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camouflage ―

 

 “気に食わない奴ら”
 自分の方を振り返った男女を見て、奏は何故か、直感的にそう思った。

 「…ごめん、遅くなった」
 奏は、こちらを見て口元に笑みを浮かべている時田にそう言い、自分の顔を少し驚いた顔で見ている2人の横をすり抜けた。


 今日の仕事は、正直、あまり乗り気ではなかった。
 奏は、今年の夏、“VITT”と1年契約を結んだ。春と秋、2回のコレクションのショーへの出演と、イメージモデルとしてのポスター等の撮影―――急成長している会社だけのことはあって、金額的にもかなり良い仕事だ。奏にとっても、更に知名度を上げるチャンスでもある。が―――そのポスターを撮るカメラマンとして、叔父である時田の名が挙がっていると聞いて、奏の表情は曇った。
 知っていたから。時田が、奏を撮る筈がない、と。
 過去に2度、そういう依頼があったが、いずれの時も時田は断った。だから、今回も断るのだろう…そう思うと、やはりいい気分ではない。
 案の定、時田はギリギリまで断り続けたが、何故か最終的には折れた。よほど熱心に説得されたのだろう。相当な金を積まれたのかもしれない。

 『僕は、撮らないよ。僕の代わりに、アシスタントに撮ってもらう』
 そう時田から明かされたのは、10日前だった。
 ――― 一宮 奏を、無名のアシスタントに撮らせるって言うのかよ。
 受話器を握る手に、思わず力が入る。そんな仕事に、乗り気になれる筈もなかった。


 このシチュエイションから察するに、今目の前にいるこの2人が、時田が初めて雇った“アシスタント”であることは間違いなさそうだ。
 つまり、この2人のどちらかが、今日、奏を撮影するカメラマンということになる。奏は、ますます面白くない気分になった。

 「奏君。彼は、成田瑞樹君。その隣が、藤井蕾夏さん。奏君にも見せたあの写真を撮ったコンビだよ」
 時田の説明に、席についた奏は、ピクリと眉を動かした。
 ―――こいつらが、そうなのか。
 時田が雇ったというアシスタントについては、弟の累から電話で聞かされていた。両親の住む家に下宿している、と。だが、まさか“あの写真”の連中がそうだとは、思ってもみなかった。
 椅子に腰掛け、脚を組んで首を軽く傾けた奏は、微かな敵愾心を持って、向かい側に並んで座る2人を睨んだ。そんな奏を、瑞樹と蕾夏は、怯むことなく見つめ返してきた。

 蕾夏は、黒曜石のような、真っ黒でキラキラした目をしていた。
 黒目勝ちでくっきりとした二重瞼の目は、決して大きくもキツくもないのに、やたら奏を落ち着かない気分にさせる。まるで人の心を見透かすみたいな、あの瞳が原因だろう。
 そして瑞樹の方は、どこか憂いのある、僅かに灰色がかった黒い瞳をしていた。
 同性でもドキリとさせられるその目は、ふとした瞬間、その憂いをどこかへ追いやり、まるで猟犬みたいに好戦的になる。静かでありながら、鋭い―――そんな目で見据えられると、やっぱり落ち着かない気分にさせられる。
 やっぱり、気に食わない奴らだ―――睨んだ自分の方がかえって怯みそうになってしまっている事に苛立ち、思わず舌打ちをしてしまう。

