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― Get Up!!―

 

 ―――だ…だるぅ…。
 エレベーターを降りた蕾夏は、壁に手をつき、ぐったりと頭をその壁に預けた。
 今日は、朝から直接取材先巡りだった。睡眠不足、アンド、取材疲れ―――全身が水を吸ったスポンジみたいに重い。
 失敗したなぁ、と、昨晩のことを思い出して、また後悔が襲ってくる。どうも自分は、ひらめいてしまうと、周囲の状況が見えなくなってしまう傾向があるらしい。あれでは、誰だって怒るだろう。瑞樹がキレてしまったのを、咎める訳にはいかない。
 いかないけれど。
 ―――だからって、あんまりだと思う。
 「あら、藤井さん。お帰りなさい」
 ちょうど編集部から出てきた津川が、ぐったりしている蕾夏に気づき、声を掛けてきた。
 「…あ、お疲れさまです」
 「どうしたの。随分と疲れてるみたいね。そんなにハードな取材だった?」
 「あははは、まあ、色々と」
 力ない笑いを返した蕾夏だったが、ふと、そこに立つ津川の様子がいつもと微妙に違うのを感じ、不審げに眉をひそめた。
 「―――あの、何かあったんですか?」
 妙に緊張感を伴っている津川に、思わずそう訊ねる。すると津川は、苦い表情をして、ガラス張りのドアの内側を親指で指差した。
 「編集長が、ぷっつんきちゃったの」
 「えっ。何かトラブルですか」
 「ほら、来年の1月号で、今掲載してる連載小説が終わるでしょ? あの件で」
 「でも…次の連載、もう頼んであるんですよね?」
 確かにそう聞いた。蕾夏は読んだことのない作家だが、そこそこ知名度のある、若い女性に人気のある作家だったような気がする。
 「決まったと思ってたんだけどね。担当が、100パーセントじゃないのに、決まったようなつもりでいたらしいの。で、今は書き下ろしに専念したいのでお断りします、の一言で、振り出しに戻る」
 「…うわー…」
 「編集長、マイナスポイントを報告しないのを一番嫌うから。久々に聞いたわ、編集長の怒鳴り声」
 あの温厚な編集長が―――想像がつかない。が、複数の社員から「編集長が怒るとオソロシイよ」と散々聞かされているので、相当な雷が落ちたんだろうな、とは思う。ドアの向こうは、焼け野原になってるのではないだろうか。少々心配だ。
 「担当、内村さんだから、暫くそっとしといてやってね」
 「はあ…」
 ぽん、と蕾夏の肩を叩いた津川は、資料室にでも用事があるのか、エレベーターの中へと消えてしまった。
 ―――穴が開いちゃった連載がどうなるのか、詳しいこと聞きたかったのになぁ。
 でも、決まっていれば、何か言った筈だ。つまりは、まだピンチヒッターが決まらず、編集部内はピリピリしたまま、ということなのだろう。ちょっと憂鬱な気分になりつつ、蕾夏は編集部の扉を開けた。

