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電話の向こうの蕾夏の声は、やたらと苦しそうだった。
『今計ったら、38度1分だった』
「…お前、今日、よく仕事できたな」
『社内だったから、なんとかね…。客先だったら絶対倒れてた』
そう答えつつも、時折咳き込んでいる蕾夏の様子に、今日は難しい話はやめておこう、と瑞樹は思った。
『あー、苦し…。―――で、今日、行ってきたの? 時田さんとこ』
「ああ、行ってきた。蕾夏が来れなくて、残念がってた」
『何の話だったの?』
「―――それは、また明日。今日のところは、風邪治すことに専念しろよ」
『えー。あとちょっと位は起きてられるよ? 明日は会社休むし』
「まだ月曜日だろ。休みまで長いんだから、ちゃんと治せ」
『…ねぇ。もしかして、悪い話なの?』
時田から手渡された名刺を弄んでいた瑞樹の手が、止まった。
蕾夏の声が、僅かに警戒したようなムードを滲ませる。瑞樹が、話すのを先延ばししてるのを感じ取ったのだろう。
「いや。悪い話じゃない。むしろ、いい話だ…と、思う。多分」
『なら、余計早く聞きたいのになぁ…』
「―――明日、会社帰りに、見舞いがてらそっち行くから。話は、その時な」
『え…っ』
元々、明日、会社帰りに待ち合わせをして、食事でもしながら話そうと思っていたのだ。蕾夏が寝込んでしまったのは予定外だが、むしろ家の方が、落ち着いて話せて良いかもしれない。
「食欲なくても食えそうなもん、差し入れてやるから―――だから、今日は、大人しく寝とけよ」
『―――ん、わかった。…ありがと、瑞樹』
そう答える蕾夏の声を聞くと、ちょっと照れたように、でも幸せそうにふわりと微笑む蕾夏の顔が思い浮かぶ。それにつられるように、瑞樹も微かな笑みを浮かべた。
***
「…一応金貰って行くんだろ? しかも半年となれば、休職扱いは無理だろうなぁ…」
と、久保田は渋い顔で言った。豪快な食べっぷりで、既にスペシャルランチは平らげており、今は優雅にコーヒーを味わっている。
蕾夏より先に久保田に話すのもどうかと思ったが、事が会社に大きく関わることだけに、どうしても意見を聞いておきたかった。それならば、一番迷惑をかけるであろう佳那子に相談するのが先なのかもしれないが、佳那子は結構脆いところがある。まだ決まった話ではないのに、下手に相談して動揺させるのはまずい気がした。
「―――やっぱり、そうだよな。行くなら辞めるしかないとは思ってた」
軽くため息をついて、瑞樹も運ばれてきたコーヒーに口をつけた。そんな瑞樹を見て、久保田はニヤリと笑った。
「辞めてまで行く勇気は、やっぱりない、か?」
「勇気?」
「半年後、プロとして仕事できるようになれるって保証はないもんな。下手すりゃ、この不況の時代に、いきなり無職だ。お前の場合、それなりにSEとしてのキャリアも積んでるし、捨てるのが惜しくなるのは当然だよ」
「…んな事で悩んでる訳じゃねーよ。今の俺がその程度で躊躇する訳ないだろ」
失礼な、とでも言いたげな目で、瑞樹が久保田を睨む。その反応に、久保田もふと思いなおした。
「―――だな。今のお前は、その位でチャンスを棒に振ったりしないよな」
ちょっと頷きつつそう言う久保田の脳裏には、自分の事を“貪欲だ”と表現した瑞樹の事が思い出されていた。
何に対しても“いらねぇ”と無関心だった以前の瑞樹なら、それなりに満足している現状をぶち壊してまで、何かをしようとは思わなかっただろう。が、今の瑞樹は、何かを追い求め、それを手に入れる時の充足感を既に知っている。本当にそれを望むなら、今ある安定した生活を捨ててでも追いかけていくだろう。
「じゃ、何を悩んでるんだ?」
