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― スイートハニームーン ―

 

 その日の神崎家の朝は、トーストとミルクティーとグレープフルーツで始まった。

 「…食べたくない…」
 暗い表情でそう呟く奈々美を見て、和臣は心配顔になった。
 食生活で、和臣が奈々美の心配をするなんて、独身時代には絶対ありえなかったことだ。いや、結婚してからだって、1ヶ月ほど前まではありえなかった。奈々美のおかげで正常な食生活を送るようになり、外見はさほど変わらないものの中身は相当健康になった和臣だが、当の奈々美がこれでは困ってしまう。
 「朝は絶対食べないと、っていつも言ってるのは奈々美さんの方なのに」
 「そうなんだけどー…、なんか、食べたくない。昨日の晩御飯が遅すぎたからかしら」
 「さっぱり味の和定食だったけど、それでも駄目なのかなぁ。オレ、朝から滅茶苦茶食欲あるんだけど」
 「だったらカズ君、私の分も食べていいよ」
 半分しか食べていないトーストの残りと、全く手付かずのグレープフルーツを押し出される。でも、これではほとんど食べていないに等しい。
 「グレープフルーツ位は食べられないかなぁ。大半が水分だよ?」
 「…じゃあ、食べてみる」
 気の乗らない顔をしながらも、奈々美はグレープフルーツの乗った皿を引き戻し、ノロノロと食べ始めた。

 いったい何が原因なんだろう…と、奈々美の食べ残しのトーストをほおばりながら、和臣は思わず首を傾げてしまう。
 3月の終わり頃から―――ちょうど新人が入ってきた辺りからずっと、奈々美の体調は今ひとつだった。が、ゴールデンウィークが近づいてきた最近は、その様子に拍車がかかった気がする。ここ2、3日は、こんな風に朝食を食べるのも辛そうだ。
 原因を色々想像すると、時期的に思い当たるのは、後輩の存在。
 倉木が営業部に入った時期―――というか和臣にちょっかいを出し始めた時期―――と、奈々美の食欲が落ちた時期は、ほぼ一致している。ストレスからくる胃炎、と解釈できなくもない。それに、和臣の仕事が忙しくなったのも、ちょうど同じ頃からだった。つまり、奈々美も和臣に付き合って居残るようになったのも、その頃から。…これでは体を壊すのは、当然かもしれない。

 「やり過ぎかもしれないけどさぁ…部長にちょっと進言した方がよくない?」
 何を、とはあえて言わない和臣だった。言わずとも、部長に進言すべき事柄は1つしかない。
 当然、その意味を理解した奈々美は、不愉快そうに眉を顰めた。
 「イヤよ。そんなことしたら、私が倉木さんを意識してるみたいに思われちゃうじゃない。そりゃ、面白くはないけど、変な刺激は与えたくないわ。刺激すればするほど、余計ファイトが湧いてきそうだもん、あの子」
 「けど、仕事のこと考えたって、あれじゃ全然使い物にならないでしょ」
 「そうでもないわよ。ああ見えて倉木さん、タイピングは速くて正確なの。頭使う仕事はどうだか分からないけど、清書作業には向いてるんじゃない」
 微妙に棘のあるセリフを口にしながら、奈々美はスプーンをグレープフルーツに突き立てた。
 「ストレスなんて、要するに“慣れ”よ。倉木さんの存在も、慣れちゃえばきっと平気になるんだと思うわ」
 「…慣れる前にクビになる方が、可能性高いかも」
 ストレスが“慣れ”の問題とはちょっと思えないが―――倉木の暴走が何ヶ月も続くとも思えないので、まあ、遅かれ早かれ丸く収まるんだろうな、とは、和臣も思う。
 けれど―――このところ、ちょっと気になりだしたことを、和臣は思い切って口にした。
 「あのさ、奈々美さん」
 「なぁに?」
 「オレの考えすぎなのかもしれないけど…奈々美さんの体調不良の原因、もしかして、ストレスじゃなく何かの病気だったりしない?」
 恐る恐る、という口調の和臣に、奈々美はグレープフルーツを食べる手を止め、キョトンと目を丸くした。
 「病気?」
 「うん。確かに、目に見えて食欲落ちたのって、ここ1ヶ月のことだけど―――よくよく考えてみると、2月の旅行から帰ってきて以来、奈々美さん、いつもだるそうにしてたよなー、と、この前からちょっと気になりだしてさ」
 言われてみて初めて、奈々美も思った。確かにそうかもしれないな、と。

