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― スペシャル ―

 

 10月の六甲山は、秋風が吹いて、少し肌寒かった。
 「さ、さむうぅ。めっちゃ寒いわ。なんでや。下界はもっとぬくいやん。こういう情報は前もって教えてくれなアカンやんか、イズミ君」
 「山の上やから、気温低いのは常識やろ。そーんな薄着で来る忍の方が間違ってるわ」
 「たかが六甲山やで!? 富士山やったら分かんねんけどなぁ…六甲山程度で、こないに寒うなるなんて、計算外や」
 そう言って、自らの腕を抱えてぶるぶる震えているのは、"猫柳"こと、中尊寺 忍である。
 アウトドア派ではない彼は、秋口の標高900メートルの天候を甘く見ていた。特に、本日は曇り空。いくらなんでも、薄手のシャツ1枚では寒かった。
 一方のイズミは、トレーナー地のパーカーをちゃんと着込んでいる。下界ではまだちょっと厚着過ぎるかもしれないが、山ではちょうどいい格好だ。


 今日は日曜日。しかし、舞は休日出勤だ。
 そのことを、金曜日の舞からの電話で聞いた忍は、
 「じゃあ、せっかくやから、イズミ君をジープに乗せたろか? ボクも久々に山道ドライブしたい思てたとこやし」
 と言って、イズミをドライブに誘った。
 このお誘いに、さして深い意味があった訳ではない。
 会社は、例のリストラ騒動のせいで落ち着かない状態が続いており、さすがの忍も最近かなり疲れている。舞の勤める保険会社も、何やらトラブルが発生しているらしく、時折交わす電話では、お互い会社の愚痴がその内容の大半を占めている。
 そんな会話の中で、ふと、舞が漏らした一言。
 『イズミもねぇ…なんか最近、学校の部活で、上級生に目をつけられちゃったみたいで。詳しい話を聞いてあげたいのに、こういう時に限って仕事がたてこんじゃって―――ついてないわ』
 ちょうどイズミの年頃に、やはり上級生から目をつけられた経験のある忍としては、ちょっと気になる話だった。イズミが悩み事を自分に相談するとは思えないが、気分転換になればいいだろう、位の気持ちから、ドライブに誘うことを思いついた―――ただ、それだけのことだ。


