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― そして伝説になる ―

 

 ―――だから嫌だったんだ。
 キャーキャーとうるさい目の前の連中にうんざりしつつ、瑞樹は大きなため息をついた。
 久保田が佐倉みなみに電話番号を教えてしまった、と知った時から、嫌な予感はしていた。佐倉は、仕事に利用できる人脈はとことん使い倒す女だから。
 「今までのカメラマンさんて年食ったおじさんばっかだったから、もぉ、感激ー」
 「佐倉先輩の知り合いなんですよねー。どういう知り合いなんですかぁー?」
 スタイリストに服装を弄られながらも、全然喋るのをやめようとしない女子高生2名は、いずれも佐倉が所属している事務所の後輩モデルだ。現役女子高生で、ティーン雑誌では結構売れているという話だが、そんなことは瑞樹にとってはどうでもいいことだ。

 『ほら、覚えてる? 大学時代、写真部に顔出してたモデル志願の女子高生。リカちゃんだっけ。あの子とこの前現場で会っちゃってね。成田の電話番号、知ってるなら教えろってうるさかったんだよね』
 受話器から聞こえる佐倉の言葉に、瑞樹はパリ帰りのいかれた似非モデルを思い出して舌打ちした。やはりあいつは、東京湾に沈めておくべきだった。
 『ところで、明日なんだけどね。うちの後輩モデルのポートフォリオを頼んだカメラマンが、急用出来たって言って断ってきたんだよね。頼めるかな』
 あら断ってもいいのよ、その場合はあの子に電話番号教えるだけだから―――そのセリフは、わざわざ口にしなくても、十分瑞樹に伝わっている。無言の脅迫だ。
 『ま、売れっ子だったあたしが頼んでも最後まで撮ってくれなかった成田だから? 新人モデルのポートフォリオなんて、ばかばかしくて撮る気になれないかもしれないけどねぇ』

 ―――執念深い奴…。撮るの断ってから、一体何年経ったと思ってんだよ。
 90ミリレンズをガシャン、と一眼レフに嵌めると、瑞樹はやっと被写体2名に目を向けた。
 目が合うと、モデル2名は途端に口を噤み、今度はお互いを肘で小突きあって、クスクスと笑い出した。「きゃー、目が合っちゃったよー」という声を微かに耳にして、本気でこのまま帰ろうかと考えた。
 案外、急用ができたという本来のカメラマンも、相手の正体を知って恐れをなして逃げたのではないだろうか。全く―――モデル関係の掲示板に電話番号を晒してやる、と脅して、電話帳からも発信履歴からも自分の電話番号を削除させたからひとまず安心だが、やっぱり佐倉の絡んだ仕事は碌でもない。
 「―――ちょっと訊くけど」
 やっとスタイリストが離れたところで、瑞樹は冷ややかに口を開いた。
 「お前ら、ここに何しに来てんだ」
 「見本写真撮ってもらうためでーす」
 専門用語を知らないのか、金髪の方がそう答える。その隣で、ピンクのメッシュを前髪に入れた方が、何がおかしいのか声をたてて笑った。
 「つまり、仕事だよな」
 「そうでーす」
 「他の仕事でもこんな態度取ってるのかよ」
 「そんなー、他のカメラマンさんの時は、こんな風じゃないですよー」
 「だよねぇ。だって他のカメラマンさん、おじさんだったり冴えなかったりで、全然興味ないもん。仕事以外で笑顔なんてこれっぽっちも見せてあげたくないです、もったいなくて」
 「俺もいらん」
 「あっ、成田さん! この撮影終わったら、どこかに遊びに行きましょうよ! スタイリストさんも一緒に。ね? ね? ね?」
 「断る。いいから早くスタンバイしろ」
 「ええ〜、やだ〜、遊びに行く約束してくれなくちゃ、スタンバイしないもーん」
 ―――おい。誰のための写真を撮るか、貴様ら、分かってんのか!? 俺だって、こんな奴ら、本当は撮りたくねぇよっ!
 久々に、感情のメーターの針が振り切った気がする。その頭の中身はおがくずか、と、日本人らしからぬ2人の頭を三脚でかち割りたくなるが、本当にやったら犯罪になるので、やめておいた。
 はーっ、とため息をついた瑞樹は、苛立ったように前髪を掻き上げると、ホリゾントの前に立つ2人を睨んだ。
 …もう、容赦ならねぇ。
 キレると同時に、瑞樹の口元に、不吉な笑みが浮かんだ。
 「…予定あるから、断る。その代わり、終わったら電話番号教えてやる」
 「ホントっ!?」
 「ああ。だから、早くスタンバイしろ」
 「やったー! ゆかり、感激ぃ〜」
 「あっ、ずるいっ、あたしにも教えてよねっ」
 この時、傍で見ていたモデル事務所付きのスタイリストは、瑞樹の殺人オーラを感じて思わず後退っていたのだが―――肝心の2人は、それに気づいていなかった。


