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― 史上最強のアイツ―

 

 佳那子が家を飛び出してから、1ヶ月半ほどが過ぎた。

 「いい加減、潮時だと思うぞ」
 諭すように言う久保田に、廊下の壁にもたれた佳那子は、不服そうな顔をした。
 「話し合いなんて、意味ないと思うわ。私は折れる気はないし、お父さんだって、生半可なことでは許す気はないんでしょ」
 「そりゃそうだけど―――じゃあ、このままお互い、そっぽ向いたままか? お前は折れないし、向こうも折れないんだろ? だったら、何年経っても事態は動かねーだろ」
 「…それは…」
 「根気負けして認めてくれる、って思ってるなら、ちょっと甘いぞ。親子だけあって、頑固さではお前も先生も一歩も譲らないからな」
 「何よ。久保田は私が帰った方がいいと思ってる訳?」
 裏切り者、とでも言いたげな佳那子の顔に、久保田は苦笑し、自動販売機から取り出した缶コーヒーを差し出した。
 「そうじゃない。きっちり、時間をとって話し合う必要があると思ってるだけだ。その結果、どうしても歩み寄れないんなら、その時はその時でまた考えりゃいいだろ」
 「…何をどう、考えるの?」
 缶を受け取った佳那子が、冷ややかに目を眇める。それに対抗するように、久保田も眉を上げた。
 「そりゃあ」
 「そりゃあ?」
 「……」
 「そりゃあ、何?」
 「…まあ、色々だよ」
 気まずそうに視線を逸らした久保田は、新たに小銭を取り出し、自分の分の缶コーヒーのボタンを押した。そんな久保田の反応に、やっぱりね、という顔で佳那子は唇を尖らせた。
 「結局、勝算なんてないんじゃないの」
 「…あのな。勝算のある勝負だけを仕掛けるだけが、能じゃないだろうが。それを言うなら佐々木だって、十分な勝算があった上で、家を飛び出したか? 実際のところ、デュークの存在すら忘れて飛び出したようなもんだろう?」
 デュークは、佳那子のウィークポイントだ。思わず、言葉に詰まる。それと同時に、缶コーヒーが取り出し口にガコン、と音を立てて落ちてきた。
 「俺が思うに―――お前ら親子は、互いに理解が足りな過ぎると思うぞ。うちだって、人のこと言えたもんじゃないけど、それでも“家を継がねーし、じじいの跡も継がねーよ”っていう一番大事な部分は、親レベルではきっちり理解してるし、俺の方も“そこまで嫌がる奴に継がせるのは面倒だ”っていう親の本音も知ってるぞ」
 「私だって、お父さんが久保田のお爺様とどうやっても和解できないってことだけは、きっちり理解してるわよ? 久保田がその孫である以上、久保田のことも認めたくないんだ、ってことも」
 「お前は、な。先生の方はどうだよ」
 「……」
 「…確かに、お前が家を出てアピールしたのは、正解だと思う」
 プルトップを引いた久保田は、一口、コーヒーを飲み込むと、あえて佳那子の方は見ずに、真っ直ぐに前を見つめた。
 「俺じゃなく、お前が戦う気だってのが、先生にもよく伝わったと思うからな。けど―――それじゃ、お前の本当の希望は、伝わってない」
 「本当の希望?」
 「自由になりたい、ってことだろ」
 「……」
 「別に、親と反目したい訳じゃないだろ、佐々木だって。親と理解しあった上で、自分の足で立ちたいんだろ―――藤井さんみたいに」
 ―――蕾夏ちゃんみたいに…。
 それは、佳那子にとって、一番分かりやすい希望だった。
 蕾夏は佳那子にとって、勝ち取りたい自由の象徴だから―――久保田にとっての瑞樹が、そうであるように。
 家族からも、友人からも、社会からも解き放たれて、2人で未来だけ見つめて生きてる。でも、だからと言って家族や友人や社会を蔑ろにしている訳ではない。あんな風になりたい…それは、2人がロンドン行きを決めたと知った時から、漠然と思い続けてきたことだ。
 父は、ただ1人、残った家族だ。
 反目し続けたい訳じゃない。ただ…自由を認めて欲しいだけだ。
 「俺も、話し合いには立ち会うから」
 「―――…そうね」

