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― あまやどり ―

 

 池袋が近づいた途端、電車の窓に雨粒が頼りない模様を描き始めたのを見て、瑞樹は小さく舌打ちした。
 予報にもなかった、雨、だった。
 今日はとことん、ついてない―――到底、上手くいったとは言えない今日の打ち合わせを思い出して、また眉間に皺が寄ってしまう。予算の問題なのか、急に入った企画なのか、あんな忙しないスケジュールでまともな写真など撮れるとは思えない―――勿論、瑞樹のその反論は、クライアントとデザイナーのダブルコンボで簡単に一蹴されてしまったのだが。
 『さすが時田さんの弟子だけあって、新人なのに大胆なことするねぇ。クライアントが決めたスケジュールに文句言うなんて』
 初顔合わせだったデザイナーの嫌味な口調が耳に蘇り、余計陰鬱な気分になる。でも、失敗したな、という気分はあるものの、意見したことについての後悔はなかった。
 大したことでは、ない。
 ただ、すぐに時田の名前を出されることに、苛立つだけで。
 ―――きっと、蕾夏の方が、もっときつい思いをしている。
 昨日の夜、珍しい時間に唐突にかかってきた電話を思い出す。自信喪失中だと言う彼女の声は、普段ならあり得ないほどに弱々しかった。気弱になるのも無理はない―――ある程度この業界に精通していた自分とは違い、彼女はまるっきり白紙状態で、新しい世界に飛び込んでいったのだから。
 蕾夏は、もっと戦っている―――時田の名前にいちいちプレッシャーや苛立ちを感じているなんて、俺もまだまだ甘いな、と瑞樹は反省した。

 改札を抜け、外を見ると、ついさっき降り出したばかりの雨は、ちょっとやそっとでは止みそうにない降り方になりつつあった。走れば、事務所まで数分で着く。少し迷ったが、瑞樹は結局、折り畳み傘を出すことにした。
 バサバサと傘の準備をしていた瑞樹だったが、ふいに、斜め前にあるどこかで見たような後姿に気づき、その手を止めた。
 それは、桜庭だった。
 撮影の帰りなのか、かなり大振りなカメラバッグと丸めたバックペーパーを持っている。女性としては結構上背のある桜庭だが、それでも結構大変そうだ。機材が重いから、予備の雨傘など家に置いてきてしまったのだろう。雨や雑踏を避けるように、ひたすら壁にへばりついて雨が過ぎるのを待っている。
 選択その1。声を掛けて、事務所まで傘に入れてやる。
 …即座にパスした。考えただけで気色悪い。
 選択その2。見つけてしまったことは忘れて、このまま通り過ぎる。
 …一番無難だと思ったが、却下。
 「おい」
 瑞樹が声を掛けると、桜庭は、驚いたように振り向いた。そして、声を掛けてきたのが瑞樹だと分かると、露骨なまでに嫌そうな顔をした。
 無言で折り畳み傘を押し付けると、その顔が一瞬、え? という顔になった。が、それは本当に一瞬で、すぐに今まで以上に嫌そうな顔になってしまう。
 「あんたと相合傘する位なら、ずぶ濡れで行った方がマシ」
 「俺だってごめんだ。1人で使え」
 「何カッコつけてんの。今更フェミニストぶっても似合わないわよ」
 「勘違いするな。俺が心配してんのは、それだ」
 瑞樹は視線で、その問題のものを指し示した。
 それは、ビニールで覆われてすらない、バックペーパーだった。多分、特殊な配色なので私物を持参したのだろう。経験上、この雨が上がるまで1時間はかかる。業を煮やして、雨の中飛び出しでもされたら、事務所に着く頃には使い物にならなくなってしまう。
 「傘いらねーんだったら、その紙貸せよ。俺が持ってくから」
 「…最っ低」
 重たい機材は預からずに紙だけ預かって、しかも桜庭には濡れて歩けと言うのだから、最低という評価は順当かもしれない。冷たく瑞樹を睨んだ桜庭は、不貞腐れたように、差し出された傘をひったくった。
 ―――ったく、面倒な奴。
 あのカメラバッグだって、到底防水加工しているとは思えない。プロならもうちょい気を遣えよ、と心の中で愚痴りながら、瑞樹は桜庭に背を向け、雨の中を駆け出した。