 この翌日、女子高生モデル2人は、手渡されたメモに書かれた電話番号に電話した。
 そして、受話器から聞こえてきた声を耳にして初めて、自分達が騙されたのだということを知ったのだった。

 『はい、こちら、警視庁少年育成課です』

 冷や汗ダラダラ状態で電話を切った彼女らの口から、瑞樹の名がモデル仲間の間に広まるまでは、さして時間はかからなかった。


***


 「憔悴してるわね…」
 「…うー…憔悴したくもなるよー…」
 元は瑞樹の席だった机に突っ伏している和臣を、久保田と佳那子は気の毒そうに見下ろした。
 「今日だって奈々美さん、微熱あるのに出社するって意地になってて―――止めるのにすんごい苦労したもの。理由分かってるから余計憔悴するよなー…」

 正直、和臣からすれば、奈々美にはそろそろ休職してもらいたいのだ。
 この前の休日、父親予備軍を対象としたマタニティ・スクールに参加した和臣は、おなかに大量のおもりをつけさせられ、炊事洗濯階段の上り下りを経験させられた。そして、おなかが大きいと自分の足元が全く見えない、という当たり前の事実に、今更ながら気づいたのだった。
 まだ奈々美はそこまで大きなおなかをしている訳ではないが、そろそろ目立ってきているのも事実だ。この先、朝の通勤ラッシュや最寄り駅の駅階段のことを考えると、自分が体験スクールで階段から転げ落ちただけに、鳥肌が立ってくる。
 でも、奈々美は多分、休職しないだろう。
 原因はただ1つ―――自分がいなくなったら、倉木がこれ幸いと和臣にちょっかいを出すのではないか、と危惧しているからだ。
 そして、奈々美の懸念はあながちオーバーでもない。今日だって倉木は、奈々美が休みと知るや、和臣にお茶を入れたり無理矢理仕事を手伝おうとしたり―――暇を見つけては、あの手この手で接近しようとする。勿論、和臣は取り合わないし、そのことは奈々美も分かっているだろうが…それでも、嫌なものは、嫌だろう。和臣だって、自分が奈々美の立場だったら、絶対嫌だ。
 全く…倉木という女は、理解に苦しむ。迷惑だということは態度で示しているつもりなのだが、どうして分かってくれないのだろう。

