかる訳がない。蕾夏だって瑞樹だって、心の中に消せない闇を持っている。
 違う―――その深さの違いはあっても、誰だって持ってるんだ。それぞれの闇を。辻も、翔子もそうだった。奈々美も、その姉の沙弥香もそう―――穏やかに見える佳那子たちだって、それぞれに何かしらを抱えてる。
 抱えているのが「普通」。…ただ、それがあまりに大きすぎると、生きていき難くなるだけで。
 「…倖さんは、この話がしたくて、瑞樹に会いたいって思ったんですか?」
 蕾夏が訊ねると、すっかり冷たくなったお茶を飲んでいた倖は、苦笑をもらして首を振った。
 「会いたい、と言って、それを拒否されるのを望んでたのかもしれない」
 「……?」
 「あの子は、私を許さない。私も、あの冷徹な目で私を見る瑞樹を、やっぱり愛することはできない。…それを、あの子から拒否されることで、確認したかったのかもしれません。…これでいい、って思える。強がりじゃなく、本当にそう思えるんです」
 「…そうですか…」
 蕾夏は、微かに口元に笑みを浮かべた。
 ―――ああ、やっぱりこの人と瑞樹は、親子だ。
 和解する事で、自分の選択してきた道を否定したくない、そういうタイプなんだ。
 「ただ…瑞樹に、もし気が向いたら、これだけ伝えてもらえますか…?」
 少し疲れたのか、力ない微笑み方で、倖がそう言った。
 「あなたが、羨ましいって」
 「…え?」
 「同じものを抱えていながら、私は最後まで愛を学べなかった―――でも、あなたには藤井さんみたいな人がいる。羨ましい…私も、そうなりたかった、って」
 蕾夏の瞳が、動揺に揺れた。なんだか―――やっぱり、そんな風に言われると、落ち着かない気分だ。
 一生、気が向くことはないかもしれない―――そう思いながらも、蕾夏は曖昧に笑顔を作り「わかりました」と言っておいた。

***

 病室のドアを閉めた途端、全身の力が抜けた。
 思わず、廊下にあるベンチに腰を下ろし、大きく息を吐き出す。1時間かそこらの時間が、永遠と思える位に長く感じられた。

 ―――見えた気がする。
 ファインダーの向こうのお母さんの目に、瑞樹が何を見たのか。
 お母さんは瑞樹に、自分の幼い頃の姿を見ていた。瑞樹はお母さんにとって、一番見たくない自分を映す鏡だったんだ。
 鏡を見て、そこに写った自分に怯え、憤り、嫌悪している目―――それが、その時瑞樹が見た、お母さんの目だったのかもしれない。

 切ない。瑞樹の気持ちを思うと、切なかった。
 早く、瑞樹に会いたい…早く会って、手を握ってあげたい。東京に帰ったら、真っ先に瑞樹に電話しよう―――蕾夏はそう、思った。

 時計を見ると、もう夕方といえる時間帯だった。
 そろそろ薄暗くなってくる。蕾夏はバッグを肩に掛け、立ち上がった。
 髪を掻き上げて顔を上げる。ふと見ると、なんだか見覚えのある人物が、こちらに向かって歩いてくるところだった。
 「……」
 ―――瑞樹…?
 違う。瑞樹ではない。もっと年齢が上だ。ただ、顔が、驚くほどに瑞樹に似ている。
 40代半ば位だろうか? すっきりしたブレザータイプのジャケットにGパンを穿いている。なかなかおしゃれだが、カジュアルな瑞樹の服装とは似ても似つかない。
 蕾夏は、少し目を丸くして、その人物を見つめた。相手も、倖の病室のすぐそばに立つ蕾夏に目を止め、少し驚いたような顔をした。
 ―――瑞樹のお父さんの…一樹さんだ。
 確信を持った蕾夏は、柔らかな笑顔を見せ、ぺこりと頭を下げた。つられたように、彼も頭を下げる。
 一瞬、何か挨拶をしようかと思ったが―――やめた。そのまま歩き出した蕾夏だったが、
 「―――あの、君!」
 数歩行ったところで、背後から一樹に呼び止められた。
 振り返ると、一樹は、なんだか全てを察したような顔で立っていた。キョトンとした顔で蕾夏が見ていると、一樹は瑞樹そっくりにクスリと笑った。
 「―――神戸港」
 「え?」
 「瑞樹が、来てるよ。君に会ったら、そう伝えるように言われた」
 「え!?」
 ―――瑞樹が!? 来てるの!?
 今日神戸に来ることは、瑞樹には伝えていない。というより、「今度の土曜日は休日出勤になった」と瑞樹が言ったから、あえて今日を選んだのだ。なのに―――瑞樹が、神戸に来ている?
 ――― 一体、何しに!? 第一今日、仕事は!? ていうか、なんでお父さんが私の事知ってるの!? まさか写真見せたとか…あ、“フォト・ファインダー”に載った写真で知ってるとか? あんな中途半端な顔の写真でわかるもんかな。いや、でも―――…。
 頭の中がパニックになる。あたふたとした表情の蕾夏を見て、一樹は余計可笑しそうな笑顔になった。
 「…わかるなぁ…あいつの気持ち」
 「は…はい…あの―――え?」
 「―――いや、なんでもない。早く行った方がいいよ、神戸港。暗くなったら見つけ難いから」
 「あ…そ、そうですね。…失礼します」
 あまりに瑞樹に似ているせいか、どうも調子が狂う。蕾夏は、混乱した頭のまま、とにかく一樹に深々と頭を下げて、早足で歩き出した。

 ―――瑞樹が、神戸に、来ている。
 理由なんて、どうでも良かった。
 早く、会いたい―――その思いだけで、蕾夏は自動ドアを抜けると同時に、駆け出していた。


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