***

 1階の警備員室を覗き込むと、時田事務所の鍵が置いてあった。
 事務の川上も既に帰宅し、しかも誰も事務所に寄っていないらしい。桜庭が来たら、相当居心地の悪い空間になるな、と少し憂鬱になりつつも、瑞樹は規程通り鍵持ち出しのノートに名前を記入し、警備員から鍵を受け取った。
 「…さむ…っ」
 7月も半ばを過ぎ、館内冷房がしっかり効いている。雨に濡れた髪や腕が冷やされて、すぐにでも風邪をひきそうだ。ぶるっと身震いした瑞樹は、事務所に着いてすぐ、タオルか何かなかったかな、と私物が置かれたロッカーの中を漁った。
 それにしても、なんでも置いてある所だ。三脚やらフラッシュメーターやらアンブレラやら…さして広くない事務所だが、過去の事務所メンバーが置いていったものを全部集めれば、ちょっとしたスタジオとして使えそうだ。商品撮りなら、ここで簡単に撮ってしまうこともできるかもしれない。
 それだけのものがあるのに、タオルは結局、溝口のものと思われるプロ野球チームのロゴが入ったスポーツタオル1本のみだった。大切にしているものとも思えないので、ありがたく使わせてもらうことにした。
 タオルで頭を乾かしながら、香盤表を作るための資料を引っ張り出しているところに、ガタン、と音を立てて事務所のドアが開いた。タオルを被ったまま振り向くと、やっと追いついたらしい桜庭が、濡れた傘を手に事務所に入ってくるところだった。
 ドアを閉じた桜庭は、憮然とした表情で傘を瑞樹の方へ差し出した。
 「―――返す。事務所に傘、置きっぱなしにしてるから」
 「…今、返されても、困るんだけど」
 お礼一つ言わない桜庭に瑞樹がそっけなくそう言うと、桜庭は、嫌味な奴とでも言いたげな顔で、傘を傘立てに放り込んだ。


 それから暫くは、瑞樹は自分の作業に没頭していた。
 今日、無茶な注文をつけられた仕事の香盤表を、明日の昼には提出しなくてはいけないのだ。デザイナーから渡されたデザインカンプをコピーしたり、使用するスタジオに確認の連絡を入れたりとバタバタしていたので、桜庭が何をしているのかは全然分からなかった。
 ―――ちっきしょー、どう考えたって、商品返却まで時間がなさすぎだろ。何考えてんだ、あのクライアント。
 タイムスケジュール表に撮影スケジュールを書き込みながら、頭を抱えたい気分になってくる。家具を使った大掛かりなセットのくせに、その家具の搬入から返却までの時間が短すぎるのだ。いっそ、日程を丸ごと1日前にずらした方が、準備期間が短くて大変ではあるが、撮影自体はスムーズにいくのではないだろうか。
 ダメ元で、ちょっと電話してみるか―――そう思って席を立った瑞樹は、別のデスクで何やら作業をしている桜庭の足元に、写真が1枚落ちているのに気づいた。
 その時になって初めて、桜庭が電話をしていることに気づいた。どうやら、仕事相手と連絡を取りながら、写真の選定作業をやっているようだ。瑞樹が立ち上がったことにも気づいていない様子なので、きっと写真が落ちていることも知らないだろう。仕方なく瑞樹は、落ちていた写真を拾った。

 それは、ハイビスカスの花の写真だった。
 情熱の花と言われるハイビスカスなのに、その写真は、なんというか―――酷く、冷たく感じた。黒をバックに、花びらのベルベットのような質感をよく出している写真だが、強烈な赤と黒い背景のコントラストは、情熱というよりは、都会的とかシックといった言葉が似合う感じだ。
 桜庭は花専門のカメラマンだと聞いた。ガーデニングなどの本の写真でも撮っているのかと思ったが、こういうイメージ写真も撮るらしい。好みは色々あるとは思うが、とりあえず技術的には上手い―――ライティングなども、なかなかツボを押さえてるよな、と瑞樹は思った。

