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時差ボケを克服した2人が本格的に活動しだしたのは、ロンドン到着から3日後だった。
「うわぁ…すごーい! 凄いよ、瑞樹っ! “
感動ボルテージがMAXまで上がっている蕾夏のセリフに、背後で見ていた時田が首を傾げた。
「…“趣ビル”?」
「ああ―――たとえば、ああいう、古い石造りのビルとか」
蕾夏の造語には慣れっこの瑞樹が、そう言って、通りの向こうのビルを指した。実際のところ、その隣も、そのまた隣も同じようなビルなのだが。
「歴史がありそうで、何とも言えない趣があるから、“趣ビル”」
「…藤井さんて、凄い感性してるね」
「ねぇ、撮ろうってば! 凄いもん、ここ。“宝物”だらけだから、フィルム足りないよ、きっと!」
時田に説明している瑞樹の腕をぐいぐい引っ張って、蕾夏は目的地に向かって歩き始めていた。本当は時田は、今の“宝物”もよく意味がわからなかったのだが、もう邪魔することは許されないムードだった。
ロンドンで最も賑わっている通りの1つ、オックスフォード・ストリート。実態からすれば、並んでいるのはデパートだったりするのだが、その外観が凄すぎた。
どの建物を取っても、日本ならば「歴史的建造物」と言われてしまいそうな、重厚な造りの古い建物ばかり。喩えるならば、東京の迎賓館のような建物に、当たり前のように土産物屋やファーストフード店が入っている。靴屋も、CDショップも、生活雑貨の店も、どれもこれも「歴史的建造物」もどき。蕾夏の言葉を借りるなら、もう、目に入るもの全てが“趣ビル”なのだ。
「そう慌てるなって。ビルは逃げねーから」
腕を引っ張る蕾夏に瑞樹が苦笑すると、蕾夏はちょっと唇を尖らせた。
「そんな事ないよ。ビルは逃げないけど、感動は逃げちゃうでしょ」
「―――珍しく正論…」
「あ、なにそれ、失礼な。瑞樹だって今、結構感動してるでしょ?」
「まぁな」
蕾夏ほどではないが、瑞樹もこういう古い建造物は嫌いではない。特に、そういう古めかしい建物と現代のもののミスマッチは、瑞樹から見てもかなり面白い。それに、看板ひとつ、道端の標識ひとつ取っても、なんだか絵になるものが多い。そういったものを1つ1つ撮っていくだけでも、あっという間にフィルムは無くなるだろう。
「なあ、成田君」
はす向かいにあるパブにライカを向けている瑞樹の背中を、時田が叩いた。
「“感動が逃げる”って、どういう意味なんだい?」
振り向いた瑞樹は、一瞬、訊かれていることの意味がわからない、という風に眉をひそめたが、自分達にはわかった事が時田には通じなかったらしいな、と察して、微かに笑みを浮かべた。
「感動した瞬間に撮っておかないと、次に同じもの見た時には感動できないかもしれない、っていうような意味かな…」
「…へえ…確かに、正論だな」
ちょっとうわの空気味に相槌を打った時田は、「いいよ、どんどん続けて撮って」と言って、2人から少し離れた。
時田もまた、日頃の習性でカメラを持ってきてはいるが、今更ロンドンの街並みを撮ることもない。つまりは「感動が逃げ」てしまった状態な訳だ。“趣ビル”を見ようが、ダブルデッカーを見ようが、別段感動はしない。いつも見ているものだから。
そんな訳で、今日はもっぱら、瑞樹と蕾夏の観察が主目的だった。
初めてあの写真―――瑞樹がフォト・コンテストのために送ってきた『
贅沢な写真だ、と思った。
屋久島の原生林の全てを撮ろうとしている写真。そこに流れる空気も、時間も、音も、色も―――更には、主題となっている屋久杉が過ごしてきたであろう何千年という時間の流れも―――屋久杉を抱きしめる人物の姿に、その全てを託している、と。
