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― 本音と建前 ―

 

 「…まあ、第1稿としては、こんな感じですね」
 机の上にズラリと並べられた原稿の数々を最後に一瞥し、顔を上げた編集長はニコリと笑った。
 「少々硬い内容だし長さも半端じゃないから心配してましたが、他のライターとも違和感ないよう仕上がったので一安心です」
 「ありがとうございます」
 ホッとした蕾夏は、表情を和らげてペコリと頭を下げた。
 カラー特集ページではないが、モノクロの6ページもの―――いわば第2特集のようなページを、蕾夏を含め3名で書いたのだ。テーマが“貯蓄”なだけに、途中何度か頭がおかしくなりそうになったが、なんとか仕上がった。今なら、一番金利の高い預金先をそらで暗唱できそうだ。
 「ご苦労様。また校正入ったら頼みますよ」
 そう言った編集長は、よしよし、と蕾夏の頭を軽く撫でた。
 「―――…」

 …なんかちょっと、この(ねぎら)い方は、変だと思うんだけど。
 契約から1ヵ月半経つが、いまだに佐伯編集長という人は、よく分からない人だ。

***

 『(猫柳)raiが娘か何かと似てるんちゃうの』
 『(江戸川)raiは一見学生風だからね』
 『(mimi)でも、学生ったって、中高生の頭なんて撫でないですよぉ、普通。いくつなんですかー? その編集長』
 『(rai)確か、45』
 『(HAL)歳なんて関係あるか。セクハラだ』

 なんだか、憮然とした表情まで見えてきそうな1行に、一瞬、順調だった発言がピタリと止まった。

 『(猫柳)うはははは、心狭いなー。頭撫でた位でセクハラ扱いされたら、ボクかてかなわんわ>HAL』
 『(HAL)やってんのかよ>猫柳』
 『(猫柳)お茶淹れてくれた後輩とかには、やってんで。男女分け隔てなく>HAL』
 『(HAL)誤解する奴はするぞ。少なくともraiにはやるな>猫柳』
 『(猫柳)…rai、苦労やなぁ。こないな嫉妬深い男やめて、ボクに乗り換えたらええのに』
 『(江戸川)しつこいなあ、猫やんも。まだ諦めてないのか。振られたんだから見苦しいぞ』
 『(mimi)猫やん、mimiで手を打っておいたらいいよー。mimi、あとむさんに振られたばっかりだから、猫やんでも妥協するー』
 『(猫柳)アホ! ボクにかて、選ぶ権利はあるわっ!』
 『(江戸川)ところで、ご本人がすっかり無口だね。どうしたの?>rai』

 「…もーっ。江戸川さんも不審がってるよ。返してよっ」
 「うるさい。お前は何も発言するな」
 恐らくは他の仲間が想像した顔そのままの憮然とした顔が振り返り、斜め前から睨む。超不機嫌なその目つきに、蕾夏もちょっと怯んだ。
 「―――軽々しく頭なんか撫でさせるな、と言った。忘れたか」
 「…覚えてる」
 「次からは、撫でられそうになったら、よけろ」
 そんなことを実際にしたら、もの凄く挙動不審だ。
 「…善処します」
 それでも一応そう答えると、瑞樹は念を押すようにもう一度蕾夏を睨み、蕾夏の手元から取り上げていたノートパソコンをローテーブルの上にドン! と置いた。