 和臣が言っている「2月の旅行」とは、2人にとっての新婚旅行のことだ。
 本来、2人は、年末年始を使ってオーストラリアへと新婚旅行に行く計画を立てていた。旅行代理店に既に予約も入れていたし、そのための準備もしていた。
 ところが、12月の半ばに和臣が酷い風邪をひいてしまい、しかもその風邪をおして激務に耐えたせいで、仕事納めには40度近い高熱で寝込む羽目になってしまった。その時、出発の3日前―――翌日まで様子を見ていたら、キャンセル料が一気に跳ね上がるという、ギリギリの時期だ。2人は、話し合った末、その時点でキャンセルを決断した。そしてそれは、結果的には正しい選択だった。
 そんな訳で、2人は、当初の予定通りの新婚旅行に行かれなかった。その代わり、2月の末に3日ほど休みをとって、土日も使って4泊5日でタイへ新婚旅行に行ったのだ。
 2月のタイはベストシーズンで、旅行自体は楽しかった。けれど―――よく考えると、あれ以来奈々美はよくだるさを訴えるようになったし、精神的にも不安定になった気がする。

 「まさかとは思うけど、何か(たち)の悪い病気でももらってきちゃったとか…」
 本当に不安げにそんなことを言う和臣に、奈々美は思わず吹き出した。
 「まさかぁ。向こうじゃ生水を一切飲まないように気をつけてたし、氷が融けないうちにジュースなんかも飲んじゃうようにしてたし」
 「でも、ホテルのプールには入ったよ?」
 「それだって、顔は水につけてないもの」
 シャチの形をした浮き輪に掴まって、プカプカ浮いていただけなのだ。奈々美が落としたイヤリングを拾うためにプールの底まで潜った和臣がピンピンしていて、ずっと水上にいた奈々美の方がぐったりになる訳がない。
 「だけど、南の方に旅行に行って病気になる原因って、水だけじゃないし…」
 「病気にならずに帰ってくる人が大半でしょ。そんな、旅行したら具合が悪くなるようなこと言ったら、南国の人に失礼よ」
 「そりゃそうなんだけど、事実、具合悪くなってるし」
 「大丈夫よ。絶対ストレスだから」
 どんどん不安げになる和臣をよそに、奈々美はそう結論付け、グレープフルーツの続きを食べ始めた。
 ―――でも、なぁ…。
 自分が具合が悪くなる分には、全部「風邪」で片付けてしまう和臣なのだが、日頃その風邪すらほとんどひかない奈々美が体調を崩してしまうと、いろんな悪い想像ばかりしてしまう。
 ゴールデンウィークに入れば、病院も休みになってしまう。その前に一度、病院に連れて行った方がいいのかもしれないなぁ、と和臣は思った。ただ、連れて行く先が内科なのか外科なのか精神科なのか判断できない点が、どうにも不安で仕方ないのだった。

