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no096:
そのままの君
-odai:52-

 

君ガイレバイツカ、越エラレルカモシレナイ。

―99.10―

 「佐倉(さくら)さん?」
 久保田が口にした懐かしい名前に、瑞樹は少し目を丸くした。瑞樹より少し遅れて改札を通った久保田は、定期をしまいつつ頷く。
 「そう。佐倉みなみ。この2ヶ月、ニューヨーク行ってたから、お前が賞取ったの知らなかったんだとさ。で、帰ってきて、偶然仕事仲間に借りた“フォト・ファインダー”見て、仰天して俺に電話してきたんだ」
 「何で隼雄んとこに」
 「お前んとこに電話したくても、新しい番号知らないからに決まってるだろ」
 半ば呆れたように言われ、思い出した。昔、ストーカー被害を受けた際、自宅の電話番号を変えたのだ。親しい友人や仕事関係者には新しい番号を教えたが、佐倉には教えた覚えがない。その程度の付き合いだからだ。
 「で、お祝いしてやるから、ついでにスタジオ見学しないか、だとさ。今度の土曜日」
 「は? …つまり、おごるから撮影現場まで来いってことか?」
 「多分な。これ、佐倉の携帯番号。詳しい話は、直接本人から聞いたらいいだろ」
 久保田が差し出したメモには「さくら」という文字と、携帯の番号が記されていた。

***

 「…もしかして瑞樹、あんまり会いたくない人だったの?」
 スタジオが近づくにつれ、表情が冴えなくなってくる瑞樹を見て、蕾夏はちょっと心配になって訊ねた。
 「別に会いたくない訳じゃねーけど…苦手な人だな」
 そう言う瑞樹の顔は、実際苦々しげだった。でも、わざわざお祝いをしてくれる位なのだから、結構親しい人だったのではないだろうか、と蕾夏は首を傾げた。
 瑞樹の説明によると―――佐倉みなみは、久保田の大学時代の同期で、今そこそこ売れているファッションモデルなのだという。大学在籍中に既にモデルとして活動していたそうで、大学の写真部も時折撮影モデルを頼んでいたそうだ。瑞樹との接点は、どうやらその辺にあるらしい。
 今日は、六本木のスタジオで雑誌用の写真撮影だという。お祝いをしてやる、との話だが、スタジオ見学もお祝いの一部のつもりなのだろう。
 「プロの撮影現場なんて、なかなか見学できないもんね」
 「確かにな」
 そう返事しながらも、やっぱり瑞樹の表情は冴えない。そんなに嫌な人なのだろうか、佐倉みなみは。スタジオを見学したい、と乗り気だったのは蕾夏の方だったので、なんだか悪いような気がしてきた。