久保田の問いかけに、瑞樹は、頭の中を整理するように、髪を掻き上げた。
「…今辞めたら、会社に迷惑かかるだろ。社内規程でも、辞める場合は3ヶ月以上前に言うのが原則になってるのに、出発まであと1ヶ月位しかない―――クビ同然で辞めるのは構わねーけど、実際、システム部の連中には、相当な迷惑をかける事になる。そういう迷惑をかけてまでプロになりたいのか―――そこを、悩んでる」
「なるほどな。確かに」
久保田も、眉を寄せ、難しい顔をする。
瑞樹は、重要なポストにはついていないものの、システム部では「外すことのできない人間」の1人だ。ただ辞めるだけでも、結構物議を醸すだろう。しかも、こんなに急に辞めるとなれば、システム部はパニックになるのではないだろうか。
暫し、難しい顔のままじっと腕組みしていた久保田だったが、やがて、小さく息をつき、顔を上げた。
「なあ…会社にかける迷惑については、とりあえず頭から追い払った方がよくないか?」
久保田にそう言われ、瑞樹は眉をひそめた。対する久保田は、不思議なほど穏やかな表情をしている。
「お前の“本音”が一番大事だから、とにかくそれを優先した方がいい。でないと、後悔するからな」
「……」
「大学時代、お前、カメラを構えてる時が、一番楽に呼吸してるように見えてた。生きてるか死んでるかわからないお前が、被写体にカメラ向けてる時だけは“生きてる”ように見えた。そういう姿見てきたから、わかるんだよ。お前の、本音。―――撮りたいんだろ? ディスプレイ眺めてる暇があったら、1枚でも多くいい写真が撮りたいんだろ? …なら、プロになって、写真に浸りきった人生送ればいいじゃないか」
―――確かに、そうかもしれない。
久保田の言葉ひとつひとつに、瑞樹は思わず苦笑した。
他人にかける迷惑、捨てなければならない生活、越えなければいけない過去のトラウマ―――そういったマイナスのファクターを取っ払った時、最後に残るのは、まさにそれだった。“もっといい写真を撮りたい”―――瑞樹の本能は、迷いながらも、既に「チャンスを掴む」方を選択している。気づけば、イギリスに行くという選択肢ばかり考えているのだから。
「伊達に付き合い長い訳じゃねーな…」
ちょっと笑いながら言うと、久保田は、当たり前だ、とでも言いたげに、軽く睨んでみせた。
「ま、辞める時もめそうな感じだったら、俺がバックアップするさ。佐々木を宥めるのが俺の会社での役目みたいなもんだから。カズも騒ぎそうだなぁ…。あいつ、藤井さん信仰もあるけど、成田信仰もあるからなぁ」
「は?」
成田信仰?
耳慣れない言葉に、瑞樹がキョトンとした顔をすると、久保田は意味深な笑みを浮かべた。
「あいつ、何かにつけて“成田には負けない”って口にするけど、結局あれって、お前に憧れてるからだよ。好意の裏返しだな。お前になりたい位に思ってるんだから、こりゃもう宗教の域だろ。良かったな。女だけじゃなく、男にもモテて」
「…嬉しくねー…」
不貞腐れたように眉を上げ、コーヒーをくいっとあおる。久保田は瑞樹のその反応に「悪い気はしてない」という本心を見た気がして、思わず笑ってしまった。
「で? これで問題は解決か?」
明るい調子で久保田がそう言うと、瑞樹は逆に、ちょっと浮かない顔をした。
「―――…一番の問題が、残ってる」
「―――藤井さん、か」
久保田の言葉に口では答えなかったが、瑞樹の目は、間違いなく頷いていた。
「確かになぁ…。いくら彼女も誘われてるからって、ホイホイ連れてく訳にもいかねーなぁ。将来のためのファースト・ステップとして行くお前とは、立場が違うもんな」
久保田の顔も、苦々しいものになる。
「あの子なら、待てるんじゃないか? 半年くらいなら」
「…佐々木さんが泣いたら、長野行きをあっさり断った隼雄が、そういう事言うか?」
