←BACKStep Beat COMPLEX TOPNEXT→






― 惚れさせた責任 ―

 

 外は、梅雨の晴れ間の青空。
 佐々木佳那子の表情は、それとは正反対に、曇り空だ。
 「…どうしちゃったの、佳那子」
 最近つわりがおさまってきて元の食欲を取り戻しつつある奈々美は、チキンソテーをナイフで切りながら、向かいの席の佳那子を心配げに見た。
 「―――食欲ないのよ」
 どんよりした顔で水ばかり飲む佳那子は、声までいつもより低い。手元のチキンソテーも、半分近く食べ進んでいる奈々美に比べ、佳那子はまだ一口食べた程度だ。
 「なあに、つわり?」
 あーん、とソテーを口に放り込みながらの奈々美のセリフに、佳那子は、思わず手にしていたグラスをテーブルに叩きつけるように置いた。
 「そんな訳ないでしょうっ!」
 「だって、佳那子が食欲ないなんて、よっぽどのことじゃない? 確か、入社したばかりの頃と、友達か何かが亡くなった時と、システムトラブルで2日連続徹夜作業だった時位しか覚えてないわよ」
 「…ナナ、余計なことばっかり覚えていすぎよ」
 「私が覚えちゃう位にレアイベントだって言いたかったのよ」
 「…いくらレアでも、別に食欲なくたっておかしくないでしょ。人間なんだから。私のことはいいのよ。あんたこそどうなの?」
 「私? 私は元気よ。最近、食べてもすぐおなか空くようになっちゃって―――やっぱり、おなかの中の子が食べたりとかするのかしら。なんか、まだあんまり、ここに人間入ってる実感ないんだけど」
 そう言っておなかをさする奈々美は、本当に実感がないのか、ピンと来ないなぁ、という顔をしている。…ちょっと、母親になる立場としては問題があるのではないだろうか。
 「カズ君がああだし、うちの両親もカズ君の両親も舞い上がってる状態で、なんか私が一番冷めてるのよね。困ったなぁ…私、どっかおかしいのかしら」
 「神崎の両親て…あのお義母さんも、舞い上がってる訳?」
 結婚式で、やたらと“うちの和ちゃんはね”を連発していた教育ママ風の中年女性を思い出し、佳那子は少し眉を寄せた。
 「そう。あのお義母さんが、一番舞い上がってるの。多分カズ君、お義母さん似なんじゃないかなぁ…。まだ生まれてもいないのに“どのメーカーの紙おむつが一番優れてるか”って悩んでるカズ君も凄いけど、“お稽古事は何をさせるか”って悩んでるお義母さんはもっと凄いと思う」
 「ふーん…」
 「……」
 どこかから空気が抜けてしまってるような相槌。
 こと、ここに到って、奈々美は初めて本当の異変を感じた。カチャリ、とナイフをフォークを置いた奈々美は、真剣な目で佳那子の覇気のない顔を凝視した。
 「あの…佳那子、ほんとに大丈夫? はっきり言って、ものすごーく変よ?」
 「―――別に、大したことじゃないわ」
 どこか虚ろにそう答えた佳那子は、はーっとため息をつくと、最後にとんでもないことをポツリと呟いた。