***

 「ストレスなら精神科だし、胃腸炎なら内科だろ」
 「それが判断つかないから困ってるんじゃないですか」
 展示会のための企画書をコピーしながら、和臣はそう言って久保田を睨んだ。
 「奈々美さんは精神的なものだって言い張るけど、オレはもうちょい内臓的なものの予感がするし…。倉木さんが消えちゃえば、その点はっきりするんだけどなぁ。倒れて1週間くらい休んでくれないかな」
 「お前な…いくらなんでも、人の不幸を願うってのはまずいぞ」
 「けど、クビになっちゃえばいいのに、位は久保田さんだって思うでしょ」
 否定できずに、久保田は気まずそうに頬を掻いた。久保田とて、倉木は目障りなのだ。奈々美のために、というよりは、和臣と席が近い自分の精神衛生上の問題なのだが。
 それに―――和臣や奈々美には死んでも言えないが、実は久保田は、佳那子からある裏情報を聞いているのだ。
 『頭きちゃうわよ。まさか私が廊下にいるとは思わずに喋ってたんだろうけど―――あの子ってば“こっちの方が6つも若いんだもん、木下先輩が歳食えば食うほど、こっちが有利になるってことよ。勝ち目はあるよね”なんて言ってるのよ。女の価値は若さじゃないって言うのよ、全く!』
 ―――若さ加減は、そのまんま“バカさ加減”に繋がる場合が多いからな。女に限ったことじゃないが。
 若者に苦言を呈する年寄りになったつもりなど毛頭ないが、そんな皮肉が頭に浮かんだ。直接倉木の口から聞いた訳じゃなくても、胃の辺りがムカムカしてくる。あの妙に甘えたようなねちっこい声でそんなセリフを聞いてしまった佳那子は、もっとムカついただろう。瑞樹の周りをウロチョロしていた連中に対しても、なんだかなぁ、と思っていた久保田だが、こと倉木に関してはだんだん憎悪に近い感情を抱き始めていた。
 「とりあえず、今日で展示会の準備も一段落つくだろ? 暫く定時退社心掛けろよ。カズが早く帰れば、木下だって一緒に早く帰れるんだろうから」
 「ですねぇ…。それ位しかやりようがないのが、もどかしいなぁ」
 和臣は、そう言ってため息をつくと、コピー機の上でコピーし終えた資料をトントン、と揃えた。それとほぼ同時に、コピー室に佳那子がひょいと顔を出した。
 「神崎。そろそろ昼だけど」
 「あっ、ほんとだ」
 腕時計で時間を確認した和臣は、慌てて紙の束を抱えて、コピー室を飛び出した。事情が分からない久保田は、そんな和臣の背中をポカンと見送り、怪訝そうな顔を佳那子に向けた。
 「なんなんだ?」
 「神崎、今日はお昼をナナと一緒に食べるんですって。と言っても、私も一緒に行くんだけど―――久保田も時間合うなら、一緒にどう?」
 「へーえ…じゃあ、俺も行くかな」
 確か、奈々美が「昼くらいは、友達との時間を優先したい」と言うので、昼も一緒に過ごしたがる和臣はひたすら突っぱねられ続けていた筈だ。こりゃ木下もよっぽど弱ってるな…と、久保田も少々心配になった。
 「しかし、何だな。皮肉な話っつーか…木下が、よりによって、この手の話でダメージ食らわされるとはな」
 佳那子と並んでコピー室を出て廊下に向かいながら、久保田はボソボソとそんなことを呟いた。歩きながら財布を手の中で弄んでいた佳那子は、それを聞いて、軽く眉をひそめた。
 「何よ、それ。どういう意味?」
 「ほら、前は木下が倉木的な立場だっただろ? 中本さんの件とか」
 「…ああ。中本さん以外にも色々いたわよねぇ…。私も“他人の男フェチだ”なんて辛辣なこと言ったこともあったけど―――けど、少なくともナナは、好きにはなっても倉木みたいにアプローチはしなかったわよ」
 「おいおい、呼び捨てか?」
 「久保田だって呼び捨てじゃないの」
 苦笑する久保田に、佳那子も苦笑を返し、廊下の壁に寄りかかった。和臣と奈々美が出てくるまで、まだ少し掛かりそうだった。
 「確かにちょっと皮肉な展開ではあるけど…ま、いいんじゃない。相変わらずのラブラブぶりじゃない、あの2人」
 「ま、その点では、結婚前以上だよな。あのカズが、木下の体の心配してオロオロしてる図なんて、全然想像つかなかったもんなぁ…」
 「大人になったもんだわ、神崎も」
 「人に心配かけるのが存在意義みたいな奴だったのにな」
 本人がいないと思って、言いたい放題だ。けれど実際、久保田も佳那子も和臣には随分心配させられてきた立場なので、そんなセリフを吐きたくもなろうというものだ。もっとも、奈々美にも随分と心配させられてきたのだが。
 「…あ、そう言えば、久保田聞いた?」
 ふいに、佳那子の声が小さくなる。その声色から、話のジャンルが察せられて、久保田の顔が嫌な予感に険しくなった。
 「何だ?」
 「7月に、お爺様とお父さん、1対1のスペシャルトーク番組があるらしいの」
 「…げ…嘘だろ」
 その場面を想像して、久保田の全身に鳥肌が立った。

