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「やぁ、成田君。1週間ぶり」
待ち合わせのホテルのロビーに現れた時田を見た時、瑞樹は思わず1歩
「…やつれましたね、妙に」
一昨日から日本に帰国している筈の時田は、1週間と少し前、ヒースロー空港で見た時の半分位の精気しかないように見える。いや、別にどこがどう変わった訳でもないのだが―――目の表情や、体全体に漂うムードが。
時田本人も自覚があるのか、瑞樹の指摘に誤魔化し笑いのような笑みを浮かべて頭に手をやった。
「ハハ…まあね。成田君達がいる間、散々甘やかされてたもんだから、1人になった途端、毎日がハードワークだよ」
「アシスタント雇えばいいのに」
「希望者は1人来たけど、僕側のハードルが高いから仕方ない。まあ、暫くは奏君をこき使う予定だから」
奏、という名前が出て、一瞬瑞樹の表情が曇った。が、時田にそれを気づかせるのはまずい。すぐに普段通りの表情に戻し、口元に僅かに笑みを乗せた。
「フリーになりたてで暇にしてるんじゃないですか、あいつ」
「みたいだね。けど、焦ってはいないみたいだよ。一生モデルで終わる気もないらしいから、まあ、暇な時間は“自分探し”の時間かもしれないね」
そう言って笑う時田は、その瞬間だけ、奏の肉親の顔になる。どうやら、時田と奏は、前よりも円満な関係を築いているらしい。
「そう言えば、今日、藤井さんは一緒じゃないんだね」
今気づいた、というように周りを見渡して言う時田に、瑞樹は呆れ顔になった。
「来る訳ないでしょう」
「いや、そうなんだけど…なんか、成田君単体って、変だよなぁ。半年間、藤井さんとセットで見てきたから。…で、彼女は?」
「あいつはあいつで、今日、運命の分かれ道です」
瑞樹がそう言うと、時田はすぐに状況を察したらしく、ははあ、という顔をしてにやりと笑った。
「なるほど。“月刊A-Life”と契約結びに行ってる訳だ。まあ、大丈夫だろう。裏情報じゃ、編集長、結構藤井さんの書いたシミュレーション記事、気に入ってたらしいから」
「だと、いいんですが」
「ふうん…てことは今日、運がよければ、向こうで会えるな」
「―――…」
確かに…今から訪問する客先の1軒は、“月刊A-Life”の編集部だ。それはそれで、楽しみなような、勘弁して欲しいような。
ともかく、今日は、瑞樹にとっても蕾夏にとっても、新しい第一歩を踏み出す日―――そのことだけは、間違いない。“お互い、明日に繋がる日になればいいね”という昨日の蕾夏の電話を思い出し、瑞樹は改めて気を引き締めた。
「―――それで、どこから行きますか」
「まずは、広告代理店からだな。作品集は作ってきた?」
「急ごしらえですが、一応は」
「とりあえず見せてくれるかな」
ロビーのソファにようやく腰を落ち着けてそう言う時田に、瑞樹は少し緊張した面持ちで、用意したポケットアルバムのうちの1冊を手渡した。
時田郁夫は、世界レベルで活躍しているフォトグラファーである。
国際的なフォト・コンテストで3回も賞を取っているという実力派で、現在、活動拠点をイギリスと日本の2ヶ所に設けている。1年の半分ずつをそれぞれの国で暮らしている、といった感じだ。
今でこそ有名な風景写真家だが、元々彼はオールラウンダーだ。元編集者だったこともあり、雑誌関係の繋がりも深い。しかも、撮れれば何でも撮る、という貪欲な時代があったせいで、今や日本にもイギリスにもクライアントだらけ―――はっきり言って、時田のキャパシティはパンク寸前だ。
そろそろ、活動の中心をイギリスに据えたい―――そう思っていたところに現れたのが、瑞樹だった。