 家を飛び出して、1ヵ月半―――佳那子はついに、父と直接対決することを、決意した。

***

 「そら見ろ、久保田隼雄! わたしの予想通り、前日に比べて1円高で終わっとるぞ。そう簡単に上がってたまるか。ははは、お前もまだまだ甘いな」
 「……」
 好材料が揃っていたし、株主もアクティブだから、もう少し動きがあってもいいと思ったが―――どうやら様子見といったところか。確かに、まだまだ読みが甘いのかもしれない。
 でも。
 ―――あんたはそれが仕事だろーが。俺みたいな素人と張り合うのは、なんか間違ってねーか?
 朝食のスクランブルエッグを無言で頬張りながら、久保田は心の中だけで愚痴った。
 この1ヵ月半、ほぼ毎日繰返される、一般家庭ではあり得ない光景―――交際を認められていない男と、頑として認めようとしない父親の、株価予想対決である。
 今、久保田と佳那子の父が動向を注目している会社は、上場2年目の中堅の会社である。ちょっとしたトラブルを起こし、株価が下落したのだが、2日前に経営陣の退陣が伝えられた。久保田は売り急いだ連中が買い戻すと踏んだが、佐々木昭夫はほぼ横這いと読んだのだ。
 「見てろ。週明けの市場も、1日様子見だぞ。上がるのは火曜日からだ」
 「…ご機嫌ですね、先生」
 自慢げに言う昭夫に、久保田は冷ややかな声で言った。
 「それだけ元気なら、佐々木とのご対面、もう少し延ばしても大丈夫かもしれませんね。佐々木も週末位、ゆっくり過ごしたいでしょうから、今からでも取りやめるよう、連絡を入れましょうか」
 途端、昭夫のこめかみが、ピクリと引きつる。
 慌てて新聞を放り出した昭夫は、半ば身を乗り出すようにして怒鳴った。
 「ば…馬鹿者! それとこれとは別だ!」
 「冗談ですよ」
 久保田もそこまでの根性悪ではない。毎朝の行事で5連敗した憂さを晴らしただけだ。
 第一。今の昭夫の姿を見ていたら、これ以上の引き延ばしは効かないこと位、一目瞭然だろう。
 1ヵ月半前、佳那子の行き先が分からないと納得するや、心配のあまり号泣したのにも驚いたが―――1ヵ月半後、ここまでやつれてしまうというのも、相当なものだと思う。頬が削げ落ち、なんだか、5、6歳老け込んだ気がする。日々目にしてきた久保田にとってはそうでもないが、いきなりこの状態に会う佳那子にとっては、結構ショックなのではないだろうか。
 馬鹿馬鹿しい朝の株価対決に久保田が付き合っているのも、そうやって対抗意識を持つことで多少なりとも元気になれるのなら、その方がまだいい、と思ったからだ。まあ…自分も楽しんでいる部分が、少なからずあるのも、事実だけれど。
 「苦労して説得したんですから、先生も冷静に話し合って下さいよ」
 「分かってるとも。お前も邪魔だてするなよ、久保田隼雄」
 ―――なんでフルネームなんだろうなぁ…今更だけど。
 眼鏡の奥の目をキッ、と吊り上げる昭夫に、久保田は複雑な表情を返した。
 多分、久保田、と呼ぶと祖父の影がちらついて嫌だし、隼雄、と呼ぶとなんだか親しい仲みたいで癪なのだろう。まあ…その心境は、分からなくもない。久保田が“佐々木先生”で貫いているのと、どこか似たものがあるから。

 佳那子を束縛している、という点では、どうにも許しがたい人物ではあるけれど―――久保田は案外、佐々木昭夫という人物を嫌いではなかった。
 佳那子を挟んで敵対することとなった、この6年半あまり―――久保田は何度となく、昭夫の戦略の裏をかいてきた。見合いもしかり、ひとり暮らしの件もしかり。それに、株価対決などでも、プロである筈の昭夫を何度もやり込めている。
 やり込められるたび、昭夫は「覚えていろ」と怒りに体をふるふると震わせて、憤る。
 けれど、「お前とはもう口はきかんぞ」とは言わない。休みの日などに呼びつけて、「あの件について意見を聞かせろ」などと迫る。
 つまりは―――佳那子が言ったとおり、昭夫は、なんだかんだ言っても、久保田のことを結構気に入っているのだ。
 だから久保田も、面白がって、またやり込める。次はどんな戦略で来るんだ、と身構えつつ、それをひっくり返す時を想像してほくそえむのだ。