 「まあね。神崎は、根がお人よしだから。態度で示してるつもりでも、まだまだ甘いんだと思うわよ」
 腕組みをした佳那子がそう言うと、がばっと顔を上げた和臣は、納得いかないという顔で佳那子を睨み上げた。
 「そんなことないっ! オレは全然甘い顔してるつもりないよっ。倉木さんが標準から逸脱しすぎなだけで」
 「うーん…でも、ねぇ?」
 チラリ、と佳那子が視線を送ると、久保田も難しい顔で頷いた。
 「だなぁ…瑞樹と比べると、なぁ」
 「破壊力が、まだまだよね」
 「―――…」
 「ただいま戻りましたー」
 ちょうどそこに、過去に瑞樹に破壊された経験のある張本人・樋沼が戻ってきた。
 「あ、神崎さんだ。どうされたんですか?」
 「…倉木さんから匿ってもらってるんだよ」
 「あー…、あの人、頑張ってますねぇ…。成田さんがいなくなってから、ああいうシーンってなかなかお目にかかれないから、ちょっと懐かしいですよ。あはははは」
 確かに、瑞樹がいた頃は、倉木よりもっと凄い連中が瑞樹を取り囲んでいた。しかも複数。さすがに倉木は和臣に抱きつくような真似はしないが、コールセンターの里谷などは、公衆の面前で瑞樹に堂々と抱きついていたっけ―――情けない私服姿を社内回覧で回されて以来、多少静かになっていたようだが。
 ―――うーん、あの社内回覧は凄かったよな。言われなかったら里谷さんだって分からなかった位、昭和40年代みたいな服装だったし…。どこで撮ったのか知らないけど、あれを本当に回覧しちゃうところが、成田の怖いところだよなー…。
 あれに比べると確かに、自分はまだまだ、破壊力が足りないかもしれない。むむむ、と和臣は眉間に皺を寄せた。
 「でも、あれですね。成田さんいたら、案外倉木さんも、神崎さんじゃなく成田さんを追いかけ回してたかも」
 自分の席につきながら樋沼が何気なく発した言葉に、残り3人の耳がピクリと反応した。が、樋沼本人は、それにも気づかず、瑞樹本人がいないのをいいことに、これまでの鬱憤を晴らすかのように楽しげに続けた。
 「なんかあの人、特殊なフェロモン持ってる気がするんですよね。女性のチャレンジャー魂を燃え上がらせるフェロモン、というか、好み無関係に女性が引き寄せられてしまうフェロモン、というか…。惜しかったなぁ、成田さんがいれば、神崎さんも苦労されずに済んだでしょうに」
 「…瑞樹がいれば、か…」
 「…成田がいれば、ねぇ…」
 「…てことは、成田に引き合わせたら、成田にターゲット変更するかしら」
 佳那子がポツリと呟くと、樋沼はギョッとしたように振り返った。
 「えっ!」
 「そうよ。いいアイディアかもしれないわ。樋沼、あんた仕事では滅多にひらめかないのに、こういう肝心なところで、いいアイディア思いつくわね」
 「い、いや、あの、僕はそういうつもりで言った訳じゃ…」
 蒼褪めた顔でふるふる首を振る樋沼を無視して、久保田もポン、と手を打った。
 「確かに悪くないな。あいつはここの社員じゃないから、倉木だって簡単には追いかけられないだろうし。それに、あのしつこさを瑞樹が黙ってスルーする訳ないぞ。絶対、二度と立ち上がれない位のダメージ与えてくれる筈だ。良かったなー、カズ」
 「いや、まさか。成田がそんな作戦、乗ってくれる訳ないですよ」
 それも悪くないなぁ、と本音では思った和臣だったが、一応そう言って遠慮してみた。すると久保田は、ニヤリ、と策士の笑いを和臣に向けた。
 「そりゃあお前、ただ普通に頼んだだけじゃ、あいつが動く訳ないさ」
 「…じゃ、どうやって?」
 「大事な大事な木下のためだ―――お前もある程度、犠牲を払わないとなぁ?」