「―――いや、まぁ…佐々木は、ああ見えて脆いからなぁ…。藤井さんは逆に、見た目よりはるかに気丈だし…」
バツが悪そうに咳払いする久保田の様子に、瑞樹もちょっと笑う。たかが半年、たかが1年―――そう言うのは簡単だ。けれど、その「たかが」が、とてつもない負担になるケースもあるのだ。
「それで―――お前はどうしたいんだ? 連れて行くのか、置いていくのか」
動揺を誤魔化すように、ちょっとぶっきらぼうに久保田が訊ねる。そんな久保田に、瑞樹は曖昧な表情を返した。
連れて行く訳にはいかない。それは、冷静に考えれば、あまりにもはっきりした事実だ。けれど―――それ以外にも、蕾夏を残して行く道に心が傾いているのには、瑞樹の身勝手な事情がある。
―――時田郁夫に、蕾夏を撮られたくない。
撮られたくないだけではない。2人で写真を撮るところも、できれば見られたくない―――馬鹿げた話だが、そんな心理が、今の瑞樹には間違いなく働いていた。
瑞樹と蕾夏にとって、2人で同じものを見つけ、同じものを感じ、その瞬間の感動を共有するあの時間は、恋愛感情を抱く前から特別な時間だったし、今もどんな時間よりも大事にしている。そこに、他人の―――しかも、写真の専門家の視線が加わるのが、なんとなく嫌なのだ。
2人で作る時間を、邪魔されたくない。だから、連れていきたくない。
…けれど。
納得のいく写真を撮るには、蕾夏の存在が不可欠―――それを一番実感しているのは、ほかならぬ瑞樹自身だ。だから、邪魔されたくない、という瑞樹の思いとは裏腹に、連れて行かなくてはいい写真は撮れない、と冷静に判断を下している自分もいる。そう、イギリスでの半年間は、蕾夏と一緒に撮るあの時間が、一番必要になる半年間になるかもしれないのだ。
冷静に蕾夏の将来を考えると、連れて行く訳にはいかない。なのに、冷静に自分の将来を考えると、連れて行くべきだと思える。矛盾した、2つの「冷静な自分」。
そして、「感情的な自分」もまた、矛盾する―――大切なものを守るために、置いていきたい。けれど、そんな独占欲を凌駕するほどに―――苦しい。蕾夏のいない半年間を考えると。
「―――俺って、矛盾してんなぁ…」
思わず、ため息と共にそう呟く。
「お前に限った事じゃないさ。―――恋愛なんて、矛盾だらけだ」
自らを省みての言葉だろうか。呆れたような笑いを浮かべた久保田は、そう言って肩を竦め、残りのコーヒーを飲み干した。
***
呼び鈴を鳴らすと、ほどなくして玄関のドアが開けられた。
「…なんだ、寝てなかったのか?」
出迎えた蕾夏の服装が、寝間着ではなく部屋着にしているジャンパースカート姿なのを見て、瑞樹は眉をひそめた。
「うん。午後になって熱が下がったの。まだ咳出るし、あんまり食べてないからふらついてるけど、頭痛とか無いから楽だよ」
実際、蕾夏の顔色は普段と変わりない。良かったな、という風に頭をポンポン、と撫でると、くすぐったそうな笑顔を見せた。
「これ。風邪でも、うどんなら食いやすいかと思って」
部屋に上がるとすぐ、瑞樹はそう言ってコンビニの袋を蕾夏に手渡した。中には、銀色のアルミ容器に入った鍋焼きうどんが2人前入っていた。具やだしをセットして火にかければ、結構おいしい鍋焼きをすぐ食べられるので、蕾夏のお気に入りなのだ。
「うわ、ありがと〜。ちょうど食べたいと思ってたんだ」
「すぐ食う?」
「うん。…あ、でも、食べる前にさ」
2人分の鍋焼きうどんの入った袋を流し台に置いた蕾夏は、風邪のせいか幾分いつもより緩慢な身のこなしで振り向いた。
「聞かせてよ。昨日の、時田さんとのデートの話」
いきなり、本題。
後でゆっくり話そうと思っていた瑞樹は、一瞬うろたえてしまった。
「―――食事の後じゃ駄目か?」
