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― 明け方に見る夢は真実を語る ―

 

 夢の中で、和臣は必死に走っていた。
 なんでそんなに必死に走っていたかと言うと、奈々美にとんでもない危機が迫っているからだった。

 「ほーら、神崎さん。これでもあたしとデートしたくないって言うんですかぁ?」
 ふふふ、と悪代官並みの悪役笑いで和臣を迎え討つのは、当然、倉木である。
 倉木は今、会社の屋上にいる。高いフェンスで囲われている筈の屋上から綺麗さっぱりフェンスが消えているのは、夢ならではのことだろう。その、1歩ビルの端を踏み外せば奈落の底へまっ逆さま、という場所に―――奈々美が、倉木に腕を掴まれた状態で立たされていた。
 つまり、デートの誘いに応じなかったら、奈々美を突き落とすぞ、という訳だ。いくらなんでも、実物の倉木はここまで悪辣ではない。あんまりな夢だ。
 「ねえ、倉木さん。ちょっと、離してよ。展示会のためのデモソフトがフリーズしちゃってるから、システム部に文句言いに行かなくちゃいけないんだから」
 命の危機が迫っているのに、奈々美がそんな呑気なセリフを吐くのも、やっぱりこれが夢だからだ。というか、デモソフトの件でシステム部とごたごたやりあっているのが、実際には和臣本人だからだ。
 「やだー、木下先輩ってば何呑気なこと言ってるんですかぁ? そういう態度取ってると、ダーリンが来る前に落としちゃいますよ」
 「わーっ! バカバカバカ、落とすな、倉木ーーーっ!!」
 非常識に冷静な奈々美とは対照的に、悲鳴を上げる和臣はパニック寸前だ。いや、現実に戻れば、これが普通の反応なのだが。
 「もう遅いです。じゃあ木下先輩、さようなら」
 パッ、と倉木が手を離すと、奈々美はバランスを崩してビルから落ちそうになった。

 落っこちる寸前、奈々美の体をダイビングキャッチできたが、そのまま2人してビルの端っこから落っこちる。
 とんでもない悲鳴を上げたのは、やっぱり、奈々美ではなく和臣の方で―――ゾッとするような落下感に背中に氷でも突っ込まれたような衝撃を受けた、その直後。


 和臣は、現実世界でも、ベッドから落っこちて床に頭を打ちつけていた。

***

 「落ちてる夢見て、ベッドから落ちたって? 情けねーなー、カズ」
 「…ほっといてください」
 サーバーをコーヒーメーカーに戻しながら、和臣は恨めしそうな目で久保田にそう言った。
 午前中、客先に出ていた久保田は、今ちょうど戻ってきたところだ。昼休みまで少し時間があるが、社内の仕事に取り掛かるには少々中途半端な時間なため、コーヒーでも飲んで時間を潰そうという訳で、いつもの如くミーティングテーブル脇に置かれたコーヒーメーカーの辺りをうろついている。
 一方の和臣は、午前中も社内だった。今朝ほどの情けない話は絶対久保田には知られたくないところだったのだが、一部始終を知る唯一の人物―――つまり奈々美に、早々に暴露されてしまったのだ。
 「今度はお前の方がストレス状態なんじゃないか?」
 「…そうかも」
 「一向に態度に変化ねーもんなぁ…あいつ」
 そう言って久保田がチラリと背後を見遣る。当然、その視線の先にいるのは、奈々美と机を並べている倉木の後姿―――どうやら今は急ぎの仕事があるらしく、奈々美の指示を仰ぎながらせっせとキーボードを叩いている。
 「なんだかんだで、もうすぐ5月も終わりだけど…クビになる様子はないですね」
 残念、という顔で和臣が言うと、久保田も眉を寄せて残念そうに頷いた。
 「チャッカリしてるからな。営業の連中の受けは悪くないんだよ。それに、お前らに関する点でも、周囲は面白がっちまってる部分があるからな」
 「面白がらないで下さいよ〜」
 「バカ。お前らの間が倉木の攻撃ごときで動じないことを全員認めてるからこそ、面白がってるんだろ。お前らが困ってるの見て面白がってるんじゃねーぞ? 倉木が無駄なアプローチしてる様を面白がってんだ」
 それはそうかもしれないが―――当人たちにしてみれば、全然面白くもなんともない。

