←BACKStep Beat × Risky TOPNEXT→




angel in Angel town ―

 

 誰かに肩を揺さぶられて、瑞樹は渋々、眠りから覚めた。
 「お客様?」
 「―――…」
 眉間に皺を寄せ、重い瞼を無理矢理上げる。肩が重い、と思ったら、蕾夏の頭が乗っかっていた。彼女も目を覚ましたらしく、僅かに身じろぎしている。

 ―――ここ、どこだっけ。

 一瞬、夢と現実の区別がつかず、自分がどこに居るのか思い出せなかった。
 が、少し目を上げて、そこにお馴染みの制服を見つけて、やっと自分の置かれた状況を理解した。

 「お客様。ヒースロー空港に着きましたよ? お降りになっていただけますか?」

***

 「―――なんか、間違ってると思う。私達って」
 まだ頭の芯に眠気を残したまま、蕾夏が少し首を傾げるようにする。それに同意するように、瑞樹も前髪を掻き上げた。
 「…確かに、電車ならよくある話だけど…飛行機は珍しいよな」
 飛行機恐怖症の蕾夏にとっては、恐怖の瞬間でしかない筈のランディング。それすら、全く記憶にない。10時間以上ものフライトのうち、一体何時間寝て過ごしたのだろう? 映画も上映されていたが、最初の1本しか覚えていないのだから、全行程の半分位は眠っていたのかもしれない。
 「ま、良かったじゃん。お前、怖い思いせずに済んで」
 「うん。それは、確かに。―――ねぇ、それよりさ。瑞樹、さっきそこそこ英語喋れてたね」
 ついさっき通過してきた入国審査を思い出し、蕾夏はニッと笑って瑞樹を見上げた。
 「あの位は喋れるだろ、普通。入国審査の質疑応答なんて決まりきってるしな」
 「違う違う。発音の方。やっぱり、だてに英語科出てないなって思った」
 「…発音は、な。語彙がすっかり頭から抜け落ちてるから、会話能力は高校生並みに落ちてるぜ、きっと」
 大半の乗客が手荷物受取所へと流れる中、2人は到着ロビーへと流れていった。飛行機に乗せたのは今手にしているボストンバッグ1つのみ―――荷物は、時田に指定された住所に、既に送ってしまっているのだ。
 夏休みでも冬休みでもないこの時期、空港内に溢れる人々は、大半がイギリスの人間だ。自分達より色素が薄く、顔のメリハリが豊富な顔、顔、顔―――ああ、外国に来たんだな、という事を、そんな部分で実感した。


 『成田君に、12月頭からの半年間、僕のアシスタントをやってもらいたい』
 時田郁夫に、イギリスに来るよう誘われてから、まだ2ヶ月。
 夏までは、それこそ「プロのカメラマンになる」という夢自体、遠い昔に諦めた夢だった。『フォト・ファインダー』誌のコンテストで時田賞を貰ってからも、野心を持つには至らなかった。
 それが―――今、それまでの仕事を辞め、確たる未来の約束もないのに、イギリスまで来ている自分。ひたすら突っ走ってきたので振り返る余裕はなかったが、改めて考えると、今こうしてヒースロー空港に立っていること自体、もの凄く不思議なことだ。
 そして、もっと不思議なのは―――そんな自分の隣に、蕾夏がいること。
 “夢は、いつの日か、瑞樹の写真集が書店の店頭に並ぶこと”。その一念で、それまでの仕事を捨ててまでイギリスに来てしまった蕾夏に、今でも時々、本当に良かったんだろうか、という思いが頭をよぎる。
 けれど。結局、これが一番、瑞樹にとっても蕾夏にとっても無理のない、最も自然な流れなのだろう、とも思う。
 2人で同じものを見、同じものを感じ、その瞬間を共有したい―――ずっと、その思いだけは変わらなかった。その延長線上に今の自分達がいるのだから、傍目には突拍子もない展開であっても、これは極自然な流れ。そう、素直に思えた。