 案の定、編集部は、いつもより静まり返っていた。
 編集長の様子が一番気になり、蕾夏は、編集長の席に視線を走らせた。しかし、編集長は、難しい顔で書類を睨んでいるだけだったので、その怒りの度合いまでは窺い知れなかった。
 「ただいま戻りましたー…」
 どうしても、控えめな声になってしまう。入り口付近の2、3人が、顔を上げて目だけの挨拶をしてきたが、何とも言えないこの空気が少しでも和らぐような様子は全くない。
 この広い編集部全体が、これだけ緊張したムードになるのだから、編集長の激怒振りは相当なものだったに違いない。見たかったような―――見なくて幸いだったような、微妙な気分だ。まあ、一緒に緊張しても仕方ない。蕾夏は、バッグのストラップを肩に掛け直し、本日最初の目的の人物であるところの瀬谷の姿を探した。
 瀬谷の席に目をやると、ちょうど瀬谷は席を立って歩き出したところだった。
 「瀬谷さん」
 蕾夏が声を掛けると、足を止め、蕾夏の方を見た。何か重要な用事でもあるのか、呼び止められるのは迷惑だ、という風な、苛立った表情をしている。蕾夏は、慌てて瀬谷の所へと駆け寄った。
 「あの、頼まれてた意見文ですけど…」
 「ああ。出来た?」
 「いえ…まだなんです」
 正直に蕾夏が言うと、瀬谷は、眼鏡の向こうの目を陰険に細めた。
 「今日が提出期限だよ」
 「瀬谷さんの退社時刻までには仕上げますから、少し待ってもらえますか?」
 「…19時だから」
 ため息混じりにそう宣言した瀬谷は、蕾夏の返事も待たずに歩き去った。その性急すぎる態度に、「分かりました」と言いかけた蕾夏も、ちょっと眉をひそめて言葉を飲み込んだ。
 よほど急ぎの用事かな、と、その背中を見送る。が、瀬谷が向かった先が編集長の席だと分かると、蕾夏の背中に冷や汗が伝った。
 ―――ま、まずかったかな。呼び止めたりして。
 でも、さっさと来なかったからといって、瀬谷が編集長に怒られているような様子はない。それを確認して、ひとまずホッとした。
 どうも今日は、いろんな意味でついてない気がする。早いとこ、昨日書けなかった分を書いた方が良さそうだな…と思ったその時―――覚えのある香りが、蕾夏の鼻先をくすぐった。
 「藤井さん」
 はっとして振り向くと、その香りの持ち主が、晴れやかな笑みを浮かべて立っていた。そう、このシャネルの5番を愛用する人物―――白石だ。
 「あ、お疲れ様です。納稿ですか?」
 「ええ。でも、今日が最後よ」
 「え?」
 「今年分で私、契約が切れるの。更新もしないつもりだから、今日が最後。今さっき、編集長さんに挨拶してきたところなの」
 ちょっと意外な話に、蕾夏は目を丸くした。
 白石は、数多くいる外部ライターの中でも、とりわけ“A-Life”とは長い付き合いをしているライターだと聞いている。瀬谷がここに引き抜かれた時からだと言うから、かれこれ5年近いのではないだろうか。ライターの入れ替わりは確かに激しいが、そんなベテランの白石がいきなり辞めるなんて、全然予想していなかった。
 「なんでまた…」
 「んー、色々あってね。それに、そろそろ本格的に結婚のことも考えないといけないし」
 「えっ、結婚するんですか」
 蕾夏が目を見開くと、その裏にある意味を察したのか、白石はくすっと笑い、小さく首を振った。
 「違うわよ。お見合いをするつもりなの」
 「お見合い…」
 「自由恋愛を楽しむには、少々厳しい年齢になってきたってこと。自分だけはそういう気は起きないだろうと思ってたのにねぇ」
 「……」
 ―――そ…っか。
 なんとなく、瀬谷と白石がどういう関係だったか、おぼろげながら分かった気がする。それと仕事は別問題でしょう、という気持ちもあるが、白石が別人に生まれ変わりたがっているのは、理解できなくもない。
 「まあ、そういうことだから。藤井さんとも、今日でお別れね。あの皮肉屋と一緒に仕事していくのはきついと思うけど、頑張って」
 「あ…あはは、が、頑張ります」
 妙にサバサバした笑顔でそう言う白石に、蕾夏が引きつり気味の笑顔でそう答えた、その直後。