 ここは、瑞樹の家である。
 壁際のデスクトップPCで瑞樹が、ローテーブル上のノートPCで蕾夏が、それぞれチャットに参加している。ほんの1メートルも離れていない場所に座る同士なのに、チャットしているのだ。あまりにも変な状態なので、さすがに他の連中にはその事実は告げていないが。
 2人揃ってコンピューター業界から足を洗ってしまった瑞樹と蕾夏だが、帰国後も以前同様、時々いつものチャットルームに顔を出している。その常連である"猫柳"から、昨日、こんなメールが来たのが、この奇妙な状態の原因だ。
 『8月の盆休み明け、東京に行くんで、久々に東京オフやらへん? 明日の夜、チャットで打ち合わせするから、必ず顔出してや』
 間の悪いことに、今夜は退社後、瑞樹の部屋で新作ビデオ観賞会を予定していた。しかもそのビデオは“A-Life”専属カメラマンの小松の私物なので、明日には返さなくてはいけない。で…同じ部屋から同じチャットに参加するという、おかしな状態になってしまったのだ。
 それにしても、今年の夏は、本気で忙しない夏になりそうだ。瑞樹の母の新盆に始まり、兄妹の再会、チャット仲間との再会、中学時代の同級生との再会―――結構ヘヴィーな内容も含まれているので、考えただけで頭がクラクラしそうだ。


 「大体、チャットで言う前に俺に言えよ、全く…」
 再びチャットに参加しながら、瑞樹が依然、憮然とした声のまま低く呟いた。
 確かに、今日編集長に頭を撫でられた件は、まだ瑞樹に言っていなかった。というか、報告するような話でもないと思っていた。チャットの話題の中でたまたま出してしまっただけで、蕾夏の中ではそれほど大きな問題ではなかったのだ。
 「手を握られたり、体触られたりするのはシャレにならないけど、髪の毛位、別に目くじら立てるもんでもないと思うんだけど」
 ロンドン時代にも、某編集部の男性陣に頭を撫でられた、と瑞樹に言ったら、瑞樹は滅茶苦茶機嫌を損ねてしまったのだ。過剰反応なんじゃないの、と蕾夏が眉をひそめると、瑞樹は呆れたような顔で振り向いた。
 「あのなぁ。ガキなら分かるけど、26の大人の女の頭なんて、普通撫でるか?」
 「ロンドンの時の人たちは、“日本人は子供っぽく見えるから、つい子供のつもりで撫でた”って言ってたじゃない」
 そう、ロンドンの某編集部を瑞樹と一緒に訪れた際訊ねたら、そう言われたのだ。すると瑞樹は、余計呆れた顔をした。
 「バカ。あれは俺にびびって使った言い訳に決まってんだろ」
 「…ちょっと待って。あの時、もの凄く機嫌悪そうに周囲を威嚇してたのって、瑞樹に熱上げてた女子社員の子たちを威嚇してたんじゃなかったの?」
 「どっちも」
 「…考えすぎだと思うんだけど」
 「手ぇ握られたり抱きつかれたりしてからフリーズしてたんじゃ遅いんだよ」
 「うー…」
 何も言えない。身に覚えがあり過ぎるだけに。
 基本的に蕾夏は、横社会な女性より、縦社会な男性が得意だ。男そのものに異性という感覚はあまりない。むしろ、男の方が自分に近い生き物のような気がしている。だから、下心を感じない男とは結構仲良くなれてしまう。
 ところが、こちらがすっかり同性のような気でいるところに、突如相手が異性に変貌したりすることが、稀にある。途端―――逃げ出す。全力で。その蕾夏の態度のギャップに、相手は困惑する。中には傷つき、怒り出す奴もいる。瑞樹が心配しているのは、そういうことだろう。
 「でも、編集長には、なんかおつかいに行ってきた子に“よくできましたねー”って頭撫でるのと同じレベルのものを感じるんだけど」
 昼間のシーンを思い出しながら蕾夏が呟くと、既に画面に向き直っていた瑞樹は、振り返りもせず言い放った。
 「それでも俺は嫌だ」
 「…善処します」

 チャット上では、結局、「編集長がraiの頭を撫でたのは、raiが幼くしてこの世を去った娘によく似ているからに違いない」という結論に到っていた。
 編集長に娘がいるかどうか知らないが、もしいるならば、推理上とはいえ勝手に故人にされてしまった彼女を、蕾夏は心から気の毒に思った。