 「―――Damn you, don't stare at me like that.(じろじろ見るんじゃねぇよ)
 あからさまなほど、機嫌の悪い声でそう言い、奏は2人を更に睨んだ。
 その言葉に、蕾夏はキョトン、と目を丸くしただけだったが、瑞樹は眉を上げると、奏以上に不機嫌な声色で切り返した。
 「Shut the hell up.(黙れ、このガキ)
 「―――…」
 その場の空気が、一気に凍りつく。
 奏の頭に、一瞬血が上りかけた。そのムードを察したのか、慌てて蕾夏が笑顔を作って間に入った。
 「Sorry, I didn't mean any harm.(悪気があって見てた訳じゃないけど、ごめんね)
 やたら綺麗な発音に、機先を制された気分になる。ぐっ、と言葉に詰まると、奏は反撃の方法を失って、そっぽを向いた。
 「奏君…初対面で喧嘩売るんじゃないよ。日本語の方が楽な癖に」
 呆れたような時田の声が、奏を責める。こうも機嫌が悪いのは、元はと言えば時田のせいなのに―――奏はため息をつくと、完璧なまでに左右対称なその顔を顰め、瑞樹と蕾夏の方に向き直った。
 「…慣れてるけどな、そうやって興味津々な目で見られるのは。さぞや面白いんだろうさ。累と瓜二つなこの顔が」
 皮肉っぽく言うと、瑞樹と蕾夏は、何故か同時に怪訝そうな顔をした。
 「え…、そっくりだから見てた訳じゃ、ないよ?」
 そう言って蕾夏は、ねぇ、と同意を求めるように瑞樹を流し見た。瑞樹も軽く蕾夏に視線を送り、まだ不機嫌さをまとった目つきで、奏の目を見返した。
 「むしろ逆。似てねーから、見てたんだよ」
 今度は、奏の方が、怪訝そうな顔をしてしまう。それ以上は話すのも面倒、という顔をする瑞樹に替わって、ニコリと笑った蕾夏が説明した。
 「確かに同じ顔ではあるけど、なんか、全然違うもの、累君と奏君って。なんでこんなに違うのかな、って不思議に思って、ついじっと見ちゃったんだよ。…でも、気を悪くさせちゃったみたいだね。ごめんね」
 「……」

 ―――全然、違う。累と。

 その言葉に、相反する2つの感情を抱いた奏は、少し動揺したように瞳を揺らし、またそっぽを向いた。やっぱり、気に食わない連中だ―――そう、思いながら。

***

 「大丈夫。絶対にバレないよ」
 渋り続ける瑞樹に、時田はそう言って、珍しく不敵な笑みを見せた。そんな顔を見ても、やっぱり瑞樹はその気にはなれない。“VITT”側の担当者が持って来た絵コンテを手渡してくる時田に、もう何度目かわからない言葉を返す。
 「やっぱり、俺には無理ですよ」
 「無理じゃないよ。君になら撮れる」
 「でも、あいつと俺、絶対性格合わないし」
 「ハハ…、確かに、性格は合わなそうだねぇ」
 肩を揺らして、時田は困ったような顔で笑った。
 「短気だからねぇ、奏君は。あの顔だから子供の頃からすぐ難癖つけられてはいたけど、そのたびにぶちキレては殴り合いの喧嘩して荒れまくってたんだよ。もう少し我慢てもんを学べばいいのに」
 「……」
 「君の場合は、表面上冷静にしながら、心の中で密かにキレてるタイプかな」
 意味深な目を向ける時田に、瑞樹は苦々しげな顔をするしかない。瑞樹も、どうも昔から難癖をつけられやすいタイプなのだ。いちいち反応するのはバカらしいので大抵は無視するが、無表情の裏で実は密かにぶちキレていることが多い。
 「…お互いにぶちキレながらじゃ、満足に撮影なんてできないですよ」
 ため息混じりにそう言ったが、時田は全く動じる気配がない。
 「とりあえず、クライアントは心配しなくていい。僕は結構“身勝手なカメラマン”で通ってるから、撮影中は僕らだけにして欲しいって言っても、誰一人文句は言わなかったからね。奏君が僕の甥なのは、業界人なら大抵は知ってるし―――連中が欲しいのは、話題性だよ。“時田郁夫が撮ったソウ・イチミヤ”…そういう正札が付けられれば、どんな写真が出て来ようと文句は出ないさ」
 「どんな写真でも、って言っても―――時田さんと俺じゃ腕に雲泥の差がある上に、俺、ポートレートは…」
 そう。まだ、その問題が残っている。
 蕾夏のポートレートは撮れる。ファインダー越しに視線を合わせても、ゾクリとくる高揚感は感じても、マイナスな感情は起こらない。けれど、それ以外の人間は、まだ試した事がないのだ。和臣と奈々美の結婚式の時、せがまれてカメラを構えた時の事を思い出す―――もしもまだあのレベルだったなら、最悪の写真しか撮れないだろう。
 「そう言えば、君の写真の中には、藤井さん以外のポートレートは無いね」
 撮影スケジュールの書かれた紙を、スタジオの隅に置かれたテーブルの上に放り出して、時田はチラリと視線を蕾夏の方に走らせた。当の蕾夏は、初めて見る黒のバックペーパーを、興味深そうに見ている。本当はライティングや絞り調整などの仕事がしたいのだが、まだ時田と瑞樹がもめているので、その作業に入れないのだ。
 「成田君がこの話を断る理由は、ポートレートが苦手だからかい?」
 ふいに視線を戻した時田が、少し鋭い目つきで瑞樹を見据えた。ちょっと息を呑んだが、瑞樹ははっきりと答えた。
 「…いえ。違います」
 「僕が撮れと言ったものは、片っ端から撮れ、と言ったよね。イギリスに誘った時」
 「……」
 「無茶な命令なのは、わかっている。けどね―――僕は、奏君が撮れないんだ。…君が、奏君を撮ってくれ。君なら撮れる」
 「―――時田さんでも撮れないのに、俺には撮れるって言うんですか」
 「奏君のことは、誰だって撮れるよ。僕以外はね」
 思ってもみない言葉に、瑞樹は訝しげに眉を寄せた。時田は、表情の読み取れない笑みを浮かべると、静かに視線を逸らした。
 「あの子は、プロだからね。自分に何を求められているのか、十分承知している。だから、君位の確かな技術があれば、それこそ最高の奏君が撮れるさ。苦もなく、ね」
 ―――誰にでも撮れるなら、なんであんたには撮れねぇんだよ…。
 誰にでも撮れるモデル。けれど、時田には撮れないモデル。そんな妙な話があるだろうか?
 納得がいかない、という瑞樹の表情に、時田も言いたい事がわかったのだろう。小さくため息をつくと、ポツリと、呟くように言った。
 「―――奏君は、家族だからね。…家族には、撮れないんだよ…“Frosty Beauty”は」
 “Frosty Beauty”―――…?
 その意味を問うような瑞樹の目に、時田は一言、「君も撮ってみればわかるよ」とだけ答えた。