 「白石さん」
 突如、瀬谷の硬い声が、蕾夏の背後から聞えた。
 驚いて振り向くと、いつの間に編集長の用事が終わったのか、酷く厳しい顔をした瀬谷が立っていた。が、その目は、蕾夏などいないみたいに、白石の笑顔にだけ向けられている。常にクールな瀬谷にしては珍しいほどに、怒りと憤りを顕わにして。
 「あら、瀬谷君。お疲れ様」
 一方の白石は、余裕の笑みを返している。“瀬谷君”という呼び名に最大限の皮肉を込めているらしいが、瀬谷は硬い表情を崩さず、更に詰め寄った。
 「どういうつもりだ?」
 「どういうつもりって?」
 「とぼけるんじゃない。一体何考えてるんだ」
 「おや。そんなに顔色変えることかしら。私はただ、編集長さんが困ってらっしゃったから、助け舟を出してあげただけよ?」
 この場に自分がいていいんだろうか、とそわそわしていた蕾夏だったが、“編集長”の一言に、思わずその場に留まった。痴話喧嘩ではなく、どうやら仕事のことらしい、と分かったから。
 「それに、私、嘘はひとつも言ってないわよ? 彼女があなたの後輩なのは本当だし、あなたが頼めば、どんなにきつい連載だって、彼女なら喜んで引き受けるでしょ。…というより…どんな仕事でも、イエスと言うしかないわよね。彼女、あなたには返しても返しきれないほどの“借り”があるんだから」
 「馬鹿なことを…」
 「馬鹿なのは、私じゃなく、瀬谷君なんじゃないの」
 白石の目が、険しくなった。
 「言っておくけど、別に、あなたへの仕返しのつもりで蘇芳せなの名前を出した訳じゃないわ。連載が滞りそうで困ってる人がいた、その穴を埋められそうな作家を知っていた、その作家に連載を引き受けさせる方法も知っていた。だから、蘇芳せなを推しただけ。瀬谷君もこういうドライで合理的な考え方は大好きでしょう? 何動揺してるのよ。馬鹿みたい」
 “蘇芳せな”。
 よく知っている名前だ。つい先日まで読んでいた本の作者―――今も、その本がバッグの中に入っている。それに…この本を目にした時の瀬谷の様子がちょっと不自然だったことも、よく覚えている。
 「ちっぽけなプライドに囚われたまんま、一体何年不貞腐れて生き続ける気? いい加減、目を覚ましなさいよ」
 「―――君にだけは言われたくないね」
 憎しみさえこもってそうな声で低くそう言うと、瀬谷はふいと顔を背けた。
 「せ…瀬谷さんっ」
 思わず呼び止めた蕾夏だったが、瀬谷はそれにも気づかない様子で、苛立った様子で編集部を出て行ってしまった。その、常にない感情的な後姿に、蕾夏は不吉なものを感じて眉を寄せた。
 「…馬鹿な男」
 腕組みをした白石は、ガラス張りの扉の向こうへ消えた瀬谷の背中に、苦々しい表情でそうポツリと呟いた。
 「男だけじゃなく、女だって下心なしに優しくなんてする訳ないのに―――半端な人間気取るには、真面目すぎるってのよ」
 「…白石さん…」
 蕾夏が困惑した目を向けると、白石もその視線に気づいて、苦笑いを蕾夏に向けた。
 「連載小説、穴が開きかけてたんでしょう? 編集長さんが困ってたから、それなら蘇芳せなに頼んでみたらいいんじゃないか、って進言したのよ。瀬谷君の大学時代の後輩だから、彼が頼めば快く引き受けてくれると思うから、って」
 「…後輩、だったんですか」
 「それだけじゃないけどね」
 「……」
 「知りたい?」
 教えてあげようか、という目でそう言う白石に、蕾夏は、一度きつく口を引き結び、きっぱりと言い放った。
 「いいえ。瀬谷さんのことなら、瀬谷さん本人以外から聞く気はないです」
 「―――何それ。私が嘘を言うとでも思ってるの?」
 「いえ。…心に負った傷について語る資格があるのは、傷を負っている本人だけだ、と思ってるだけです」
 「……」
 視線を、白石の背後の編集部全体に軽く走らせる。幸い、今の瀬谷や白石のやりとりに気づいている人物はいなそうだ。
 「…失礼します」
 返す言葉を失っている白石にぺこり、と頭を下げると、蕾夏は編集部を後にした。

