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no097:
本能に従え
-odai:38-

 

向カウベキ明日ハ、ドッチダ?

―99.10―

 突然割って入った携帯電話の着信音に、蕾夏の肩が微かに跳ねた。
 「…瑞樹?」
 「なに」
 「何、って…、電話」
 「無視」
 早く出ろ、と急かしているみたいな着信音に蕾夏の気は焦るが、当の瑞樹は気にならないらしい。まだ何か言おうとしたら、やっと解放された唇を、また奪われた。
 この種のキスは、まだどうも苦手だ。組み伏せられていると、逃げ場がなくて余計落ち着かない。前回は、瑞樹の過去の話を聞かされて、感情が昂ぶった状態だったからまだ良かった。が、今日はのんびり写真の整理をしてたところにこのシチュエイションだから、頭が簡単に切り替えられない。
 着信音は、10回ほど鳴ったところで、留守番電話サービスに切り替わったのか、切れた。
 「―――…ねぇ、大体、なんでこんな事になってるの?」
 「…さぁ? そういう気分だからかな」
 有無を言わせない笑みを浮かべてシャツのボタンに手をかけられると、私はそういう気分じゃないんだけどなぁ、などとは言えなくなる。
 一体どういうきっかけで、瑞樹だけそんな気分になってしまったのだろう? ―――困ったように視線を彷徨わせていたら、また携帯電話が鳴った。
 「…ねぇ、瑞樹…」
 「気にするな」
 あらわになった肩に唇を落す瑞樹は、着信音なんて全然気にならない風だが、蕾夏の方は気になって仕方ない。
 「―――そんなの無理だよ…」
 頼むから取って、という哀願の声色で蕾夏が呟く。さすがに瑞樹も無視しきれなくなっていた。観念したかのように、大きくため息をつく。
 「…わかった…」
 起き上がった瑞樹は、下らない電話だったらぶっ殺すぞ、という殺気を伴って携帯電話を掴んだ。
 液晶画面には、見覚えのない番号が表示されている。留守電に切り替わる直前で、ギリギリ通話ボタンを押した。
 「はい」
 『成田君? 時田です』
 ときた?
 一瞬、思考が停止する。ときた―――そんな名前の友人はいない。それに、この妙に楽しそうな声…。
 ―――時田郁夫!?
 思わず、携帯を握る手に力が入ってしまう。
 「あ、どうも…先日は、お世話になりました」
 『はは、お世話になったのは僕の方だけどね。写真をわざわざ送ってもらった訳だし。今、時間大丈夫かな』
 「ええ、大丈夫です」
 そう答えつつ、目の端に、チャンスとばかりに逃げ出そうとする蕾夏を捉え、そのシャツの裾を捕まえた。「逃げるなっ」と口だけ動かして言う瑞樹と、「放してよっ」とやはり口だけ動かして言う蕾夏の間で、綱引きが始まってしまう。
 『実は、やっとスケジュールの調整やら関係者の根回しが終わってね』
 「はぁ…」
 『約束したよね、編集部で会った時。という訳で、一緒に写真を撮りに行こう』
 「は!?」
 瑞樹の目が、大きく見開かれた。その様子に、蕾夏も綱引きを止め、キョトンとした目で瑞樹の顔を窺った。
 「あれ、本気だったんですか!? 俺、冗談だとばかり…」
 『はははは、僕が冗談なんて言う訳ないじゃないか。いつだって本気だよ』
 ―――ほんとかよ。
 ほぼ同じタイプである蕾夏の父を知っているだけに、今のセリフも本気かどうかと怪しんでしまう。
 第一、プロの写真家が、知り合いでも友達でもないアマチュアカメラマンと写真を撮りに行くだなんて、冗談と思うのが当然だろう。