***


 『あのさ、明日の定時後、ちょっと会えないかなぁ』
 珍しく和臣からそんな電話がかかってきた。
 ―――嫌な予感がする。
 第六感、だろうか。このセリフを聞いた直後、背筋がぞぞぞっと寒くなった。瑞樹は、鳥肌の立った腕を軽くさすりながら、
 「蕾夏と約束してるから」
 と答えた。別に言い逃れではない。元々、明日は蕾夏の退社後に待ち合わせの約束をしているのだ。
 『どこ? 何時から?』
 「…7時に銀座だけど」
 『あっ、じゃあ大丈夫! それには間に合うからっ! うちの会社の下のファミレスでいいからさ、ちょっと来てもらえないかなぁ』
 「はぁ? 俺が出向くのかよ。用事あるのはお前の方だろ」
 『うー…そ、そうなんだけど…』
 「何の用だよ」
 『…実はさ。ほら、オレにつきまとってる、奈々美さんの後輩。あの子のことで、相談に乗って欲しいんだ。あの子を何とかしないと、奈々美さん、安心して休職できないし―――また前みたいに階段から落ちたりしたら、と思うと、いい加減諦めてもらわないと。で、成田はそういうの、慣れてるだろ? だから、色々と参考意見を』
 「意見なら電話で十分だろ」
 『そんな軽い内容じゃないんだってっ。顔見て相談しないと落ち着かないよ』
 「―――お前、何か企んでないか?」
 一瞬、言葉に詰まったような、妙な間があいた。が、和臣のフォローは早かった。
 『やだなぁ、何もないって。オレが本気で困ってるの、成田だって分かるだろっ? なー、頼むよ』
 「…なんか、釈然としねーなぁ」
 『勿論、タダでとは言わない。オレが奈々美さんの次に大事にしてるもん、成田に譲る』
 「いらねーよ」
 『…いらない、なんて言っていいのかな? 藤井さんのポスターなのに』
 今度は瑞樹が言葉に詰まる番だった。
 蕾夏のポスターとは、つまり、あれだ。和臣がコンビニ店主に拝み倒して入手した、“シーガル”のポスター。神崎家の和室の壁に、レオナルド・ディカプリオと並べて貼られているらしい、あのポスターのことだ。
 「…っつーか、木下さんの次がそれなのかよ、お前」
 『うんっ。あー…、やっぱり嫌だなぁ。いくら奈々美さんとオレの平穏を取り戻すためとはいえ、あれ手放すのかぁ…ううう』
 もの凄く惜しそうにぶつぶつ泣きを入れる和臣の声は、演技ではなさそうだ。というか、和臣にこの手の演技は無理だ。死ぬほど嫌だけど、それを差し出すことで瑞樹に来てもらえるなら―――ということらしい。
 ―――まあ、確かに、あいつらも気の毒だと思うけど…。
 それに、蕾夏に妙な信仰心を持っている和臣の家からあのポスターを回収できるのは、かなり大きい。物につられるのは本意ではないし、なんだか罠のような気もするが―――それに目を瞑るだけの意味はあるかもしれない。
 「…分かった。で、何時に行けばいい?」
 結局瑞樹は、そう和臣に返事をしていた。

