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― 仲直りの仕方 ―

 

 「ええっ、それってつまり、駆け落ちした、ってことですか!?」
 和臣の素っ頓狂な声に、久保田は、口にしていた日本酒を危うく吹き出しそうになった。
 「ば…馬鹿野郎、親戚の家に駆け落ちする奴なんているかっ!」
 「けど、そういうことでしょう? 佳那子さんを家から連れ出したんだし、結婚前提ってことは」
 「微妙に違うんだよっ」
 「微妙に、って、どの辺が?」
 「…ああもう…瑞樹! お前、飲んでばっかりいないで、こいつを何とかしろよ」
 答えに窮した久保田は、さっきからほとんど口をきかない瑞樹を、八つ当たり気味に睨んだ。が、睨まれた当人は、いたって涼しい表情だ。
 「答えられねーってことは、ほぼ同じだ、ってことなんじゃねぇの」
 「……」
 「ほらぁ、成田もああ言ってるじゃないですかぁ。やっぱり久保田さん達の行動は、世間一般では駆け落ちって言うんですよ」
 「瑞樹…カズを勢いづかせてどうするんだよ」
 「別に俺は、困らねーし」
 ―――畜生、やっぱり“トムとジェリー”かよっ。
 やっぱり、面白くない。瑞樹を一睨みした久保田は、くるりと瑞樹に背を向け、不貞腐れたようにお猪口を口に運んだ。
 「で? で? これからどうするんですか? さっさと婚姻届出しちゃうとか?」
 久保田の心労など少しも想像していないらしく、和臣は余計興味津々で訊いてくる。店に入ってからそれなりの時間が経っているのだが、彼の手元にあるカクテルも食べ物も、あまり減っていないという有様だ。
 「―――そりゃあな。土曜日の段階では、頭に血が上ってて、本気でそこまでやっちまおうかとも思ったけど」
 「けど?」
 「…けど、なぁ…」
 眉間に皺を寄せた久保田は、複雑な心境をどう表現していいか、いまひとつ、分からなかった。


 佳那子を善次郎の家に連れて行ってから、数日経つ。
 善次郎の家に厄介になっていることは、既に佐々木家にも伝えてある。即座に秘書の原口が飛んできたが、善次郎が軽くあしらって、追い返してしまった。
 善次郎は、何も言わない。お前らの好きにせい、というスタンスというか―――どうやら、こんな展開を面白がっている節がある。
 タダで住まわせてもらうのでは申し訳ないから、と佳那子が食費を入れることを申し出れば、それでよかろう、と鷹揚に頷くだけ。土日と2日続けて孫が顔を見せてチェスの相手をしてくれたので、極めて機嫌がいい。元々、佳那子自身のことは気に入っていたらしいので、彼にとってのデメリットは何もないのかもしれない。あんなに見合いさせたり文句言ったりうるさかった癖に、と久保田は納得がいかないが…まあ、ありがたいことではある。

 反対反対と異議を唱え続けていた片方を味方につけられた今、事態は、2人が望んだとおりに進みつつある。
 高圧的に娘を縛りつけることしか考えない昭夫の意志を尊重していたのでは、10年経とうが20年経とうが、2人の関係はずっとこのままだろう。でも、昭夫の反対さえ無視すれば、物事はこんなにも簡単だ。
 あとは、久保田の両親に佳那子を会わせて、善次郎や久保田の父などを保証人にして婚姻届を提出すれば、全ては丸く収まる―――そう言えなくもない。
 けれど―――…。


