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― レンタルします。 ―

 

 目が覚めたら、天井が回っていた。
 「…うー…」
 ぐらぐらぐら。頭の中で、水がタプンタプンと揺れてるみたいだ。
 帰ってきた服装のまま、布団も何も掛けずに寝ていたので、ずりずりと体の位置をずらして目覚ましに手を伸ばす。耳障りな音が止まってからも、頭の中が金魚鉢になったような感覚は止まらなかった。
 「…みずきぃ…」
 隣で、同じく昨日の服装のまま死んだように眠っている瑞樹の肩に手を置き、揺する。
 「瑞樹、時間。起きないと…」
 蕾夏の声に、起こさないでくれという風に眉間に皺を寄せた瑞樹は、それでも軽く身じろぎ、無理矢理目を開けた。途端―――蕾夏と同じく、世界が、歪んだ。
 「…っきしょー…、目ぇ回る…」
 遊園地のコーヒーカップを倍以上のスピードで回された後のような気分だ。起き上がったらそのまま倒れそうな予感がして、瑞樹も蕾夏も寝転がったままほとんど動くことができなかった。


 2人揃って目が回っているのには、勿論理由があった。
 睡眠不足には慣れているから、5時間強という睡眠時間はむしろ長い位だ。それに、酒には強い瑞樹とソフトドリンク派の蕾夏なので、二日酔いという可能性もゼロに等しい。
 原因は、昨日のオフ会の二次会以降の内容。それ以外、考えられない。

 一次会で完全にダウンした"江戸川"は、妻から“帰れコール”があったこともあり、二次会に流れることなくタクシーに押し込められた。
 "mimi"の方は辛うじて復活したが、飲み食いの場に流れればまた飲む恐れがあったので、やむなく二次会はイズミのリクエストに応えて、“東京ジョイポリス”になった。お台場まで電車1本、という場所で飲んでいたのが災いした訳だ。
 一行はそこで、建物の中を走るジェットコースターに3回も乗り、3種類の体感アトラクションに計5回も乗った。閉館間際にそこを後にする頃には、ジェットコースターが苦手な蕾夏はコースター酔い状態、瑞樹は3D映像に酔って頭がぐらつき気味だった。
 その後に待っていたのは、舞リクエストによるカラオケ大会。歌っていたのは瑞樹と蕾夏を除く4人―――中でもメインは、"mimi"だった。
 密閉された空間に反響する"mimi"の微妙にキーのずれている甲高い歌声に、瑞樹も蕾夏も、だんだん言葉を発する元気もなくなっていく。4人が泊まるホテルの隣のカラオケボックスだから、はっきり言ってエンドレス―――とても最後までは付き合いきれない、と悟り、途中で逃げ出した。
 電車もないし、別々にタクシーで帰るのも馬鹿馬鹿しいので、とりあえず蕾夏の家に下ろしてもらった。乗物酔いと3D酔いと耳鳴りに耐えられず、2人は、部屋に入ると同時に、まるで気絶するように眠ってしまったのだった。


 「なんかさぁ…視界がぐるんぐるん回ってるような夢ばっかり見てた気がする。うー…夢でも酔っちゃうとは思わなかった」
 「眠った気ぃしねーよなぁ…。あー、だる…」
 「ねぇ、瑞樹、大丈夫? 撮影できそう?」
 やっと頭を上げられるようになった蕾夏が瑞樹に訊ねる。数日前、例の口紅の商品撮影に急な追加依頼が入ってしまい、日曜だというのに昼から撮影に出かけなくてはいけないのだ。
 「…まあ、なんとかなるだろ、って感じ」
 髪をぐしゃっと掻き混ぜながら言う瑞樹に、蕾夏は心配げに眉をひそめた。
 「私置いて先に帰ってくれても良かったのに」
 昨日、律儀にカラオケまで付き合ったのは、イズミが「姉ちゃんも」とせがんだせいだ。「兄ちゃんも」とはせがまれていないので、瑞樹だけなら帰ろうと思えば帰れたかもしれない。しかし瑞樹は、自分の顔を心配そうに覗き込んでいる蕾夏の額を、呆れたような顔で指で弾いた。
 「んなことできるか、バカ」
 「でも、仕事が…」
 「猫やんも仕事だろ」
 「あ、そっか。猫やん、今日の技術者会議のために来たんだっけ。うわ…大丈夫なのかなぁ」
 「…ま、あいつも、なんとかなるんじゃない」
 言いつつ、腕時計に目をやる。午前8時過ぎ―――スタジオ入りは、12時だ。家に帰って、シャワーを浴びて着替えをして…と考えると、そろそろ起きた方がいいのは間違いない。が―――…。
 「動きたくねぇ…」
 「んー…、私はそろそろ動こうかな。トーストと卵料理位なら出せるけど、食べられそう?」
 「多分」
 「じゃ、準備してる間に、しっかり目覚ましておいて」
 くすっと笑った蕾夏は、弾みをつけて起き上がり、一気にカーテンを開けた。

