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― 晴れ時々悪魔 ―

 

 昔から瑞樹をよく知る人は、最近、瑞樹は随分変わった、とよく言う。
 たとえば久保田は、こんな風に言う。
 「お前、随分表情豊かになったよなぁ。昔は、喜怒哀楽がよく分かんねぇ奴だったけど、今は顔見りゃある程度分かるもんな。相変わらず語彙少ないけど、多少は喋るようになったし」
 そうかもしれない。瑞樹にはあまり自覚はないが、感じるものが多くなった分、反応も豊富になるのは当然だよな、とは思う。

 その一方で。

 「もーっ、成田さんてば、全然変わんないんだからぁ!」
 こう言う人もいる。
 今、雑踏の中をスタスタ歩く瑞樹に纏わりついて不満げにこのセリフを叫んでいるのは、ブレインコスモスの“成田撃墜隊長”、里谷である。
 「歩くの速いですよっ。少しはゆっくりにするとか、立ち止まるとか、相手のペースに合わせられないんですかぁ!?」
 「……」
 「あっ、待ち伏せしてたのを怒ってるんですか? でも、私だって怒ってるんですからねっ! もう、この前は成田さんのせいで散々だったんですからっ!」
 「……」
 「大体、酷過ぎますよっ。久々に再会した可愛い後輩を、だまし討ちするなんてっ!」
 「……」
 無表情なまま、ひたすら里谷を無視して歩いていた瑞樹は、その言葉に、ちょっとだけ片方の眉を上げた。
 ―――どこに“可愛い後輩”がいるって?
 思い切り突っ込みを入れたいところだが、面倒なので、やめた。里谷の言葉にいちいち突っ込むなんて、瑞樹にとっては、単なる“エネルギーの無駄遣い”なのだ。

 彼女がギャーギャー騒いでいるのは、今から1週間ほど前のことについて。
 その日、帰宅前に事務所に寄ろうと池袋駅前を歩いていた瑞樹は、路上で偶然にも、里谷に再会してしまったのだ。
 里谷は、それはもうしつこい程に、瑞樹の後をついて回った。飲みに行きましょう、お酒ダメなら食事でも、それもダメならお茶でもどうですか―――と、どこまでもどこまでもついて来たのだ。
 打ち合わせ後で疲れていた瑞樹は、ほとほと、うんざりした。
 だから、本来なら無視してやり過ごすだけで済ますところを、わざわざ立ち止まり、すぐ傍の路地の奥を指差して、里谷に告げたのだ。
 『…分かった。あの店でよければ、付き合ってやる』
 事務所に用事があるから先に行って待ってろ、という瑞樹の言葉を、里谷が疑ったのは、当然のことだ。
 しかし、半信半疑ながらも、言われた通り里谷は、一見洒落たバーに見えるその店に行ったのだが―――…。