瑞樹を、半年間で“今すぐ時田郁夫の代わりが務まるカメラマン”に仕立て上げて、日本の重たい仕事を瑞樹に譲る。それが、時田の計画。そして、半年経った今、瑞樹は、完全な新人カメラマンでありながら既に雑誌2つ、広告代理店2件という顧客を背負わされている訳だ。
フリーは、営業活動が一番難しい。そういう意味では、瑞樹はとんでもなく恵まれたスタートを切れる、非常に稀な新人と言えるだろう。けれど、時田郁夫の後釜、というポジションは、時田の著名さから考えるともの凄く荷が重い。ありがたいしラッキーだと思うものの、単純に喜んでばかりもいられないのが、今の瑞樹の心境だ。
そして今日は、その4件のクライアントに面通しをする日。その中には、蕾夏が専属ライターとして起用される可能性が高い“月刊A-Life”も含まれている。
2人の夢のための、第一歩―――大抵のことには動じない瑞樹も、さすがに武者震いにも似た感覚を覚える。
「ふーん…人物をどうするのかと思ってたけど、なるほど。奏君のプライベート・ショットか」
あるページで手を止め、時田は小さく笑った。
「ああ…それは、プライベートじゃなく、奏のポートフォリオ用に撮ったやつです。帰国する直前に」
時田が見ているページには、時田の甥・一宮 奏の写真が2枚、放り込まれていた。
モデルである彼は、ブランドものの高級な服で撮られることが当然多い。が、時田の手元にある写真の中の奏は、上から下までGAP1色―――ハイド・パークの芝生の上に寝転んで、屈託無い笑いを見せているものが1枚と、ベンチに腰掛けてぼんやり空を眺めているのが1枚。新しい自分をクライアントに売り込むために、素の自分を撮って欲しい―――そう頼まれて撮ったもののうちの2枚だ。
本来ならこんな写真、とても撮れる状況ではなかった。瑞樹も、そして奏の方も。
けれど…その話は、今はもう蒸し返したくない。単純に、人物写真としては、この2枚が自分では一番気に入っている。だから、クライアントに提出する参考作品に加えたのだ。
「さすがに、藤井さんの写真は出さない…か。出せば、一気に仕事が増えると思うけどね」
意味深な目つきで言う時田に、瑞樹は軽く目を
「出しませんよ。どっかの誰かが嵌めたりしない限りは、ね」
「ハハハ、もうやらないよ。下手な真似すると、どっかの誰かが怖いからね」
―――よく言うぜ。散々、人のこと騙しまくった癖に。
“シーガル”の件もそうだし、そもそもイギリスに呼ばれた事情そのものだって半分騙されたようなものだ。この世で一番油断のならない奴、それが瑞樹にとっての時田郁夫だ。今も変わらず尊敬し信頼はしているが、半年間の経験から、瑞樹はどこかで時田を警戒していた。
「あとは商品2点に、風景か。…うん、ま、こんなもんだな」
冷ややかな瑞樹の視線をものともせず、時田は残りの数枚にも目を通し、そう呟いた。
じゃあ行こうか、と言う時田に促され、瑞樹も立ち上がる。壁に掛かった時計に目をやると、午前11時だった。
―――あいつ、今頃、緊張のピークに達してるな。
まだ家にいる筈の蕾夏を思い、瑞樹はそんなことを思った。
***
クライアント巡りは、思いのほかハードだった。
どの会社も都内の中心部にあるため、移動自体は楽なものだったが、行った先で待ち受けていたものが大変だったのだ。
「えー、これがうちのアートディレクターの××で、これがデザイナーの××。あ、ちょうどいいところに…彼がスタイリストの××さんで、隣にいるのがモデルエージェントの××さんですよ」
「……」
―――覚えられる訳ねーだろ、そんなにいっぺんに。
記憶力はいい方と自負している瑞樹だが、それでもこれを4度繰り返すと、もう誰が誰だったか思い出せなくなってくる。
