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― 護るべきもの ―

 

 「ごめんね、藤井さん。すごーく嫌な思いしたんじゃない?」
 「ううん、別にそれほどでもなかったよ」
 本当は少し嫌な思いもしたのだが、申し訳なさそうな奈々美の様子に、蕾夏はあえて本音は語らずにおいた。なのに、
 「俺はかなり嫌な思いをした」
 隣に座る瑞樹がボソリとそう付け足したことで、奈々美は余計申し訳なさそうに体を縮めた。
 「…んもぉ…大体ね、カズ君がいけないのよっ。私がいない時を狙って、佳那子や久保田君と変なこと画策するから」
 「―――ごめんなさい」
 奈々美に睨まれた和臣は、奈々美以上に体を縮める。元々樋沼が、とか、久保田さんが入れ知恵するから、とか、いろいろ言いたいことはあるけれど、それを言える立場ではない。

 倉木が、被害者女性5名による地獄を見た数日後の、日曜日。迷惑をかけたお詫びに、と、瑞樹と蕾夏は神崎家に招待されていた。蕾夏は過去に1度来たことがあるが、実は瑞樹にとっては初めての訪問だ。
 蕾夏と佳那子がそうであったように、瑞樹も、絵に描いたようなカントリー調のインテリアに、じっとしていられないようなむず痒さを感じた。ペアのマグカップも2人の名前入り時計も、こんなの本当にあるのかよ、と言いたくなるほど激甘。1年以上経っても新婚家庭そのまんまなムードに、昼食のもてなしを断って帰ろうかと思ったほどだ。