 「―――あっ! ちょ、ちょっと!」
 桜庭らしくない、素っ頓狂な高い声に、瑞樹は我に返った。
 いつの間にやら電話が終わっていたらしい桜庭が、自分の写真を眺めている瑞樹を見つけて、憤慨したように眉を吊り上げている。何を怒っているのか分からず怪訝な顔を返したら、桜庭は瑞樹の手から写真をひったくるように奪ってしまった。
 「な、何、人の写真を勝手に見てるのよっ!」
 さすがにむっとした。第一、桜庭はプロのカメラマンだ。カメラマンが写真を見られて怒るようになったら、おしまいだと思う。
 「見られて困るような写真を、床に落とすんじゃねーよ」
 「……」
 やはり、落としていたことに気づいていなかったらしい。気まずそうに視線を逸らした桜庭は、奪い取った写真を机の上に放り出し、煙草とライターに手を伸ばした。
 「…別に、見られて困る写真じゃ、ないわよ。あんたに見られるのがちょっと嫌だっただけで」
 煙草をくわえ、火をつけながら、桜庭は言い訳をするかのように付け加えた。
 「何で」
 「あんたって、女を見下してるもの。どうせ、女が重い機材担いでロケ地巡りしてるなんて、何無理なことやってんだ、って呆れてんでしょ」
 「いつ俺が女を見下したよ。無茶苦茶言うな」
 「じゃあ今の写真、どう思ったのよ」
 挑戦的な目で睨み上げる桜庭に、瑞樹はムカつきながらもあっさり答えた。
 「別に。そこそこ上手いんじゃねぇの」
 「……」
 「ライティングが結構いいと思う。俺も光と影使うの得意だから、こういう写真は嫌いじゃない」
 思うままに答えたら、桜庭は、口の端に煙草をくわえたまま、唖然とした顔で暫し瑞樹を見上げ続けた。さほどおかしな事を言った覚えもない瑞樹なので、そんな桜庭の反応に、つい怪訝な顔になってしまう。
 やがて、煙と共に息を吐き出した桜庭は、皮肉っぽい笑いを口元に浮かべ、キャスター付の椅子の背もたれに深くもたれかかった。
 「…ハハ…、なんか、調子狂う」
 「何が」
 「あんたって、そんなキャラだった? あたしの知ってるあんたって、女を人間扱いしてなかったのに」
 「…いつと比較して言ってんだよ」
 「“STUDIO ACTS”でバイトしてた頃。言い寄ってくるモデルを、相当酷い言い方で追い払ってたらしいじゃない。琴子先輩が突然あそこを辞めたのも、あんたが一枚かんでるんじゃないの」
 “琴子”。
 その名前に、思わず瑞樹は表情を変えた。
 「―――琴子さんの知り合いか?」
 低く問うと、桜庭の皮肉笑いが深くなった。
 「あの人は、あたしが行ってた写真学校の卒業生で、同じ写真サークルの先輩後輩として、多少付き合いがあったの。ああ、心配しないで。あんたの噂の数々は、琴子先輩から聞いた訳じゃない。スタジオで直接、あんたに振られたモデルから愚痴られただけ」
 琴子の後輩―――記憶を掘り起こしても、やっぱり何も出てこない。
 「…俺、やっぱり桜庭のこと、知らねーと思う」
 「でしょうね。でもあたしは成田のこと知ってる」
 桜庭のつり上がり気味の目が、すっと細くなる。
 「“STUDIO ACTS”のアルバイトスタッフ。あたしもなりたくて、空きが出たら連絡下さいって何度も頼みに行ってた。琴子先輩に憧れてたからね。ところが…あたしに一言の連絡もないまま、気づけばあんたがバイトにおさまってた」
 「……」
 「写真学校に通ってて、先輩が正社員として働いているあたしじゃなく、一般大学に通ってて、誰の引きもないあんたが、あたしを無視して採用されたの。大して親しくもない琴子先輩が“ごめんね”って気の毒そうに言った位、あたしは真剣だったのよ。なのにあんたが採用された―――あの時から、あんたはあたしの最大のライバルだったの」