***

 翌日、瀬谷を探して編集部内をウロウロしていた蕾夏は、津川が編集長に呼ばれているシーンに出くわした。
 どうやら、編集長に頼まれていた仕事が無事完了したらしく、津川も編集長も表情が明るかった。深々と頭を下げる津川に、編集長は「ご苦労様でした」と声を掛け―――肩をポン、と叩いていた。
 ―――うーん…頭を撫でる癖がある、って線は消えたか…。
 誰に対してでも労いとして頭を撫でる人なのかもしれない、とほんの少し思っていた蕾夏は、ううむ、と眉間に皺を寄せた。考えてみたら、今までそんなシーン、一度も見たことがない。
 「藤井さん、藤井さん」
 ふいに背後から声を掛けられて、蕾夏は慌てて眉間を緩め、くるりと振り返った。そこには、専属カメラマンの小松が、三脚やらスタンドやらを担いで立っていた。
 「あ、お帰りなさい。撮影上手くいった?」
 「もち、バッチリっすよ」
 ニカッ、と笑う小松は、蕾夏より1つ年下だ。写真学校を出て“A-Life”の専属の席をゲットしたという、生粋のカメラ人間。憎めない丸顔とケラケラとよく笑う性格のおかげで、社内でも可愛がられている存在だ。
 蕾夏は小松と直接仕事をしたことはないが、この前、瑞樹がピンチヒッターとして小松の代わりに仕事をして以来、結構親しく接している。2歳年下の可愛い彼女がいる、なんていうプライベートなことまで知っているのは、社内では小松位のものだ。
 「ところで、ビデオ、見ました?」
 「うん。ありがとう。今日持ってきたから、あとで返すね」
 「良かったー。週末に彼女と見る約束してたんすよ」
 「ごめんね、お先しちゃって。…あ、それより小松君、瀬谷さん見なかった?」
 「瀬谷さんすか? えーと―――取材で出てるんじゃなければ、資料室じゃないかなぁ」
 ぐるりと編集部を見渡して、少なくとも部屋の中にはいないと分かったのだろう。小松は考えをめぐらすように天井を仰ぎながら、そう答えた。
 「そっか。ありがとう」
 そう言えば瀬谷は、初対面の時も資料室にこもっていた。仕事のことに精一杯で、瀬谷の動向にまで意識が及んでいなかったが、小松がすんなり答えるところを見ると、案外資料室は瀬谷がよく出没する場所なのかもしれない。
 編集部を出た蕾夏は、エレベーターを待つのが面倒だったので、階段で資料室のある4階へと上がった。結構遅い時間までチャットルームに入り浸ってしまったせいか、少々息が上がる。やっぱり平日の不摂生は堪えるなぁ、と小さくため息をついた。