 やがて見えてきた撮影スタジオは、見た目にはちょっとお洒落な3階建てビル、といった感じだった。
 ビルの前に、大学生風の男性が人待ち顔でウロウロしている。あいつがそうだな、と佐倉から聞いていた風貌とその男性を比較し、瑞樹は声をかけた。
 「あの、須藤さんですか」
 声をかけられた須藤は、最初に瑞樹を見、続いて蕾夏を見た。2人が誰かを察した途端、突然その顔が嬉しそうな笑顔に変わる。
 「あ、はいっ、須藤です。成田さんですね。佐倉さんから聞いてお待ちしてたんです」
 アシスタントだという須藤は、二言三言挨拶を交わすと、2人をスタジオ内に案内した。
 「実は僕も“フォト・ファインダー”に応募したんですけど、かすりもしなかったんですよ。成田さん、僕より若くて、しかも本職じゃないのに賞取ってたから、凄いなぁって感心してたんです」
 “僕より若くて”?
 須藤の後に続いて廊下を進んでいた瑞樹と蕾夏は、思わず顔を見合わせた。一体須藤はいくつなのだろう。見た目はどう考えても大学生だが。
 「…あ、ここです。もう次の撮影入るんで、お静かにお願いしますね」
 須藤に案内されて足を踏み入れたスタジオは、蕾夏が想像していたよりはるかに綺麗だった。
 小道具類やセットはなく、ただの白いホリゾントだけの部屋。まばゆいスポットライトが四方八方から、ホリゾントの中央に立つモデルに向けられている。カメラを向けられるだけで緊張してしまう蕾夏は、自分がそこに立つ場面を想像して、いやな気分になった。緊張とライトの熱で、きっと数秒で茹だってしまうだろう。
 思ったより、スタッフも多かった。せいぜいカメラマンとアシスタント、メイクと照明、程度の人数だろうと思っていたのに、スタジオ内には10人近いスタッフがいた。2人を案内してくれた須藤も、慌てた様子でその輪に加わった。
 「瑞樹は、こういうのって初めて見る?」
 撮影の邪魔にならないよう、入り口ギリギリの端っこに立った蕾夏は、隣で腕組みしている瑞樹に訊いてみた。
 「大学の頃、バイトでスタジオスタッフやってたから、多少はな。中に入れてもらえる事は稀だったけど」
 「…そうなんだ」
 スタジオスタッフの経験があるとは知らなかった。大学時代の瑞樹は、大学の授業以外は写真漬けの毎日だったらしい。
 ―――カメラマンにはなれない、なんて思いながらも、その道に一番近い所をバイト先に選んでたってことじゃない。…なら、就職先だって、写真関係選べばよかったのに―――…。
 その時、カメラマンへの道はすっぱり諦めた、ということなのか。蕾夏は、少し気落ちしたような顔になり、間もなく撮影が始まりそうな現場に目を向けた。
 ホリゾント中央に立つ佐倉は、上等そうなカシミヤのコートに身を包み、服のラインが綺麗に出るよう少し斜めに構えて立っていた。きりっとした表情、立て気味のコートの襟…20代後半の、キャリア世代を狙った雑誌用の写真かもしれない。
 ファッション雑誌において、主役はあくまで「洋服」だ。それを着ているモデルではない。いかに購読層に支持される着こなしや魅せ方ができるか。それが、佐倉の力量なのだろう。
 カメラマンの指示で、佐倉は、流れるような動作でポージングしていく。シャッター音が連続する―――アシスタントである須藤は、その音に耳をすませて、手にしたノートに何かを書き込んでいるようだ。これは、蕾夏も知っている。シャッター音から、残りのフィルム枚数を把握するのは、アシスタントの重要な仕事の一つなのだ。
 「…10枚」
 無意識に、その音を数えた蕾夏が、独り言のように呟くと、
 「―――11枚」
 瑞樹が、そう訂正した。その顔を見上げると、自信あり気にニッと笑っていた。キャリアの差とはいえ、ちょっとばかり、悔しかった。