 まあ、とりあえず、からかっている訳ではない、という前提で、瑞樹は先を促した。
 「それで―――どこに撮りに行くんですか?」
 『ちょっと遠いけどね。イギリスだよ』
 ―――は?
 「……すみません、もう一度」
 『イギリス。大英帝国。12月の頭から、期間はほぼ半年を予定している』
 …ちょっと、待て。
 なんだそれは。それのどこが“一緒に写真を撮りに行きましょう”というノリなんだ。
 「…冗談、でしょう」
 『さっきも言っただろう? 僕はいつだって本気だよ』
 ―――なんだか、凄い事を言われてる気がする。
 相変わらず楽しげな時田の声と反比例するように、瑞樹の表情は真剣味を帯びていく。時田の真意を測ろうと、耳に全神経を集中してる気分だ。
 『電話じゃ煩雑なんで、直接会って話がしたいんだけど―――明日、会社帰りにでも、編集部に来れないかな。できれば、君専用のモデルの彼女も一緒に』
 「蕾夏もですか?」
 自分の名前が出てきて、蕾夏が問い掛けるような目をする。少し不安げなその目を見て、瑞樹は安心させるように、その手を握った。
 『とりあえず、成田君は来れるかな』
 「…7時半か8時になると思いますけど、それでよければ」
 『そう。じゃあ、明日、待ってるから。彼女には君から声をかけといてくれるかな。都合がつくようなら、2人揃っておいで』
 「…わかりました」
 『休みの日にお邪魔したね。じゃ、また明日』
 そう言って、電話は切れた。瑞樹の返事も待たずに。物腰は柔らかいが、結構一方的な男だ。思わず携帯電話を耳から離し、眉を顰めて睨んでしまった。
 「―――誰からだったの?」
 ちょっと心配そうに訊ねる蕾夏に、瑞樹は複雑な表情を見せた。
 「…時田郁夫から、デートのお誘い」
 「え!?」
 「明日、会社帰りに、蕾夏も誘って編集部まで来いって。…お前、明日、大丈夫か?」
 「まだ、わからないけど―――えぇ!? なんで!? なんで時田郁夫が呼んでるの!?」
 ますます目を丸くする蕾夏に、写真を撮りに行くという話をしようかと思ったが―――やめた。どう考えたって非現実的な話だ。直接話を聞くまでは、冗談の線が捨てきれない。
 「…まぁ、いいや。会ってみりゃ、何かわかるだろ」
 瑞樹は、小さくため息をつくと、携帯の電源を完全に切って、そこら辺りに適当に放り出した。
 「今は、こっち優先」
 「え? きゃあっ!」
 急に肩を押されて、蕾夏はあっけなく後ろにひっくり返ってしまった。その両肩を押さえ込み、真上から見下ろしてくる瑞樹は、悪戯がうまくいった時の悪ガキのような笑い方をしていた。
 「…人が油断してるところ狙うなんて、ずるいよ…」
 「油断する方が悪い」
 そう言った後、ふざけた感じから真剣なムードにシフトチェンジした瑞樹の目に、蕾夏は思わず、反論するのも忘れて魅入ってしまった。
 ―――ファインダー越しに、獲物を捕らえた時の目と、似てる。
 本能を剥き出しにした、目。捕らえた獲物を魅惑し、絶対逃さない目―――捕まってしまう。抵抗できなくなる。そんな気分じゃなかったのに、電話の内容の方がずっと気になってた筈なのに、そんなのどうでもよくなる。
 こんな目をするのに、瑞樹の態度は、どこまでも優しいから―――尚更、苦しくなる。
 今、自分は、どんな目をして瑞樹を見ているのだろう? ―――そんな事を考えながら、蕾夏は、瑞樹の視線から逃げるように目を伏せた。

