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no099:
(さい)は投げられた
-odai:95-

 

ソレゾレノ道ノ、ソノ先ヘ。

―99.10―

 「おーい、カズ? なんか、顔色が微妙だぞ。もうやめといた方がよくないか?」
 引きつった笑顔の久保田が、なるべく神経を刺激しないよう、努めて穏やかな声でそう諭す。
 が、和臣はその声を無視して、通りかかった店員にモスコミュールを追加注文してしまった。頬杖をついて、まだ3分の1程度残っているモスコミュールのグラスを弄びながら、今日何度目かのため息をつく。
 「…いいんです。飲ませて下さい。オレ、今、べろんべろんに酔っ払って救急車で運ばれたい気分なんです」
 ―――いっちゃってるな、こりゃ…。
 なんとかしろよ、という風に、久保田が瑞樹の脇腹を肘で小突く。どうしろって言うんだよ、という風に、瑞樹が小突き返す。結局、なんともできずに、真っ暗なムードでちまちまとモスコミュールを飲む和臣を眺めるしかなかった。

 今日は3人とも土曜出勤だった。ほどよい時間に仕事も終わったので、夕飯を食べがてら、揃って居酒屋に飲みに来ている。
 月曜日に時田から転職のお誘いを受けてから、まだ5日。覚悟を決めてしまえば、瑞樹自身は案外この急展開にも飄々としていることができた。
 まだ公にはしていないが、部長と佳那子には内々に話をした。当然2人とも相当渋ったが、久保田のバックアップと『フォト・ファインダー』にかなりの大きさで掲載された写真が功を奏し、残作業の調整が全てクリアできればOK、という了承を取りつけられた。調整にかなり四苦八苦してはいるが、来週半ばには時田に返事ができそうだ。
 一番問題だった点の解決の目処が立ったので、今から1時間ほど前、瑞樹と久保田は和臣に事の次第を話して聞かせたのだが、これがまずかった。和臣は、久保田が危惧したような「騒ぐ」状態にはならなかったが、その代わり極端に落ち込んでしまったのだ。

 「なんか、人生の目標を見失った感じ…」
 「…なんだそりゃあ。カズの人生目標は瑞樹なのか?」
 呆れる久保田を力なく睨んだ和臣は、チラリと瑞樹の顔を見、またため息をついた。
 「こんなフラフラした人間になりたい訳ないでしょう」
 「―――カズ。お前、俺に喧嘩売ってんのか」
 「ほんとの事だろっ。成田は“地味に堅実に生きる”って事ができないんだよっ。会社辞めるのもさっさと決めちゃうし、辞めるとなっても全然悲しそうでも済まなそうでもないし! どうせオレはガキだよ。地味で堅実な道しか選べない、ギャンブルが苦手な弱気な奴だから、成田みたいな生き方は選べないよっ。だから、そーゆー涼しい顔されると腹たって寂しくなって落ち込んできちゃうんだよっっ!」