「? どうして?」
ちょっと咳き込みながら、蕾夏が小首を傾げる。
「結構、長くなると思うから」
「私は平気だよ、夕飯遅くなっても。…あ、瑞樹は、おなか空いてるか…」
「いや、俺も平気だけど…」
ちょっと困ったように髪を掻き上げながら、瑞樹は考えを巡らせた。後回しにした方がいい気もするが、丸1日焦らされていた蕾夏の気持ちもわかる。自分が蕾夏でも、気になって仕方ない話を、何よりもまず先に片付けたいと思うだろう。
はーっ、と息を吐き出すと、瑞樹は、思い切って本題を切り出した。
「―――時田さんに、半年間、一緒にイギリスに行かないかって言われた」
蕾夏の目が、びっくりしたように大きく見開かれてた。
***
鍋焼きうどんは、完全に後回しになった。今は、冷蔵庫に収まっている。
瑞樹は、時田から提示された条件や事情を、詳しく蕾夏に語って聞かせた。いくつか書類や資料を貰ってきているので、それをガラステーブルの上に並べながら。
蕾夏は、終始目を丸くしたままの顔で、時折頷きながら話を聞いていた。最初こそちょっと疑わしげな表情だったが、事情をよく理解するにつれ、その目がだんだんキラキラ輝いてくる。瑞樹が写真の世界で生きて行く事を、瑞樹本人以上に望んでいた蕾夏だから、時田の話の先にある「可能性」に、胸を躍らせているようだ。
「―――信じられない…」
一通りの説明を聞いた蕾夏は、そう言って、大きく息をついた。興奮しているのか、頬がうっすら赤く染まっている。その熱を抑えるように、両頬に手のひらを当てる。
「ほんと、信じられない…! 人生最大のチャンスなんじゃない? これ。プロのカメラマンが、しかも瑞樹が一番好きな写真家が、向こうの方からアシスタント役を依頼してくるなんて…」
「…間違いなく、最大のチャンスだよな」
「それにさ、現実的に“収入”の面を考えてみても、これって凄い好条件じゃない? この書面の通りだと、普通の会社勤めとさほど変わらない給料が貰えるってことでしょ?」
「今より若干下がるけど、アシスタントとしては破格だと思う」
「そうだよね…。ほら、この間スタジオ見学した時会った、須藤さん。あの人、アシスタントなんて給料の事考え始めちゃったら、絶対勤まらない仕事だって言ってたもの」
瑞樹もスタジオでアルバイトしていた頃、よく先輩格のスタジオマンに、アシスタントの実態については聞かされた。いわゆる「弟子入り」に近い形だから、収入の面ではかなり厳しいと。下手にアシスタントになる位なら、スタジオ付きのカメラマンのままでいた方がいい、と誰もが苦笑していた。
その点でいくと、時田が提示した条件は、とてつもなく魅力的だ。今より収入減になるのは否めないが、それでも、アシスタントという立場を考えたら、こんなおいしい話はない、という位に、好条件なのだ。
「よっぽど時田さんに見込まれてるんだね、瑞樹。凄いなぁ…」
感心したような声でそう言った蕾夏は、時田から預かった書類やイギリス関連の資料を、興味深そうな目で眺めた。
「勿論、受けるよね、この話」
「――― 90パーセント、受ける気でいるけど…最終的には、来週の半ば位に返事する約束にしてる」
そう瑞樹が答えると、蕾夏は不思議そうな目を向けてきた。
「100パーセントじゃないの? 残り10パーセントって、何?」
「会社の事とかあるしな…」
「そっか。半年となると、休職扱いは無理だもんね。第一、お金貰うってことは、ただの旅行じゃないし…」
そう言った蕾夏は、ふとある事に気づいたらしく、ふいに表情を曇らせた。
「―――…あ…そっか…」
「え?」
「瑞樹がイギリスに行っちゃったら、半年間、会えないんだね―――舞い上がっちゃってたから、気づかなかった」
「……」