***

 ポスター撮り用のスーツを身にまとった奏は、撮影スタジオのドアのところで、モデル事務所のマネージャーと別れた。
 「時田さんも、相変わらず偏屈だね。撮影技術者とモデル以外はシャットアウトだなんて」
 マネージャーはそう言って苦笑したが、別に時田に文句を言うこともない。それは、広告代理店から派遣されている担当者3名も、そして“VITT”から撮影の監視に来た担当者2名も同じこと―――時田郁夫のネーム・バリューは、その位のわがままが通用するほどのものなのだと、改めて痛感させられる。
 扉を開けると、黒いバックペーパーをセットした中央に、蕾夏が立っていた。時田がカメラを覗き込み、その指示に従って、瑞樹が光量やライティングの位置を細かに変えている。奏のスーツがシルバーに近いグレーなので、黒背景に負けないよう、その調整が難しいらしい。
 「ん、もういいよ、藤井さん。フィルムの確認しといてくれるかな」
 「はい」
 居心地が悪そうにカメラの前に立っていた蕾夏は、ほっとしたように笑顔を見せると、機材一式が置かれているテーブルに向かった。そこで初めて、着替え終えた奏に気がついた。
 「へぇ。それが衣装なの?」
 「…1着目の、な」
 フワリとしたさりげない笑顔を向けられると、やっぱりなんとなく落ち着かない。奏は、ちょっと不機嫌な声でそう答えた。
 「シルバーって、見せ方が難しそうだね。お手並み拝見てところかな」
 小さく笑い、蕾夏はフィルムパックをパリパリと開け始める。まだセッティングに手間取っている時田と瑞樹を横目で見つつ、奏は手持ち無沙汰に蕾夏の傍らに佇んだ。
 「あんた、あの成田って奴の彼女か何か?」
 話すこともないので、そんな事を訊いてみた。すると蕾夏は、僅かに頬を染めて、目を上げた。その眉が、どことなく不愉快そうにひそめられている。
 「…それって、仕事と関係あること?」
 「え?」
 「仕事以外のこと、この場に持ち込みたくないの」
 ぴしゃり、と、冷たい態度。いや―――確かに、言っている事は正論かもしれないけれど、軽い雑談に、こんな態度をとられるとは予想外だ。
 「…なに、堅苦しいこと言ってるんだよ。色恋沙汰の話はお断り、って? ガキじゃあるまいし…」
 「そんなんじゃない。ガキなのは奏君の方だよ」
 その言葉に、短気な奏はついカッとなりそうになる。が、一見高校生か大学生にしか見えない女相手に熱くなるなんて、と思い直し、ただ気分を害したように眉間に皺を寄せるだけにした。
 「どういう意味だよ」
 「瑞樹が撮るのが、不本意なんでしょ」
 ドキン、と、心臓が変な風に跳ねた。頬が一瞬強張る。
 「なんでそんなに気に食わないのか、理由は知らないけど―――いくら、叔父さんにあたる人のアシスタントだからって、瑞樹を軽く見るのは許さないからね。今日奏君を撮るのは、誰でもない、瑞樹なんだから」
 「……」