***

 ―――あー…、やっと少しはまともになったな。
 シャワー後の頭をぶるっと振り、瑞樹は冷蔵庫から出したボルヴィックを一気にあおった。
 今日の追加撮影自体は、極々単純な白背景での商品撮りなので、あまり気を遣う必要はない。が、今朝起きた時のような状態では、ファインダーを覗いただけでも、昨日の3D映像が蘇ってきて酔ってしまいそうだった。撮影までにはギリギリ普段の自分に戻れそうなので、とりあえずは一安心だ。
 12時にスタジオ入りしたら、3時間近くスタジオに缶詰状態になる。蕾夏が朝食を出してくれたおかげで空腹は感じないが、何か食べておくべきだろうか―――と迷っていると、突如、テーブルの上に放り出してあった携帯電話が鳴った。
 誰だろう、と怪訝に思いながら携帯を確認すると、番号だけが表示されていた。携帯ではあるが、電話帳登録している相手ではないらしい。首を捻りつつも、瑞樹は受信ボタンを押した。
 「はい」
 『成田君?』
 舞の声だった。聞いた途端、一昨日からのゴタゴタが蘇り、うんざりした気分になる。
 「…ああ。なんだ、どうかしたのか」
 『昨日はお疲れ様。今、どこ? 家なの?』
 「まあな。そっちの連中はどうなったんだよ」
 『ミミちゃんは、飛行機の時間があるからって、もう空港に向かっちゃったわ。忍さんももう会議に向かったみたい。あたしとイズミも、今チェックアウトしたところよ。イズミはロビーでテレビ見てるの』
 “忍さん”―――つくづく、耳慣れない。第一、瑞樹と"猫柳"は同い年だというのに、何故瑞樹が“成田君”で、"猫柳"が“忍さん”なのだろう? 舞の中の基準は、いまいちよく分からない。
 「当然、猫やんの電話番号位はゲットしたんだろうな」
 からかいと皮肉を混ぜてそう言うと、電話の向こうから悪びれない笑い声が聞こえた。
 『あらやだ、バレた?』
 「見縊るな。蕾夏にだってバレてるぞ」
 『変ねぇ、イズミもミミちゃんも気づいてる様子ないのに―――忍さん本人も、全然分かってないみたいよ。まあ、その方があたしも好都合なんだけど』
 「ふーん。長期戦覚悟か」
 『というか、まずは友達になってみたいのよ。その結果、恋愛になるかどうかは、まだ分からないけど―――とりあえず、二次会・三次会で沢山話はできたから、友達としての下地は作れたかな。“宿を紹介してもらったお礼”っていう、次に会う格好の口実もできたことだし』
 「……」
 瑞樹以外、体の関係が絡まない異性の知り合いがほとんどいなかった舞からすれば、特定の男と「まずは友達になってみたい」なんて、きっと初めてのことに違いない。
 これは案外、本物になるかもしれないな―――意外な展開に驚きつつも、瑞樹はそんな予感を覚えた。何故なら、自分にとっての蕾夏も、性別を超えたところで「友達になりたいと思った相手」だったから。
 『ところで―――ねぇ、成田君。今日、昼から時間ある?』
 「今日? いや。俺、12時から撮影あるから」
 『え? 成田君も仕事なの? あらら…困ったわね』
 「なんだよ」
 『んー、実は、イズミを2、3時間預かって欲しくて』
 「は?」
 思わぬ話に、目を丸くしてしまう。
 「お前ら、もう神戸に帰るんだろ?」
 『その筈だったんだけど…昨日、どうしても二次会に参加したくて、一方的に泊まるのをキャンセルしちゃったでしょう? さすがにまずいから、さっき電話をしたのよ。そしたら案の定、母さん、カンカンに怒ってて…どうしても顔出せ、こっちも用事があるんだから、って』
 「だったら、イズミ連れて行きゃあいいだろ?」
 瑞樹が言うと、舞の声が数段暗くなった。
 『…イズミの前では話したくないような話が出そうなのよ。あの子、難しい年頃だから、不用意なことは聞かせたくないの。イズミが顔出さないと母さんも不満かもしれないけど…』
 イズミに聞かせたくない話―――なんとなく、想像はつく。
 舞の母は、かつては舞がシングルマザーであることに肯定的な人だったが、自分が再婚してからは色々と気にするようになったらしい。恐らく“話”とは、早く身を固めろ、といった類のものだろう。
 「イズミ1人で時間潰す訳にはいかないのかよ」
 『駄目よ。あの子の家出の理由、あたし、いまだに見当ついてないのよ? 目を離したら、またどこに逃げ込むか分からないじゃないの』
 ロビーにいるというイズミを気遣ってか、声が数段小さくなる。思い当たる節がない、という舞の言葉は本当なのだろう。昨日迎えに来た時の剣幕からも、それが窺い知れる。しかし……。
 「分かるけど、どうしても外せない仕事だからな」
 『そう…。うーん、それだったら―――…』
 暫し、間があく。やがて舞は、非常に申し訳なさそうな声で、恐る恐る訊ねた。
 『―――ホント、申し訳ないんだけど…蕾夏さん、借りちゃってもいいかしら』