 資料室のドアをノックすると、もの凄く不機嫌な声が内側から返ってきた。
 「誰もいないよ」
 「…藤井ですけど」
 今度は、沈黙が返って来る。待っても無駄な気がしたので、蕾夏は無断でドアを開けた。
 案の定、瀬谷は、書棚に寄りかかって資料を漁っている最中だったが―――そのことよりも、ドアを開けた途端に広がった強烈な香水の匂いに、蕾夏は思わずむせてしまった。
 「…っ、せ、瀬谷さんっ、何ですかこれっ!」
 「え? ああ、香水か」
 「瀬谷さんがつけてるんですか?」
 涙目でケホケホとむせながら蕾夏が言うと、瀬谷は資料から一瞬だけ目を上げ、むっとしたような顔をした。
 「僕が香水なんかつけるタイプに見えるか? 第一、これは女性用の香水だ。その位分かるだろ」
 「強烈すぎて分かりませんよ…。どうしたんですか、これ」
 「さっきまで白石さんがいたんだ。彼女がつけてたシャネルだろう」
 白石さん、白石さん―――と頭の中の引き出しをかき混ぜた蕾夏は、ああ、あの人か、と眉を寄せた。
 白石は、“A-Life”とも契約している音楽ライターだ。新譜レビューなどを担当していて、時折ここの編集部にも顔を出す。結構な人数いるライターの中でも彼女の名前を覚えていたのは、彼女の外見のせい。なんと言うか―――もの凄いフェロモン系なのだ。体型といい、顔立ちといい、服装といい。仕事振りは男っぽくて豪快なのだと津川から聞いたが、見た目からはその仕事振りが想像できないタイプだった。
 「よく平気ですね、瀬谷さん」
 「平気じゃないさ。はっきり言って、シャネルの中でもこの5番は一番嫌いだ。ついでに言うなら、香水のつけ方もその適度な分量もわきまえていないような女も嫌いだね」
 「…さり気なく白石さんを侮辱してませんか」
 「彼女の人となりは侮辱してないよ。もう少し服装とメイクと香水に対する認識を改めた方がいいとは思うけどね」
 パタン、と“A-Life”のかなり古いバックナンバーを閉じると、瀬谷はやっと真っ直ぐ蕾夏の方を見た。
 「で? 何か用だったんじゃないのか?」
 「あ、はい。一昨日頼まれた原稿が一応できたので、一度見てもらおうかと…」
 2000年上半期のベストセラーについて、ライター3名がそれぞれ評価する、というミニ特集があり、そのうちの2冊を蕾夏も担当することになったのだ。瀬谷と同じ本についてのレビューなので、途中経過を見てもらいたいと思った。…というか、本音を言うなら、どうも記事の出来にいまいち自信がなかったのだ。
 どれ、とその原稿を蕾夏の手から受け取った瀬谷は、軽く眼鏡を押し上げると、少し眉をひそめるようにして原稿を読み始めた。
 1つは蕾夏の大の苦手の恋愛小説、1つはビジネスマン向けのビジネス本のレビューだ。ちょっとドキドキしながら待っていた蕾夏は、ふとある疑問を今更ながらに抱いた。
 ―――ええと…結局白石さんは、ここに何しに来てた訳? 編集部に来るなら、まだ理解できるけど。
 「藤井」
 読み終わったらしい瀬谷の声に我に返った蕾夏は、慌てて背筋を伸ばした。
 瀬谷は、まだ視線を原稿に落としたまま、皮肉っぽい苦笑を浮かべていた。蕾夏の気配が緊張するのを感じたのか、少し目を上げ、原稿を指で弾いた。
 「君、建前が苦手だろう」
 「はっ?」
 「どっちのレビューも、まるで誤魔化し笑いを延々続けてるような文章だ」
 「……」
 「“主人公とヒロインの恋愛模様は初々しくて微笑ましい”、“難解ではない言葉で語られており、全編サラリと読みこなせるので、本が苦手な人にもお薦め”、“筆者の体験談だというミニコミ誌発刊の話は、ビジネス本という枠を越えて単なる読み物としても面白い”―――見事に、筆者側が主張したい部分をスルーしまくったレビューだね。褒めてはいるけど」
 ぐっ、と言葉に詰まってしまう。…事実だ。わざとスルーしたのだから。

 恋愛小説の方は、最初こそ高校生カップルの恋愛模様が初々しくて切なくて、結構良作だと感じた。が、彼らが大学生になった辺りからは、ドロドロとした愛憎劇になり、物語の最後、40歳になったカップルはあり得ない形で大団円を迎えた。読み終えた時、蕾夏は思わず本をベッドに叩きつけてしまった。
 ビジネス本の方は、いかにして自分の会社を年商10億の企業にするか、という本。若干32歳の社長の学生時代からの苦難の日々を綴った本で、大学の構内でペルシャ織りカーペットを売ったとか、マグロの遠洋漁業に同行したとか、色々面白い話が載っている。でも、だからどうした、と言われたらそれまで。彼を真似して年商10億に本当になれるとは思えない。何故なら、彼が今儲けている分野はIT関連で、ペルシャ織りともマグロとも無関係だから。
 とりあえず褒めてみろ、と、瀬谷に言い渡された。この本酷いです、とは書けないのは当然のことだと、蕾夏も理解している。だから精一杯褒めてみた。
 結果―――恐らくは、筆者が主眼を置いてないと思われる箇所ばかり褒めてしまったのだ。その自覚は、確かに蕾夏にもあった。