 ―――見透かされた。
 あの、心の中を全て見透かしてしまいそうな目は、見かけだけではなかったのかもしれない。凛とした態度で、静かな目で奏を見上げる蕾夏の様子に、奏は完全に飲まれてしまった。事実、そういう部分があったから―――たかがアシスタント、そういう意識が。
 けれど、瑞樹は、あの写真を撮ったカメラマンなのだ。クライアントが笑顔でそのわがままを受け入れてしまうほどのカメラマン・時田郁夫を心酔させた、あの写真を。
 瑞樹との関係を問う雑談に蕾夏が応じなかったのは、それを口にする奏の声の中に、2人の関係を揶揄しようとする色合いを感じ取ったからなのだろう。打ち合わせでは、ただ静かに瑞樹の横に座っていただけなのに…思いがけないほどに、鋭い感覚をしている。

 「…心配御無用。オレが、撮影に私情なんて挟む訳ないだろ」
 低い声で、吐き捨てるように言う。そう、私情なんて挟まない。これでもプロなのだ。自分を起用する企業が、何を求めているか位はしっかり把握している。そして奏は、その望み通りの自分を演出すること位、苦もなくやってのける。たとえ相手が、どんなカメラマンであっても。
 「そう。じゃ、期待してるね」
 蕾夏は、それを聞いて、突然表情を変えた。ニコリ、と笑ってみせる顔からは、つい数秒前のピンと張り詰めた緊張感など微塵も感じられない。
 どれが、本当の顔なのか―――奏は、目の前の蕾夏の少女っぽい笑みに、どこか空恐ろしいものを感じていた。

***

 黒を背景にして立つ奏の姿をフレームにおさめた瑞樹は、すぐにファインダーから目を離し、片眉を上げた。
 「…おい。真面目にやってんのかよ」
 怒りを滲ませた瑞樹の声に、奏が訝しげな顔をする。
 「何が」
 「俺はマネキンを撮りに来た訳じゃねーんだよ」

 ファインダーの向こうにいたのは、どう考えても、ただの人形だった。少なくとも、瑞樹の目には。
 確かに、完璧な美しさではある。
 “VITT”が、来年の春夏用に発表したばかりの、光沢のあるダーク・シルバーのフォーマル・スーツ。瑞樹とさして変わらない背丈の奏が、それを見事に着こなしている。多分、180センチ前後では、モデル業界では身長が低い方だろうが、奏はそれを感じさせなかった。一見性別不詳なその冷たい美貌で、カメラを見据える―――その姿は、確かに、寒気がするような美しさがあった。
 けれど―――それだけだ。
 まだ、出会ってから大して経っていないが、それでも瑞樹は奏の性格はほぼ把握している。カッと頭に血が上りやすいが、その闘争心が彼の持つ個性だ。冷淡なまでの美貌を持ちながら、まるでティーン・エイジャーのようなガキっぽい表情をする奴―――そういう部分は素材として悪くない、と、瑞樹は打ち合わせの間中考えていた。
 なのに、ファインダー越しに見た奏は、何も感じさせない、ただの綺麗な人形だった。個性も、オーラも感じさせない―――それどころか、感情すら感じさせない。このポスターを見る人間に何を感じさせたいのか、どういう自分を見せたくてそこに立っているのか、瑞樹には全然わからなかった。

 「オレは、これでいいんだよ」
 仕事外の時の熱さが嘘みたいに、やたらとクールで無感動な口調と表情で、奏は言い放った。
 「オレを起用するクライアントは、こういうオレを求めてるんだ。無機質で、生身の人間を感じさせない、性別も国籍もはっきりしない感じの風貌―――ソウ・イチミヤをこれだけ売れるモデルにしたのは、そういうコンセプトだよ」
 「だったら、お前そっくりのマネキンかロボットでも作って服着せりゃ済む話だろ。生身の人間がいらねぇんだったら、お前撮る意味なんてあるか?」
 「成田君」
 苛立ったように言い募る瑞樹に、背後で腕を組んで見ていた時田が、宥めるように声をかけた。
 「いいんだ。そのまま撮ってくれ」
 時田の静かな口調に、瑞樹は眉をひそめて振り返った。
 「でも」
 「言っただろう? 奏君は、プロだって。これでいいんだよ。このままの奏君を撮ってくれ」
 「―――…」

 “Frosty Beauty”―――凍りつくような、美貌。温かみの無い、冷やかな美しさ。
 無機質で、生身を感じさせない、性別も国籍も曖昧な、素材。

 ―――そんなの…撮って、何になるんだ?