***


 「姉ちゃーん」
 駅の雑踏の中、辛うじて耳に届いた声に、蕾夏はあちこちに彷徨わせていた視線を声の方向に向けた。
 ―――うーん…やっぱり、改めて見ると親子とは思えないなぁ…。
 揃って手を振っている舞とイズミは、さすがに恋人同士とは思えないものの、歳の離れた姉弟には見えるかもしれない。どちらも華やかな顔立ちなので、人ごみの中に紛れてもパッと目立つ。どういう関係なんだろう、と訝る人も多いのか、行き過ぎる人々の何人かは、2人のことを振り返ったりしていた。
 「ごめんね、蕾夏さん。昨日から迷惑かけっぱなしな上に、また迷惑かけちゃって…」
 駆けつけた蕾夏に、舞は酷く恐縮した様子で頭を下げた。昨日から何度もこんな調子で謝られているので、蕾夏は苦笑と共に「構いませんよ」と返すしかない。
 「本当ならこのまま神戸に帰っちゃいたいんだけどねぇ…。これで顔を出さないと、また後でごちゃごちゃうるさいし」
 「イズミ君が行かないことは説明してあるんですか?」
 孫を可愛がっているらしい舞の母を心配して蕾夏が訊ねると、舞は、ちょっと疲れたような笑いを見せた。
 「大丈夫、説明してあるわ。お義父さんもいるし、その方が好都合だったみたい」
 「…そうですか…」
 つまり、舞の義父は、あまりイズミの存在を歓迎していないのだろう。今の言葉をイズミがどう捉えたかが気になったが、イズミが平然とした顔をしていたので、蕾夏もなるべく感情を抑えて、あっさりした相槌を打った。
 「3時には蕾夏さんの家まで迎えに行くわ。いい? イズミ、蕾夏さんを困らせたりしないでよ? また家出なんてふざけた真似したら、次は警察に捜索願出すからね」
 「…信用ないなぁ。大丈夫やって」
 むくれるイズミの頭をくしゃっと撫でると、舞は「じゃあ、後はヨロシクね」と言い残して、駅の改札の向こうへと消えた。その足取りは、お世辞にも軽いとは言えそうになかった。
 そりゃ、そうだよね―――瑞樹から概略を聞かされた蕾夏は、思わず眉をひそめる。舞も大変な葛藤をその胸に抱いているだろうとは思うが…それ以上に、多感な年頃のイズミが、自分を取り巻く環境をどう感じているのかの方が気になった。