写真中央で穏やかに目を閉じる彼女は、間違いなく、“生命”を慈しんでいた。まるで我が子を愛する母親のように、1本の木を―――そして、命を持っているもの全てを、慈しんでいた。あの写真には、そういう彼女に対する、撮り手の想いが凝縮して詰まっていた。憧れ、羨望、そして愛情…そんな、叫びにも似た想いが、フィルムに焼き付けられていた。
強烈なメッセージ性―――なのに、伝わらない。その理由が、時田には大体わかっていた。
そして今、見るもの全てに感動して目を輝かせている蕾夏と、表面上冷静にしながらも憑かれたようにシャッターを切り続ける瑞樹を目にして、確信を持った。ああ、やっぱりな、と。
“感動が、逃げる”―――彼らは知っている。写真が生き物であることを。
けれど―――…。
「―――成田君」
時田の声に、瑞樹が振り返った。一瞬、時田の存在も忘れていたようだ。
「イギリスにいる間は、撮った写真、全部見せてくれるかな」
「…え?」
「プライベート・ショットも、テスト撮影も、ロケハンの撮影も―――プライバシーに関わる物は除いて、全部見せて欲しいんだ」
少し眉をひそめた瑞樹だったが、アシスタントなのだから、仕事関係のショットを時田に見せるのは当然のことだ。プライベート・ショットだって、こちらから頼んで見てもらう位のものなのだから、ノーと言う理由などない。
「わかりました」
そう答えると、時田はニコリと笑った。
―――見込んだ通りだ。
成田君は、よく似ている。挫折を知る前の―――若い頃の、僕に。
***
「絶景―――…」
「凄い…地平線が見えそう」
時田に案内されて初めて訪れたハイド・パークは、とてつもなく広かった。
どこまでもどこまでも―――その終わりが見えない位どこまでも続く、広い広い芝生地帯。周囲を取り囲む木が周りの幹線道路を覆い隠して、ここが大都会ロンドンのど真ん中であることを一瞬忘れてしまう。
「この辺りがハイド・パーク。道を1本隔てた向こうがケンジントン・ガーデンズだけど、名前は違っても実質1つの大きな公園みたいなもんだよ。ちなみに、僕のオフィスはケンジントン・ガーデンズの傍」
「恵まれてますねー、仕事環境…」
新宿の高層ビル群に囲まれて仕事をしていた蕾夏からすれば、瑞樹の会社も海が近くて羨ましかったが、時田のオフィスは涙が出るほど羨ましい環境だ。
「…っと。もう少し案内したいけど、2時から打ち合わせなんだ。3時半頃にオフィスまで来てくれるかな。明日以降のスケジュール確認をやりたいんで。これ、オフィスの地図」
そう言って時田が差し出したのは、時田の名刺だった。以前もらった日本語のものではなく、英語で印刷されている。多分、イギリス国内向けなのだろう。裏返すとそこに、簡略化された地図が印刷されていた。
「打ち合わせは、出なくていいんですか」
「今日はオフだろ? 次回からは出てもらうけどね」
ポン、と瑞樹の肩を叩いてそう言った時田だったが、気まぐれを起こしたように、瑞樹の耳元に一言囁いた。
「誕生日だよね、今日。いいムードになるようだったら、オフィス寄らずに帰ってもいいよ」
「……」
―――あんた、そんな顔して、そんな事考えてんのかよ。
大きなお世話だ、と喉まで出かかったが、一応、時田を立てなくてはならない立場なので、抑える。その代わり、軽く眉を上げて睨んでおいた。やっぱり食えない男だ―――下宿の件で一本取られた形になっているだけに。
「? 何ですか?」
「いや、なんでもないよ。じゃ、また後で」
キョトンとする蕾夏に笑顔を返し、時田は去っていった。その背中をぽかんとした表情で見送った蕾夏は、不思議そうな目を瑞樹に向けた。