***

 翌日、定時過ぎにファミレスに赴いた瑞樹は、窓際に座る和臣を見て、自分の第六感が正しかったことを確信した。
 「あっ、成田ーっ! ここ、ここ」
 陽気に手を振る和臣の向かい側には、瑞樹の知らない女が座っている。でも、すぐに分かった。その女が、倉木とかいう和臣の追っかけであることが。
 ―――本人同席で、どういうアドバイスをしろっつーんだよっ。
 さては、アドバイスが目的じゃないな―――店に入って1秒で悟った。
 単純な和臣が、こんな手のこんだ誘い方を考えつくとも思えない。裏にブレインがついている…となれば、それは久保田か佳那子だろう。何が目的か知らないが、事と次第によっては痛い目にあわせてやろう、と思いながら、瑞樹は無言のまま和臣の隣に腰掛けた。
 「え…っ、誰ですか、この人」
 どうやら何も説明を受けていないらしく、倉木は、突如現れた見知らぬ男と和臣の顔を何度も見比べつつ、困惑したように和臣に訊ねた。
 「あ、うん。去年までうちのシステム部にいた人。成田さんていうんだ」
 「成田さん、って―――えっ! も、もしかして、あの!?」
 途端、倉木の目がキラリンと効果音がつきそうな位に輝く。それを見て、瑞樹は怪訝そうに眉をひそめ、和臣は明るい顔になった―――そう、ちょうど、スロットをやっていて1つ目と2つ目に7が並んだ時のような顔に。
 「そう、“あの”成田」
 「へええええぇ、そうなんですかぁー。あ、あたし、倉木って言いますぅ」
 「…成田です」
 ―――“あの”って何だよ、“あの”って。
 その連体詞がどうにも気になるが、下手に突っ込むと面倒なことになりそうな気がしたので、瑞樹はあえてスルーすることにした。ただ、倉木の目が異様に輝いているのが不吉な感じだった。
 ちょうどそこにウェイトレスがオーダーをとりに来たので、会話は中断された。和臣と倉木の前には既にティーカップが置かれている。瑞樹はコーヒーを注文した。
 「わざわざごめんよー、成田。デートには間に合うようにするからさ」
 「…いや、いい。それよりさっさと済まそう」
 様々な釈然としない点はこっちへ置いとくことにして、瑞樹は憮然とした顔で和臣に向かって手を突き出した。
 「ポスター。まずは渡せ」
 「…うっ」
 和臣の顔が、瞬時に引きつった。が、約束を反故にする気はなかったらしく、テーブルの隅には、ちゃんと丸めたポスターが置いてあった。
 「か、帰る時でもいいんじゃない?」
 「今でも後でも同じだろ。早く渡せ」
 「うううう…や、やっぱり辛いなぁ…。これゲットするのに、すごーく時間かけたのに」
 「何のポスターなんですかぁ? 神崎さん」
 向かいに座る倉木が、興味津々の顔で口を挟んだ。和臣ファンの癖に、このポスターについては知らないらしい。まだまだ追っかけとしてはキャリア不足だな、と瑞樹は眉を上げた。
 「えっ? ああ、倉木さんは知らないかな、前のコンビニに、春頃貼ってあったポスターなんだけど」
 「あたし、セブンイレブン派なんでー」
 「じゃ、見てないのか。成田の彼女のポスターなんだ。これがもー、すんげー綺麗でっ! 見てるだけで幸せーな気分になるような絶品モノのポスターでさぁ―――ほらっ」
 「!!!」
 次の瞬間、和臣は、丸めてあったポスターをバッ、と広げ、倉木に向けた。勿論、それは瑞樹にもバッチリ見えた訳で―――実を言えば、ロンドンで完成品を1度見て以来目にしていなかった瑞樹にとっては、それはかなり衝撃的だった。
 ―――う…っわ、我ながら、秀逸…。
 多分、普段の蕾夏しか知らない和臣達は、これが蕾夏かどうか、一瞬悩んだのではないだろうか。勿論、瑞樹からすれば、これは瑞樹だけが知る普段の蕾夏なのだが―――正直、これ以上の蕾夏をこの先撮れるかどうか、自信がない。その位、素の状態の蕾夏のピュアさが上手く引き出せた写真だ。
 倉木がその写真をどう感じたのかは定かではない。が―――天使のような笑みを見せつけられた倉木は、それを見た途端、メデューサの首をつきつけられたみたいに、石のように固まった。
 「ねー、綺麗でしょう。あ、これ撮ったの、ここにいる成田ね。うちの家では、奈々美さんが貼ってるディカプリオのポスターの横に貼ってたんだけどさ。オレの欲目じゃなく、絶対こっちのポスターの方が品があっていいポスターだと思うんだ。ああ、惜しいよなぁ…」
 「……」
 まじまじとポスターを見つめる倉木に嬉々として説明を続けていた和臣は、ふと何かを思いついたように、突如瑞樹の方を向いた。
 「あっ、そうだ! 成田、10分位席外してもいい? オレ、これカラーコピーしてくるっ」
 「はぁ!?」
 「成田辞めてから、うちのコピー機、カラーになったんだよ。このサイズなら、なんとかいけると思う。なっ? 縮小コピーで我慢するから」
 必死、という感じで取り縋る和臣の様子に、瑞樹は呆れたようにため息を一つつき、妥協した。
 「…A4サイズよりでかいサイズは、却下」
 「う…っ、せ、せめて、B4…」
 「じゃあ寄こせ」
 「…分かった。A4にしとく」
 渋々了承するが早いか、和臣は席を立った。
 「じゃ、さっそくコピーしてくる。成田、ちょっとどいて」
 「…はいはい」
 ―――っつーか、広げたままで行くなよ、おい。
 丸めていないポスターを手に走り去る和臣に、瑞樹は頭痛を覚えて、思わず頭を押さえた。ちょうどコーヒーを運んできたウェイトレスとぶつかりそうになっていたが、あの分では、そんな迷惑にも全く気づいていないだろう。