 「―――行くことないんや、母ちゃんかて」
 舞の背中を見送っていた蕾夏は、イズミがボソリと呟いた一言に、思わずイズミを振り返った。
 ジーンズの両ポケットに手を突っ込んで、少し首を傾けるようにして舞を見送るイズミは、妙に大人びた態度でため息を一つついた。
 「オレ、あの男、大嫌いや」
 「あの男?」
 「ばあちゃんの旦那。ばあちゃんの客やった頃、散々母ちゃんを邪魔者扱いしとった癖に、結婚した途端チチオヤ面して、あれこれ文句つけんねん」
 「……」
 「ばあちゃんかて好きやない。あの男の方ばっかり大事にしとった癖に、今更母ちゃんの人生にあれこれ口出しして―――オレ、“おばあちゃん”も“おじいちゃん”もいらんわ。うざったい。もう離れて暮らしてるんやから、他人扱いしてくれた方がなんぼかマシや」
 「…そう」
 ―――分かってるんだ…この子には、全部。
 自分が祖父母と呼んでいる人が、かつて、舞を深く傷つけた張本人達であるということ。自分が生まれた背景には、多感な時期に母と愛人の関係を見せ付けられた舞の、寂しさや嫌悪感があるのだということ。
 いつから理解するようになったのだろう―――たった4歳で、母の秘密を背負わされた瑞樹のことが思い出されて、なんだか胸が痛くなった。
 「…さて、と。イズミ君、お昼まだでしょ」
 蕾夏が、暗くなりかけたムードを振り払うように、明るい声で訊ねる。イズミも、その声に救われたように、表情を和らげて頷いた。
 「何が食べたい?」
 「うーん、そやなぁ…」
 駅の天井を仰ぐようにして考えを巡らせたイズミだったが、何かいいアイディアが思いついたのか、パチンと指を鳴らしてニッと笑った。
 「さっき見たけど、この駅ビルの最上階にイタリアンの店があるんやろ? そこのランチにしよ」
 「ふーん、そんなのがあるんだ。よく気づいたね、イズミ君」
 「そら、デートのコースは、男の方が決めるもんやし。姉ちゃん来るって聞いてから、ここいらの看板という看板、チェックしまくってたんや」
 「……」
 ―――デート?
 いつの間に、そういう話になってる訳?
 「あ、勿論、オレが奢るから。母ちゃんから“蕾夏さんには迷惑かけちゃダメよ”って昼飯代もらってん」
 「…いや…それは、ちょっと…」
 いくらスポンサーが舞でも、中学生であるイズミに奢られるのは、さすがに抵抗がある。即座に蕾夏が首を振ると、イズミはそれを無視して、蕾夏の腕をがしっと掴んだ。
 「イ、イズミ君!?」
 ギョッとする蕾夏をよそに、イズミは上機嫌で、蕾夏の腕を引っ張って歩き出した。
 「オレ、これが初デートやねん。クラスの女の子からも何度かデートに誘われたんやけど―――まさか本物とデートできるチャンスが巡ってくるなんてなぁ。手軽なとこで手ぇ打っとかんで良かったわ」
 「本物?」
 意味不明な言葉に質問を挟む暇もなく、蕾夏は簡単にイズミに引っ張られてしまう。中学生とあなどっていたが、背は既に蕾夏より僅かに高い。成す術もなくイズミに引きずられながら、蕾夏は、せめて転ばないようにと必死にその背中を追いかけた。
 「あ…あのっ、奢ってくれるんなら、ファーストフードがいいんだけど、私っ」
 「あーかーんー。オレの記念すべき初デートやで? マクドやロッテリアなんて却下や。何が何でも、大人が彼女連れて行くような店に行くっ」
 「私はマックやロッテリアがいいんだけどー!」
 「さささ、レッツゴー!」

 結局―――抵抗することも敵わず、駅ビルの最上階へと向かうエレベーターに引きずり込まれてしまい。
 蕾夏はその日、中学生に2千円もするイタリアンランチのフルコースを奢られるという、情けない体験をする羽目になった。

***

 「なぁ。姉ちゃんて、兄ちゃんがバスケしてるとこ、見たことある?」
 「え? あ、うん…試合じゃないけど、シュートやってるのを見たことあるよ」
 「やっぱ、上手い?」
 「上手いんじゃないかな。バスケに詳しい訳じゃないけど、素直に上手いなぁって思えたから。…イズミ君は?」
 「…下手ではないと思うけど…兄ちゃんは、1年でレギュラー入りしたんやって。それ考えたら、オレなんてまだ全然下手なんやろな…」
 悔しそうにうな垂れるイズミに苦笑しつつ、蕾夏は部屋の鍵を開けた。
 「はい、どうぞ」
 お入り下さい、という風に促すと、うな垂れていた頭がひょこん、と起き上がり、急に緊張した面持ちになる。
 「…お邪魔します」
 妙に神妙な口調でそう言うと、イズミは蕾夏の部屋に足を踏み入れた。