 「―――…」
 …支離滅裂…。
 2つ3つの話がごちゃ混ぜになっているので無茶苦茶ではあるが、なんとなく意味はわかった。一言で言うなら「癪に障る」なのだろう。多分。
 放っておいた方が賢明だな、と、飲み食いに集中しようとした時、瑞樹の携帯が震えた。慌てて、胸ポケットから取り出す。
 「―――はい」
 『瑞樹?』
 「ああ、蕾夏か。お疲れ」
 蕾夏も今日は、納品作業で出勤している筈だ。瑞樹は、目だけで久保田に断りを入れ、騒がしい店内を避けるべく席を立った。
 「風邪の具合は?」
 『ん、もう大丈夫。今朝測ったら完全に平熱だったから。今、納品先から帰ってる途中。瑞樹は?』
 「隼雄やカズと飲みに来てる。間に合うようなら、お前も来る?」
 『うー…、間に合いそうにないから、遠慮しとく。…あの、それでね』
 急に、蕾夏の声が、済まなそうな色合いになる。
 『実は、明日なんだけど―――急用、入っちゃったんだ。だから、ちょっと会えないと思う』
 「急用?」
 明日は2人で、久しぶりに浅草を撮りに行く予定にしていた。瑞樹以上に蕾夏が楽しみにしていた撮影だし、昨日の電話でも予定が入りそうな話は何も言っていなかったのに、急にどうしたのだろう?
 「今日の納品で、何かあったのか?」
 『そうじゃないんだけど―――ごめん。絶対この埋め合わせはするから』
 「―――なんだよ。気になるだろ」
 『うーん…、詳しい話は、また今度ね』
 曖昧な返事に、思わず眉をひそめる。数日前、あれだけ泣かせてしまっただけに、不安を感じずにはいられない。
 蕾夏は、イギリス行きの話をした当日こそ暗いムードではあったが、昨日の電話などではすっかり蕾夏らしい明るさを取り戻していた。でも―――本音を笑顔で見事に隠すことができる蕾夏だけに、内心はどうだかわからない。もし「会いたくない」と思ってるのだとしたら―――それが一番辛い。
 「…わかった。じゃあ、明日は適当にその辺撮りに行く。浅草は、いつにする?」
 本心を探るべくそう訊いてみると、蕾夏の声が、ほっとしたようなトーンになった。
 『―――良かった。1人で撮りに行っちゃうかと思った』
 その返事に、今度は瑞樹がほっとする。
 「…んな訳ねーだろ。…で? どうする?」
 『そうだなぁ…3日にでも行かない? 文化の日で休みでしょ。何か予定ある?』
 「いや、暇。…わかった。3日な」
 『うん―――あっ、電車きた。じゃ、またね』
 瑞樹の返事を待たずして、電話は切れた。
 別に避けられている訳じゃなく、本当に急用があって会えなくなったようなので一安心だが…。
 ―――結局、何なんだよ、急用って。
 訝しげに眉を寄せたまま、瑞樹は、手の中の携帯電話を睨んだ。