***

 撮影は、その後30分ほど続いた。
 「成田。お待たせ」
 そう言って現れた佐倉は、あっさりした顔立ちだが、切れ長な目がエキゾチックで印象的な女性だった。スレンダーな体型といい、蕾夏より10センチ以上高い背といい、モデルになるべくしてなった、そんな風に蕾夏には思えた。先ほどまで、どちらかというとシックな衣装が多かったが、今は薄手のニット・アンサンブルに細身のパンツに着替えていた。多分、これは私服だろう。
 「多恵子の葬式以来だっけ? ああ、あれは電話だけか。何にせよ、久しぶり」
 男っぽい性格なのだろうか、佐倉はサバサバとした口調でそう言い、丸めた『フォト・ファインダー』で瑞樹の腕をぽん、と叩いた。瑞樹の方は、よほど苦手な相手なのか、苦虫を噛み潰したような顔で軽く会釈しただけだった。
 「相変わらず無愛想な奴…。ま、でも、写真の腕は上がったみたいね。おめでと」
 「…どうも」
 やはり無愛想に応じる瑞樹に苦笑し、佐倉は、その隣にいる蕾夏に目を向けた。
 「あの写真の子?」
 「あ、はい」
 「プロのモデル? にしては、背が足りないか…」
 「あはは、勿論、素人です」
 「ふーん…」
 佐倉は、まるで品定めするような目つきで蕾夏を見下ろした。さらっとしたショートボブを掻き上げ、右から、左から、蕾夏の容姿をチェックしている。あまりにジロジロ見られるので、蕾夏の笑顔も引きつった。
 「? あのー…」
 「…佐倉さん」
 むっとしたように瑞樹が低い声を挟むと、佐倉は肩を竦め、蕾夏の頭にポンと手を置いて瑞樹に笑いかけた。
 「うん、なかなかいい被写体じゃない。人物写真嫌いの成田を動かすだけのことはある」
 「当たり前だ」
 「おや。たいした惚れこみようじゃない。―――あ、須藤さん!」
 レフ板を片付けていた須藤に目をとめた佐倉は、彼を呼びとめ、蕾夏の両肩に手をかけて須藤の方に向かせた。
 「ごめん、あたし、ちょっと成田と大事な話あるから、この子の話し相手してくれる?」
 「へ? 僕ですか?」
 目を丸くする須藤とシンクロするように、蕾夏も目を丸くする。なんともマイペースな人だ。肩越しに振り返った先の瑞樹は、大事な話なんてねーぞ、とでも言いたげに眉をつり上げていた。
 ―――瑞樹、拗ねちゃうかなぁ…。けど…。
 実は密かに、須藤に「アシスタントの仕事」について、いろいろ聞いてみたいと思っていたところだったのだ。予想外の展開ではあるが、これはまさに、渡りに船。
 ごめんね、と心の中で瑞樹に手を合わせ、蕾夏はくるん、と須藤の方に向き直った。ニッコリと笑って。
 「機材片付けるの、手伝いますね」
 「え、あ…うん、じゃあ、お願いします」
 あからさまにデレッとした顔になった須藤。蕾夏は背中に、瑞樹の殺気を感じた気がした。
 怖くて振り返れないので、そのまま歩いていこうとしたが。
 「あ、ちょっと待って」
 佐倉に肩を掴まれ、ちょっと引き戻される。キョトンとした目を佐倉に向けると、佐倉は意味深な笑みを見せた。
 「ちょっといい話、教えてあげる。あのね―――……」
 「……」
 佐倉が、蕾夏の耳元に口を寄せて、何かを囁く。すると、蕾夏の顔が、なんとも言えない複雑な表情に変わった。
 「…という訳で、がんばって」
 ―――いえ、もう手遅れです…。
 などとは、言えない。ニッ、と笑う佐倉に、蕾夏は曖昧な笑みを返しておいた。

***

 蕾夏の懸念通り、瑞樹は少々、拗ねていた。
 須藤と機材を運びながらニコニコ笑って話をしている蕾夏に、つい恨めしそうな視線を送ってしまう。面白くない。苦手とする佐倉と2人で残されたから、余計に。
 それにしても佐倉は、蕾夏に何を耳打ちしたのだろう? 蕾夏が去り際に見せた微妙な表情が気になる。
 「―――ふーん。成田の好みは、こういう子だった訳だ」
 2人だけになった途端、佐倉が、その細めの眉を片方だけつり上げ、『フォト・ファインダー』の問題のページを瑞樹に突きつけてきた。紙面の4分の1位を使って、瑞樹の“生命”の写真が掲載されている。
 「プロの私が“お願い、撮って”と頼んだ時には、“俺は人間なんか、しかも女なんか、絶対撮らねぇ。ヴォーグ紙の表紙飾るようなモデルになったら、考えてやってもいい”なんて答えた癖に」
 「…よく覚えてんな。俺が2年の時の話なのに」
 半ば、呆れる。当時、佐倉はプロのモデルとして急激に売れてきていた頃だったから、瑞樹に断られたのは最高に屈辱的な思い出なのだろう。
 「けど、確かにいい写真だと思う、これは」
 憮然とする瑞樹に、佐倉はそう続けた。
 「あたしはこの子の事、知らないけど―――さっき見た彼女より、この写真の中の彼女の方が、断然いい。さっきの彼女は、そつがなくて、人あたりが良くて、落ち着いてて…言うなれば、メイクしてる彼女って感じがする。でも、この写真の中の彼女は、素顔のままで写ってる。余分なもん全部とっぱらって写ってる」
 「…相変わらず、写真見る目だけは確かだよな、佐倉さんは」
 思わず苦笑する。そう…、これが、瑞樹が佐倉を苦手とする理由なのだ。

 佐倉みなみは、昔から写真を見る目は鋭かった。他の連中が褒めそやす写真も「うわべだけ撮ってる」「構図優先で、情緒がない」などとズバズバ言うので、写真部の人間は結構佐倉を恐れていた。
 佐倉が、当時瑞樹の写真に対してよく使った言葉は「雑」だった。荒削りすぎ、計算がなさすぎ、本能のまま撮りすぎ―――それの何がいけないんだ、と、佐倉に批評されるたびムカつく瑞樹だったが、その裏の意味を、本当は理解していた。

