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no095:
お帰りなさい
-odai:99-

 

コノ命ノ価値ヲ知ル時。

―99.10―

 マンションの玄関前に座り込んで憮然としている瑞樹を見て、父は目を丸くした。
 「なんだ、もう来たのか」
 「…もう来たのかじゃねーよ。出る時電話しただろ。何留守にしてんだよ」
 「いや、お前来るなら昼飯の材料買っとこうと思って」
 父の手には、近所のスーパーの袋が提げられている。
 「食いに行けばいいじゃん…」
 「久しぶりに瑞樹がひっくり返すお好み焼きが食いたい」
 ニッ、と笑う父に、ひっくり返すだけなら誰でも同じだろ、と内心突っ込みを入れつつ、瑞樹は勢いをつけて立ち上がった。
 ―――心配して損した。俺より元気な位じゃねーか。
 半分ムカつきつつ、半分ほっとした。

***

 瑞樹の予感が正しければ、蕾夏は今日、母のもとを訪ねている筈である。
 メモ帳を見れば、蕾夏が母に会いに行きたがること位、瑞樹は百も承知だった。けれど、瑞樹はあえて「行くな」と釘を刺さなかった。
 母と何を話そうとも、蕾夏は間違いなく、瑞樹の気持ちを尊重してくれる。母に肩入れして、瑞樹に「会うべきだ」なんて説得は絶対にしない。瑞樹にはそう、信じる事ができた。
 蕾夏もあえて、「会いに行っていい?」と確認しなかった。瑞樹が蕾夏を信用していることを、ちゃんとわかってくれているのだ。
 木曜日の夜の電話で、蕾夏が今週末の予定を訊いてきた時、ピンときた。
 試しに休日出勤になったと言ってみたところ、あまりがっかりした様子も見せなかった。土曜日に行くつもりなんだな―――そう察した。勿論、休日出勤の話は嘘だ。
 元々、父の様子が心配だった瑞樹は、自分も土曜日に神戸に行くことにした。ただし、蕾夏には言わずに。
 もしタイミングが合えば、向こうで蕾夏と会うこともできるかもしれない。休日出勤している筈の瑞樹が神戸に現れたら、蕾夏は相当驚くだろう―――久々に確保できた土曜休みを潰してしまうのは残念だったが、そういうおまけ付なら悪くないよな、と瑞樹は思った。