 「曇ってたんは、残念やったなぁ…。せっかくの六甲山からの眺めが、霞んでほとんど見えへんね」
 腕をさすりながら忍が言うと、見晴台の柵から身を乗り出すようにしていたイズミは、振り返って機嫌良く笑った。
 「眺めなんて、どーでもいいやん。ドライブは、車乗ってる間を楽しむもんやろ? ジープで山道登るの、めっちゃ面白かった。オフロードとか走ったら、もっと楽しいやろなぁ」
 「…ボクのテクやったら、脱輪して終わりや。一応、砂利道レベルまでにしといてんか」
 「ちぇー。オレも早く免許取りたいなー」
 「そないに車、好きなんか」
 「メカなら、何でも興味あるし。それに、車運転できたら、母ちゃんをいろんな所に連れてってあげられるやん? 彼女とデートするにも便利やし」
 「―――ませたこと言うなぁ…」
 最近の中学生は―――いや、イズミの場合、母親も相当にませた中学生だったと思われるので、遺伝子レベルで特別にませているのかもしれないが。
 「忍の中学生ん時は、どーやってん?」
 「ほぇ? 何が?」
 「ませガキやったかどーか、ってこと。彼女おった?」
 興味津々のイズミの視線に、忍は面白くなさそうに眉を寄せた。
 「…おるかいな。同級生で彼女おる奴の方が珍しかってんで? なのに、背ぇ高いばっかで、顔も成績もひたすら中道路線やったボクに彼女がおったら、そら天変地異に等しいわ。嫉妬に狂った同級生に絞め殺されて、今頃ここにおらんかったかもしれへんで」
 「あははははは、捻くれることないわ。オレも彼女おれへんもん」
 「え、そうなん?」
 「告ってくる子と、まあ、それなりに色々やってはみてるけど…付き合ってる子はおれへんよ」
 「…さよか」
 何を“それなりに色々”やっているのかは、あえて訊かないでおいた。でも…確かに、これだけ目立つ風貌をしていれば、言い寄る女の子の1人や2人、いてもおかしくはないだろう。
 「それにオレ、今は、女の子より部活が大事やし」
 「バスケやったっけ」
 「うん。1年のうちに、1回でいいから、試合に出たいんや」
 「1年でレギュラーになるんは、キツイやろ?」
 「けど、兄ちゃんはレギュラーやってんで?」
 不服そうに口を尖らせたイズミは、えい、と、地面に転がっていた石を蹴飛ばした。
 「そこそこいい線いってるオレでも、結構先輩から目ぇつけられてるんや。1年でレギュラーやった兄ちゃんは、もっと陰湿な嫌がらせとか受けてたと思う。…オレかて、頑張らんとアカン」
 「…嫌がらせ、されてるんか」
 「ちょこっとだけな」
 「ふーん…。できる奴はできる奴で、苦労があんねんなぁ…。ボクはいつも羨ましがる方の立場やったから、よう分からんわ。けど―――ハルは確かに、上級生に睨まれるタイプやろね」
 上級生に睨まれても、女子生徒から黄色い歓声を受けても、常に無表情で飄々と、やるべきことだけやっている―――そんな中学生の瑞樹の姿が簡単に思い描けて、忍は思わず苦笑した。
 「目標にする奴がハイレベルすぎて、イズミ君もご苦労やなぁ」
 「……」
 楽しげに言う忍に、イズミはハッとしたように、一瞬、瞳を揺らした。そして、ぎこちなく視線を逸らすと、パーカーのポケットに手を突っ込んで、停めてあるジープの方にぶらぶらと歩き出した。
 「し…忍は? 中学の時って、何やってたん?」
 「ボク? ボクの中学、ちょっと変わっててん。理科部っちゅーのがあってな、そこで鉱石ラジオ組み立てたり、インドアプレーン作ったりしてたわ」
 「インドアプレーン?」
 「室内飛行機。っちゅーても、ラジコンやなくて、輪ゴムで飛ぶヤツな。今でも時々、家で一番広い部屋使って飛ばしてんで」
 ジープの車体に寄りかかったイズミは、その説明を聞くと、途端、目を輝かせた。
 「それって―――あれやろ? 広い体育館みたいなとこで、何時間も飛ばすやつ。世界大会のニュース、テレビで見たことある」
 「そうそう。ゆーったりしとって、ええやろ。飛んどるとこ見とると、なんや癒し効果を感じんで」
 「へええ…いいなぁ。飛んでるとこ、見てみたいなぁ」
 「今度、見したろか?」
 「ほんと?」
 その言葉に、イズミは、心底嬉しそうに笑った。

 ―――インドアプレーンは、どんな形で“兄ちゃん”に繋がっとるんやろな。
 ふと、そんなことをかんがえている自分に気がついて、忍は僅かに、胸の痛みを感じた。
 イズミの嗜好の全てが瑞樹に直結している訳ではないだろう。けれど…そう思ってしまうほど、イズミの目は、常に瑞樹を追いかけている。ここにはいない、いてくれる筈もない、永遠の“憧れの人”を。
 代わりになってやれないことを、悔しいとか、情けないとか、そういう風には思わない。
 ただ、胸が痛むだけ―――今、ここにいるのが、自分ではなく“兄ちゃん”であればいいのに、と。切ないイズミの胸の内を理解することはできないが、その想いが真剣で、とても大事なものであることは、傍にいてよく分かるから。

 「…ああ、そうや。言うの忘れとった」
 ぽん、と手を打った忍は、イズミの隣に行き、同じようにジープに寄りかかった。
 「ボク、来週、東京に出張すんねん」
 隣の気配が、動いた。
 大きな目が、息を呑むようにして、僅かに見開かれる。その真っ直ぐな目を見返しつつ、忍は、軽い調子で続けた。
 「…え?」
 「まだ連絡取ってへんけど、ハルやライにも会ってこよかと思てんねん。イズミ君、何かハルに言伝ある? あるんやったら、ボクからハルに伝えるけど?」
 「……」
 パチパチと数度瞬きを繰返したイズミは、暫し黙った後、微かに口元に笑みを浮かべて、首を横に振った。
 「別に、あらへん」
 「…そか」
 「それよりオレ、六甲牧場行きたい」
 「―――そやな。見晴台におっても何も見えへんのやし…そろそろ行くか」
 「うん」
 少し元気な笑顔になったイズミにつられて、忍も笑い、ジープの運転席側へと回り込んだ。


