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double edge ―

 

 どこか遠いところで、目覚まし時計が鳴っている気がした。
 蕾夏は、最大限手を伸ばして、目覚ましのボタンを押そうとした。が、いつもなら軽く届く筈の目覚まし時計が、今日はやたらと遠い。目覚ましを止めるつもりで叩いたものは、時計とは全く違うものだった。
 「―――おい…。俺は目覚ましじゃねーって…」
 さっきから自分の肩を何度も叩く蕾夏の手を掴み、瑞樹は寝起きの不機嫌な声で呻いた。
 背後から、早く起きろと急かすように、目覚まし時計の電子音が段々ボリュームを上げていきながら続いている。瑞樹は、回らない頭のまま体を捻り、サイドボードの上の目覚まし時計を、力任せにバシッ、と叩いた。その勢いで、時計の隣に飾ってあるサボテンのテラリウムまでがガタッと音を立てる。
 だるかった。熟睡状態から、無理矢理覚醒させられた感じがする。片手では蕾夏の手首を掴み、もう片手は目覚ましの上に乗せたまま、瑞樹は暫く動くことができなかった。
 「…うー…眠いー…」
 瑞樹の心の声を代弁するかのように、蕾夏が背後で呻き、寒さのあまり、くしゅん、と小さなくしゃみをひとつした。
 なんで2人してロフトに寝てるんだっけ、と、一瞬状況が飲み込めない。けれど、その理由を思い出したら、途端に起きるのが余計億劫になった。

 瑞樹は、仕事ではない趣味で撮った写真については、イギリスに来てからは全て自分で現像している。まだ信用できる外注先が見つからないからなのだが、この作業が、結構場所を取って苦労する。
 今、下のデスク前の壁面には、現像の終わった計5本のフィルムが、下に(おもり)をつけて吊るされている。前回のあの邪魔な吊るし方はもう御免なので、淳也に頼んで、壁に釘を2本打って細い棒を渡させてもらったのだ。
 そして、本来瑞樹が寝るべきベッドの上には、現像の機材を置くために机の上からどけられてしまったノートパソコンと、プロラボから引き取ってきた大量の仕事のプリント、それに数冊のアルバムと時田の写真集と整理中のプリントが、ところ狭しと広げられている。日本にいる頃なら、そういった物は、邪魔な場合は床に置く。だが、土足で歩き回るこの部屋の床には、さすがに何も置く気にはなれなかったのだ。
 日中、仕事納めということで、時田のオフィスを徹底的に掃除した2人には、ベッドの上の物を全て片付けるだけの体力は、もう残されてはいなかった。
 そんな訳で、瑞樹は昨日、寝床を失った。