「時田さん、何て?」
「…別に」
少々不機嫌気味に瑞樹が答えると、余計に不審げな顔をする。
「別に、って顔してなかったよ? もしかして私、さっき興奮して騒ぎ過ぎてたから、文句でも言われた?」
「違うって。お前は気にすんな」
「でもさぁ」
更に蕾夏が問いただそうとしたところに、ふと視線を感じ、2人はくるりと振り向いた。
散歩中だろうか。銀髪の上品な女性と時田位の年代の男性が、なんだか期待に満ちた目をして、こちらを見ていた。
「Hey, do you have anything to say?(やあ、君達、演説をやるのかい?)」
男性の方に言われ、2人は目を丸くした。
なんでいきなりそんな事を、と思った刹那、瑞樹は、時田から渡されていたガイドブックの事を思い出した。
『ハイド・パークには、スピーカーズ・コーナーと呼ばれる名所があります。世間に一言物申す、というロンドン市民やブラックジョーク好きな若者など、とにかく、聴衆の前で一席ぶちたい人間が集まってきます。旅の恥はかき捨てと言いますから、英語力に自信のある方は、度胸試しに演説してみてはどうでしょう』
―――もしかして…。
慌てて、今自分達が立っている場所を確認する。予感的中―――知っている人間でないと気づかないようなプレートが、背後の柵に打ち付けられていた。そこにはしっかりと「Speaker's
Corner」と書かれている。それにしても、まさかあの歴史あるスピーカーズ・コーナーが、こんな何の変哲もない道端だとは思わなかった。
そして、理解する。目の前にある期待に満ちた目の意味を。あれは間違いなく、やじり倒してやれ、という目だ。
「No, no. Nothing. We just take a break..(な、なんでもないんです。ちょっと休憩してただけで)」
慌ててそう答え、瑞樹は蕾夏の腕を引っ張ってさっさと歩き始めた。どことなく文法的に変な英語だった気もするが、まあ意味は通じただろう、と、半ば冷や汗をかきながら。
「…もしかして、あれが、スピーカーズ・コーナー?」
蕾夏も、やっと事態が飲み込めたらしく、肩越しにスピーカーズ・コーナーを振り返りながら言った。
「…らしいな。お前、変な場所で食い下がったりするなよ。寿命縮んだぞ、今」
「知ってたら食い下がったりしなかったもん。けど―――うかつに立ち話もできないね、この国…」
「―――あんなの、あの場所だけだろ」
いくらブラック・ユーモアの盛んなお国柄だからと言って、至る所にあんな罠が仕掛けられていたのでは、心臓に悪い。疲れたように瑞樹がそう言うと、蕾夏はちょっと笑いながら更に続けた。
「うーん、でも、やっぱり全然文化が違うね。スピーカーズ・コーナーも日本じゃ見かけないけど、馬用の歩道や信号もイギリス独特じゃない?」
「確かにな」
「ねぇ、あの信号、馬が見てちゃんと立ち止まったり渡ったりするのかなぁ?」
「―――馬鹿。あれは、騎乗してる人間が見るに決まってるだろ」
言いながらチラリと見ると、案の定、蕾夏は「えっ」という顔をした。本気で、あの信号は馬が見るためのものと思っていたのだろう。
―――つくづく…面白い。
思わず、吹き出してしまう。それを見て、蕾夏の顔が赤くなった。
「な…っ、何よっ。そう思うじゃん、普通っ。信号機に馬の絵まで入ってるし、歩行者用の信号は別にあるし。人間が見るんなら、別に歩行者用の信号と一緒でいいじゃんっ」
「車運転してんのだって人間だよな。そしたら、車も歩行者用の信号と一緒でいいのかよ」
「…よくないよ。もーっ! そんな笑う事ないじゃん! 意地悪だよ、瑞樹って」
「わかったわかった」