***


 蕾夏が店に着くと、既に"猫柳"は来ていたものの、瑞樹の姿がまだ見えなかった。
 「ハルは?」
 「まだみたいやね」
 「ふーん…。今日は撮影じゃない筈だけど―――何か急用でも出来たのかな」
 「ほほぉ、さすがは“彼女”や。“彼氏”のスケジュールは完璧に頭に入ってるんやねぇ」
 「…そういう訳じゃないよ」
 茶化すようにそう言う"猫柳"に、蕾夏は、少し居心地の悪さを感じながら、丸テーブルの一角に腰を下ろした。とりあえず、いつも通りウーロン茶だけを注文し、食べるものは瑞樹が来てから、ということになった。
 「…そう言えば、猫やんのスーツ姿って、初めて見たかも」
 「んぁ? そーやったか? ああ…この前のオフ会ん時は、ライやハルはおらんかったんやったね、2日目の朝。同じホテル泊まった3人は見てる筈やけど」
 「ミミとか舞さんとか、何て言ってた?」
 「大笑いしとったわ」
 「…だろうね」
 別に、似合わない訳ではないのだけれど―――瑞樹のスーツ姿がどうにも違和感だらけなのと同じで、"猫柳"のスーツ姿も、酷く違和感のあるものだった。日頃のアロハやらメタルロック調のシャツとのギャップがその主な理由だが、一番違和感を醸し出しているのは、やはりサングラスの有無だろう。
 「サングラスしてない猫やんは、猫やんじゃないなぁ…」
 「うっわ、なんやそれー。サングラスとったボクは、ボクと違うんかい」
 「そうじゃないよ。怪しい人物から、意外と優しい顔になるだけで、確かに猫やんではあるんだけど―――うん、多分、こっちの顔が“忍”の顔なんだろうな、と思う」
 「……」
 いつものおちゃらけを返そうとした"猫柳"だったが、上手く返すことができずに、ちょっと顔を赤らめて、咳払いで誤魔化した。どうやら、“忍”という呼び名に、過剰反応しているらしい。
 舞とイズミが、そう呼ぶからだろうな、と、蕾夏は察した。
 オフ会以来、あの妖艶美女とはどうなったんだ、と"江戸川"などがチャット上で"猫柳"をしばしばからかっていたが、"猫柳"は毎回、茶化すことで全て誤魔化していた。実際のところ、どうなんだろう…と、密かに気にしてはいたのだが―――どうやら、あれ以後もそれなりに親交を深めているらしい。
 「―――舞さんやイズミ君、元気?」
 運ばれてきたウーロン茶を口にしながら、軽く首を傾げるようにして蕾夏が訊ねると、"猫柳"は、また咳払いをした。
 「…元気やで。舞さんは仕事で大変な思いしとるし、イズミ君は部活でしごかれて悲鳴あげとるけどな」
 「そっか」
 「…言うておくけど、別に、付き合ってる訳とちゃうで」
 「訊いてないのにそういう事言うと、余計怪しまれちゃうよ?」
 「…っ、ああああ、やり難いわ、ほんまに」
 自棄になったようにそう叫ぶと、"猫柳"はスーツの内ポケットから、何かを取り出した。何だろう、と思ったら、なんとそれはサングラスだった。
 素早くサングラスをかけると、"猫柳"の表情が少しだけ落ち着いたものになる。
 「あー、やっと落ち着いた」
 ほーっ、と安堵したように大きく息を吐き出した"猫柳"は、椅子の背もたれにぐったりともたれかかり、ビールを一気にあおった。がしかし、ビジネススーツにサングラス、銀色の長髪という"猫柳"の姿は、アロハの時以上にインパクトがありすぎだ。
 「…猫やん、余計変な人になってるよ」
 「構へん、構へん。変な人になる分には、ボクは大して気にせーへんねん。とにかく考えとることがすぐ顔に出るタイプやから、サングラスなしで真面目な話すると、色々問題があんねん」
 「顔に出るとまずいことでもあるの」
 「…複雑な心境やねん」
 グラスを置いた"猫柳"は、僅かに眉を寄せ、神妙な面持ちになった。
 「ライは、舞さんのその…心づもりみたいなもん、聞いてるん?」
 「うん…一応。といっても、ハル経由だけど」
 「てことは、ハルも知ってるんか…」
 「…もしかして、舞さんのこと、あんまり好きになれないとか?」
 「いや、そんなことはないで。見た目はストライクゾーンから外れとるけど、中身はかなり好みやで。女々しい女は苦手やねん、ボク。舞さんみたいなバイタリティある女は、女、っちゅーより、人間として尊敬できて好きや」
 「じゃあ、何でそんなに難しい顔になるの?」
 「…悪ぅないわ、そんならええか、ってなノリで付き合えるような問題とちゃうやろ、舞さんの状況考えると」
 わからんのかい、という顔をした"猫柳"に、蕾夏は、分かるような分からないような複雑な気分になって、困ったような顔しか返せなかった。その反応を見て、"猫柳"は小さくため息をついた。
 「イズミ君抜きで舞さんのこと考えられるほど、ボクは割り切った人間ちゃうで」
 「……」
 「…イズミ君にとってのスペシャルな人間は、ずっとハルだけや。あないにハルを慕ってるあの子見とったら…ボクじゃ代わりにはなれへん、て思うてしまうやん。言うてもしゃーないことやってのは、分かってるわ。分かってるけど―――上手いこと、いかへんな。イズミ君はハルを必要としとるけど、ハルに必要なんは、ライだけなんやから」