蕾夏の表情が、複雑なものに変わる。瑞樹の表情も、それにつられるように、少し暗くなった。
半年、会えない―――気づいてしまった事について、蕾夏は考えを巡らせ始めているようだ。話をこのまま切り上げた方が、懸命なのかもしれない。でも…。
気は進まないが、時田に「蕾夏に伝える」と約束したことだ。瑞樹は、意を決して、口を開いた。
「―――あのな、蕾夏」
少し首を傾げるようにして顔を上げた蕾夏の前に、時田から預かってきた書類の最後の1枚を差し出した。
「実は、お前も誘われてるんだ。時田さんから」
蕾夏の目が、瞬時に、キョトンと丸くなった。
少し眉を寄せ、瑞樹が差し出した書類を受け取り、それに目を落す。そこに書かれているのは、蕾夏に提示された契約条件だった。目でその内容をざっと追った蕾夏は、ますます眉を寄せた。
「―――な…なんか…、意味、わかんないよ、これ…」
困惑しきった目で、蕾夏は、書類と瑞樹の顔を何度か見比べた。
「なんで? なんで私が、時田さんのアシスタントやらなきゃならないの?」
「…アシスタントってのは、ただの名目だろ、きっと」
「じゃあ、なんで…」
「―――時田さん、多分、お前が欲しいんじゃないかと思う」
その言葉に、蕾夏が固まった。
「―――は??」
「と言っても、あくまで“写真を撮るために”だけどな。―――お前を誘う理由は2つあるって、時田さんが言ってた。1つは、俺と蕾夏が2人でどうやって写真を撮ってるのか、その現場を直に見てみたいから。で、もう1つは―――お前を撮ってみたいから」
「……」
「…わかる気がする。俺、新宿で最初にお前見た時、真っ先に思ったのが“いい被写体だ”って事だったから。時田さんと俺、どこか感性が似てるんだと思う。あの人も、お前から、何かインスピレーションが欲しいのかもしれない」
「…や…やだ、そんなの、無理だよ」
困惑したような弱々しい笑みを浮かべ、蕾夏は虚ろに首を横に振った。
「時田さんが私に何を期待してくれてるのかわからないけど、多分、無理だよ。いくら瑞樹と感性が似てたとしても、時田さんは瑞樹じゃないんだもの。それに―――私、瑞樹以外の人に撮られるのはイヤ。時田郁夫の写真は好きだけど…あの人に撮られたいとは思えないよ」
「……」
にわかに顔が熱くなった気がして、瑞樹は口元に手を置いて、視線を逸らした。蕾夏からこう言われると、なんだか愛の告白に似た気恥ずかしさがある。
そんな瑞樹をよそに、蕾夏は、ちょっと困ったように眉を寄せたまま、再び書面に目を落とした。
「―――ねぇ、瑞樹」
細かいところまで書面を読み終わった蕾夏は、不意に顔を上げ、やっと平常心を取り戻した瑞樹に目を向けた。
「時田さんの思惑はどうあれ、これって、私をアシスタントとして半年間雇う、っていう書類だよね?」
「ん? ああ、まぁな」
「…だったら、私も行こうかな」
あっさりと。
やたらあっさりと、蕾夏はそう言って微笑んだ。瑞樹は、思わず眉をひそめ、蕾夏の顔を凝視した。
「行こうかな、って―――イギリスにか?」
「うん。実はね―――さっき、半年間会えないって気づいた時、だったら私もついてっちゃおうかな、と一瞬思ったの。でも、関係者じゃない私がノコノコついてくのって、時田さんからしたら迷惑だろうな、と思ったり、自費で半年間はかなりきついよな、とか思ったり―――でも、時田さんが誘ってくれてる上に、アルバイト料も出るでしょ。凄くありがたい話かもしれない」
「……」
「それにね。この間、須藤さんから話聞いて以来、アシスタントの仕事ってちょっと興味あったんだ。いつも瑞樹の撮影にくっついてってるから。プロの現場って凄く興味あるし―――半年間、そういうの体験するのも悪くないんじゃない?」
―――お前…そんなノリで、今ある生活捨てて、イギリス行く気なのかよ…?