 「なんだか、憑き物が落ちたような顔してるな」
 ホットプレートの上のお好み焼きをひっくり返していた瑞樹は、父の言葉に怪訝そうな顔をした。
 「別に憑依されてた記憶はないけど」
 「でも、そんな顔してたぞ。正月は」
 「―――あー…、あん時は、確かに…一種の憑依状態だったかもな」
 思い出して、さすがに苦笑する。年末年始に帰省した時は、蕾夏と辻の間に何かあったらしいと、蕾夏との電話で察してしまい、帰省している間、終始心ここにあらずだった。はるか昔のような気がするが、実際にはまだ9ヶ月しか経っていない。
 「親父は、いつ見てもあんまり変化ないよな」
 「そうか?」
 「今回ばかりは、もっとギリギリの状態になってるかと思って心配したのに、全然普段と変わらないし」
 瑞樹がそう言うと、缶ビールのプルトップをあけていた父が、その手を止めて顔を上げた。
 父の視線を感じ、瑞樹も目を上げる。父は、ちょっと驚いたような顔をして、瑞樹の顔を凝視していた。
 「なに?」
 「―――…いや」
 どこか釈然としない表情のまま、父は瑞樹にも缶ビールを渡した。そんな父の態度に、瑞樹の方も釈然としない表情になる。
 そっくりな顔の親子が、どちらも釈然としない顔で、食卓を囲んでいる図―――はたから見たら相当変なんだろうな、と思いながら、瑞樹は席について缶ビールをあけた。
 お好み焼きが出来上がり、かなり遅めの昼食となった。
 「…けど、親父、ほんとに大丈夫か?」
 やはり、それが気になる。お好み焼きを頬張りつつ、瑞樹がそう訊ねると、父はチラリと目を上げ、何故か少し心配そうな顔をした。
 「何かあったのか? 瑞樹らしくないな」
 「なんで」
 「俺が倖を忘れないのを、一番苦々しく思ってたのは、お前だろ? “運命の女”なんてあり得ないって、あれほど言ってた癖に―――急に信じる気になったのか?」
 そう言われて、さっきの父の釈然としない表情の理由がわかった。確かに、以前の瑞樹ならこんな時「あんな女、生きようが死のうが、もう親父には関係ねーじゃん」と忌々しげに言っただろう。
 親父が驚くのも、無理ないか―――思わず瑞樹は、苦笑いを浮かべた。
 「そりゃ、今でも、親父の趣味は理解できねー、って思うぜ? あんなうざったくてバカな女をなんで選ぶんだ、親父趣味悪すぎ、って思う。そこは変わらない」
 「…お前なぁ…」
 「けど―――運命を感じる出会いは、信じられるようになった。親父がどんな思いを抱いてたか、今は理解できる」
 瑞樹の、確信を持ったような口調に気づいたのか、父がぱっ、と表情を変えた。手にしていた缶ビールを置き、少し身を乗り出すようにした。
 「もしかして瑞樹、今、惚れた女がいるのか?」
 「…まあ、そんなとこ」
 こういう話は苦手だ。特に親が相手だと。少しうろたえた目でそう答える瑞樹に、父は更なる追い討ちをかけた。
 「そうか―――いや、ちょっと、感無量だな。ついに瑞樹も“初恋”か…」
 「は……」
 ―――初恋、って…。
 でも、確かに、間違いではない。初めて好きになった相手が蕾夏なのだから。
 「…親父、頼む。その単語、使わないでくれ」
 「え?」
 「なんか、自分が、とんでもない人間に思えてくる…」
 今の時代、26で初恋って段階で相当変わってるとは思うが、初恋を経験する前にやたら女性経験があるなんて、もっとおかしい。初恋、なんて、いかにも初々しい単語を使われると、蕾夏と出会う前の人生を消しゴムで綺麗に消し去りたくなる。勿論、消える訳ないのだが。
 「なら、初めての恋人、でもなんでもいいけど―――なるほど、瑞樹はその彼女に、運命を感じてる訳だ」
 父は、どこか楽しげな、でも穏やかな笑顔を浮かべ、椅子に深くもたれて、再び缶ビールを手にした。
 「結婚したいとか、そういう事か?」
 試すように訊く父に、瑞樹は、それは嫌味か、とでも言うように片眉を上げた。
 「そういう単純なもんじゃない、って言ったのは親父だろ。…昔、親父が言った通りだよ。運命のベクトルは最初からあいつに向いてた―――そう感じたんだ」
 「そうか。…なら、本物かもしれないな」
 微笑む父に、瑞樹も微かに笑い返す。が、すぐにその笑いを消し、僅かに俯いた。
 「…だから…もし、今の親父とあの女の状況に、俺とあいつが陥ったら、って考えたんだよ」
 「……」
 「たとえあいつが俺の傍から離れていった後だったとしても―――あいつが死ぬかもしれない、って言われたら、俺、多分気が狂う。絶対耐えられない」
 「だから、倖の死期が迫ってると知った俺がどうなるか、心配になったんだな、瑞樹は」
 クスリと笑った父は、ビールを口に運び、小さくため息をついた。
 「そりゃ、悲しいけどな。でも…俺と瑞樹の違いは、多分“年齢”と“距離”だな」
 「年齢?」
 「俺の大学の同期は、ここ5年でもう3人病死してる。糖尿病で食事制限してる同僚もいる。朝までピンピンしてた奴が、くも膜下出血で突然死んだりする年代なんだ。それに比べたら、倖は前もって覚悟できる分、まだ気分的にマシだ。まだ若いお前より、俺にとっての方が死は身近なんだよ」
 「…結構、重い言葉だな」
 「歳食えば、それが自然なんだよ。それに―――すぐそばに彼女がいるお前と違って、俺と倖は離れてるからな。死によって引き離される、って感覚はない。だから、お前が心配するような事にはならないよ」
 「―――なるほどね」
 言われてみると、納得だ。
 そう考えると、近年母と寄り添っていた窪塚の方が、むしろショックは大きいだろう。しかも、死を目前にして離婚や神戸への転院を求められるとは、二重三重のショックの筈だ。
 いつだったか、子供の頃、偶然聞いた両親の口論―――窪塚も父も選べない、と母は言っていた。瑞樹を身籠ったことで父と結婚し、表面上は父を選んだ形となった母だったが、心は選んでなかったのだろう。窪塚が帰国した途端、父も窪塚も手放せないという泥沼状態に陥った。離婚を決めたのだって父だ。母は、望んではいなかっただろう。
 再婚し、九州にいる間、母の心は、ちゃんと窪塚を選んでいただろうか? …いや。選んでいたのなら、窪塚の妻として九州で死ぬ、という、当たり前の選択をした筈だ。
 母は離婚し、ただの「八代 倖」になって、神戸に来た。
 父を選んだ、という事なのだろうか? それとも、窪塚も父も両方引きつけたまま死にたい、という傲慢な考えの結果だろうか? ―――瑞樹にも、その真相はわからない。案外、母自身ですら、何故自分がそんな選択をしたのか、わかっていないのかもしれない。