 「あ、これ、おいしー。市販ソースじゃないよね」
 奈々美お手製の和風きのこパスタを一口食べたところで、蕾夏が思わず声を上げると、向かいに座る奈々美が嬉しそうに笑った。
 「そう、私が作ったの。良かった、口に合ったみたいで」
 「和風って、炒めてるうちに醤油とかお酒をパスタが吸っちゃって、なんか微妙にのびたようなパスタにならない? 何度か挑戦してるけど、上手くいかなくて」
 「あー、分かる分かる。和風、って言葉にひきずられて、油を少なくしちゃうからよね。私も最初、ぶよぶよのパスタになってがっかりしちゃったもの」
 「そっか、油が原因かぁ…」
 「おばさんの家に居候してからは結構手伝っていろいろ教えてもらってたから―――料理上手なおばさんだったから、下手な料理学校行くよりお得だったわよ。和風パスタも、おばさんの得意料理の一つだったの」
 「ふぅん…奈々美さんて、見た目通り家庭的だよねぇ…。いいお母さんになりそうな感じ」
 実際、今座っている椅子のクッションも、奈々美お手製のパッチワークのカバーが掛けられているし、手作りのぬいぐるみなんかもあったりする。蕾夏には絶対できない芸当だ。
 けれど、蕾夏の言葉を聞いた途端、奈々美の顔は冴えない表情になった。少し戸惑ったように瞳を揺らす奈々美に、何の気なしに言葉を紡いでいた蕾夏は、何か失言をしたのかと焦った。
 「え、どうしたの、奈々美さん」
 その変化は和臣にも分かったらしく、不思議そうな顔をして奈々美の顔を覗き込んだ。瑞樹も少し眉をひそめている。それで、自分がかなり妙な反応をしてしまったらしいことに気づき、奈々美は慌てて笑顔になった。
 「う、ううん。なんでもないの。ただ―――ただ、ね。“いいお母さん”に、なれるのかな、と、ちょっと思って」
 「え?」
 「…実感が、ねぇ。まだ、ないのよね。母親になるんだなぁ、っていう実感が」
 困ったようにそう言った奈々美は、ため息をついて、軽くおなかをさすった。
 「なんかねぇ…ただ“モノ”が入ってるだけで、これが“人間”だっていう実感が、全然湧かないの。ほら、ドラマなんか見てると、妊婦さんが、まだ大きくもなってないおなかに話しかけたり笑ったりするシーンがあるじゃない? カズ君も時々話しかけてるし」
 「…ふーん、話しかけてるんだ」
 「カズならやりそうだよな」
 蕾夏と瑞樹が思わずそう相槌を打つと、和臣は照れることもなく大きく頷いた。
 「まだ聞こえないんだろうけど、念のため挨拶だけはしてるんだ」
 「挨拶…」
 「おはようとか、おやすみとか。やっぱり礼儀でしょ」
 「……」
 …まあ、胎児も人間なので、礼儀はあるのかもしれないが。
 「カズ君はそうやって、この子の存在を感じられるみたいなんだけど―――変なのよねぇ。子供が住み着いている筈の私自身は、まだ実感できなくて。もしかして私、異常なのかもしれない、って、最近不安なの」
 ますます困った顔になる奈々美は、眉を寄せて、向かいの蕾夏の顔をじっと見た。
 「ねえ、藤井さんはどう思う? 同じ女から見て、おなかに子供がいるのにそれが実感できないのって、母性の欠如とかそういう異常状態なのかしら」
 「う、うーん…ごめん。分からない」
 同じ女と言われても、蕾夏は妊婦じゃないんだから、無理だ。ただ、奈々美同様、ドラマや映画でそういうシーンを見て、母親とはああいうものなのだろう、と漠然と考えているだけで。
 「時期が来れば自然と実感できるものなんじゃない? 人それぞれだと思うけどなぁ」
 分からないなりに蕾夏がそう答えると、瑞樹が、妙に冷めた声で続けた。
 「父親のカズが実感できてりゃ、いいんじゃねぇの。いくらでもいるだろ、子供に愛情持てない母親なんて」
 「そりゃあ、いるけどっ。私は、そういう親にはなりたくないのよ。だって、そんな母親だったら可哀想じゃないの。子供が」
 憤慨したような奈々美の言葉に、パスタをフォークに巻きつけていた瑞樹の手が止まった。
 意味の分からない言葉を聞いたかのように眉をひそめ、奈々美の顔をじっと見る。が、やがてふっと笑うと、
 「―――可哀想、か」
 そう繰り返し、止めていたフォークを再び動かし始めた。
 奈々美も和臣も、そんな瑞樹の反応に怪訝そうな顔をしたが、瑞樹がそれ以上何か言う様子はない。一人、蕾夏だけが、口にされなかったセリフを耳にしたように微かに瞳を揺らした。
 「…あ、ごめん、奈々美さん。お水貰ってもいい?」
 話題を断ち切るかのように蕾夏が言うと、奈々美はそれを不審とも思わず、いそいそと立ち上がってグラスを用意しようとした。それを見て、慌てたように和臣も立ち上がる。
 「ダメだってば、奈々美さんっ。オレがやるから、奈々美さんは座っててよっ」
 「もー、平気だってば。カズ君、まだほとんど食べてないじゃない」
 ハートマークが飛び交いそうな2人の様子に、思わず苦笑する。と同時に、不自然な形じゃなく話題が逸れてくれたことに、蕾夏はホッと胸を撫で下ろした。

 ―――可哀想…か…。
 蕾夏がそっと瑞樹の方を見ると、瑞樹は、特に何の感情も表情に乗せないまま、淡々とパスタを食べていた。
 多分…子供の頃、母に無視されても叩かれても、こんな顔をしていたのではないかと思う。そして「あの日」も―――事故現場で母に見捨てられたあの日も、父や医師の前では、こんな顔をしていたのではないか、と。

 可哀想―――他人や一般常識との比較で生まれる価値観。
 比較していては、やってこれなかったのだと思う。だから、自分の置かれた立場と他の子供のそれとは全くの別物だと思ってきたのだと…そう、思う。
 『嫌だ。許したくない―――許しちまったら、可哀想だろ。あの時殺された、8歳の俺が』
 瑞樹が唯一、自分に対して“可哀想”という言葉を使ったのは、あのセリフだけだ。多分、瑞樹は“可哀想”という言葉が死ぬほど嫌いだ―――根拠はないけれど、蕾夏はなんとなく、そう思った。