 「あーあ。子供、出来ちゃえばいいのに…」

 その一言に、奈々美が瞬間冷凍されてしまったことは、言うまでもない。

***

 「久保田君、久保田君」
 出先から戻ってきたばかりの久保田は、珍しい人物に手招きされて、思わず首を傾げた。
 「なんだ? 木下。また倉木が問題でも起こしたか?」
 なんだか落ち着かない様子の奈々美を見て、原因と思しき人物の名を久保田が口にすると、奈々美はムッ、と眉を上げながらも、首を横に振った。
 「私のことじゃないわよ。ねえ―――佳那子、一体どうしちゃったの?」
 「は? 佐々木?」
 「元気がないし、様子が凄く、すごーーく、変なんだけど。久保田君、何かあったの?」
 「いや? 別に何も…っていうか、なんで俺に訊くんだ?」
 「佳那子がおかしいと来たら、久保田君に訊くのが普通でしょ。仕事の悩みならいざ知らず、どう考えてもプライベートの問題でおかしくなってるんだもの、佳那子」
 いつになく強気で押せ押せな奈々美の言葉に、久保田はちょっと息を呑んだ。
 「…マジでか」
 「マジよ。ため息つきながら、凄いこと言ってた」
 「凄いこと?」
 「“子供が出来ちゃえばいいのに”って」
 「―――……」
 宇宙人にいきなり握手を求められたみたいに、久保田は奈々美を見下ろしたまま、固まった。
 「…はい???」
 「佳那子から男の人の話なんて聞いたことないから、一瞬耳疑っちゃったけど、確かにそう言ったわよ。ねえ、前から気になってたけど、佳那子と久保田君、本当に何でもないの?」
 「……」
 何でもない、訳じゃ、ないが。
 何でもない訳ではないが、そんなことをため息混じりに言われる覚えは、全くない。というか、どういう心情だとそういうセリフが出てくるのか、久保田にはさっぱり想像がつかない。そもそも、その言葉の相手は、自分か? いや、自分じゃなかったら、もっと困るが。
 しかし、一応社内は危険ゾーンなので、いかに相手が奈々美といえども、佳那子との関係を認めるのはまずい。
 「…とりあえず俺は、その言葉に心当たりはないぞ」
 動揺でカラカラに渇きかけた喉から無理矢理そう言葉を搾り出すと、奈々美は残念そうに眉を寄せた。
 「なんだ、そうなの…。私、てっきり久保田君と何かあったのかと思ってた」
 「佐々木に事情は訊かなかったのか?」
 「訊けなかったのよ。昼休み中、ぼーっとしてて、全然心ここにあらずだったから。あの様子だと、自分が何口走ったかも分かってないのかも。ホント、佳那子らしくなかったわ」
 「そうか…」
 「いつも私が相談に乗ってもらう立場だから、佳那子がああだと困っちゃう。ねえ久保田君、何か知らない?」
 ―――そりゃあ、俺の方が訊きたいよ。
 暑くもないのに、汗がダラダラ流れてきそうだ。佳那子の知られざるエピソードに、久保田はそれ以上、何も言葉が出てこなかった。