 「なるほどね。これが君の言う“人間性は文章に表れる”…か。君は本音と建前の使い分けができずに、ひたすら誤魔化し笑いをしているタイプなんだな」
 「…そういう訳じゃ、ありません」
 やっぱり嫌味な奴だ。皮肉笑いを浮かべて原稿をつき返す瀬谷を、蕾夏は軽く睨んだ。
 「瀬谷さんは、どう書いたんですか?」
 「僕? ちょうどいい、そこにあるファイルに挟まっている筈だから、読んでみれば?」
 再び書棚を漁り始めた瀬谷は、目だけで、入り口横のローカウンターに放り出されている青いファイルを示した。手に取って開いてみると、確かにそれらしき原稿が挟まっていた。
 恋愛小説の方について、瀬谷は冒頭で、“壮大なスケールで描いた愛憎劇。25年にも及ぶ男女の愛と憎しみを通して、愛とは何かを語りかけてくれる大作”と書いていた。
 ―――に…似合わない…。
 瀬谷が「愛とは何か」なんて書いている。もの凄いミスマッチだ。「愛って何でしょう?」と訊ねたら「そんな感情的なもの、僕とは無関係だね」と冷たく言い放ちそうなのに。
 ビジネス本の方については、“いまや年商10億の企業のトップとなった筆者の熱意とパワーを感じさせてくれる自伝。この熱意を持ってすれば不可能なことはないと感じさせてくれる”と書いていた。
 …熱意。これも瀬谷とは無縁そうだ。「必要なのは熱意です!」と力説したら「そんなものはこの仕事には不要だ、必要なのはリサーチ力と計算だよ」と斬って捨てられること間違いなしだ。
 「…瀬谷さん、これ、本音ですか?」
 思わず呟くように訊ねると、瀬谷は、バックナンバーの背表紙を指で辿りつつ、肩を竦めた。
 「いや。建前だ。本音は1つも入ってない」
 「愛を語りかけられたり、10億円稼げるだけの熱意を感じたりも、全部建前ですか? 少しは感じたとか…」
 「さっぱり。それを表現したがってるのはよーーーーーく分かったけど、いかんせん下手だからね、どっちも。全然伝わってこない。はっきり言って駄作だ。よくこんなもんがベストセラー入りするよ」
 ボロボロな言い草だ。しかし―――ここまでは思わないものの、ある程度事実だ。蕾夏も、筆者の言いたいことはなんとなく分かったが、それが空回りしているように感じたのだ。どちらの本も。
 「それが本音なのに、こんな風に褒めちゃうんですか…はぁ…」
 「それが僕らの仕事だ。言った筈だろう?」
 「…私は、何か、嫌です。本音そっちのけで、建前ばかり並べ立てるなんて、その―――読者を、騙してるみたいで」
 「やっと分かったのか」
 ふっと笑った瀬谷は、やっとお目当てのバックナンバーが見つかったのか、1冊書棚から引っ張り出して、蕾夏の方へと向き直った。
 「僕はね。本のレビューを書く時、まず最初にあとがきと帯を見ることにしているんだ。下手な筆者ほど、あとがきがくどい。くどくどと、本文で語れなかったことを書き連ねて、言い訳を並べ立てている。帯のキャッチは、筆者の無力さをコピーで補ってるからね。この2つを見て筆者の主張が丸分かりするようなら、極端な話、本文を読まなくてもレビューは書ける」
 「……」
 「恋愛小説に、読者はロマンスとときめきを求める。ビジネス本には、成功のヒントを求める。そうしたニーズを考えれば、あとは書くことは決まってしまう―――そうした要素を、読みやすい平易な文章に起こす。それがライターだ。全く…駄作のヒットは、こういうライターの努力に支えられてるようなもんだよ。だから―――…」
 皮肉っぽく言い放った瀬谷だったが、そこまで言うと、突如、言い過ぎたことを後悔するように口を噤んだ。
 一瞬、視線が泳ぐ。が、蕾夏が何も言い返さないのに安堵したのか苛立ったのか、瀬谷は蕾夏の手からファイルを抜き取り、手にしたバックナンバーに重ねた。
 「…とりあえず、もう一度書き直して来い。藤井の本音はどうでもいい、求められる文章を書け」
 言い返す言葉もなく立ち尽くす蕾夏の横を、瀬谷はすり抜け、出て行ってしまった。