スタジオでバイトをしていた頃にも、撮影に訪れる客―――つまり、カメラマンやアシスタント、アートディレクターやスタイリストと知り合いにはなったが、それは3年間という期間を費やして覚えたのだ。当時覚えた人々の顔も、一気に覚えるのは不可能だっただろう。
名刺交換が大好きな日本人だけのことはあって、3軒回った段階で、瑞樹の手元には大量の名刺が集まってしまっていた。それはつまり、同じだけ、用意した名刺が減ったことを意味する。なにせ、帰国から時間があまりなかったので、自分でパソコンで作ったものを、プリントサービスで100枚ほど印刷してもらっただけの、本当に“間に合わせの名刺”だというのに。
「…一度に築く人脈としては、多すぎるよな」
トランプよろしく名刺を手の中で広げてみて、瑞樹はポツリと呟いた。それを見て、時田もクスリと笑った。
「この業界は入れ替わりが速いからね。そのうちの何人が実際に君と仕事をすることになるか、甚だ怪しい部分はあるよ。事実、今日会ったスタイリストなんて、僕は一度も一緒に仕事をしてない」
…早めに、きちんとした正式な名刺を作った方がいいのかもしれない。
社内での仕事が大半だったSE時代とは、まるで違う。人当たりが決して良いとは言えない自分が、果たしてやってけるんだろうか…と、技術とは離れた部分でふと不安がよぎった。
「―――っと、ここだ、ここ」
3軒目のクライアントである出版社を出て10分後、時田はそう言って、丸みを帯びたビルの前で足を止めた。
外資の会社だから、もうちょっと違うところに事務所を構えているイメージがあったのだが、“月刊A-Life”の編集部は、他の大手の出版社同様、神保町にあった。外資系という言葉の似合わない、ベタベタに“日本”な町だが、日本有数の“本の町”に事務所を出すことに意義があったのだろうか。その辺り、東京支社の立ち上げに直接関わった時田の義兄・淳也にもっと聞いておけばよかったかもしれない。
“月刊A-Life”編集部は、このビルの3階と4階を使っているらしい。1階の受付を通り、2人はエレベーターで3階に向かった。
「ここは、専属契約してるカメラマンが1人いてね、細かいものはその人が撮っちゃうんで、僕の出番は月に1回あるかないかだったんだ。大抵は、特集モノの撮影と、表紙の撮影―――イメージ・スチール的な撮影の時になるとお呼びが掛かるんだよ」
「…頻度は低いけど、結構重い仕事、って訳か…」
「まあ、ロケで撮る可能性が低い分、機材を持参せずに済むから楽だけどね」
特集記事と、表紙―――新人ライターの蕾夏が関わるとは思えない分野ばかりのような気がする。2人で1つの記事を仕上げる、という一番近い夢は、まだ当分先になるのかもしれない。
そんな話をしているうちに、3階に到着した。
エレベーターを降りてすぐ、目の前に、大きなガラス張りの両開きのドアが出現した。クリアなガラスには“A-Life”のロゴと社名が刷り込まれているが、それ以外の透明なガラス越しに、編集部内の様子は丸見え状態だ。
「…壮大な社名だよな…ここ」
ガラスに刷り込まれた社名を見て思わず呟く瑞樹に、時田も苦笑混じりに頷いた。
「“World Explorer”―――もの凄い野望持った名前だね、確かに」
世界を探検して回ろうっていうんだから、設立当初から今のように世界中に支部を出す野望を抱いていたのかもしれない。蕾夏も、もし契約が取れたら、このロゴが入った名刺を持って取材先を回ることになる訳だ。“雑誌名だけだといいなぁ”と冴えない顔をしていた蕾夏の心境が、なんとなく分かる。
と、ちょうどガラス扉を開けようと手を伸ばしたところに、内側から扉が急に開いた。
「…っと」
「あ、すみません」
聞き覚えのある声が、内側からそう詫びる。え? と思って顔を上げると―――そこに、もの凄く見覚えのある人物が立っていた。