 奈々美に子供が出来たことは、勿論、その日のうちに会社に伝えた。
 休職した方がいいんじゃないのか、と上司は心配したが、奈々美は「別に病気じゃないんですから」と取り合わなかった。6月の展示会には、奈々美も随分関わってしまっていたので、この時期に抜けるのは絶対嫌だったのだろう。相変わらず激しいつわりに苦しめられている奈々美なので、和臣としては休んで欲しい気もするのだが―――でも、自分の留守中にひとりで家で苦しんでいる奈々美、という図を想像すると、背筋が寒くなった。それよりは、目の届くところに居てくれた方が、和臣的には安心だ。
 それに、仕事を抜きにしても、倉木の問題がある。
 子供が出来た、という話を聞かされた時―――倉木は、一瞬、強烈に不愉快そうな顔をした直後、はっきりと「これはチャンスだ」というニンマリ笑いをしたのだった。
 以来、約1ヶ月。倉木のアプローチは、全然変わらない。奈々美の目の前で、というのは奈々美の体のことを考えると洒落にならないのでさすがに控えるようになったが、その分、奈々美の目を盗んで、という更に厄介な戦法に出てきた。
 だから和臣は、社内でもなるべく奈々美の傍から離れないようにしている。半分は奈々美が心配だから、半分は“倉木除け”である。

 「お茶の1杯も付き合ってやって満足するなら、1度位我慢しないでもないんだけど…あれは絶対、それじゃ済まないよなぁ」
 「当然だろ。コール・センターの連中の噂じゃ、大学時代に教授と不倫してたって話まであるんだぞ。お前も変なのに目を付けられたよなぁ…」
 俺じゃなくて良かった、と久保田が密かに不謹慎な安堵の息をついているところに、背後から人影が近づいてきた。
 「あーあ、疲れちゃった…」
 「あっ、奈々美さん。お疲れ様」
 ぱっ、と明るい顔になった和臣の声に振り返ると、本当に疲れた顔をした奈々美が、だるそうに立っていた。
 一見、これまでの奈々美と何ひとつ変わったところなどないように見える。服装もまだマタニティを着るほどではないので、1ヶ月前とさして変わりない。なんでも電磁波防止用の下着か何かを着ているのだと和臣が言っていたが、久保田の目でそれが確認できる訳ではない。こうして見ている限りは、一瞬、妊婦であることを忘れてしまいそうだ。
 「よぉ、お疲れ。どうだ、後輩は」
 「んー、まあ、そこそこ。とりあえず、あとは自分で出来そうな作業だから、一足早く休憩させてもらうの」
 「ほら、座って座って」
 慌てて和臣が、ミーティングテーブルの椅子を引いて、奈々美を支えるようにして座らせた。そして、何を思い出したのか、はたと動きを止め、奈々美の顔を覗き込んだ。
 「奈々美さん、ひざ掛けは?」
 「まだロッカーの中よ」
 「ええっ、駄目じゃんっ! 先生が言ってただろ? 足を冷やしちゃいけないって」
 「やだ、まだ5月よ? 冷房なんてほとんど入ってないじゃないの。昨日カズ君の言いつけ守ってひざ掛けしてたら、もう眠くて眠くて仕事にならなかったんだから」
 「でもさー」
 「あのね。寒かったらちゃんと掛けるから。カズ君、心配しすぎよ」
 確かに過保護すぎる。奈々美は大人なのだから、こんなに色々和臣が心配する必要などないのに。
 でも、こういう時、男は結構無力だ。自分の子供のことなのに、ただ心配してオロオロすることしかできない。中でも和臣は、こういう心配事に弱いタイプなのだ。
 「と、とにかく…まだ少し昼間で時間あるから、とりあえずコーヒーでも飲んで」
 そう言って、和臣は甲斐甲斐しくコーヒーをプラスチックのコップに注ぎ、奈々美の目の前に置いた。
 途端―――奈々美の顔色が、一気に冴えなくなった。
 「…うっ」
 うわ、きた。
 この1ヶ月、何度も目にしてきた光景。日によって駄目な匂いが違うのが厄介だ。早くそれをどけてやれ、と久保田が和臣に言おうとした時。
 「うぐ…」
 まるでつわりが伝染したみたいに、和臣が後ろによろけ、口元を押さえた。
 「おい、嘘だろ」
 「だ、駄目だ、気持ち悪い」
 久保田の突っ込み無視で、和臣は猛ダッシュで事務所を出て行った。その姿は、つわりを起こした時の奈々美そっくりだ。
 「おい…カズがつわりを起こしてどうするよ…」
 「―――気にしないで、久保田君。最近いつもなの」
 唖然とする久保田に、一時的な吐き気で終わったらしい奈々美は、そう言って苦笑した。それでもコーヒーの匂いが駄目であることに変わりはないらしく、さりげなくコーヒーをテーブルの端っこまで遠ざけている。
 「家でも、ご飯の準備してる時に私がつわり起こすと、それがカズ君に伝染(うつ)っちゃうみたいで、私より先に吐いちゃうのよ」
 「…お前ら、そんなことで明日、大丈夫か?」
 さすがにちょっと、眉をひそめる。こんな状態の2人を連れ出すのは、いかに久保田と言えども少々勇気の要ることだ。けれど奈々美は、あっさり笑顔で切り返した。
 「大丈夫。最悪の状態でも、絶対行くわよ。だって、あの2人をビックリさせるなんて、二度と出来ないかもしれないもの」