 あんた、プロになる気、ないんでしょう? ―――結局本気じゃないんだよね、あんたは。

 結局は素人の、ただの「お遊び」。そう斬って捨てられるのが、一番嫌だった。瑞樹にとって写真は、そんな程度のものではなかったから。…でも、ある意味では、佐倉の指摘は図星だったから。

 「で…、どうなの?」
 にわかに、佐倉の目が真剣みを帯びる。
 「何が」
 「カメラ。セミプロの自己満足で終わるのか、勝負に出るのか」
 セミプロの自己満足―――また手厳しい表現だ。佐倉らしい表現とも言える。
 「勝負に出る気があるんなら、あたしが何人かに口利くよ。ただし、ジャンルは偏ってるけど」
 「口利き?」
 「フリーランスで出版元と契約するとか、その手の活動するんなら、編集部との橋渡しをするよ、ってこと。…受賞祝いに」
 さすがにこの言葉には目を見開いた。てっきり何かおごるという類の話かとおもったら―――とんでもない受賞祝いを考えてくれたものだ。
 「“フォト・ファインダー”って、上位3賞は、受賞するだけでプロへの道が拓ける、とまで言われるほど注目されてるけど、各審査員賞取っても、編集プロダクションや出版社からの引きってほとんどゼロだって聞いてる。実際、成田もそうなんじゃない?」
 「…まあ、確かに」
 上位3名の実情がどうなのかは知らないが、少なくとも瑞樹のところには、何も来ていない。そりゃそうだろ、と瑞樹は思っている。時田賞は、あくまで「時田郁夫が気に入った写真」に送られる賞だ。はっきり言って、彼以外の人間にとっては、何の意味もない写真と言ってしまっていい。
 「あんたが本気なら、動くのは早い方がいい。受賞したことも忘れられた頃じゃ、インパクトがないから。…どうする?」
 佐倉の目が、瑞樹の目を見据える。瑞樹は、暫しその目を見つめ返していたが、小さく息をつくと、髪をぐしゃっと掻き上げた。
 「―――いや、いい。よしとく」
 この返答は意外だったらしい。佐倉は、眉を寄せると、納得いかないといった顔をした。
 「写真で食べてく気はない訳?」
 「今のところは」
 「…成田。さっきあたしが言った事、聞いてなかったんじゃないの」
 「いや、わかってる。受賞から時間が経つと、インパクトが弱いって言うのは。でも…」
 説明を求めるような顔をする佐倉に、瑞樹は、ちょっと困ったような顔を見せるしかなかった。

 勿論、カメラマンになる気がゼロな訳ではない。なれたらいいな、という夢の度合いは、少しずつ増えている気がする。
 けれど―――ただ闇雲に夢見ていられた子供時代と今とでは、立場が違う。大人になった分、夢までの距離は近づいたけれど、大人になった分、果たさなくてはいけない責任も増えた。
 それに。
 まだ、瑞樹には、克服していないものがある。
 ファインダー越しに、被写体の視線を捉えること―――目と目が合う、ポートレート。

 「佐倉さんの申し出には、感謝する。けど…やめておく」
 「―――そう、か。…残念だな」
 意地になっている訳でも、本音を隠してる訳でもない、極穏やかな瑞樹の表情を見て、佐倉も説得を諦めたようだ。
 「成田が撮った佐倉みなみ、ってのを、紙面で見てみたい気もしたんだけどな」
 軽くため息をつくと、佐倉は、少々彼女らしくない、寂しげな笑みを見せた。