 暫く無言で、それぞれのお好み焼きを口に運んでいたが、ふいに瑞樹が口を開いた。
 「…なあ、親父」
 「ん?」
 「なんで、あいつを―――おふくろを、選んだんだ?」
 「ハハ…、趣味が悪い、か?」
 さっきの瑞樹の言葉を借りて、父は苦笑混じりにそう言って笑った。
 「俺から言わせりゃ、親父も窪塚も、最悪の趣味だよ」
 「まぁ、そうだよなぁ…。お前、いい思い出全然ないもんな、倖については…」
 瑞樹は、曖昧な笑みを見せた。いい思い出どころか、悪い思い出しかない―――父にも話していない、最悪の思い出しか。
 父は、苦笑を浮かべたまま、ビールを一口飲んだ。考えをまとめてるみたいに、暫く手元の缶を弄んでいたが、やがて、ぽつりと呟いた。
 「…捨て猫を拾うのに近い感覚、だったのかもしれないな」
 「―――え?」
 「人見知りが激しくて、なんだかいつも怯えてて―――捨てられて震えてる子猫みたいだった。初めて会った頃の倖は。軒下でミーミー鳴いてるのが気になって仕方ないから、ちょっとミルクを与えてやったら、信じられない位可愛らしい笑顔を見せて擦り寄ってきた…そんな感じだった気がする」
 「…ふーん…」
 「他の人間の前では震える猫が、自分の顔見た途端喜んで跳びついてきたら、やっぱり嬉しくなるだろ? 自分だけ“特別”ってのは、優越感を生む―――そんな気分を与える相手を、もっと優しくしてやりたくなる。俺はそつない人間で、誰に対しても平等にしか優しくなかったけど、倖には特別、優しくなれたんだよ。確かに、あいつのせいで怒ったり泣いたり憤ったり―――面倒な事も多かったけど…」
 ちょっと言葉を切り、父は目を上げて、ニッと笑って見せた。
 「そういう、倖に振り回されてる俺も、俺は嫌いじゃなかった」
 「―――やっぱり、趣味悪いかもな」
 「ハハハ、そうかもしれないな」
 笑ってビールをあおる父を見て、瑞樹も諦めたような苦笑を浮かべた。
 「けど―――最後まであいつは、本当の素顔は見せてくれなかった気がする。俺を失うのが怖いあまり、自分の抱える闇の部分は、ずっと隠してた―――何度もチャンスはやったつもりだけどな。何故震えてるのか、何故怯えてるのか、知りたくてもわからない状態は、愛してる分だけ虚しかった。…もし俺に、倖の素顔を捕まえることができていたら―――その後の人生も変わってたかもしれないな」
 「…素顔、か…」
 思い出に浸るような父の表情を見ながら、瑞樹は複雑な心境だった。

 母の、素顔―――おそらく、瑞樹に見せた顔は、母の素顔だろう。父には見せたくない顔…見せれば、嫌われる、そう思っていた顔だ。
 母が何故そんな顔をしたのか、そのバックボーンは知らないし、知りたいとも思わない。でも、それを母が父に曝け出せたら―――瑞樹の人生も、海晴の人生も、変わっていただろうか?
 そう考えかけて、瑞樹は首を振った。非現実的な仮定だ。それができるような母でないことは、瑞樹が一番よく知っている。
 自分の傷を曝け出す事は―――自分の見せたくない顔を見せる事は、とても、難しい。本当に信じる事のできる相手でないと、できない。瑞樹は、蕾夏を信じることができた。そして、随分救われた。