***

 「…何なの? 異様に静かじゃない? 今日」
 「―――いや」
 誰が静かにさせてるんだ、誰が。
 憮然とした表情でグラスを傾ける久保田を、当の佳那子は怪訝そうな顔で眺めている。もしかして奈々美に担がれたんじゃなかろうか、と思うほど、普段通りの佳那子だ。
 夕方に奈々美から話を聞いて以来、久保田なりに色々考えを巡らせた。が、何も浮かばない。で…結局、飲みに誘う以外の方法がなかった訳だ。人の心理を読むのは得意な方の久保田だし、特に佳那子の性格は誰より把握しているつもりでいたのだが―――今回ばかりはお手上げ。降参状態だ。
 「あ、そう言えば、例の生番組、今月末よねぇ。何、今からもう心配してるとか?」
 久保田善次郎VS佐々木昭夫という、恐怖の生討論番組のことを思い出して、佳那子が眉を顰める。ああ、そんなのもあったな、と思い出した久保田は、余計むっつりした顔になった。
 「そんなのを今から心配してどうするんだ。阻止できるもんなら阻止するけどな、マスコミ関係者に孫だとバレるリスク冒してまで阻止したくはない」
 「そりゃそうね。当日は、見るつもり?」
 「一応な。何喋るか分からねーからなぁ、うちのジジイも。プッツンきて前みたいに救急車で運ばれたら嫌だし。ま、念のため」
 「私は録画で見ようかしら。とてもじゃないけど、リアルタイムで見るだけの心臓は持ち合わせてないわ」
 フォアローゼスのグラスを口に運びながら肩を竦める佳那子を見て、ふと、久保田と佳那子の事情を知っている人物2人の顔が頭に浮かんだ。
 ―――あの2人、絶対見るだろうな。しかもリアルタイムで。
 乱闘騒ぎにでもなろうものなら、大喜びしそうだ。2人揃って口は堅いようなのでその点では安心だが、これをネタにまたおちょくられるような気がする。また厄介な人物に知られてしまったものだ。
 いや、今はそんなことを考えている場合ではなかった。
 本来の目的を思い出した久保田は、軽く咳払いをすると、手にしていたグラスを置いた。
 「…あのな、佐々木」
 「なに?」
 「ちょっと変なこと訊くようだが―――もしかしてお前、その…子供欲しいとか、思ってるか?」
 隣のカウンター席の気配が、ピタリと動きを止めるのを感じた。
 チラリと見ると、佳那子は、思い切り「は?」という顔で固まっていた。殻を剥こうとしていたピスタチオナッツが指先から転がり落ちたが、それにも気づいていない様子だ。
 「…佐々木、ピスタチオ落ちたぞ」
 「あ、ああ、ごめんなさい―――じゃなくて!」
 条件反射的にピスタチオナッツを摘み上げた佳那子だったが、はっと我に返ったようにそれをおつまみ入れに放り込むと、動揺しまくった顔で久保田に詰め寄った。
 「ちょ、ちょっと待ちなさいよ。何それ!? なんでそんな話になる訳!?」
 「知らねーよっ。訊いてんのはこっちだぞ」
 「だから、なんでそんなこと訊くのよ、いきなり!」
 「木下から聞いたからだよ。なんかお前の様子がおかしい、って。しかも、妙なことを言ってたって言うから」
 「妙なこと?」
 「…“子供が出来ちゃえばいいのに”、とか何とか」
 「……」
 ―――茫然自失。
 そんな顔をした佳那子は、言葉を失ったまま、完全にフリーズしてしまった。瞬きすら忘れているんじゃないか、というほどの状態だ。
 「おーい、佐々木、大丈夫か?」
 「…私、本当にそんなこと、言ってたの…?」
 「俺が聞いた訳じゃないから何とも言えねーけど、木下はそう言ってたぞ。なんだ、自覚ないのか?」
 自覚がなかったらしい。がくりとうな垂れた佳那子は、大きな大きなため息をついた。が、その様子から、心当たりが全くない訳じゃないらしいことを感じて、久保田は思わず困った顔になってしまった。
 「…うーん、やっぱり、あれか。10年は設定的に長すぎたか」
 10年は、“永遠の愛を誓える相手”と認めてもらうための期間として、久保田の方から佳那子の父に提示した期間だ。あれから既に丸6年と少し―――無事貫くことができた時、久保田も佳那子も32歳だ。今時、決して遅すぎる年齢ではないが、同い年の奈々美が結婚した上に出産しようとしていれば、気が塞ぐのも仕方ないかもしれない。
 佳那子の心情をそう推測した久保田だったが、佳那子はうな垂れたまま、首を横に振った。
 「違うわよ。そういうんじゃないのよ」
 もう一度ため息をついた佳那子は、むくりと体を起こすと、久保田を斜め下から軽く睨んだ。
 「第一、あのお父さんが、5年や6年なんて中途半端な期間設定で納得する訳ないじゃないの。10年は妥当よ。それに私、年齢なんて全然気にしていないし」
 「…じゃあ、何だ?」
 「お手軽だなぁ、と思ったのよ」
 「お手軽?」
 「…実は、この前の土曜日、大学時代の友達に会ったのよね」
 どことなく面白くなさそうな顔の佳那子は、そう言って、事の真相を語り始めた。その内容を要約すると―――…。

 