 「…佐々木の、目の、せいかもな」
 どう言えばいいのか分からず、久保田は、一言一言区切るようにしながら呟いた。
 「時々、遠くを見てんだよ」
 「遠く?」
 「多分…佐々木先生のことを、心配してるんだろう」
 多分、なんて言いながらも、実は久保田には確信があった。日曜日に会った時も、その後会社で会った時も、時折心ここにあらず、という顔になる佳那子が、何を考えているのか―――その位、十分想像がつく。
 「前回家を出た時は、俺が間に入ってたから、まだ良かったけど…今回は、完全に孤立状態だろ。いくら異常すぎる過保護ぶりにうんざりしてても―――佐々木にとっては、たった1人の家族だ。心配するのは、当然だろう」
 「えー…、駆け落ちしといて、今更まだそんなこと言ってるんですか」
 至極真面目な久保田の言葉に、唯一の妻帯者である和臣が呆れ顔をした。
 「そんな風に親に気ぃ遣ってばっかりいるから、こんなに時間かかっちゃうんですよ。反対してたおじーさんが、理解を示してくれた今こそがチャンスじゃないですか。気の変わらない内に、どんどん話を進めちゃわないと」
 「いや、それじゃあ佐々木が」
 「オレは進めちゃいましたよ。母さんがヒステリー起こしてても」
 「……」
 そうだった。和臣は、自分の母親が強烈に反対しているにも関わらず、奈々美の両親の気が変わらないうちに、といって、さっさと結婚を決めてしまったのだった。交際から、僅か2ヶ月あまりで。
 「実際、話が進んじゃえば諦めがつくみたいで、今じゃすっかり孫が生まれるのを一番楽しみにしてますよ? 我を押し通した方が勝ちですって。良い子良い子してると、ひたすら損するだけなんですから」
 「…なんだか、妙に実感がこもってるな」
 「オレは、“良い子の和ちゃん”で、18年損してますからねー」
 和臣はそう言ってニッコリと笑った。確かに―――過保護で過干渉な異性の親を持つ、という点では、和臣は仲間内で最も佳那子に近い立場だったのかもしれない。
 ただ、2人の間には、決定的な違いがある。
 和臣の場合、ヒステリックになる母を宥めてくれる家族が―――父が、いた。
 でも、佳那子の場合、父の怒りや憤りや孤独ややるせなさを宥めてくれる家族が―――母が、いない。
 「…佐々木とお前とじゃあ、事情も性格も違うんだよ。ずっと矛盾感じて首傾げながら親のいう事聞いてたお前と違って、あいつは成人するまで、親父さんが法律で、親父さんが規範だったんだから」
 「でも、優等生、やめたんでしょう? そんなもんまで買う位なら、親と絶縁する覚悟位、してないと」
 実績がある分優位に立てると踏んだのか、和臣は得意げな顔でそう言い、チラリと久保田の手元に視線を送った。そこには、銀色のシンプルなデザインの指輪が光っていた。
 そう。完全対決を宣言した久保田と佳那子が真っ先にしたことは―――今考えると少々パターンに嵌り過ぎな気もするが―――指輪を買うことだったのだ。
 瑞樹は「笑えるほどにベタな展開だな」と皮肉っぽく笑ったが、2人にしてみればこれは一種の決意表明だった。もう誰にも遠慮はしないし、誰からの指示も受けない。その意思の表れが、ペアで買ったリングだ。
 遠慮するつもりはないし、指示を受けるつもりもない。それは日が経っても変わらない。
 でも―――認められなくてもいい、と100パーセント割り切ることが出来ない自分達は、やはり優等生な子供に過ぎないんだろうか。