あまりにもあっさりとした、あまりにも安易な考えの、蕾夏のセリフ。瑞樹は、半ば呆れたように、蕾夏の顔を凝視していた。
嬉しい筈なのに―――自分と一緒にいたいと思ってくれる蕾夏を愛しいと思うのに、何故か瑞樹は、今の蕾夏に苛立っていた。
―――いや、違う。
蕾夏にあっさりとこんな事を言われると、大人の分別で押さえつけている安易な自分が、顔を出してしまいそうになる。離れたくないと言って、蕾夏の人生を完全に無視してイギリスに連れて行こうとするバカな自分が表に出てこようとする。そのことに苛立っているのだ。
「…お…まえ、なぁ……」
ため息混じりに
「ちょ…っ、瑞樹?」
「―――これ、俺が返事する時、時田さんに突っ返しておくから」
その言葉に、蕾夏は驚いたように目を丸くした。憮然とした瑞樹の表情に不安を覚えたのか、膝歩きでガラステーブルを回り込んで、瑞樹のすぐそばに座りなおす。
「ど…どうして?」
「お前、何も考えてないだろ」
「考えてるよ?」
「だったら、会社はどうする気なんだ? 俺と同じで、半年も留守にするなら、お前も辞めるしかないだろ。しかもあと1ヶ月しかないから、お前も俺も会社には滅茶苦茶迷惑かけるんだぞ。わかってんのか?」
瑞樹の、どこか怒ったような声に
「俺はいいよ、自分の将来に賭けるために、今の仕事捨てるんだから。失敗して無職になっても、それは自分のためだし自分のせいだから、別に問題はない。でも、お前は違うだろ。お前は、カメラマンになるつもりも、モデルになるつもりもないだろ。なのに仕事捨てて―――半年後、どうする気なんだよ」
「……」
「それに、親になんて説明するんだ? いくら親父さんたちがお前に理解がある方だって言っても、こんなの認めると思うか? 俺と一緒にいたいがために、会社も辞めてイギリスまでついてくなんて―――…」
一気にまくしたてた瑞樹は、そこまで言ったところで、ようやく蕾夏の様子に気づき、言葉を切った。
責められた、と思ったのか、蕾夏はうな垂れてしまっていた。寂しげな、悲しげなその姿に、つい今しがたまで体の奥からせり上がってきていた苛立ちが、まるで熱が引いてくみたいにどこかに追いやられる。
「―――ごめん」
呟くように謝ると、蕾夏は、うな垂れたまま首を小さく横に振った。いたたまれず、その頭を労わるように撫でた。
「ごめん…悪かった。きつい言い方して」
「…ううん…瑞樹がそう言うのも、当然だと思うから、いい。でも―――…」
ゆっくりと顔を上げた蕾夏は、真摯な面持ちで、瑞樹を見上げた。
「―――でも、私には、今の仕事とか半年後の生活より、今一緒にいることの方がずっと大切に思える。それって、そんなにおかしい事…?」
瑞樹を見つめるその目に、瑞樹の心臓が、ドクン、と音をたてた。
真っ直ぐに向けられる、蕾夏の目。おととい、時田からの電話の後、組み敷いて見下ろした先にあった蕾夏の目も、やっぱりこの目だった。
蕾夏が、過去の呪縛を解いて、思いの丈をストレートにぶつけてくる時に見せる、目。日頃の無邪気さやそれと対照的な凛としたムードが影をひそめたその目は、少し潤んでいて、僅かに甘さを感じさせる。瑞樹の目には、それが扇情的にさえ映った。
魅入られる―――全身に震えがくる位に。放したくなくなる。蕾夏の将来がどうなろうが、誰に迷惑がかかろうが、そんな事どうでもよくなってしまいそうになる。全部無視して、連れて行きたくなってしまう。
けれど―――そんな愛し方は、間違っている。相手を求めるあまり、それ以外の大事なものをすっかり見失ってしまうような恋愛、絶対にしたくない。
そんな恋愛をしたら、同じになってしまう―――妻という立場も、母という立場も、彼女をまだ必要とする幼い命をも蔑ろにし、いろんなものを見失っていた、母と。
あんな愛し方だけは、絶対にしない―――…。
瑞樹は、一度きつく唇を引き結ぶと、蕾夏を落ち着かせるように、その両肩に手を置いた。
「蕾夏。―――さっき俺、90パーセント、受ける気でいる、って言ったよな?」
「…うん」