 『オレ、“父親”がどういうものか、全然分からへんねん。“母親”は分かる。けど、“父親”は分からん――― 一度も見たことないし、感じたこともない。だから、オレの中で一番“父親”に近いのは、ずっと“兄ちゃん”やってん』

 イズミの中で、“家族”に一番近い男の人は、昔も今も、瑞樹だけ。
 イズミにとっての、たった1人のスペシャル。母の幸せを願っていても、その想いだけは、今も変わらない。その想いを思う時―――蕾夏も、泣きたくなる。決して分かってあげられる訳じゃない。けれど…泣きたくなる。
 「…うん…分かる。猫やんの気持ち」
 ちょっと視線を落として、無意識にそう相槌を打つ。すると"猫柳"は、一瞬キョトンとした顔をした後、困ったように眉根を寄せた。
 「あー…いや、ライを悲しませるんは、ボクの本意やないねん。そないな顔されると、困るわ」
 そんな"猫柳"に、蕾夏はクスッと笑い、小さく首を振った。
 「違うの。猫やんのせいじゃない。夏にイズミ君に会ってから、何度も何度も、考えたことだから。…猫やんが今感じてるジレンマ、私もずっと感じてるの。だから、分かるよ、猫やんの気持ち」
 「…そか。そんなら、ええけど」
 ホッとしたように笑う"猫柳"に応えて、蕾夏も笑った。そして、思った―――ああ、舞さんが猫やん選んだ理由、なんとなく分かるな、と。
 "猫柳"が、どれだけ舞に好意を持っているかは、定かではないけれど。
 きっと"猫柳"は、イズミがとても好きなのだろう―――それが分かるから、世界中の何よりイズミを大切にしている舞が、"猫柳"を選ぶのは当然だ、と、蕾夏はそう思ったのだ。