まだ肩を震わせて笑いながら、瑞樹はちょうど芝生地帯の真ん中あたりに腰を下ろした。目で促すと、顔を赤らめて口を尖らせていた蕾夏も、素直に芝生の上に腰を下ろし、膝を抱えた。
見渡してみれば、ウィークデーだというのに、同じように芝生に寝転んだり座ったりしている人が大勢いる。
本を読んだり、友達と話をしたり、それぞれが、のんびりと午後のひと時を過ごしている人々―――仕事中なのか、背広姿の人もいたりする。イギリス、と言うと、もっと堅苦しいイメージが先行していたが、目の前に広がる風景は、どこまでも穏やかでゆとりのある日常だ。
瑞樹の視線の先には、小型の犬を連れた老夫婦が、歩き疲れたのか、ベンチに並んで座っていた。行儀良く“おすわり”の姿勢をしている犬の頭を撫でながら楽しげに話をしている妻が、時折、相槌を求めるように夫の方に目を向ける。その間合いがなんとなく微笑ましくて、瑞樹は思わずカメラを構え、シャッターを切った。
「いい感じだよね」
蕾夏も、同じ老夫婦を見ていたらしく、そう言って微笑んだ。
ファインダーから目を離し、その微笑む横顔を確認する。柔らかで穏やかな笑い方に惹かれて、そのままカメラを彼女に向け、気づかれないように徐々に距離を取った。
「ねぇ、千里さんと淳也さんも、あんな感じになりそうだね」
「…そうだな。あと20年はかかりそうだけど」
「あはは、もう少しかかるんじゃないかな。2人とも、元気があり余ってるもの」
くすくす笑う蕾夏の横顔をフレームにおさめ、シャッターを切った。その微かな音に、蕾夏は驚いたような目をして、瑞樹の方を見た。
「―――隙あり」
にやり、と瑞樹が笑うと、ちょっと頬を染めて軽く睨んできた。
「佳那子さんに送る写真、横顔じゃ使えないよ」
「…じゃあ、ちゃんとこっちに向き直れよ」
佳那子に出す手紙に写真を同封したい、と言っていたのだ。蕾夏は軽く髪を直すと、横座りになって、瑞樹の方に体を真っ直ぐに向けた。
瑞樹は、カメラを構えると、蕾夏の姿をファインダーにとらえた。
ファインダー越しに、真っ直ぐに瑞樹の方を見つめる、蕾夏の目―――その視線と、視線がぶつかる。
この瞬間、瑞樹も、そして蕾夏も、背筋がゾクリとするような不思議な感覚を、いつも覚える。
それが、何から来る感覚なのかは、わからない。
瑞樹は、蕾夏以外の人間と、こうしてファインダー越しに視線を合わせる事はほとんどした事がない。いずれは、と思うが、まだ母の目を見て感じたあの暗い狂気をはらんだものを忘れられずにいる。また、蕾夏の方も、元々撮られることが苦手だから、こんな風にカメラマンとファインダー越しに視線を合わせるような経験はほとんどない。
だから―――どちらも、わからない。他の人間が相手でも、こんな感覚が訪れるのかどうか。
「―――その目は、俺を見てる目だろ」
視線を外さずに、瑞樹が口を開いた。
「佐々木さんに送る写真なら、佐々木さん見てるつもりになれよ」
「佳那子さんを?」
「ここに、佐々木さんがいるつもりで」
ちょっと困ったように小首を傾げた蕾夏だったが、やがて、その笑顔を僅かに変化させた。
同じような、穏やかで優しげな笑い方―――ただ1ヶ所、目が違うだけで。けれど、こっちが、瑞樹以外の人間が知る藤井蕾夏だ。優しげでありながら、どこか1本、凛とした芯のようなものが通った、優等生な笑顔。
瑞樹は、その2つの笑顔の違いを察知して、シャッターを切った。
「…佳那子さん用の顔になってた?」
首を傾けてクスリと笑う蕾夏に、瑞樹はカメラを下ろし、口元だけで笑ってみせた。
―――俺も相当、独占欲が強いのかもしれない。
さっき、ファインダーを覗いた先にあった、蕾夏の目―――あれは、瑞樹を見つめる時だけに見せる、蕾夏独特の目。
