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no100:
新しい世界
-odai:63-

 

…ソシテ、物語ハ、続ク。

―99.11―

 冷蔵庫からカクテルバーを1本取り出し、パソコンの前にあぐらをかく。
 もうディスプレイを眺める気力もないが、今日は特別だ。瑞樹は、一度伸びをして疲れた体をほぐすと、慣れた手つきでキーボードを叩いた。

 『(HAL)こんばんは>ALL』

 画面に1行表示される。すると、待っていたように一斉に3行表示された。

 『(猫柳)おおお、来よった来よった。待っとったで>HAL』
 『(mimi)HALさん、いらっしゃい〜>HAL』
 『(江戸川)こんばんは、久しぶり>HAL』

 そして、少し遅れて、更に1行。

 『(rai)Happy Birthday!>HAL』

 カクテルバーの口を開ける手が止まる。
 その1行で、何故蕾夏が、午前0時きっかりにチャットに入って欲しい、なんてメールを送ってきたのかわかった。忙しさに取り紛れてすっかり忘れていたが、日付が変わった今日は、瑞樹の誕生日だったのだ。
 一本、取られたな、と瑞樹は苦笑し、素早くキーを叩いた。

 『(HAL)…チャットでバースデー・サプライズとは、恐れ入った>rai』


 そう。またこれも、平凡な日常の中に起こった、ほんの些細な出来事。

***

 会社を辞めることが正式に決まった途端、瑞樹も蕾夏も、とんでもなく忙しくなってしまった。
 瑞樹の方は、抱えている作業は自分でギリギリ終わらせることができそうだが、仕様が複雑な銀行系システムを、誰かに徹底的に引き継がなくてはいけない。「樋沼に引き継げ」と部長から指示が出たが、とんでもない、とその場にいたシステム部の人間全員が必死に抵抗した。結局、瑞樹の同輩にあたる小沢が引き継ぐことになった。
 蕾夏の方は、更に厳しい。担当ユーザーの引継ぎが、結構面倒なのだ。細かな仕様の確認から客への面通しなど、引継ぎ作業は膨大だ。蕾夏は、後輩にあたる亜弓にその大半を任せるつもりだが、新人の亜弓には任せられない、難しいユーザーもいる。課長から「丸山にやらせろ」と指示が出たが、やはりこちらも、とんでもない、と全員が必死に抵抗し、ひとまずは野崎が引き取ることになった。
 平日は毎日、深夜まで残業状態。だから、週末に会っても、部屋でぼーっとビデオを眺めてるのが精一杯だ。
 抱える残作業の消化と、引継ぎ作業に追われる毎日。多分、11月はこんな感じで、駆け足で過ぎていくのだろう。そして12月―――蕾夏の誕生日を迎える前には、新しい生活に飛び込まなくてはいけない。

 一通り、瑞樹に対する誕生日祝いの言葉が全員から送られた後は、自然、話題は瑞樹のイギリス行きの話になった。

 『(江戸川)猫やんから聞いたけど、また随分な急展開だね>HAL』
 『(HAL)まあね。自分でも少々驚いてる>江戸川』

 元々親しいし、全てのきっかけが"猫柳"に誘われた屋久島旅行だったこともあり、"猫柳"には、受賞の件や時田に誘われた件などをメールで知らせてあった。最近、瑞樹も蕾夏もチャットに入るだけの気力が失われていたので知らなかったが、どうやら"猫柳"は、"江戸川"や"mimi"にそういった情報を伝えていたらしい。

 『(江戸川)それにしても、raiも行くとはね。ちょっと予想外だ>rai』
 『(rai)あはは、誘われちゃったからね>江戸川』
 『(mimi)けど、raiさんは、何しに行くの? 写真撮るのは、HALさんなんでしょ?>rai』
 『(rai)うーん。アシスタントみたいなもんかな>mimi』
 『(猫柳)mimiちゃん、野暮なことはきかんとき。詳しい話聞いたら、一人身が悲しーくなるだけやで>mimi』
 『(mimi)えっ!!!!! なに、なに、どういうこと?>猫柳』
 『(江戸川)なんだ、それは。僕も知らないぞ>猫柳』
 『(猫柳)決まってるやんかー。2人は付き合ってるってことや』