 「―――瑞樹は、どう思うんだ?」
 さっぱり話題に加わらない瑞樹が、何を考えているのかが気になる。少し眉をひそめるようにして、久保田は瑞樹に訊ねた。
 すると瑞樹は、一瞬、ふいを突かれたのか僅かに驚いたような顔をし、それから首を傾げて眉を寄せた。
 「どう、って言われても…俺には、答えられねーし」
 「まあ、お前は藤井さんの両親に気に入られてるから、俺みたいなトラブルは起きないんだろうけど…」
 「いや、そういう意味じゃなく」
 「え?」
 じゃあどういう意味なんだ、と久保田と和臣がもの問い顔になる。が、上手く説明がつかないのか、瑞樹は余計、困惑した顔になった。
 「なんていうか―――俺には、結婚て意味が、よく分からねーから」
 「は?」
 「何のために結婚するのか、分からねーし、そもそも、何でそんなに結婚したいのか、全然分かんねー」
 「……」
 確かに、前にも瑞樹は“一緒にいることさえ決めていれば、後は何でもいい”と言ってはいたが―――“分からない”。この言葉は、結構重い。
 重いと感じたことに、久保田は少々、ショックを受けた。
 じゃあお前は分かるのか、と反問された時―――果たして答えられるかどうか自信がない自分がいることに、なんとなく気づいてしまったから。
 「何、もしかして成田って、藤井さんと結婚する気、ないの?」
 ちょっと険しい表情になった和臣が、そう詰め寄る。前もって聞いていた久保田とは違い、初耳の和臣には信じられない発言だったらしい。
 「結婚する気なしで付き合ってる訳? それって不真面目だよっ」
 「不真面目?」
 「そうだよっ。いくら結婚する年齢が年々高くなってるって言っても、藤井さんだって十分結婚適齢期だろ? そんな人と遊びで付き合うなんて、絶対許されないと思うっ」
 「ちょっと待て。誰が遊びなんて言ったよ」
 「だって、結婚する気がないってことは、遊びだってことだろ?」
 「アホか。蕾夏以外なんて、一生ありえねーよ」
 「だったらいずれ結婚するってことじゃん」
 「なんで」
 「なんで、って―――…」
 言いかけて。
 和臣も、言葉に詰まった。久保田が何も言えなかったのと同様に。
 「じゃあ、カズは何で、木下さんと結婚したんだよ」
 黙りこくる2人を見かねたのか、暫しの沈黙の後、瑞樹がそう訊ねる。和臣は、ちょっと目を丸くした後、うーん、と考え込んだ。
 「何で、って…一生、一緒にいたい、って思ったら、それはイコール“結婚”なんじゃないのかなぁ、普通」
 「結婚しないと、一生一緒にいられない、ってことか?」
 「いや、そりゃ、結婚しなくても一緒にはいられるけど―――そう! 結婚てのはさ、宣誓みたいなもんだよ」
 しっくり来る表現が見つかり、和臣の顔が晴れやかになった。まだピンと来ない顔をしている瑞樹に体ごと向き直り、自信ありげに説明した。
 「夫婦は、法律でちゃんと義務と権利が定められた関係で、“病める時も健やかなる時も命ある限り誠実に尽”さなくちゃいけないんだよ。結婚するってのは、つまりはそういうこと―――オレは一生、奈々美さんだけを守っていきます、他の女には目もくれません、何があってもずっと一緒にいます、ていう宣誓だよ」
 「……」
 「それに、恋人同士がいくら口先で“一生”なんて言ってみたところで、気持ちが変わってはいサヨウナラとならないとも限らないでしょ。もっといい相手が現れたら、そっち行っちゃうかもしれないし。だから、“一生”ってのが口先じゃなく本物だって―――お互いがお互いのオンリー・ワンだって証として、結婚するのは当然だと思う」