たとえ、写真でも、誰にも見せたくない―――咄嗟にそう思った自分に気づき、瑞樹は自分で自分に苦笑した。
***
今日が誕生日であることを、後片付けを手伝いながらうっかり口を滑らせてしまった蕾夏に、千里は目を大きく見開いた。
「いやだ! そうとわかってれば、もっとご馳走作ってお祝いしたのに! なんで言わなかったのよ、みずくさい」
「別に言わなかった訳じゃなくて、私もさっきまで忘れてたの」
蕾夏がそう言うと、千里は呆れたような顔をした。
「自分の誕生日を忘れる人がいる?」
「あはは…、時差ボケで、日付けの感覚がおかしくなったみたい」
「しょうがないわねぇ。じゃあ、明日の帰りにケーキ買ってくるから、それでお祝いしましょ。でも―――瑞樹も忘れてるのかしら。何かプレゼント貰った?」
「ううん、別に」
「もー、ダメねぇ、あの子も。ベストフレンドの誕生日だもの、何かしてやろうって気はないのかしら、情けない。現像なんかしてる場合じゃないでしょうに」
眉間に皺を寄せる千里に、どう返せばいいのやら困ってしまう。自分も忘れていたのだから、当然瑞樹も忘れている筈で―――でも、覚えていても、ちょっと豪華な昼食にするとか、映画をおごってくれるとか、その程度の誕生日しか過ごさない。過去3度経験したお互いの誕生日は、いずれもそんな感じだった。瑞樹も蕾夏も、あまりオーバーな演出はしないのだ。
「あっ、ねえ、淳也! 蕾夏、今日が誕生日なんですって!」
ちょうどキッチンに飲み物を取りに来た淳也に、千里がさっそくそんな話を持ちかけた。淳也も、さっきの千里同様、ちょっと目を見開いて蕾夏の方を見た。
「そうなの? なんだ、ダメじゃないか、言ってくれないと。そうとわかってれば、夕食の席でバースデーの歌の1曲も披露したのになぁ」
―――よ…よかった、誕生日忘れてて。
淳也に笑顔を返しながら、内心ホッと胸を撫で下ろす。淳也の歌は、初日に散々聴いたから、もう暫くはお腹一杯だ。いや、確かに上手いのだけれど、情感たっぷりに歌い上げるから、頻繁に聴くには重すぎるのだ。
「淳也、明日ケーキ買ってきてよ。会社の傍に、美味しいケーキ屋さんあったじゃない?」
「いいねぇ。一度やってみたかったんだよ、そういうの。女の子だといろいろ構い甲斐があって楽しいなぁ、やっぱり」
「そうよねぇ。奏と累の時は、ケーキなんて恥ずかしくて食えるか、って却下されちゃったもんね。クリスマスも楽しみだわー。あ! 半年あるってことは、3月3日のひな祭りもできるわね」
「あ、あの、私、瑞樹の手伝いに行ってくるから…」
なんだか話がとんでもない方向に行きそうなので、蕾夏は慌てて拭いていた食器をどんどん棚に積み上げて、早々に2階に逃げ込んだ。どうやら一宮夫婦は、娘がいたらやってあげたかった事を、いろいろと頭に思い描いているらしい。でも、不幸なことに、蕾夏は構われるのが苦手なのだ。
想いの需要と供給のバランスが取り難い―――蕾夏の、永遠のテーマ。
感謝の気持ちは、いつも、ある。両親に感謝し、辻に、由井に感謝し―――それ以外にも、一杯一杯感謝する相手はいて。私は1人で立てるよ、苦しくても耐えるだけの力がちゃんとあるよ、と言っても、降り注いでくる愛情―――それを受け止めるだけで、精一杯。時に、それを振り払いたくなる自分に、酷く罪悪感を覚える。
ただ、手を差し出して、待っていてくれるだけでいい。
ここにいるよ、と。どうしても無理な時は縋っていいよ、と。ただ、手を差し出して見つめていてくれれば、それで生きていけた。
けれど―――そんな風に手を差しのべてくれたのは、瑞樹だけだった。
瑞樹とだけ、バランスがとれる―――想いの、愛情の、需要と供給のバランスが。