 「…瑞樹ってさぁ…なんで普通のDPE使わないの? 日本でもプロラボだけだったよね、現像出すの」
 まるで猫のように伸びをした蕾夏が、そう訊ねる。なんとか動けるようになった瑞樹も、蕾夏の手を離し、だるさに眉を顰めながら寝返りを打った。
 「…日本の時は、大学ん時からの習慣に過ぎねーけど…こっちでは、また別」
 「何?」
 「大学ん時の知り合いが、ロンドンで普通のDPEに現像に出したら、フィルム1本丸ごとパーにされたんだ。あれ聞いて以来、海外のDPEが信用できなくなった」
 「だから、自分で現像? 時田さんが使ってるプロラボ使えばいいじゃない」
 仕事で撮った写真は、時田が懇意にしているプロラボに現像もプリントも依頼している。ロンドンを初めて案内された時、一番最初に連れて行かれたのが、そのプロラボだった。「僕のアシスタントだから、顔を覚えてね」と店員に紹介されたので、次からはほとんど顔パス状態になっている。
 「…駄目。あそこの代金、全部時田さんの口座から落ちるだろ」
 「そっかぁ…じゃあ、後から料金を時田さんに払えば?」
 半ば枕に顔を埋めるようにして、眠たげにそう言う蕾夏に、瑞樹はむっとしたように目を細めた。
 「―――何だよ。部屋で現像しちゃまずい事でもあるのかよ」
 「え?」
 ぱちっ、と目を開いた蕾夏は、数秒間そのまま瑞樹の顔を見つめ、それから慌てて首を振った。
 「ち、違うよ? ただ、ほら、現像やるとなると、昨日みたいにベッドが占拠されちゃうじゃない。だから」
 「いいだろ、ここに2人で寝れば」
 「……」
 ―――初日に寂しくて呼んだ時は、怒ったくせに…。
 言ってる事が違う、と納得のいかない蕾夏だったが、まだ眠たさを引きずっている瑞樹の目を見て、態度が一致しない理由を察した。
 まだ、頭が半分位しか働いていないのだ、瑞樹は。多分、こっちが、より本音に近い瑞樹。
 「そ…っ、それはそうだけどっ! でも、やっぱりここに2人は狭いし、天井も低いから瑞樹の背だと」
 動揺を隠すように、ちょっと早口でそう言う蕾夏の唇に、瑞樹の指先が触れた。無言のサインに、続く言葉を飲み込む。
 「―――けど、いつもより、よく眠れたんじゃねーの」
 「…う…うん」
 「…じゃあ、いいだろ、別に」
 「……」
 ―――って言うか、瑞樹。その目、やめようよってば。
 まだ気だるい眠気をまとった瑞樹の目は、少し潤んで見えて、やたらと艶っぽかった。体温を感じるほどの距離にいる瑞樹が、そういう目をして蕾夏の髪を指に絡めてくるのだから―――困る。もの凄く、困る。
 「…お、起きよっかな、そろそろ」
 「甘い」
 逃げるように起き上がろうとした蕾夏を簡単に引き止めると、さっきまでの眠そうな顔は演技か、と言いたくなるほど素早い動きで、あっという間に体勢を入れ替えてしまう。掴んだ手首をベッドに縫い止め、真上から見下ろしてくる瑞樹の笑みに、ゾクゾクするものを感じてしまう。
 「ね、ねぇ、まだ朝―――」
 ―――まだ朝だからやめようよ、って言いたかったのにーっ!
 言葉をキスで封じられてしまった。
 ふわふわした浮遊感を誘うような、切ない位に優しいキス―――さっき感じたゾクゾクするものが、更に質を変えて、段々と理性を奪っていく気がする。
 ―――あ。なんか、まずい、この感じ。
 手首を離れて、腕や肩を辿りだす瑞樹の手の感触に、空気がモード・チェンジし始めたのを感じる。優しかった唇が奪い尽くそうとするようなものに変わり、蕾夏も思わずその背中に、ためらいがちに腕を回す。
 と、その刹那。

 「ぐっもーにーん、瑞樹!」
 コココン! という鋭いノックの音と共に、千里の声が廊下から響いた。蕾夏の髪を撫でていた瑞樹の手が、その声と同時にピタリと止まる。
 唇を離した2人の視線が、至近距離でぶつかる。途端、蕾夏の顔が一気に真っ赤になり、彼女は瑞樹を押しのけてがばっと跳ね起きてしまった。
 「郁夫がねー、今電話してきて、“12時にヴィクトリア・ステーションの改札前”だって! 瑞樹、Are you OK?」
 「―――了解(ラジャー)…」

 ―――タイミングの悪いヤツ…。
 前にも、時田からの電話に邪魔されたことがあったのを思い出す。瑞樹は、大きなため息をひとつつくと、暴れだしそうな狂気を無理矢理押し込めて起き上がった。

***

 「問題は、年越しの瞬間を撮る場所を、どうやって確保するかだなぁ…」
 少し遅めの昼食をとるために入ったパブで、時田はメモを片手に、眉間に皺を寄せた。

 時田が今抱えている仕事で、一番力を入れているもの―――それは当然、自分の写真集だった。
 ミレニアムに沸くロンドンを撮る、それが与えられた命題。このテーマに沿って、12月中にも、ミレニアムを記念して建設されたミレニアム・ドームなどの取材に行った。が、やはり一番素材的に使えるのは、大晦日から元旦にかけて行われるカウント・ダウンだろう。
 今日はその、大晦日。さすがにちょっと気合の入り方が違う。