 明日は、半年振りに、瑞樹や蕾夏と会う日だ。
 事前に届いたメールによれば、瑞樹も蕾夏も、昨日既に日本には帰ってきているらしい。ただ、雑事をいくつか片付けなくてはいけないので、明日の会社帰りに待ち合わせをして、半年振りに6人顔を揃えて飲みに行くことにしているのだ。
 1ヶ月前、奈々美の妊娠が分かった時、久保田や佳那子や奈々美当人はそれを2人にも報告しようとした。けれど、和臣1人がそれに待ったをかけた。
 『ポスターの件で黙秘した仕返しをしてやる。だから、久保田さんも佳那子さんも、成田にメールしちゃ駄目ですよ。あ、藤井さんにも駄目ですからっ』
 そんな訳で、瑞樹と蕾夏の2人には、この件はまだ伝えていないのだ。
 明日、その事実をいきなり知らされた2人は、どいう反応をするだろう? あっさり「ふーん、良かったね」のような気がしないでもないが…でもまあ、久保田もそれは、少し楽しみではある。

 「それに、確かにつわりはあるんだけど…正直、まだ実感ないのよねぇ。まだおなかも出てきてないし。ただ単に体調が悪いだけの普段の私、って感じ。だから、久保田君もあんまり心配しないで」
 ―――いや、木下に自覚が足りないから、周りは心配してんだろ。
 ニコニコ笑う奈々美に、久保田は心の中でそう突っ込みを入れた。
 確かに和臣は少々過保護すぎると思うが…ああいう夫がいなかったら、背が低いことにコンプレックスを持っている奈々美は、これまで同様ヒールの高い靴を今も履き続けていたに違いないし、電磁波防止グッズとやらも購入しなかっただろう。“たまごクラブ”なんてのを買い漁っているのも和臣の方で、最近ではどっちが妊婦なのやら分からない位だ。
 「あのな。男の俺が言うのもなんだが…木下、もうちょっと自覚持った方がいいぞ?」
 さすがに心配になってきて言うと、奈々美はアハハ、と明るく笑った。
 「佳那子にもそう言われたわ。やだもう、2人して心配性なんだから。大丈夫よ、産婦人科の先生だって、大事にし過ぎるのは結果的には良くない場合もあるって言ってたもの」
 ―――大事にしなさ過ぎるのは、もっと悪い気がするんだが。

 九州にいる久保田の2つ違いの姉も、結婚はしたものの、まだ子供がいない。つまりは、久保田は、妊婦と関わりを持つのはこれが初めてなのだ。
 佳那子は、仲の良い従姉妹が去年2人目を出産したと言っていた。なんだか、似た立場にありながら、佳那子より自分の方がオロオロしてるように感じるのは、そういった経験値の違いからくるものなのだろうか? それとも―――子供を産むようにできてる女と、それを見てることしか出来ない男の違いなんだろうか?