 ―――それぞれの道を、それぞれの速さで歩いていた筈なのに…ある日ふと、足音がピッタリと、重なるのを聞いた。
 不思議に思って隣を見ると、そこに、君がいた。

 父が体験した、奇跡。そして、瑞樹が体験した、奇跡。
 かつては「あり得ない」と思っていたそんな奇跡を、極自然で当たり前の事と思える自分が、不思議でたまらない。

 でも。
 奇跡なんてものは、案外、そんな風にさりげなく、当たり前のように起こるのかもしれない。

***

 「やあ。長時間のフライト、お疲れ様」
 到着ロビーを行き交う人の中、時田の方が2人を見つけ、声をかけてきた。
 今日は撮影モードではないらしく、服装はカジュアルなものの、トレードマークのバンダナは巻いていない。瑞樹の方に手を差し出し、人懐こい笑みを見せる。
 「土壇場になって逃げられちゃったら、どうしようかと思ってたよ」
 「…そんな事、できる訳ないでしょう。前金で全額貰ってるんですから」
 瑞樹はそう言って苦笑し、時田と握手を交わした。
 「藤井さんも、久しぶり」
 「お久しぶりです」
 差し出された時田の手を握りながら、蕾夏はニコリと笑った。
 当初、時田は蕾夏のことを“蕾夏ちゃん”と呼んでいたのだが、イギリス行きを正式に受けた時、苗字で呼ぶよう蕾夏自ら頼んだ。
 瑞樹と違い、蕾夏は正直なところ、何をしにイギリスに行くのか、いまひとつはっきりしていない。でも、アルバイト料を貰って行くからには、仕事であることに違いはない。これは、仕事―――そう自覚するために、けじめが欲しかったのだ。
 「今日はもうこの時間だし、さっさと住む所に案内しちゃうけど、いいかな」
 「構いませんよ」
 「そう、良かった。今日、車で来てるんだよ。ここからだと、大体1時間位かな」
 なるほど―――念のため国際運転免許を取ってこい、と言われた理由を、瑞樹は察した。どうやら時田の移動手段は、車が主らしい。車を駐車場に停めているとのことなので、時田の背中に続いて駐車場まで移動した。
 外から見るヒースロー空港は、妙に閑散として見えた。天気があまり良くないのか、頬に当たる風がちょっと冷たい。
 「蕾夏、大丈夫か」
 時田に聞こえないよう、瑞樹が小声で確認すると、蕾夏はちょっと笑ってコクンと頷いた。一番厚手の上着を荷物として送ってしまったので、行きが寒くないか、ちょっと心配していたのだ。
 緯度からすれば樺太あたりと同じであるロンドンだが、何故か気温は、今朝日本を発つ時の東京の気温と、あまり違いが感じられない。かつて夏場にロンドンに行ったことのある蕾夏の父は「北海道の夏みたいに寒かった」と言っていたが、冬はそうでもないらしい。
 何故、年間を通じて同じだけ気温が低くならないのだろう? ―――地学には疎い2人なだけに、その辺の自然の仕組みは、さっぱり見当がつかない。とにかく、心配したほど寒くないらしいとわかり、ホッとした。
 「この車だよ。助手席は使っちゃってるから、2人とも後ろに乗ってくれるかな」
 そう言って時田が立ち止まったのは、紺色のフィアット・ウーノの前だった。
 一目見て、時田の性格がわかる。間違いなく、本来、車には興味がないタイプだ。紺色なんていう、洗車しなかったらすぐバレてしまう色を選んでいるのに、この雰囲気だと2ヶ月は洗車していない。車は是が非でも完璧に磨き上げるタイプの久保田が見たら、眉をつり上げて「教育的指導」を入れそうだ。
 「…ねぇ。やっぱり時田さんて、お父さんと似てると思う」
 後部座席に体を滑り込ませる直前、蕾夏が耳元でそう囁いた。
 「なんで?」
 「お父さんが前乗ってたミニ・クーパーも紺色だったけど、お母さんが怒鳴らないと、ほとんど洗車してもらえなかったの」
 「―――なるほど」
 だから今は、手入れの楽なシルバーカラーに乗っているのか―――以前乗せてもらった蕾夏の父の車を思い出して、瑞樹は納得したように苦笑した。