 カクテルバーを、一瞬、落としそうになった。
 いくら"猫柳"にだけはいろいろメールしてるとはいえ、さすがにそんな事までは報告していない。

 『(mimi)ええ〜〜〜〜っ! 嘘っ! 猫やん、またガセでしょお!?』
 『(猫柳)間違いないで。ちゃんとrai本人から裏取れてるんやから』

 「…はい?」
 思わず、画面に向かって声をあげてしまう。

 『(江戸川)どういう事だよ』
 『(猫柳)もー、聞いてやー、江戸川さん。屋久島から1ヶ月位してから、ボク、raiに、人生で12回目の告白っちゅーやつをやってん。電話やけど。そしたらrai、何てゆーたと思う?』
 『(江戸川)なんてなんて』
 『(猫柳)友達から始めましょう、っていう超控えめ告白に、raiときたら“友達からって、友達にはもうなってるし、猫やんとは友達より先はないと思う”やって! ショックや〜〜〜。しかも“それに私にはHALがいるから”とこられた日には、ボク、思わず熱出して寝込んでしもーたわ』
 『(mimi)いやーん、うそーっ! 猫やんとraiさんに、そんなドキドキな事件があったの!? 全然知らなかったぁ!』

 ―――俺も全然知らねーよ。
 断った、という話にしたって、それを黙っていられたのは面白くない。ちょっと気分を害しながら、おもむろに携帯電話を手に取った瑞樹だったが、次の1行を見て固まった。

 『(猫柳)ほんまほんま。あー、HALに取られる位やったら、王様ゲームの時HALが全然酔ってへんかったこと、raiに洗いざらい喋っとけば良かった。ボクってばお人よしやからねぇ。うっかりHALの口止めに応じてもーたわ』

 「……」
 ―――猫やん…それは卑怯だろ、おい。
 一体どういうことだ、と画面上で他の3人が盛り上がる中、瑞樹の手の中で、携帯電話が鳴った。
 「―――…もしもし」
 『…ねぇ、瑞樹?』
 「……」
 『なんだか、面白いことを猫やんが言ってるんだけど。どういう事か説明してくれる?』
 冷ややかな蕾夏の声に、瑞樹の背筋も冷たくなった。

***

 「それは成田が悪い」
 「だな。瑞樹が悪い」
 「―――ほっとけ」
 呆れたような声を出す和臣と久保田を憮然とした顔で睨み、瑞樹は手にした水割りをあおった。
 「酷いよ、成田。相手の同意もなしに、だまし討ちみたいにキスするなんて、男の風上にもおけない真似だろ」
 憤慨したように睨んでくる和臣に、瑞樹はむっとしたように片眉を上げた。
 「…俺より先に、同意も得ずに蕾夏にキスしたお前が、そういう事言うか」
 「それは言うなあぁっ!」
 あの出来事は、和臣いわく「人生最大の過ち」なのだそうだ。一気に形勢逆転。よしよし、と苦笑気味の奈々美に頭を撫でられている和臣のうな垂れた姿を、瑞樹は、けっ、という顔で一瞥した。

 今日が瑞樹の誕生日ということもあり、いつもの面々は、蕾夏も呼んで簡単な送別会を執り行っている。
 …と言っても、ただいつものように飲んで食べているだけだが―――去年まで誕生日を祝うこと自体しなかった瑞樹を考えれば、半分別目的とはいえ、これは画期的な出来事かもしれない。