 そんな2人の関係を耳にして、「まるで“トムとジェリー”だな」と言ったのは、瑞樹だった。
 あまりにも的確な喩えに、久保田は、何ら反論ができなかった。
 ―――けど、それでいくと、瑞樹と俺の関係も“トムとジェリー”なんじゃないか?
 勿論、自分より体の大きなトムをからかって笑い転げているジェリーが瑞樹で、何度も死にそうな目に遭わされながらもジェリーが死にそうになると泣きながら看病してしまうトムが、久保田だ。なんだか、面白くない―――眉間に皺を寄せた久保田は、苦めのコーヒーをくいっと飲み干した。

 「ところで、久保田隼雄。先月上場したこの会社は、どうだ? まだ若い会社で株価も安いし、週末に新製品の発表も控えているから、週明けの上げ幅はトップだと思うぞ」
 「……」
 ―――見た目、かなりやつれてるけど、実は平気なんじゃないか?
 再び新聞の株価欄を食い入るように読みふける昭夫の姿に、そんな疑いも生じるが。
 何にせよ、佳那子がせっかく、その気になったのだ。なんとか、冷静な話し合いが持たれるのを期待するしかないだろう。

***

 昼過ぎ、久々の我が家に帰ってきた佳那子は、父の顔を見るなり、その顔を僅かに蒼褪めさせた。
 「な…なんて顔してるの!? お父さん!」
 「なに。ちょっとした夏痩せだ」
 今は秋だろ、というツッコミを辛うじて押さえつつ、久保田は、昭夫の天邪鬼ぶりにちょっと呆れた。
 これだから、佳那子から理解してもらえないのだ。おいおい泣き崩れたあの情けない姿を、決して佳那子には見せない。常に立派で高圧的な父の姿を保とうとするから、かえって自分の首を絞める羽目になっている。まあ…気持ちは、分からなくもないけれど。
 「とにかく、入んなさい」
 「…言われなくても入るわよ」
 早くも喧嘩腰なムードが漂う中、佳那子は父に伴われ、書斎へと進んだ。リビングとかダイニングの方がいいんじゃないか、と思いながらも、久保田もその後に続いた。

 人質同然に同居し始めて1ヵ月半経つものの、久保田が書斎に足を踏み入れるのは、これが初めてだった。
 だから、偶然目をとめた壁面に、丁寧に額装された“契約書”が掛かっているのを見て、思わずむせそうになった。
 なんだってこんな所に…と一瞬思ったが、よく考えれば、もし壁に掛けるのであれば、ここ以外ないと気づいた。リビングやダイニングに掛けるような物じゃないし、寝室に飾るなんて悪趣味だ。応接室になんて、久保田善次郎の連名があるだけに、絶対置いておけない。だから、書斎は、唯一の場所なのだ。
 ―――なるほど、これがここに掛かってるから、書斎で話し合いな訳か。
 主旨は分かるが、なんだか十字架の前で懺悔させられるみたいで、あまり気分の良いものではない。案の定、佳那子も、背後の壁面に視線を走らせ、苦々しい顔をした。