 「やっぱり撮影ポイントは、ビッグ・ベンの周辺ですか」
 サンドイッチを頬張りながら、瑞樹はテーブルの上に広げられた地図を覗き込んだ。時田はその言葉に頷き、赤のサインペンで地図上に色々と書き込み始めた。
 「午前零時と同時に、グリニッジで花火が上がって、それを合図に、テムズ川の河畔で次々に花火が上がるんだ。高速の仕掛け花火が、河畔を下流に向けて突っ走る感じかな。それと、同じく午前零時に、ビッグ・ベンの鐘が鳴る―――ミレニアムの熱狂を撮るなら、やっぱりこの橋の上だろう」
 「その橋からだと、ロンドン・アイも見えますよね」
 蕾夏が、ちょっと嬉しそうな声で言う。ロンドン・アイは、ミレニアムを記念して建設された世界最大の観覧車で、正式オープンはまだ先だが、大晦日の夜から元旦にかけて特別に公開される。ライトアップされたロンドン・アイを見るのを、蕾夏は前から楽しみにしていたのだ。
 「ロンドン・アイは8時オープンだから、その時間帯に合わせて行って、近景で撮るのもいいね。―――成田君なら、ミレニアムの瞬間を、どういうアングルで撮る?」
 少し試すような声音で、時田が訊ねる。瑞樹はちょっと首を傾け、その瞬間を想像してみた。
 「…花火を見上げて歓声を上げる観客を、花火の光を逆光でとらえる形でシルエットとして見せられると、面白いかな」
 「ハハ…、随分、静かなアングルで勝負してきたねぇ」
 くすくす笑った時田は、続いて蕾夏の方に目を向け、「君は?」と訊ねた。
 「…ごめんなさい。私だったら、多分、ここでは撮らないと思う」
 「へぇ? じゃあ、どこ?」
 蕾夏の言葉に、時田は興味を示したように少し身を乗り出した。が、蕾夏は、言うべきかどうか迷っているように、チラリと瑞樹の顔を見た。
 「―――グリニッジだよな」
 蕾夏の好みを察した瑞樹がちょっと笑ってそう言うと、蕾夏はほっとしたような笑みを見せて頷いた。
 「そう、グリニッジ。世界標準時を刻んでるその現場で、その瞬間が迎えられたらな、って思う。可能なアングルかどうかわからないけど―――見物客を前に、背景はグリニッジ天文台のシルエットと花火、なんてのが撮れたら、最高だろうなぁ…」
 「ふーん…なるほどなぁ。君らの考えは、なんとなくわかるよ」
 余計に楽しそうな笑い方をしてそう言うと、時田は、一息つくようにコーヒーカップを口に運んだ。
 「時田さんは、どういうアングルを考えてるんですか?」
 質問だけしてきて一向にプランを明かさない時田に、蕾夏が少し眉をひそめて訊ねる。すると時田は、ニッコリと笑って答えた。
 「藤井さんかな」
 その答えに、瑞樹と蕾夏は、揃って目を丸くした。
 「―――は?」
 「つまりね―――事前に、周囲の観客の様子を観察しておいて、一番リアクションが激しそうな人に目をつけておく。で…花火が上がった瞬間の、その人物のリアクションを撮るんだ。藤井さんは、感動した時のリアクションが顕著だからね。第一候補かもしれないよ」
 ミレニアムの瞬間の写真が、1人の人間のリアクションだけの写真―――予想外な答えだ。
 「花火もライトアップも、どんな背景も要らないよ。ほら、もう一度、写真集のコンセプトを思い出してごらん」
 「…“ミレニアムに沸くロンドンを撮る”―――…」
 「そう」
 時田は、コーヒーカップを置くと、テーブルの上で手を組んだ。その目が、にわかに真剣みを帯びる。
 「ミレニアムに沸く―――熱狂し、歓声を上げているのは、人間だよね。花火やライトアップはただの舞台装置に過ぎない。熱狂を撮るなら、人間だけを撮ればいい。何に驚いているのか、何に感激しているのか…それは、別の写真で補えば済むことだ。大事なのは、一番撮りたい“熱狂”を逃がさないこと―――だから、あえて、人間だけを撮るんだ」
 言われてみれば、なるほど、と思う。
 余計なものが無い分、その写真を見る人は、ストレートにその人物の“熱狂”を感じ取れるだろう。ミレニアム独特の厳粛さや、ロンドンを感じさせる背景は、写真集の中の他の写真で十分補えるのだ。