―――なんか、久々に疲れちゃったな。
ほっと息をつくと、蕾夏は部屋のドアをノックした。
「瑞樹? 現像終わった?」
「んー…、おっけー、一応終わった」
返事を待って、ドアを開けた。が、その先に広がっていた光景に、蕾夏は思わず吹き出してしまった。
「あははははは、万国旗みたい!」
ロフトの手すり部分と、造りつけのワードローブの横に打ち付けられていた釘との間に、ロープが2本張られていた。ロープにはクリップが何個も取り付けられていて、そのクリップに、現像済みのフィルムの端が挟み込まれ、何本も吊り下げられている。万国旗にしては細長すぎるそれは、むしろ「そうめんの天日干しシーン」かもしれない。
「何本現像したの?」
「日本でやり損ねたやつもあるから、7本」
「私の“写ルンです”は?」
「…現像したけど、佐々木さんには絶対送るな」
「ええー、なんで? せっかく瑞樹のこと撮ったのに」
ハイド・パークで、瑞樹が蕾夏を撮った代わりに、蕾夏が瑞樹を“写ルンです”で撮ったのだ。当然、佳那子に送る手紙に同封するつもりで。
だが、現像用の道具一式を片付け終えた瑞樹は、残念そうにする蕾夏の顔をじっと睨んで、念を押した。
「絶対に、送るな。送ったら二度と口きいてやらねぇからな」
「―――いいもん。瑞樹が忘れた頃に、こっそりみんなに見せるから」
「…バカ。それより、上あがって、ロープ少し引っ張っといてくれよ」
頬を膨らます蕾夏の額を軽くコツンと叩くと、瑞樹はそう言って目線でロフトの手すりを指し示した。
本当は、自分が撮った瑞樹の写真の出来が気になったが、道具を片付けている瑞樹を見ていたら、確かに頭がフィルムにくっついてしまいそうな箇所があったので、急いでロフトに上がった。
「もうちょい効率いい干し方考えた方がいいよね」
「高さは要らねーから、壁伝いにでもロープが張れるといいんだけどな」
「そうだねぇ…邪魔だもんね、頭の上にあると」
緩みかけていたロープを少し解き、たるみを取ってから、もう一度ロフトの手すりにしっかりと結びつけた。コートやハンガーを掛けるようなものがあると、代用できて便利かもしれないなぁ、などと思いつつ、蕾夏は一息ついて、何気なく目をベッドサイドに移した。
そして。
そこに、間違いなく今朝まではなかったものを見つけ、目を丸くした。
「―――…」
フロアベッドの横に置かれた、引き出し付きの棚。そこには、今朝までは目覚まし時計しか乗っていなかった。なのに―――今、そこには、サボテンのテラリウムがあった。
ガラスで出来た、小さなボウル位の器の中に、手の平ほどもない小ささのサボテンが5つ、寄せ植えされている。その器の形やカラーストーンの配色、植えられているサボテンの形に、蕾夏は見覚えがあった。イギリスに着いた翌日、瑞樹と2人、時差ボケと闘いながらこの家の周りを散策した時、近所の花屋で見かけたテラリウムだ。
蕾夏は別に、何も言わなかったと思う。ちょっと足を止めただけで。でも、本当は、あんなのを窓際に置いといたら楽しいだろうなぁ、と思ったのだ。口には出さなかったけれど。
―――ずるいよ、こんなの…。
こんな風に、不意打ちで、心を鷲掴みにしてくる。ずるい―――心が、グラグラさせられてしまう。
蕾夏は、居てもたってもいられず立ち上がり、ロフトの階段を駆け下りた。
瑞樹は、メールチェックでもするつもりなのか、机の上のノートパソコンの電源を入れているところだった。蕾夏はその背中に、思わず抱きついた。
「―――なんでわかったの?」
「…さぁ。なんでかな」
小さく笑う声に、胸が締めつけられる。本当に、タネも仕掛けも無いのだろう。ただ、なんとなく、わかっただけで。