 許すつもりなど毛頭ない。けれど―――父の愛ばかり求めながらも、ついに父を信じきることのできなかった母を、瑞樹はほんの少しだけ、哀れに思った。

***

 「なんだ、もう帰るのか」
 日が傾きかけているとはいえ、まだ慌てて東京に戻るほどの時刻ではない。帰ろうとする瑞樹を見て、父が不思議そうな顔をした。
 「帰るっていうか、ちょっと神戸港に寄ろうと思って。久々に撮りたいから」
 「ああ、そうか。―――なら、ちょうどいい。一緒に出るか」
 「親父はどこに?」
 「…倖のところだよ。土曜日の昼間に行けたら行く、って話してあったんでね」
 それを聞いて、瑞樹は一瞬硬直した。
 時計を見ると、午後3時半―――蕾夏が、昼食時間やその後の巡回の時間などを考慮して見舞いに行ってるとしたら、なんだか絶妙なタイミングのような気がする。
 ―――まぁ、いいか。
 本当は、頃合を見計らって、携帯で神戸港に呼び出して驚かせてやろうと思っていたのだが―――父のおかげで、もっと面白い展開になりそうだ。

 「なぁ、親父。病院行くなら、ちょっと頼みがあるんだけど―――」

***

 神戸港に来るのは、いつ以来だろう。震災後は、初めてかもしれない。
 メリケンパークを、海に沿ってそぞろ歩くが、そろそろ夕暮れ時という時間帯のせいか、子供の姿は少なく、カップルやサラリーマンらしき姿が目立った。
 携帯に、慌てたような声で電話があってから、そろそろ10分―――瑞樹は、メリケンパークの突端の階段に腰を下ろし、蕾夏を待つことにした。
 港に来ると、何故か瑞樹は「帰ってきた」という気分になる。
 元々、横浜生まれの横浜育ちだから、港という環境に慣れ親しんでいたのは確かだ。カメラを持つようになってからは特に、港によく出入りしていた。転勤先も、偶然にも港町の神戸だった。精神的に不安定になると神戸港に来ていたのは、そこに生まれ育った街との共通項を見出していたからかもしれない。
 そういえば、7月に行った横浜は、せっかく蕾夏がいたのに、天候と翔子のせいでほとんど撮影ができなかった。また今度、寒くなる前に改めて撮りに行くかな―――膝の上に頬杖をついて、瑞樹はそんなことを思った。
 「―――…瑞樹ーっ!」
 かなり遠くから、微かに呼ぶ声がした。
 立ち上がって振り向くと、蕾夏が、いかにも一生懸命といった風情で走ってくるところだった。あんな遠くから、よく後姿でわかったものだ。
 軽く手を挙げてみせると、蕾夏の笑顔がより嬉しそうなものになった。全力で、駆けてくる。そして、その勢いのままに、瑞樹の胸に飛び込んできた。
 「うわ!」
 勢いに押され、足が1歩、退く。慌てて蕾夏を抱きとめるようにすると、蕾夏は瑞樹の背中に手を回して、しっかりと抱きついた。
 「お…おい、蕾夏?」
 瑞樹が抱きしめることはあっても、蕾夏が抱きつくなんて初めてのことだ。思わず、戸惑いの声をあげてしまう。まさか泣いてるのか? と不安になって、腕の中の蕾夏の様子を窺うが、そんな様子は微塵もなかった。瑞樹の胸に頬を押しつけ、安心したような笑みを浮かべて目を閉じている。
 「蕾夏…? どうした?」
 「―――ううん…なんでもない。なんか、嬉しかっただけ」
 「え?」
 「1分でも早く会いたい、って思ってたから」
 ―――敵わねーなぁ…こいつには。
 まさか蕾夏が、抱きついてきてこんなセリフを言うなんて思ってもみなかった。驚かせたつもりが、逆に驚かされてしまった感じだ。瑞樹は完敗の意味をこめて小さく笑うと、蕾夏の頭をぽんぽん、と撫でた。
 「おかえり」
 「…ん、ただいま」
 蕾夏はそう言って顔を上げ、瑞樹から離れた。瑞樹と目が合うと、急に恥ずかしくなったのか、視線を泳がせる。こういうところが、蕾夏は面白い―――瑞樹は笑いをかみ殺し、蕾夏の頭をまた撫でた。