 「…それにしても、成田君も、藤井さんも、感覚が贅沢すぎるね」
 さらりと時田が口にした言葉に、2人は、思わず息を呑んだ。
 「この1ヶ月、君達2人が一緒に写真を撮るところを、ずっと見せてもらった。それで、わかったよ。君達の、最大の弱点が」
 「弱点?」
 「君達の感受性が、あまりにも似すぎていることだ」

 ―――感受性が、似すぎている…?

 要領を得ない顔の2人に苦笑して、時田は脚を組みなおした。
 「たとえば―――今、君達は、ミレニアムを迎えたグリニッジにいるとする。君達は、きっと感動するだろう―――その時見た観客達の顔に、腹の底に響くような花火の音に、打ちあがった花火の放つ光に浮かび上がるグリニッジ天文台のシルエットに、その瞬間を確かに指し示した時計の針に。そして、その全部を撮ろうとする―――音も、色も、光も影も、時にはその場の空気までも。とにかく、感じたもの全部を、その感動が逃げてしまわないうちに、写真に焼き付けようとする。本能の赴くままに、ね」
 「―――…」
 「無用な説明を付け加えたり、感じたものの1つだけをピックアップしたりするような真似はしない。だって、何ひとつ説明しなくても、それを同時に全部感じ取っている人間が、すぐ隣にいるから―――10撮れば、10感じ取れる人間が、いつも隣にいるから。―――けどね。普通の人は、君達と同じじゃないんだ。10のうち、2か3感じ取るだけで精一杯なんだよ」

 時田の言いたい事が、わかる気がした。
 前にも、時田は似たような事を言っていた。『生命(いのち)』が表現していたものを、時田はほぼ100パーセント感じ取れたが、他の審査員は一部分しか感じ取れなかった、と。その一部分だけでも高い評価を受けられるのだから、100パーセント感じ取らせる事ができたら、瑞樹は時田より上に行ける、と。
 それは、自分の写真に何かがまだ足りないからだ、と、瑞樹は解釈していた。
 けれど―――違うのかもしれない。
 そもそも、自分とは違う感性の持ち主達に100パーセント感じ取らせるなんて、最初から無理なのだ。どんな技術をもってしても、それは克服できない。十人十色という言葉の通り、人間の感性は、1人1人違って当たり前なのだから。

 「…今後の、君達の課題だね」
 2人が、自分の言いたい事を理解したらしいことを察し、時田はややリラックスした姿勢になって、またコーヒーカップに手を掛けた。
 「10感じたことのうち、どれか1つに絞るんだ。残りの9は、捨ててしまっても構わない。1つでも、強烈に感じさせることができれば、それでいい」
 「…捨てるんですか」
 「ハハ…、その位のつもりで、って事だよ。プロは、貪欲に、でもストイックに撮らなけりゃならない―――矛盾した話だけどね」