 土曜日、佳那子は久々に、大学時代の友人2名と会った。
 友人Aは結婚2年目の某社秘書。友人Bは未婚のお嬢様。そして佳那子は、2人それぞれから衝撃の報告を受けることとなる。
 「実はあたし、今度離婚するんだ」―――これが、友人A。
 「私、ついに結婚しちゃったのー」―――これが、友人Bだ。
 友人Aの結婚式以来の再会となる2人のあまりにも対照的な報告に、佳那子は唖然としてしまった。友人A夫妻は、なにせ結婚式で印象が止まっているので、極甘状態の2人しか佳那子は知らない。それに友人Bの方は、佳那子の家以上に親が厳しく、2年前までは異性とつきあった経験すらなかったのだ。
 詳しい話を聞いてみると、これがまた、なかなか考えさせられる話だった。

 「向こうの親、跡取りが欲しくて仕方ないらしくてさ、早く子供を作れ作れってうるさいのよ。でもあたし、まだ仕事辞める気ないし。彼も最初は理解示してくれたけど、親からのプレッシャーには勝てないらしくて、だんだん仕事に対して不満を言うようになっちゃってね。もう面倒だから別れることにしたの。え? もし子供がいたら? うーん…どうかな、やっぱり別れたりはしなかったかもね。向こう金持ちだから、ベビーシッター雇うなり何なりして、仕事と両立させてもらう努力したかも。でも、幸い子供いないし、今から子供作ってそういう努力する気も、もうないしね」

 「うん、私のうちも、佳那子ちゃんとこみたいに厳しくて、彼との交際もぜーんぜん認めてもらえなかったのね。でもほら、出来ちゃったから、子供が。さすがに、折れるしかなかったみたいよ。特にうちの親って、世間体気にするから。辻褄が合わないとか周りから言われるのが嫌だからって、打ち明けたその日に彼を呼んで婚姻届出させちゃったの。まだあれから半月だけど、彼、うちから会社に通ってるわ。孫の部屋も準備しなきゃとかうちの親も楽しそうにしてるから、まあいいんじゃないかなー」

 ところで佳那子は? と話を振られて、佳那子は言葉に詰まってしまった。
 「…まあ、結婚前提につきあってるのに近い人はいるわよ」
 「何それー。近いってどういうことー?」
 「親がまだ認めてないから」
 「ああ、佳那子のところも相当古いタイプの親だったもんねぇ。向こうの親もそう。ああいう親持った子供は、お見合いの方がうまくいくみたいだけどな。彼もそう言ってた、最初から見合いにしときゃよかったかもしれない、って」
 「えー、そんなの嫌だー。佳那子ちゃんだって、好きな彼氏と一緒になりたいに決まってるじゃなーい。ちゃんと親説得して、認められた上で彼氏と結婚するのがいいに決まってるよぉ」
 で、結局、友人Aも友人Bも、同じところに話は落ち着いたのだ。
 「ま、この子じゃないけど、出来ちゃえばね」
 「そうそう。認めざるを得なくなるもん。手っ取り早いよねー」

 