 「…さて」
 重厚な机の向こう側に座り、優雅に脚を組んだ佳那子の父は、立ったままの久保田と佳那子を見上げた。
 「さっそくだが、佳那子。まずはわたしに、何か言うことはないかね」
 「言うこと?」
 「父に黙って家を1ヵ月半も空けておいて、一言の謝罪もしないほど、お前は無礼な娘ではないだろう?」
 「…ちょっと。謝れ、ってこと?」
 冗談でしょ? と眉をひそめた佳那子は、一歩、父の方へとにじり寄った。
 「どうして私が謝らなきゃいけないの? 謝るようなことしたのは、お父さんの方じゃないの。あの牧野さんと引き合わせて、私に万が一のことがあったら、一体どうやって責任取る気だったのよ」
 「そんなことにはならないと踏んだからこそ、会わせたに決まってるだろう? 佳那子のピンチを、久保田隼雄がぼーっと見てる訳がないからね」
 「私は傷ついたわよ。二度と会いたくない人に会わされて」
 “傷ついた”の一言は、少し、堪えたらしい。僅かにうろたえた目になると、父はコホン、とわざとらしい咳をした。
 「ああ―――それは、確かに、わたしも少々大人げなかった。8年分の恨みつらみに、理性を欠いていた部分があったかもしれない。それについては、素直に謝ろう」
 「今更遅いわ。1ヵ月半も経ってから私に謝る位なら、久保田にお礼を言って」
 「「は?」」
 はからずも、昭夫と久保田の声が重なった。
 「な…っ、何だと!? わたしがこいつに頭を下げるなんて、そんな無様な真似ができるかっ!」
 思わず立ち上がって怒鳴る父に、佳那子は一歩も譲らず、言い放った。
 「久保田が守ってくれたから、私は無事だったのよ。お父さんだって、久保田なら私を守れると思ったからこそ、こんな茶番劇を仕掛けたんでしょ? 娘を守ってくれてありがとうございました、って、ひれ伏してお礼を言ってよ」
 「お、おい、佐々木…」
 何もひれ伏す必要はないぞ、と、少しばかり的外れなツッコミを入れそうになる久保田を、佳那子はキッ、と一睨みし、再び父の方を見据えた。
 「さあ、どうなの。お礼を言うの、言わないの、どっち?」
 うぐぐぐぐ、と、言葉に詰まる父の拳は、机の上で、憤りにふるふると震えていた。
 「しゅ…出血大サービスで、謝ってやらんでもない」
 「何よ、それ。謝って“やる”って」
 「うるさい! 謝ってやってもいいが、その代わり佳那子が家に帰って来ることが条件だ!」
 「帰る!? 冗談でしょ!? 私は、久保田との交際を認めてくれるまでは帰らない、って宣言したのよ!? もう忘れちゃったの!?」
 「そんなもの、認められる訳がないだろう! お前の出した条件は、地球を丸呑みできたら帰ってやる、と言ってるのと同じで、出来もしないことを条件にしてるようなものなんだぞ!」
 地球丸呑みと交際を認めるのが、同レベルなのか―――佐々木昭夫の価値観のぶっとび方に呆れ返る久保田をよそに、佳那子は父のその言葉に、ますますヒートアップした。
 「何が“出来もしないこと”なのよ!? テレビで喋り足りないネタがあると、決まって呼びつけて相手させる位、本当は久保田のこと気に入ってる癖に!」
 「なななななななんだとっ! いつわたしが、久保田隼雄を気に入ったなんて言ったんだ!? 勝手なことをぬかすな!」
 「何年お父さんの娘やってると思ってるの! 見てれば分かるのよっ!」
 「ちがーう! 絶対にそんなことはないっ!」
 「違かろうが何だろうが、私は認めてくれるまでは帰りません! 絶対に!!」

 ―――ああ…佐々木。ダメだろ、ここでキレちゃ。
 認めろ、と迫る佳那子と、それはあり得ない、と突っぱねる父。そこに話が行ってしまっては、双方譲らないまま、また水掛論争に突入するだけだ。全く…佳那子も昭夫も、事前にあれだけ釘を刺しておいたのに、何故冷静に、一番言わなくてはいけないことを口にしないのだろう?
 …親子だからだよな。
 そう思うと、納得する一方、どっと疲れが押し寄せてくる。

 「あー、ちょっと、2人とも、落ち着いて」
 どんどん前のめりになる佳那子と父の間に割って入るように、久保田は佳那子の腕を掴み、引き戻した。
 「俺は別に、お礼なんて言われたくないし―――今ここで即座に交際を認めてもらおうなんて、虫のいいことも考えてないぞ」
 「久保田っ」
 またエキサイトしかかる佳那子を、まあいいから、と制し、久保田は昭夫の方に顔を向けた。
 「そんなことより―――先生には、佐々木の言い分を聞いて欲しいんです」
 「言い分?」
 「佐々木がどんな人生を望んでるか、です」
 人生、なんて壮大なテーマを持ち出されたのが不意打ちだったのか、昭夫は一瞬、キョトンとした顔をした。
 不意打ちでも何でも、昭夫のこめかみの青筋が消えているうちに、ちゃんと話をさせた方がいい。久保田は佳那子の背中をトン、と叩き、ほら、と促した。
 頭に血の上っていた佳那子も、それで少し我に返ったらしい。紅潮していた頬が、少し元来の色を取り戻す。バツの悪そうな表情で居ずまいを整えると、佳那子は胸を張って、父の方に向き直った。
 「…私は別に、お父さんに逆らいたいとか、好き勝手に生きたいとか、そういうことは思っていないの」
 「……」
 「ただ―――相手が久保田であれ誰であれ、私は、結婚したら、この家を出るつもりなの」
 「な…っ、何だと!?」
 昭夫のこめかみに、また青筋が戻り始める。それに気づいて、佳那子は畳み掛けるように続けた。
 「お父さんが“結婚”って口にする時、婿養子以外の道を考えてないのは、随分前から分かってた。お父さんが持ってくるお見合い相手、必ず次男か三男でしょう? それって、家を出ても構わない立場だ、って頭があるからよね」
 「当たり前だ! お前は佐々木家のたった1人の娘なんだぞ、嫁になんて出せるか!」
 「私は、大人になってまで、お父さんの庇護の下で生きるのは、嫌なの」
 「かっ、佳那子…」
 「好きになった人と、新しい家庭を築くのが、私の人生の目標なの。お父さんと反目する、ってことじゃないわよ。お父さんはお父さんで、ちゃんと家族だもの―――2人きり残された家族なんだから、ずっといい関係を続けたい。でも、私は、自分自身で築く、私の“家族”が欲しいの。自立したいのよ」