***

 がたん、という振動を感じて、我に返った。
 いや、我に返ったのではなく―――目が覚めたのだ。
 「―――!」
 慌てて、斜めに傾いていた体を起こす。途端、運転席からこちらを振り返って笑っている時田と目が合った。
 「よく寝てたね。着いたよ」
 「す…みません、運転してもらってる最中に…」
 恐縮しつつ横目で確認すると―――やっぱり。予想通り、蕾夏も眠っていた。しかも、まだ目を覚ましていない。時田には見えない所で、蕾夏の手をくいくい引っ張ると、窓ガラスにもたれかかっていた頭が、やっとピクリと動いた。
 つい15秒前の瑞樹同様、蕾夏も我に返ったようにパッチリと目を開け、慌てて体を起こした。
 「や、やだっ、私ってば! ごめんなさいっ」
 「いやいや、いいよ。着いたから、降りて」
 くすくす笑う時田に、言葉もない。3ドアなので、蕾夏の側からしか降りられない。蕾夏は、動揺しながらも、慌しくドアを開けた。その様子に余計楽しげに笑いながら、時田も運転席のドアを開けた。
 「本当、そんな恐縮することはないよ。十何時間も空の上を飛んでて、やっぱり緊張してたんだろう。疲れが出るのも無理はないからね」
 「―――…」
 ―――言えねーよな…。飛行機の中も、大半、眠ってたなんて。
 でも、考えてみたら、日本とイギリスの時差は9時間―――イギリス時刻に合わせ済みの腕時計は、午後6時半を指しているが、日本は真夜中なのだ。やたらと眠ってしまうのは、日本に合わせられた体内時計が原因かもしれない。人はこうして時差ボケになるのだと、身をもって実感した。
 車を降り立った先は、テレビや雑誌で知るイギリスとはちょっと違った町並みだった。
 ロンドンの石造りやレンガ造りの大きな建造物とも、ストラトフォード・アポン・エイヴォンの縦縞模様の家並みとも違う―――確かにレンガ造りの古い建物が並んではいるが、どれも高さはさほどなく、上品でこじんまりしている。
 「可愛い街だねー…」
 先に降りていた蕾夏は、既に目がキラキラ状態になっている。大体蕾夏は、古い建物がやたら好きだ。神戸でも旧居留地の古いビルを見て目を潤ませていたし、横浜でもそうだった。
 「お前、感動メーターが振り切りっぱなしになりそうだな」
 苦笑して瑞樹が言うと、蕾夏はちょっと唇を尖らせた。
 「瑞樹だってこういうの、嫌いじゃないでしょ」
 「まぁな。なんて街だっけ、ここ…」
 「Camden Passage(カムデン・パッセージ)だよ」
 荷物を送る時に書いた住所を記憶の底から引っ張り出そうとしたところ、先に時田がフォローを入れてくれた。
 「地下鉄は、ここから歩いて10分弱かな。駅の名前聞いたら驚くよ」
 「え?」
 「凄いよ。Angel(エンジェル)っていうんだから」
 随分とメルヘンチックな駅名もあったものだ。2人揃って、ちょっと目を丸くしたが、
 「じゃあここ、天使の街なんだ…ピッタリな名前だよね」
 嬉しそうに笑って言う蕾夏の言葉に、確かにそうかもしれない、と瑞樹も思った。