 それは―――さすがに、知らなかった経緯(いきさつ)だ。
 瑞樹は別に、“ACTS”にこだわっていた訳ではない。カメラと関われればどこでもいいと思い、アルバイト採用のあるスタジオ何軒かに連絡をくれるよう頼んでいたのだ。その中で、真っ先に連絡をくれたのが“ACTS”だった―――ただ、それだけだ。
 「諦められずに、それからも何度も頼みに行った。“ACTS”をよく使うカメラマンの雑用係を無償でやったこともあったわよ。―――でも、結局、卒業までの間に、バイト枠は空かなかった。しかも、その席にしつこく居座ったあんたは、結局カメラマンにもならずに普通の企業に就職したって言うじゃないの。そのまま“ACTS”のスタジオマンにならないかってオファーもあったのに、あんた、蹴ったんだってね。あたしなんて、社員5人のミニコミ誌にギリギリで就職できただけで喜んでたってのに」
 責めるような口調で言われ、瑞樹はうんざりしたようにため息をついた。
 「…それで?」
 「あんたみたいな奴、大っ嫌い」
 そう言い放つ桜庭の目は、憎しみさえ宿してそうだった。
 「ただの趣味に過ぎないのに、あたしの居たかった場所にのさばってたあんたが、あの頃から嫌いだった。その上、時田さんの口添えで今更この世界に入ってきたあんたは、あの頃以上に大嫌い」
 “大嫌い”。
 そのストレート過ぎるほどの否定の言葉は、別にショックでも何でもなかった。むしろ、中途半端なことを言われるより気が楽だ。だから瑞樹は、挑みかかるような桜庭の言葉に、
 「…あ、そ」
 と短く反応しただけだった。その反応は桜庭の予想外だったらしく、桜庭は煙草の灰を灰皿に落としながら、眉をひそめた。
 「反論しないの? 変わってるのね。大嫌いって言われて、何とも思わないの」
 「好かれたい相手に言われた訳じゃないからな」
 桜庭の表情が、一瞬、凍りついた。…人に“大嫌い”と言っておいて、随分勝手なものだ。
 「ただ、言わせてもらうなら」
 すぅ、と深呼吸を一度して―――瑞樹は、一気に続けた。
 「俺は、女を見下したつもりは一度もない。妙なアプローチしてくる女が嫌いなだけで、女そのものを差別した覚えはない。それと―――あんた、自分の数々の不運を“女”のせいにしたいらしいけど、俺に言わせりゃ、それはただ“女”であることに逃げてるだけだ。俺が男だからって、自分のふがいなさを俺のせいにするな」
 「…っ、男のあんたに、何が分かるのよ!」
 カッとしたように、桜庭の頬に赤みが走る。多分、桜庭にとって、一番触れられたくない部分だったのだろう。
 「差別されない立場のあんたに、分かる訳ない! 女だってだけで、この世界じゃどれだけ生き難いか…!」
 「知ってる。その不条理と本当の意味で戦ってる奴を、身近に見てるから」
 桜庭の言葉を遮るように言い放たれた言葉に、桜庭は、勢いをそがれたように黙った。
 いや―――もしかしたら、言葉そのものより、冷徹な瑞樹の目つきに、言葉が出てこなくなったのかもしれない。
 「でもな、どうでもいい賞なんかを振りかざして、格好だけ男より上に行こうとするあんたと同じレベルで、あいつのことを語りたくねーんだよ」
 「―――…」
 「くだらねぇ―――そんな逆恨みで“再会は必然だった”って? オーバーな奴」
 口にした途端、急激に馬鹿馬鹿しくなった。疲れたようにため息をつくと、瑞樹はふいとそっぽを向き、自分の席に戻った。