 「よりによってホ…ホストクラブに放り込むなんてっ! あんまりですっ! 成田さん、知っててあの店指定したんでしょぉ!? おかげで散財しちゃったじゃないですかぁ!」
 どうしてくれるんだ、という勢いで苦言を呈する里谷に、瑞樹は初めてふっ、と皮肉めいた笑いを浮かべ、里谷を流し見た。
 「良かったな」
 「な…っ、何が、ですかっ」
 「散財するほど、いい思いしたんだろ」
 「―――…」
 顔を紅潮させ、金魚のように口をパクパクさせる里谷の顔には、“図星”の2文字が書いてあった。男にちやほやされるのが大好きな里谷のこと、ホストクラブでの様子など、見なくても簡単に想像がつこうというものだ。
 図星を指された里谷は、金魚状態から少し立ち直ると、ますます顔を紅潮させて、瑞樹に食ってかかった。
 「そ、そ、そ、それとこれとは、また別の話でしょお!? 散財しちゃった分、全部穴埋めしろとは言わないから、今日こそは飲みに連れてってくれなきゃ嫌ですっ」
 「……」
 「無視決め込んだってダメですよっ。今日という今日は、絶対、ぜったい、ぜぇぇったい逃がしませんからねっ!」
 ―――あー、うるせー。
 ただでさえ今日は、少々機嫌が悪いのだ。苛立ったようにため息をついた瑞樹は、とうとう足を止めた。
 歩道脇に立つポストに寄りかかり、腕組みした瑞樹は、うんざりしている目で里谷を見下ろして、ぶっきらぼうに言った。
 「100円」
 「はいっ?」
 「100円玉、持ってるか」
 前後の脈絡のない瑞樹の問いに、里谷はポカンとした顔をした。
 が、ハッと我に返ると、慌ててバッグの中から財布を取り出した。ちなみにそのバッグは、相変わらず、元カレの置き土産である“キーホルダーの外し方が分からない流行遅れなヴィトンのモノグラム”だ。あれだけこき下ろしておきながら、まだ使っているらしい。
 「あっ、ありましたー。500円分あります」
 「1枚貸せ」
 訳が分からないながらも、財布から100円玉を1枚取り出し、差し出された瑞樹の手の上に置く。受け取った瑞樹は、それを手の中で弄びながら、ニッと笑った。
 「表が出たら、付き合ってやる。裏が出たら、二度と付き纏うな。OK?」
 「えっ? え、えっと」
 「よく見てろよ」
 「ちょ、ちょっと、待っ…」
 言葉の意味を里谷が理解するよりも早く、瑞樹は、100円玉をポーン、と空に投げた。
 条件反射的に、里谷も、空に上がった100円玉を見上げた。
 かなり勢いよく上げたのか、100円玉は、夕闇迫る空に吸い込まれてしまったかのように、その行方がさっぱり見えなかった。里谷は、まだよく条件が飲み込めていないまま、呆気にとられた顔で、落ちてくる100円玉を待った。

 待って。
 待って。
 ひたすら待ったけれど。

 「…あのー…、落ちてこないんですけど―――」
 遅ればせながら瑞樹の方を見た里谷の呆けた顔が、次の瞬間、愕然としたものに変わった。

 ―――成田さん、いないじゃんっ!!
 100円玉はどうしたのよ―――って、ポストの上に置いてあるじゃないのーっ!!!

 わなわな震えながらポストの上にポツンと置かれた100円玉を見ると、ご丁寧に、裏面の“100”の文字を上にして置かれていた。
 「ああああああいかわらず、性格わるーーーい!!!!!」
 とっくにその場から遠く離れてしまった瑞樹に、里谷の怒りの声は、これっぽっちも届かなかった。

***

 「もしかして、機嫌悪い?」
 「…あんまり、良くはない」
 カクテルバーをローテーブルの上に置いた瑞樹は、はぁっ、とため息を一つつくと、ベッドの上にドサリと腰を下ろした。
 「どうしたの。仕事で何かあった?」
 「まぁな。遊びに来た奴がいきなりリブレット開いて悩み始めてるのも、不機嫌の一因だけどな」
 瑞樹がそう言って流し見ると、遊びに来ておきながら、ノートパソコンを前に頭を抱えている張本人である蕾夏は、ちょっと気まずそうに肩を落とした。
 「…ごめん。退社ギリギリまで悩んでたもんだから、引きずっちゃって」
 「記事か」
 「うん。と言っても、瀬谷さんからの頼まれモノなんだけど」
 瀬谷、という名前は、瑞樹も何度も耳にして知っている。“性格破綻気味になった辻さん”風の、嫌味なライターだ。
 「珍しいな。蕾夏に頼みごとしてくるなんて」
 「本当は読者さんに意見を募りたいものなんだけど、もう締め切りギリギリだから、私に回ってきたの。独立している立場の女性から、その長所短所について意見を述べて欲しいんだって。多分、瀬谷さんの交際範囲に、一人暮らししてる20代半ばの女の子がいなかったんじゃないかな」
 「ああ…例の、パラサイト・シングルの記事か」
 「そう。けどねぇ…記事の方向性としては、独立することに前向きな意見として載せたいらしいんだけど―――別に家を出るだけが全てな訳じゃない、って思ってるだけに、今ひとつ上手く書けなくて。で、思いついた時にすぐ書けるように、一応リブレットを待機させてる訳」
 テーブルの上のパソコンをぽん、と軽く叩いて、蕾夏はそう言って苦笑を漏らした。
 「なるほどな。しかし…あの雑誌、なんでも記事にするよな。変に浮ついてねーって線だけは保ってるけど」
 ベッドの端に放り出してある今月号の“A-Life”を一瞥し、瑞樹は、感心しているとも呆れているともつかない声で呟いた。
 今月号は、例のミニシアターの記事が載っている号だ。表紙には、瑞樹が撮った写真が使われている。発売は明後日の筈だが、昨日送られてきた。蕾夏が今日来ているのも、2人にとっては初の本格的な合作記事を、さっそく一緒に見るためだ。
 こんな風に、雑誌記事に関わる写真を撮ると、その本誌が送られてくる。なので、帰国以来、瑞樹の部屋には、本来なら瑞樹の趣味ではない“A-Life”や“I:M”といった情報誌が増えつつあるのだ。