相手も、瑞樹と目が合った途端、その目を驚きに大きく見開いた。
「み―――…」
びっくり顔の蕾夏は、“瑞樹”、と言いそうになって、慌てて口を噤んだ。その理由は、瑞樹にもすぐに分かった。入り口に近い席の数名の視線が、ちょうどこちらに注がれているところだったのだ。
時田と知り合いであることは、ここの編集長も知っている筈だし、そこから推理すれば瑞樹とも面識があること位はすぐに分かる。それでも、初日にいきなり、しかもこんな場所で親しげに話をしているのを見られては、今後仕事で瑞樹と顔をあわせた場合にやり難いことになる―――そう思ったのだろう。
小さく息を吐き出した蕾夏は、すぐにニッコリとよそ行きな笑顔を浮かべると、瑞樹ではなく時田の方を向き、頭を下げた。
「お久しぶりです。凄い偶然ですね」
「ああ。僕もさすがにビックリしたよ。もう佐伯編集長との話は終わったのかい?」
「はい。あの…ちょっと急ぐので、お先に失礼しますね」
長居をするとボロが出ると思ったのだろうか。蕾夏は不自然なほど早々に話を切り上げ、再度時田にペコリとお辞儀をした。確かに賢明な選択かもしれない。時田も苦笑し、「じゃ、また」と言って蕾夏の肩をポン、と叩いた。
すれ違いざま、チラリと瑞樹の方に目をやった蕾夏と、もの問いげな瑞樹の目が合う。
周囲からは見えない、入り口のカウンターの下で、瑞樹の差し出した手に、蕾夏の手が一瞬、絡んだ。と同時に控えめに微笑んだその笑みを見て、瑞樹は訊きたかったことの答えをそこに見つけた。
―――良かったな、蕾夏。
ひと足先に新しい一歩を確実にした蕾夏に、瑞樹も笑みを返した。
***
結局、4軒目の“月刊A-Life”編集部を後にした時には、午後5時近くなっていた。
これでやっと名刺交換地獄も終わりか、と脱力した瑞樹だったが、「もう1ヶ所、来て欲しい所があるんだ」と時田に言われ、思わず「は!?」と大きな声をあげてしまった。
「そんな顔しなくていいよ。行って欲しいのは、僕の事務所なんだ」
「事務所?」
「と言っても、家主である僕はほとんど留守にしてるという、妙な事務所なんだけどね」
地下鉄に乗り込みながら、時田はそう言って、うんざり顔の瑞樹を宥めた。その説明によると―――…。
時田は“時田事務所”という、全くもってそのまんまな名前の個人事務所を持っている。けれど、一般的に言う個人の写真事務所のように、カメラマンやアシスタントを抱えている訳ではない。社員は時田と事務が1名だけ。日本に主軸を置いていた時代の単なる名残だ。
都心のビルの7階にあるその事務所は、時田が日本にいる間の仕事場所となるのだが―――では、時田がイギリスに行っている間はどうなっているのかというと、実はそこに、瑞樹がその事務所へ案内されようとしている理由があった。
「いい場所なんで、手放すのも惜しくてね。ちょっと策を講じたんだよ」
「策?」
「ほら、どの職業でも、フリーになると自宅がイコール事務所みたいなものだけど、特にカメラマンは外に出て初めて仕事になるだろう? かといって、事務所を自分で立ち上げるだけの業績はまだないし―――4年前、たまたまそういう、フリーになったばかりの奴と懇意になってね。だったら、僕と一緒にうちの事務所を使ってくれないか、ってことになったんだ。そうなれば、僕の留守中も事務所を使ってもらえるし、家賃は折半できるしね。で…事務員さんを雇い続けるのには1人じゃ厳しい、ってことになって―――結局、似たような連中が1人、また1人、と増えてね。今では12、3人いるかな、うちの事務所使ってる奴が」
「…つまり、事務所の維持費をみんなで折半してるってことですか」
「そう。カメラマンだけじゃなく、デザイナーやライターもいるよ。僕の会社がそういうビジネス支援業をやってる、って形になってる。でも、実際には1つの事務所をみんなでシェアする訳だから、人数増えた方が、1人頭の負担額が減るんだ」