***

 「ちょっと、勿体無かったんじゃない?」
 「そうかな。…あ、フィルム切れた」
 枝葉の隙間から射す木漏れ日を撮り終えた瑞樹は、少し後ろで2人分のウーロン茶を手に眉根を寄せている蕾夏を振り返った。すぐ傍のベンチに腰を下ろすと、蕾夏もそれに従った。
 スタジオから少し歩いた所にあるこの公園は、あまり人がおらず、都会の喧騒からも隔絶されたような静かさだった。蕾夏からウーロン茶を受け取り、一口だけ飲み、また返す。瑞樹は、フィルムをくるくると巻き取りながら、隣に座る蕾夏の冴えない表情に苦笑した。
 「…んな顔、すんなって。ちゃんと考えた上で断ったんだから」
 「うん…でもさぁ―――やっぱり、勿体無かった気がする」
 自分の分のウーロン茶をコクン、と飲み込み、蕾夏は小さなため息をついた。
 「須藤さんに聞いたけど、佐倉さんて、出版元からもとっても信頼されてるベテランのモデルさんなんだって。確かに佐倉さんが口利きしたら、チャンスが掴めたんじゃないかなぁ」
 「確かにな。けどお前、重要なことを忘れてる」
 「え? 何?」
 「佐倉さんは、ファッション雑誌1本でやってきたモデルだろ。佐倉さんが口利きできるのは、つまりは女性誌の出版元とか編集プロダクションってこと―――今の俺に、今日やってたみたいな仕事ができると思うか?」
 そう言われ、蕾夏の表情が曇った。
 今日やっていたような仕事―――佐倉は、流れるような動作でポーズをつけていきながら、目線は常にカメラを向いていた。
 勿論、あれは「商品を魅せるための写真」であって、佐倉本人のポートレートではない。だから、和臣と奈々美の写真がそうだったように、商品を身につけた佐倉みなみ、というオブジェを撮れば、それでいいとも言える。だが―――それでも、ファインダー越しに目が合う時に感じる苦痛は同じだ。撮れない訳じゃない。ただ、苦痛を伴う。
 「佐倉さんの申し出はありがたいけど―――ジャンルがジャンルだけに、ちょっとな」
 「…そっかぁ…そうだね」
 「第一、仕事あるし」
 「あは…確かに、西暦2000年問題抱えてる今、転職なんてしたら“卑怯者”扱いされるかな」
 くすっと笑った蕾夏は、またウーロン茶を口に運んだ。その表情は、もう曇ってはいなかった。彼女なりに、瑞樹が出した結論に納得したのだろう。
 「それよりお前さ。さっき、何言われたんだ?」
 フィルムを交換しながら、瑞樹は目だけ蕾夏の方に向け、訊ねた。
 「さっきって?」
 「須藤さんを手伝いに行く時、佐倉さんに何か耳打ちされてただろ」
 「え…っ」
 途端、蕾夏の顔が、ちょっと赤くなった。うろたえたように視線を泳がせる。
 「いや、別に、大した話じゃないし」
 「―――そんだけ視線をうろうろ泳がせといて、“大した話じゃない”?」
 「ほ、ほんとほんと。全然、大した話じゃないよ」
 誤魔化すように笑う蕾夏を見て、瑞樹は片眉を上げた。
 「…ほー。俺に隠し事をしようってのかよ。お前が俺ほっぽり出して須藤さんとこ行った時、無茶苦茶面白くなかったけど、ここでぶち切れたらお前が困ると思って、あえて我慢してやったのに」
 「そ、それは…」
 じゃあぶち切れたら何をする気だったのか、という疑問が蕾夏の頭を掠めたが、この件については少々心が痛む部分もあったので、蕾夏は反論できず、余計視線を泳がせた。
 「蕾夏。早く白状した方が、楽になるぞ」
 泳いでた視線が、瑞樹の目に捕まった。睨みつけるように見据えられ、蕾夏はついに観念した。
 「―――あのね」
 「うん」
 「…佐倉さんが言った通り、復唱するね。…ああああ、嫌だなぁ。いくら復唱でも、こんなの言うの」
 「いいから言え」
 蕾夏の顔が、更に赤くなった。はーっ、とため息をつくと、なるべく感情のこもらない「教科書読み上げ」的な口調で、蕾夏は佐倉の言葉を復唱した。
 「―――“成田の彼女の地位を長続きさせる秘訣は、絶対にやらせないこと! 一度抱いた女は二度と抱かないって有名だったから。成田の彼女名乗った女の最高記録は2ヶ月だから、最低でもその位は焦らして焦らして引っ張ること!”」
 「―――…」
 ―――さ…佐倉のヤロー…!!!!
 嫌な予感はしていたのだ。
 佐倉みなみという女は、根はいい奴だが、こと写真に関しては異常にプライドが高い。ヴォーグ紙飾るようになったら撮ってやる、と言って佐倉の頼みを断った瑞樹が、素人の女性をあっさり撮影した事を、内心面白くないと思っていたのだろう。
 「…なんだか、凄い大学生活送ってたみたいだね、瑞樹」
 「バカ! んな訳ねーだろ、信じるなっ!」
 ほっとくと、そのまま信用してしまいそうで怖い。思わず顔色を変えて怒鳴ると、蕾夏は、その必死な様にくすっと笑った。
 「冗談だってば。…大丈夫。佐倉さんが、瑞樹に撮ってもらえた私にちょっと嫉妬してるのは、感じてたから」
 意外なセリフに、瑞樹は忌々しげだった表情を一変させ、驚いた顔で蕾夏を見つめた。
 「なんで、気づいたんだ? それ」
 「んー、なんだろう? なんか、私に対する態度が、ね。しいて言うなら―――女の勘、かな」
 そう言って、ちょっと得意げな笑みを浮かべる蕾夏に、瑞樹は、ちょっとした感慨を覚えていた。