 ―――“I:M”、なぁ…。
 もう1つの契約先を思い出して、また、気分が憂鬱になった。

 「瑞樹?」
 蕾夏の訝しげな声に、我に返る。
 いつの間にか、ぼんやり考え事をしていたらしい。見れば、いつの間に手に取ったのか、“A-Life”を持った蕾夏が、怪訝そうに首を傾げて立っていた。
 「大丈夫?」
 「…ああ、悪い」
 「仕事で瑞樹がそこまで落ち込むって、珍しくない?」
 確かに、珍しいだろう。と言っても、落ち込んでるというよりも、憤っているのに近いのだけれど。
 「話してみてよ。何があったの?」
 ストン、と瑞樹の隣に腰を下ろした蕾夏は、手にしていた“A-Life”をローテーブルに置いて、脚を組んだ。
 「…話すほどのことじゃねーよ」
 「うーそーだ。顔に“聞いて下さい”って書いてあるもん」
 「どこにだよ。鏡貸してみろ」
 「鏡ならここにあるでしょ」
 そう言うと、蕾夏は自分の顔を指差し、にこっと笑った。
 「“聞かせていただきます”って顔、してない?」
 「―――…降参」
 大きく息を吐き出した瑞樹は、疲れたように、ベッドに倒れ込んだ。確かに―――蕾夏に聞いて欲しかった部分は、かなりある。まだ迷ってはいるけれど…いや、迷っているからこそ、尚更。
 天井を見つめて、額にかかった前髪を掻き上げる。そのまま、暫しじっと天井を見つめ続けた後―――瑞樹は、やっと蕾夏の方に目を向けた。
 「―――俺、今年一杯で、“I:M”の契約、切られるかもしれない」
 「……」
 予想だにしない内容に、蕾夏の目が、丸くなった。


***


 時田は、拠点をイギリスに移すにあたり、雑誌関係の仕事は“フォト・ファインダー”以外は大半を清算してしまった。その中で、辛うじて残ったのが、“A-Life”と“I:M”の2誌だった。
 血縁関係があるので切りにくかった“A-Life”と違い、“I:M”には時田の関係者は含まれていない。つまり、義理人情の問題で残したのではない。
 時田が、あえてそこを残して瑞樹に譲った理由は、ただ1つ―――経験のためだった。
 “A-Life”は、主に女性向けの情報誌だが、“I:M”のターゲット層は、主に独身男性―――カテゴリーとしては、男性誌に属している。“A-Life”で「スキルアップに繋がるカルチャー・スクール特集」なんてものをやっている時、“I:M”では「ビジネスマンに人気のPDAの徹底比較」をやってたりする訳だ。
 表紙は毎回、時計や鞄といった“物撮り”と決まっていて、時田はその撮影を受け持っていた。だから、本来なら、その後を引き継ぐ瑞樹も“物撮り”を受け持つのが筋だろう。
 ところが、実際の仕事に入ってみると、その予想は大きく覆された。
 時田が瑞樹にバトンタッチする少し前、“I:M”の中心的な役割を担っていたカメラマンが、トラブルを起こして契約解除になった。契約しているカメラマンは、時田を含め4名ほどいたのだが、その核となる1人が欠けてしまったのだ。
 当然、現場は混乱した。残り3名でカバーしようにも、時田はビッグネーム過ぎる上に大半がイギリスで生活しているので、使い勝手が悪い。なにせ写真が紙面の大半を占めるような雑誌だ。残る2名にかかる負担は、かなりのものだった。
 そのタイミングで、瑞樹という新人カメラマンが、大御所・時田の代わりとして現れた訳だ。
 “I:M”の連中が、これは好都合、とほくそえんだのも無理はない。そして、そうなることは、時田も分かっていたのに違いない。
 結果―――瑞樹は、表紙だけどころか、記事の細々した写真やら何やら、俺は専属じゃないんだぞ、と言いたくなるほど、いいようにこき使われる羽目になった。蕾夏が“I:M”の仕事を「あそこの仕事、ハードだから大変だね」と言うのも、無理からぬことだった。