 「はい、お水」
 「あ、ありがとう」
 奈々美に差し出されたグラスで我に返った蕾夏は、さりげなく笑顔を作り、そのグラスを受け取った。頼んだのは蕾夏だけだったが、どうやら全員分用意したらしい。奈々美は、和臣や瑞樹の前にも水と氷の入ったグラスを置いていった。
 そして、自分の席にもグラスを置いて椅子に腰掛けた時―――奈々美の表情が、突如、変わった。
 「―――…あ…」
 小さな声をあげ、ビックリしたように目を見開いた奈々美は、慌てて椅子を少し引き、自分のおなかを見下ろした。
 「どうしたの? どっか痛い?」
 不安げに和臣が言うと、奈々美は驚いた顔のまま、小さく首を振った。
 「違うの。今…」
 「え?」
 「今、動いたかも、しれない」
 「…何が???」
 「―――赤ちゃん」
 「えっ!!!」
 ガタン! と音を立てて立ち上がった和臣は、驚く瑞樹や蕾夏をよそに、一目散にダイニングを飛び出して、どこかへ消えた。呆気にとられていると、やがて、1冊の本を抱えてダッシュで戻ってきた。
 「ちょっと待ってっ。えーとえーと…あ、あった。“妊娠5ヶ月―――この頃から、胎動を感じるようになります”…胎動って胎児が動くってことだよね。奈々美さんも5ヶ月だから…ああ、良かった、これで普通なんだ。…う、うわぁ、一回転する位動くんだって。な、何が原因で動いたんだろう!? 今、奈々美さん、何か凄いことした!?」
 「別に、何もしてないけど…」
 「ど、どうしようー! 動いたってことは、もうおなかの中で一回転してたりするってことだよねぇ!? 何かのはずみで出てきちゃうこともあるんじゃないかなぁ!?」
 「…ある訳ないだろ、バカ」
 呆れたような瑞樹のその呟きは、興奮状態の和臣の耳には届いていなかった。というより、彼は瑞樹の存在も蕾夏の存在も忘れていたらしい。
 「すっごーいっ! こ、この中で一回転してるのかー! 奈々美さん、ちょっと見せて、触らせてっ!」
 「えっ…、ちょ、ちょっとちょっとちょっとっ!」
 見せて、触らせて、とは“直接”ということらしい。和臣は、仰天する奈々美のマタニティ仕様のワンピースのボタンを、本気で外そうとした。
 勿論―――瑞樹と蕾夏が駆け寄り、全力で止めたのは、言うまでもない。

***

 「…お邪魔しました」
 「ご、ごめんね、バタバタしてるばっかりで、大しておもてなしも出来なくて」
 「ううん、パスタおいしかったし」
 「災難にも遭ったけどな」
 瑞樹の低い呟きに、蕾夏はすかさずその足を軽く蹴飛ばした。それを見て、見送りに玄関まで出ていた奈々美が、引きつった笑いを見せた。
 和臣は見送りに出てきていない。胎動に舞い上がってしまって、マタニティ関係の本にかじりついたままだ。今からあんな風で大丈夫なんだろうか―――他人事ながら、少々不安だ。
 「で…奈々美さん、結局会社、どうするの?」
 バタバタした結果、肝心の話を訊き忘れていたのを思い出した。蕾夏が靴を履き終えて訊ねると、奈々美は少し首を傾げるようにした。
 「うん…まだ、迷ってるの。ほら、今の仕事―――特にデモは、カズ君が推してくれた仕事だし、すぐいじけちゃう私が唯一自信持ってる部分だから、そこだけは守りたいって気持ちもあって。実は、倉木さんに苛立ってたのも、半分はそれなの」
 「それ、って?」
 「だって彼女、私よりずっと若い上に、積極的で自信あり気でしょう?」
 「…バカで厚かましくて己を知らないとも言うけどな」
 憮然とした瑞樹のセリフに、倉木をよく知る奈々美は吹き出し、よく知らない蕾夏はあまりの言い様に冷や汗をかいた。
 「うーん、まあ、そうとも言うかもしれないけど。でも―――そういう子に挑まれちゃうとね、なんだか、必死に守ってきた私の居場所がなくなっちゃう気がして、怖かったのよ。カズ君にちょっかい出すのも頭にきてたけど…うん、多分、そういう不安も大きかったんだと思う」
 「じゃあ…やっぱり、休職はしないの?」
 ラッシュ時など相当混雑すると聞いているし、最寄り駅は階段が多い。心配げに蕾夏が眉をひそめると、奈々美は再び首を傾げるようにした。
 「ん、だから、まだ迷ってるの。ついこの前までは、倉木さんがうるさかったから、休職なんて嫌だなぁ、と思ってたけど、成田君のおかげで解決したし。それに―――やっぱり、こんな風に動いたりするとね」
 そう言った奈々美は、ふっと微笑み、静かにおなかを撫でた。
 「ああ、そうか、やっぱりちゃんとここに、意志を持った人間がいるんだなぁ…って、実感しちゃう。やっぱり、この子守るのが、今の私にとっては一番大事な仕事なんだろうなぁ…」
 「……」