***

 ―――怪しんでたよなぁ、瑞樹…。
 変な誤解を与えてしまったんじゃないだろうか、と、少し不安になる。が、事前に「急用」の内容を話せば、多分引き止められてしまっただろう。
 「あら。蕾夏、りんご剥くの速くなったわね」
 既に3人分のりんごが綺麗に並べられているデザート皿を見て、昼食の後片付けを終わらせた母が、少し感心した声をあげた。
 「…今更、りんご剥いただけでそんな声出されるのって、ちょっと複雑なんだけど…」
 「だってねぇ。あんたって子は、成人するまで、ほとんど包丁使わずに生きてきた子だったから。一人暮らししても、どうせレトルトで生きてくんじゃないの、ってお父さんとよく噂してたのよ」
 「2人して、そんな噂話してるの? やだなぁ…」
 ちょっと唇を尖らせるが、内心は複雑な心境だ。母は忘れてるかもしれないが、実は蕾夏も、昔はそれなりに母を手伝って包丁を使ったりしていたのだ。
 「あの日」から、果物ナイフや包丁を握れなくなって―――恐々でも握れるようになるまで、5年かかった。そのせいで、蕾夏はすっかり「炊事をさっぱり手伝わない不肖の娘」扱いだ。
 「お父さーん、りんご剥いたよ」
 りんごの乗った皿を手にダイニングに戻ると、父はまだ、蕾夏が持ってきたアルバムを真剣に見ていた。
 蕾夏が好きな、淡い緑色をした表紙―――蕾夏お手製の「瑞樹の写真集」。瑞樹本人には見せたことがあるが、第三者に見せるのは、これが初めてである。
 がたん、と椅子を引き、父の真向かいの席につくと、蕾夏は、父の表情を窺うように、少し首を傾けた。
 「…どう? 感想は?」
 「―――うん…。いや、なかなか面白いなぁ」
 ちょうど最後の1ページを見終わったところだったらしく、父はほっと息をつき、アルバムを閉じた。最近は老眼気味なので、本を読む時は眼鏡をかけているらしい。見慣れない眼鏡姿の父が、眼鏡を取っていつもの顔に戻った。
 「蕾夏が瑞樹君の写真につけてる、詩、っていうか、エッセイ、っていうか―――相変わらず観念的だけど、なんだか瑞樹君の写真にはマッチしてるね」
 「そう? 良かった」
 「やっぱり、2人はどこか似てるんだなぁ―――…」
 そう言って父は、ダイニングと続きになっているリビングの、テレビボードの上に目を向けた。
 そこには、あっさりした細工の写真立てが飾られていて、中にはサービスプリントサイズの“生命”が入っている。瑞樹が時田賞を貰った時、父のたっての希望で、瑞樹がそのサイズに現像して送ったのだ。
 「シンクロしてる、っていうのかな―――瑞樹君と写真撮りに行った時もね、ふとした瞬間に、なんだか蕾夏がそばにいるような錯覚に陥ったんだよ、何度か。ああ、こんなシーン、蕾夏なら喜ぶだろうなぁ、と思う場面に出会うと、瑞樹君、足場が悪い所でも猛ダッシュで撮りに行ってたからね。きっと感性が似てるんだろうなぁ…」
 猛ダッシュで撮りに行く瑞樹など、見たことがない。ちょっと驚いたように目を見張った蕾夏だったが、次の瞬間、ああ、と納得がいった。
 ―――そうか。2人で撮りに行く時は、いつも私が先に猛ダッシュで走って行っちゃうからか。
 「けど、寂しくなるわねー、瑞樹君がイギリス行っちゃうと。半年でしょ?」
 洗い物を終えた母も、父の隣の席についた。
 「娘のカレシが家に遊びに来る、って体験、早くしてみたかったのに。蕾夏、彼が行っちゃう前に、一度連れてらっしゃいよ」
 「…何それ。なんで娘の彼が遊びに来るのが嬉しいの?」
 「あら、だって、ときめくじゃないの」
 だから、なんで?
 ―――と訊く方が間違いだ。母は、なんとなく楽しい、ちょっとときめく、でいろんな事を楽しむ人なので、“娘の彼氏”という響きそのものにときめいてるのだろう。理由もなく。
 瑞樹と付き合っている話は、翔子の一件が解決した後あたりに電話で話したが、その時の反応もちょっと変だった。母の第一声は「そうなの? あ〜、よかった〜。瑞樹君、お母さんの初恋の人に声が似てるから、蕾夏が逃がしちゃったらどうしようかと思ってたのよ〜」だ。
 そして、父の反応はというと、もっと変だった。「え? 彼氏じゃなかったの? じゃあ今までって何だったんだい?」―――この父の反応を瑞樹に伝えた時、彼は混乱を抑えるように頭を抱えてしまった。「だったら親父さん、娘の恋人だと思ってる男を、城ヶ島まで誘ったのかよ…ありえねー…」と言う瑞樹に、蕾夏も内心、ありえない、と相槌を打っていた。
 それにしても―――持論を思い入れたっぷりに話すけど時々訳がわからない父に、本人しかよくわからない理由でなんとなく楽しめる母。
 「…これで“観念的”じゃない人間が生まれる訳、ないんだよね…」
 「え?」
 「…ううん、なんでもない」
 キョトンとした顔でシャクシャクとりんごを頬張る母に、蕾夏は苦笑を返した。
 「瑞樹君の会社の方とかは問題ないのかい?」
 「うん。大学時代からの先輩が同じ会社にいて、いろいろ力になってくれてるみたい。比較的円満に退職できそうだって言ってた」
 「そうか。なら良かった。後味の悪い思いで転職するのは辛いからねぇ」
 そう言って、父もりんごを頬張る。並んで食後のデザートを食べている両親を暫し眺めた蕾夏は、意を決して、少し姿勢を正した。