―――見ていてくれたから、わかるんだ、きっと。
「で? 気に入った?」
瑞樹はそう言って、少し首を傾げるようにしながら、振り向いた。訊くまでもない事を訊く―――それは、自分が用意したサプライズが成功した事に対する満足もあるだろうし、瑞樹の方から甘えてきている証拠でもある。蕾夏はくすっと笑うと、振り向いた瑞樹の首に腕を回した。
「うん―――ありがとう。凄く嬉しい」
精一杯背伸びして届いた唇に、自分の方から口づける。初めての自分からのキスなら、今感じている想いを、少しは伝えられただろうか? 瑞樹も笑みを返し、蕾夏を抱きしめてくれた。
「誕生日おめでとう―――…」
こんな時。
バランスが、とれる。
瑞樹がくれるものと、私があげたいものの、バランスが。
***
その日は、どことなく、朝からずっと空気が張り詰めていた。
それは、朝一番で時田のオフィスに行った時から感じていたし、その張り詰めたものは、今日の仕事先だというスタジオに入ってもなお続いていた。
「そんなに大変なクライアントなんですか」
手帳に書き留められた予定を確認しながら、瑞樹は眉をひそめ、時田の表情を窺った。
イギリス到着から、約2週間。本格的に時田の仕事に同行するのは、これが初めてだ。もっとも、“ミレニアムのロンドン”をテーマとした写真集のための撮影には、何度か同行した。が、スタジオ撮影のような現場は、今日が最初の経験だった。
手帳に書かれた予定によれば、今日は某ファッションブランドのポスター撮りということだった。時田がその手の仕事を受けるのは珍しくはない。風景写真家として著名ではあるが、本来オールラウンドなカメラマンだ。雑誌のモデル撮影もこなせば、商品撮影もこなす。知名度も手伝って、風景以外の写真であっても、彼を指名して起用してくる代理店はあるのだ。
手馴れた仕事の筈―――なのに、何故か時田は、冴えない表情をしていた。
まだ他の関係者が到着するには間がある、ということで、スタジオ内のカフェスペースでコーヒーを飲みながら時間を潰しているのだが、いつもは比較的饒舌な時田が、ずっと黙ったままでいる。そのこと自体、いつもとは違っている。
「…大変なクライアントじゃないけどね」
僅かに苦笑し、時田はコーヒーカップを口に運んだ。瑞樹の隣に座る蕾夏に、ちょっと目を向ける。
「藤井さんなら、女の子だから知ってるかな。“VITT(ヴィット)”っていう、イギリスのブランド」
「あ、あはは…、私、ブランド弱いんです」
ブランドものには全然興味がない。困ったように蕾夏が笑うと、予想通りだったのか、時田は「やっぱりね」と呟いた。
「20年前に出来たブランドでね。元モデルの敏腕女社長がバリバリ売り込んで、ここ5年で急激に伸びてきたんだ。元々は女性の洋服を手掛けてたんだけど、去年あたりから男性のスーツなんかも手掛けるようになって―――今度の春・夏コレクションと来年の秋・冬コレクションで既存ブランドを一気に追い上げたいらしい。で…僕に指名が来た訳だ」
「へぇ…。社運がかかってるポスターなんだ…時田さん、責任重大ですね」
蕾夏が感心したようにそう言うと、時田は軽く肩を竦めた。
「ポスターだけで社運は決まったりしないよ。一番の売り込みはファッション・ショーだし、雑誌やテレビでどれだけ取り上げられるかで売り上げなんて大きく左右される。ただ…そういった雑誌にも、広告として僕のポスターが使われる訳だから、まあ責任は感じるよ。でも、小さな出版社が、社運懸けて僕の写真集出したりするのよりは、よっぽど軽い気分でいられるよ」
「ああ…そんなの、あったな…」