 「ところで、向こうでは住む所って決まってるの?」
 まだうな垂れている和臣を無視して、佳那子が蕾夏に訊ねた。
 飲めない蕾夏は、もっぱら食べる方に専念していて、今は最近のお気に入りである胡麻豆腐を、やたら嬉しそうに食べていた。瑞樹の隣に座っているのだが、妙に間を空けて座っているのは、昨日の"猫柳"の爆弾発言が原因である。あの後電話は「酔ってなかったって、どういうことよっ」という蕾夏と「何で猫やんのこと黙ってたんだよ」という瑞樹の言い合いに終始してしまったのだから、結構気まずい。
 「半年もあるんだから、まさかずーっとホテル住まいってことはないでしょ?」
 「うん。なんか、ロンドンの中心部からちょっと離れたとこに住むみたい。詳細はよくわかんないけど」
 「よくわかんない、って―――なんだか、随分アバウトねぇ。大丈夫なの? そんなことで」
 「大丈夫」
 ほんとに? という目で、佳那子は瑞樹の方も見た。が、瑞樹も、涼しい顔で答える。
 「時田さんに住所だけは貰ってるから、そこに荷物送ればいいだけ。当日は空港まで時田さん本人が迎えに来てくれるし。おのぼりさんでも問題ねーって」
 「ねぇ。成田君て、英語喋れるの? イギリスって、ちょっと発音違うんでしょ?」
 年末年始に、ちょっと遅めの新婚旅行でオーストラリアに行くことが決まっている奈々美が、少し眉を寄せて訊ねた。実は奈々美も和臣も、旅先での英会話に大いに不安を抱いているのだ。
 「聞く方はいいけど、喋るのは―――まあ、なんとかなるだろ。蕾夏いるし」
 「あ…そっか、藤井さんて、ネイティブ並なんだっけね、英会話」
 「私のは完全に米語だけどね。ちょっとヒアリングに不安あるけど―――元は同じ言語なんだから、なんとかなるんじゃない?」
 「―――なんだかなぁ…。お前たち、2人してとことん“適当”だな」
 全てに対して「なんとかなるさ」といった感じの2人を見て、慎重派の久保田が苦笑した。
 そう指摘を受けて、一瞬キョトンとした2人だったが、そうかな、という風に互いに顔を見合わせると、密かにクスリと笑いあった。
 確かに、そうかもしれない。イギリスに着いてからの事は、正直、まだあまり考えていない。今ある仕事を片付ける事に精一杯なのもあるが、もっと大きな要因は―――どこに行っても、2人一緒ならとりあえずなんとかなる、と本気で思っているからだった。
 「…ま、その位の度胸がなけりゃ、本物のビッグ・チャンスは掴めないんだろうけどな。とりあえず、先の心配はなさそうだから、今は心置きなく残作業に専念してもらおう」
 「―――隼雄に言われるまでもなく、やってんだろ、ちゃんと」
 「甘い。仕事だけじゃないぞ。お前にはまだ、4階の連中を宥めるという、重要な任務が残ってる」
 久保田にそう言われ、瑞樹は言葉に詰まった。
 瑞樹が会社を辞めるニュースは、4階コール・センターおよび経理・事務に、直下型大地震並の衝撃を与えた。里谷を筆頭に数名が、あること無いこと、いろんな憶測をまくしたて、なんとか辞めない方向にもっていけないかと連日騒いでいる。彼女たちの憶測内では、瑞樹は「辞める」のではなく「辞めさせられる」になっているらしい。一体どういう理由でクビになると思ってるのだろう? 何にしても、失礼な話だ。
 「オレさ。経理の子から訊かれちゃったよ。成田が原因で離婚の危機を迎えてる上司に心当たりないか、って」
 「は!?」
 和臣がサラリと漏らした情報に、全員、目を丸くする。
 「誰か、成田に手酷くふられた子が、そういう噂でも流してるんじゃない? これも日頃の女の子たちに対する態度のせいだよね。早めに収拾つけないと、あらぬ方向に噂が転がっちゃうかもね〜」
 ふふん、と鼻で笑う和臣を恨めしそうに睨み、瑞樹は大きくため息をついた。
 「―――お前なぁ。何の恨みがあって、そういう楽しげな顔すんだよ」
 「恨みなんてないよ」
 「じゃあ何だよ」
 「退職のこと、久保田さんには相談したのにオレには隠してたから、ちょっと拗ねてるだけ」
 わざとらしい位にニッコリ笑うと、和臣はぷい、とそっぽを向いて、鶏の唐揚げを頬張った。まるで子供みたいなその反応と理由に、その場にいる全員が苦笑しつつ、何故か和んだ。
 「大丈夫よ、成田君。女の子たちは、私と佳那子で、なんとか収拾つけるわ。ね? 佳那子」
 くすくす笑いながらそういう奈々美に、佳那子も苦笑で相槌を打った。
 「新人で1人、エキセントリックなのがいるから、あの辺がデマの出所かもね。まぁ、雑事は周りに任せといて、あんたや蕾夏ちゃんは、やり残した事ないようにすることね。立つ鳥跡を濁さず、って言うし、辞める時には、全員から温かく送り出されたいじゃない?」