***

 瑞樹がやっと現れたのは、それから10分後だった。

 「遅いー。遅いわ、ハル。あと5分遅かったら、腹空きすぎて倒れるとこやったわ」
 「…なんつー格好してんだ」
 スーツにサングラスという格好の"猫柳"を見下ろして、瑞樹は呆れたような顔をした。ガタリ、と椅子を引いて瑞樹が席につくとすぐ、"猫柳"が店員を呼んで、めぼしい食べ物を一気に注文した。本当に空腹の限界だったらしい。
 「でも、ほんと遅かったね。今日って撮影じゃないでしょ」
 ちょっと落ち着いてきたところで蕾夏が訊ねると、鬱陶しそうに前髪を掻き上げた瑞樹は、少しだけ眉を顰めた。
 「ああ。“I:M”の打ち合わせが伸びたんだ」
 「あ、そうなんだ」
 “I:M”とは、瑞樹が時田から引継いだ仕事の1つで、“A-Life”同様、雑誌の仕事だ。“A-Life”以上に情報誌色が濃く、紙面の大半を店舗紹介や商品紹介が占めているような雑誌である。
 「あそこの仕事、ハードだから、大変だね」
 「まあな。おかげで、初の出張撮影が決まりそうだ」
 「え、そうなの? どこ?」
 蕾夏の問いに、瑞樹の視線が、一瞬、"猫柳"の方に向けられる。再び蕾夏の方を見た瑞樹は、さらりとした口調で告げた。
 「―――神戸」
 「……」
 "猫柳"が、僅かに息を呑むのを感じた。が、蕾夏は、そちらに目を向けることが出来なかった。なんだか―――この瞬間の表情を見られるのは、"猫柳"も嫌なのではないか、という気がして。
 「ルミナリエがメインだから、12月入ってからだけどな。1泊2日の日程で」
 「…そうなんだ。お父さんとこに泊めてもらえるから、ラッキーだったね」
 内心の動揺を抑えて、ふわりと微笑む。
 蕾夏から頼む訳にはいかない。イズミは「そんなつもりはない」と言ってくれたが、イズミに寂しい思いをさせている原因の1つが自分という存在であることは、どんなに否定しようとも、動かしがたい事実だ。そんな自分が頼むのは、なんだかおこがましい気がした。
 すると、蕾夏の気持ちを汲んだ訳ではないだろうが、"猫柳"が、まさに蕾夏が言いたかった言葉を口にした。
 「―――なあ、ハル。神戸に来るんやったら、ちっとだけ時間、作ってもらえへん?」
 "猫柳"にそう言われ、瑞樹は、軽く首を傾け、"猫柳"を流し見た。
 「なんでまた」
 「いや、その―――会って欲しいねん」
 「誰に」
 「…イズミ君に」
 ある程度、想像はついていたのだろう。瑞樹は、特に顔色も変えなかった。
 運ばれてきたバドワイザーに口をつけつつも、"猫柳"のサングラス越しの目を、涼しい目で見据える。が、そんな瑞樹の目にも、"猫柳"は負けなかった。
 「ボクが言うことやないかもしれへんけどな―――イズミ君、難しい時期に来てんねん。今、あの子に一番必要なんは、ハルに会うことやと思うで」
 「―――俺は、逆に、もう会わない方がいいと思う」
 「そう言うハルの言い分も、なんとなく分かるわ。けど…人間、諦めることを自分に納得させるためのプロセスっちゅうのがあるやろ」
 「……」
 「ボクは…よう、分かるわ。ライの時かて、そうやった」
 いきなり自分の名前が場違いに出てきて、蕾夏はつい、ギョッとしたような顔になってしまった。瑞樹も、ちょっと意外な話の展開に、僅かに眉をひそめた。
 「初オフん時から、“ああ、こらアカンな、あの2人、遅かれ早かれくっつくに決まっとるわ”って、直感的に分かっててん。屋久島で会った時、もうあんまり時間もあらへんな、と覚悟したけど―――なんもせんと終わるのは嫌やってん。黙ってハッピーエンドを傍観しとる位なら、きっちり振られて終わった方がええわ、と思ったから、可能性ゼロやと分かっとっても、振られるために告白したんや。ライに」
 「…なるほどね」
 意味深に片眉を上げる瑞樹に、蕾夏は気まずそうにウーロン茶のグラスを手に取った。内容が内容だけに、冷や汗が出てきそうだ。
 「よくある恋愛でも、そんだけのパワーが必要やねんで? イズミ君は、もっと大変や。片思いのまま終わるんは、あの子もよう分かってる。けど―――このままフェイド・アウトさせられるほど、軽いもんと違うで、あの子の気持ちは」
 「……」
 「例えば、ハルがライを諦めなアカンようになった場合を想像してみればええわ。多分…それと同じ位、今のイズミ君は、辛くて苦しい思いしてんで」
 黙って聞いていた瑞樹は、それを聞いて、目を伏せて小さく笑った。
 「その喩えは上手いな」
 「当たり前や。イズミ君にとってのハルも、ハルにとってのライも、他人に代わりのできない“スペシャル”やろ」
 「…スペシャル、か」
 「ボクには、そんな相手、おれへんわ」
 "猫柳"は、ふっと表情を緩め、微かに笑った。
 「羨ましいわ。イズミ君も、ハルも。中途にしか人を想ったことないから、そないに命かけて誰かを想う体験、一生に一度でええから、してみたいわ」
 「いや。猫やんだって、してるだろ」
 「え?」
 キョトンとする"猫柳"に、瑞樹はふっ、と笑い、口の端を僅かに上げた。
 「猫やんがイズミを思ってる“想い”―――それが、そうなんじゃねぇの」
 「……」
 「事実、命がけって顔して、俺に頼んでるだろ。イズミに会ってやってくれ、って」
 サングラスをしていても、"猫柳"が動揺し始めているのが、すぐ分かった。
 「べ…別に、そういう訳やないで? ただ―――放っとかれへんやん、あんな子を」
 動揺を抑えるように、コップに残っていた水を一気に飲み干す"猫柳"の様子に、瑞樹と蕾夏は、同時に苦笑した。いつも笑顔で本音を茶化してしまう"猫柳"も、真面目な話になると、本当に分かりやすい反応をしてしまうらしい。確かに―――これでは、サングラスが必要なのも頷ける。
 水を一気飲みした"猫柳"は、一息つくと、妙に力のない声で、ポツリと呟いた。
 「けど―――放っとかれへんけど、何もできひん自分が、歯がゆいわ」
 「そんな…猫やんが何もできないなんて、そんなことないでしょう?」
 思わず蕾夏がそう言うと、"猫柳"は少し顔を上げ、緩慢に首を横に振った。
 「ボクな。昔から、苦労人にコンプレックスがあんねん」
 「え?」
 「所詮、ボクは恵まれすぎな人間の類やねん。結構裕福な家に生まれて、兄貴みたいに父親に束縛もされんかったし、母親は、法律に触れることやないんなら基本的に“忍さんのお好きにしなはれ”で通す人やったし―――兄貴は兄貴で、弟の面倒をよう見る、優しい人やったし。…ボクは、家族のことで苦しんだり悩んだりしたことなんて、一度もあれへん。せやから―――舞さんの傷も、イズミ君の傷も、分かってあげられる自信がないねん」
 「―――…」
 今度は、蕾夏が息を呑む番だった。