 つわりが伝染して吐いてる和臣を、馬鹿にはできないかもしれない。
 何故なら、同じ事態に遭遇した場合の自分を想像した久保田の脳裏には、和臣と全く同じ行動パターンに陥っている自分の姿がはっきりと浮かんでしまったのだ。

***

 「お先に失礼しまーす」
 「はい、お疲れさま」
 やれやれ、やっといなくなる、という気持ちを隠して、奈々美はにこやかに倉木を見送った。着替えるためにロッカーに消える倉木の背中を見たら、どっと1日の疲れが押し寄せてきた。
 ―――カズ君のことがなければ、まあ、悪くない後輩なんだけどなぁ…。
 有能、とはいかないまでも、まあ指示を与えればきちんとこなす後輩だ。ただし、いわゆる“指示待ち”タイプで、自分から仕事を買って出る、という積極性は、和臣に対して以外は一切持ち合わせていないが。
 倉木のことを考えると、部長の勧め通り、休職してしまいたくなる。でも、死んでも休職なんてするか、と意固地になる理由も、その倉木だったりするのだから、厄介だ。はふ、とため息をついた奈々美は、自分もそろそろ仕事を切り上げよう、と席を立った。
 「奈々美さん、終わった?」
 ちょうどそのタイミングで、和臣が営業部に顔を覗かせた。
 「うん、終わった」
 「良かった。オレもちょうど終わったとこ。帰ろっか」
 「そうね」
 まだロッカーにいる筈の倉木を考えるとちょっと気が重かったが、奈々美も久しぶりに早く帰りたかった。和臣に少し待っているように頼んで、小走りにロッカールームへと向かった。
 ロッカールームのドアを開けると、まだ倉木が着替えている最中だった。
 「あれっ、木下先輩、もう帰るんですか?」
 「ええ」
 制服に着替えていた新人の倉木とは違い、奈々美は私服のままだ。キョトンとした顔の倉木に短く返事をすると、奈々美はさっさと自分のロッカーからバッグを引っ張り出した。
 「てことは、神崎さんも? あたし、神崎さんに資料の件でちょっと質問があったんですけどぉ」
 着替えてから訊きに行く気でいたのだろうか、倉木は、どことなく面白くなさそうな声でそんなセリフを吐く。ちょっと不愉快そうに眉を歪めた奈々美だったが、努めて平然とした笑みを装い、
 「仕事の話なら、明日でいいんじゃない? …じゃ、お先にね」
 と言い残して、ロッカールームを後にした。
 事務所のドアの傍で待っていた和臣は、出てきた奈々美の表情が異常に険しいにの気づき、ちょっと顔を引きつらせた。
 「ど、どうしたの、奈々美さん」
 「…なんでもないわ。早く行きましょ。でないと、タイムカードでまた倉木さんと鉢合わせしちゃう」
 倉木の名前が出たことで、なんとなく事情は分かったのだろう。和臣は、納得したような顔になって、奈々美と共に廊下へと出た。