 ―――やり残した事―――か。
 佳那子の言葉に、微かな笑みで答えつつ、瑞樹は、ある事に思いを馳せていた。

 別に、このまま、日本に二度と帰って来ない訳ではない。
 実際、今住んでいる所も契約解除しないままで発つのだし、瑞樹自身、最終的には日本で仕事がしたい、という希望を、最初から時田に伝えている。だから、やり残した事は、半年後にすればいい。
 けれど―――…。

 それでも瑞樹には、イギリスに発つ前にしておきたい事が1つだけ、あった。

***

 受話器を手に、暫し逡巡していた瑞樹は、意を決して、葉書に書かれた番号を押した。
 平日の夜なのだから、在宅である確率は高い。ただ―――本人が出るかどうかは、五分五分といったところだろう。
 息を詰めて、電話が繋がるのを待つ。1回、2回―――3回目のコールで、電話は繋がった。
 『―――はい、窪塚です』
 少し高めの、どこか幼さの残った声が、そう告げる。記憶に残る母の声と、その声は恐ろしいほどよく似ている。瑞樹は、一度唾を飲み込み、自らを落ち着かせてから、口を開いた。
 「…海晴?」
 『―――…』
 電話の向こうで、相手が息を呑む気配がした。
 動揺しているのか、なかなか返事が返ってこない。暫く無音状態が続いた後、ようやく、微かに震えた声が返ってきた。
 『お…お兄ちゃん…?』
 「そう、俺。―――こんばんは。久しぶり」
 『―――び…っくり、した。お兄ちゃんが、電話してくるなんて…。どうしよう。凄く嬉しい…』
 震え気味な声は、それでも明らかに喜んでいる声色だった。その声色に安堵し、瑞樹も口元をほころばせた。
 「前、電話もらった時は、悪かった。随分冷たい事言って」
 『…ううん。そんな事、ない。昔からお兄ちゃん、連絡はしてくるな、って口が酸っぱくなる位言ってたのに、それを私が無視したから―――お兄ちゃんが怒るの、当然だわ』
 「―――別に怒った訳じゃないよ」

 そう。怒った訳じゃない。
 ただ、苦しかったのだ。
 海晴に問い詰められるのが、秘密を明かせと迫られるのが、苦しかった。問われてなお答える訳にはいかない自分が辛かった。だから、電話を取るのが怖かった。
 でも、蕾夏が、抱えていた重荷の一部を引き受けてくれた今は、違う。
 もう、いっぱいいっぱいではないから。ちょっとした刺激で、洗いざらい喋ってしまいそうなほど、切羽詰まった状態にないから。だから―――海晴と、話をすることができる。
 夏にもらった電話に対して、二度とかけてくるな、と突っぱねた事を、瑞樹はずっと心のどこかで気にしていた。海晴の泣き顔が目に浮かぶようで、後味の悪い思いを抱えていた。
 だから、イギリスに行く前に――― 一度だけ、海晴に電話をしておきたかったのだ。