 お爺様、とは、久保田の祖父・久保田善次郎のこと。元国会議員で、今は引退してテレビで経済コメンテーターのような真似をしている。現役時代も、議場で乱闘騒ぎを起こしたりして“瞬間湯沸かし器”という不名誉なあだ名をつけられた彼だが、その武闘派な性格は今も健在で、過激な発言をするコメンテーターとして人気を博している。
 そしてお父さん、とは、佳那子の父・佐々木昭夫のこと。こちらは現役の某シンクタンクの役員だが、お茶の間的にはやはり経済コメンテーターとして名が知れているだろう。知的でダンディな風貌は一部の主婦に人気があるが、外見とは違い中身は相当ヒステリックである。喧嘩をふっかけられると、すぐプチンとキレてしまうので、テレビ画面の中の彼はいつもこめかみに血管が浮き出ているような状態だ。
 この2人、当然と言えば当然だが、犬猿の仲である。
 元々、まるで正反対の経済論を展開している同士で、しかも同じ番組によく呼ばれていたので、犬猿の仲になるのは当然だった。しかし、それに拍車がかかったのは―――やはり、孫である久保田と娘である佳那子が恋仲になったのが原因だろう。
 生番組で流血沙汰まで起こしたことのあるコンビなので、出来ればもう二度とセットで使わないでくれ、と久保田も佳那子も思うのだが、テレビ的には2人が過激であればある程視聴率が取れるので、喜んでセットで使い続けてしまっている。けれど、さすがに1対1なんていう無謀な企画は、これが初めてだ。

 「どこのテレビ局だよ、そのチャレンジャーは」
 「いつも討論番組やってる、あの同じとこ。プロデューサーも同じですって。お父さん、今から気合い入れてるわよ。絶対ぶっつぶす、って」
 「じじいが潰れるのは一向に構わねーけど…恥ずかしいよなぁ、あの2人のマジもんの喧嘩が、公共電波に乗って日本全国にばら撒かれると思うと」
 苦々しい顔をする久保田に、佳那子も沈痛な表情になった。
 「しかも生番組だって言うのよねぇ…無茶だと思わない?」
 「…あのプロデューサー、そのうちクビ切られるぞ」
 「それならマシだけど、下手に視聴率稼いじゃって、余計立場が強くなるのが一番怖いわよねぇ…」

 そうこうしているうちに、和臣と奈々美が事務所のドアを開けて出てきたので、2人は慌てて口を噤んだ。
 2人が有名な犬猿コンビの肉親同士であることは、社長にだって明かしていない秘密だ。相手が和臣と奈々美であっても、やはりこれだけは知られたくなかった。
 「どう? ナナ、食べられそう?」
 熱でもあるのか、うっすら赤味を帯びている奈々美の顔を覗き込みながら、佳那子が訊ねる。返ってきた返事は、あまり力ないものだった。
 「ん…なんとか。サラダとかその辺の、あっさりしたものにする」
 「そう。じゃ、行きましょうか」
 ―――神崎が心配するのも無理ないわね、これは…。
 新婚旅行以来、微妙に体調を崩していたのは気づいていた。倉木の件を差し引いても、常にだるそうで苛立っている様はそれだけで心配だった。が、それもここまでくると、ちょっと異常事態のような気がする。
 昼を食べた後の様子如何では、午後の仕事は休ませた方がいいのかもしれない。会社の近所にあるいくつかの病院や診療所の名前を頭に思い浮かべつつ、佳那子は不安げに眉を寄せた。