瑞樹も持っている時田の写真集だ。聞いたこともない出版社だったので不思議に思っていたら、後にそこの社長がテレビに出てきて、「時田さんと心中する覚悟でした」と言っていた。あれは確かに怖い。
「でも―――じゃあ、なんでそんなに緊張してるんですか」
瑞樹が訊ねると、時田は少し眉を寄せ、更にコーヒーをあおった。
質問に答えることなくコーヒーを飲み干した時田は、大きなため息をつき、テーブルの上の一点を見つめた。暫く、その状態で口を閉ざしていたが、やがて、自分の考えを確認するみたいに、2、3度頷いた。
「―――そうだな…前もって、言っておいた方がいいかな」
「え?」
「実は、君に、頼みがあるんだ」
そう言って時田は、目を上げ、瑞樹の目を真正面からじっと見据えた。いつも温和な時田らしからぬ鋭い目に、一瞬、息を呑む。
「今日の仕事―――君に、僕の“替え玉”をして欲しい」
たっぷり10秒、思考がストップした。
「―――…え?」
何かの聞き間違いかと思って、そんな間の抜けた声を返してしまう。
「君に撮って欲しいんだよ。“VITT”の春・夏コレクションのポスターを」
「は!?」
確かに、話には聞いている。弟子入りしたアシスタントが撮った写真の方が、師匠であるカメラマンより良かったりすると、そっちを師匠の名前で出してしまう、なんて話を。別に珍しい事ではないし、酷い場合は「あの先生はいいアシスタントがいるから儲かってるんだ」なんて話まで聞く。師匠とアシスタントは、一蓮托生なのだ。
けれど―――今の時田のセリフからすると、そういう事を言っている訳ではないだろう。
つまり。
時田は、撮らない。瑞樹だけが、撮る。そういう意味だ。
「冗談―――…」
「…じゃ、ないよ。本気だ。実は、その件もあって、君をイギリスに連れてきたんだ。君なら僕の“替え玉”ができる。間違いなく」
「無理ですよっ!」
「あ、あの、時田さん?」
唖然としていた蕾夏が、やっと頭が働き始めたらしく、おずおずと口を挟んだ。
「その件―――クライアントである“VITT”側とか広告代理店は、承知の上なんですか? 前言ってましたよね。瑞樹の写真を何件かのクライアントに見てもらって、いざとなったら瑞樹の写真でも採用もOK、って言ってくれた会社がいくつかあった、って」
「ああ、その件ね。いや、今日のクライアントには、全然通してないよ。ギリギリまで断り続けてた件だからね」
「そ、それじゃあ、無理なんじゃあ…」
「だから、言っただろう? “代役”じゃなく“替え玉”だと」
「……」
瑞樹と蕾夏は、思わず顔を見合わせた。一度、唾を飲み込むと、2人同時に、時田に向き直った。
「…なんでですか?」
そう訊かずにはいられない。そうまでして逃げ出したい仕事なのだから、危険な仕事なのではないだろうか。もの凄くクライアントが厳しいとか、無茶な注文がつけられているとか。
だが、時田から帰ってきた答えは、意外なものだった。
「理由は、簡単だよ。―――僕には、“VITT”が起用したモデルが、撮れないんだ」
「…え?」
モデルが、撮れない―――?
訝しげな顔をする2人をよそに、時田は視線を、2人の背後に走らせた。
「ああ、タイムリーだな―――モデルが到着したみたいだ」
口元をほころばせてそう言う時田に、瑞樹と蕾夏は、背後を振り返った。そして、スタジオの玄関から入ってきた人物を見て、目を丸くした。
その人物は、驚くほどにそっくり―――いや、瓜二つだった。
約2週間前、初めて会った、あのやたらと綺麗な顔をした、双子の片割れと。
「彼が、今度の“VITT”のイメージモデル―――累の双子の兄の、一宮 奏だよ」
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