 ―――自立、か。
 傍らで聞きながら、久保田も、その単語の意味を噛み締めていた。
 自分の足で、立つ。父に決められた人生ではなく、自分で決めた人生を歩む。父に庇護され、いつまでも“佐々木昭夫の娘”でいるのではなく、自らが新しい“家族”という共同体を作っていく―――それが、佳那子の考えた、自立だ。
 その共同体を作る時のパートナーとして選んだのが、たまたま、久保田だった。
 それだけのこと。相手が久保田でなかったとしても、佳那子は遅かれ早かれ、“自立”を望んだだろう。勿論―――そういう佳那子になった背景には、久保田の影響が色濃くあるのは否めないが。

 「私はもう、お父さんが作った器の中でなきゃ生きられない子供じゃないの。自分で器を作れるだけの年齢になってるのよ。お父さん、それを忘れてるんじゃないの?」
 「……」
 「家を出るからって、お父さんの娘を辞める訳じゃないし、将来のことはきちんと考えてる。でも、一旦は独立して、ひとつの家庭を築くから。それだけは、絶対譲れない」
 「…さん…」
 驚愕にわなわなと震えていた父が、僅かに言葉を発する。
 「え?」
 佳那子が聞き返すと、父は、バン! と机を叩き、佳那子に詰め寄った。
 「わたしは、許さんっ! この薄情者、父をひとりでこの家に置いていく気か!」
 「は、薄情、って…」
 「生まれた時から、一切の苦労をしないよう、それはそれは大切に育ててきたというのに―――情けない! 親に対する感謝の念も忘れるような奴に成り果てるとは…!」
 「な…っ、何言ってるのよ。感謝はしてるわ。それに、将来、お父さんがそれ相応の年齢になって引退したら、お父さんが困らないようにちゃんと」
 「うるさいうるさいうるさい! 家事もまともにこなせない上、わたしが気を配らんと悪い男に簡単に騙されるような筋金入りの箱入り娘のお前が、自分の力で家庭を築く、だと!? 自惚れるのもいい加減にしろ!」
 「ちょ…っ、佐々木先生」
 「お前もうるさいっ!」
 完全に、キレてしまったらしい。血走った父の目は、今度は久保田に向いた。
 「そもそも、お前なんぞが佳那子をたぶらかすから…! 佳那子はな、お前と出会うまでは、従順で素直で、私の言葉には一切異議を唱えたりしない、優しい子だったんだぞっ! お前が佳那子に悪知恵ばかり授けるから、こんな娘になってしまいおって―――そんな奴に、大事な佳那子をやれるかっ!」
 さすがに、ムッとした。少し険しい顔になった久保田は、それでもなんとか理性的な口調を保った。
 「成長した子供が、親の押し付ける不条理に異議を唱えるのは、反抗でもなんでもなく、当然のことだと思いますが」
 「どこが不条理だ!? 佳那子は世間知らずのお嬢様なんだぞ! 婿養子をとって、この家で何の苦労もなく暮らすのが、一番幸せなことに決まってるじゃないか!」
 「それが絶対的な幸せだなんて、誰が決めるんですか? 先生の手の中にいる内は、佐々木はいくつになってもお嬢様のまんまですよ」
 「ああ、そうとも。お嬢様で何が悪い。それでいいじゃないか!」
 それでいい?
 佐々木が一生、世間知らずのお嬢様のままでいい?
 「いい訳ないじゃないですかっ!」
 「いいに決まってるだろう! いいか、温室で甘やかされて育った花が、いきなり路地に植えられたらどうなる!? ほんの数日で枯れるに決まってる―――そんな目に遭わせる位なら、一生温室で守ってやるのが、親としての責務だ!」
 「路地でもちゃんと生きられるように守ってやる人間がいてもですか!」
 「いかーん! 絶対に許さん!」
 バン! と再度机を叩くと、昭夫は、少々2人の言い合いに飲まれてしまっていた佳那子の方をキッ、と睨んだ。
 「いいか、佳那子。今住んでいるところは、原口に言ってすぐに解約させなさい。これ以上父に逆らうようなら、会社も辞めさせるぞ」
 「お、お父さん!? 何バカなことを」
 「佳那子っ! いい加減にしなさい!」