 ―――なんで、かな。
 この2ヶ月弱、瀬谷の感情的な部分など、一度も見たことがなかったけれど。
 何故か蕾夏は、今の瀬谷の言葉の中に、彼の感情らしきものを、初めて見た気がしていた。

***

 『―――金沢を舞台とした純愛ドラマを、美しい風景描写を織り交ぜて綴った作品。ヒロインの健気さが胸をつき…』

 「…うーん…」
 たまたま帰りに買った情報誌の、ドラマレビュー記事を眺めつつ、蕾夏は難しい顔をしてしまった。
 ―――人間不信に陥りそう。
 ドサリ、とベッドに仰向けに倒れこみ、雑誌を放り出す。そう―――どの記事も、褒めまくっている。当然だ。この本は、この映画は凄くいいですよ、と読者に触れ込むのが、レビュー記事の役割なのだから。
 勿論、辛口のものも、中にはある。が、それはいわゆる「○○評論家」といった人々が書く特殊な記事だ。単純な情報記事ならば、褒めて読者の関心をひかねばならない。そのことは、前回の自己啓発本のレビューで嫌という程頭に叩き込んだ。
 だったら。
 それがライターの仕事なら―――瀬谷の言葉が正しいのだろうか? ライターは単に、ニーズに合わせた文章を機械的に吐き出せばいいだけの、“文章作成マシーン”に過ぎないのだろうか?

 ため息をついた蕾夏は、頭だけもたげて、ベッドサイドの目覚まし時計を確認した。午後9時半―――まだ、瑞樹からは電話がかかってこない。
 えいっ、と勢いをつけて起き上がり、髪を掻き上げる。この状態では、書き直しなんて無理だ。まだ少し早い時間だが、蕾夏は思い切って携帯電話を手にした。
 コール3回で、電話は繋がった。なんだかザワザワした音をバックに、瑞樹の声が聞こえてきた。
 『はい』
 「瑞樹? 私。まだ外なんだ?」
 『ああ。事務所で溝口さんに会ったんで、そのまま居酒屋で飯食ってる最中』
 直後、瑞樹の背後から「なんだー? 彼女から電話か、コノヤロー」という聞き覚えのない声が聞こえてきた。多分、これが溝口というスポーツカメラマンの声だろう。思わずくすっと笑ってしまった。
 『どうした、何かあったか』
 「…ん…ちょっと、自信喪失中」
 『瀬谷って奴にいびられたか。放っとけよ』
 「いびられた訳じゃないんだけどね。なんか―――言い返せなくて」
 つい、声が落ち込んでしまう。ベッドの上で膝を抱えた蕾夏は、その膝を更に引き寄せ、膝頭に頬を押し付けた。
 「瀬谷さんが言うこと、ある程度本当のことなんだ。本音と建前があるなら、建前優先で記事書かなきゃいけない部分があるのは、仕方ないと思う。世の中のもの全部が私の好みとマッチしてる訳じゃないし、ヒットしている、イコールいいもの、という訳じゃないのも分かるから。でも―――でも、それだけだったら、ライターって仕事に誇りを持てない。ただニーズを満たすだけのために文字綴ってるだけじゃ、なんだか、自分がワープロか何かになったみたいで…」
 『―――ハハ…、なんか、分かる』
 先ほどの席から移動したのだろうか。瑞樹の背後の喧騒は、少し遠ざかっていた。自嘲とも苦笑ともつかない笑い方をした瑞樹は、思いがけない言葉を続けた。
 『俺が奏を最初に撮った時が、そんな感じだった』
 「…えっ」
 瑞樹が、奏を最初に撮った時―――“VITT”のポスター撮りだ。まるでマネキンのように無機質な“物体”を撮らされて、瑞樹はやりきれない思いをしていた。一体、こんなものを撮って何になる―――この被写体から、一体何を伝えればいいのか分からなくて、瑞樹は憤っていた。その時の憤りは、蕾夏も自分のことのように覚えている。
 『俺も、納得いかねー被写体とかあるけど…写真製造マシーンになってるつもりは、ないぜ』
 「…うん…」
 『本音と建前の妥協点て、どっかに隠れてると思う…多分。狭苦しくてイライラするけど―――その妥協点の中でお前らしい言葉を書けば、それでいいんじゃねぇの』
 「―――うん…そうだね」
 本音と建前の、妥協点。
 それを探りながら、自分の言葉で“何か”を読者に伝えようとする―――そんな作業は、マシーンじゃ無理だ。
 本音と建前がかけ離れているからと言って、ライターである以上、完全に建前を避けて通るのは無理だ。筆者が伝えたいことを、筆者に代わって読者にアピールしなくてはいけないのだから。…やはり今日提出したあのレビューは、失格な文章だ。
 「ちょっと、腑に落ちた」
 少し明るい口調で蕾夏が言うと、
 『良かったな』
 瑞樹も、少し嬉しそうな声でそう答えた。
 背後で「バカヤロー、何目の前でイチャついた電話してやがるんだーっ」という溝口の声が聞こえて、思わず蕾夏は赤面してしまった。