***

 2人並んで階段の最上段に座り、だんだん暗くなっていく海を眺める。
 海風がちょっと強いが、寒さを感じるほどではない。むしろ、この位の方が、隣に座る体温を感じとれる気がしてちょうどいい。
 「お父さん、ほんとに瑞樹と似てるね。驚いちゃった」
 蕾夏がくすくす笑いながらそう言い、記憶の中の父と瑞樹を見比べるみたいに、隣に座る瑞樹を頭の先から足元まで眺めた。
 「だろ。5年くらい前の方が、もっと似てた」
 「あー、そっか。お父さんがもっと若いもんね。並べたら面白かっただろうなー。でも、顔は似てるけど雰囲気が違うんだよね。なんか、人当たりが良くなった瑞樹って感じ」
 「なんだよ、それ。俺がよほど人当たり悪いみたいじゃねーか」
 「あ、ほら。その顔。人当たり悪そう」
 「…どうせ俺は、親父ほどの人格者にはなれねーよ」
 ちょっと拗ねた態度をとってみせるが、実際、瑞樹はそう思っている。結構波乱万丈な人生を送りながら、いつも飄々(ひょうひょう)としている父は、自分よりはるかに器が大きい男だ。これも、父の言う“年齢”の差だろうか。
 「そういえばさ。瑞樹、私のこと、どんな風に言ったの? 瑞樹が来てるって言われてパニクってわたわたしてたら、“あいつの気持ちがわかるなぁ”とか言われたんだけど」
 その話に、瑞樹は一瞬、言葉に詰まった。
 「…さあ? よくわかんねー…」
 「あ。怪しい」
 「わかんねーって。ほんとに」
 疑いの眼差しを向ける蕾夏に、ちょっと不貞腐れたような顔をする。畜生、親父のやつ、と内心動揺しながら。
 瑞樹が、自分が神戸港にいることを蕾夏に伝えて欲しいと頼んだ時、父は「お前が電話で連絡した方が、驚かさなくて済むんじゃないのか?」と眉をひそめた。
 それに対して瑞樹は、ニヤリと笑って言った。「驚かせた方が、絶対面白い」―――蕾夏の、よそ行き仕様の顔と素の顔のギャップが、瑞樹にとってはかなりのツボだ。思わず頭をぐしゃぐしゃと撫でてぎゅっと抱きしめたくなるほど、面白い。
 ―――親父は当然、わかってるだろうな―――俺が使う“面白い”は、言い換えれば“可愛い”って意味だってこと。
 瑞樹からすれば趣味の悪い父だが、蕾夏の“面白さ”は、よくわかるらしい。…何故かちょっと、おもしろくない。
 「そんなことより…」
 ちょっと咳払いした瑞樹は、やっと本題を切り出した。
 「会ったんだろ、あいつに。―――話は、聞けたのか?」
 瑞樹の問いかけに、蕾夏は表情を和らげ、柔らかな笑顔を浮かべた。
 「うん。いろいろ聞けたよ。やっぱり、会いに行って良かった」
 「そうか」
 「お母さんが抱えてたものも、貰っちゃったかもしれない」
 あっさりした口調で言われた言葉に、瑞樹は思わず目を丸くした。
 「…初対面の蕾夏に?」
 「ん…もしかしたら、初対面だから、言いやすかったのかも」
 あの母が、と一瞬信じられなかったが―――確かに蕾夏の言う通りかもしれない。
 父には、失うことを恐れて真実を何も語らなかった母だが、蕾夏は第三者で、しかも瑞樹の抱えてきた痛みを知っている―――それは、母の抱える闇の一端を知っているという事だ、ともいえる。母の性格を考えてみると、語りたい何かを母が抱えていたら、それを一番吐き出しやすい相手は、父でも瑞樹でもなく、蕾夏かもしれない。
 「…どんな話だったか、聞きたい?」
 小首をかしげるようにして、蕾夏が訊ねる。少し考え、瑞樹は逆に、蕾夏に、
 「お前は、俺に話すべきだと思うか?」
 と訊ねた。
 蕾夏は暫し、瑞樹の目を見つめた。が、その後、軽く首を横に振った。
 「話すべき、とは思わない。―――確かにね、お母さんの話を聞いて、倖さんの人となりが見えてきて、全然理解できなかった行動も、少しはわかる部分も出てきて、聞けて良かったなと思う。可哀想な人だな、って同情する部分もある。けど―――…」
 「けど?」
 「話しても、変わらないから」
 蕾夏は、ちょっと寂しげな笑みを浮かべ、抱えた膝を少し引き寄せた。
 「瑞樹は、何も悪くない。瑞樹が受けた傷は、やっぱり不条理な傷で、瑞樹には何一つ落ち度なんてない―――その事実は、お母さんの話を聞く前も後も、変わらないから。…だから、何がなんでも伝えなきゃ、とは思わない」
 「―――そうか」
 蕾夏の言葉に、何故かほっとした。
 瑞樹には落ち度はない―――母に愛されなかったのは、あくまで母の事情で、瑞樹のせいではない。その部分に、ほっとしたのかもしれない。
 「瑞樹が聞きたいなら、話すよ。瑞樹には、聞く権利があると思うもの」
 どうする? という顔で訊ねる蕾夏に、瑞樹はふっと笑い、首を振った。
 「…いや。特に、聞きたいとは思わない。一番確認しておきたかった部分は、もう聞いたから―――それ以外は、さして重要じゃないと思う」
 「そっか。…うん、そうかもしれない」
 蕾夏は、瑞樹の答えを頭の中で丁寧に理解するように、視線を外して何度か小さく頷いた。そして、また瑞樹の目を見つめ、ニコリと笑った。
 「じゃあ、今は、話さない。―――お母さんの話は、私が持ってる」
 “私が持ってる”。その不思議な表現に、瑞樹は意味を問うような目をした。
 「ずっと先の未来―――もしかしたら瑞樹が、お母さんの事を知りたい、って思う日が来るかもしれないでしょ。でも、その時には多分、お母さんはもういないから―――その時、瑞樹に伝えられるように、私がお母さんの物語を守ってく。お母さんの代わりに、私が瑞樹に話すよ」
 「…俺、一生、あいつの事なんて知りたくないって思ったままかもしれないぜ?」
 母を許そう、理解しようという気には、一生ならないかもしれない―――自嘲気味にそう言ったが、蕾夏は、微笑んだまま答えた。
 「それでも、構わないじゃない」
 「……」
 「私は、それを話すことで瑞樹に変わって欲しい訳じゃないの。だって瑞樹は、ちゃんと人に優しくできるし、人を愛することもできるでしょ? …瑞樹が変わらなきゃいけない部分なんて、ない。瑞樹はもう、今のままの瑞樹で、十分だよ」