 本当に、くだらない。
 全てがくだらないが、一番くだらないと思うのは、瑞樹が桜庭の写真を褒めたことに、桜庭が意外という顔をしたことだ。
 写真の良し悪しと、撮影者に対する個人的な感情とは、全く別のものだ。気に食わない奴の写真だから「悪い写真」と評価するようでは、アマとかプロとかいう以前の問題だろう。
 ―――あいつの不運は、“女”のせいじゃない。あの凝り固まった頭のせいだな。
 写真1枚を拾ったがために、随分と無駄な時間をかけられたものだ。内心舌打ちをした時、そういえば自分は電話をするために立ち上がったのだった、と思い出して、余計うんざりした。

 「―――それだけじゃ、ないわよ」
 再び席を立とうとした時、背後の席の桜庭が、低い声で呟いた。
 まだ続くのかよ、と眉をひそめながら振り向くと、桜庭はちょうど、煙草を灰皿に押し付けているところだった。俯いているその顔は、表情がよく見えない。
 「何だって?」
 「再会したことに必然を感じたのは、そういう因縁のせいだけじゃ、ない」
 意味が分からず、更に眉をひそめる。すると桜庭は、はぁっ、とため息をひとつつき、おもむろに顔を上げた。表情は、ない―――無表情だ。
 「あんたの、あの写真―――あの子、誰? 恋人か何か?」
 無表情のまま突如問われたことに、一瞬思考がストップする。が、すぐに理解した。あの写真、とは、時田賞を受賞した屋久島での蕾夏の写真のことだ、と。
 「それを教える義理があるか?」
 知らず、不愉快そうな顔になる。詮索されるのは嫌いだ。
 桜庭は、そんな瑞樹の反応にも、表情を変えなかった。感情を押し殺した能面のような顔で暫し瑞樹をじっと見つめ、やがて、つい、と視線を逸らすと、掠れた声で告げた。
 「あの写真は、あんた自身以上に、嫌い」
 「……」
 「今はむしろ、昔の因縁よりも、あれを撮ったあんたが嫌い」
 ―――なんだよ、それ。

 自分自身を“大嫌い”と言われるよりも。
 あの写真を否定されることの方が、瑞樹にとっては、耐え難いことだった。

 理由を問う気も失せた。もう、どうでもいい。瑞樹は、まだ乾ききっていない髪を乱暴に掻き混ぜると、桜庭を完全に無視することにした。
 こんな状態で電話をしても、まともなビジネスの話はできないだろう。少し冷却期間を置くべく、机に向かう。その背後で、桜庭が広げていた写真などを片付けている気配がした。どうやら、さっきの電話が終わったことでこの事務所に来た用も済んだのだろう。
 早く出て行け、と思いながら、香盤表のチェックをしていると、間もなく、桜庭の掠れた声が聞こえた。
 「…傘、ありがとう。助かった」
 ―――やっとかよ。
 「あんたの辞書にも“感謝”の2文字があったんだな」
 振り向きもせず、揶揄するようにそう返したが、桜庭も今度は何も言い返してこなかった。
 「…お先に」
 どこか気落ちしたような声でそう呟くと同時に、ドアが閉まる音が響いた。


***


 「と、も、や、君」
 背後から声を掛けられて、背筋がぞぞぞっと寒くなった。
 慌てて振り向いたら、眼鏡がずれてしまった。瀬谷はそれを涼しい顔をキープしたまま直し、声の主を見上げた。
 「ああ、お疲れ…編集長との打ち合わせは?」
 「終わったわよ。今日って帰宅時間、どうなの?」
 周囲には聞こえない程度にボリュームを絞って、白石が訊いてくる。多分、強烈なシャネルの5番の香りが白石を取り巻いている筈だが、昨日から風邪気味で鼻の利かない瀬谷には分からない。分かるのは、白石の服装が今日も露出過多だということだけだ。
 「もう退社時間は過ぎてるな」
 机の上のデジタル時計を横目で確認して、そう答える。実は今初めてその事実に気づいたのだ。なんだよ、もう6時過ぎじゃないか―――前に時計を見たのが5時前だから、1時間以上もぼんやりしていたということか。らしくない、と自らの異常に少し驚いた。
 「そう。私もこれで上がりだから、久々に一緒にどお?」
 「…さっきも言ったとおり、風邪気味なんだけどね」
 「でも、ぱーっと飲んで遊んで憂さ晴らししたい、って顔に見えるけど?」
 私はお見通しよ、という白石の笑みに、瀬谷は観念したように肩を竦めた。伊達に長い付き合いではない。いつもポーカーフェイスな瀬谷だが、微妙な表情の変化を読まれてしまっていたらしい。