 時計を確認すると、まだ午後1時半過ぎ―――舞が迎えに来るまで、まだ暫くはかかりそうだ。帰りに駅前で買ってきたケーキを出すのは、もう少し後にすることにした。
 「イズミ君、ウーロン茶か牛乳かミネラルウォーター、飲む?」
 蕾夏が声を掛けると、玄関から少し入った辺りで、キョロキョロと部屋中を見回していたイズミが、慌てたように蕾夏の方を向いた。
 「え、えっと…じゃ、ウーロン茶」
 「好きなとこ座ってていいよ?」
 「…うん」
 蕾夏が促しても、イズミは特にどこにも座らず、またキョロキョロと部屋中に視線を彷徨わせた。2人分のウーロン茶を用意しながら、蕾夏はその様子をチラリと見、こっそり口元を綻ばせた。何をそんなにキョロキョロしているのか―――その理由が、分かるから。
 「―――私しかいないよ? この部屋には」
 冷蔵庫にウーロン茶をしまいながら、そう言う。
 すると―――イズミの肩が、小さく跳ねた。
 振り返ったイズミの目が、動揺に大きく見開かれている。さっきまでの強引なイズミはすっかりなりを潜め、寂しがり屋の子供の表情だけがそこに残っていた。くすっ、と笑った蕾夏は、ローテーブルの上にウーロン茶のグラスを2つ、置いた。
 「あの赤ちゃんはね、瑞樹の妹さんの子供―――つまり、瑞樹の甥っ子なの。あの時はたまたま、その妹さんが席を外してたから、私と瑞樹で面倒みてただけ。あの時1回会っただけだから、あの赤ちゃんに関するものがうちにも瑞樹の所にもないのは、当たり前だよ」
 「…姉ちゃ…」
 「…ゴメンネ。気づいちゃって」
 蕾夏がそう言うと、イズミの体から力が抜けた。ぺたり、と座り込んだイズミは、うな垂れると同時にはーっ、と大きなため息をついた。
 「…そ、っか…姉ちゃん、気づいてたんや、あの時」
 「うん―――私が見た時は、イズミ君、もう歩いてくところだったけどね。なんていうか…凄く、辛そうな顔してたから。きっと見てたんだろうな、って思った」

 8月最初の土曜日―――神戸の、ホテルのラウンジで。
 海晴から預かった晃を抱いて四苦八苦していた蕾夏は、窓の外に、強張った表情でその場を立ち去るイズミの姿を見つけていた。
 最初、見間違いかと思った。イズミと会ったのは去年の一度きりだったし、イズミなら瑞樹に絶対声をかける筈だと思ったから。けれど―――時間が経つにつれ、やっぱりあれはイズミだったのではないかと思うようになった。
 ショックを受けたように蒼褪め、強張っていた横顔―――イズミは、偶然遭遇した場面に衝撃を受けて、声をかけられなかったのではないか。そう思うようになった。
 そうしたら、イズミが突然、家出をして、瑞樹の家を訪ねてきた。

 「あの赤ちゃんが誰なのか、確かめるために来たの?」
 蕾夏が訊ねると、イズミはうな垂れたまま、ゆっくりと首を横に振った。
 「…そういう訳やあらへん。ほんまのこと言うと…オレ自身、よう分からへんねん。何がしたくて、東京に来たんか」
 「……」
 「ただ…なんや、嫌やってん。オレの知らん所で、オレの知らん間に、オレの知ってた兄ちゃんが全然違う人に変わったみたいな気ぃして―――いや…それとも違うな。なんて言えばええんやろ…」
 「…私に瑞樹を取られた、って思った?」
 少し悲しげに蕾夏が目を細めると、それまでうな垂れていたイズミが、はっとしたように顔を上げた。
 「―――ッ、違うっ! そないなこと、思ってないっ!」
 「ほんとに?」
 「ほんまや! 姉ちゃんにそんなこと、思ってへん。あの時…あの時、オレ、上手いこと言えへんけど、ショックやってん。なんや、兄ちゃんも、姉ちゃんも、あの赤ん坊も、その―――1つの、家族みたいに見えて」
 “家族”。
 ストン、と、降ってきた言葉が、納得いく形に収まった気がした。蕾夏も…イズミ自身も。
 「…オレ、“父親”がどういうものか、全然分からへんねん。“母親”は分かる。けど、“父親”は分からん――― 一度も見たことないし、感じたこともない。だから、オレの中で一番“父親”に近いのは、ずっと“兄ちゃん”やってん」
 「……」
 「あの時…多分オレ、“兄ちゃん”があの子の“父親”になったと思って、悔しくなったんやと思う。取られたと思ったんは、姉ちゃんに対してやない。あの赤ちゃんに対してや」
 「…そ…う」
 「―――姉ちゃん、あの時のこと、兄ちゃんに言った?」
 心配げな顔で眉をひそめるイズミに、蕾夏は安心させるように笑みを作り、小さく首を振った。
 「言ってない。イズミ君の気持ち、憶測で話しちゃいけないと思ったから」
 イズミの顔が、ホッとしたように緩んだ。
 「これからも言わんといて。中学生にもなってまだ兄ちゃん離れできてないんか、って思われたら嫌やから」
 「ん…分かった」
 「約束な」
 「うん。…ウーロン茶、ぬるくならないうちに、飲もう?」
 もうその話はおしまい、という気持ちを込めてそう促すと、イズミは、昨日から見てきた中で一番子供らしい笑い方をして、コクリと頷いた。