***

 初めて足を踏み入れたこのビルの屋上は、思ったよりも広く、殺風景だった。
 ぐるりと辺りを見渡すと、大きな空調機の屋外機とフェンスの隙間から、瀬谷のスーツと同じ色が見えた。どうやら、屋外機の向こう側にいるらしい。一度、深く息を吸い込むと、蕾夏は足を踏み出した。
 「瀬谷さん」
 屋外機の向こうを覗き込んで蕾夏が声を掛けると、屋外機に寄りかかっていた瀬谷は、びっくりしたように蕾夏の方を見た。
 「藤井…」
 「…来ちゃいました」
 悪戯が見つかった時みたいな笑みを見せ、蕾夏は、瀬谷から少し離れた場所に寄りかかった。
 本当に邪魔ならば、追い払う筈だ。が、瀬谷は迷惑そうな目つきで蕾夏の横顔を見ただけで、特に何も言わなかった。追って来たのは間違いではなかったらしいと察し、蕾夏はほっと息をついた。
 「あんな口論見せられた後じゃ、白石さんと一緒に居づらいですよ」
 「―――聞いたのか、白石さんから」
 「いえ。ただ―――蘇芳せなが瀬谷さんの後輩だってことと、連載の話をドタキャンした作家さんの代わりにどうか、って白石さんが推したことだけは聞きました」
 「…にしても、よくここが分かったな」
 「本当は資料室かと思ったんですけど、資料室から戻ってきた津川さんとすれ違っても何も言わなかったから。それに―――私が行くとしたら、やっぱり屋上かな、と思ったし」
 「…そうか」
 苦々しい口調で呟くと、瀬谷は大きなため息を一つついた。
 「で―――どうするんですか」
 「……」
 「蘇芳せなに、お願いするんですか」
 「ハ…、まっぴら御免だね」
 自棄になったような笑いを漏らし、瀬谷は吐き捨てるようにそう言った。そして、眼鏡の位置を直しながら、目だけを蕾夏の方に向けた。
 「藤井は、蘇芳せなの本をそれなりに読んでるらしいけど―――どう思った?」
 「えっ」
 「正直なところ、うちの連載を任せたいと思うような作家か?」
 「―――途中の作品は読んでないから何とも言えないけど…1作目と最新作を読む限りでは、悪くないな、と思います」
 「…1作目、ね」
 「“暁に呼ぶ声”だったかな。あれは、面白かったです。賞を取った作家とかにあんまり興味ない方ですけど、受賞したのも分かるな、って思った位ですから」
 「…ハハ…」
 力の抜けた笑い方をした瀬谷は、そのまま、暫し黙ってしまった。
 どこか思いつめたような目で、真正面を見つめ続ける。そして再び口を開いた時―――瀬谷は、思いがけないことを蕾夏に告げた。
 「―――“暁に呼ぶ声”は、3分の2以上、僕の作品だ」
 「……」
 蕾夏の目が、丸くなる。
 一瞬、意味が飲み込めなかった。パチパチと目を数度瞬いた蕾夏は、瀬谷の横顔を凝視した。
 「…え…?」
 「僕が途中まで書いて、納得いかずに捨ててしまった原稿を、当時付き合ってた彼女がこっそり拾っておいて、多少の脚色と続きを書き足して完成させたもの―――それが、蘇芳せなの“暁に呼ぶ声”だ」
 「それ…って…」
 「蘇芳せな、っていうペンネーム。せな、という名前は、学生時代はさんずいの瀬に、奈良の奈、って書いてたんだ。僕の苗字と彼女の名前、両方から1字ずつ取ってね。…そういう、ロマンチストな奴だった」
 「―――蘇芳せなが、瀬谷さんの書きかけの作品を盗作した。…ってこと、ですか」
 「…まさか賞を取るなんて思わなかった、って、泣いて謝ったよ。彼女は」
 皮肉な笑みに口元を歪めた瀬谷は、やっと蕾夏の方に顔を向けた。その表情は―――言っても仕方のないことだと、完全に諦め切ってしまった顔だった。
 「大学にいた頃からずっと、共に競い合って、作家として大成することを目指し合ってた。いずれは…一緒に暮らそうと約束もしていた。書くことが好きだと言う彼女の真っ直ぐさが好きだったし、僕の書く作品を誰よりも高く評価してくれていたのは、他ならぬ彼女だったからね」
 「……」
 「高く評価していたからこそ…魔が、さしたんだろう。捨ててしまう位なら、という思いもあったのかもしれない。それに、僕はその作品を完成させられなかった。中途半端な状態で放り出されたあれを、より面白くなるよう手を入れて完成させたのは、確かに彼女だ。作品を完成させた人間に“作者”を名乗る権利があるのだとすれば、あれは盗作じゃない―――紛れもない彼女の作品だ。たとえ、その大半を僕が書いていたのだとしてもね」
 「…そ…そんなの、納得できません!」
 「誰も気づかなかったんだよ」
 憤る蕾夏に、瀬谷はきつい口調で言い放った。その顔に、初めて、傷ついたような表情が浮かんだ。
 「僕らは、プロの作家が何人も輩出されているような、結構由緒正しい作家の同人会に入っててね。年に中篇を2、3本は発表してた。なのに…あれを読んだ仲間の誰一人、あれを書いたのが僕だと気づかなかった。彼女の作品だと思い込んで、口々に褒め称えたんだよ」
 「…そんな…」
 「―――僕の作品を、僕の作品と分かってもらえないのなら…あらすじさえ決めてしまえば、後は誰が書いても同じに等しい」
 瀬谷の目が、暗く翳った。
 「だったら、何のために書くんだろう―――そう思った時、僕は二度と、自分の世界を表現するためにはペンを握れなくなった」
 「……」
 「だから、上司から“暁に呼ぶ声”の書評を書いてくれ、と頼まれた時も、機械然として書いたさ。あれだけ大きな賞を取った、しかも大学を卒業したばかりの若い女流作家の作品に悪評をつければ、出版元が黙っちゃいけないのは目に見えていた。全てを暴露したい気持ちを抑えて、褒めて褒めて褒めちぎったよ。もっとも…それを彼女が知る由もない。書評には僕の名前は載らない―――僕が書こうが、誰が書こうが同じだ」
 「―――…」