***

 佳那子の不安は、間もなく的中した。
 ランチ3つにシーザーサラダ1つ、という、酷くアンバランスな注文をしてすぐに、奈々美の様子がおかしくなったのだ。

 「ちょっとナナ、大丈夫?」
 口元を手で押さえた奈々美は、吐き気を押さえ込んでいるようにしか見えなかった。案の定、ノロノロと顔を上げた奈々美の返事は、無理矢理喉を詰めているような、しわがれた声だった。
 「うー、き、気持ち悪いー。吐きそう」
 「やだ、おなか空き過ぎて、吐き気に繋がってるのかしら…」
 「ううん。多分、ランチのハンバーグの匂いが原因だと思う…。最近、お肉の焼ける匂いとか嗅ぐと、胃の奥からムカムカしてきちゃって…」
 「えっ。じゃ、じゃあ、洗面所行こうよ、ほら」
 慌てて奈々美を抱き起こそうとする和臣を、佳那子は呆れ顔で制した。
 「こら、神崎。男が連れて行く訳には行かないでしょ。私が連れてくから」
 「ダメですっ! な、奈々美さんはオレの奥さんなんだから、他人に任せるなんて真似、たとえ佳那子さん相手でも絶対嫌ですっ!」
 「……」
 あっぱれ―――いや、もしかしたら一種のパニック状態なのかもしれない。
 唖然として言葉を失う佳那子と久保田をよそに、突如奈々美が席をガタンと立った。両手で口を押さえたその顔は、完全に我慢の限界といった苦しげな表情だ。驚く3人を残し、奈々美は切羽詰った様子で、ファミレスの奥へと駆け出してしまった。
 「奈々美さんっ!」
 「あ、こら、カズ、待て」
 久保田の制止を無視して、和臣はその後を追った。当然、その向かった先は、奈々美が駆け込もうとしている場所―――女子トイレだったりするのだが。
 「キャーッ! ちょ、ちょっと、あんた、何なのよっ!」
 「すみません、すみません、妻の緊急事態なんですっ」
 中年女性とトイレの入り口辺りでぶつかった和臣は、口ではそう謝りつつ、奈々美を追いかけて本当に女子トイレに入ってしまった。当然―――直後、遠くから、複数の女性の悲鳴が聞こえた。
 「バカ…」
 「…神崎らしいと言えば、神崎らしいけど」
 愛は盲目―――まあ、事情を説明すれば、店側も2人が夫婦なのは知っているから、理解を示してくれるだろうが。

 いや、それよりも。
 今の場面で、直感的に分かったことが、1つ。

 「…ねえ、久保田。ナナってもしかして…」
 「…だよな」
 チラリと目を合わせ、久保田と佳那子は複雑な表情をした。なんで2人が気づいたのに、当の本人たちがさっぱり気づかないんだろう? …と。


 店の奥では、暫く、バタバタした様子が続いた。奈々美を連れて和臣が戻ってきたのは、ランチやサラダがテーブルの上に並んでからだった。
 「ご…ごめんね、佳那子も久保田君も。食事前だってのに、酷いとこ見せちゃって」
 まだ少し気分が悪そうにしながらも、奈々美はさっきより覇気のある声でそう謝った。顔色も、かなりまともになっている。むしろ、隣にいる和臣の方が、心配のせいか、はたまた店員や女性客に責められてげんなりしているせいか、顔面蒼白状態だ。
 「いや、俺達は別に構わないさ。どうだ、食べられそうか?」
 「うん、なんとか。吐いちゃえば結構平気なのよ。サラダ位なら、楽勝で入りそう」
 「そうか。だったら、それきちんと食べ終えたら、その足でカズと一緒に病院行ってこい」
 「えっ」
 久保田のセリフに、奈々美も和臣も目を丸くした。蒼白の和臣の顔が、更に血の気を失う。
 「びょ、病院、って―――どこですかっ。内科? それとも精神科?」
 久保田と佳那子の顔を見比べつつ慌てふためく和臣に、佳那子は困ったような笑みを返して、首を横に振った。
 「違うのよ、神崎。そのどちらでもないわ」
 「は???」
 どこか決まりの悪そうな佳那子の笑みに、和臣も、そして隣に座る奈々美も、不思議そうに首を傾げた。
 「…じゃあ、どこ、ですか?」