***

 時田に案内された家は、この辺りでは比較的新しい造りの2階建ての家だった。
 京都のように、景観に規制でもかけられているのか、一見古い建物のように見えるが、上品なベージュ色の外壁は、建てられてから何十年も経っているようには見えない。燻したような色をした小さなプレートがドアの横に打ち付けてあって、そこにはローマ字で「ICHIMIYA」と彫られていた。どうやら日本人の家らしい。
 時田がドアベルのボタンを押すと、ジリリリリ、という、日本では考えられない音色のドアベルが鳴った。これでは目覚まし時計だ。
 ほどなくしてドアが開き、ふくよかな中年女性が顔を出した。予想通り、どこから見ても日本人だ。
 「今晩は」
 「いらっしゃい。待ってたわよ」
 挨拶した時田に笑いかけた彼女は、時田の背後に控えていた瑞樹と蕾夏の方を見、目を細めた。
 「長旅で疲れたでしょう? 早く入って頂戴ね。自己紹介は中に入ってからにしましょ」
 言いながら、家の奥へと促す彼女に従って、時田はすぐに中に入った。瑞樹と蕾夏も、それに倣って家の中に入ったが、ふと疑問がよぎる。
 正直、案内されたのが個人宅であったことを、2人共ちょっと意外に思っていた。日本で言うところのウィークリーマンションのような物でも借りるのかと思っていたのだ。確かに荷物の送り先は1ヶ所だったが、それについてはあまり深く考えていなかった。
 ―――もしかして、この家に、2人揃ってホームステイするんだろうか。
 同時に同じ考えに行き着いたらしく、2人は互いの顔をチラリと見た。もしそうだとすると、嬉しいような、困るような、なんとも複雑な気分だ。
 案内されるままに進むと、そこはいわゆるダイニングだった。一番奥には中年の男性が、そしてその手前には若い男性が座っていて、瑞樹達が入ってくると同時に、ガタガタと席を立った。
 日本人―――では、ないだろう。2人とも。でも、イギリス人と断言するのも微妙な顔立ちだ。
 中年男性の方は、年齢的には40代後半だろうか。上品な口ひげとアーガイル柄のベストが、いかにも英国紳士っぽいムードを醸し出している。
 そして、若い方は―――なんだか知らないが、やたらと、綺麗な顔をしていた。
 このシチュエイションからすると、迎えに出た女性と英国紳士風のこの男性の息子なのだろうと思うが、それにしても、妙に綺麗な顔すぎる。金髪に近い色のサラサラとした髪、弓なりの眉、涼やかだが睫毛が長くてはっきりとした目元、ほど良い大きさの唇―――フレームなしの眼鏡をかけているが、それを外せば、即、アイドルかモデルでもできそうな顔立ちだ。
 とはいえ。瑞樹にしろ蕾夏にしろ、「綺麗な顔の男」には免疫がある。なにせ、和臣という「似非ハーフな美少年系の綺麗な男」が身近にいたのだから、ちょっとやそっとの美形でうろたえたりはしない。目の前の美形にも、なんだか美青年と縁があるよなぁ、と思うだけだった。
 「順番に紹介するよ。―――この人は、一宮淳也(じゅんや)さん。僕の義理の兄」
 時田はそう言って、中年男性の方を流し見た。時田の義理の兄だという人物は、紹介を受けて、恭しく頭を下げた。
 「で、こっちが僕の姉で、一宮千里(せんり)
 出迎えた女性が、そう紹介され、にっこりと笑う。なるほど―――つまりここは、時田の姉夫婦の家な訳だ。やっと状況が飲み込めた。
 「そしてこの子は、僕の甥っ子の1人で、一宮 (るい)。日頃はシティの方にあるフラットにいる事が多いんだけど、今日は特別に帰ってきたんだ」
 「今晩は」
 例の美青年が、フワリと柔らかな笑みを浮かべて、頭を下げた。やたらと綺麗な顔をしている割には、醸しだす雰囲気や表情は穏やかで柔らかい。
 「本当はもう1人、こいつの双子の兄貴で奏っていうのがいるんだけど―――忙しい奴でね。また改めて紹介するよ」
 「えっ…この顔が、もう1人いるんですか」
 それは凄い。蕾夏が思わず本音を漏らすと、時田と一宮家一同は、よく似た感じの苦笑を返した。
 「そうなのよ。この顔がもう1人いるの。揃うと面白いわよ、鏡みたいで。でも、性格は正反対でね。家にもほとんど寄り付かないの」
 千里の言葉に、蕾夏はちょっと頬を染めて「そ、そうですか」と相槌を打った。もしかして累が気を悪くしたのではないかと一瞬思ったが、累は全く気にした様子もなく、ニコニコしていた。言われ慣れているセリフなのだろう。
 「で…。こちらが、成田瑞樹君。僕の―――なんだろう。アシスタント、って名目にはなってるけど…」
 「弟子でいいんじゃないですか」
 ニッと笑って瑞樹が言うと、時田は眉を寄せて首を傾げた。
 「それは変だろう? うーん…カメラ仲間か」
 「…力量と知名度で差がつき過ぎなんじゃあ…」
 「―――まあ、とにかく、僕の初のアシスタント・カメラマンをしてくれる人だ。うん。で、こちらは、藤井蕾夏さん。僕のアシスタントというよりは、成田君のアシスタントかな」