 最終宣告のような父の怒鳴り声に、佳那子の肩がびくん、と強張った。
 子供の頃から植えつけられた、条件反射のようなもの――― 一瞬、佳那子の顔に、父の叱責を恐れる優等生な子供の怯えた表情が浮かんだ。
 久保田は、その顔を、前にも一度見たことがある。
 初めての朝帰りに、家に帰りたくない、と怯えて震えていた時の佳那子は、今とそっくり同じ顔をしていたから。


 その顔を見た、その刹那。
 久保田の中で、何かが、ぷっつりと音を立てて切れた気がした。


 「―――分かりました」
 地を這うような久保田の低い声に、佐々木親子の視線が、自然、久保田の方へと向く。
 久保田は、地面を睨んでいた。
 下ろした両の拳を小刻みに震わせ、ふつふつと湧いてくる怒りに耐えている。が、その怒りのオーラは、黙っていても全身にみなぎっていて、思わず佳那子までもが一歩後退ってしまったほどだ。
 ゆっくりと顔を上げた久保田は、佳那子の父の顔を睨み据えると、震える拳を更にぎゅっと握り締めた。
 「たった2人きりの家族だから―――佐々木にとっても大事な人だから、決定的な溝を生むような真似だけはよそう、せめてきちんと認められた上で、堂々と交際しよう…今までずっと、そう思ってきました。だからこそ、10年の時間を下さいとお願いもしたし、今回も佐々木の話を聞いてやってくれと頼みました」
 「……」
 「けれど、俺も、優等生は辞めさせていただきます」
 きっぱりと宣言すると。
 久保田はツカツカと背後の壁に歩み寄り、そこに掛けられていた額縁をもぎ取った。
 呆気にとられる2人を無視し、額の中から“契約書”を抜き取る。そして―――それを一気に、ビリビリと破り捨てた。
 「く…っ、久保田っ!?」
 悲鳴に近い声を佳那子が上げる中、“契約書”はあっという間に細かな紙切れに成り果ててしまった。
 額縁を机の上に投げ捨てた久保田は、唖然としている昭夫を一睨みすると、深々と頭を下げた。
 「お世話になりました―――今日からは、完全に敵として対決させていただきます」
 「な…何を」
 口をパクパクさせる昭夫をもう一度見据えた後、久保田はくるりと佳那子に向き直り、その腕を掴んだ。
 「帰るぞ」
 「えっ」
 帰るって、ここが私の家なんじゃないの?
 という佳那子の疑問の声は、実際の声にはならなかった。
 久保田は、佳那子の腕をぐいと引っ張り、そのまま荒々しい足音を立てながら書斎を出た。まだ呆然としたままの父が、それを追ってくる気配はない。
 「ちょ…ちょっと、久保田…」
 「デューク!」
 玄関を開け放ち、久保田が声を上げると、玄関脇にある犬小屋からデュークがひょこんと顔を出した。
 「お前も来るよな?」
 ニッ、と笑う久保田に、デュークは尻尾を振って「お供します」という意思を表した。そして、事態の飲み込めない佳那子を半ば引きずるようにして歩き出す久保田の後を、軽快な足取りで追った。