 妊娠して以来、奈々美は、4階の事務所に行く時でもエレベーターを使うように和臣に言われていた。けれど、エレベーターは、まだ8階で止まっていた。待っている間に倉木が追いついてしまうと思うと、ちょっと嫌だった。
 「階段で行かない?」
 チラリと和臣を見上げてそう提案すると、和臣はあっさり笑顔で頷いた。
 「うん、いいよ。オレが一緒なら、何かあっても助けてあげられるから」
 「…あのねえ。カズ君、ちょっと過保護すぎると思うわよ? 階段位いいじゃない。そんなので神経尖らせてたら、二階建てに住んでる妊婦さんなんて、子供生まれるまで1階で暮らすしかなくなっちゃうわよ?」
 「うーん、でも…奈々美さんて結構ドジだから、もしうちが二階建てだったら、本当に1階だけで暮らせるように模様替えしたと思うよ、オレ」
 にっこり笑う和臣だが、この言葉が冗談ではなくマジであることが分かっている奈々美は、ちょっと呆れ顔になってしまった。それだけ愛されているという証拠でしょう、と言えば聞こえはいいが、こちらは和臣より3つも上なのだから。
 ともかく、階段で下りる許可が出たので、奈々美は和臣と連れ立って階段へと向かった。そして、階段の最上段に足を掛けた、その直後―――悲劇は起きた。

 「あ、いたいた…神崎さーん!!」
 背後から、倉木の声が響いた。
 ギクリと肩を強張らせた和臣の隣で、奈々美が条件反射的に振り返った。そして―――1段下りようとしていた足が、階段の端を掠めて、滑った。
 ガクン、と、ただでさえ低い奈々美の頭の位置が下がる。
 「きゃ……!!」
 「な…っ、奈々美さんっ!!!」

 奈々美が、階段を、踏み外した。
 この先に待つのは、下まで20段弱の階段を転げ落ちる、という結果のみ―――それを察した和臣は、咄嗟に奈々美を抱えた。そう言えば、この同じ階段で、2年ほど前、瑞樹に同じように抱えられて転げ落ちたことがあったな…と、頭の片隅で思い出しながら。

 思い出した直後、和臣と奈々美は、階段の最上段から踊り場まで、派手な音を立てながら一気に転がり落ちた。
 今朝の夢は正夢だったな、と思った和臣だったが、夢とは違って自分も奈々美も声を上げられなかった。そして、唯一、踊り場のコンクリートの壁に反響したのは―――耳を(つんざ)くような倉木の悲鳴だった。


***


 「…で、この有様ってことか」
 「そういうこと」
 佳那子から一通りの説明を聞いた瑞樹と蕾夏は、呆れたような疲れたような目をして、病室の奥に仲良く並んで寝かされている和臣と奈々美に目をやった。
 奈々美の方は、起きていた。上半身だけを起こして、気まずそうにモジモジしている。和臣に庇われながら落ちたので、傷らしきものは一切見当たらない。
 その隣のベッドに布団も掛けずに寝転がっている和臣は、ただいま熟睡中だ。頭に包帯が巻かれているのは、右の眉の上辺りを階段の角で打ちつけてしまったせいだ。軟弱者の和臣だが、落ち方が良かったのか、その傷以外は前回の瑞樹同様の足の捻挫だけだった。
 和臣も奈々美も、精密検査の結果、特に異常なしとのことだ。勿論、お腹の子供の方も問題なし。けれど、和臣は頭を打っているし、奈々美も危ない時期ということもあって、2人とも一晩入院して様子を見ることになったのが、昨日の夜のこと。
 「ごめんね、成田君…藤井さんも。久保田君、結構慌てちゃって―――オーバーな留守電を入れてたんじゃない?」
 おずおずと訊ねる奈々美に、瑞樹は冷ややかに眉を上げた。
 「まあな。何事かと思ったぜ」