 おなかの中にいる命に語りかけるみたいな奈々美の目は、なんだか、マリア像の目に似ているように見えた。つい1時間前まで、自分は母親として異常なんじゃないか、と不安がっていたのに―――不思議だ。

 たった1つのきっかけで、一瞬にして母親になる女性もいる。
 …子供を産んで育てて、それでもなお、母親になれない女性もいる。

 すっかり“お母さん”の顔になってしまった奈々美を、瑞樹と蕾夏は、どことなく複雑な心境で眺めていた。

***

 枝の上で互いの羽根を啄ばみあっている鳥に向けてシャッターを切ったところで、フィルムが切れた。
 瑞樹がフィルムを巻き上げる時の動作でそれに気づいた蕾夏は、
 「休憩する?」
 と声を掛けた。
 瑞樹も「そうだな」と答え、2人は、少し先にあったベンチに腰を下ろし、前もって買っておいたウーロン茶のプルトップを開けた。
 神崎家からの帰り道―――立ち寄った公園で目についたものを撮り続ける間、2人はあまり言葉を交わさなかった。
 瑞樹がどういう気持ちでいるかは分からないが、少なくとも蕾夏は、意識的に言葉少なになっていたと思う。なんだか、口を開くと余計なことを言ってしまいそうで。そして、その一言が、瑞樹を傷つけてしまいそうで。
 「結構、暑いねぇ」
 7月中旬の午後ともなれば、日差しは梅雨の晴れ間よりずっと厳しい。冷たいウーロン茶を流し込んでホッと一息ついた蕾夏は、ベンチの頭上を覆う葉の隙間から、真夏を思わせる光を仰ぎ見た。日向にい続けたせいか、いつもより赤味を帯びた蕾夏の頬を見て、瑞樹は眉をひそめた。
 「大丈夫か?」
 「え? ああ、うん、大丈夫。今ここ、日陰だし」
 「暑ければ、撮影中でも早めに言えよ。熱射病にでもなったらまずいだろ」
 「うん。被写体探ししてると、結構暑さも忘れちゃうよね」
 実際、暑さそっちのけで被写体を探してキョロキョロしていた蕾夏は、そう言ってくすっと笑った。が…直後、瑞樹の表情が微妙に変化したのに気づき、思わず怪訝そうな顔をしてしまった。
 「どうかした?」
 「―――ああ、いや、なんでもない」
 「なんでもない、って顔じゃないけど」
 心配げな蕾夏の様子に、瑞樹はバツが悪そうに苦笑いを浮かべた。
 「なんでもない。ただ―――思い出しただけで」
 「え?」
 「“あの日”も、海晴に、同じようなこと言ったよな、と」
 「―――…」
 そう言えば―――海晴が車にはねられたのは、そして幼い兄妹が実質上母に見殺しにされたのは、7月の暑い日だったと聞いた。細かな話が脳裏に蘇り、蕾夏は悲しげに目を細めると、視線を瑞樹の膝の上に落とした。
 「…悪い。言うんじゃなかった」
 うなだれてしまった蕾夏に、瑞樹は少しすまなそうな声でそう言う。けれど、瑞樹が謝らねばならない理由など、一つもない―――蕾夏は俯いたまま、首を何度も横に振った。

 ―――ほら。やっぱり、瑞樹を傷つけるような話題になっちゃった…。
 痛々しくて―――自分のことを“可哀想”とすら思えなかった小さな瑞樹が、あまりにも痛々しくて、辛くなる。その小さな瑞樹は、まだここにいる。それを時々感じるから、余計に。
 本当は、その記憶を実際に持つ瑞樹の方が辛い筈なのに…こんな時、堪えられずに落ち込んでしまうのは、いつも蕾夏の方だ。そして、落ち込むたびに、思う―――こうやって落ち込むことの方が、瑞樹を傷つけてしまうことになるんじゃないか、と。