 「―――…」
 「それに今日、ナナも言ってたのよ。あの神崎の親バカお母さん、ナナが妊娠した途端すっかり態度が変わった、って。ああ、やっぱり親って孫には弱いものなのかしら、って…ただ、そう思っただけよっ」
 言ってるうちに恥ずかしくなってきたのか、佳那子は少し顔を赤らめ、気まずそうにそう言い切った。
 黙って聞いていた久保田は、予想とは違った話に、ちょっと呆然状態だ。
 つまり、佳那子の呟きの意味は―――子供が欲しい、ではなく、子供ができちゃえば親も認めざるを得ないだろうに、ということ…らしい。
 ということは、佳那子の様子がおかしかったのは―――…。
 「…もしかしてお前、かなり本気で、それ、実行に移してやろうか、とか思ってたんじゃないだろうな?」
 恐る恐る訊ねると、佳那子の顔が、一気に真っ赤になった。図星らしい。久保田はそれを見て、疲れたような大きなため息をついた。
 「…言っていいか、佐々木」
 「なに?」
 「もしそういうシチュエーションになった場合―――佐々木先生ならきっと、俺に子供の認知だけさせといて、結婚はさせないと思うぞ」
 「認知?」
 「この子供は俺の子です、って認めるってこと。配偶者じゃなくたって認知はできるんだぞ」
 「えっ。そんなケースもあるの?」
 びっくり、という感じで目をパチクリする佳那子は、実は、未婚の男女の間に子供が出来た場合は、結婚するか、諦めて堕ろすかのどちらかしかないと思っていたのだ。
 「あるんだよっ! お前、そういう話に疎い癖して、なんつー恐ろしいこと考えてんだ!」
 「…やだ、そんなに怒らなくてもいいじゃないの。そんな妙な形の父親がこの世に存在するなんて、予想もできなかったのよ」
 基本的に、佳那子はお嬢様だ。そりゃ確かに恋愛に関してはそこそこ人並みレベルになっているが、結婚だの離婚だのといった現実的な話は、全然頓着しないままでこの年齢になっている。しかも、久保田という特殊な恋人を持ったおかげで、どんなに早くても32歳までは結婚の可能性がないのだから、頓着する必要性もなかったのだ。
 自分以外の男と結婚させる気などないので、そうした話にもノータッチで来たのだが―――甘やかしすぎたかなぁ…と、ちょっと反省する久保田だった。
 「ったく…佐々木らしくねーなぁ…。何焦ってるんだよ。10年は長くないんだろ? それともやっぱりきつい条件すぎたか」
 「…焦ってる訳じゃないわよ」
 背もたれに背中を預けてバーボンのグラスを傾ける久保田を、佳那子は自らもグラスに口をつけながら軽く睨んだ。
 「ただ―――最近、ちょっと不安になってきただけよ」
 「不安?」
 「10年は、長くないわよ。私は、誰からも文句言われない形で久保田とつきあって行きたいし、結婚は何歳でも構わないと思ってる。だから、10年は、長くないわ。でも…」
 ふいに、佳那子の目が、陰りを帯びた。
 「…でも、長くもあるわよね、10年て」
 「…は?」
 「10年、無事に乗り切って―――久保田はお父さんの出した条件をクリアできる一流のビジネスマンになって、私も久保田も一切気持ちに変わりがなかったとするじゃない。勿論、そうなれる自信もあるけど―――その段になって、お父さんが約束を反故にしたら?」
 「……」
 「難癖つけて、条件をクリアしてないってわめき散らして、交際を認めてくれなかったら? ゴールが近づいてくるにつれ、そこに待ってるのが“振り出しに戻る”だったら、って想像すると…10年分の想いが積み重なった分、私、今更他の人なんて考えられないと思う。…それ考えると、不安になるのよ、最近」
 普通なら、いい大人がそんな大人気ない約束違反をする訳がない、と笑い飛ばす話だろう。
 けれど、佳那子には、そう考えるだけの下地がある。母親が他界して以降、余計に娘に執着するようになった父の、異常なまでの過保護ぶり。大体、娘とボーイフレンドを引き離すために探偵まで雇う親がどこにいるだろう。佐々木昭夫とは、そういう桁外れの親なのだ。
 「…まあ…そういう反則技の可能性を、今考えても、仕方ないだろ」
 そういうこともありうるな…と思う自分をとりあえず隅に追いやりながら、久保田はバーボンをくいっとあおった。
 「そうなのよね。今それを考えて、どうなるものでもないんだけど―――あーあ、やっぱり、ちょっと情緒不安定なのかも。ナナはすっかり落ち着いちゃったし、蕾夏ちゃんは私よりずっと自由に生きてるように見えるしで…少し、自分の置かれた立場に嫌気がさしてるのかもね」
 そう言った佳那子は、苦笑すると、ゆっくりグラスを傾けた。
 その横顔が、本人の言葉以上に不安げに見えて―――久保田は、無意識のうちに、心配げに眉を寄せていた。