 白石とは、大学卒業後間もなくからの付き合いだから、もう7年以上になる。
 白石にとっての瀬谷も、瀬谷にとっての白石も、複数いる親しい異性の友人の1人、といった位置づけ。気の向いた時に会い、食事をしたり飲んだり…時には、そのまま一夜を共にしたり。後腐れなく“恋人の真似事”が出来る相手と言った方が早いのかもしれない。要するに、お互いに「都合のいい奴」な訳だ。
 酷い時は半年も音信不通だったりするのだが、頻繁に会うこともある。ここ最近、白石がやたらと誘いをかけてくるのは、多分白石が付き合っていた男と別れたばかりで、寂しいからだと思う。だから特定の男に入れ込むのはやめとけ、と言っておいたのに。つくづく懲りない女だ。
 本音を言えば、社内でベタベタするのは止めて欲しい。以前はこれほど接触してこなかった筈なのに―――最近、少々様子がおかしい。まあ、原因は想像がつく。瀬谷に女の後輩が出来たことが、ちょっと面白くないのだろう。お気に入りの友達が他の子と仲良くなるのを阻止しようとしてる子供と同じ原理だ。
 白石の考えは、女独特の不可解さはあるものの、結構読みやすい。だから機嫌を取るのも気を引くのも簡単だ。さして好みでもないこの女と7年も付き合いを続けているのは、そういう容易さのせいかもしれない。


 白石が瀬谷の古い知り合いであることは編集部内では周知の事実なので、連れ立って退社しても見咎めるものは誰もいなかった。
 ところが…最後の最後で、一番問題の人物に鉢合わせてしまった。
 「あらまあ、雨降ってるみたいね」
 隣を歩く白石の声に、自動ドアの向こうに目をやった瀬谷は、その雨を避けるようにドアの外で雨宿りしている蕾夏の姿を見つけてしまった。
 ―――面倒…。
 昼間、香水の件で白石の言葉を適当にあしらったシーンを思い出して、真っ先に頭に浮かんだ単語が、それだ。「シャネルの中でも5番は一番嫌いって言ってたのに、瀬谷さんてサイテー」という顔をしていた。貴様に最低と言われても痛くも痒くもないぞ、と思うものの、あの時はそれなりにバツが悪かった。
 恋人同士だと思ってるのかもしれないな、と頭の片隅で思うが、別にその誤解を訂正する気にはなれない。あのいかにも男関係には疎そうな蕾夏では、白石との関係を細かに説明しても、「じゃあやっぱり恋人なんですね」と返事をしそうだ。
 もし嫌味を言われても完全無視を決め込もう―――そう肝に銘じつつ、瀬谷は白石に目を向けた。
 「傘は? 持って来てる?」
 「ええ。午後から雲行きが微妙だったから、折り畳みなら。相合傘でもいいかしら?」
 「構わないよ。かえって助かったな」
 自動ドアを抜けると、ぼんやり通りを眺めていた蕾夏が、はっとしたように振り返った。そして、出てきた人物が先輩ライター2名だと分かると、慌ててペコリと頭を下げた。
 「あっ、お疲れ様です」
 「あら、藤井さんじゃない。傘、持ってきてないの?」
 白石は、今蕾夏に気づいたらしい。彼女が雨宿りの最中らしいことを察して、少し気の毒そうな声になる。
 「はい。でも、少し待ってたら雨足も弱くなるかもしれないから」
 「そうねぇ…3人じゃあ、折り畳み傘は狭すぎるものねぇ」
 自分がバッグから取り出した折り畳み傘をチラリと見て、残念そうに眉を寄せる。こう見えても白石は、結構世話好きなのだ。
 「あ、あの、瀬谷さん」
 完全に傍観者の構えで2人のやりとりを眺めていた瀬谷は、突如蕾夏に名を呼ばれて我に返った。思わず、身構える―――どうもこの後輩は、わざとなのか天然なのか、瀬谷の触れられたくない部分を見事に突いてくるタイプなのだ。
 そんな瀬谷の緊張感をよそに、蕾夏はにっこりと笑い、軽く頭を下げた。
 「昨日、今日と、ありがとうございました。瀬谷さんのアドバイス受けて、なんとかまともなレビューが書けました」
 「ああ…いや」
 その話か、と、胃の辺りが重くなる。白石のこと以上に、今触れられたくない話題だ。苛立ちを覚えながらも、瀬谷はそっけなく返した。
 「君がポイント外した記事を書くと、困るのは結局僕だからね。でも、多少妥協してきたってことは、君もライターの仕事の理想と現実が見えてきたんじゃないか?」
 「はい、多少は」
 「詩人か小説家に転身するなら、止めないよ」
 「いいえ。やっぱりライターで頑張ります」
 揺るぎない声でそう言うと、蕾夏は真っ直ぐに瀬谷を見上げた。
 「ライターは“文章作成マシーン”じゃないってこと、今回、改めて確信持てましたから」
 「……」
 「制約なく好きなこと書き連ねるのも楽しいけど―――本音と建前の折り合いをつけながら、その狭い世界でどれだけ自分という人間が出せるか挑戦してくのって、結構面白いですね」
 自分の目指す形を、その視界に捉えたかのように、真っ直ぐな目―――まだ甘いことを言ってるな、と思いながらも、瀬谷は何故か、その目から視線を逸らしてしまった。
 「―――やっぱり君、ライターには向いてないよ」
 ポツリと呟き、白石の手から開きかけの折り畳み傘を奪い取った瀬谷は、それを勢いよく開いて、白石を促した。
 「お疲れ様でした」
 「気をつけて帰ってね」
 瀬谷の視界の外で、蕾夏と白石が挨拶を交わしていた。けれど、その様子を確認するだけの気力は、今の瀬谷にはなかった。