 『瑞樹!? 瑞樹か!? お前、この留守電聞いたら、すぐに病院に来い! カズが意識不明で、木下が流産の危機だ!』

 この留守番電話を聞いて驚かない奴がいたら、そいつは間違いなく人間ではない。奈々美が妊娠した話など知らない瑞樹だから、余計びっくりだ。
 確かに、久保田がその電話を入れた時点では、久保田がそう思ってもおかしくはない状況ではあった。和臣は脳震盪を起こして気を失っていたし、奈々美もまだ精密検査の真っ最中―――佳那子だって、最悪のシナリオを一瞬思い浮かべたほどだった。
 「全く、久保田のやつ…結果が出るまで待ちなさい、って言ったのに、いくら落ち着かないからって、何も成田に電話しなくても」
 前日の久保田の慌てぶりを思い出して、佳那子は眉間に皺を寄せた。
 「本当は、ナナの実家にまで電話しかけたのよ。それは私が止めたから良かったけど」
 「でも、なんとなく久保田さんらしい」
 廊下をウロウロしながら、俺は何をすりゃいいんだ、と焦りまくる久保田の様子を想像して、蕾夏がくすくす笑う。日頃落ち着いている久保田だが、本当にパニックになった時は、案外誰よりも意味不明な行動を取りそうな気がした。
 「あれ? でも、当の久保田さんは? 瑞樹、今朝電話したんでしょ?」
 病室内に彼の姿がないのに気づいて、蕾夏は瑞樹を見上げた。
 「仕事。外せない会議があるらしい」
 「そっか…今日って平日なんだよね。なんかピンと来ないなぁ…。あ、そしたらカズ君と奈々美さんはお休み? 佳那子さんは?」
 「私は午後から仕事に戻るわよ。ナナと神崎は休み。でしょ?」
 「…うん。もう2人とも退院許可おりてるし、私はどこも何ともないけど…カズ君の足がこれじゃ、ね。家帰って、1日のんびりするわ」
 ベッドの上に投げ出された和臣の足に目をやりながら、奈々美が苦笑混じりに答えた。結構酷い捻挫だったらしく、随分包帯をグルグル巻かれてしまっている。その足が、ふいにピクリと動いた。
 どうやら、和臣が目を覚ましたらしい。それに気づいた瑞樹と蕾夏は、ドアに程近い佳那子の傍を離れ、和臣のベッドの傍へと歩み寄った。
 「カズ君、大丈夫?」
 「―――うー…」
 蕾夏の声に眠そうに呻いた和臣は、ギュッと眉間に皺を寄せると、ゆっくり目を開けた。
 パチパチ、と数度瞬きを繰り返し、ぼんやりと中空を眺める。やがて焦点が合ってきた和臣は、その視界に瑞樹の顔を捉えると、目を大きく見開いてガバッ、と起き上がった。
 「成田っ!」
 頭を打ったというのに、そんなに急激に起き上がって大丈夫なんだろうか。そう思った瑞樹だったが、咄嗟に返した言葉は、もの凄く普通だった。
 「…よ、久しぶり」
 のんびりそう答えた瑞樹とは対照的に、和臣は必死の形相で叫んだ。
 「ポスターはっ!?」
 「は?」
 ポスター??
 突然飛び出した意味不明な言葉に、その場の全員がキョトンとする。が、和臣は、真剣そのものの顔で、瑞樹のシャツの裾辺りを掴むと、ずいっ、と迫ってきた。
 「藤井さんのポスターだよっ! お前、新品状態のやつ持ってない!? うちに貼ってあるやつ、端っこが破れてるんだよ〜〜!」
 「―――…」

 …貼ってんのかよ、あれを。
 冗談だろ、と言葉を失う瑞樹の隣で、蕾夏の体がグラリと傾いだ。無理もない。貼られているらしいポスターのモデルは、蕾夏本人なのだから。
 いや、それよりも。

 「…おい」
 一度息を吸い込んだ瑞樹は、刺すような目つきで和臣を睨みおろした。
 「半年振りに会って、しかもこんだけ心配かけといて、いの一番に言うセリフがそれか!? いい加減にしろっ!!!」