***

 タイムカードを押し終え、階段を駆け上がった瑞樹は、5階の踊り場で誰かにぶつかり、あやうく階段から落ちそうになった。
 「うわっ」
 「あ…っ、ご、ごめん!」
 謝ってきた声で、ぶつかった相手が佳那子だとわかった。慌てて体勢を整え顔を上げた瑞樹は、すれ違う時に一瞬見えた佳那子の顔に、思わず眉をひそめた。
 声をかけようかと思ったが、佳那子はそのまま、階段を駆け下りていってしまった。あと15分もすれば始業なのに、一体どうする気なのだろう?
 首を傾げつつ事務所に向かうと、自動販売機の横に、久保田が立っていた。苦虫を噛み潰したようなその表情と、今さっき見た佳那子の表情がリンクした。
 「…佐々木さん、泣いてたけど」
 「―――ああ、わかってる」
 大きなため息をつくと、久保田は、手にした缶コーヒーを苛立たしげにあおった。出勤時に持っている筈の荷物が見当たらないところを見ると、今日は随分早く出社したようだ。
 「今朝、部長に呼び出されて、ちょっと面倒な話を打診されたんだよ」
 「面倒な話?」
 「長野の営業所が、かなり業績不振で喘いでてな。営業のテコ入れが必要だろう、って9月の会議でも出てたんだ。で―――まだ打診の段階だけど、長野の方からご指名があったんだそうだ。俺に営業として来て欲しいって。1年の期間限定で」
 さすがに瑞樹も表情を変えた。久保田は営業の人間ではないし、企画の中核を担っている立場だ。それをあえて引っこ抜こうというのだから、これは、かなりの荒業と言えるだろう。
 「長野が困ってるのはわかるし、会社全体のこと考えたら、俺が行って成績上がるんなら行くべきだと思う。無理言って異動させるから、ってんで、1年後こっちに戻ってきたら、待遇も今よりぐっと良くなるらしい。けどなぁ…、俺抜けたら、企画どうすんだよ、ほんとに。回ってかねーだろ、どう考えても」
 「…確かにな」
 そのあたり、部長も痛し痒しなのだろう。打診レベルで久保田の意向を訊いたのも、できれば手放したくないという気持ちがあるからかもしれない。
 「で? 行くのか?」
 「―――いや。さっきまで迷ってたんだけどな。…佐々木に話して、断る覚悟できた」
 そう言って久保田は、苦笑いを浮かべた。企画部の存亡よりも、佳那子の涙の方が久保田にとっては重いらしい。
 「女の涙に弱いな、あんたも」
 くすっと笑う瑞樹に、久保田は肩を竦めた。
 「まぁな。でも…あんな状態のあいつを、1年も一人で放っておく訳にもいかないだろ。―――俺たちには1年は重いからな。“たかが1年離れるだけ”って割り切れないんだよ」
 久保田と佳那子の事情はよく知らないが、仕事に私情を挟まない久保田がこう言う位だから、1年という時間は2人にとっては危険な長さなのだろう。
 「覚悟決めたんなら、早いとこ追っかけてやれば? もう仕事始まるし」
 「…そうだな。もし間に合わないようだったら、中川部長に適当に誤魔化しといてくれ」
 ニッ、と笑って、飲み終えたコーヒーの空き缶をダストボックスに放り込む久保田に、瑞樹も笑みを返した。
 佳那子を探しに向かう久保田の背中を見送りながら、大変だよなぁ、と瑞樹は内心呟いていた。システム部は、異動がない。東京で全てのソフトの開発を手がけているから。その点、営業や企画はコロコロ異動するので、そのたびに、恋人やら家族やらといろんなドラマが展開されているのだろう。
 ―――俺が異動でどっか行くことになったら、蕾夏も佐々木さんみたいに泣くかな…。
 ふと、そんな事を思った。
 泣くような気もするし、逆に全然平気な顔をしそうな気もする―――どれだけそばにいても、やっぱり蕾夏の肝心な部分は、いつまで経っても読みきれないような気がした。

***

 編集部の応接室で所在無げにしていると、約10分後、時田が腕に封筒やら書類やらを抱えて現れた。
 「いや、ごめん、待たせちゃったね」
 「いえ」
 トレードマークのバンダナを外し、シンプルなスーツを着ている時田は、濃い色のスーツのせいか前回見た時より痩せて見える。顎にたくわえた無精ひげは相変わらずなところを見ると、無精な訳ではなく彼なりのファッションの一部なのかもしれない。
 「蕾夏は、仕事の都合で、どうしても間に合いそうにないんで…」
 「ああ、そうなんだ。残念だな」
 少し眉を寄せてそう言った時田は、持参した書類などをテーブルの上に放り出し、瑞樹の向かい側にドサリと腰を下ろした。打ち合わせ後で疲れているらしく、慣れているとは思えないネクタイをさっさと緩めた。
 「さて、と。さっそく話を始めようかな」
 そう言ったタイミングで、編集部の人間らしき女性がお茶を運んできた。彼女が立ち去るのを待ち、一口お茶を飲んでから、時田は真向かいに座る瑞樹の目を真っ直ぐに見返した。