 ほらね、分かるでしょ、という顔で和臣が言うと、瑞樹は不愉快そうに眉を顰めた。
 「…何だよ、それ。つまり、他の奴に心変わりしても逃げ出せないように、お互いを法律で縛るのが“結婚”かよ」
 「えっ」
 和臣と久保田が、同時にギョッとした顔になった。思わず、互いに顔を見合す。
 もの凄い極論だ。極論だが―――じゃあ、結婚することでホッと安心する部分が全くないか、と言われたら…否定しきれない。これで相手はずっと自分のものだ、という感覚は、多かれ少なかれ、誰にでもある筈だ。
 だが、しかし。
 「…そういう、身勝手な独占欲がゼロじゃないのは、否定できないけどな」
 困り果てている和臣の代わりに、久保田がようやく口を開いた。
 「けど、自由が欲しくて結婚する部分も、あると思う」
 久保田の言葉に、瑞樹の不愉快そうな顔が、怪訝そうなものに変わる。自由を得るために結婚する―――確かに、分かり難いかもしれない。久保田は、自らも考えを纏めながら、ぽつりぽつりと説明を始めた。
 「カズも言ったように、夫婦になると義務も生じる代わりに、権利も生じる。恋人では社会的に認められないことも、夫婦なら認められたりする。2人で共通の財産を築いていくこともできるし、カズと木下のとこみたいに、新しい“家族”を作ることだってできる―――長い時間を一緒に過ごすなら、できることは多い方がいいに決まってるだろう? 紙切れ1枚に束縛される部分がたとえあっても、より多くの“2人でいられる自由”を勝ち取るために、結婚する―――俺は、そう思ってる。多分、佐々木も」
 「……」
 「それに―――結婚すれば、相手は“家族”になる。順当に行けば、配偶者ってのは、唯一の“血の繋がらない家族”だ。血の繋がり以上の絆がなけりゃ、なれない関係だって思わないか?」
 「く…久保田さん、やっぱり凄いですねぇ!」
 久保田の説明に、何故か瑞樹ではなく、和臣が反応を示した。いつの間にか握っていたおしぼりを更に握り締め、感動の面持ちでいる。
 「そーですよ! オレが言いたかったのも、そーゆーことですっ! オレってば口下手だから、どうも上手く説明できないんだよなぁ…さすが久保田さん!」
 「…そりゃどうも」
 お前の言った事とどこに共通点があるんだよ、と突っ込みたいのを久保田は我慢した。でも、結婚を既に経験済みの和臣が賛同するのなら、自分が主張したことも、あながち間違いではないのだろう―――と、少しホッとした。
 そんな久保田と和臣の傍らで、瑞樹は、少々複雑な表情をしていた。
 「―――…“家族”、か」
 ぽつりと呟いた瑞樹は、視線を逸らし、テーブルの上のグラスを手にした。
 その呟きを聞き逃した久保田は、そもそもこんな話になった理由を思い出し、改めて瑞樹の方に向き直った。
 「で、瑞樹。どう思う?」
 「え?」
 「佐々木先生無視で、このまま突っ走っちまっていいもんだと思うか?」
 「…俺には答えなんて出せねーけど…」
 軽く首を傾けた瑞樹は、手にしたカクテルを一口飲んでから、僅かに口の端を上げた。
 「あんた自身は、答えが出てんじゃねーの」
 「俺?」
 「顔一面に、書いてある。“佐々木先生が心配だ”って」
 「……」
 「なんか、事情あんだろ」