 『―――わかってた。離婚した途端、お兄ちゃんがそっけなくなった理由。お兄ちゃん、私がいずれ“窪塚”の娘になること、知ってたんでしょう?』
 「…まあ、な」
 『そうだよね。…私も、お母さんが再婚して、窪塚の事情が見えてきたら、なんとなく理解できた。お兄ちゃん、私が“成田”としっかりさよならできるように、退路を断ってくれてたんだな、って。あの頃は凄く寂しかったけど―――手紙もよこすな、って言われて泣きそうになったりもしたけど、私、今はお兄ちゃんに感謝してる。…ごめんなさい。手紙のたびに、なんだか泣き言みたいな事ばっかり書いちゃって』
 「馬鹿。お前泣かせるような事言ったのは俺なんだから、お前が泣き言書くのは当然だろ。謝るなよ」
 何年かに一度届く手紙に、必ず書いてあった“寂しい”、“子供の頃が懐かしい”、そして“会いたい”―――電話だけでもできる状況であれば、海晴にそんな思いはさせずに済んだだろうに。そんな思いから、瑞樹は、
 「…ごめんな、海晴。今まで」
 そう、呟いていた。
 『やだ。お兄ちゃんが謝ることなんて、ないよ』
 ちょっと涙ぐんでいるのか、海晴のそう言う声は、泣いてる時のように、少し上ずっていた。

 『―――あのね。実は今、お兄ちゃんに手紙書いてる最中だったの。凄いタイミングだね』
 「え…?」
 『今日ね、病院行ってわかったばっかりなんだけど―――私、子供ができたの。今、3ヶ月だって』
 心臓が、止まりそうになった。
 受話器を片手に、暫く目を丸くして固まってしまう。いや―――当然といえば当然の話だ。海晴が結婚して、既に1年経つ。跡継ぎが必要な窪塚家なのだから、早く子供を、と急かされていたかもしれない。
 だが―――あの海晴が、と思うと、どうしても妙な気分になる。瑞樹の中では、海晴は14歳で止まっている。成長した今の海晴も想像できるし、実際写真も見ているが、その姿は瑞樹にとって、海晴というより、若かりし頃の母の姿だ。
 「そ―――そう、か。なんか、ピンとこないな…」
 『ふふ…お兄ちゃんとはずっと会ってないから、無理ないよね』
 「とにかく、おめでとう。良かったな」
 『うん。…あのね、お兄ちゃん』
 少しためらう様子を見せた後、海晴は遠慮がちな声で続けた。
 『お兄ちゃんに、名前つけて欲しいの』
 「名前? …俺が?」
 『お義父(とう)さんもつけたがってたけど、私はお兄ちゃんにつけてもらいたいの。だって―――私を育ててくれたのって、お母さんやお父さんじゃなく、お兄ちゃんだもの』
 「……」
 『…私、絶対いいお母さんになるの。だって、この子にはお兄ちゃんもお姉ちゃんもいない訳でしょ? 私がこの子を守ってあげるの―――お兄ちゃんが私を守ってくれてたみたいに。私、愛情一杯に育ってるから、きっとできる。そうできるの、お兄ちゃんのお陰だから…お兄ちゃんに名前、つけて欲しいの。…駄目?』

 無駄じゃなかったんだな―――瑞樹は、受話器を握り締めたまま、そう感じた。
 あれだけ苦しい思いをして、海晴の中の“母”だけは殺さないよう、必死に守ってきた。それは、無駄じゃなかった。
 母と瓜二つの姿をした海晴だけれど、海晴は母とは違う。きっと子供を愛する、優しい母親になってくれるだろう。
 守ってきた海晴が、母になる―――そして、子供を愛してくれる。
 報われる。やっと。

 「…実は俺、来月から半年、イギリスに行くんだ」
 『―――えっ』
 「プロのカメラマンになるチャンス、掴んだんだ。勝てるかどうかわからないけど―――賭けてみることにした」
 海晴が、一瞬、言葉を失う。幼い頃から瑞樹を見てきた海晴だから、瑞樹の写真に対する思いの深さは、誰より知っているのだろう。やがて受話器から聞こえてきた声は、興奮したように、明るく弾けていた。
 『そ…う、なんだ。凄い―――…! がんばってね。私、この子と一緒に応援してるから』
 「ん、サンキュ。その子が生まれる頃には帰ってくる筈だから、喜んでつけさせてもらうよ、名前」
 『うん。ありがとう。…ね、でも、単身で行くんでしょう? 言葉も通じない国で―――寂しくない?』
 兄が掴んだチャンスに喜びながらも、海晴は少し心配そうな声でそう訊ねた。寂しがりやの海晴らしい質問に、瑞樹はふっと笑った。
 「大丈夫。一人じゃない―――最高の“親友”と、一緒に行くから」