 「―――ねぇ、お父さん、お母さん」
 急に改まった口調になった蕾夏の様子に、両親が不思議そうな目を向ける。
 「実はね。私も、時田郁夫から誘われてるの。イギリスに行かないか、って」
 「……えっ」
 驚いたような目で蕾夏を凝視した両親は、やがて、2人で顔を見合わせた。先に口を開いたのは、母の方だった。
 「あの…なんで、蕾夏まで? 何のために誘われてるの?」
 「名目は“アシスタント”だけど―――私、経験値ゼロだから、多分行っても役に立たないと思うし、それは時田さんも知ってると思う」
 「じゃあ、何で?」
 「―――正直言うと、私にもよく、わかんない。ただ…お金を払ってまで連れて行こうと考える位だから、私の持ってるものに、自分のプラスになる“何か”を感じてるんだと思う。自分の写真のために…」
 「…瑞樹君みたいに、かな?」
 不意に、父がそう、言葉を挟んだ。不思議なくらい、神妙な面持ちで。
 「―――そう。瑞樹みたいに。時田さん、カメラマンとしての瑞樹の才能に惚れこんでるのは勿論だけど、あの“生命”の中にあるその“何か”に、凄く魅力を感じてるみたい。その一部が、私なのかもしれない」
 蕾夏の口元が、無意識のうちにほころんだ。どうやら父は、理解してくれそうだ。瑞樹と蕾夏の間にある、説明のつかない“何か”を。その様子に後押しされるように、蕾夏は思い切って本題を切り出した。

 「私、イギリスに行きたいの」

 母の目が、大きく見開かれる。父も、少し目を丸くした。
 唖然とする両親のうち、先に我に返ったのは、今度も母の方だった。
 「イギリスに行きたい、って―――仕事は? 会社はどうするの」
 「辞める。瑞樹んとこと同じで、うちも半年間も休職は認めてくれないと思うから」
 「じゃあ…半年後、帰ってきた時は? 瑞樹君がプロとして活動し始めても、蕾夏は仕事がないままになっちゃうじゃない。今、あなたの世代でも、凄い数の人が失業してるのよ。知ってるでしょう?」
 「うん…知ってる。再就職するの、きっと大変だと思う。でも私、SEの仕事にこだわってないし、イギリス行ってる間に、別のなりたいものを見つけるかもしれないもの。今の仕事に不満はないけど、未練もないよ」
 「…なぁ、蕾夏。下世話なことを言うようだけど…」
 2人のやりとりを見ていた父が、少し眉を寄せて口を開いた。
 「蕾夏がイギリスに行きたいって言うのは、つまりは―――瑞樹君と半年離れるのが嫌だからなんじゃないか? もしそうなら、少し冷静になった方がいい」
 「……」
 「恋愛は大事だよ。お前は、表面は親しげにしながら内面はいつも他人を警戒してるようなところのある子だったから、瑞樹君みたいな存在は得難いと思う。それは僕にもよくわかる。でも―――恋を大事にするあまり、他の大切なものを見失ってしまうのは愚かなことだろう? 己を見失う恋なら、しない方がマシだ。きっと彼も、そう言うよ」
 「―――うん。わかってる。…瑞樹はね、一緒にいたいか、チャンスに賭けて欲しいか、どっちか選べって言った。一緒にいたいなら、話を蹴って日本に残る、チャンスに賭けて欲しいなら、1人でイギリスに行く。私が選んだ方の道を行くって。…一緒に行く、という選択肢は、与えてくれなかったの。理由は、お父さんが言ったのと同じ事だと思うよ」
 穏やかにそう答える蕾夏を、父も母も、ますます驚いた目で見つめた。
 「でもね。私、これだけははっきり、断言できる。―――私は、瑞樹の恋人だから行きたい訳じゃない。時田さんのためでも、瑞樹のためでもなく、私自身のために行きたいの。イギリスに」
 「…離れたくないからじゃ、ないの?」
 「違うよ」
 動揺する母に、蕾夏は自信を持ってはっきりそう言いきった。
 「―――イギリスへ行く話を聞いてから、ずっと考えてた。今の私が一番大切にしたいものは何か、って。そしたら、どんなに考え直しても、1つの物しか思い浮かばなかったの―――それは、そのアルバムなの」
 「…これ?」
 父が、まだ目を丸くしたまま、手元にある淡いグリーンのアルバムに目を落とす。蕾夏は無言で、大きく頷いた。
 まだアルバムを見ていなかった母が、オロオロとそのアルバムを父の手元から引き寄せる。遅ればせながら、中身に目を通し始めた。
 「綺麗な花が咲いてるのを見つけた時、私が、ああ、この花、今が一番綺麗な時だな、撮ってあげたいな、って思うでしょ? そうすると、そのタイミングで、瑞樹がシャッターを切るの。夕日を見て感動すると、その気持ちが最高潮に達した時、やっぱり隣で瑞樹がシャッターを切ってる―――現像された写真を見たら、確かにその時、私が見たもの、感じたもの、全部その写真に写ってる。まるで私自身がシャッターボタンを押したみたいに」
 「……」
 「時田さん、言ってた。“生命”って写真には、私と瑞樹にだけわかる言葉がある、対話してる写真だ、って。私というファインダーを通して見た世界を、瑞樹が写真に撮ってるって。―――そこにある写真は、確かに瑞樹が撮った“瑞樹の写真”だけれど、“私の写真”でもあるの。間違いなく」