 ―――“家族”…か…。
 ウーロン茶を口に運びながら、蕾夏は、イズミの言葉を頭の中で繰り返し、小さくため息をついた。
 イズミが家出をしてきたと聞いた時から、時折、ある思いが頭を掠める。
 両親から愛され、その存在に何の疑問も抱かずにきた自分とは違い、舞もイズミも瑞樹も、それぞれに“家族”に言い知れぬ寂しさを持っている人間だ。蕾夏には想像することしかできない痛みを、3人は自分の体験として共有できる。だったら…そうした同士で支えあう方がずっといいんじゃないだろうか―――そんな、思いが。
 瑞樹を守りたい―――けれど、毎回毎回、不安になる。恵まれすぎな自分に、果たしてちゃんと瑞樹の痛みを理解できているのだろうか、と。
 ―――だからつい、舞さんの名前出されると、コンプレックス感じちゃうんだよなぁ…。私なりの方法があるんだ、って割り切ってるつもりなのに…ダメだなぁ…。

 「……?」
 考え事をしながらウーロン茶を飲んでいた蕾夏は、ふと違和感を感じて、口に運びかけたグラスを途中で止めた。
 背中が、温かい。と言うより、暑い。体が、やたらと窮屈に感じる。と言うか、自由が利かない。
 「イズミ君?」
 慌ててグラスをテーブルに置く。こと、ここに至って、ようやくイズミが自分に抱きついていると―――いや、イズミに背後から抱きすくめられていると分かったから。
 「…あんな、姉ちゃん。オレ、あの時、あの赤ちゃんにも嫉妬したけど―――兄ちゃんにも嫉妬した」
 「え?」
 「ああ、姉ちゃんとうとう、兄ちゃんのモノになっちゃったんや、と思って、滅茶苦茶悔しかったから」
 「……」
 …そんなセリフを、ひと回り以上年下の子から言われるとは、思ってもみなかった。
 「母ちゃんは世界一いい女やって思うけど、オレが彼女にするんやったら、姉ちゃんが理想やって、去年会った時からずっと思っててん。“フォト・ファインダー”の写真眺めてため息ついたりしててんで。結構マジやろ?」
 「…ええと…」
 正直、反応に困る。中学生に言われるのはどうかと思うが―――“理想”とまで言ってくれるのは、なんであれありがたいことだ。ちょっと顔を赤らめた蕾夏は、居心地悪そうに少し体を捩った。
 「中学上がってからは、結構告られたりしたから、少しでも姉ちゃんと似てる子選んで試してみたけど―――やっぱり、姉ちゃん本人やないと、ちっともそそられへんな。1人目の子も、2人目の子も、1度きりやったわ」
 「え?」
 「話に聞くほど、興奮も感激もなかった。やっぱり、他の女のこと考えて抱いてもあかんのやな、ああいうのは」
 「―――…」

 …今。
 何ておっしゃいましたか?