 「―――あのぉ」
 眉間に皺を寄せて、運ばれてきたコーヒーをブラックのまま口に運んだ瑞樹は、その声にようやく、前に座る女の存在を思い出した。
 ポスターを見て石になっていた筈の倉木は、いつの間にか元の状態に戻っていた。今では、妙に目を爛々とさせて、瑞樹を見据えている。色々な女を見てきた瑞樹だが、獲物を見つけた時の肉食獣を思わせる目つきに、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
 「…なんだよ」
 「成田さん、うちの会社にいる頃、4階の事務の人とかコールセンターの人なんかに凄くモテたって、本当ですか?」
 「…さぁな」
 「里谷さんとか、梅沢さんとか。そりゃもういーっぱい、お話聞いてるんですけど」
 「そいつらがそう言ってんなら、そうじゃねぇの」
 面倒そうに瑞樹が言うと、倉木は「へーえぇ」と感心したような声を上げながら、ほくそえんだ。
 「やっぱり、女性慣れしてる感じですよねぇ。神崎さんて女性に慣れてない感じがして、その癖妻帯者って辺りのミスマッチがツボだったんですけどぉ、あたし、基本的には、慣れた男の人が好みなんですよぉ。初心な男の子も可愛いけど、やっぱり色々面倒ですからねぇ」
 「……」
 つまり何でもいいってことかよ、と心の中で突っ込みを入れたが、口には出さなかった。ただ眉を顰めてコーヒーをあおっただけで。
 「でも、好みの人って、みんな彼女持ちじゃないんですよねー。ほら、そういう男の人は彼女いなくても、適当に遊べる相手がいくらでもいるから。その点だけがイマイチなんですよねー」
 彼女がいない点がマイナス点とは、無茶苦茶である。普通はいない方がありがたいのではないだろうか。
 「…お前、どっか変なんじゃねーの」
 思わずそう言うと、倉木はニンマリと笑った。
 「あたし、略奪愛が大好きなんですぅ」
 「―――…」
 「前の彼氏は妻子持ちの大学教授だったし、その前は先輩の彼氏だったし。相手の女がハイレベルなほど、燃えるんですよぉ。やった、勝った、って感じで。木下先輩、結構可愛いから、その点でも神崎さんは腕の鳴る相手だったなぁ…」
 ―――おい。もはや過去形か?
 眉をひそめた瑞樹は、次第に、今日ここに呼ばれた本当の目的を予感し始めた。やばい―――警告ランプが、頭の中で点滅する。
 「さっきのポスターの人、モデルさんですかー?」
 「…さあね」
 「でも、成田さんの彼女ですよねー。ふふふふ…」
 不吉な含み笑いに、一気に鳥肌が立つ。いや、もう予感という段階じゃないだろう。さっさとずらかった方が身のためだ―――そう思った時、胸ポケットに入れた携帯電話が鳴った。
 反射的にそれを手に取り、半ば倉木に背を向けるようにしながら開く。表示されていたのは、"rai"の3文字だった。当然、瑞樹は通話ボタンを押した。
 「はい」
 『瑞樹? 私。どう? カズ君との話、順調にいってる?』
 「あー…、まあ、大丈夫だろ」
 実は話なんてほとんどしていないのだが―――蕾夏の声に対する条件反射で勝手に表情が穏やかになってしまうのを誤魔化しきれないまま、瑞樹はなんとかそう答えた。
 「お前はどこなんだよ、今。仕事終わったのか?」
 『まだもう少しあるけど、そろそろ終わる。瑞樹の方がちょっと時間かかりそうなら、どこかで時間潰そうかと思ってるんだけど』
 「いや、大丈夫。予定通り7時には、」
 「成田さぁ〜ん。誰と電話してるんですかぁ〜?」
 突如、不自然なほど大きな声が割って入った。
 ギョッとして顔を上げると、むすっとした顔をした倉木が、頬杖をついて携帯電話を睨んでいた。
 「女の前で他の女からの電話に出るなんて、マナー違反ですよぉ?」
 『……』
 今の倉木の声は、蕾夏にも聞こえていたのだろう。電話の向こうの空気が、凍りついた気がした。その空気を察した瑞樹は、すぐ傍にあったファミレスのメニューを、咄嗟に倉木の顔に押し付けた。
 「んぐぐぐぐぐーー!」
 『…なんか、取り込み中みたいだね』
 「…悪い。今のは例の、カズの追っかけ女だ」
 『はぁ…。で、また隙を見せて乗り換えられちゃった訳ね。もー…なんですぐ、そういう展開になるかなぁ』
 「おい、冗談言うな。隙なんて見せてねーよ」
 冷ややかな蕾夏の声に、思わず携帯を握る手に力が入る。ついでにメニューを押し付ける手にも力が入り、倉木が抗議するようにテーブルをドンドン叩いていた。
 『…まあ、ゆっくり相談に乗ってやって。映画はまた別の日でもいいし』
 ―――おいおいおい。
 多分、蕾夏の脳裏には、里谷に抱きつかれた時のことや、カレンにいきなりキスされた時のことが蘇っているのだろう。滅多に拗ねたり嫉妬したりしない蕾夏だから、むしろ可愛い反応かもしれないが、頼むからよりによって“こんなの”に拗ねたりするのは止めてほしい。
 「バカかっ、あの映画、今日のオールナイトが最後だろ」
 『そうだっけ』
 「…分かってて言ってんだろ、お前。いいか、絶対時間通り来いよ。何がなんでも来い。逃げたら化けて出るぞ」
 『とりあえず、仕事戻る。じゃあね』
 「おい、蕾夏っ!」
 直後、電話は一方的に切れてしまった。ツー、ツー、という無機質な音だけが、その場に残された。
 「―――…」
 「うえぇ…、やだもぉ、成田さん、酷いですよぉ。ファミレスのメニューなんて、いろんな人が触りまくって、汚いんですからぁ」
 やっとメニューから解放された倉木は、自分のやったことを棚に上げてそんな恨みごとを言いながら、口をウェットティッシュで拭っていた。そんな倉木にゆっくり視線を戻した瑞樹は、いよいよ怒りが頂点に達するのを感じた。