***


 「…ったく…人の親になろうってのに、相変わらず迷惑な奴」
 「―――まあ、良かったじゃない。2人とも無事でさ」
 ぶつぶつ言いながら歩く瑞樹を見上げて、蕾夏は無理矢理な笑顔を作ってみせた。が、瑞樹の反応は冷たい。軽く片方の眉を上げ、憮然とした顔で蕾夏を見下ろした。
 「お前、そんなこと言えた立場か? お前のポスター、あいつらの家に貼られてるんだぞ」
 「…う…嫌なことを思い出させないでよー…。レオ様の隣に貼られてるなんて、想像するだけで怖いんだから」
 「ムカつく…」
 あのポスターは、できれば世に出回って欲しくなかったものだ。どこにあってもムカつくのだが、和臣の家にあると思うと、余計ムカつく。女神信仰のように蕾夏を崇めている和臣のことだから、あのポスターに向かって毎朝手を合わせる位のことはやりかねない。
 「けど、びっくりだね。来年のお正月には、カズ君がパパで、奈々美さんがママだよ。信じられる?」
 もうポスターの件からは離れたいのか、蕾夏がそんな風に話を切り替える。瑞樹も、もうポスターのことは忘れたいので、その話の流れに乗った。
 「まあな。けど、別に不思議じゃないよな。1年経つんだし」
 「うん。でも、なんかやっぱり、びっくり。半年いない間に、大きく変わっちゃった感じがして」
 「ま、いいんじゃねーの。おめでた続きで」
 「…あ、そっか」
 おめでた続き―――そうだった、と、蕾夏は少し表情を変えて、瑞樹の顔を見上げた。
 瑞樹の妹・海晴にも、2人の帰国の2日前、子供が生まれたばかりなのだ。瑞樹の父は、既にその顔を拝んできたらしい。が、瑞樹と蕾夏は、まだ見ていない。海晴はまだ神戸に留まっていたのだし、会うだけの時間もあったのだが…瑞樹が、やめようと言ったのだ。
 最愛の妹に何故会おうとしないのか―――蕾夏にはその理由が、なんとなく分かる。向こうはずっと会いたがっているのだから、会ってやりたいという気持ちもあるだろう。それでも会わないのは…怖いからだ。きっと。
 母と瓜二つだったという妹。瑞樹の記憶に鮮烈に残る若い頃の母と、今の海晴はほぼ同じ年齢だ。一番会いたい人は、二度と見たくない人と同じ顔をしている。…だから、会わないし、会えない。
 「―――名前、気に入ってもらえて、良かったね」
 あえてその話には触れず、蕾夏は、海晴に託した子供の名前についてだけ、そう口にした。
 「(ひかる)君、かぁ…。なんか、将来モテそうな名前」
 「そうか? お前が“ヒカル”って響きがいいって言うから、その名前にしたのに」
 「でも、光って字より晃君の字の方が、どことなく二枚目っぽい。それに、瑞樹の甥っ子だもん。絶対女難の相があると思う」
 「…恐ろしいこと言うな」
 くすくす笑う蕾夏の額を、瑞樹は軽く指で弾いた。少なくとも、海晴と自分は、兄妹だなんて誰も信じない位に似ていなかった。たとえ血が繋がっていても、自分の要素は甥っ子には受け継がれていないだろう。そう信じたい―――瑞樹自身が、父から女難の相を受け継いでしまっただけに。
 「―――ま、墓参りのついでにでも、一度顔見るつもりだし」
 再び視線を前に向け、瑞樹はさらりとそう付け加えた。あえて触れなくても、蕾夏が何を懸念しているのかは、よく分かるから。
 そんな瑞樹に、蕾夏は、弾かれた額を押さえながらも、ふわりと柔らかな笑みを浮かべた。
 「…ん、そうだね」
 「とりあえず今日は、携帯買いに行くか」
 「うん。あ、携帯買ったら、映画行かない? 今晩の予定、キャンセルになっちゃったから、暇になっちゃったでしょ」
 「今って何やってんだ? “ボーン・コレクター”は終わったか」
 「うーん、まだやってるかな。“ミッション・トゥ・マーズ”は、まだかな…観たいような、観たくないような」


 和臣と奈々美の件で、ちょっとした浦島太郎気分を味わったものの。
 こうしていると、ロンドンにいる間大きく傾いていた2人のバランスが、ゆっくりと元に戻っていく。半年前のバランス―――親友、プラス、恋人に。

 バランスが傾いたままでは、この先の日々が辛すぎる。でも―――今日、懐かしい面々の顔を見たことで、2人はやっと、“現実”を実感できた気がした。


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