 蕾夏ならば、目の前にいる奏の“何か”を、ちゃんと感じ取れているだろうか? 自分が単に感覚が鈍いだけなのか―――それとも、蕾夏ですら感じ取れないほどに、奏の無機質ぶりが完璧なのか。その、どちらなのだろう?
 内心の苛立ちを押さえ込むように、瑞樹は唇を軽く噛み、壁際に立ってレフ板が必要になるのを待っている蕾夏に視線を移した。
 レフ板を手に持った蕾夏は、瑞樹の目を見て、困ったように眉を寄せた。そして、少し目を伏せ気味にして、力なく首を振った。
 「大丈夫だよ、成田君。そのまま撮れば、“VITT”が求める一宮 奏が撮れる筈だから」
 背中を押すように、更に時田が言う。
 瑞樹は、気づかれないほど小さく舌打ちすると、雑念を振り払うように乱暴に前髪を掻き上げ、奏の方に向き直った。
 手にしたニコンの一眼レフを構えると、フレームに、感情の欠片も感じさせない奏の姿をおさめる。瑞樹は、奏の冷たい目を、ファインダー越しに真っ直ぐに見据えた。

 ―――何か、返せ。
 ほんの欠片でもいい、何か感じさせてみろよ。

 祈るのにも似た気持ちで、そう心の中で言いながら、シャッターを切る。何度も、何度も、何度も。
 けれど―――何十枚、何百枚という枚数を撮っても、瑞樹がファインダー越しの奏の姿に“何か”を感じることは、ついに一度もなかった。

 何ひとつ感じる事ができないのに―――何故、撮るんだろう?
 こんなものを撮る事に、一体何の意味があるのか―――撮影の間中、瑞樹はその疑問に対する答えを探し続けていた。

***

 「…お疲れ様」
 頭上から降ってきた声に、瑞樹は、やっと顔を上げた。
 蕾夏は、微かに笑みを浮かべ、瑞樹の隣の椅子を引き、ストン、と腰を下ろした。
 撮影が終わったスタジオに、瑞樹と蕾夏の2人だけが取り残された。撮影後に、“VITT”や広告代理店の担当者との営業的な打ち合わせがあったのだが、それはアシスタントの出る幕ではない。撮影の後片付けなどがあるので、そのために残ったのだ。
 「どうだった? 仕事で初めて撮ったポートレートは」
 「―――最悪」
 瑞樹は、疲れたようなため息と共にそう言うと、髪をぐしゃっと掻き混ぜた。
 「あんなの、ポートレートでも何でもねーよ。ただの“物体”を撮っただけ―――奏の目を見ても、感情のかの字も見つからねーんだから」
 「…うん、そうだね」
 同じ事を感じていた蕾夏も、ポツリと呟くと、小さなため息をついた。
 「時田さんが、自分は奏君を撮れないって言ったの、なんかわかる気もする。あれが奏君に求められている顔だったら―――家族である時田さんには、無理かもしれない。奏君、結構甘えん坊だと思うから、家族相手だったら、あんな顔キープできないでしょ、きっと」
 「…そうかもしれないな」
 それだけが理由かどうかわからないが、それも確かに一理あるかもしれない。けれど、時田が起用されたのは、勿論そのネーム・バリューに惹かれたこともあるだろうが、イメージモデルである奏の“叔父”であることも理由となっている筈だ。全く―――随分と厄介な仕事を引き受けたものだ。
 「断れよ、全く…」
 「よっぽど契約金が高かったんじゃない?」
 「―――冗談。その契約金で撮った写真として、俺の写真が出されるんだぜ? 想像しただけで、頭痛してくる…」
 「あ、あはは…、どうしようね。すんごい金額だったら」
 雑誌の写真撮影と違って、広告撮影は金額が桁違いだ。しかも、無名のカメラマンじゃなく、世界的に名前の知れているカメラマンに対するオファーなのだから、世間一般の相場とは別のレベルだろう。それを考えると、頭痛だけじゃなく胃痛も吐き気もしてくる。
 「あーもう…知らねーからな、俺は」
 「…あ、でも、瑞樹」
 テーブルに突っ伏してしまった瑞樹の頭をちょん、とつついて、蕾夏は小首を傾げた。
 「今回のポスターって、春・夏コレクションでしょ? 秋・冬コレクションのポスター撮りが、来年の春にでも、またあるんじゃないの?」
 「―――…」
 「…もしかして、余計な事に気づいちゃった?」
 「―――とりあえず、暫く、その事は考えたくない」
 「…う、うん…そうだね。来年の話をすると、鬼が笑うって言うし」
 余計疲れさせてしまった、と気まずい気分になったのか、蕾夏は、よく瑞樹が蕾夏に対してするように、瑞樹の頭をぽんぽん、と叩くように撫でた。
 「お前―――ほんと、変なところで、妙に日本人してるよな」
 蕾夏のセリフと、髪越しに感じる手の感触のくすぐったさに、瑞樹は肩を震わせて、笑いを抑えた。
 少し笑ったら、極限まで追い込まれていた疲労感が、ほんの少しだけ和らいだ気がする。瑞樹は目を閉じ、頭の上をためらいがちに掠めていく手の感触に、しばし身を委ねた。