 まあ、それは別に、問題はない。
 「得手不得手も、成田君はまだ見極められる段階じゃないだろう? 大変だろうとは思うけど、1枚でも多くの写真を撮って、君のフィールドを見つけることだよ」
 時田のその言葉も、よく分かる。それに瑞樹は、写真を撮ること自体は、さして苦にならない。単価の高い広告写真を1つ撮った方が効率がいいのは分かっているが、物を撮ったり店を取材したり、と目まぐるしい“I:M”の仕事も、金には変えられない意義がある、と思っていた。
 そう。“思っていた”。過去形だ。


 「グラビアをお願いしたいんですよ」
 と“I:M”の編集担当から言われたのは、1週間ほど前―――例の、里谷と再会してしまった、あの日の打ち合わせの席だった。
 “I:M”の中に、女性タレントやモデルを使ったグラビア写真があるのは、瑞樹も知っていた。毎回送られてくる“I:M”の中に、そういうカラーページが4ページほど、必ずあったから。
 過激なものではないが、男性誌だけのことはあって、水着を着てたり、際どい服を着ていたり…つまり、どれもセクシー路線だった。
 「ポートレート写真は、あまり得意じゃないんですが」
 あんなの撮れるかよ、という本音を一応オブラートで包み、瑞樹はそう言ってやんわり拒否した。がしかし、相手は諦めなかった。
 「大丈夫大丈夫、成田さんが撮った人物写真は、一応全部目を通してますから! 得意じゃないなんて嘘でしょう? どれもよく撮れてるじゃないですか!」
 ―――いや、それは、ポートレートとしての写真じゃねーだろ。
 広告写真も、雑誌の表紙も、確かに人物が入ってはいるが、それはあくまで、1枚の絵を構成する物体のひとつとして、人間も存在しているだけ。写しているのは、人物であって人物ではない。
 けれど、グラビア写真は、そうはいかない。被写体である女性の魅力のみを―――出来れば、男性が喜ぶような魅力のみを―――写し取る作業だ。
 母に植え付けられたトラウマは、かなり克服できたと思う。けれど…人間のみに対峙してカメラを構える、というのは、想像するだけでかなり苦痛だ。一体何が写るんだか―――そんな不安を、本能的に覚えてしまう。
 「相手は、まだ18歳とはいえ、プロですよ。誰が撮っても同じですって。それに、うちは大衆紙と違って、下品な写真は載せませんからね。女性のグラビアとはいえ、芸術と考えてくださっていいんです。撮ったからって、成田さんの損になることはないですよ。ね? お願いしますよ」
 再三、ノーを言い続けた。けれど…結局、瑞樹は断りきれなかった。
 「…どうなっても知らないですよ」
 念のため、他のカメラマンにも当たっといて下さい、と念を押したが、“I:M”がそんな手配をしている様子は微塵もなかった。