 思わず手を伸ばし、ウーロン茶の缶を包み込んでいる瑞樹の手を、ほんの少しだけ握る。すると、それに促されたみたいに、瑞樹も片手を缶から離し、蕾夏の手を握り返してきた。
 缶に冷やされた瑞樹の手は、冷たくて心地よい。指を絡めたりして冗談のようにじゃれていると、飲み込んでいた言葉がするすると解けていくのを感じた。
 「…奈々美さん、きっと、仕事辞めると思う」
 蕾夏がそう言うと、瑞樹は、少し不思議そうな目を向けてきた。
 「“休職”じゃなく、“辞める”、か?」
 「うん。なんか、今日の顔見て、そう思った。仕事に対する気持ちは、もう過去のもの、って感じだった―――元々、仕事より家の事の方が好きなタイプみたいだし。復帰する気はないんだろうな、って感じた」
 「…やっぱり、分かんねーな」
 蕾夏の手を弄ぶようにしながら、瑞樹はどこか遠い目をして、ウーロン茶をあおった。
 「カズなんて…男なんて、あんだけの本やら雑誌やらで知識補強して、自分が父親だって自己暗示かけながら父親になっていくのに。実感ないって首傾げる木下さんを、隼雄まで“大丈夫か”って心配してたのに―――たったあんだけで、いきなり母親だぜ? 分かんねぇ…」
 「……」
 「…分かんねぇ」
 もう一度、呟く。
 それは、だったら何故自分の母は、というやるせなさの呟きではなく、ただ純粋に「分からない」という感じだった。分からない―――ある意味、成田家という家庭の中に、“母親”は、いなかったから。
 「…でも、私より瑞樹の方が、分かってる気がする」
 蕾夏が小さくそう告げると、瑞樹は怪訝そうに眉を寄せた。
 「なんで?」
 「だって、瑞樹、言ってたじゃない。…現実のお母さんがどうであれ、妹の中にある“母親”までは殺したくなかった、って。だから自分が育てるって―――守るって決めたって。そのために、海晴さんの目がお母さんに行かないように、愛情を必死に与えてたんでしょう?」
 「……」
 「瑞樹は、お母さんを知らないのかもしれないけど…お母さんが“無条件の愛情”の代名詞であることは、何故か知ってるみたい。私以上に。…不思議―――いつ、どこで学んだのかな。そんなこと」
 くすっと笑った蕾夏は、指を絡めた先の、自分よりずっと大きな瑞樹の手を見つめた。
 「それとも―――人間のDNAの中に、最初から組み込まれてるのかな。“母親”って存在が」
 「―――哲学的だな」
 その声は、皮肉もからかいも乗せていなかった。
 「人間て、哲学の塊だよ、多分」
 だから蕾夏も、茶化すでもなく、そんな風に締めくくった。そして、なんとなく指先を絡ませあったまま、2人してウーロン茶を無言であおった。


 分からない―――人間は、哲学を寄せ集めて出来上がったみたいな、不可思議な生き物だから。
 たとえばここから見る空は、当たり前のように広くて青いのに―――同じこの空を見上げて、怒りを感じる人も、涙を流す人も、絶望から救われる人もいる。何故、人間だけが、こんなに複雑で多様な生き物なのだろう…たった80年90年生きるだけの器に過ぎないのに、何故“心”なんていう難しいものを抱え込んで生きているんだろう。
 恐怖の記憶は、人間がもっと下等生物だった時代の脳の記憶の再生なのだと、何かの本で読んだ。
 死に対する恐怖、痛みに対する恐怖が、危険を回避するための防御装置として働く。死にたくない、痛い目にあいたくない、そういう本能から、草食動物は肉食動物の姿を見て逃げ出し、小鳥はハゲワシの羽音に餌を投げ出してでも飛び立つ。そして―――蕾夏は“彼”の記憶から逃げ続け、瑞樹は“彼女”の記憶から逃げ続ける。
 この恐怖は、太古の記憶の、再生。
 ならば―――“母親”を覚えたのも、人が人間になる前だろうか。
 地球のどこかの海辺で、小さな卵として母親に抱かれてた時代の記憶が、人間の脳に、遺伝子に、ずっと刻み込まれているのだろうか。そして、母という存在を考える時―――その記憶を無意識に再生しているのだろうか。

 ―――じゃあ、この、感情は?