 ようやく我に返った佐々木昭夫が、慌てて玄関から飛び出し、何事かを叫んだのだが。
 昭夫にさっぱり懐いていないデュークが、今にも噛み付きそうな勢いでワンワンと吠えたせいで、昭夫はそれ以上、何も出来なかったのだった。


***


 「…なるほど。それでここに来たと」
 ずずっ、と緑茶をすすった善次郎は、安楽椅子を揺らしながら、板の間に正座する孫とその恋人を流し見た。
 既にウィークリーマンションを引き払った佳那子は、例の大きなボストンバッグを脇に置いている。が、いまだに事態をしっかり把握している訳ではないようで、久保田が事情を説明する間も、終始心配そうな顔で久保田の横顔をチラチラ見ていた。
 「で、あの犬は、なんだ」
 廊下を挟んでガラス戸の向こうにいるデュークを、善次郎は顎でしゃくる。
 「佐々木の愛犬です。俺と佐々木以外には懐かないので、一緒に連れてきました」
 「あー、その喋り方はもうやめい。しおらしい隼雄なんぞ、見とっても面白くも何ともない。気色が悪いだけじゃい」
 そう言って煙たそうに眉を顰めた善次郎は、湯のみを文机の上に置くと、よっこらしょ、と言いながら立ち上がった。

 久保田善次郎の家は、政治家という名詞から大抵の日本人が連想するであろうとおり、重厚な造りの日本家屋だ。築40年という古さだが、メンテナンスが行き届いているので、風格はあるものの古びてなどいない。掃き出し窓の向こうには、見事に手入れされた日本庭園までもが広がっている。
 佳那子にとっては初めて訪れる家だが、久保田にとっては、上京間もない時代を過ごした懐かしい家である。もっとも、二度と足を踏み入れる気などなかった家でもあるのだが。

 「ところで隼雄。ひとつ、忘れてやせんか」
 廊下から外の庭を眺めた善次郎は、振り返ることなく、久保田に言った。
 「あの“契約書”には、わしも名前を連ねておったのだぞ。つまり、わしもお前達の交際には反対しとる立場だ」
 「…勿論、覚えてる」
 「覚えておるのに、わしに佳那子さんとあの犬を預けるとな?」
 もっともな言い分だ。佳那子のこの困惑顔も、それが主な理由だ。
 がしかし、久保田は神妙な面持ちのまま、膝の上の拳を固めた。
 「じっちゃんなら、本気で頼めば、俺の味方になってくれると思った」
 「…ほう?」
 「瞬間湯沸かし器なんて言われてたけど、じっちゃんが永田町で主張してたこと自体は、“永田町の理論”には適ってなくても、一般人からすりゃ納得のいくことだった。佐々木先生への意地で“絶対認めん”なんて言ってるけど、俺が本気で佐々木先生と対決する気なら、ちゃんと理解してくれる確信があった。それに―――じっちゃん自身、半ば掻っ攫うようにして死んだばーちゃんと結婚しただろ?」
 「―――うーむ。それを言われると、弱いのう」
 久保田善次郎と故人であるその夫人のロマンスなど、佳那子は一切知らない。が、どうやら久保田の言ったことは完全な嘘ではなかったらしい。善次郎の背中が、困った、という色を漂わせる。
 「まあ、さっき玄関に飛び込んできた時の隼雄の目を見て、こりゃあ本気だな、とは思ったが」
 はー、と息を吐き出した善次郎は、のっそりとした動作で振り返った。
 「思い切ったことをするのう、お前たちも」
 「―――お願いします」
 拳を板の間につくと、久保田は深々と頭を下げた。それを見て、佳那子も慌てて手を突き、頭を下げた。そう、呆けている場合ではないのだ。頭を下げて頼むべきは、久保田ではない、自分なのだから。
 善次郎は、そんな2人を眺めて、満足げな笑みを浮かべた。
 「わしに頭を下げられる位にまで根性が据わっとるのなら、大人気ない態度を返す訳にもいかんな」

 “絶対頭を下げたくない相手にも、その信念のためであれば、頭を垂れる。それが出来る人間には、もう怖いものは何もない”。
 若き日の善次郎が残したこの名言を、久保田は知らなかったのだが―――こだわりもプライドもかなぐり捨てて頭を下げた2人は、どうやらこの時、善次郎に認められたらしい。

 こうして佳那子は、久保田善次郎宅に身を置くことになった。勿論、愛犬デュークと共に。


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