 そして、昨日。撮影当日。
 現れたのは、瑞樹も何度か目にしたことがある、最近人気が出始めたグラビアアイドルだった。
 やっぱり、断ればよかった―――心底、そう思った。何故なら、瑞樹は彼女のようなタイプが、最高に苦手なのだから。
 瑞樹が知る彼女は、いつも挑発的な視線をしている。自分のスタイルの良さをアピールするようなポーズは、まだ10代とは思えないほどさまになっている。そうした彼女のグラビア写真は、瑞樹の目にはあざと過ぎる、と映っていた。
 「よろしくお願いしまぁす」
 想像通り、鼻にかかったような甘ったるい声と態度で挨拶され、げんなりした。げんなりしてる状態で、彼女を魅力的になんて撮れる訳がない。この仕事、失敗だな、と即座に思った。
 が、しかし。
 事態は、意外な方向へと進んだ。

 セット組みの最中、ショートパンツにホルターネックのブラ、というありがちな格好に着替えた彼女は、暇そうに辺りをぶらぶらしていた。
 照明位置などを指示しながら、見るともなくその様子を見ていた瑞樹は、彼女の意外な表情を目撃してしまったのだ。
 疲れたようにため息をつき、テキパキと作業するスタジオマンを、ぼんやりと眺める姿―――その表情は、なんだか、迷子になった子供が親を探すのを諦めてしまったみたいな顔に見えた。
 それを見て、なんとなく直感した。
 ああ、あの子は、日頃から演技をすることに慣れてるんだな、と。
 試し撮りのポラロイドカメラを、そんな素に戻った彼女に向け、おもむろにシャッターを切った。
 まばゆいフラッシュに驚いて、彼女はビックリ顔で瑞樹の方を振り向いた。そして、今の顔を撮られたことに気づいた途端、ギョッとしたように目を見開いた。
 別に瑞樹は、何も言わなかった。けれど―――ポラロイドで撮った写真が浮かび上がってきたところで、はい、と彼女に渡したら、どう取り繕おう、と焦った顔をしていた彼女は、その写真を見て、表情を和らげた。
 「…やだな。あたし、こんな顔してたんですか」
 くすっ、と笑った彼女は、写真を胸に押し当てると、瑞樹を仰ぎ見た。
 「もしかしてカメラマンさん、あたしのグラビア写真、キライですか?」
 「正直、かなり」
 「―――良かった」
 18歳らしい、はにかんだような笑みを見せ、彼女は、内緒ですよ、と言いながらこう漏らした。
 「あたしも、キライなんです。でも、誰も分かってくれなくて。…カメラマンさん、優しい人なんですね」

 その日の撮影で、ファインダーの向こうにいる彼女は、常にナチュラルな笑みを浮かべていた。
 弾けるような、ちょっと子供っぽい笑顔でポーズをとる彼女は、セクシー、というよりも、茶目っ気のある元気な女の子に見えた。


 撮影自体は、上手くいったと思う。
 モデルの最大限の魅力を引き出し、その本質を写し取る―――できた、と思う。少なくとも、現場の人間は、瑞樹も、彼女も、助手をしてくれたスタジオマンも、納得した撮影だった。
 しかし、今日。“I:M”の編集部に呼ばれた瑞樹は、もの凄く渋い顔をした編集者と対峙する羽目になった。

 「困るんですよね」
 眉間に皺を寄せた担当者は、現像したばかりの写真をトントン、と指先で叩いた。
 「事務所側からクレーム来ちゃいますよ。これじゃあ別人です」
 だから他のカメラマンにしてくれと言ったのに―――という苦言が通らないのは、分かりきったことだ。
 「この子にも“売り”の路線があるでしょ? こんな健全路線を押し出したら、迷惑するのは彼女の方ですよ。急遽、撮り直して下さい」
 「…撮り直しても、それよりいい写真は撮れません」
 瑞樹のその言葉に対する編集者の返事は、耳を疑うようなものだった。
 「うちは、いい写真が欲しい訳じゃないんです。構いませんから、撮り直して下さい」

 “いい写真が欲しい訳じゃない”。
 だったらお前が撮れ、と言いたくなるのを、瑞樹は理性で押し留めた。

 腹が立った。
 せっかくの素材を粗悪な化粧で飾り立てて売ろうとしている業界にも、無理だと言うのにごり押ししようとする編集者にも、腹が立った。
 けれど、一番腹が立ったのは―――半年間、それだけを叩き込まれてきたというのに、ポートレートに関してだけは職人に徹することのできない、自分自身だった。