 事情―――…。
 確かに…ある。不条理なことを佳那子に強要するあの父を、完全に敵対すると決意してもなお、まだ100パーセント反目できずにいる、決定的な理由が。
 あの不条理な態度の根底にあるものを、久保田は、同居した1ヵ月半の間に、見つけてしまったから。

 「…ま、無理すんな。ボランティアの好きな隼雄に、カズみたいな恋愛至上主義な生き方が出来るわけねーよ」
 久保田の表情に、自分の指摘が正しかったことを確信したのだろう。瑞樹は、動揺を見せる久保田に、そう言ってニッ、と笑った。


***


 「―――裏切り者」
 恨みがましい声で唸る昭夫に、
 「なんとでも」
 善次郎は、余裕の声で応え、佐々木家の家政婦が淹れたお茶をうまそうにすすった。
 「あんただって、孫に見合いをどしどし持ってきて、妨害してたじゃないですか。孫を政治家にするって夢は諦めたんですか」
 イライラと組んだ脚を揺さぶりながら、昭夫が更に呻く。
 昭夫からすれば、天地がひっくり返ったに等しい事態だった。あの久保田隼雄が、一番毛嫌いしている祖父に助けを求めるなんて。しかも―――その願いを、この久保田善次郎が、二つ返事で受け入れてしまうなんて。
 よほどの事情があるのか、と思ったが、善次郎の返事は意外なものだった。
 「そんな夢は、とうの昔に諦めとるわ」
 「は?」
 「そりゃあな。徹底的に鍛え上げれば、わしより大物の政治家になるとは、今でも思っとるぞ。けど―――ありゃあ、駄目だ。絶対に折れんわ。頑固さではわしより上を行っておる」
 「…何を、らしくもない弱気を…そ、それに、テレビでは言ってたじゃないですか。孫はまだ修行中だ、とか何とか」
 「なーんじゃ、本気にしとったのか」
 案外単純じゃな、と口の中で呟き、善次郎は灰色の眉を器用に上げた。
 「ありゃあ、お茶の間向けのパフォーマンスに決まっておろうが」
 「……」
 「若い頃は、パイプ椅子を投げ飛ばしたり、議長席によじ登ったりしとったけどな。わしに1票を投じる人間の大半は、ああしたパフォーマンスが好きなんじゃよ。今のお茶の間のファンも同じようなもんだ」
 ―――こ…これだから、好きになれないんだよ。この爺さんはっ。
 キリキリ胃が痛みだす。第一、いまや“娘と孫の交際阻止”という唯一の協定部分でも対立してしまった、完全敵対関係にある自分の家に、一体何をしに来たのだろう? 善次郎は。
 「しかし、相変わらず、亡くなった奥方の写真で溢れかえっておるのー、この家は」
 過去に2、3度この家に足を踏み入れたことのある善次郎は、羊羹を口に運びながら、どこか感心したような声を上げた。
 「もう何年になるかのー、奥方が亡くなられてから」
 「…もうすぐ10年、といったところですか」
 「10年か。そうか、そんなに経つか」
 10年―――…。
 1日だって、忘れたことはない。昭夫にとっては、人生で最も悲しかった日だ。10年経とうが20年経とうが、この痛みは決して癒されることがない―――深い深い、後悔を伴って。


 昭夫の妻が突然この世を去ったのは、年明け間もない1月の寒い日だった。
 昭夫はその頃、年末年始を通して、ずっと講演会続きで忙しかった。バブル崩壊の足音が迫ってきている時期で、好景気に関する講演と、いつかこの好景気は弾けるぞ、という講演、両方の依頼が殺到していたのだ。
 以前から昭夫は、講演会には妻を伴うのを習慣としていた。当然、この時も妻は、日本列島を北へ南へと忙しなく移動する夫について、日々忙しく過ごしていた。
 元々、大変裕福な家の次女として生まれ、アルバイトをしたこともなければ働いたこともない、本当に絵に描いたようなお嬢様だった妻は、この年齢になって初めて体験するこうした忙しない日々を、それなりに楽しんでいるように見えた。
 昭夫の書く原稿を読み、ここは素人には分かり難いわね、などと指摘するのは妻の仕事だったし、昭夫の服装をコーディネートするのも妻の仕事。仕事の上でも、まさに女房役として、せっせと尽くしてくれた。おっとりしているので、仕事は決して速くはなく、時折ミスをしては「これだから世間知らずは駄目なのねぇ」としょげていたが、それでも楽しそうだった。

 そんなある日。
 講演会のために訪れた四国の、とあるホテルの1室で。
 朝、目が覚めた昭夫は、隣のベッドで寝ている妻が疲れ果てたように眠っているのに気づいた。連日の講演、連日の移動―――疲れてるんだな、と思って、そのまま起こさず、「行ってくる」とメモだけ残して、1人で講演会に赴いた。
 そして、夕方―――ホテルに戻った昭夫が見たのは、朝見た時と寸分違わぬ様子ですっかり冷たくなってしまった、妻の亡骸だった。
 死亡推定時刻は、朝8時から9時だと言われた。
 癌でした、発見時は既に手遅れでした、奥さんもそれを知ってました、と後から主治医に聞かされて―――どうしてそれを信じられようか。
 自分の余命がないと知っていたのに、ずっと自分の講演について回っていたなどと―――どうして、信じられるだろう?