 “駄作のヒットは、書評を書くライターによって支えられている。本音はどうでもいいから、求められたものを書け”―――そう言って、蕾夏に原稿を突き返した瀬谷を、思い出す。
 あの時、瀬谷は一瞬だけ、感情の動きを垣間見せた。その裏にあった思いは―――こうした経験から来る、虚しさだったのだろう。
 共に励ましあい、将来まで誓っていた彼女に裏切られた瀬谷の気持ちは、蕾夏には推し測ることは出来ない。が、ライターを“文章作成マシーン”と呼ぶ瀬谷の気持ちは、なんとなく分かる。そこにあったのは、皮肉より自嘲より―――“虚しさ”だ、と。
 この時、蕾夏は何故か、昨日瑞樹から聞いた話を、瀬谷に重ねていた。
 “いい写真はいりません”、“誰が撮っても同じです”―――だったら、自分が撮る意味なんてあるんだろうか、と虚しさを感じた瑞樹は、きっと瀬谷の気持ちを一番理解できるだろう。
 表現したいものを飲み込み、見つけてしまったものに目を塞いでまで、客の求める写真を撮らなくてはいけない。初めて奏を撮ったあの時、瑞樹はカメラマンという仕事に絶望しかかっていた。こんなものが求められるのなら、自分がカメラを構える意味などあるのだろうか、と。
 それでも、瑞樹は、カメラを放すことはしない。
 ファインダーの向こうに、自分を手に掛けようとした母のどす黒い本性を見つけ、その恐怖に二度とファインダー越しに人と目を合わせられなくなっても―――全ての感情が機能を停止してしまって、何も感じられなくなってしまっても―――放せなかった。カメラだけは。
 瀬谷だって、そうだ。
 酷い裏切りを受け、その上、その作品の書評まで書かされても、瀬谷はペンを置くという選択だけはしない。ライターは機械も同然だ、と自嘲しながらも、ライターという仕事を辞めようとはしない。
 何故なら―――…。