***

 『25年という歳月を経て、初々しく微笑ましい恋人は、時に憎みあい、時に傷つけあいながら、想像もつかない大団円を迎える。“愛”とは一体何なのだろうか、と考えさせられる作品―――といっても、難しい物語ではない。大スケールの恋愛ロマンスとして、単純に楽しむこともできる。お茶うけにもブランチにもなりそうな1冊』

 『とにかく、体験談が面白い。ビジネス本として以上に、読み物として大いに楽しめる。時代の風雲児と呼ばれるには、この位のアグレッシブさが必要なのだな、と感心しつつも、笑ってしまう。読んだ結果、年商10億の成功者になれるかどうかは、あなた次第かもしれない』

 「―――…」
 「…どうでしょう?」
 恐る恐る訊ねる蕾夏に、瀬谷は、憮然とした表情のまま、原稿をつき返した。
 「微妙に逃げ道を作ってるところが、なかなか姑息だね」
 「…ダメですか」
 「…まあ、いいんじゃない」
 こりゃまた没かな、と半ば諦めかけていた蕾夏は、思いがけない瀬谷のセリフにビックリしたように目を見開いた。
 「い、いいんですか!?」
 「編集長に持って行って、チェックもらってくればいい。自信がないのなら、書き直せ。今の藤井にはそれが精一杯だと、僕は思うけど」
 ―――絶対褒め言葉で終わらないなぁ、この人は。
 むっ、としつつも、自分でも今の自分にはこれ以上は無理だと思うので、蕾夏は原稿を受け取り、頭を下げた。
 「ありがとうございました」
 「ああ」
 そっけない返事の瀬谷にもう一度頭を下げ、蕾夏は軽い足取りで編集長のデスクへと向かった。
 するとそこに、昨日、資料室で嗅いだのと同じ香りが、ふわりと入り口の方から香ってきた。見れば、音楽ライター白石が編集部にちょうど入ってきたところだった。
 やっぱりあの香水は白石だったのか、と思いながら、なんとなく目で追っていると、白石は、入り口付近の社員と軽い挨拶を交わしながらこちらへとやってきた。どうやら、瀬谷に用事があるらしい。
 「あら、藤井さん、こんにちは」
 「お疲れ様です」
 ニッコリと笑う白石に、蕾夏も笑顔で軽く会釈した。蕾夏とすれ違った白石は、そのまま瀬谷の席に真っ直ぐに向かった。
 「こんにちは、智哉君」
 ―――智哉君!?
 予想だにしない呼び方を耳にして、思わず振り返ってしまう。あの瀬谷を智哉君呼ばわりするとは―――なんなんだ、と目を見張る蕾夏の目の前で、白石は、フェロモン120%な笑みを瀬谷に向けていた。
 瀬谷の方は、声をかけられるまで白石に気づいていなかったらしく、顔を上げて、少し驚いた顔をしていた。
 「ああ、なんだ。来てたのか」
 「来てたのか、って―――酷いわねぇ。智哉君が褒めてくれた香水つけてる女に、声かけられるまで気づかないなんて」
 「昨日から風邪気味でね。うん、やっぱりシャネルは5番が一番いいね」
 「ふふふ、そうでしょ」
 その時、蕾夏の視線に気づいたのか、瀬谷の目が蕾夏の方をチラリと見た。
 「……」
 ―――なるほど。瀬谷さんの個性は、“建前”のようですね。
 軽蔑したような、呆れたような蕾夏の目に、瀬谷の作り笑いが引きつる。その反応に軽く片眉を上げた蕾夏は、くるりと背を向け、歩き去った。昨日資料室で聞いた言葉を白石にバラしてやろうかと思ったが、原稿にOKをくれたばかりなので、やめておいた。
 よく分からないが、どうやら瀬谷と白石は、個人的に関係がありそうだ。案外、恋人同士なのかもしれない。似合うような、似合わないような、妙なカップリングだが。