 「わしのとこも、ほとんど看病する暇もなく、いきなり逝ってしまったからなぁ…。ましてや、あんたんとこは、うちのばーさんと違ってまだ若かった。いまだにこんなに写真を飾りたくなる気持ちも、分からんでもない」
 ため息混じりにそう言い、善次郎はまたお茶をすすった。
 「死に目に立ち会ってやれんかったことを悔やむ気持ちも、よく分かる。見知らぬ土地で、誰にも看取られることなく死んで行くなんて、遺族とすればやるせなかろう」
 「…何が言いたいんですか、あんたは」
 苛立った表情で昭夫が言うと、善次郎は、はーっ、と大きく息を吐き出し、少し眉を寄せた。
 「人間、明日は何が起こるか分からんぞ、と言いたいんじゃ」
 「……」
 「いいのかね。たった1人残された娘と、反目しあったままで終わっても」
 「―――大きなお世話ですね」
 不貞腐れたように鼻を鳴らした昭夫は、そう言ってフイとそっぽを向いた。
 「もしかしてあんたは、老い先短くなったから、孫の暴挙にあえて目を瞑って“ものわかりのいいお爺さん”を気取った訳ですか」
 皮肉っぽくそう言うと、善次郎の顔が若干不愉快そうな表情になった。
 「お前さんも了見が狭いのー。わしが孫のご機嫌取りをしたとでも思っとるのかね」
 「あんたの助言を、そのまま流用しただけですよ」
 「…まあ、なあ。わからずやで、理解がなくて、椅子投げるしか脳のないじーさんで終わるよりは、最後には自分達の味方についてくれた理解ある祖父で終わった方がいいわな」
 顎に手を置いて難しい顔をした善次郎は、ふむふむ、とわざとらしく頷いてみせた。
 「しかし、わしが味方をしたのは、そんな理由じゃあないぞ。わしは、佳那子さん個人は気に入っておるし、当然隼雄も気に入っておる。ここで、お前さんとの確執を理由に突っぱねるのと、気に入った連中が好意をもって家を訪ねてくれるのと、どっちがわしのメリットになるか考えただけじゃ。わしのモットーは“人生は楽しく過ごす”だからな」
 「……」
 「―――隼雄が、心配しとったぞ」
 そっぽを向いていた昭夫が、驚いたように、善次郎の方を向いた。久保田が自分の心配をするなど、あり得ない話だ。
 が、善次郎の顔は、冗談を言ってる訳でも、かつごうとしている訳でもなさそうだ。常の善次郎らしからぬ、妙に穏やかな笑みを浮かべている。
 「亡くなった奥方のことで後悔するあまり、つい異常なほどの過干渉になるんだろう。なのに、こんな風に反目しあったままで、この先大丈夫なんだろうか―――そう、言うとった」
 「…久保田隼雄が?」
 「お前さんと1ヵ月半、寝起きだけとはいえ、半分同居しとったんだ。それだけの時間があって、お前さんの性格をプロファイルできないような隼雄じゃないぞ」
 初めて、昭夫の目が、明らかな動揺を見せた。
 細かなことを言われた訳ではないが―――今の話から、久保田が自分の本心を完全に見抜いていると、本能的に察してしまったから。
 「同じ“お嬢様”でも、佳那子さんは奥方の数倍、苦境に強い“お嬢様”じゃと思うがの。なにせ、こんなヒステリックな親バカに、面と向かって反旗を翻したんじゃからなぁ」
 「…物腰が柔らかくなっても、口は毒舌のままですね」
 ムッとしたように昭夫が睨むと、善次郎はふはは、と豪快に笑った。
 「ま、わしが言いたいのは、あの2人がどうしてもと言うんじゃったら、わしはお前さんとの確執なんてどーでもいい、っちゅーことじゃ」
 そう言って、よいしょ、と腰を上げる。どうやら、訪問の目的は果たせたと判断したらしい。
 「あとは、お前さんに任す。後悔しないよう、好きにすりゃあよかろう」
 「……」
 「死ぬ時、笑顔でおれるかどうかで、人生の価値は決まるぞ。お前さん、今のまま息絶えたとして、果たして笑顔でおれるかな?」
 ニンマリ、と笑ってそう言う善次郎の顔は、うんざりするほど、孫の久保田の笑い方と似ていた。