 「君は、回りくどいのは嫌いみたいだから、まずは結論から言う」
 「―――はい」
 「成田君に、12月頭からの半年間、僕のアシスタントをやってもらいたい」
 そうきっぱり言った時田だったが、直後、いや待てよ、という風に首を捻った。
 「いや、アシスタント、という表現は語弊があるかもしれないな。一緒に写真を撮る―――うん、結局、その表現が一番正しい」
 「…どういう、ことですか」
 「つまり―――僕は君の半年間を、それ相当のキャッシュで買い取る。君は僕と一緒にイギリスに行って、僕が撮れといった物はかたっぱしから撮り、君自身が撮りたいと思った物もどんどん撮る。半年後、君にプロの仕事は無理だと僕が判断したら、僕との契約はそこでジ・エンド。でも、もし―――もし君が、持てる才能を存分に見せてくれれば、その時は、今僕が抱えている仕事の一部を、君に譲る」
 時田の言葉に、瑞樹は息を呑んだ。
 「―――まず、僕側の事情から説明しようか」
 時田は、もう一度湯飲みを口に運ぶと、にっこりと笑った。

 「君は僕のファンらしいから知ってると思うけど、僕は日本とイギリス、2つの活動拠点を持っている。その辺が買われたらしくてね。ミレニアムイベントで盛り上がってるイギリスを撮って欲しいって依頼が3つ舞い込んでるんだ。1つは旅行業者のキャンペーン用のもの、1つは写真集、残る1つは雑誌の連載―――他にも、イギリスで契約している雑誌の仕事もあるし、付き合いのためにやらざるをえない仕事も結構ある。早い話、もう手一杯の状態なんだ」
 景気のいい話だ。時田は、今でこそ個展を開いたり写真集を出したりする超有名な風景写真家だが、元々は何でもこなすオールラウンダーだった。その当時の付き合いが、売れっ子になった今も続いているのだろう。
 「誰かに譲らないと、と思うんだが、クライアントの求めるイメージの写真を撮れそうな奴が見当たらない。で…君の写真を見て、ピンときた訳だ。懇意にしてるクライアント何件かに、君に送って貰った写真を見てもらって、“この写真を撮ったアシスタントが撮る可能性もあるから”と断りを入れたんだ。写真家の代わりにアシスタントが撮っちゃう話はよくある事だから、何件かはOKもらえたよ」
 「ちょ…ちょっと、待って下さい」
 妙な話をサラリと流され、瑞樹は慌てて止めた。
 「―――俺の写真を、クライアントに見せた、って…?」
 「そう、先日送って貰った写真だよ。オープンセミナーで使うってのは、真っ赤な嘘。でも、本当の事を言って、全員に“時田さん以外の写真はNG”って蹴られたら、君も気分悪いだろうと思ってね」
 ―――そういう事だったのか。
 おかしいとは思っていたが、やっと納得がいった。
 「つまり、僕側の事情は“即戦力になりそうな後輩を見つけて仕事を譲って、早く身軽になりたい”って訳だ。ここまで、わかるかな」
 わかります、という風に、瑞樹は頷いてみせた。それを見て、時田も頷いた。