***

 その夜、珍しく瑞樹から電話があった。

 『あの女には電話番号を教えるなっつったよな?』
 受話器の向こうから聞こえる瑞樹の声は、近年稀に見る殺気を帯びていた。原因に思い切り心当たりのある久保田は、瑞樹には見えないと知りつつも、受話器片手につい機嫌を取るような笑いを作ってしまった。
 「ああ、佐倉から連絡行ったか? すまん、携帯取り上げられて、勝手に調べられちまったんだよ」
 『…殺す』
 「…頼む、瑞樹。この程度のことで、人を殺すな」
 佐倉―――佐倉みなみは、久保田の大学時代の同期で、ファッションモデルだ。ついでに言うなら、23歳で自ら命を絶った友・飯島多恵子の親友でもある。そして瑞樹にとっては、非常に苦手な女でもある。
 数日前、その佐倉から、大学時代の共通の知り合いがちょっとしたトラブルを起こしたとの連絡があった。彼女は瑞樹にも連絡をしたいと言って久保田に電話番号を訊ねてきたのだが、以前から「佐倉さんにだけは教えるな」と言われていた久保田は、断固として拒否したのだった。
 で―――結果は、このとおり。トラブルの相談に乗るために赴いた席で、佐倉は久保田が少し席を外した隙に、携帯電話をちゃっかり抜き取って、瑞樹の電話番号を調べてしまったのだ。携帯を入れたまま上着を置いておいた自分も不用意だったが、そんな犯罪まがいの行為をする佐倉も佐倉だ。もっとも…そういう危険な女だからこそ、瑞樹が電話番号を教えたがらないのだけれど。
 『悪用されたら、あんたに責任とってもらうから』
 「…分かった。心しとく。ま、まあ、もうさすがに“自分の写真を撮れ”とは言わないと思うぜ? 今年いっぱいでモデルは引退するようなこと言ってたしな」
 『やっと辞めるのか。現役モデル歴のギネス記録でも狙ってるのかと思ってた』
 「ギネスって…そんな記録、あるのか?」
 『なんでも50年越えてるらしいぜ』
 「……」
 それは…凄い。10歳から始めた計算でも、60歳だ。佐倉がモデルを始めたのは高校生からだから―――と久保田が暫し考えを巡らせていると、受話器の向こうから、呆れたような声が聞こえた。
 『…冗談だって。なんであんた、すぐ本気にしちまうんだよ』
 「―――瑞樹。相変わらず性格悪いな」
 思わず受話器を握る手がぷるぷると震えてしまう。過去9年間、一体何度こうやってからかわれてきたやら―――日頃、冗談など言わないような顔をしているだけに、たちが悪い。
 「…ま、いい。佐倉と連絡ついたんなら、もう俺がしつこく電話入れる必要もないって訳だな」
 『ああ。それと、飯島さんの墓参りは、パス。6時から打ち合わせが入ってる』
 明後日、7月5日は、多恵子の誕生日だ。彼女の遺言に従い、毎年久保田と佳那子は、この日に墓参りをしている。件の知人のトラブルの件もあるので、もし瑞樹の予定が合えば、今年は瑞樹も一緒に行って、そこでゆっくり話でもできれば…と思っていたのだが、どうやらスケジュールが合わないらしい。
 「そうか…残念だな。佐倉も呼んで、4人で顔出せば、あいつも喜んだかもしれないのに」
 『死んでんのに、喜んでるかどうかなんて、分かるかよ』
 「…お前、情緒がないなぁ」
 『どうせ情緒がねーよ。それより―――佐々木さん、大丈夫か?』
 突如瑞樹が発した言葉に、久保田は今日の佳那子の言葉を思い出して、受話器を落としそうになった。
 「だ、だ、大丈夫って…何が」
 『―――何動揺してんだよ。毎年、この時期になると、情緒不安定になって鬱傾向になるだろ、あの人』
 確かに―――毎年7月5日の前の数日間は、ちょっと情緒不安定気味になるのだ。でも、瑞樹がそれを知っていたとは、ちょっと驚きだ。
 「お前、よく知ってたな、そんなこと」
 『システム部じゃ有名だぜ。この時期、佐々木さんが必ず、大きなバグ出すから』
 「…なるほど」