 『分かってる、仕方ないって。でも―――自信、なくなるの。瑞樹には、私より舞さんやイズミ君みたいな人の方がふさわしいんじゃないか、って』

 そっくり、同じ―――まるでコピーのように同じことを、つい先日、自分が瑞樹に吐露したばかりだ。
 恵まれすぎな、自分…家族に何の疑問も感じたことのない自分。そんな自分が、“家族が分からない”という瑞樹の気持ちを、どれだけ理解してあげられるのか。そんな気持ちは、今もあるし、一生消えない不安なのかもしれない。
 "猫柳"も、同じことで悩んでいたなんて―――なんだか、"猫柳"のことが、自分のことのように分かる気がした。

 「…バックボーンが対極にあるからって、それで“何も理解できない”なんてこと、ある訳ないだろ」
 暫しの沈黙の後、瑞樹が、少し投げやりな口調で言った。
 「それで言ったら、俺だってイズミの気持ちなんて分かってやれねぇよ。俺も途中から片親だけど、ガキの頃は両親揃った普通の家庭に育ってたんだから」
 ―――両親の揃った…普通の、家庭に。
 事実からははるかに遠い話に、ズキリ、と蕾夏の胸が痛んだ。けれど、それを表情に表せば、逆に瑞樹が傷つく気がする。蕾夏は、まるで何も感じなかったように、表情を繕った。
 「それでも、ボクよりは多少の苦労を積んでるやん。ホンマにボクは、何もないねん。ハルがいない穴を、ボクが代わりに埋めてやれるとは思えへんわ」
 そう言った"猫柳"は、大きなため息をひとつつくと、テーブルの上で広げた両手を、なんとなく見下ろした。
 「それなりに、大きな手やと思てたんやけど、な―――無力やなぁ、つくづく」
 「……」
 「イズミ君見とると、まだまだボクの手は小さすぎんなぁ、って、悲しなるわ。冗談や軽口で笑わしたり、ジープに乗せてドライブに連れてったる位が関の山や。一番欲しいもんは、ボクにはあげられへん」
 「…そんなこと、ないよ」
 何故か。
 蕾夏は何故か、瑞樹より早く、そう言葉を挟んでいた。ほとんど、無意識に。それは、もしかしたら―――"猫柳"のため、というより、自分のためだったのかもしれない。
 「だって、猫やんは、もう理解してあげてるじゃない、イズミ君のこと。イズミ君にとってのスペシャルが、どんなものなのかってことも―――それを諦めるのが、どれだけ苦しいか、ってことも」
 微かに笑った蕾夏は、少し驚いた顔をする"猫柳"や瑞樹を前に、そっと両手をテーブルの上に出して、"猫柳"がやったように、両手の手のひらを広げてみた。まるで、何かを受け止めようとするみたいに。
 「こんな小さな手でも…できることは、きっとある。猫やんの手は、もっと大きいじゃない。だから、小さすぎるなんてこと、絶対ないよ」
 「…そうかな」
 「うん。…だよね?」
 そうでしょう? という目で、瑞樹の方を見る。すると瑞樹は、すっと目を細め、滅多に見せない柔らかい笑みを見せた。