 ―――こいつ。
 絶対、許さねぇ。

***

 ―――うーん、なかなかいい感じにコピーできたなー。
 A4サイズに縮小されてしまったポスター画像を眺めながら、和臣は上機嫌にファミレスに戻ってきた。予備として5枚ほどコピーしたので、これで汚れたり破れたりしても安心だ。
 さて、残るは倉木の問題だけ―――そう思ってレジの前を通り抜けた和臣だったが、元いた席のテーブル横に立つ瑞樹の姿を見つけた途端、言い知れない“何か”を感じて、思わずその場に足を止めた。
 「―――…」
 瑞樹の顔は、見えない。倉木と話をしているらしく、ジーンズのポケットに手を突っ込んで斜め下を向いている背中が見えるだけだ。
 けれど…和臣には、分かってしまった。自分の不在の間に、何やら決定的な事件が起きたらしいことが。
 ―――う…うわあああぁ…。過去、最大級かも…っ。
 瑞樹の背中に“人を2桁殺してそうなオーラ”を感じて、和臣はぶるっと震え上がった。当の倉木は、気づいていないのだろうか。僅かに見える顔は、もの凄く楽しげに笑っている。
 「…お…お待たせ、しました」
 緊張で喉がカラカラになりながら和臣が声を掛けると、瑞樹は、何事もなかったかのような顔で振り返った。
 「できたのか、コピー」
 「う、うん。あの…5枚ほどさせてもらったけど」
 本当は黙っているつもりだったが、今の瑞樹に下手に隠し立てしてバレたりしたら、本気で命がなくなりそうだ。頼むから殺さないでくれ、という気持ちで正直に打ち明けた和臣だったが、瑞樹はふっ、と笑っただけで、特に咎めたりはしなかった。
 「だったら、ポスターは用なしだな。渡せよ」
 「…はい」
 「碌に話もしてねーけど、俺、急遽蕾夏を会社まで迎えに行くことにしたから。これで帰る」
 「えっ、そうなの?」
 これから血みどろの展開が待っているのでは、と慄いていた和臣は、帰るという意外な言葉に目を丸くした。まあ、和臣からすれば、どうやら倉木のターゲットが無事移動したようなので、目的は達成できたのだけれど。
 「成田さんー、明後日、絶対ですからねー」
 和臣からポスターを受け取り、さっさと帰る準備を始める瑞樹に、妙に上機嫌な倉木がそう声を掛けた。何の話だろう、と和臣が眉をひそめていると、倉木を振り返った瑞樹は、また和臣を驚かせる発言をした。
 「2時間限定な。定時にここで待ってるから」
 「はいっ」
 ―――えええ!? な、なに、成田、倉木さんとデートの約束したの!?
 「楽しみにしてますねー」
 「―――ああ。俺も楽しみだよ」
 そう言ってニヤリと笑った瑞樹の笑みを見た瞬間―――その殺気に、和臣の足元から寒気が一気に駆け上った。
 「あ…あ、あ、あの、成田」
 「じゃあな」
 ぽん、と和臣の肩を叩いた瑞樹は、ニッ、と笑って和臣とすれ違った。そしてすれ違いざま、恐ろしい一言を囁いて行ったのだった。
 「―――殺しはしねーから、心配すんな」