 「で、次は、君の事情だ」
 ニッ、と笑った時田は、テーブルの上に放り出した封筒を引き抜き、その中身を取り出した。それは、先日瑞樹が頼まれて送った写真だった。
 さすがに、肩に力が入る。瑞樹は、膝の上に置いた拳に、無意識に力をこめていた。
 「成田君の写真―――技術面は申し分ない。構図も斬新だし、被写体の選択も的確だ。でも、プロの写真ではない。…何が足りないと思う?」
 「……」
 「“プロ意識”だよ」
 意外な言葉に、瑞樹は、ちょっと目を丸くした。
 「こうして見てると、君はとっても冷静で、落ち着いてて、どんな事も緻密に計算して、そつなくこなしそうな男に見える。きっと計算し尽くした完璧な写真を撮るんだろうな、と、初対面の人間なら思うだろう。…ところが、だ。実際の君の写真は、これだ」
 時田は、テーブルにばら撒いた瑞樹の写真を、指でトントン、と指し示した。
 「極端に寄ったアップあり、視点を被写体に合わせて落したアングルあり、カメラを斜めに構えたものもあり―――多くの写真が、それを撮った時の君の感情を表すみたいに、感情的な写真だ。だからこそ、魅力的な写真になっている。ただし―――その写真を見る第三者の目を、君は全く意識していない」
 先日、佐倉に言われた言葉と重なる。まさに、図星だった。
 瑞樹はいつも、撮りたいものしか撮らない。あくまで撮ることが目的で、その写真を誰かに見せるとか売るとか、そういう頭は全くない。自分の満足いく写真が撮れれば、それでよかった。第三者が、その写真を見てどう思うかなんて、撮影中に考えた事は一度もない。
 当然だ。瑞樹はプロではなく、素人なのだから。
 「“生命”は、君が感じたものを強烈に表現していた。僕は、それをほぼ100パーセント、感じ取れた。けど―――残り5人の審査員は、その一部しか感じ取れなかった。君とは違う目を持った“第三者”だから。全員、いい写真だと褒めてたけど、彼らは君の50パーセントだけ感じ取ってそう評価してるんだ。50パーセントでも、他の連中の100パーセントの写真と競り合えるんだから、100パーセント感じ取らせることができたら―――君は、僕より上を行ける」
 ―――時田さんより上を?
 思わず、目を見開いた。冗談かと思ったが、時田の顔は、笑顔ではあるが真剣だった。
 「もちろん、僕にもプライドがあるからね。君を簡単に上になんか行かせないよ」
 時田はニヤリと笑い、ソファに深く沈みこんだ。
 「君は、僕から“プロの視点”を盗めばいい。クライアントの要望を意識すること、読者にうける構図を探ること、気に食わない被写体をいかにして魅力的に見せるか考えること―――どれも、君の撮影ポリシーには反してるだろうが、それがプロってものだ。僕のそばにいて、そういうのをどんどん盗め。その代わり、僕も君から、盗ませてもらう」
 「…時田さんが、俺から盗むものなんて、あるんですか?」
 「あるよ。昔は持ってた気がするのに、いつの間にか失ってたものが」
 「―――何、ですか」
 息を詰めるようにして訊ねると、時田の目が、寂しげにすっと細められた。
 「―――本能だよ」
 「え?」
 「君が、有り余るほど持ってるもの―――撮りたい、自分のものにしたい、どこまでも貪欲に被写体に向かっていく、写真家としての本能。…僕は、プロ意識を得た代わりに、それをどっかに忘れてきてしまったんだ。ここ1年、ずっと悩んでた。だから“生命”は、僕にとっては運命の出会いだったんだよ」
 「……」
 そんな印象は、全くなかった。ここ1年の時田郁夫の作品は、それまで同様、高いクオリティと温かい目線を保っているように、瑞樹には見えていた。スランプなど微塵も感じさせない完成度―――ある意味、それは彼が“プロ”だからできたのだろう。“素人”の瑞樹なら、内面がガタガタになっている時、いい写真は絶対に撮れない筈だ。
 「君が、写真を撮るところを―――本能に従い、獲物を捕らえる瞬間を見てみたい」
 時田が、少し身を乗り出すようにする。見据えられ、知らず体が緊張する。
 「君は僕から“プロ”を学び、僕は君から“本能”を学ぶ―――学んだ結果を自分のものにできるかどうかは、僕たちそれぞれの力次第だ。ただ、僕はチャンスが欲しいし、君にもチャンスを与えたい。半年だ。仕事を持ってる君にとっては覚悟がいる事だと思うけど、考えてみて欲しい」

 チャンス―――…。
 プロだからこそ、失いつつあるもの―――素人だからこそ、足りないもの。それを補うための、半年間。

 グラグラと、心が揺さぶられた。佐倉に仲介を申し出られた時とはまるで違う引力だ。
 「…少し…考えさせてもらってもいいですか」
 渇く喉でなんとか唾を飲み込み、瑞樹はそう言った。そう…考えなくてはいけない事が、山ほどある。
 「もちろん、いいよ。よく考えて結論を出してくれれば」
 少しホッとしたような笑みを見せ、時田は再び、ソファに沈み込んだ。
 「ただ、11月の初旬には結論を出して欲しい。あと1、2週間てところかな」
 「わかりました。でも―――時田さん。1つ確認していいですか」
 どうしても気になる事があって、瑞樹は、若干低めの声で、そう切り出した。
 「今日、蕾夏も連れて来るように言ったのは、何故ですか?」
 「―――ああ。その話が残ってたね」
 本当に忘れていたのか、あえて避けて通っていたのか、時田の表情からは読み取れない。時田は、書類の山から全く同じ冊子を2冊取り上げ、瑞樹に差し出した。
 「1冊は君に、1冊は彼女に。イギリスの写真をコンパクトにまとめた写真集だ」
 「……?」
 「彼女にも来てもらいたいんだ。イギリスに」