「残り10パーセント、お前に託す」
瑞樹の言葉に、蕾夏は怪訝そうに眉を寄せ、息を詰めた。
「お前がもし、どうしても半年間離れていられる自信がなければ―――離れたくないって思うんなら―――俺、この話を蹴る」
「―――え…っ」
「俺の望みは、お前が笑ってくれることだから―――お前が望む道に進みたい」
蕾夏の瞳が、動揺したように大きく揺れた。
瑞樹の手の下で、蕾夏の肩が僅かに身じろぐ。呼吸も瞬きも忘れてしまったかのように、蕾夏は瑞樹の目を見つめ続けていた。
「…3日声聞かないだけで眠れなくなる俺が半年間耐えられるのか、って自分でも思う。でも、お前が何が何でもプロになれって言うなら、死に物狂いで耐える」
「……」
「お前が、他の何よりも一緒にいる時間を少しでも増やす事を優先してくれって言うなら、今回の話を蹴る位、なんてことない。大きなチャンスなのは事実だけど、本気でプロになりたいなら、他にいくらでも道はある。そうだろ?」
蕾夏は、言われた言葉をゆっくりと噛み砕いて飲み込むみたいに、暫く黙って瑞樹の目を食い入るように見つめ続けていた。やがて視線を外し、少し考え込むように眉根を寄せると、再び瑞樹の目を見つめてきた。
「一緒に行く、っていう選択肢は、ないの…?」
瑞樹は、答えなかった。
そういう道が、ない訳ではない。が―――そんな道を選ばせる訳にはいかない。瑞樹といる為に、そして瑞樹の夢のために、蕾夏が築いてきたものを捨てさせる訳にはいかない。
無言の瑞樹に、その選択肢は絶対に受け入れてもらえないと悟ったのだろう。蕾夏は、沈んだような面持ちで、唇を噛んだ。
「―――行くな、なんて、言えない」
蕾夏が、ぽつりと、そう言う。
「イギリス、行って欲しい。どうしても。…でも…半年も―――…」
「…たった半年、だろ」
慰めるように、心にもない事を口にする。すると、その言葉に引きずられたみたいに、蕾夏の目が一気に潤みだす。
「…たった…半年…」
自分に言い聞かせるみたいに、蕾夏が呟く。
「そう―――たった、半年だ」
「…そう、だよね―――たった、半年だよね…」
瞬いたと同時に、涙がすっと頬を伝う。蕾夏は、大きく息を吐き出すと、ゆっくりと目を伏せた。
「―――いつの日か、瑞樹の写真集が本屋さんに並ぶのが見たい。…浅草で一緒に写真撮った日から、それが私の、一番の夢になったの。―――だから―――…だ…から―――…」
その先は、声に、ならなかった。
声を殺して泣く蕾夏がいたたまれなくて、瑞樹はその小さな肩を抱きしめた。
まだ少し熱っぽい頬を、瑞樹の胸に押し付けるようにして、蕾夏は泣き続けた。縋るように瑞樹のシャツを握りしめる細い指が、それでも離れたくないと言ってる気がした。
「―――…ごめん…泣かせて」
腕の中で、蕾夏が小さく首を振る。けれど、その気持ちを表すみたいに、より強くしがみついてくる。
「たった、半年だけだから」
―――半年も。
その本音は、無理矢理飲み込んだ。長い人生の、たった6ヶ月だけのこと―――なのに、なんでそう思いきることができないんだろう?
シャツ越しに感じる蕾夏の熱に侵食されたように、瑞樹も、抱きしめる腕に、より力をこめた。たった、半年―――そう思えるように。
「―――…でも…それで瑞樹は、本当に写真が撮れるの…?」
声を殺して泣く中、蕾夏が、ほとんど聞き取れないほど小さな声で、そう呟く。あまりにも小さな声だったので、その声は瑞樹の耳にも届かなかった。
―――瑞樹がこの賭けに勝つためには、私が一緒にいる必要があるんじゃないの…?
私が築いてきたものを、私が大事にしている人たちを、そしてこの先の私を大切にしたいと思うあまり、瑞樹は自分の可能性の芽を摘んでしまっているんじゃないの…?
連れて行く訳にはいかない、という瑞樹に、一体自分は何をしてやれるんだろう? ―――瑞樹の腕の中で泣きながら蕾夏が考えていた事は、そんなことだった。
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