 「…瀬谷さんて、本当に、書くことが好きなんですね」
 暫しの沈黙の後、そう言って蕾夏は、場違いなほど穏やかな笑みを浮かべた。
 瀬谷の暗く翳った表情が、怪訝なものに変わる。僅かに眉をひそめる瀬谷に、蕾夏はくすっと笑い、視線を日が傾きつつある空に向けた。
 「羨ましいです。私、そんな目に遭ってもまだ続けられるほど、書くことが好きだっていう自信、ないです」
 「…書く、って言っても、誰が書いても同じような記事だ」
 「そんなことないですよ」
 「根拠もなしに反論されても、気休めにもならないね」
 「根拠なら、あります」
 そう言い切った蕾夏は、瀬谷に目を向け、ニッ、と強気に笑った。
 「去年の“A-Life”の中で、3月号のeコマースの記事と、12月号の通信教育の記事。名前は出てないけど、瀬谷さんの記事ですよね」
 瀬谷の目が、大きく見開かれた。どうやら、事実だったらしい。
 「何で…」
 「…なんとなく。自慢じゃないけど、ここ2年ばかりの“A-Life”は、全部の記事3回ずつ目を通して、ある程度頭に叩き込んだんです。だから、瀬谷さんの記事のムードも、上手く説明できないけど覚えてます。細かい言い回しとか、起承転結はっきりした構成とか―――徹底的に第三者視点で客観的に分析しようとしてる姿勢とか」
 「……」
 「だから、名前はなくても、分かるんです。…やっぱり、ライターは、文章作成マシーンじゃない―――そう思いました」
 その言葉を、どう受け取ったのだろうか。瀬谷の目が、落ち着きを失って、僅かに揺れた。その反応に少し安堵を覚えた蕾夏は、肩に掛けたバッグの中を漁り、1冊の文庫本を取り出した。
 「これ―――長いけど、瀬谷さんなら、斜め読みですぐ読めると思います」
 蕾夏が差し出した本を目にした途端、瀬谷の目が陰鬱に細められる。
 「…読め、って言うのか?」
 「読んだ方がいいと思います」
 “罪人(つみびと)の肖像”―――蘇芳せなの、最新作だ。
 「読めば、許す気になるとでも思ってるのか」
 瀬谷は、ふん、と鼻で笑い、視線を逸らした。
 「…いえ。許せなくても、それでいいと思います。瀬谷さんに蘇芳せなを許してあげて欲しくて、渡す訳じゃないし」
 「……」
 「許すだけが解決方法じゃないし。…許したからって―――それで、全てが解決するなんて、思えないし」
 微妙な蕾夏の声の変化に、瀬谷は眉をひそめ、逸らした視線を戻した。
 少し翳りを帯びた目になった蕾夏は、瀬谷と目が合うと、その暗い感情を隠すかのように、寂しげな笑みを作った。

 そう―――許すことで全てが解決する訳じゃない。
 和解するには遅すぎる。もう過去のこと、と割り切るには早すぎる。…そういう傷だって、この世にはいくらだってある。だからこそ―――苦しんでいる。瑞樹も、蕾夏も。

 「…罪を犯した人の、話です」
 「罪を?」
 「…罪を犯した人が、その後、どんな気持ちで生きていくのか―――傷つけた相手とどのように向き合っていくのか。罪人も犠牲者も、どうすれば救われるのか。…その答えが知りたくて、読んだんです」
 「……」
 「答えは…出ませんでした。でも、瀬谷さんには、何か見えるかもしれない。だから…読んだ方がいいと思います」
 訝しげな顔で立ち尽くす瀬谷に、蕾夏は最後にニコリと笑い、本を傍にあったコンクリートブロックの上に置いた。
 「じゃあ―――私は、意見記事の続き、書きますね」


 きっと、瀬谷は読むだろう。蕾夏はそう、予感していた。
 読めば、その時こそ、瀬谷は新しい自分に目覚めるのかもしれない。
 何故なら―――“罪人の肖像”は、瀬谷と蘇芳せなの物語だから。


***


 最後の1行を読み終えて、瀬谷は深いため息と共に、本を閉じた。
 気づけば、あれから3時間―――瀬谷は、“罪人の肖像”を、最後まで読み終えていた。斜め読みどころか、1行も飛ばさずに。
 注文したコーヒーは、半分残ったまま、完全に冷え切っていた。それを一気に飲み干した瀬谷は、席を立ち、編集部からほど近いそのカフェを後にした。
 こんな風に仕事をさぼったのは、生まれて初めてのことだ。
 彼女に裏切られた時ですら、真面目に会社に行って、小難しいコラムに頭を悩ませていた。いや…現実から目を逸らしたくて、あえて仕事に没頭したのかもしれない。そして、そのまま―――何年間も目を逸らしたまま、生きていたのかもしれない。