 頭の中が、急速に真っ白になる。そして、パニックに陥りながら、理解した―――もの凄くよく、理解した。さっき聞いた“本物”という意味不明の言葉の、その意味を。
 「イ、イ、イズミ君っ」
 「それに、姉ちゃんは外見だけと違う。さっきみたいに、そんなに知らないオレのことでも、きちんと気持ち分かってくれるし」
 「うん、分かった。分かったからね。ちょっと離して…」
 言った途端、後ろから回されていた手が解けて、一瞬ホッとする。が、それは間違いだった。
 ぐい、と肩を掴まれたかと思ったら、半ば強引にイズミの方に体を向けさせられ、今度は前から抱きしめられた。まずい―――余計まずい。この体勢は、非常にまずい。
 「あー、やっぱ姉ちゃんだと、こーやってるだけでめっちゃドキドキする」
 「……」
 「姉ちゃんて、大人なのに滅茶苦茶華奢やなぁ。髪の手触りも、オレなんかと全然違う―――悔しいなぁ。なんで相手が兄ちゃんなんやろ」

 ―――落ち着け。
 落ち着け、落ち着け、落ち着け。
 さっきから髪撫でたり背中撫でたりしてるけど…大丈夫。ただ抱きしめられた位で、ちょっと体を触られた位で、震えたり騒いだりしたらまずい。この子は、事情を知らないんだから。だから、落ち着かないと。

 「…え、姉ちゃん、震えてるん? うっわ、めっちゃ可愛いー」
 ―――お…落ち着かないと。
 「うーん…まずいなぁ。あんまり可愛いことされると、こういうことしたくなるやん」
 …お、落ち着―――……。

 自己暗示をあっさり覆すように、頬に唇を押し付けられた瞬間。
 何かが、蕾夏の中で、パチンと弾けた。


***


 「本っっ当に、ごめんなさいっ!!!」
 舞の必死の謝罪の声に重なって、もの凄い勢いで呼び鈴が何度も鳴らされた。
 恐縮して縮こまっていたイズミが、慌てて立ち上がり、玄関へと飛んで行く。鍵を開けると、即座にドアが外側から開けられた。
 「兄ちゃんっ」
 玄関内に押し入ってきた瑞樹は、助けを求めるようなイズミの声を無視して、部屋に上がりこんだ。荷物を床に放り出すと、蕾夏が横たわっているベッドへと真っ直ぐに向かった。
 蕾夏に付き添うようにしていた舞の肩をぐい、と押しのけ、額に濡れたタオルを乗せている蕾夏の顔を覗き込む。タオルが半分目にかかってしまっていた蕾夏は、タオルをずらした。
 「蕾夏―――大丈夫か」
 タオルに添えた蕾夏の手を取った瑞樹の顔は、僅かに蒼褪めて見えた。その表情に胸にチクリとした痛みを感じながらも、蕾夏は表情を綻ばせた。
 「大丈夫だよ。安心して」
 「……」
 それでも瑞樹は、蕾夏の片手を両手で包んだまま、蕾夏の目をじっと見据えていた。その言葉が本当かどうかを見極めようとするように。
 やがて、納得がいったのか、瑞樹は包んだ手に額を押し付けるようにして俯き、はーっ、と大きく息を吐き出した。
 「―――良かった…」
 手を包み込む瑞樹の指先は、微かに震えていた。分かるから―――ここに駆けつけるまで、瑞樹が何を予想し、何に対して怯えていたかが、蕾夏には手に取るように分かるから―――辛かった。

 あの後、蕾夏はイズミを突き飛ばし、洗面所に駆け込んで吐いてしまった。
 突然の事態に唖然としていたイズミは、それでも途中で我に返り、苦しむ蕾夏の背中をさすったり、熱を出してぐったりしてしまった蕾夏をベッドに運んだりと、必死の介抱をした。
 パニックを起こしていたイズミは、瑞樹や舞に、電話で助けを求めた。その内容を、朦朧としていた蕾夏はあまり聞いていなかったが、多分、何をしてこうなったのかの説明はしたのだろう―――駆けつけた瑞樹の目が、それを物語っていた。