***


 「…で、どうしたの?」
 「―――時田事務所のメンバーに、グラビアが得意なのが1人、いるから。今日のうちに連絡取って、撮り直しを頼んだ」
 「てことは、仕事を譲っちゃったの?」
 「そういうことになる」
 「ふーん…」
 神妙な面持ちで話を聞いていた蕾夏は、なるほどねぇ、という風に何度か頷いた。
 新人の癖に、これだけ頑なな態度に出たのだ。それに、あのグラビアアイドルが、作ったキャラより素の方が断然絵になる、という点も、結局作ったキャラで売り続けるという戦略が組まれてしまっている以上、主張するだけ虚しい意見だ。今回の件で、“I:M”が瑞樹を切ったとしても、おかしな話ではない。求められる写真を撮らなかったのだから。
 その辺りは、同じようなジレンマをライターとして経験した蕾夏だから、すぐに理解できただろう。しかし―――…。
 「まあ、仕方ないよね」
 あっさり蕾夏はそう言い、瑞樹に微かな笑みを返した。
 意外な反応に、瑞樹は眉をひそめ、僅かに上半身を起こした。
 「仕方ない、って―――切られたら、時田さんの顔潰すことになるだろ。それに、時田さんに言われたことが実践できなかったんだぜ、俺」
 「でも瑞樹は、最初にちゃんと断ったじゃない。自分以外の人にしてくれ、って。それをごり押ししたのは、“I:M”の方でしょ?」
 「……」
 「うちもね、瀬谷さんと私で、担当する記事のジャンルを大まかに分けることにしてるんだ。瀬谷さんは、検証ものや社会情勢物に強いし、それにマッチする文章書く人だから、そういうの担当。私は例のミニシアターみたいに、サブカルチャーものを担当して欲しい、って、編集長から言われたの。そういう、適性を見抜いて仕事を割り振るのも、編集の能力の一つなんじゃないかな。相手が能力不足なんだから、仕方ないよ」
 「…ま、確かに」
 「それに、時田さんに言われたことが実践できなかったのも、仕方ないと思う」
 そう言った蕾夏は、より真剣な眼差しになると、ベッドに手を突いて瑞樹の方に少しにじり寄った。
 「だって、瑞樹の目は、特別だもん」
 「特別?」
 「ファインダーを覗いた時、瑞樹の目は、どんな仮面被った人でも、その本性みたいなものが見えちゃうんだもの。…だからこそ、お母さんの写真撮った時、苦しんだんだし」
 瑞樹の目が、一瞬、グラリと揺らいだ。
 それに気づいた蕾夏は、安心させるように、再度微笑を返した。その傷に、深く触れるつもりはない―――そう言うように。
 「そういう、凄い目を持ってるのに、目を瞑って撮るのは、やっぱり無理だよ。だから、仕方ないと思う」
 「……」
 「時田さんも、事情説明すれば分かってくれるよ、きっと。だって、ロンドンで同じ事をもう経験済みじゃない。奏君のポスターで」
 「…ああ」
 あの時は、サラ・ヴィットという確かな目を持ったクライアントがいたから、あの写真は日の目を見ることができた。が…そうでなかったら、今回同様、没を食らってカメラマン交代となっていた筈だ。そうした経緯は、時田も十分、知っている。

 この先、“I:M”がどう出るか、それは分からないけれど。
 一つだけ、確かなこと―――それは、あの被写体を、あれ以上魅力的には、瑞樹には撮れない、ということ。たとえ切られたとしても、あの撮影自体には何ら悔いはない、ということだ。
 拒んでもなお、瑞樹に依頼したのは、向こうのミスだ。
 そして、そのフォローを、自分はできなかった。仕方ない―――どんな結果が出ようと、憤りはするかもしれないが、後悔はしないと、はっきり断言できる。