***

 12月初旬。東京に初雪が降った翌日。
 「…お前、顔色悪いなぁ…」
 成田空港の待合ロビーでパスポートを確認していた瑞樹は、傍らに立つ蕾夏を見下ろし、眉を寄せた。
 瑞樹の言う通り、蕾夏の顔は青白かった。この顔は、一度見たことがある―――屋久島オフの、行きの飛行機に乗る前にしていた顔だ。
 「―――ロンドンまで10時間もあるんだね…。か、考えれば考えるほど、緊張してくるなぁ…」
 まだ乗ってもいないのに、蕾夏は既に疲労困憊といった表情だ。
 「屋久島ん時に克服したんじゃなかったのか? 飛行機恐怖症」
 「…の筈だったんだけどね。帰りの福岡・羽田間がまずかった」
 「―――ああ。あれは厳しかったよなぁ。江戸川も顔面蒼白になってたっけ」
 屋久島からの帰りの飛行機は、途中、低気圧にぶつかってしまい、かなり揺れた。飛行機は平気な瑞樹でも、思わず肘掛を握る手に力をこめてしまったほどに。隣に座っていた蕾夏は、硬直したまま、羽田まで一言も発しなかった。あれで恐怖症がぶり返してしまったらしい。
 「お得意の想像力で乗り切れ。飛行機は地面を滑ってるんだろ」
 「10時間も滑りっぱなし? 太平洋の上も滑る訳? …とてもそうは思い込めないよ…」
 「じゃ、お前だけ帰るか」
 「…やだ」
 拗ねたように唇を尖らせる蕾夏に、瑞樹は思わず吹き出した。
 「んな顔すんなよ。帰るって言われたら、俺の方が困る」
 蕾夏の髪をくしゃっと掻き上げるように撫でて笑うと、蕾夏も小さく笑った。

 「―――あのね。昨日、辻さんに電話したの」
 「……え」
 瑞樹の表情が、僅かに強張った。
 もう辻に対して妙な敵愾心(てきがいしん)は抱いていないが、やはり世の中の男の中で、彼が一番気にかかる相手であることに違いはない。蕾夏に対して運命を感じてる、もう一人の人物―――やはり、全くの平常心ではいられない。
 「翔子に、今回の事伝えてくれるように、頼んでたの。私から直接よりは、辻さん通した方がいいかな、と思って」
 「ふーん…。で? どうだって?」
 「やっぱり、ちょっと動揺してたみたい」
 困ったように笑い、蕾夏は肩を竦めてみせた。
 「でも、大丈夫。辻さん、ちゃんと翔子が納得するように、もう一度話してくれるみたいだから」
 「…辻さん本人は、何て言ってた?」
 「ん…、がんばってこい、って言ってた。いろいろお説教されちゃった―――なんか、子供の頃、私や翔子に説教ばっかりしてた辻さんが戻ってきた感じ」
 そう言う蕾夏は、言葉とは裏腹に、とても嬉しそうな顔をしていた。
 そう―――これが、蕾夏が望んだ、辻との関係。蕾夏が信用することができる、唯一の“大人”だった、辻―――幼馴染というよりは、兄妹(きょうだい)に近い関係。長い時間をかけて、やっとその関係を取り戻せた。
 「よかったな」
 瑞樹がそう言うと、蕾夏は、感慨深げな笑みを浮かべ、ゆっくり頷いた。
 「ただの観光旅行で終わらせたら承知しないぞ、って脅されたもんなぁ…。辻さんの脅しは、後が怖いから、本気で頑張らないと。…って、何を頑張ればいいのか、今の時点ではわかんないんだけどね」
 「…確かに。まあ、とりあえず確実なのは、俺の通訳として、相当頑張らないといけないって事だろうな」
 「あはは、そっか。私、アシスタント以前に通訳って役目があるんだよね、考えてみたら」
 そう言って笑った蕾夏は、ふと何かを思い出したように表情を変え、続いてニッと笑ってみせた。
 「そういえば、瑞樹との最初の電話も、翻訳がきっかけだったよね。―――これって、運命?」
 「―――見てろよ。半年後には、お前なしでも日常会話位平然とこなせるようになってやるから」
 むっとしたようにそう答えたところで、出国手続きを促すアナウンスが、待合ロビーに流れた。