 今度こそ、言葉を失った。
 想像だにしなかった話だ。何故ここで蕾夏を連れて行くという話になるのか、全く見当がつかない。
 「理由は2つ―――君と彼女が、どうやってあの“生命”を撮ったのか、その現場を見てみたい。君と彼女で作り上げる世界が見たい。それが、1点。あと1つは―――…」
 時田は言葉を切り、微かに対抗心を滲ませた目で、瑞樹を見据えた。あくまで穏やかに、余裕のある表情で。
 「撮りたいんだ。彼女を」
 「―――え?」
 「被写体として、惚れ込んだ。一度、撮ってみたい」

 無意識のうちに、肩に力が入った。
 何故か瑞樹は、ショックを受けていた。何にショックを受けているのか、自分でもわからない―――ただ、時田が蕾夏を撮りたいと言う、その言葉に激しく動揺していた。
 正体のわからない動揺に、鼓動が速まる。瑞樹は、落ち着きを取り戻そうとするように、冷たくなりかけたお茶を口に運んだ。

 「幸い僕は、ずっとアシスタントも雇わずに来たし、扶養しなくてはいけない家族もいないから、結構裕福なんだ。君に投資するほどの金額は積めないけど、彼女に来る気があるなら、アシスタント兼モデルという名目でそれなりの給料は支払う。その旨、彼女に伝えておいて欲しい」
 「…わかりました」
 なんとか、そう答える。が、最後に思わずつけ加えた。
 「あいつが、今の生活捨ててまで来るとは、思えませんけど…一応、伝えるだけは、伝えます」
 「ハハ、それは君もそうだよね。うん。ふられる覚悟はしてるよ、どちらからもね」
 時田は愉快そうにそう言い、にっこりと微笑んだ。
 「僕は、成田君にも彼女にも一目惚れしたんだ。こう見えて結構強欲な人間だからね。欲しいものは、全部手に入れたい―――君も、彼女も」

 ―――こいつは、一筋縄ではいかない奴だ。
 瑞樹は、時田の穏やかな笑顔を、空恐ろしい気持ちで眺めた。

***

 編集部を出てすぐ、携帯を取り出した。
 蕾夏に電話をしようとして―――やめた。

 ―――何を、どうやって説明すればいい? まだ自分の気持ちも固まっていないのに。

 大体俺、プロとしてやっていきたいのか? 本当に。
 いい写真は撮りたい。もっといい写真を―――その気持ちはずっとある。仕事に費やしてる時間をカメラに費やせたらいいのに、と思う瞬間だってある。けれど―――それと「プロになる」という事の意味は、全然違う。
 この話全部を、蹴る。そういう選択肢もある。

 でも、もし受けるとしたら―――やっていけるか? 蕾夏なしで、半年間。
 モデルになる気も、カメラマンになる気もない蕾夏を、仕事を辞めさせてまでイギリスに来させる訳にはいかない。そうなれば、半年は、離れ離れだ。
 まだ、まともにポートレートも撮れない、リハビリ途中な俺が、蕾夏のいない状態で、本当に撮れるだろうか?

 いや、そんなことより。
 蕾夏と会えない時間を、一人で耐えられるか? ―――やっとお互いが抱えてたものを克服し始めた、この時期に。

 瑞樹は、苛立ったように、髪を乱暴に掻き上げた。自分がどうしたいのか、何を優先したいのか―――頭が、混乱する。
 出版社の自動ドアを抜けた先、雑踏が行き交う平日のビジネス街の一角で、瑞樹は立ち尽くしたまま、何度も自問自答を繰り返した。
 その間、彼の頭をよぎったのは、今朝見た佳那子の泣き顔だった。
 ―――蕾夏も、やっぱり、あんな風に泣くだろうか…。
 今朝は見えなかったその答えが、今は、はっきりと見える気がした。


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