 毎日毎日、考えた。
 何故、たった半年、と割り切れないのか。ただ寂しいだけなのか。自分も一緒に行かなくてはと思うのは、単なる恋人のエゴに過ぎないんじゃないか。…そんな風に。
 でも、アルバムを見ていたら、わかった。
 ―――これは、“瑞樹と私の写真”だ。
 私1人がカメラ持って行っても、これは撮れない。でも、瑞樹1人で行っても、これは撮れないだろう。
 2人で作った、2人だけが表現できる世界―――そう、いつだってそうだった。瑞樹に恋愛感情を抱く前から。2人で同じものを見、感じ、それを写真という形に残すあの瞬間が、どんな時間より大切。
 瑞樹は、イギリスに、写真を撮りに行く。
 だったら、私も、一緒に行く。
 一番、自然なこと。今、一番やるべきこと。半年後の自分なんて、半年後に考えればいい。その先の自分なんて、それこそ今考える必要はない。
 未来の自分のために、今の自分を捨てたんじゃ、意味がない。

 「会社には、迷惑かける。家族でも、仕事上のパートナーでも、将来を約束した相手でもない人と行く訳だから、モラル的にも問題視する人がいるだろうって事も十分理解してる。だから、どうしても駄目だって言うなら、勘当される覚悟もしてるの」
 「ちょ…っ、ちょっと、蕾夏っ! 勘当だなんて、何バカな事言ってるの!?」
 慌てふためく母の横で、父は、神妙な面持ちのまま、蕾夏をじっと見据えている。
 蕾夏も、父の目を真正面から捉えていた。これを、誰よりもわかって欲しいのは、父だから。
 「瑞樹の夢に、私が乗っかる訳じゃない―――これは、私の夢なの。…お父さんなら、わかるでしょう?」
 「―――…」
 「写真を、撮りたいの。瑞樹と、私の写真を」
 蕾夏は、必死の思いで、テーブルに手をついて深々と頭を下げた。
 「お願いします。私のわがまま、認めて下さい―――…」

***

 ―――まいったな…。
 都会の雑踏の中、瑞樹は、やや途方に暮れながら、その場に立ち尽くしていた。
 大きなため息をついて、近くのショーウィンドウに寄りかかる。見下ろした先には、両手で構えたライカM4がある。手に馴染んだ感触は、去年も、一昨年も、そのずっと前も同じなのに、まるで別のカメラのような気さえしてきた。

 このところ、写真を撮りに行くといったら、ほぼ間違いなく蕾夏が一緒にいた。勿論、日頃ちょっとした時に撮ることはあるが、本格的に一人きりで撮るのは、相当久しぶりのことだ。
 だから、気づかなかった。自分の変化が、ここまでとは。