***


 「おめでとうございます。現在2ヶ月ですよ」
 和臣も診察室に招きいれた医師は、ニコニコ顔でそう2人に告げた。
 「―――…」
 もの凄いことを宣告されたにも関わらず、和臣も奈々美も、姿勢を正して椅子に座ったまま、キョトンとした顔で固まってしまった。

 ここは、外科でも精神科でもない、産婦人科。
 久保田や佳那子に言われるがまま、昼食後、2人でここを訪れたが―――正直、こういうオチは、全然予想していなかった。

 「…あの…つまりそれって」
 恐る恐る和臣が確認を求めると、中年配の女医は、温厚そうなその顔に更なる笑みを乗せて大きく頷いた。
 「ええ、奥様は妊娠2ヶ月ということです」
 「じゃあ、あの、最近食欲なかったり、食べ物の匂いで気持ち悪くなったりするのは…」
 最近の自分の異変の正体を感じ取り、奈々美がそう訊ねると、医師はこれにも大きく頷いた。
 「いわゆる“つわり”です。ご存知でしょう? 他にも、眠くなったり体がだるくなったり、精神的に不安定になったりします。人によって症状は様々ですけど、安定期に入れば良くなりますよ」
 「……」
 2ヶ月。
 2ヶ月前と言えば―――タイに新婚旅行に行ったあたり。
 あと2週間ほどで、結婚1周年の2人ではあるが…つまりこれは、ハネムーン・ベイビーというやつで。
 「…あの…」
 喉が急激にカラカラに渇きだす。震えそうな声で、和臣はもう一度、医師に訊ねた。
 「今、2ヶ月、ってことは、その…」
 「そうですね。予定日は年明け早々ですね。21世紀の幕開けと同時に、あなたも立派なお父さんですよ」
 「―――…」

 “お父さん”。
 その単語を聞いた途端に、一気に実感した。奈々美と自分の間に、子供が生まれるんだな、と。

 実感した途端―――頭から、血の気が引いた。

 ぐらり、と頭が傾く。次の瞬間、和臣は、椅子から落っこちていた。
 「きゃーっ! か、カズ君っ!?」
 慌てて奈々美が、床の上にひっくり返った和臣を抱き起こそうとした。が、和臣の体は完全に力を失っていて、小柄な奈々美では床についた膝の上に頭を乗せるだけで精一杯だ。
 「き…気絶…?」
 「あらまぁ。ご主人たら、よっぽど嬉しかったんですね」
 …嬉しすぎて気絶なんてあるんだろうか?
 でも、憧れの大スターのコンサートなどで、感激と興奮のあまり気絶するファンもいるらしいから、子供ができたと聞いて気絶する父親がいてもおかしくはないのかもしれない。ちょっと変だとは思うが―――こと和臣に関しては、そういうリアクションもなんだか頷ける気もする。
 「仕方ありませんねぇ。ナースを呼びますから、仮眠室で少し休ませてあげましょう」
 「す、すみません…」
 「あなたも、眠いようなら少し眠っておきなさいね。多分、ここ1、2ヶ月が一番苦しいと思うけど、食べられる時には無理してでもきちんと食べて、眠かったらしっかり眠って―――いいわね?」
 「…はあ…」

 ―――変な感じ。
 自分の中に、自分じゃない人間がもう1人いる。…とてもじゃないが、全く実感できない。もの凄く変な気分だ。
 けれど―――どうやら自分は、今度の正月辺りには、母親になるらしい。いや、もう既になってるのか。

 さっぱり実感を伴わない話に、和臣を抱き起こす奈々美は、嬉しさよりも戸惑いばかりを感じていた。
 そして、子供ができたというおめでたい話に対して、嬉しさよりも戸惑いを多く感じている自分に、少しばかりショックを覚えていた。


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