 「へえ、ライカ…かぁ。郁夫君のカメラと同じ名前だな」
 「成田君のカメラとも同じ名前だよ」
 そう言って、あはは、と笑い合う時田と淳也に、蕾夏の笑顔が引きつった。写真の世界で生きていくと、行く先々でこのセリフを言われ続けるんだろうか―――今更ながらに、この名前をつけた父を恨めしく思う。
 「とまあ、自己紹介が終わったところで―――さっそく夕飯にする?」
 「ああ、まずは部屋に案内しないと。累、悪いけどテーブルの準備しといて」
 そう言って千里は、時田や淳也にも細々と指示を出した。どうやらこの家では、千里が中心となっているらしい。焼きたてのパンが似合いそうな千里は、確かに「お母さん」という言葉がピッタリではある。
 「半年間、よろしくね。日頃は夫婦2人きりだから、息子と娘が出来たつもりでいるから、家族だと思って頂戴。瑞樹、蕾夏、って呼んでもいいかしら」
 2人を2階へと促しながらそう言う千里に、2人も笑顔で承諾の意を表した。瑞樹が名前を呼ぶことを了承するのは珍しいが、思わずイエスと言わせるムードが、千里にはあった。
 軽く螺旋を描く階段を上りながら、千里は更に続けた。
 「私達夫婦は1階を使ってて、今、2階は丸々空いてる状態なの。でも、月に何度かは累が戻ってくるし、奏も気まぐれに戻ってくるから、1部屋はあの子達のために確保して、もう1室を学生さんなんかに提供してるの。私、高校でカウンセラーやってるから、うちの高校の交換留学生を受け入れたりもするし―――エンジェルの周辺は、結構若いアーティストなんかが多くてね。この家、元々はピアニストが住んでたから、防音もしっかりしてて重宝されるのよ。先々月に空室になったところだったから、2人ともラッキーだったわね」
 「…はあ…」
 かなりの早口でそう説明され、なんだか重要な部分を聞き流してしまった気分になる。何かひっかかるものを感じながらも、千里に続いて2階に上がった。
 「ええと、突き当たりがバスとトイレね。1階には別にあるから、あなた達で自由に使っていいから。で、こっちの左手側のドアが、一応累の部屋。今では奏と共有で使ってるけどね。そして、こっちの右側のドアが、あなた達の部屋ね」
 「―――は?」
 瑞樹と蕾夏の声がだぶった。
 もの凄く、不審げな声を出した筈なのだが、千里はそれに気づかなかったらしい。さっさと右側のドアを開け、部屋の電気をつけた。
 「広さは結構あるでしょう? 元々グランドピアノが入ってた位だものね。あ、その階段上がったところがロフトになってて、もう1台ベッドを入れてあるの。天窓があって、天気がいいと夜空が見えるんで学生さんに評判いいのよ。じゃんけんして勝った方が使うといいわ。で、そのドアが、直接外階段に繋がってるドア。下の玄関の鍵とは別の鍵がついてるから、あなた達で鍵の管理をして。うち、共働きで留守が多いから、日頃の出入りはここから自由にしていいから」
 「―――…あの…」
 なかなか声が出てこなかったが、やっと瑞樹が、一言だけ口を挟んだ。
 「俺達の部屋、ってことは、その―――俺と蕾夏、って意味ですか」
 すると千里は、キョトンと目を丸くした。
 「他に誰がいるの?」
 「……」
 「郁夫から聞いたけど、瑞樹と蕾夏は親友同士なんでしょ? あら、もしかして違った?」
 「…いや…違わねーけど…」
 思わず敬語も丁寧語もどこかへ行ってしまう。蕾夏の方をチラリと見下ろすと、蕾夏も呆然とした顔でこちらを見上げてきていた。
 「旅先で一緒の部屋で寝ちゃったこともあるって聞いたけど」
 ―――言うなよ、そんな話…。
 頭が痛くなってくる。江ノ島のホテルで映画を見ながら眠ってしまった話は、確かに時田と3人で会った時にしたと思う。遠方に撮影に行くと部屋が人数分取れないこともあるけど構わないか、と言われたから、別に気にする事はない、というつもりで、その話をしたのだ。その結果、こうなるとわかっていれば、そんな話は死んでもしなかった。
 「あ、届いた荷物は奥に置いてあるわ。家賃の話とか食事の話とか、混み入った話は明日にしましょ。とりあえず、荷物を置いて上着を置いたら、下にいらっしゃいね。すぐ夕飯にするから。あ、これ、その出入り口の鍵」
 千里はてきぱきと話を進めると、1本の鍵を瑞樹の手に握らせ、鼻歌を歌いながら出て行ってしまった。まさか、イギリスまで来て“瀬戸の花嫁”の鼻歌を聞く羽目になるとは想像していなかった―――遠ざかる歌声を聞きながら、瑞樹も蕾夏も、しばしその場に呆然と立ち尽くした。
 「…千里さんの感覚だと、親友同士なら同じ部屋に住んでもいい、ってことみたいだね」
 「―――恋人同士だってバラしても、やっぱり同じ部屋になりそうな気するぞ」
 「うん…なんか、そんな気する。というか―――やっぱり、時田さんのお姉さんだよね…」
 「やることが何気に強引なところとか、な」