 今の瑞樹は、もう、1人で撮る写真に、満足できなくなっている。
 嫌というほど、思い知らされる。
 蕾夏がいないと、駄目だと。

 感情を押さえ込むことに慣れてきた瑞樹は、昔から、日頃表現できない感情を写真にぶつけてきた。本能の赴くまま、ためらわずシャッターを切ってきた。それ自体は、今もできる。撮れる写真は、きっと感情的な写真だろう。
 でも、蕾夏がいないと、駄目なのだ。
 感じられないから―――プラスの、感情を。
 日頃押さえ込む感情は、怒りや、憤り―――優しい感情は忘れ果てている。そういったものに触れると苛立ってしまうから、感じないようにしてきた。ずっと。
 蕾夏は、その、瑞樹が忘れていた感情を揺さぶってくれる存在だ。蕾夏がいると、失ったものを少しずつ取り戻せる。嬉しい、楽しい、面白い―――そんなプラスの感情が湧いてくる。
 それを、写真にぶつける。感じたままに。だから、蕾夏と一緒に撮った写真は、日頃の瑞樹とは程遠い位に、ひどく優しかったり、強烈な色を放っていたり、やたら穏やかだったりするのだ。
 いつも自分が口にしていたセリフ―――“お前がいないと、意味がない”。写真を撮りに行く時は、必ずそう言ってきた。その言葉を、今ほど強烈に実感したことはない。

 ―――決めた筈だろ。何今になって迷うんだよ。
 ぐらぐらと揺さぶられる自分を、自分でそう叱咤する。
 身勝手な愛し方はしない。恋愛感情を利用して、蕾夏を自分のギャンブルに巻き込む事だけは、絶対にしない。…そう、決めた筈だ。
 なのに―――…。

 軽く舌打ちをし、瑞樹は前髪を掻き上げた。
 自らを落ち着かせるように、そのままじっと目を閉じる。目の前を行き交う人々の声も、車道を行く車のエンジン音もシャットアウトし、自分の心の声だけに耳をすます。

 ―――今、俺が一番大切にしたいものは、何だ―――…?

 出した筈の答えを、瑞樹はもう一度、自分に問い直していた。

***

 普段より早めに、マシンの電源を落としたら、佳那子が訝しげな顔をした。
 「あら? 今日、もう少し残ってくんじゃなかったの?」
 「…悪い。のらないんで、明日にする」
 時計は、午後7時半。本当は、気になる作業がまだ残っていて、しかも9時か10時まで残れば十分こなせる作業だった。でも瑞樹は、あえて今日は帰ることにした。
 1日、仕事があまり手につかなかった。昨日も結局、ぼんやりビデオを見ているうちに深夜になってしまい、気づけば蕾夏に電話をするのを忘れてしまっていた。蕾夏からも電話がなかったところを見ると、「急用」の関係で電話できる状況になかったのかもしれない。そんなこともあって、今日は朝から、心ここにあらずだ。
 「…まぁ、今日の成田、ちょっと変だったものね。明日はシャキッとして出てきなさいよ。あんまり時間ないんだから」
 苦笑混じりにそう言う佳那子に、瑞樹も苦笑を返した。あまり時間がない―――そうだ。あと1ヶ月しかないのだ。時間が。
 デイパックを掴んで、まだ残っている数名に声をかけてから、瑞樹は事務所を後にした。4階でタイムカードをさっさと押し、階段を下りる。何故か今日は、エレベーターを使う気にはなれなかった。
 トントン、と階段を下りながら、昨日からずっと考えてきたことを、頭の中で繰り返す。蕾夏は、もう仕事が終わっただろうか―――直接行ってしまおうかと思ったが、やはり電話してみた方がいいかもしれない。1階ロビーを抜け、自動ドアを出たところで、瑞樹は胸ポケットに入れてある携帯電話に手を伸ばした。
 ところが。
 「―――…」
 瑞樹は、その場に固まってしまった。
 ビルのエントランスを抜けた先、3段の段差を降りたその下に、蕾夏が立っていたのだ。
 客先に行く予定がなかったのか、普段通りのジーパン姿に、仕事で使っている大きめのトートバッグを肩からかけている。時間から考えると、定時後間もなく仕事を切り上げ、ここに直行したという事だろう。
 「…いつもと逆パターンだね」
 唖然としている瑞樹を見て、蕾夏はくすっと笑った。
 「―――びっくりさせんなよ…。心臓止まるかと思った」
 ようやくフリーズの解けた瑞樹は、そう言ってエントランスの階段を降りた。一応、帰宅する人々の邪魔にならないよう、2人とも道路の隅に寄った。
 「実は俺も、今からお前の会社行こうと思ってた」
 「そうなの?」
 「…行く手間、省けた」
 ちょっと笑ってそう言う瑞樹を、蕾夏は穏やかな笑顔で見ていた。なんだか、やたらふっきれたようなその様子を、瑞樹も少なからず不思議に思う。
 「昨日、ごめんね。せっかくの休みをパスした上に、理由も言わなくて」
 「ああ…別にいいけど。俺も昨日、電話できなくて、悪かった」
 「うん。でも、ちょうど良かったんだ。全部、かたが付いてから、瑞樹とは話したかったから」
 ―――かたが付いてから?
 訝しげに眉をひそめると、蕾夏はにっこりと笑って、体ごと瑞樹の方に向き直った。