 しかし―――そのことと兼ね合わせて考えると、佳那子の急激な情緒不安定にも、頷ける気がする。
 佳那子はいまだに、多恵子の話になると平静ではいられないところがある。だからこの時期は、多少の差はあれど、毎年情緒不安定になる。今年は、奈々美があの状態だし、どこかで境遇を重ねていた蕾夏までが新しい人生をスタートしてしまったため、元々不安定だったのかもしれない。それがこの時期、余計膨らんだのだろう。
 10年かけても、自分たちはやっと、親に認められるかどうかといったところ。同じ場所で、同じ環境で足踏みしている。そのうちに、周りの人間はどんどん変化していく―――男以上に変化の激しい女性だからこそ、不安を覚えるのは当たり前のことだ。

 「…なあ、瑞樹」
 『なに』
 「お前、藤井さんと結婚する予定とか、あるのか?」
 『―――…はあっ!?』
 瑞樹の上げた素っ頓狂な声のボリュームに、思わず久保田は受話器を耳から離してしまった。
 『何だよ、いきなり』
 「いや、その―――参考までに、だよ。お前らがどの程度将来を見越してつきあってるのか、ちょっと気になってな」
 『…なるほどな。佐々木さんが将来を不安がってる訳だな』
 ―――いちいち察するなっ。
 これだから勘の鋭い友人を持つと怖い。内心悪態をつきつつも、冷や汗が背中を伝っていくのを感じた。
 瑞樹は、はあっ、とため息をつくと、少し憮然とした声で答えた。
 『俺らは、何も決めてない』
 「何も?」
 『今、一緒にいられりゃ、それでいい。その積み重ねが“未来”だろ。だから別に、何も決めてない』
 「…随分、刹那的だな。そんな風に悠長に構えてるうちに、何かの間違いで別れることになるかもしれないぞ? 突然親が反対したり、もっといい女に出会ったりとか。そうなる前に、なんとかしようとか思わねーのか?」
 『…恋人とか結婚とか、そういうのは結局、定義づけの問題だろ。どんな形でも、最後まで一緒にいられりゃ、それでいいんじゃねぇの』
 「死別って可能性もあるぞ」
 我ながら極端だな、と思いながらそう言うと、電話の向こうの瑞樹が、ふっ、と笑った。
 『その時は、俺も死ぬし』
 「……」
 『俺死んだら、多分あいつも死ぬし。…一緒にいるってこと以外、何決める必要があるんだよ。状況がどう変わろうが、それさえ決めてれば、答えはおのずと見えてくるだろ』

 やたらあっさりした瑞樹の口調に―――久保田は、微かな敗北感と、何かを吹っ切ってもらえたような爽快感を覚えた。

 一緒にいること以外、決める必要のあるものなど、何もない。
 …確かに、そうなのかもしれない。


***


 7月5日の朝は、快晴。
 犬小屋からデュークを抱き上げた佳那子は、深呼吸をひとつすると、門の外に出た。
 まだ、朝早い時間。日課になった犬の散歩も、日の出が早まるにつれだんだん明るくなってきた。佳那子の好みからすると、この時期位の散歩が、一番快適だ。

 ―――余計なこと、言っちゃったかなぁ…。
 デュークに少し引っ張られるようにして歩きながら、佳那子は、一昨日の夜久保田に話したことを思い出して、ちょっと後悔を覚えた。
 昨日、久保田は1日外出していて、結局会わずじまいだった。一人、勝手に不安がっている佳那子を、久保田はどう思っただろう―――それを思うと、少々気まずい。
 焦っているつもりはなかったが―――やっぱり、焦っていたのかもしれない。奈々美や蕾夏にどんどん追い抜かれて、前に行かれてしまうような気がして…置いていかれる自分に、置いていかれてもじっと待つしかない自分の状況に、焦っていたのかもしれない。
 未来が確かなものじゃないのは、当たり前のことだ。
 結果が“振り出しに戻る”だったら―――ちょっと耐えられそうにないが、その時また考えればいい。久保田以外の男に今更目が向くとは、やっぱり思えないけれど。