 まさか。
 いくらなんでも、まさか、一つ屋根の下どころか、同じ部屋に住むことになるとは。
 ますます、喜んでいいのやら、困り果てればいいのやら―――なんとも、複雑な心境だった。

***

 総勢6名でテーブルを囲んでの夕飯は、かなり騒々しかった。
 騒々しい理由の大半は、一宮夫妻と、時田が原因だ。
 話している事の大部分は、淳也と千里の馴れ初めの話。2人のキューピッド役をしたのが、時田らしいのだ。それを、時田の自慢と一宮夫妻のノロケを交えつつ、延々と聞かされた訳だ。
 時田は、高校卒業後、日本の大学には行かず、イギリスに留学した。そこで淳也と出会い、夏休みにイギリスに遊びに来た千里に紹介した。2人はあっという間に意気投合、3ヵ月後に電撃入籍してしまったのだという。
 累達が5歳の時に、淳也が勤める出版社が日本にも支局を作ることになり、その立ち上げに、日本人とイギリス人のハーフである淳也に白羽の矢が立ち、帰国。再びイギリスに呼び戻されたのが8年前―――そんな家族の変遷まで聞かされた。食事が終わる頃には、一宮家の歴史はほぼ把握できてしまった。
 でも、なるほど、と思った部分もある。累の日本語が、イギリスにずっと住んでいたにしては、やたらと自然なのだ。6歳で日本に移り住み、戻ってきたのが8年前。ならば、つまりは子供時代から少年時代の大半は日本で暮らした、ということになる。蕾夏とは逆パターンだ。
 小さい頃は「ガイジン」と言って同級生に苛められたが、兄である奏が、大人しい累を庇ってよく喧嘩をしていた、などという話を聞かされて、瑞樹も蕾夏も、それぞれに自分の子供時代を重ね、共感を覚えた。

 ところが。
 実は隠された歴史があることが、食事の後、累によって明かされた。


 「え…、本当の親子じゃない、って…」
 軽い調子で累が口にした言葉に、瑞樹と蕾夏は目を丸くした。
 「うん。僕も、奏も、父さんと母さんの子じゃないんだ。全然血が繋がらない、他人の子だよ」
 「…どういう事だよ」
 眉をひそめる瑞樹に、累は、極めて落ち着いた調子で説明を続けた。
 「僕と奏は、捨て子なんだよ。生まれた病院で、産んだ母親に置き去りにされたんだ。父さんと母さんは、それを引き取って育ててくれたんだよ」
 「……」
 意外だった。
 まだ出会ってから数時間だが、淳也や千里、そして累は、みんな同じ“色”に見えた。顔が似ている似ていないの問題ではなく―――同じ血が流れているという感じがする、同系の色合い。それは、一宮家の3人だけでなく、累の叔父にあたる時田にまで感じた。ああ、同じ家族なんだな、と。
 「―――ふうん…。やっぱり家族って、後天的なものなんだねぇ…」
 どこか感心したような口調で、蕾夏がそう呟いた。意味がわからなかったらしく、累はキョトンとした顔をした。
 「後天的?」
 「血の繋がりで家族になる訳じゃないんだなぁ、ってこと。だって、累君達って、間違いなく本当の親子だもの。ね、瑞樹」
 「…そうだな」
 同意を求める蕾夏に、瑞樹も微かな笑みを返した。
 そう―――遺伝子の繋がりなんて、生物学的には重要かもしれないが、「家族」であることにはあまり関係ないのかもしれない。累と両親―――それと比較した時の、瑞樹と、母。それを考える時、やはりそういう結論に辿り着かざるを得ない。
 「俺なんかから見ると、羨ましい位“親子”してるよ。累も、千里さんも、淳也さんも」
 瑞樹がそうサラリと言うと、累は少し眉をひそめた。その言葉の奥に、瑞樹が何か複雑な事情を抱えていそうだという事を察したのだ。が、あえて訊ねるような真似をするタイプではないらしく、累はちょっと笑みを見せて、頭を掻いた。
 「うん―――僕も、そう思う。小さい頃から教えてもらってたから、大きなショックを受けるような体験もなかったしね。今、父さんが働いてる出版社で専属のライターをしてるんだけど…父さんの会社を選んだのは、やっぱりそこが“父さん”の会社だからだと思う」
 照れたようにそう言う累の様子に、瑞樹は口元をほころばせた。が、蕾夏はちょっと複雑な表情をしてしまう。
 瑞樹のセリフに、思い出したのだ。彼が、自分の人生から切り捨てた、あの女性の事を。