そこまで言われて、ピンときた。
「―――俺にも入れ、と?」
軽く片眉を上げてそう言うと、時田は明るい笑い声をたてた。
「別に強制じゃないよ。ただ、プライベートを大事にする君にとっても悪い話じゃないと思ったんだ。仲間も出来るしね」
確かに―――留守中の電話が全て携帯電話にかかってきたのでは敵わないし、全て留守電対応も結構厳しいだろう。ビジネスとプライベートが分けられるのは、ありがたい話だ。
それに、この業界は、知人同士での仕事のやりとりが結構ある。自分に来た仕事を知り合いに頼んだり、自分の仕事に必要な人材を知り合いから選んできたり…。特殊な経緯でこの業界に足を踏み入れた瑞樹は、そういう仲間が全くいないに等しい。その点でも、ちょっと魅力的な話だった。
それにしても、写真一辺倒の時田が、こんなビジネス支援業をやっているとは知らなかった。ビジネスマンとしても、案外やり手なのかもしれない。
「まあ、とにかく、一度、見てもらえるかな。でないと、これがいい話か悪い話かも判断つかないだろう?」
「…ですね」
無下に断るような内容でもない。結局瑞樹は、ため息混じりにそう相槌を打っていた。
***
その日の時田事務所にいたのは、2人だった。
1人は、恰幅の良い、いかにも豪快そうなひげ面の男。もう1人は、ショートヘアの、いかにも気の強そうな女。
「おおー、また店子が増えるって? いや、ありがたいありがたい」
ひげ面の男は、そう言って破顔し、瑞樹に握手を求めてきた。
「俺、溝口堅太郎。スポーツ専門のカメラマン。今年はオリンピック・イヤーだから留守が多いと思うけど、ま、よろしく」
「…いや、俺、まだ決めた訳じゃ」
少々迷惑気味に瑞樹が言いかけると、すかさず溝口はそれを阻んだ。
「またまたそんな。一口乗っといた方がお得だよ、旦那」
―――誰が旦那だ、誰が。
豪快そうな見た目通り、確かに明るいタイプではあるらしいが、やたら調子のいい男だ。似たタイプである某チャット仲間を思い出し、瑞樹は余計眉を顰めた。
「で、大将。新顔君の名前は?」
入り口付近で笑いを堪えている時田の方へ首を伸ばし、溝口が訊ねた。
「ほら、僕のアシスタントやってもらった人だよ」
「…あー! ええと、成田瑞樹、だったっけ。去年の時田賞取った」
時田事務所にいるだけのことはあって、その辺りはチェック済みらしい。にしても、よく名前まで覚えていたものだ。
「…成田です」
渋々、瑞樹が軽く会釈すると、溝口は上機嫌で握手した手を力強く振った。
「成田君のあの写真、俺、かなり好きよ。屋久杉の生命感もなんとも言えなかったけど、なんといっても、あの女の子! いいねー。あのタイプは好みだなぁ、清楚で可憐で」
「―――…」
瑞樹の気配が僅かに殺気を帯びるが、当然、溝口は全く気づいていない。「今度是非会わせてよ」などと追い討ちをかけると、やっと思い出したように、後ろに座っていたショートヘアの女性を振り返った。
「ほら、桜庭も挨拶しろって。仲間に入れば、うちじゃダントツ1位の男前だぞ」
桜庭、と呼ばれた女は、それまでもずっと、どこか冷めたような無感動な目で2人のやりとりを見ていた。が、溝口にそう振られると、余計冷ややかな目になり、溝口を半ば睨むようにした。
「バカみたい。写真は顔で撮る訳じゃないわよ」
「まあ、そりゃそーだが…とにかく、挨拶しろって。いつになく無愛想だぞ、お前」
桜庭は、むっとしたように眉を顰めると、なんだか面倒そうに立ち上がった。そして、さっき瑞樹が溝口に対してしたのと同じ位渋々といった態度で、軽く頭を下げた。
「―――桜庭咲子です」