 結局、あのどーしようもない父親がいけないのよね―――そこに結論が落ち着くと、少しだけ気分がすかっとした。少し歩くペースを速めようかな、と思った時、デュークが突然足を止めたのに気づき、佳那子は自らも足を止めた。
 「デューク? どうしたの…」
 行儀良くおすわりのような姿勢になるデュークに驚き、思わず声を掛けた佳那子だったが、デュークが見つめる先に視線を移して―――驚きのあまり、言葉を失った。
 すっかり出勤する服装に身なりを整えた久保田が、前方に立ちはだかっていたのだ。
 「おー、こいつ、賢いな。この位置から命令しても、ちゃんと反応したぞ」
 そう言えば久保田も、実家で犬を飼っていたと聞いた覚えがある。デュークとは多分初顔合わせだと思うが、見事立ち止まらせてお座りまでさせることに成功して、満足そうな笑みを浮かべている。
 「…よ、おはよ」
 唖然としている佳那子に、久保田はニッと笑って近づいた。
 「ど…どうしたのよ。まだ6時半よ?」
 「始発で来たら、ちょうどこの時間だったんだよ。会社じゃ人目があるし、墓参りの時ついでに…ってもんでもないしなぁ…」
 「え?」
 「手」
 短くそう言うと、久保田は握り拳を佳那子の眼の下辺りの高さに掲げた。中に、何かを握っているらしい。
 意味が分からないながらも、佳那子はその拳の下に、リードを握っていない方の手のひらを差し出した。その直後、握り拳がパッ、と開かれて、佳那子の手のひらの上に、何かが落ちてきた。
 硬い質感のそれは―――見覚えのある、鍵だった。
 「…これ…」
 「そ。俺の家の鍵。昨日、スペア作ったんだ」
 「―――確か、あのアパートって、スペア作るの禁止だったんじゃなかった?」
 単身者専用のアパートなので、1本しか渡されないし、スペアも禁止だと聞いた記憶があった。事実だったらしく、久保田の笑顔がほんの少しだけ引きつった。
 「…ま、大目に見ろ」
 「でも、なんで急に…」
 「…指輪とかだと、いろいろ突っ込まれるからな」
 くすっと笑った久保田は、鍵を乗せて開いたままの佳那子の手を取り、鍵をしっかりと握らせた。
 「これで、俺のプライベートは、お前が全部握ったことになるから」
 「…え?」
 「俺がいる時でも、いない時でも、好きにあの部屋に入ればいい。それで不安がちょっとでも和らぐならな」
 「……」
 「…振り出しに戻ったら戻ったで、いいじゃねーか。その時は、振り出しからまた始めてやるよ、10年間。どう転んでも、惚れさせた責任は、最後まできっちり取る。…だから、安心しろ」
 「―――カッコ良すぎるわよ…」

 …全く。
 最後の最後で、いつもこうやって、久保田にやられてしまうのだ。私というやつは。

 ご主人様に不埒にキスなどをする見知らぬ男に、デュークがちょっとばかり唸り声を上げたのだが、久保田に鋭く「待て」と命じられたら、シュンとしたようにうな垂れてしまった。
 どうやらデュークも、久保田には弱いタイプらしい。飼い主ともども、情けないなぁ―――なんて思いながら、佳那子は、もらったばかりの鍵を胸に抱きしめた。


←BACKStep Beat COMPLEX TOPNEXT→


  Page Top
Copyright (C) 2003-2012 Psychedelic Note All rights reserved. since 2003.12.22