 ―――多分、瑞樹も今、思い出してるんだろうな…。
 ちょっと、胸が、痛む。
 イギリス行きを決める時、彼女の置かれた状況を忘れていた訳ではない。咄嗟に思った―――日本に帰ってくるまで、もつだろうか、と。イギリスにいる間に死んでしまう可能性の方が高いのではないか、と。けれど、瑞樹は「構わない」と言っていた。元々、二度と会わないと決めた人だ。それは、死んだ後も同じ―――葬儀に出るつもりもない。そう言った。
 ―――まだ、お母さんのために流せる涙は、瑞樹には無いんだ。
 血の繋がりって、一体、何だろう―――累の笑顔を見ながら、蕾夏は、苦い思いを噛みしめていた。

***

 ―――眠れねー…。
 暗闇の中で寝返りを打ちつつ、瑞樹は小さくため息をついた。
 時計を確認すると、夜光塗料の塗られた針は、午前1時を指していた。ということは、日本時間では午前10時―――思いっきり、仕事の時間だ。
 元はと言えば、飛行機で眠り、車でも眠った自分の責任ではあるが、日本に居た時、まともな睡眠習慣など皆無に等しかっただけに、何故海外に来てからまともに体内時計が働くんだよ、と腹が立ってくる。
 でも、眠れない理由は、それだけではない。
 気にするな、と思っても、やはり気になってしまう―――頭上に居る存在を。
 じゃんけんをするまでもなく、屋根裏部屋のような形になったロフトは、蕾夏に譲り渡した。着替えだ何だと、蕾夏の方がより隔離された空間が必要だからだ。
 同じ部屋で眠るのは初めてではないが、こういう“普通に眠る”状態は初めてだ。大半はビデオを見ながらの居眠りがそのまま朝まで眠ってしまった、というケース―――若干1回、違う時があるが、その1回の事を考えるのはやめておく。考え始めると、余計眠れなくなる。
 「―――瑞樹…」
 もう一度寝返りを打ったところに、突如、頭上から細い声が降ってきた。一瞬、心臓が止まりそうになる。
 「…なに」
 「ん…まだ起きてる?」
 「全然眠れねぇ…」
 「私も…。これって時差ボケってやつかなぁ?」
 「だろうな。話には聞いてたけど―――俺、海外行ったのって、時差2時間までだから」
 大学の写真部の連中に無理矢理連れて行かれた中国と、社会人になってからどうしてもボロブドゥール遺跡が撮りたくて行ったインドネシア。どちらも時差2時間以内だった。
 「私、アメリカから帰ってから、日本から出てないもん…時差なんてもう覚えてないよ」
 「第一、1時頃って、日本だったらまだ起きてるよな」
 「だよねぇ」
 少し、会話が途切れる。途端、なんだか気まずい空気が、高い天井とフローリングの床との間に流れる。次に口を開いたのは、蕾夏の方だった。
 「―――ねえ、ちょっと、ここ上がってこない?」
 「……」
 やたらと、心細そうな声。
 一体どういうつもりなのか、真意が掴めない。思わず不機嫌な声を返してしまう。
 「…バカ。そういうセリフ、平然と言うなよ」
 「…ダメかなぁ…。空、晴れたみたいだよ。天窓から、月が見える」
 ちょっとその言葉には、気持ちが動く。でも。
 「駄目」
 「…ごめん。なんか、寂しくて」
 ―――ああ、もう。
 蕾夏の恐ろしいところは、これが男の耳には“誘っている”ようにしか聞こえない、という事に、当の本人は全く気づいていないところだ。苛立ったように髪をぐしゃっと掻き混ぜると、瑞樹は起き上がった。
 脱ぎ捨てていた靴を履いて、ロフトに上がる階段の下に揃えて脱ぐ。こういうのが、家の中では靴を脱ぐ習慣を持つ日本人には結構面倒だ。
 壁伝いに階段を上ってロフトに上がると、蕾夏はフロアベッドの上に起き上がって、膝を抱えていた。
 天窓から射す月明かりの中、膝を抱えて丸まっている蕾夏は、なんだか人間ではないように見えた。天使か何かが、元居た世界に戻れなくて、ここで泣いているみたいに―――そういう、別世界のものに見えた。
 蕾夏は、瑞樹が上がってきた気配に気づいたのか、顔を少し上げ、瑞樹の方を流し見た。その目から、涙が零れ落ちるのを見て、さすがに瑞樹も顔色を変えた。
 「―――何、泣いてんだよ」
 「…うん…ごめん。よくわかんない」
 ため息を一つつくと、瑞樹は蕾夏が膝を抱える隣に腰を下ろした。屋根に沿って斜めにとりつけられた天窓から、青白い半月が見える。
 「なんかさ…さっきの累君の話聞いてたら、思い出しちゃって」
 手の甲で涙を拭いながら、蕾夏がポツリと呟いた。
 誰を、とは、聞かなくてもわかる。瑞樹が一瞬思い出したのと、同じ人の事だろう。半年後、この世にいる可能性が低い、瑞樹と遺伝子で繋がっているだけの女性―――二度と、会う事のない人。
 「…お前が泣くこと、ないだろ」
 瑞樹はふっと笑うと、蕾夏の頭を抱き寄せた。
 「俺は、累を“羨ましい”とは思うけど、“妬ましい”とは思わねーし」
 「…うん」
 「自分を特別、“可哀想”とも思わない。…言っただろ。蕾夏しかいらないって」
 「―――うん…」
 慰めるように髪を梳くと、蕾夏は、まだ涙を湛えている目で見上げてきた。頬に落ちた涙を掬うように、思わずその頬に唇を寄せる。