 “罪人の肖像”は、蕾夏の言う通り、罪を犯した人の話だった。
 主人公の美大生は、ふとした出来心から、恋人が遠い昔に描いたスケッチをもとに、油絵を完成させてしまう。それが新聞社主催の絵画展の金賞を取ってしまい、彼は一躍脚光を浴び、時の人になる。そして恋人だった彼女は―――ある日、彼の謝罪の言葉を聞くこともないまま、交通事故でこの世を去る。
 主人公は、夢にうなされ続ける。後悔、後悔、後悔―――その連続の中で、筆を持つことのできない日々が続く。
 それでも、個展を開きましょう、という周囲の言葉に押されて、渋々絵を描く。何枚も、何枚も、何枚も。けれど、1枚として、彼女のスケッチから起こしたあの絵を超えることはできなかった。
 周囲は、そんな彼の絵を褒めた。誰一人、賞を取ったあの絵に比べて劣っていると指摘はしなかった。
 賞を取った絵を描いた人―――それが、彼の、今の存在意義。もう誰も、彼の絵を正直に批評してくれる人はいない。それに気づいた時―――彼は、深い絶望の淵に陥る。
 物語の最後、彼は、鏡に映る自分の顔を、カンバスに描く。
 そこに描き出されたのは、罪の重さに押しつぶされ、歪みきってしまった、1人の愚か者の顔だった。
 それでも彼は、結局、筆を置きはしなかった。
 罪を背負ったまま―――描き続ける。自分の罪と向き合いながら。

 「…馬鹿だよな」
 エレベーターの扉が閉まり、一人、狭い空間に閉じ込められると同時に、瀬谷はポツリと、そう呟いた。
 馬鹿だ。自分も、彼女も。
 傷つけあい、絶望し、それぞれの限界を目にしながらもまだ、書くことを辞められずにいる。歪んだ肖像を見つめながら、ペンを走らせ続けている。いっそ、ペンを折ってしまえばいいものを。
 書かずにはいられない人種。それが、自分達だ。
 なんて、馬鹿な連中なんだろう―――苦笑が、瀬谷の口元に浮かんだ。

 読み終えた今も、答えらしい答えは出ていない。彼女を許す気にはなれないし、彼女に同情する気もない。仕方なかったんだ、と諦める気にもなれない。今は結婚し子供までいる彼女に、「おめでとう」の一言すら贈る気にもなれない。
 でも…それでも。
 読んでよかったと、素直に思った。
 彼女が抱えた痛み、苦悩、絶望―――それを知ることができて、よかった。知った分だけ、何かが軽くなった気がした。


 編集部のドアを開ける時、何気なく壁に掛かった時計を確認すると、既に退社予定時刻の19時まであと少しになっていた。
 本を返そうと蕾夏の姿を探すが、ぐるっと見渡した限りでは、その姿を見つけることはできなかった。首を傾げた瀬谷は、まだ人がまばらに残る編集部内を進み、蕾夏の席へと向かった。
 行ってみて分かった。見つけることができなかった理由は、実に単純なものだったと。
 蕾夏は、完成した記事を脇に置き、机に突っ伏して眠っていたのだ。
 ―――疲労困憊って感じだな。
 死んだように眠り込んでいる蕾夏を見下ろし、少々呆れる。まだ社員も相当数残っているのに、堂々と居眠りするとは大したものだ。苦笑した瀬谷は、文庫本を机の上に置き、記事原稿を手に取った。

 それにしても―――…。
 ちょっと、意外だった。さっき、屋上で聞いた蕾夏の言葉は。
 『…罪を犯した人が、その後、どんな気持ちで生きていくのか―――傷つけた相手とどのように向き合っていくのか。罪人も犠牲者も、どうすれば救われるのか。…その答えが知りたくて、読んだんです』
 許さなくてもいい、許すことで解決するとは限らない。そう言う蕾夏の口ぶりは、まるで―――自分自身のことを言っているように見えた。
 口調も、言葉の選び方も、なんというか…実体験を伴ったような重みがあって、皮肉屋の瀬谷も何も返すことができなかった。
 ドロドロした人間関係とは無縁そうな子なのに。
 人間の綺麗な面とだけ接してきたような…そんな風に見えるのに。
 人は見かけでは判断できないもんだな…と、自分の迂闊さに小さくため息をついた瀬谷は、原稿を手に、自分の席に戻ろうとした。
 が、しかし。