 「私、イギリスに行くことにした」
 「―――え?」
 「昨日、両親の了解も取り付けてきた。お母さん説得するのが大変だったけど、お父さんにはわかってもらえたから、なんとか。瑞樹が時田さんに返事しちゃう前に、どうしても両親の了承だけは取っときたかったんで、昨日しか時間がなかったんだ」
 ちょっと済まなそうに首を竦める蕾夏を、瑞樹は唖然とした表情で見下ろしていた。まさか、昨日突然舞い込んだ「急用」がこんな内容だとは、ひとかけらも予想していなかった。
 「それと、今日、私、会社に辞表出してきたから」
 「は!?」
 ―――なんだよそれっ!
 思わず眉をつり上げてしまう。問いただそうと口を開く瑞樹を、蕾夏は慌てて手で制した。
 「で、課長と大喧嘩になりそうだったんで、野崎さんに援護射撃お願いしたの。無事、今月末で退職できることになったけど、援護射撃代として野崎さんと夕飯1回付き合う羽目になったの。ごめんね」
 「……」
 あまりのことに、声が出ない。頭もくらくらしてくる。
 一言くらい相談しろよ、とか、電話じゃなくてもせめてメールで知らせろよ、とか、色々思ってはみるものの、声にはならない。しかも、ごめんね、と蕾夏が言っているのは、どうやら「辞表提出」についてではなく、「野崎と夕飯」についてらしい。ますます頭がグラついてくる。
 「お前…、後戻りできないように、わざと黙ってたな…」
 呆れた声でなんとかそう返すと、蕾夏は、ニッ、と勝気な笑みを見せた。
 「まぁね。…でも、勘違いしないでね。私は、瑞樹についていく訳じゃないの。私は、私の道を行くだけ―――瑞樹の賭けに巻き込まれる訳でもなければ、瑞樹と会えなくなるのが嫌で追いかけていく訳でもない。私は、自分の夢を叶えるために行くんだから」
 瑞樹の表情が、少し変わった。
 蕾夏は、蕾夏の夢を叶えに行く―――蕾夏の、夢。瑞樹の写真集が、いつの日か本屋の店頭を飾ること。それを実現するために、今蕾夏がすべきこと。それをしに行く。
 ―――そういう考え方もあるのか。

 「ねぇ、瑞樹。今まで私たち、どちらかが相手のやる事に巻き込まれたり振り回されたりした事、一度でもあった?」
 「…いや、ない」
 「そうだよ。私も瑞樹も、それぞれの道を、それぞれのペースで歩いてきただけ―――無理に歩み寄った訳でも、強引に割り込んだ訳でもない。今一緒にいるのは、その結果だよ」
 「―――そうだな」
 「だから、イギリスに行くのも、そう。瑞樹が私の先の人生なんて心配しなくていい。イギリスに行くのは、私の道だもん。その道が、たまたま瑞樹と重なっただけ―――そうでしょ?」
 柔らかな笑みを浮かべる蕾夏を、瑞樹は、強烈なデジャヴを感じながら見下ろした。