 そう―――蕾夏しか、いらない。
 何を失っても、誰に傷つけられても、蕾夏が傍にいれば、後はどうでもいい。腕の中にいるこの存在さえあれば、他のものなんて、何もいらない。

 頬に寄せた唇を、瞼に、額に、唇に、微かに落とす。最大限優しく、繰り返し繰り返し、何度も。
 蕾夏も素直に受けていたが、それが喉元に移った時、抱いている肩がびくん、と強張った。
 「―――…っ」
 息を呑む気配に、一瞬飛ばしかけた理性が繋ぎとめられる。目を上げると、ちょっと動揺したような蕾夏の顔がそこにあった。
 「…怖い?」
 「―――ご…めん」
 落ち込んだような様子でそう告げる唇も、僅かに震えていた。

 こういう事は、初めてではない。
 ちょっとしたことで、蕾夏の体は、すぐに過去の恐怖を甦らせてしまう。頭では大丈夫だとわかっていても、その恐怖心を凌駕するだけのものがないと、一瞬で夢から覚めてしまう。過去に2度、瑞樹と体を重ねていても、それはまだ完全には克服できないほどの根深さで残っている。
 だから、こんな時は、僅かに開いたドアの向こう側の様子を探りながら、お互いに歩み寄れる距離を探す。
 瑞樹が伸ばした手と、蕾夏がそれを掴もうとする手が、ギリギリ届く範囲を模索する。

 済まなそうな顔をしている蕾夏に、瑞樹は、気にするな、と言うような笑みを返した。
 それに安堵したのか、蕾夏も微かに笑顔を見せ、体の力を抜いた。少し甘えるように、瑞樹の肩に頭を預ける。
 「こうしてたら、眠れるかな―――…」
 「…そうだな」
 ―――温かい。
 傍らにある体温が、ひとりの時には絶対に訪れようとしなかった眠りを運んで来る予感がする。もう少しだけその温かさが欲しくて、瑞樹は、小さな肩を更に引き寄せた。

 

 リミットは、半年。使命は、最高の写真を撮ること。
 必要なものは、カメラとフィルム、そして―――蕾夏だけ。

 未来を賭けたゲームの第1日目は、そんな風に過ぎていった。


←BACKStep Beat × Risky TOPNEXT→


  Page Top
Copyright (C) 2003-2012 Psychedelic Note All rights reserved. since 2003.12.22