 10を感じて、1を撮り、9を捨てる。
 ―――できるんだろうか。そんな器用な真似が。

***

 運命を決定づけるような話をされたと言うのに、その日の2人には、それについて考える余裕などなかった。

 昼食を終えたら、バッキンガム宮殿あたりまで行って、新年と同時にオープンする移動遊園地の設営風景を撮影した。薄暗くなってきたところで、夕闇に浮かび上がるビッグ・ベンやウェストミンスター寺院をひとしきり撮り、既に混雑し始めているロンドン・アイ周辺の雑踏なども撮る。
 とにかく、時田と行動するようになってまず驚いたのは、その撮影本数が半端じゃないことだ。瑞樹が2枚撮る所で、時田は10枚は確実に撮る。現像してみると、素人目には同じにしか見えない写真が何枚もあったりするのだが、時田はその中から少しでも良い出来の1枚を選び抜くのだ。趣味の撮影とプロの撮影の厳しさの違いが、そんなところにも現れていた。
 「フィルム足りますか?」
 今日6本目のフィルムを手渡しつつ、蕾夏が眉をひそめた。消耗品類は蕾夏の担当なのだが、これからがメインイベントだというのに、手元のストックが、消費した分プラスアルファしか無いのが気になる。
 「んー、多分、大丈夫だよ。夜のイベントものは、一発勝負なものが結構あるからね。案外、昼より枚数いかないかもしれない」
 瑞樹の方は、時田が抜き取ったフィルムを受け取って、番号と共にどの辺りの何を撮影したか、撮影メモに記入していた。河畔にいるせいか、吹いて来る風が、なんとなく湿度を増している気がする。もしかしたら、この後、一雨降るのかもしれない―――そんな事を、思いながら。

 夕飯を食べる時間が勿体無いので、適当に買ってきたパンと飲み物で済ますことにした。
 1年の最後に食べるにはあまりにも簡素な食事を終えた頃、ロンドン・アイがオープンした。トリコロールカラーにライトアップされた巨大な観覧車は、予想通り、3人の内では蕾夏に一番ウケた。
 「すごーい! あんな鮮やかな色なんだ、ロンドン・アイのライトアップって! うわー…お台場の観覧車の優しい色合いも悪くなかったけど、ビビッド・カラーって黒背景に映えるねぇ…」
 「ふーん…そうか、赤青白ってフランスのイメージだけど、イギリス国旗も同じ配色だよな。気づかなかった」
 瑞樹は、そんな相槌を打ちつつ、隣で三脚を立てて撮影している時田の様子にも常に注意を払っている。シャッター音を頭の中で無意識のうちにカウントしていたが、そのカウント数に眉をひそめ、おもむろに時田の方を見た。
 「時田さん、そのフィルム、残り3枚ですよ」
 「え、そうだった?」
 時田は、撮り始めると、カウント感覚が飛んでしまうのだ。カメラのフィルムカウントで確認して、時田自身、しまったな、という顔をする。心配していた通りの結果に、蕾夏は苦笑した。
 「やっぱり、危なそうですね。じゃあ、私、買ってきます。さっき通りかかったスタンドに売ってたから」
 「え…っ、いや、危ないよ。女の子1人じゃ」
 「大丈夫です。変な人が近寄ってきたら、問答無用で殴り倒しますから」
 備品入りのバッグを瑞樹に渡しながらニコリ、と笑う蕾夏に、時田の方がぽかんとした顔をしてしまう。
 「じゃ、行ってきまーす。この辺から動かないで下さいね」
 時田の表情の変化を無視して走り去る蕾夏を、時田と瑞樹は対照的な表情で見送った。
 「…あの子、殴り倒すなんてできるのかい?」
 「できますよ。本当に、問答無用で」
 疑わしげな目をする時田に、さっきから笑いを噛み殺していた瑞樹が答える。が、そうは言いながらも、瑞樹の全神経は、蕾夏が走り去った方向に向いている。そんな瑞樹の様子に、時田は僅かに口元をほころばせた。
 「―――不思議な子だね」
 再びファインダーを覗き込みながら、時田が呟いた。
 「あの子が、行く先々で感動しては嬉しそうに君に話しかけてるの見てると、僕までシャッター切る回数が増えてるんだから」
 時田のセリフに、蕾夏の走り去った方向を向いていた瑞樹の表情が変わる。思わず、訝しげな目を時田の方に向けた。
 「感じてるものが増幅される、っていうのかな。1人で撮ってる時には気づかないような物にまで目が行ってしまう―――あの子を手放せなくなるのも、無理はないね」
 「……」
 内心の動揺を隠すように、瑞樹は少し視線を逸らした。