 ―――足音を、聞いたんだ。
 それぞれの道を、それぞれの速さで歩いていた筈なのに―――ある日ふと、足音がピッタリと、重なるのを聞いた。
 不思議に思って隣を見ると、そこに倖がいた。…それだけのことだ。
 瑞樹も、出会えばきっと、わかるよ。―――俺の子だもんな、お前は。


 …わかった、気がする。あの時の、親父のセリフ。
 ずっとそんな予感はしていたけど、具体的にそれを実感できる瞬間がなかった。でも、今、それをはっきりと見た気がする。
 それぞれが歩いてきた、それぞれの道。無理をせず、流されもせず、ただ淡々と、自分のペースで。それが、いつの間にか、同じ道に重なって―――気づけば隣に、蕾夏がいた。
 ただ、それだけのこと。


 「…瑞樹? 怒っちゃった?」
 黙ったまま、少し驚いたような顔で見下ろしている瑞樹が不安になってきて、蕾夏はそっと声をかけてみた。そう訊ねても、まだ瑞樹が何も答えないので、だんだん焦ってくる。
 「あ、あの、念のために言っておくと、行くのは確かに自分のためだけど、勿論、離れるのが嫌って気持ちもあるからね? その…恋人としての私は、そう思ってる、確かに。だからあんだけ泣いたんだし…。けど、親友としての私はさ、一番の親友の人生最大のチャンスに、ただ黙って指くわえて眺めてるだけってのが、一番悔しくて嫌なんだ。…って、そう言うと、やっぱり瑞樹のために行くみたいに聞こえるなぁ…」
 フォローを入れようとすればするほど、だんだん深みに嵌ってしまう蕾夏の様子に、瑞樹は思わず吹き出した。
 「え、ええと、だから―――」

 更に続けようとした蕾夏は、そこで、言葉を飲み込んだ。
 突然、キスで唇を塞がれていたから。
 「―――…」
 触れるだけの軽いキスなのに、何故か硬直してしまう。蕾夏は、心臓の鼓動さえ止まったみたいに、じっとしているしかなかった。
 唇を離すと、瑞樹は、蕾夏の目を間近から覗き込んだ。驚いたように見開かれた目は、動揺のせいか、微かに揺らめいていた。瑞樹はクスリと笑うと、額を蕾夏の額にコツン、とぶつけた。
 「…白状するとさ―――俺、今からお前の会社行こうとしてた、って言っただろ?」
 「え―――あ、うん」
 「同じ事、言おうと思ってた」
 「…え?」
 「一度決めた癖に、情けねー、って自分でも思うけど―――やっぱり、一緒に行こうって。半年後の事は、また半年後に2人で考えりゃいいや、って…そう、言いに行こうとしてたんだ」
 蕾夏が息を呑むのが、はっきりわかった。蕾夏は、瑞樹の胸に手をついて額を離させると、目を丸くして瑞樹を見上げた。
 「―――ほんとに?」
 「ホント」
 「でも…どうして? あんなに反対してたのに」
 「昨日1人で写真撮ってて、わかったから」
 瑞樹の笑顔が、苦笑に変わった。
 「やっぱり、お前がいないと、意味がない。…俺、もう1人で撮ってた頃には戻れないらしい」
 「……」
 「もう退路は断ったんだろ? じゃ、お互い覚悟決めようぜ―――イギリスで、時田郁夫を納得させる写真を、一緒に撮ろう」
 その言葉に、蕾夏は最高の笑みで答えた。
 どちらからともなく、互いの背に腕を回した。抱きしめあう力はそんなに強くないけれど、互いがとても近く感じられた。


 一緒に、イギリスに“宝探し”をしに行くと思えばいい。
 目が覚めてから眠りにつくまで、毎日毎日、探し続ければいい。2人で作る世界が、他の人にもちゃんと伝わる、最高の写真―――きっといつか、撮れる筈だから。

 1人ずつでは無理でも、2人一緒にいれば、きっと、撮れる。今の2人なら、そう信じることができた。


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