 ―――全く…なんで、こいつは…。
 駄目だ。こいつにだけは、本当に敵わない。完敗だ。

 「…お前って、なんでそう、俺の欲しい言葉ばっかくれるかな」
 瑞樹は苦笑し、蕾夏の小さな肩を引き寄せて、肩を抱くようにした。すると蕾夏は、ちょっとくすぐったそうに身じろぎし、くすっと笑った。
 「それは、私のセリフだよ。―――瑞樹は、いつだって、私が一番欲しい言葉をくれるもの。瑞樹がいてくれて良かったって、いつも思う」
 瑞樹の肩にことん、と頭を預けると、蕾夏は目を伏せた。
 「だから、私―――瑞樹をこの世に送り出してくれた、っていう、ただそれだけで、倖さんに感謝できるよ」
 その言葉に、心臓がドキン、と音を立てた。思わず、蕾夏の顔を見下ろす。

 ―――救われた。そう、実感した。
 母親がその手で、一度葬り去ろうとした、命。いつも見えなかった、自分の命の価値―――それが見えた気がする。
 今までも、蕾夏が何度も教えようとしてくれていたけれど、なかなか見えなかった。でも、やっと―――やっと、見えた気がする。

 「…じゃあ俺も、ほんの少しだけ、感謝しとこうかな」
 瑞樹もくすっと笑い、そう呟いた。
 「生まれてなけりゃ、お前とも会えなかったんだもんな」

 この世に生を受けたからこそ味わった、痛み、苦しみ。でも、その中には喜びもあるし、自分の存在が誰かの救いになることもある。
 そんな当たり前の事を、今日、やっと実感できた。


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