ぶっきらぼうに告げられた名前は、目の前にいる傍若無人女には似つかわしくない、妙に可憐な響きだった。似合わねー名前、と思わず本心のまま口にしてしまいそうになったのを、瑞樹は寸でのところで飲み込んだ。
「成田です」
抑揚のない声で瑞樹がそう返すと、桜庭は何故か、じっと瑞樹の目を見つめた。さっきまでと同じ、冷ややかな目で。
いや―――冷ややか、とは、微妙に違う。初対面には不釣合いな、妙な感じ―――まるで、敵意でも抱いているような、挑戦的な目つきだ。
「桜庭さんは、君と同い年だよ」
会話が弾みそうにない2人の空気を察したのか、背後の時田がそうフォローを入れた。
「うちの事務所の仲間に入ったのも、半年ほど前でね。独立1年目の、花専門のフォトグラファーなんだ」
「…へえ」
花とはまた、名前に続いて似つかわしくない題材だ。背が高く、動物に喩えるならキツネに近い顔をした彼女が、ガーデニングの写真などを撮ってる図を想像すると、もの凄くアンバランスな感じがする。さっきからニコリともしないから、余計に。
―――それにしても、なんだってこいつ、こんな喧嘩を売ってるような目で睨むんだ? 初対面なのに。
桜庭のプロフィールは分かったが、肝心のこの部分が分からない。不愉快、と言うよりは怪訝そうな顔で、瑞樹は、さっきから自分の顔から目を離そうとしない桜庭を眺めていた。
すると桜庭は、暫しの沈黙の後、思いがけないことを告げた。
「あたし、あんたのこと、知ってる」
「…は?」
「大学生の頃。六本木の“STUDIO ACTS”でバイトしてたでしょ」
大学生の頃にバイトをしていたスタジオ名を告げられて、瑞樹は目で頷いた。
「あんたは覚えてないだろうけど、あたし、何度か会ってる。スタジオで。“フォト・ファインダー”で名前見ても分かんなかったけど…あんただったんだ、成田瑞樹って」
「…悪い。俺、あんたに会った覚え、ねーんだけど」
何度か会っているなら、記憶の端っこにでも引っかかっていそうなものだが―――記憶の糸を手繰り寄せてみても、当時、桜庭の顔を見た記憶は全くない。バイト仲間、ではない。となると、利用者側だろうか?
どういう事情で会ったのか、その説明を待ったが、桜庭はそれには触れなかった。吊り上った目を余計吊り上げただけで。
「へーえ。桜庭、成田君と知り合いだったのか。こりゃ凄い偶然だな」
位置関係から桜庭の顔が見えないのか、溝口が、呑気な口調でそんなことを言う。
桜庭はその言葉に、瑞樹から目を離さず、皮肉っぽい笑みを口元に浮かべた。
「確かに偶然かもしれないけど―――再会するのは、必然だったかもね」
「……」
「これから、よろしく。じっくり見させてもらうわ―――あんたがどんな写真を撮ってくのか」
そう言って桜庭は、握手を求めるように、右手を差し出した。その意味が分からず、瑞樹は更に眉をひそめた。
ただ、分かるのは―――桜庭咲子という女が、自分に対して不可思議な敵意を持っている、ということ…いや、前から持っていた、ということ。偶然としか思えない再会に、何故か必然を感じているらしいこと―――そして今、理由も分からないままに、喧嘩を売られている、ということ。
原因不明に喧嘩を売られて、不愉快にならない人間などいないだろう。
当然、瑞樹も、不愉快度120パーセントだ。
「―――こちらこそ」
不敵な笑みを浮かべると、瑞樹は、桜庭が差し出した右手と握手を交わした。
―――どういうつもりか知らねーけど、やれるもんならやってみろ。
無言のうちにそう桜庭を挑発する瑞樹の好戦的なオーラに、時田や溝口の顔が引きつる。しかし、笑顔の中にも殺気立っている瑞樹や桜庭は、そのムードに全く気づいていなかった。
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