 「―――お前って、俺の頭ん中整理させんの、上手いよな」
 ちょっと笑って瑞樹が言うと、蕾夏もちょっと笑い、答えた。
 「瑞樹もそうだよ。瑞樹は、いつも優しくて、ごちゃごちゃになってた頭をクリアにしてくれるもの」
 「優しい? 俺が?」
 冗談だろ、という顔を瑞樹がすると、蕾夏はきっぱりと言い切った。
 「本当だよ。そりゃ、倉木さんとか牧野さんみたいな人には、悪魔とかサディストとか言われちゃう位、容赦ない態度に出ちゃうけど―――優しくすべき人には、ちゃんと優しくできる人だもの」
 「…もしそうだとしても、それはお前の影響だろ」
 「ううん。電話だけの付き合いだった頃から、そうだったよ。言ったこと、あったでしょ? 女に冷たい人だと思ったけど、認識、改まった、って」
 そう言えば、そんなこともあったっけ―――携帯電話の中の存在だった蕾夏に対して、激しい対抗意識を燃やしていた会社の後輩に、ピリオドを打たせた時。
 「あの頃から瑞樹、本質的には何も変わってないよ。…瑞樹は、人の痛みを知ってる人だから、本当に苦しんでる人や、本当に寂しがっている人には、優しく接することができるんだと思う。さっきの話のモデルさんが、瑞樹に“優しい人なんですね”って言ったのも、納得いく―――きっと彼女、不本意なキャラクターで売られて、とても疲れてたんだと思うよ。それを瑞樹に気づいてもらえて、嬉しかったんだと思う」
 「…言われ慣れねーこと言われ過ぎると、どうしていいか、困るよな」
 バツが悪そうにそう呟き、瑞樹は視線を逸らした。

 優しい、なんて、蕾夏と出会うまで言われたことなど、ほとんどなかった。今だって、自分が優しい人間とは、到底思えない。
 …それに。
 優しい人間が―――あんな夢を見るとは、思えない。

 思い出しそうになって、背筋がゾクリとした。一瞬、身震いしかけた瑞樹は、それを誤魔化すように、浮かしていた上半身をベッドに勢い良く沈めた。
 大きく息を吐き出した瑞樹は、その段になって、蕾夏が微妙な表情で瑞樹を見つめているのに気づいた。
 「? どうした」
 「え?」
 「なんで、そんな複雑な顔してんだよ」
 「えっ、そんな顔、してた?」
 「してた。“こんなこと、言いたくないな、でも黙ってるのも気持ち悪いな”って、顔に書いてある」
 「書いてないよっ。鏡見せてよ」
 「“いいから言ってみろ”って、書いてあるだろ」
 瑞樹が自分の顔を指差して、ニヤリ、と笑う。さっきのやりとりそのままを返されて、蕾夏は観念したようにガクリと肩を落とした。
 「…分かりました。降参です」
 「じゃあ、言え」
 「―――大したことじゃないよ。ただ、さ。…さっきの話のモデルさんもそうだけど、よく考えたら、この業界って、瑞樹みたいな優しさを必要としてる人が、結構多いんじゃないかな、って」
 「は?」
 なんだそりゃ、という風に瑞樹が目を丸くすると、蕾夏はちょっと顔を赤らめ、拗ねたようにそっぽを向いた。
 「だ、だからっ! 無理して生きてる人、結構多い世界でしょ? モデルさんとか、タレントさんとか。そういう人にとって、瑞樹の優しさって、結構罪作りかもなー、とか、色々と…」
 「色々と?」
 「…色々と」
 「…色々と、ね」
 ふっ、と笑った瑞樹は、蕾夏の方に手を伸ばし、その腕を掴んで引いた。
 「っ、きゃああっ!」
 ふいを突かれた蕾夏は、あっさり引き倒された。瑞樹は、びっくりして目を丸くしている蕾夏をあっという間に組み敷くと、楽しげな笑みを浮かべた。
 「そうやって、妙な妬き方してるお前って、結構面白い」
 「お…面白くないよっ! それに妬いてなんかいないもんっ! た、ただ、また瑞樹が女の人に付き纏われて迷惑するんだろうな、って、私は心配を…」
 そういう心配が妬いてる証拠なんだよ、と思いながらも、瑞樹はあえてそれを口にはしなかった。ただ、顔を赤らめて必死に弁解している蕾夏の様子が面白くて仕方ない。
 「心配ご無用。付き纏われても、無視するだけのことだし」
 「……」
 「それに―――俺が欲しい優しさは、お前しか持ってないし」
 ほんの少し、唇を重ね、すぐに離した。
 拗ねたような蕾夏の目が、動揺したように僅かに揺れる。その目を見たら、からかうだけのつもりだったのに―――何かのスイッチが入ってしまった気がした。
 「でも、まあ、そうやって時々拗ねるのは、惚れられてる実感あって、大歓迎」
 「…っ、何それ…っ」
 小さく笑いながら、頬から耳元に唇を滑らせたら、ふざけ返そうとした蕾夏が、少し息を呑む。
 「―――俺が多少、優しい人間になったところで、お前しか要らないのは、変わんねーし」
 「…うん」
 「誰撮っても、お前以上に撮りたくなる奴なんて、いないから」
 「…うん…」