 「―――…?」
 ふと、あるものが目にとまり、瀬谷は眉をひそめた。
 見間違いかな、と思い、思わず目を近づける。と言っても、場所が場所だけに、少しだけだが。

 机に突っ伏し、自らの腕に右頬を押し付けるようにして眠っている蕾夏の、顕わになっている首筋に。
 普段なら髪で隠れているであろう、かなり後ろの方に―――どう考えても、不自然極まりない、赤い痣。

 ―――おいおいおいおいおい。
 ちょっと待て。これ、どう見たって、いわゆる―――…。

 「…………っ!」
 動揺に、思わずヨロリと後退る。その弾みで、ぶつかった後ろの席の椅子がガタンと音を立てた。
 想像したことがなかった。この蕾夏に、こんなものをつける奴がいようとは。
 彼氏位はいるだろう、とは思っていたが、それはせいぜい、手を繋いでデートする程度だろうと―――いや、蕾夏の年齢を考えたらそんな訳がないのだが、あまりにも優等生な女学生のような風貌をしているので、考えがそこまで及ばなかったのだ。
 それにしても、いつからこの格好で寝ているのだろう、蕾夏は。髪か何かで隠そうにも、勝手に触る訳にもいかない。誰かが自分より前にこれを見つけてしまったんじゃないだろうか―――つい、焦りながら周囲を見回してしまう。
 と、その時。

 「…んー…」
 寝ぼけた声が、眼下から聞えて、ギョッとする。見れば、蕾夏はちょうど、目を擦りながら体を起こしているところだった。
 欠伸をしながら、顔を上げる。うーん、と伸びをしかけた蕾夏は、すぐ横に瀬谷の姿を見つけると、その動きをピタリと止めた。
 「―――あ、瀬谷さん」
 「……」
 「す、すみません、眠っちゃって―――あ、あの、意見記事書きあがったんで…って、もう持ってますね」
 「……」
 「…瀬谷さん?」
 「…いや、なんでもない」
 微妙な笑みを作った瀬谷は、ぎこちない様子で、受け取った原稿を掲げて見せた。
 「じゃあ、貰っていく。それと…本、返すから」
 目線で本を指し示すと、蕾夏は机の上のそれを見つけ、僅かに口元を綻ばせた。
 「―――はい」
 読みましたか、とも、どう思いましたか、とも訊かず、蕾夏はそう返事をしただけだった。蕾夏がこの本を渡した裏には、蘇芳せなに連載の交渉をして欲しい、という気持ちがあるからだろう、と思っていたのだが―――少々、拍子抜けだ。
 「…あの、藤井」
 「はい?」
 「連載小説の件―――まだ、答えは出ないから」
 実際、まだどうするか決め兼ねている。そのままを瀬谷が口にすると、蕾夏はくすっと笑い、
 「そうですか」
 とだけ言って、散らばっていた資料を片付け始めてしまった。
 「……」
 なんとも―――不可解だ。
 いや。
 最初から、何かの結論を押し付ける気は、蕾夏にはないのかもしれない。

 ―――まいったな。
 複雑極まりない苦笑いが、瀬谷の口元に浮かぶ。
 してやられた、というか、一本取られた、というか―――…。

 あんなキスマークをつける相手がいるとは、少々、残念。
 という本音は、死んでも口にすることはできない。だから、その仕返しに―――という訳ではないけれど。

 「藤井」
 「はい?」
 笑顔で顔を上げる蕾夏に、瀬谷は自分の首筋をトントン、と指し示し、意味深な笑みを投げつけた。
 「?」
 「彼氏に言っておいた方がいい。不用意な場所に不用意なものをつけると、誰に見られるか分からないぞ、って」
 「……」
 意味が分からないのか、蕾夏は暫し、キョトンとした顔をしていた。が…何か思い当たる節でもあったらしく、その顔があっという間に真っ赤になった。
 「す…すみません。ありがとうございます」
 「いや」
 苦笑した瀬谷は、さり気ない返事だけを返し、原稿を手に自分の席へと戻った。

 勿論、さり気ないのは、返事だけ。
 その背中は、噛み殺した笑いのせいで、微かに震えていた。


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