 ―――こんな時、日頃押さえつけているものが、体の中で暴れ出す。
 いつ頃からか抱えてきた、限りなく“狂気”に近いもの―――自分のコントロール外で荒れ狂う感情。暴走しだすと、きっともう止まらないと思う。だから、慎重に宥めすかして、奥底に仕舞いこんで鍵をかける。…毎日が、その繰り返し。
 でも、どれだけ奥底に仕舞いこんでも、その欠片は常に体の中を巡っていて、1つ2つと顔を覗かせては、瑞樹を苛む。その鋭い棘で内側から瑞樹を突き崩し、しっかりとかけた鍵を開けろと誘惑する。
 過去に、たった一度、そいつが顔を出した事がある。
 あの時―――蕾夏の過去を聞かされた時。激情のままに、その意味すらわからずに口づけた時。

 「やっぱり君は、僕に似ている」
 ふいに、そんなセリフが耳に届き、瑞樹は少し目を丸くして時田の方を見た。
 時田は、ファインダーから目を離し、どこか昔を懐かしむような目で瑞樹を見ていた。穏やかな―――けれど、どこか悲しそうな目で。
 「激しすぎるんだな―――ある特定の感情だけが」
 「―――…」
 「君のその激しさは、君の写真を魅力的に見せている要因のひとつかもしれない。でも―――上手く折り合いをつけられないと、自滅する。両刃の剣だよ」
 ―――両刃の、剣。
 ゾクリ、と、背筋が冷たくなった。
 「時田さんも、経験があるんですか」
 「―――あるよ」
 「…それで?」
 次にくるセリフは、想像がつく。そして、その想像通りの言葉を、時田は極めてさらりとした口調で、瑞樹に告げた。
 「それで、自滅した―――そして、それを引きずり続けてるんだよ。今も、ね」

***

 ウェストミンスター橋の上に集まった観客達が、ミレニアム・カウントダウンを始めた。
 「…去年、電話でカウントダウンやったよね」
 クスリと笑い、蕾夏が瑞樹を見上げてきた。瑞樹もちょうどそれを思い出していたので、同じような笑いを浮かべる。
 人間の声というものには、目に見えないパワーが詰まっていると思う。
 群集が上げるカウントダウンの声が、空気を震わせ、地面を揺らす。何の変哲もない空間でも、その声が独特の異空間へと変えてしまう。ただ、午前零時までの秒数を声を揃えて口にしているだけなのに、なんでこんなパワーを持つのだろう? ―――もしかしたら、これだけの大人数が、ある一瞬に向けて、同じ興奮を共有しあっているからこそ生まれるパワーなのかもしれない。

 同じものを見、同じものを追いかけ、同じ感動を覚える―――感動は、増幅する。
 そう―――瑞樹と蕾夏にとって、一緒に被写体を追う時がそうであるように。

 大歓声と共に、お腹の底に響くような重低音を伴いながら、花火が次々に打ちあがった。
 その瞬間、瑞樹と蕾夏は、花火ではなく時田の方に目を向けた。
 時田は、全く別の方向にカメラを向けて、無心にシャッターを切っている―――花火を見上げ、感動を体いっぱいに表現している若いカップル、ただ静かに寄り添う老夫婦、子供を肩車して上空を指差す父親…そんな人々の表情を、的確に捉えていきながら。
 “熱狂”を、撮る。それ以外、感じたものは排除する。一番大事なテーマを伝えるために―――あえて、排除する。