 どこか、違う。以前の蕾夏とは。
 相変わらず、ちょっとした事で極端に顔を赤らめ、照れまくり、うろたえてる自分を誤魔化すみたいに怒ったような態度をとってしまう蕾夏だが―――なんだか、女性としての自分に、自信を持ちつつあるような感じがする。以前なら滅多に見せなかった“女”の部分が、日頃のよそ行きの顔にも、瑞樹にだけ見せる顔にも、自然と混ざってきている気がする。
 やっと自分を、“女性”にカテゴライズできたのかもしれない。
 長い長いピーターパン・シンドロームから、やっと抜け出しつつあるのかもしれない。
 少女と、大人の女性の、狭間。変化の過程で見せる、思わず目を見張るような輝きが、今の蕾夏にはある気がした。

 ―――写真に、残しておきたい。今の蕾夏を。
 何故か急に、そんな衝動に駆られた。

 「―――なぁ、蕾夏」
 「え?」
 「ちょっと、そのまま、俺のこと見ててくれるか」
 キョトン、と目を丸くする蕾夏をよそに、瑞樹は、デイパックをベンチに置いたまま、カメラだけ手にして立ち上がった。
 蕾夏と少し距離をあけ、新しいフィルムをセットしたばかりのカメラを構えると、瑞樹はファインダーを覗き込んだ。
 視界の中に、瑞樹を若干見上げるような形で見つめている蕾夏の、胸から上の部分が収まっている。ちょっとブレ気味の画像を、手が自然と調整する。と、くっきりとした蕾夏の姿が、そこに映し出された。
 蕾夏は、まだ目を丸くしていた。その目と、ファインダー越しの瑞樹の目が、ぶつかった。
 「……」
 蕾夏の目が、一層、大きく見開かれる。
 その意味に、気づいたから。

 瑞樹が、ファインダー越しに、蕾夏の視線を捉えている。
 被写体である蕾夏の目を、しっかりと見つめている。震えもせずに。

 「―――どんな気分?」
 瑞樹がそう声をかけると、目を丸くしていた蕾夏は、なんとも言えない幸せそうな笑みを浮かべた。視線を、カメラの向こうの瑞樹の視線と結んだまま。
 「…すごく、幸せな気分」

 慈しむように、抱きしめるように、ただ柔らかに瑞樹を見つめて微笑む蕾夏は、あの“生命”に写っている蕾夏同様、余計なものは取り払った、素のままの蕾夏だと思える。そこには、瑞樹がファインダーの向こうに見つけるのを恐れ続けた暗い感情は、ひとつも見つけられなかった。
 ―――大丈夫だ。
 蕾夏のことは、撮れる。
 蕾夏の目は、見ることができる。信じられる相手だから。それだけの土台を、この数ヶ月で築くことができたから。
 蕾夏を撮り続けていったら、いずれは―――記憶から消せなかった、母が自分に向けるあの暗い感情を宿した目を、蕾夏のこの目が凌駕してくれるかもしれない。そうしたら、いつかは自分も、極当たり前にポートレートが撮れるようになるかもしれない。

 幸せな、気分―――。
 ここにはきっと、“幸福”が写るんだろうな―――そう思いつつ、瑞樹はシャッターを切った。瑞樹自身も、最高に幸せな気分を味わいながら。


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