***


 ―――っとと…、待ち合わせに遅れちゃう。
 口紅を塗り終え、鏡に映った背後の時計を確認した佳那子は、慌てた様子で、ファンデーションや口紅をバッグに納めた。
 仮住まいの部屋を出て、廊下をパタパタと小走りに走る。そして、長い長い廊下を渡ったその先―――風流なすかし模様の入った障子の扉の前で、ピタリと足を止めた。
 「失礼します。佳那子です」
 「うむ」
 返事を聞き、戸の前にすっと膝をつき、礼儀作法通りの所作で、障子扉を僅かに開けた。
 中にいた善次郎は、何故か、トランプでタワーを作っている最中だった。
 ―――よく分からないわねぇ…お爺様の趣味って。
 「あの、これから出かけてきます。お夕飯は外になりますから」
 佳那子がそう言うと、タワーの5段目を積みかけていた善次郎が顔を上げ、興味津々な視線を返してきた。
 「なんじゃ、隼雄とデートか」
 「…いえ。久―――隼雄さんの友達でカメラマンになった人がいて、その人のグループ写真展が今日と明日、開かれてるんです。私にとっても元同僚なので、他の仲間とも誘い合って、見に行くことになっています」
 「ほー。まあ、隼雄が一緒なんじゃから、一種のデートじゃな。今時の若いもんは、ダブルデートとかトリプルデートとかやるそうじゃから、そういうのもたまには良かろう」
 「……」
 …確かに、ダブルデート、トリプルデートと言えなくもない。同行するのは、久保田と佳那子、神崎夫妻に、蕾夏なのだから。
 けれど、そこまで説明すると面倒なことになり、余計出掛けるのが遅くなってしまいそうなので、あえてそのことは黙っておいた。
 「隼雄が一緒なら、帰りに連れてきてくれんか。また一戦交えたくてな」
 「はい。あの―――それと」
 「ん?」
 「昨日…父の所に、行かれたそうで」
 実はこちらの方が、この忙しい最中に善次郎の部屋を訪れた、本当の理由だった。
 佳那子の言葉に、善次郎は、何故それを佳那子が知っているのか、という怪訝そうな顔をした。が、すぐに情報源に思い至ったのだろう。2、3回頷き、納得した顔をした。
 「運転手に聞いたんじゃな」
 「ええ。あの…父が何か、失礼なことでも申し上げなかったでしょうか」
 「いーや、別に何も言っとらんかったよ」
 「…本当ですか?」
 「いやーな顔はしとったけどな。そりゃあ、宿敵に陣中見舞いされれば、いやーな気分にもなろうて。ハハハハ…」
 そう言って善次郎が大きな口を開けて笑ったら、トランプのタワーが一気に崩れた。
 「あっ」
 「…あーあ。また一からやり直しか。もう3回目じゃな」
 既に2回、潰していたらしい。…やはり、善次郎の趣味は、よく分からない。
 「とにかく、わしは何も言われとりゃせんから、佳那子さんは何も心配せんでいい。早くダブルデートに行きなさい」
 早くも1段目に再チャレンジを始めた善次郎は、そう言って佳那子を追い払うような仕草を見せた。
 「…じゃあ、行ってきます」
 「ん。仲良うやれよ」


 この時、佳那子は、何か心にひっかかるものを感じていた。
 それが何なのか…後々になっても、結局は分からずじまいとなるのだが。


 この数時間後―――事態が思わぬ方向へと転がりだすことを、佳那子も、そして久保田も、まだ知る由もなかった。


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