 どんな軌跡を辿ってきたかなんて、重要じゃない。
 同じ痛みを抱えていることなんて、重要じゃない。
 その人のために、痛みを覚える胸がある―――それがきっと、スペシャルであることの“しるし”。イズミのために、こんなにも胸を痛め、真剣に向き合っている"猫柳"が、イズミにとってのスペシャルではない筈がない。

 「イズミに、会ってくる」
 "猫柳"の方へと視線を移した瑞樹は、そう言って静かに微笑んだ。
 「イズミの本音、全部受け取ってくるから―――その後は、猫やんに任せていいよな?」
 それを聞いて、"猫柳"は安堵したように息を吐き出し、サングラスを取って満面の笑みを見せた。
 「当たり前やんか。任しときや」
 その笑顔を見た時―――ああ、これは“忍”の顔なんだな、と思い、蕾夏はふわりと微笑んだ。


***


 "猫柳"を宿まで見送った後、駅までの道をぶらぶら歩きながら、蕾夏は、隣を歩く瑞樹を見上げた。
 「―――ねぇ、瑞樹」
 「ん?」
 「さっきの写真、どうするの?」
 “さっきの写真”とは、さっき、瑞樹が撮った、"猫柳"の手の写真だ。
 胸の前で、何かを受け止めるように、上に向けて広げられた、大きな両手のひら―――話をする中で、"猫柳"が偶然したその手を、瑞樹は後になって、もう一度やってみてくれないか、と言って、同じポーズをとらせたのだ。
 同じ気持ちで、手のひらを見下ろしてくれないか、と言われて、"猫柳"は怪訝そうにしながらも、言われたとおりにした。その様子を、瑞樹は、いくつかの角度から撮影した。距離から考えるに、ほぼ両手のアップに近い写真と思われる。
 蕾夏を見下ろした瑞樹は、どことなく楽しげな笑みを浮かべた。
 「どうすると思う?」
 「…答えが分かってて訊くのは、フェアじゃないよ」
 「お前も、想像ついてんのに訊くのは、フェアじゃないんじゃねーの」
 「……」
 互いに口を噤んだ2人は、クスッと笑いあい、視線を前に戻した。
 「“想い”、だよね」
 「ああ―――上手く、撮れたかどうか、自信ねーけど」
 「撮れてたら、出すの?」
 「多分な」
 「もし出さなくても、さ。…イズミ君には、見せてあげてね」
 蕾夏がそう言うと、瑞樹はちょっとだけ蕾夏の方を見、ニッ、と笑ってみせてくれた。

 イズミを受け止めたくて差し出された、大きな両の手のひら。
 たとえ、写っているのが、ただの手のひらだったとしても―――イズミはきっと、分かってくれる。満たされていないイズミの心を満たそうと、迷い、悩み、不安を覚えながらも差し出された、その手のひらの意味を。その“想い”を。
 目の前にいる、その人が―――イズミにとって、特別な存在なんだということに。きっと気づいて、理解してくれる筈だ。

 ふと気づくと、瑞樹が手を取り、指を絡めてきていた。
 歩きながら手を繋ぐ、なんて、滅多にあることじゃないけれど―――なんだか今日は、蕾夏もそんな気分だ。一瞬、楽しげに細められた瑞樹の目に応えるように、蕾夏も笑みを浮かべて、手を握り返した。


 今、瑞樹を苛む悪夢が何なのか、まだ蕾夏は知らないけれど。
 夢の中で聞く、佐野のあの囁きを、まだ瑞樹に打ち明けることはできないのだけれど。

 口に出さずとも、抱きしめあうだけで眠りつける人は、あなただけ。
 こうして手を握りたいと思う人も、あなただけ。


 あなたの感じる痛みに、胸が、知らなかった痛みを覚える―――それが、特別な存在の“しるし”。


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