 冷たい缶から唇を離し、蕾夏はそっと瑞樹の横顔を見た。

 瑞樹を、守りたい―――瑞樹より小さな体をして、瑞樹より痛みに弱い心をしている癖に、そんな風に思う。
 この感情は、いつ、生まれたんだろう? いつの時代の、何という名前の感情なんだろう…?


 「…倉木の件でごちゃついてて、言いそびれてたけど」
 ふいに瑞樹が口を開いた。その声に我に返った蕾夏は、2、3度目を瞬くと「何?」と促した。
 「海晴から、手紙が来た」
 「海晴さんから?」
 微かに頷いた瑞樹は、中身も残り少なくなった缶をベンチの空いている場所に置くと、デイパックの外ポケットから何かを引っ張り出した。そして、薄い緑色をした封書らしきそれを、無言で蕾夏に差し出した。
 「…読んでいいの」
 さすがに躊躇われてそう確認すると、目を上げた瑞樹は、その目だけで頷いた。少なくとも、そうやって差し出すということは、蕾夏に読んで欲しいということだろう。まだ躊躇いはあったが、蕾夏は瑞樹の手を解くと、おずおずと封筒の中身を引っ張り出した。
 開いた便箋の最初の数行には、時節の挨拶と、生まれたばかりの息子に―――(ひかる)に名前をつけてくれた瑞樹に対するお礼が述べられていた。そしてその先には、こんな文章が続いていた。

 『……ところで、今年のお盆休みですが、神戸に帰省する予定はありますか?
  私は今、一旦九州に戻っていますが、8月には1度、神戸のお母さんのお墓にお墓参りに行こうと思っています。
  窪塚の義父も、今は神戸に住んでいるし…それに、お父さんにももう一度、会ってゆっくり話がしたいし。
  でも、今一番会いたいのは、お兄さんです。会いたいし、晃の顔も見せたいんです。
  8月の頭から半月ほど、晃も連れて、神戸に滞在するつもりです。
  もし都合が合うようなら、是非会いたいです』

 瑞樹は、まだ、晃の顔を見ていない。そして―――母の墓参りもしていない。
 「…行くの?」
 見せた、という事は、そういう心積もりなのではないだろうか。そんな気がして蕾夏が訊ねると、瑞樹は、一瞬瞳を揺らしたけれど、結局軽く目を伏せて頷いた。
 「ああ…ちょっと迷ったけど、行こうと思ってる」
 「そっか…」
 瑞樹の中の妹は、14歳の少女のまま、止まっている。今は26歳―――蕾夏と同い年の彼女は、ちょうど瑞樹の幼い頃の記憶の中の母と同じ年頃に成長し、同じ“母親”になっている。生まれたばかりの男の子を、その腕に抱いて。
 時計の針が、動き出す瞬間…瑞樹は、何を思うだろう?
 1人で、耐えられるだろうか―――幼い頃ですら母と瓜二つだった妹の成長した姿と、時を越えて再会する瞬間を。
 「…私、一緒に行ってもいい?」
 瑞樹の傷に、どこまで踏み込んでいいか、まだ測りきれない部分がある。断られるかな、と少し不安を覚えながらも、蕾夏はそう訊ねた。すると瑞樹は、どこかホッとしたような表情で、微かに微笑んだ。
 「お前が嫌じゃなければ、むしろ俺が頼みたい」
 「本当?」
 「海晴のこともそうだけど―――正直、墓参りにしたって、自分がどんな心境になるのか、全然想像つかねーし。12年ぶりの再会なんだから、無様なとこは見せたくないしな」
 「じゃあ、一緒に行く」
 受け入れてもらえたことに、蕾夏もホッとしたように微笑み返した。自分が一緒にいれば、本当に無様な状態にならずに済むのか、ちょっと怪しい気もするが…瑞樹がそう言ってくれることは、素直に嬉しかった。