 倉木の未来は、真っ暗闇だ。
 ごめんよ倉木さん―――と心の中でちょっとだけ詫びた和臣だったが、自分と奈々美の平安のため、あえて止めることだけはしなかったのだった。


***


 倉木があの成田瑞樹にターゲットを変えたらしい、という噂は、翌日には社内に広まっていた。
 どうなるんだろう、と全員が興味津々で見守ること、1週間。

 「あ、倉木ちゃんだ。倉木ちゃーん!」
 出社途中だった里谷は、数メートル先を歩く倉木を見つけて、ぶんぶん手を振った。が―――振り向いた倉木のげっそりやつれた顔を見て、一瞬、他人のふりをしそうになった。
 「あ、あはははは、おはよーっ。ねぇねぇ、倉木ちゃんて、成田さんにターゲット変えしたんだよねぇ。どうなったぁ?」
 里谷が明るくそう訊ねると、倉木は真っ暗な顔のまま、疲れたように首を横に振った。
 「…もうその名前、聞きたくないです。あたしが甘かった…」
 「は?」
 「…どーしよー…もう会社にもいられないかも。ううん、東京から脱出しないとまずいかもー…」
 「???」


 どんな手法を瑞樹が用いたのかは、定かではない。
 ただ、1度目のデート2時間の間に、倉木が誘導されるままに過去の男性関係を全て吐いてしまったことと、 2度目のデートの時、待ち合わせ場所に瑞樹がおらず、その代わり過去倉木に男を取られた被害者の女性5名が待ち構えていたことは、決して無関係ではないだろう。しかも、自宅の電話番号まで瑞樹に教えてしまっていた倉木がその後どんな目に遭ったのかは…まあ、推して知るべし、だ。
 以降、倉木は、すっかり大人しくなった。覇気のない倉木の姿に、ある者は「やっと平和になった」と安堵し、ある者は「なんだつまらん」と落胆したという。

 こうして瑞樹は、ブレインコスモス社内において「伝説の倉木ストッパー」として名を残したのだが―――…。

 「おい、成田の彼女って、前のコンビニに貼ってあったポスターの、あのモデルらしいぞ」
 「えっ、じゃあ、やっぱりモデル? 一種の職場恋愛かー。意外に普通だな」
 「あれ? 俺は元取引先のOLだって聞いたぞ。どっちが本当だ?」
 「ディカプリオと競演したって聞いたけど。もしかして外国人か?」

 姿の見えない「成田瑞樹の恋人」として、蕾夏もまた伝説になってしまったことを、瑞樹も、そして蕾夏も、全く知らないのだった。


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