 「…じゃ、行きますか」
 「うん。…あー…、また緊張してきた。足震えそう」
 思い出したように表情を曇らせる蕾夏に、また苦笑する。瑞樹は、荷物を持っていない方の蕾夏の手を握ると、しっかりと指を絡めた。

 「―――10時間、ずっとこうしててやるから」

 ちょっと驚いたような目をした蕾夏は、その言葉に、くすぐったそうな、でも幸せそうな笑みを浮かべた。


***


 ―――Dear 佳那子さん

 お元気ですか? …って、最後に会ってから、まだ2週間も経ってないよね。

 こっちは、2人とも元気です。
 最初の2、3日は、時差ボケで結構参ってたけど、おとといあたりからは、瑞樹も私も時田さんにくっついて写真を撮りに行ってます。
 ロンドンって、日本だったら絶対「歴史的建造物」なんかに指定されそうな重厚な古い建物が、極々普通に建ってて、なんだか不思議。そういう古い建物が、立派に現役のオフィスビルとして機能してたりするんだもの。凄いと思わない?
 馬専用の信号機があるあたりも、相当インパクトが強いなぁ。まだこっち来て1週間なのに、かなりカルチャーショックを受けてます。

 撮影中も大騒ぎしてばかりで、瑞樹と時田さんを呆れさせてます。
 でも、2人は、それでいいって。どんどん騒げってニコニコ笑って言うんだけど…それって、どうなんだろう? 撮影の邪魔なんじゃないの、って思うんだけど。

 でも、私が感動してる物見て、瑞樹も感動してくれてるの、わかるから―――だから、少なくとも今は、私はこのままの私でいいんだ、って思える、かな。
 まだ、先は全然見えないけれど―――瑞樹も私も、この先の道がどこに続いているのかはわからないけれど。
 今、同じ道を並んで歩けてる奇跡に、とっても感謝してます。

 それにね。佳那子さんにも、感謝。
 佳那子さんの言葉から、私、一杯勇気をもらったから。
 今ここに来てるのは、佳那子さんからもらった言葉があったからだと思う。…本当に、ありがとう。
 でも、考えてみたら、瑞樹に出会えてなかったら、私、佳那子さんとも、久保田さんとも、カズ君や奈々美さんとも巡り会えなかったんだよね。不思議。

 人間の出会いって、全部が奇跡みたい。
 ずっと、なんとなく「人」が怖かったけど―――そんな奇跡が毎日増えてくのって、結構素敵な人生かもしれない。


 おととい、撮影の合間に、ハイド・パークで瑞樹が写真を撮ってくれたので、蕾夏はこんなに元気だぞ、という証明のために送ります。
 私も「写ルンです」で瑞樹のこと撮ったんだけど…送ったら二度と口きいてやらない、って言われたので、やむなく断念。うまく撮れたのになぁ…。帰国したら、こっそり見せるので、その時の楽しみにとっとくね。

 それと。今年のクリスマスも、しっかりサプライズ用意してるので、気を抜かないように。久保田さんにもそうお伝え下さい。
 イギリスからどうやって驚かせるのか、って? ―――それは、当日まではナイショ。

 ロンドンは、今日は雪です。
 明日は、雪化粧したハイド・パークを撮れるかな。ちょっと、楽しみです。

 

 ―――全く…目に浮かぶようよねぇ…。笑ったり喧嘩したりしながら写真撮ってる、成田と蕾夏ちゃんが。

 手紙を読んだ佳那子は、そう思って口元をほころばせた。
 早く読ませろ、と周囲に群がっている久保田や和臣や奈々美に手紙を渡すと、佳那子は同封されていた写真に目を移した。

 それは、瑞樹が撮った、蕾夏のポートレート。

 四角形の画面の中で柔らかに微笑んでいる蕾夏の目は、ファインダー越しの瑞樹の目を、真っ直ぐに見つめていた。

 

――― "Step Beat" / END ―――  
2004.4.12  


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