***


 時田は、洒落たつくりの応接室のソファの上で、瑞樹が撮った奏の写真を見ながら、全く別の事に思いを馳せていた。

 今日はクリスマス―――累は、会社の連中とクリスマス・パーティーを開くから、と言っていた。奏の予定はわからない。きっと、大量にいるガールフレンドの誰かと過ごすのだろう。
 瑞樹と蕾夏は、すっかり独立してしまった息子達の代わりに、千里と淳也の餌食になるのに違いない。淳也の歌う“ホワイト・クリスマス”に、困ったように顔を見合わせる2人の様子が目に浮かぶようだ。今晩は一宮家に寄るのも悪くないな―――時田は、口元を僅かにほころばせた。

 その時、応接室のドアが唐突に開き、ハイヒールの音が応接室の壁に響いた。
 時田は、写真を高そうなガラステーブルの上に置き、立ち上がった。珍しく着込んだスーツが、どうにも窮屈に感じられる。早く帰って、普段のラフな服装に着替えたい。
 「お待たせ」
 滑らかなクイーンズ・イングリッシュに時田が目を上げると、そこに、今日の目的の人物が立っていた。
 若い頃から一切変わりのない、見事な色合いの長いブロンド・ヘア。それを、キャリアウーマンらしく結い上げている。第3ボタンまで開けた薄いオレンジ色のブラウスの襟元からは、自社ブランドのネックレスが覗いていた。手入れの行き届いた肌は、時田より1つ年上とは思えない。美のために、金と時間を費やした証拠だろう。
 「お久しぶりです」
 時田は、歩み寄った彼女―――“VITT”社社長、サラ・ヴィットにそう挨拶し、静かな笑みを浮かべた。
 「まさか、秘書もつけずに登場されるとは、思ってもみませんでしたね」
 「秘書付きの方が良かったかしら? ドイツ出身の、23歳の可愛い子だけど」
 サラはそう切り返し、真っ赤なルージュを塗った唇を、きゅっと強気に上げてみせた。時田の向かいのソファに腰を下ろすその身のこなしは、モデルを引退してから20年は経つというのに、その優美さを全く損ねていない。体型から言っても、見事なキャット・ウォーキングから言っても、今すぐ現役復帰できそうだ。45歳という年齢ならば、不可能なことではないだろう。
 「わざわざ社長自らのお呼び出しとは、どういう気まぐれですか?」
 時田は、ふっと笑ってそう言い、ソファに再び腰を下ろした。ポスターの件は、既に担当者と打ち合わせ済みだ。どの写真を採用するかも、撮影の2日後には選定してしまった。今更、話などない筈だ。
 サラは、ニッコリと微笑むと、これ見よがしにその長い脚を組んだ。黒のタイトスカートに入った大胆なスリットから自慢の脚が覗く。時田からすれば目のやり場に困るのだが、それがサラの目的なのだろう。
 「写真は見せてもらったわ。さすがね、どれも完璧な出来だったわ」
 「ありがとうございます」
 極めて穏やかな笑みを見せたサラは、手を伸ばし、テーブルの上に無造作に広げられていた数枚の写真を取り上げた。パラパラとそれをめくりつつ、更に笑みを深める。
 「今回の件は、うちもかなり力を入れているの。ソウ・イチミヤを起用したのは、結構な大博打よ。大衆層にはウケないんじゃないか、って、企画会議でもお偉方が侃々諤々―――“Frosty Beauty”だものね。ロックやパンクに夢中になっているロンドンっ子が、“VITT”のスーツを着たソウを見て、その姿に自分を置き換えるなんて厳しいかも」
 「…そうでしょうね」