 「…ふーん、なるほどね。智哉君のイライラの原因は、彼女な訳だ」
 もう声が届かないほど十分蕾夏から離れた時点で、傘を持つ瀬谷の腕に手を絡めてきた白石が、面白そうにそう言った。
 「そりゃ、面白くないわよねぇ。機械に徹したい智哉君としては」
 「…別に、そんなことはないさ」
 「佐伯編集長が、さっき笑いながら教えてくれたけど―――なんだったかな、“お茶うけ”と“ブランチ”? メインディッシュじゃなく微妙に中途半端な食事に喩えてるあたり、あの子流の皮肉でしょ。お手軽だけど、本腰入れて真剣に読むほどじゃないな、っていう。意外に容赦ないキャラなのかもねぇ、あの子って」
 「……」
 「―――もしかして、嫉妬?」
 意味深な白石の声色に、瀬谷の足が、思わず止まった。
 「狭いフィールドの中でニーズも満たして自己表現もできるあの子を、智哉君が嫉妬するのは自然の流れだと思うわよ。まあ、もっとも…あの子は、物書きとしての絶望なんて味わってないから、機械に徹するしかない智哉君と同じスタンスに立てなくて当然だけどね」
 ポーカーフェイスを保てている自信は、皆無だ。
 嫉妬――― 一番、指摘されたくなかった己の感情を言い当てられて、傘を握る手に力がこもる。
 「…あらら。怒っちゃった?」
 「―――別に」
 勿論、怒っている。
 こんな時、触れられたくない過去を全部知っている目の前の女に、仕返しをしてやりたくなる。再び歩き出した瀬谷は、それまで白石に合わせていた歩調を、自分のいつものペースに戻した。
 「ちょ、ちょっとっ。歩くの速いわよ」
 「白石さんの長い脚なら、この位のスピードでも問題ないだろう?」
 「…あー、分かったわよ。図星さされて拗ねちゃったのね。全く智哉君は…」
 ぶつぶつ言いながらも、白石は瀬谷の歩調に合わせてついてきた。ほらみろ、このスピードでも歩けるんじゃないか、と呆れつつ、瀬谷は小さくため息をついた。

 ―――僕の領域に入ってくるな、藤井。
 ここは、僕の居場所だ。広い場所でいくらでも自由に飛べる羽根を持っているのなら、もっと広い所へ行ってくれ。

 1本残らず毟り取られた羽根が、ズキリと痛む。
 もう飛べない自分のその痛みは―――やはり、嫉妬という痛みなのだろう、と瀬谷は思った。


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