 2人は、やっと視線を花火の方へと向けた。
 何の衒いもない、明るい白色の花火が、次から次へと空に打ちあがる。漆黒の闇が、その瞬間、真昼のように明るく照らされた。隣にいる人も、背後にいる人も、そこにいる誰もが口々に「Happy New Year!」と言い合いながら、親しげに肩を叩きあう―――それがたとえ初対面の人物であっても、そうやって、今感じている感動を分かち合っている。
 「…お前、今、何を一番感じてる?」
 ジャケットのポケットに両手をつっこみ空を仰いだ瑞樹は、傍らの蕾夏に、ポツリと訊ねた。
 「―――そんなの…言葉にできないよ」
 どこか途方に暮れたような蕾夏の声に、瑞樹はふっと笑った。
 「ああ…俺も、言葉にできないな―――…」

 贅沢すぎる、感覚。
 今感じているものの中から、1を撮って9を捨てるなんて、どうすればできるのだろう…?

***

 シャワールームを出た瑞樹は、かなり気を遣いながら廊下を歩いた。
 既に、真夜中の3時―――年末年始で累が戻ってきているのだが、とっくの昔に就寝中なのだ。いくらピアニストが建てた防音のしっかりした家とはいえ、やはり気にせずにはいられない。
 向かいの部屋を気遣いながら、静かに部屋のドアを開けて、中に滑り込む。ドアを閉めて鍵をかけると、やっとほっとできた。
 「なんだか、泥棒か忍者みたいな気配の殺し方してたね」
 ロフトへ上がる階段の中ほどに座っていた蕾夏が、瑞樹の様子にクスクス笑う。瑞樹は、軽く眉を上げると、まだ雫の落ちてくる髪をタオルで乱暴に拭いた。
 「しょーがねーだろ。ずっと一人暮らしだったから、自分以外にも人間が同じ家にいるのが気になるんだよ」
 「あー…、そうだよね。私も実家にいた時は、お父さんとかお母さんを起こしちゃまずいな、って思いながら、足音ひそめて廊下歩いてたっけ」
 そう相槌を打つ蕾夏の声に、瑞樹は髪を拭く手を止めた。
 改めて、蕾夏の顔を見る。が、特に変わった様子はない。
 「―――蕾夏?」
 「ん?」
 「どうした? 大丈夫か?」
 蕾夏の心理状況を一番に察知するのは、やっぱり「声」からだ。表情に表れない微妙な変化も、その声からは聞き取れる―――毎日のように積み重ねられた電話での会話が、瑞樹の耳を鋭くしていた。
 段差に腰掛け、膝を抱えるようにしている蕾夏は、瑞樹の言葉に少し狼狽したように、瞳を揺らした。が、視線を僅かに落とすと、無言で首を横に振った。

 …言える筈もない。
 今感じている不安―――それを口に出すのは、その不安を増幅させるようなものだ。

 「…なんでもない。ちょっと疲れたかな」
 「―――それが、なんでもないって態度かよ」
 ますます眉をひそめる瑞樹に、蕾夏は顔を上げ、精一杯笑ってみせた。
 「ほんとに、ちょっと疲れただけ。先上がってるね」
 「―――…」
 全然納得のいっていない顔の瑞樹を置いて、一人、ロフトに上がる。勢いに任せてベッドに潜り込むが、冷え切っていたベッドは、湯上りの体には寒すぎた。寒さに抵抗するように、毛布の中で手足を丸める。
 昼間、時田に言われた言葉が、あれからずっと頭から離れない。
 それでも、写真を撮っている間はマシだった。頭から離れない言葉を忙しさが凌駕してくれて、暗い考えに引きずられずに済んだから。でも、こうして静寂の中に戻ってくると、それまで頭の片隅に追いやっていたものが頭の中心部を攻撃してくる。疲れで無防備になった思考は、あっさりとその攻撃に白旗をあげてしまうのだ。