 そして、ホッとした途端、自分もずっと言いそびれていた話がふっと心に浮かんだ。
 言いそびれていた―――いや、違う。本当はずっと黙っておこうかと半分考えていたことだ。けれど、瑞樹が海晴からの手紙を渡してくれた今、自分だけが黙っているのは、なんだかずるい気がした。
 「…あ…あの、ね」
 さっきまでとは少々トーンの変わった蕾夏の声に、再びウーロン茶を飲んでいた瑞樹は、軽く首を傾げた。
 「なに」
 「8月の終わりか、9月の頭辺り―――クラス会、あるんだ」
 「クラス会?」
 「…中学校で」
 小さく付け足した言葉に、怪訝そうだった瑞樹の表情が、一瞬で険しくなった。
 「―――ってことは、中学の、か?」
 「うん…中3のクラスの、同窓会。この前、由井君に会った時、話聞いて―――で、大体その辺りの日程にしようって、おととい決まったところ」
 「行くのか」
 やめとけ、という本心が隠れてそうな、硬い声だった。当然だろう。瑞樹は、知っている。中3のクラスにも“彼”がいたこと、そして―――中学校という場所が、蕾夏にとってどういう意味を持つ場所かを。
 「今までは、断ってたんだけど…今年は、行くことにした」
 「でも」
 「佐野君は、来ないよ」
 きっぱりと蕾夏が断言すると、瑞樹は言いかけた言葉を飲み込んだ。本心を見透かそうとするようにじっと見据えてくる目にちょっと動揺しながらも、蕾夏はもう一度、ゆっくりと口を開いた。
 「―――佐野君は、来ない。…よく考えたら、当たり前のことだった。ああいう人は、そういうイベントには顔出さないのが普通だもん。なのに、変に不安がって断り続けてたから、かえって目立つ羽目になっちゃったんだと思う」
 「…2人だけ残った…か」
 2人だけが炙り出される形になったことを察したのだろう。瑞樹は眉を顰めると、視線を少し落とした。
 「私、行って、見てこようと思ってる」
 改めて口に出すと、恐怖の方が増す。それに耐えるよう、蕾夏は缶を握る手に力を込めた。
 「奏君とのことがあった今だから、尚更―――あの場所に戻って、向き合ってみようと思ってる。少なくとも私、奏君とは向き合えた。瑞樹がいてくれたからだけど、でも…それでも、向き合えた。なかったことには出来ないけど、多分また奏君と会うことは出来ると思う。私が逃げてるのは、結局、今も昔も、佐野君とあの場所からだけなの」
 「…決めたって声だな」
 はあっ、とため息をついた瑞樹は、視線を落としたまま、諦めたようにそう呟いた。顔ではなく声というところが、面白いと思うけれど―――瑞樹はいつも、表情より声から、蕾夏の状態を見抜いてしまう。今も、表情よりも声に、蕾夏の決意の固さを感じ取ったのだろう。
 しばしその姿勢のままいた瑞樹は、乱雑に前髪を掻き上げると、何かを決めたように顔を上げ、蕾夏の方を見た。
 「俺も行く、と言いたいところだけど、それはいくらなんでも、と思うから―――迎えに行って、いいか?」
 「え?」
 「学校の正門でも、駅の改札でも、なんでも。…クラス会の日、迎えに行ってもいいか?」
 「…どうして…?」
 何故そんなことを言うのか分からず蕾夏が訊ねると、ふっ、と笑った瑞樹は、蕾夏の頭を少し引き寄せて、その額に自分の額を合わせた。
 「お前が考えたのと同じ―――俺も、蕾夏を、守りたい」

 守りたい―――…。

 「…そっか…瑞樹も、私と同じなんだ」
 そう言われたら、不可解な申し出が、すんなりと飲み込めた気がした。蕾夏は小さく笑うと、額を合わせたまま、そっと目を閉じた。
 「―――今年の夏は、きっと、暑い夏になるね。…瑞樹も、私も」


 八代 倖は、この世にいない。佐野もクラス会には現れないだろう。もう、2人を傷つける人間はいない。神戸に行っても中学に行っても、危険はない―――それは、瑞樹も蕾夏も分かっている。
 でも…守りたい。
 何から? …それは、分からないけれど。

 守らなくては―――壊れてしまわないように。その想いは、瑞樹も、蕾夏も、同じだった。


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