 佐伯編集長は、自分のデスクで、誌面レイアウトの確認をしているようだった。
 「編集長」
 躊躇いがちに声を掛けると、顔を上げる。反応があった、ということは、どうやら急ぎの用事ではなさそうだ。切羽詰っている時の編集長は、声を掛けても返事すらしなくなるのだと、津川から聞いているから。
 「はい、どうしました?」
 「あの、ブックレビュー特集の記事、最終チェックを瀬谷さんから言い渡されました。お願いできますか?」
 「いいですよ」
 仮採用中なので、節目節目の仕事は編集長自らチェックして、本採用するかどうかの判断材料にするらしいのだ。原稿を受け取り、真剣な面持ちでそれを読み始める編集長を、蕾夏は少し緊張しながら見つめた。
 「ハハハ…、この“お茶うけ”とか“ブランチ”って表現、藤井さんらしいですね。メインディッシュが入ってない辺り、もしかして皮肉ですか」
 「あ、あはは、えーと、ほんのちょっと」
 「うん、なかなかいいですよ。あとは残りのライターとの兼ね合いで調整すればいいでしょう。OKです」
 「ありがとうございますっ」
 笑顔で差し出された原稿を受け取り、蕾夏はパッ、と頭を下げた。
 すると、その頭を、編集長がまたよしよしといった感じで撫でた。
 「―――…」
 …なんで???
 「…あのー、編集長」
 おずおずと頭を上げた蕾夏は、全然悪びれない表情の編集長を見上げ、躊躇いがちに訊ねた。
 「もしかして私、編集長の娘さんか誰かに、似てますか?」
 「は??」
 もうちょっと他の訊き方もあるかと思ったのだが―――面と向かって訊ねるのは躊躇われたので、そんな変な質問になってしまった。
 すると編集長は、不思議そうに目を丸くして、思いがけない返答をした。
 「面白いことを言いますね。独身の僕に、どうして娘がいると思ったんですか?」
 「……」
 「藤井さんと似た知り合いに、とりあえず心当たりはないですよ」
 「…そうですか…」

 ―――瑞樹にこの事実を教えたら、何て言うかなぁ…。
 『はぁ!? また頭を撫でられた!? しかも独身だと!? バカ、だからお前は隙がありすぎるっつーんだよっ。もっと警戒しろ! 編集長の半径5メートル以内には近づくなっ!』

 善処します、と心の中で瑞樹に言いつつ、蕾夏は、絶対編集長の手が届かないよう1歩後ろに下がって、深々と頭を下げた。


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