 「でも、宣伝にはなる―――あの子は、目を惹くわ。アイ・キャッチさえあれば十分。あの子のノーブルさが“VITT”のイメージアップに一役買うのは間違いないわ。そういう意味で、あの写真は最高の出来映えよ。高い契約金を出しただけのことはあるわ」
 その言葉に、時田は笑顔だけで応えた。そんな時田を、サラも、口の端をつり上げた完璧な笑みで見つめ返した。
 が、次の瞬間。
 サラは、その顔から笑みを消し去ると、手にしていた写真の束を、時田に向かって投げつけた。
 写真束は、時田の肩のあたりに当たって、ソファの上に散らばった。その内の1枚が、時田の頬を掠めたらしく、紙で切った時独特のむず痒いようなチリリとした痛みが、時田の頬に走る。
 「―――馬鹿にしないで」
 無意識のうちに頬を手の甲で押さえた時田は、冷静な目で、僅かに声を震わすサラの方に目を向けた。
 サラは、微かに怒りをはらんだ目をしてはいたが、全体的には無表情だった。こういう顔をする時のサラは、本気だ。
 「私が気づかないとでも思ってるの? あなたが撮ったのが1枚もないってのは、一体どういう事?」
 「…要求された写真は、確かに提供した筈ですが」
 「あなた以外の人間の手でね。アシスタントが撮る例なんて、大御所カメラマンにはよくある話よ。その位は私もわかってる。けどね。1枚も―――1枚もあなたが撮ってないってのは、一体どういう事なの? 私はあなたに依頼をしたのよ。あなたに!」
 「―――…」
 「その沈黙が答えって訳」
 綺麗な眉を、傷ついたように歪めるサラに、時田は視線を逸らし、ソファに散らばってしまった写真を拾い集めた。
 「―――で? どうしますか。あれは時田郁夫の写真ではないから、とバラして、印刷をストップさせますか」
 「……」
 「契約金なら、手をつけてませんから、明日にでもお返ししますよ。…だから、あれだけお断りしたんです。一宮 奏と時田郁夫のコラボレーションってアイディアは、なかなか乙ではあるけど、少々悪戯が過ぎましたね」
 「…途中で降りるなんて、許さない」
 低くそう言い放つと、サラはすっと立ち上がり、テーブルを回り込んで、時田の隣に腰を下ろした。
 「あれは、使える写真よ。今更返却なんかしない。この代償は、あなたが払うのよ」
 「貧乏人をあまり困らせて欲しくないですね」
 「お金だなんて、誰が言った?」
 睨むような、けれどどこか誘惑するような目をしたサラは、自分の方を見ようとしない時田のネクタイを掴むと、無理矢理自分の方を向かせた。
 ―――結局、そういう所に落ち着く訳か。
 サラの目を見た時田は、なんとも複雑な気分になった。
 予想しなかったと言ったら嘘になる。予想はついていた。彼女が気づくことも、気づいたとしてもそれを公にはしないであろうことも。そして―――その代償に、何を求めてくるのかも。
 濡れたような真紅の唇が、時田の唇に触れる。焦らすように、微かに。

 「代償を払ってもらうわ―――あなた自身でね、郁夫」

 

 誰もが、本当の自分を隠して、生きている。
 傷を負い、血にまみれ、憎悪、嫉妬、自己嫌悪、いろんな汚い思いにまみれた自分を、よそ行き用の仮面で覆い隠して、生きている。

 そう―――君は、本当に、僕の若い頃に、よく似ている。
 真っ直ぐに彼女を愛し、真っ直ぐに撮りたいものを追いかける、あの目―――僕が、失ったもの。

 君は、失うことなく、生きてゆくことができるだろうか。

 君ならば―――僕の歩むことのなかった道を、歩むことができるだろうか―――。


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