 あまりにも似すぎている感受性―――それが、弱点。
 何も削らずに、何も付け足さずに、ただ隣にいるだけで同じ感動を共有できる存在。1人の時なら5しか感じられないものも、2人でいれば、感情は増幅し、感覚は研ぎ澄まされ、10感じ取ることができるようになる。…そういう存在。
 そんな存在が、いつも、傍にいるから。
 だからつい、見失ってしまう―――自分達とは違う感性の持ち主達の存在を。
 でも、写真集を買う客達は、その、自分達とは違う感性の持ち主達だ。彼らに伝わらないのならば、プロとして写真を撮る意味など、皆無に等しい。
 撮らなくてはいけないのは、自分達の感動を焼き付けた写真ではなく、自分達以外を感動させる写真。それが、プロとして写真を撮ることなのだ。

 ―――まさか。
 まさか、私がいるから撮れない、なんて、言わないよね?

 だって、時田さんは、言っていた。「今後の君達の課題だ」と。君達の、と言った。瑞樹の、ではなく。
 それは―――瑞樹の写真に、私が必要だからだよね…?


 ふいに、寒かった背中が、ふわりと温かくなる。
 「―――何、ひとりで考えてるんだよ」
 「……」
 すっと髪を撫でた指が、そのまま髪を一房、絡めとる。
 いつの頃からかよくやるようになった、瑞樹の癖。気づけば蕾夏も、ふと考え事をしている時に、無意識に自分の髪を指に巻きつけていたりするようになっていた。
 絡めては解き、絡めては解き―――肩のあたりをくすぐる、感触。
 「…そういえば、年、明けたんだよね」
 急にそんな事を思い出し、蕾夏はくすっと笑った。年明けのイベントを撮影していたというのに、肝心なことを実感できずにいた自分が、なんだか可笑しかった。
 「見物客に揉みくちゃにされてる間に、年越ししちまったもんな」
 「うん。でも―――楽しかったな。あの場所に、あの瞬間に居合わせることができて、幸せだった」
 「…そうだな」
 瑞樹もちょっと笑い、蕾夏の頬にかかった髪を指ではらった。
 その頬に、軽く口づける。
 「―――あの瞬間って、奇跡だって思った」
 キスに促されるように体の向きを変え、蕾夏は、自分を見下ろす瑞樹の目を見つめ返した。その目元にも、唇は降ってくる。
 「…感動って、人の数だけ増幅するのかもね。肌の色も、目の色も違う人が、あの瞬間、あの場所に沢山集まってたけど、あの時感じたものって、多分みんな一緒だったよ。誰かが感じたものが…自分が感じたものが、シンクロしてた。ねぇ―――これって、凄い奇跡じゃない?」
 「…そういう生き物なんだろ、人間は、元々」
 「ん…そうかもしれないね―――…」
 感動を共有し、増幅させ、奇跡を起こす生き物。
 思考し、言葉を交わし、高度なコミュニケーションをとれる生き物―――だからこそ起こす、奇跡。毎日毎日が、小さな奇跡に溢れている。
 だから。
 こんなキス1つも―――人によっては、それを奇跡と感じる。

 言葉にならない言葉を伝えるみたいに、唇を重ねる。加速度的に激しくなる触れ合いに、要らない思考はどこかへ追いやられる。
 「蕾夏」
 耳元に流し込まれる名前に、何故か涙が溢れてきた。
 自分の名前を呼ばれただけなのに―――何故、泣きたくなるのだろう?
 「お前しか、いらない」
 「…うん」
 「だから―――ひとりで、泣いたりすんなよ」
 「―――うん」
 直接肌に触れる手のひらに、胸元に押しつけられる唇に、心が震え、考える力が奪われていく。
 幸せな、感覚―――あまりにも幸せなので、蕾夏は、心の奥底に抱えた冷たいものを忘れたふりをして、しばしその幸せな感覚に酔うことにした。


 何も、考えたくない。
 こんなに、近くにいる―――その奇跡だけを実感できれば、それだけでいい。


 明日も、明後日も、そしてその先も、ずっと。

 誰よりも、近くに、いさせて。


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