 今日は、こういうつもりはなかったのだけれど。
 というか、同窓会以来、あまりこういう真似はしないよう、自制してきたのだけれど―――まあ、いいか。
 素直に瑞樹の背中に腕を回す蕾夏の様子に、瑞樹がそう思いかけた、次の瞬間。

 「―――あ!!!!!!」
 「うわっ!」
 耳元で、大音量の「あ」が、耳鳴りを伴って響いた。痛みさえ感じるその大声に、瑞樹は思わず、耳を押さえて体を引いた。
 突如、瑞樹の体を押しのけてガバッ、と起き上がった蕾夏は、乱れ始めていた服も直さず、慌ててベッドを降りた。
 「そーかぁ! そーだよ、そう書けばいいんじゃんっ!」
 自分ひとりで納得モードに入った蕾夏は、ジンジン痛みを訴える耳を押さえて、半分涙目になっている瑞樹なんて目に入っていない様子で、待機させておいたノートパソコンの前に座り込んだ。
 「やだなぁ、私ってば何でこんなことで悩んでたんだろう。今日1日の苦労が馬鹿みたい」
 「……」
 ―――馬鹿みたいなのは、俺だろ。
 っつーか、お前、こういう場面で、一体何考えてんだ?
 快調なキータッチで、どんどん文章を綴り始めてしまう蕾夏の背中を見下ろして、瑞樹は心の中で、そうひとりごちた。勿論、蕾夏は、そんな瑞樹に気づいている筈もなく―――というより、瑞樹の存在自体忘れてしまったみたいに、熱心にキーを叩いている。

 滅茶苦茶、その気になってるこの状態を、どうしてくれる。
 やたら軽快なキータッチの音を聞いていると、蕾夏に対しては決して目覚めない筈の、ブラック・モードな自分が、ふつふつと湧き上がってくるのを感じた。


 そして、5分後。

 「―――はー…、こんなもんかなぁ」
 ある程度、思いついた文章を吐き出し終えたのだろう。蕾夏は、満足そうな声でそう言うと、まだ書きかけの文書をセーブした。
 こういう事があるから、いつ何時も、メモする手段が手放せないのだ。パソコン立ち上げといて良かった、と一人微笑んだ蕾夏は、ホッと一息ついて、よいしょ、と立ち上がった。
 「ごめんねー、瑞樹。突然、文章の神様が降臨してきたみたいで―――…」
 にこやかに笑いながら振り返り、そう言いかけた蕾夏だったが。
 次の瞬間、そのまま、固まった。
 「―――…」
 ベッドの上、壁に寄りかかってあぐらを組んでいる瑞樹は、目が据わっていた。
 笑顔が引きつる蕾夏を見上げ―――その口元に、不吉極まりない笑みが浮かぶ。
 「覚悟は出来てるよな?」
 「……」

 ―――ま…まずかった…、かな。

 この後、どうなるのか―――それを想像して、蕾夏は初めて、パソコンを立ち上げておいたことを後悔した。


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