 “俺の声、聞こえるか?”―――言葉にならなかった瑞樹の不安を、その目を見た瞬間に感じて…痛かった。

 「あ…あの、兄ちゃん。ゴメン、オレ…」
 さっきまで、瑞樹より一足先に到着した舞と一緒に土下座状態で謝罪を繰返していたイズミは、見たこともない瑞樹の様子に戸惑いながら、恐る恐る声をかけた。
 瑞樹の頭が、微かに動く。顔を上げた瑞樹は、殺気を帯びた目でイズミの方を睨んだ。その目に、イズミが怯えたように一歩後退った。
 「…イズミ。お前…」
 「だ、ダメっ、やめてよ、イズミ君怒るのは」
 慌てて蕾夏は、瑞樹のシャツの袖をぐいっと引っ張った。
 「…ッ、けどな、」
 「ほら、私、昨日のオフ会の疲れで、体調崩してたでしょ? もう大丈夫だと思ってたけど、抱きつかれた弾みに貧血起こしちゃったみたいで―――イズミ君は、悪くないの。別に変な意味で抱きついたんじゃないもの。ね、そうだよね?」
 さっき舞にもした説明を、また繰返す。イズミは躊躇いがちに、それに小さく頷いた。その後にあったキスのことは、神戸の一件と一緒に2人だけの秘密にしてある。下手に明かせば、瑞樹が怒ること間違いなしだから。
 「イズミ君も舞さんも、ごめんね、驚かせて。気を遣わせるの嫌だったから、体調悪かったこと黙ってたけど―――かえって迷惑かけちゃった。ほんと、ごめんね?」

 謝罪を受けるべき立場である筈の蕾夏がひたすら謝るせいで、朝倉親子はそれ以上、謝罪のしようがなくなってしまった。
 瑞樹も、一番大変な目を見た筈の蕾夏をさしおいて怒る訳にもいかず―――憮然とした表情のまま、黙っている以外なかった。

***

 舞とイズミが蕾夏の家を後にしたのは、3時半頃だった。
 「…兄ちゃん。ほんま、ゴメンな」
 ケーキを食べる間も終始無言だったイズミは、最後に、酷く落ち込んだ声でポツリとそう言った。それが、今日のことだけではなく、一昨日の夜からのこと全てに対する謝罪だと分かるから―――瑞樹は、イズミの頭にポン、と手を乗せ、僅かに口元を綻ばせた。
 「二度と家出なんてするな。…舞がいいって言えば、遊びに来ても怒らねーから」
 それを聞いて、イズミの顔がパッと明るくなった。今日のことで瑞樹を怒らせてしまい、もう二度と会ってはもらえないかもしれないと思っていたのだろう。
 今度神戸来る時は、絶対連絡してや―――と言い残して、イズミと舞は神戸に帰っていった。


 「…瑞樹…撮影、大丈夫だったの?」
 さっきからそれが一番気になっていた。蕾夏が眉をひそめて訊ねると、瑞樹は、安心しろ、とでもいうように、蕾夏の手を軽く握った。
 「イズミから電話あった時点で、最後のカットが撮り終わったとこだったから」
 「そう。…ごめん、また迷惑かけて」
 「バカ。謝るのはこっちだろ。2人の手前、貧血ってことで話合わせたけど―――本当に大丈夫か?」
 「ん…大丈夫。あーあ、またやっちゃったよ…辻さん時も思ったけど、これでイズミ君が女性恐怖症になったら困るなぁ…」
 抱きしめた相手に「気持ち悪い」と言われて吐かれたりしたら、やっぱりショックなのではないだろうか。イズミの女性観が歪んでしまいそうで心配だ。
 「いいんだよ、少し位恐怖症になった方が。ったく、あのませガキ―――昨日からやたら蕾夏にばっかりちょっかい出すと思ったら、やっぱりそういうことかよ」
 超不機嫌な顔で眉を顰める瑞樹に、蕾夏はクスッと笑い、首を振った。
 「別にイズミ君は、私を好きな訳でも狙ってる訳でもないよ」
 「んな訳ないだろ」
 「ううん。イズミ君が好きな人は、別にいるから」
 「?」
 瑞樹には、その答えが分からない様子だった。蕾夏は目を閉じ、自分の手を包む瑞樹の手を、そっと握り返した。

 ―――イズミ君が好きなのは、瑞樹だけだよ、きっと。
 瑞樹と同じ学校に通って、瑞樹と同じバスケ部に入って―――私に興味を持ったのも、私が瑞樹の恋人だから。イズミ君はね、瑞樹に憧れてるの―――瑞樹になりたいんだよ。

 反発したような態度を取りながら、その目は、必死に瑞樹を追い求めている。
 そんな目は、誰かを、思い出させる。切ないまでに憧れの人を追い求めていた―――寂しがり屋の、あの目を。

 「…瑞樹…」
 「ん?」
 「…イズミ君て―――奏君に、似てる、ね…」
 「―――…」

 眠りに落ちながら、無意識に呟いた一言。
 その一言に、瑞樹がどんな顔をしたのか―――意識を手放した蕾夏が知る由もなかった。


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